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■ 本日のひとりごと ■

新型インフルエンザ報道も下火になって、またマスクが店先に並ぶようになりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。
日記と申しましても毎日更新しているわけではありませんが、考古学の時事ネタを不定期に書きつらねていきたいな、と思っております。
なにぶん趣味で歩いている古墳めぐりですので、多々間違い等があると思います。その折は是非ぜひ慈悲のお心でナビちゃん宛てくださいませ。


2009.6.7
やっぱり卑弥呼の墓?(朝日新聞)、箸墓古墳 歴博が「卑弥呼の墓」説(毎日新聞)、箸墓古墳は卑弥呼の墓?(日経新聞)、卑弥呼の墓強まる(神奈川新聞)
5/29〜30日にかけておよそ全国の新聞で記事になったのではないでしょうか。ただし各紙とも記事の末尾に「この手法については精度や測定データ処理に対し慎重な見方をする研究者もいる」等つけ加えてはありますが。
そもそも日本考古学協会理事が「協会の共通認識になっているわけではありません」と報道機関に対し異例の要請を行った、と毎日新聞のみが記載しています。
2003年、歴博は”弥生時代は500年遡る”と報道してしまったイタ〜イ経験がありますね。新聞各紙によると3C末〜4C前半の築造といわれていた箸墓古墳が、放射性炭素測定法によりA.D240〜260年の築造に絞り込まれた、ということです。そうなると239年に魏に使者を送り248年ごろ死亡したと推定される卑弥呼の墓として箸墓はかなり有力です。ではその根拠となった放射性炭素測定法とは何ぞや?ナビちゃんも正確に理解しているわけではありませんが、要約すると、炭素という元素はほとんどが炭素12でできていて、その一部に炭素13(1%程度)と炭素14(1兆分の1程度)が含まれています。この炭素14が放射性元素で、放射線を出しながら窒素に壊変していき、その半分の質量になる年数が常に一定で(5730年)それを半減期とよびます。従って遺物ができたときの炭素14同位体比がわかれば現在の同位体比を測定することで、遺物の年代を特定できるというものです。一般に「炭素14法」と呼ばれています。
これだけ聞くとものすごく科学的でそれなら築造年(土器の使用年)も1年単位でわかるのでは!と胸躍らせる証明方法のように思えますが、そうは問屋がおろさない。
「2400年問題」というのがあります。炭素14年が一定値を示す期間が300年も続くのです。まさに弥生時代の開始時期はこの期間に相当します。2003年、歴博は”弥生時代の開始時期が500年も遡る”と報道発表しましたが、2年後に報告書が出されてのち現在に至るまで、日本の年表が書き換えられたという話を私は聞いておりません。
「炭素14年」の国際較正基準はカリフォルニア、アイルランド、ドイツの樹木を基準にしています。一般に地域差はないはずですが、実際には南半球では平均して57年数値が古く出ることを認め07年から北半球と南半球の標準を分離しています。これは「海洋効果」とか「リザーバー効果」と呼ばれ、海中の炭素14比は大気中のそれより400〜1000年少ない(古い)ことによるものです。大気と海水の間で炭素の循環がおきてしまうため、海の多い南半球では14比が古く出るためです。海草や魚を食べる動物の骨とかも古くでます。海洋国家の日本においてもこれは無視のできない現象です。実際、九州の海岸5q以内の遺跡と内陸の同時代の遺跡の遺物を比較して平均して100年、海岸部の方が古く出たというデータもあるそうです。箸墓の築造年代が50年新しくなれば、それはトヨやその次世代の首長墓ということになります。
そもそも箸墓が発掘調査できれば、もう少し詳しいことがわかるかもしれないのにね〜?残念ですね。

