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井真成・墓誌 検討会
専修大学・西北大学共同研究プロジェクト
墓誌蓋墓誌墓誌デジタル処理
墓誌蓋部分。
正式な墓誌は本体と蓋のセットです
本体部分
写真では刻印された文字は見えません。
文字にデジタル処理を施したもの


井真成は734年(唐・開元22年)長安で36才で死亡した遣唐留学生です。安倊仲麻呂や吉備真備とともに留学生として717年の第9回遣唐使船に乗り込みました。このとき仲麻呂19才。井真成18才、吉備真備21才。仲麻呂は長安で高官に上り詰め、吉備真備も帰国して大臣にまでなりました。井真成は真備とともに本来なら第10回の遣唐使団とともに日本に帰国したと思われますが、開元22年の正月某日に死亡し、2月4日に葬儀、そしてわずか4日後の2月8日に遣唐使団が長安を辞し、洛陽に向かったのです。迎えがそこまで来ていたにもかかわらず、船に乗り込むことは叶わず亡くなりました。

 贈尚衣奉御の井公墓誌文并びに序。
公、姓は井、字は真成、国は日本と号す。
才は天縦と称され、故に能く命を遠邦に銜み、上国に馳騁す。
礼楽を蹈み、衣冠を襲い、束帯して朝に□こと与に儔べ難し。
豈に図らんや、強学して倦まず、道を聞きて未だ終わらずして、□に移舟に逢い、隙に奔駟に遭うをや。
開元廿二年正月□日を以って乃ち官弟に終わる。
春秋卅六。皇上は□傷し、追祟するに典有り。
詔して尚衣奉御を贈り、葬は官をして□しむ。即ち其の年の二月四日を以って万年県の滻水の東原に窆る。礼なり。
嗚呼、素車もて暁に引き、丹旐もて行き哀う。
遠□に嗟きて暮日に頽れ、窮郊に指き夜台に悲む。其の辞に曰く。乃の天常を□み、玆の遠方を哀れむ。
形は既に異土に埋められるも、魂は故郷に帰るに庶からん。
明治大学氣賀澤先生書き下し文



さて討論の主題のひとつは、この井真成は中国のなまえか否か?。西北大学の教授らはこぞって本人が勝手につけた中国のなまえである、としているようです。しかし日本人の先生方は井上真成もしくは葛井真成ではないかと期待を込めた所見でした。いのうえのまなり、ふじいのまなり、どちらにしてもふ自然ではありません。
専修大学で行われたのでメインは専修大学の文学部の先生。考古学的に(え?)と驚くような発言もありましたが、最後に西北大学の王先生がさりげに訂正したりして・・・。、中国の人ってやさしいなぁ。実は3月に秦の始皇帝陵を見に西安に行くので、私の西安の人に対するイメージはポイントアップ。今から楽しみです。遠目にでも、井真成の眠る滻河の向こうにある東の原(中国では原っぱではなく台地のことをいうそうです)が眺められればいいな、と思っています。

オフラインで (ナビちゃんの古墳散歩) という同人誌を作成しておりますが、次回は西安編。あわせて井真成シンポについてのレポートも載せられたらいいな、と思います。(なにせ、碑文の字をネット上げる段階でちょっといじったら今度は普通の漢字がちゃんと変換されなくなりました。アベのべすら変です。これは何か方法があるんでしょうか?)
国号日本記載の今回の碑文より古いものが台湾で発見されていた、というのも当日になってわかった情報ですが、何でもすでに東洋大学が調査に入っているとか。大学間の軋轢もあるようですが、またドキドキするような発見があるといいですね。

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