2008.12.7
フルスト原遺跡1フルスト原遺跡2フルスト原遺跡3
11月の連休に石垣島に行ってきました。フルスト原(フルストばる)遺跡はかなり修復がすすんで見ごたえがありました!2度と行かないだろうと思っていた西表島にも渡って日本最南端の温泉に浸かってまったり・・・。なんとゆーか、巨大な本物のジャングル風呂?すごく良かったです。28℃の石垣から羽田に戻ると9℃。日本ってすごいなぁ。
部屋に入って未完のコミケ原稿見たらいきなり現実に戻りましたけどね。
フルスト原遺跡は昭和53年3月3日に国指定史跡の指定を受けました。おそらく日本最南端の国指定史跡だと思います。南北650メートル、東西140メートルあり、15の石囲い遺構があります。ほかのグスクでは見られない特殊なつくり方だそうです。石積みは修復中で、ナビちゃんが訪れた日も小雨の降る中、修復作業中でした。伝承によると15世紀末の八重山の豪族オヤケアカハチが住んでいたと言われています。
大浜集落の大浜中学のそばにあり、位置的には石垣空港の先。この遺跡があるため滑走路の延長ができず、石垣空港は白保に移転になるようです。石垣空港に着陸したとき、ものすごいブレーキで乗客のみなさんから思わずというカンジで笑いが起きましたが、それも滑走路が短いからなんですよね。空港が白保に移されると、離島ターミナルや石垣市の中心部からは遠くなって観光客にはちょっと不便ですが、これも大事な遺跡を守るため!ちなみに白保にはオヤケアカハチの像があります。タクシーの運転手さんが連れていってくれました。

2008.8.24
具志川城
写真は沖縄本島最南端、喜屋武(きゃん)にある具志川城(ぐしかわグスク)です。2枚の写真をつなげたのでちょっとヘンですが、青い空、青い海、そしてグスクの美しさは伝わるのではないかと。コミケを早退してまで何用だったかというと、ちょっと沖縄まで遊びに行ってきました・・・。てへへ。
駒林神社石垣1石垣2石垣3
沖縄はいいですねぇ〜。ナビちゃんは行くたびに、ちまちまとグスクや遺跡めぐりをしています。そのうちHP上で沖縄遺跡MAPをアップしたいと常々思っているのですが、なかなかはかどりません。面倒くさがりでPCに弱いところが原因ですね。ナビちゃんのページを閲覧なさってる方はお気づきでしょうが、タグの打ち込みでHPを作成してるので、これが結構たいへんなの。とほほ。
昨日、地元の「地名と文化の会」のみなさんと東急東横線日吉駅近辺の史跡めぐりをしてきました。今日は江戸東京博物館で「発掘された日本列島08展」に行ってきましたが、日本列島展の入り口のところで、江戸発掘の特集をしています。そこで写真で各藩の刻印入りの江戸城の石垣の石が見られますが、タイムリーなことに日吉の駒林神社の石垣は江戸城のものが使われています。写真は駒林神社の石垣のアップです。何でも桜田会館建設の折、放置されていた石垣を譲り受けて再利用したものだそうです。
ナビちゃん、オバサンのわりに結構活動的ですよねぇ。あぁ、コミケがものすごく遠い昔のことのように感じられます。

2008.7.23
この日、神戸は36度。もう息をするのも苦しいくらいの暑さでした。朝の神戸駅で驚いたのはものすごいセミの声。ジーワジーワというクマゼミですか?関東では聞かない鳴き方なんですが、そのすさまじさに暑さ倍層。しかも五色塚古墳の周りをただ歩いているだけでセミ抜け殻を3匹も見つけてしまいました!探そうと思わなくても眼に入ってくるんです。すご〜い、です。五色塚古墳はトップページの写真を見ていただいてわかるように、とても美しい古墳です。きれいに整備されていて、この日も炎天下のなか草刈をなさってる方々がいらっしゃいました。写真は前方部の上から後円部を撮影したものですが、ぐるりをすべてこぶし大の葺き石で覆ってあります。この古墳を復元するとき葺き石ひとつひとつを人の手で置いていったのだそうです。前方部の葺き石はそこにあるものと下に落ちているものを使用してほとんど当時のままの姿を再現しています。この葺き石の一部はわざわざ海を挟んだ淡路島から運んできたものです。この威風堂堂とした全長194メートルの大型前方後円墳の墳頂からきらめく明石の海と淡路島を眺めると、当時この海の海運を一手に牛耳っていたであろう大王の姿が思い浮かびます。じつはこの古墳、埋葬部の発掘調査はされていません。もしかしたら未盗掘で、今も王が財宝とともに眠っているかもしれませんね?

2008.1.7
「日本最古の木製仮面」ということで、朝日をはじめ一部の新聞ではカラー写真つきで掲載していましたね。また仮面を持ってるお姉さんが美人でしたの。そりゃ写真も大きくなりますわよね。3世紀前半の土器とともに井戸跡から出土。未使用の鍬の刃を転用。古代祭祀の超一級資料の出現でした。
それから幾日もおかずに纏向からまた大量のベニバナ花粉が見つかったワケです。ヤマタイ国畿内説派に追い風を与えるようでイヤ〜な予感がしましたが、案の定「邪馬台国のベニバナ?」とか「卑弥呼も使った?古代の赤」とかほとんどの新聞で邪馬台国と卑弥呼を匂わす見出し続出。
別にナビちゃんはヤマタイ国北九州説を強く支持しているのでも大和説を否定しているのでもありませんが、勇み足はどうかと思うワケです。纏向は古墳銀座とでもいいましょうか3世紀前半から前方後円墳や前方後円形墳丘墓が密集する大和政権の母体となった地帯です。弥生〜古墳時代の重要拠点。
魏志倭人伝には243年に倭国側から「絳青■(こうせいけん)」=赤と青で織った絹、が贈られたとあります。エジプトや西アジア原産のベニバナがすでに纏向で計画的に栽培されていたんです。スゴイですね〜!掘ればもっといろいろ出てくるでしょうね。2008年も楽しみです。  ■は糸偏に兼という字。

2007.6.15
古墳関係での最近のトピックスは門脇禎二先生のご逝去と6/5からはじまった「発掘された日本列島'07展」でしょうか。ちょっと大きめの本屋さんに行けば、門脇先生のご著書は必ず置いてありますね。ナビちゃんも2冊くらい持ってます。5日前に日経新聞で'04年に亡くなった網野善彦先生の著作集が発刊される特集記事を読みました。ああ、もう3年経つんだなと感慨に耽っていたところでした。「佐原真」も「江上波夫」も死んじゃったし・・・。大先生方のご冥福をお祈りいたします。
さて、発掘された日本列島'07展が6/5から始まっています。ナビちゃんも今週末には行ってこようかと。以前この展覧会で是川遺跡出土の漆製品を見ました。深い赤色が大変印象的で繊細で美しかったです。八戸市ではずっと継続して調査委員会を組織し、このたび「漆の道」の報告書が発行されました。ナビちゃんも一部取り寄せようと思っていますが、何でも漆の発明は長江以南といわれていた定説を覆し、日本独自発生の可能性を示唆するリポートもあるそうです。
また別の話になりますが、九州では今まで糸魚川産ヒスイといわれていた勾玉が、実は熊本南部産の含クロム白雲母片岩であることが判明。これによって今まで考えられていた交易の定説が危うくなってきたわけです。逆に熊本の白雲母が島根、石川、新潟に運ばれていたことがわかったそうな。
北では漆のDNA分析、南は蛍光X線分析。う〜ん、日本列島は北も南も熱いです。天国の大先生方も今頃それは熱い討論をかわされていることでしょう。

2007.1.29
教会に納められていたフランチェスコ1世夫妻の肝臓組織を分析したところ、通常以上のヒ素を検出。同時に墓所に埋葬されていたフランチェスコ1世の皮膚のDNAと肝臓組織のDNAの型が同じであることから毒殺が確定しました。
1587年10月、1日違いで夫妻は亡くなりました。犯人は不明ですが、弟のフェルナンド1世は兄夫婦が倒れたとき夫妻の館を訪れていたそうです。
犯人もまさか400年以上も経ってバレるとは露ほども思っていなかったことでしょう。
さて殷・周時代に全盛となる青銅器は、中国に独自に作られたものという考え方がこれまで主流でしたが、これが他地域、北アジアの草原地帯からの影響があることがわかってきました。その根拠がヒ素。中央アジアの初期の青銅器にはヒ素を含むヒ素銅を原料としていて、これが中原には存在せず、中国西北部の青銅器にもヒ素が含まれているものがあるのだそう。
殷・周は紀元前1751年から紀元前221年です。スゴイですね〜〜。青銅器が日本に伝わり、代表的なのが銅鐸。弥生時代はここ数年時代が100年単位で遡る可能性が出てきたものの紀元前500年くらいから。銅鐸は祭器とされていますが本当のところ何だかわからない、弥生時代最大の謎のひとつです。
これから科学技術が発達していろいろ不思議が判明してくると楽しいですね。最近カレーにまぜて殺人を行ったヒトがいましたが、ヒ素は上記のとおり痕跡が後々まで残ります。400年前と同じ殺人方法というのはちょっとナンセンス。
銅鐸といえば39個の銅鐸が一度に出た加茂岩倉遺跡が有名ですが、今春3/10に島根県立古代出雲歴史博物館がオープンし、この銅鐸が常設展示されるそうです。なるべく早く見に行きたいと思います。

2006.12.4
両面埴輪和歌山県で顔の二つある埴輪が出土しました!写真は12/2付の朝日新聞の切り抜きです。両面埴輪は全国初!
これで思い出したのが5世紀の飛騨の英雄両面宿儺(りょうめんすくな)。日本書紀仁徳天皇615年です。「飛騨の国に両面宿儺なる人物がいました。天皇の命に従わず、人民から物を略奪して苦しめたという。天皇は和珥臣(わにおみ)の祖である難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わして征伐しました。」
両面宿儺には顔が二つあり、手足が4本あり、膝はあるがかかとはない。力が強く身は軽く左右に剣を持ち、4本の手で弓矢を引く、という人物です。大和朝廷は5世紀から積極的に地方勢力の討伐を行いますが、その地域とは土地が肥沃で広大で生産性が高いこと、またはその地域が持つ技術と技術集団であると考えられます。
飛騨は現在に至る高い木工技術集団であり、両面宿儺はその集団の大首長であると考えられます。飛騨の英雄は大和朝廷側からは怪物のような言われようですが、それくらい強大な勢力を持っていたということでしょうね。
両面宿儺の伝承は飛騨にいくつか残っていますが、両面宿儺像が3つ現存します。善久寺と千光寺に2体。前者は江戸時代のものですが、怖い顔と温和な顔の2面です。千光寺の1体はやはり江戸時代の円空作ということで有名ですが、こちらははっきりと怖い顔と温和な顔というわけではなさそうです。もう1体は阿吽のように口の表現が開けたものと閉じたものになっていますが両面怖い顔です。今回出土した両面埴輪は、新聞でははっきり厳しい表情と穏やかな表情、と各紙報道していますが、写真によってはあまり厳しい表情には見えません。・・・今月24日県立紀伊風土記の丘で展示されるそうですが、なにもこの師走の忙しい時期じゃなくっても・・・とほほ。ヒンズー教やゾロアスター教にある善悪の2面思想が、仏教伝来前の古墳時代に影響していたとは史実的には考えられませんが、当時の日本人の宗教観、というか精神世界観はかなり奥が深そうです。
ところでこの埴輪の怖い顔の方は髪型と口のせいで犬顔ですが、・・三つ口ですね。ナビちゃんは前にどこかでやはり三つ口の埴輪を見た記憶があります・・どこでだったか全く思い出せませんが気になります。

2006.10.29
そもそもなぜ神田まで行ったのかというと、天理ギャラリーで「東西の古墳文化展」なるもをやっていたからです。天理大学の附属機関の所蔵品展示とかいうかなり怪しげなチラシだったのですが、受付に一人いるだけで見学者もゼロ。誰もいなくて案外じっくり見れてよかったです。
収集品の集め方がんなんとういうかミーハーで(笑)。たぶん考古学的根拠より見ておもしろいなとか変わってるな、と思って集めたに違いないカンジがナビちゃんにはかなり共感できて意外と楽しいひとときでした。
例えば埴輪は「ヒゲ面のオトコ」とか。これがまた鼻が高くて精悍な男性で。「馬に乗る人の部分」はおそらく跨った人の足首がかわいかったから手に入れたんだろうなぁ、という感じです。でもこの馬上の人は背中になにか背負っていた痕跡があり、しかも背負ったものには朱が施された跡があるようでした。なかなか興味深い一品です。
発掘された日本列島'06展でこっそり男性器の写真をUPしてみましたが、今なら天理ギャラリーで性器つきの埴輪の完品が見られます。あるとは聞いていましたが見たのはナビちゃんはじめてでした。突起物は壊れやすいのでなかなか完品はないでしょうし、あってもあまり品のないものは博物館で展示しないでしょうから、東京近辺で興味のある方は見に行ってもいいかもしれません。普通埴輪の目と口は横長の楕円の穴があいているだけですが、この埴輪、口をへの字にまげていてそれがまた可愛らしかったですよ。11/25まで開催しています。

2006.9.12
先日「発掘された日本列島'06展」をUPしました。ものすご〜〜〜く久しぶりに本文の更新をしました。2周年を期に内容を刷新したいと野望だけは膨らむ今日この頃です。
'06展の目玉はなんといってもスカートの裾をめくってホトを見せる女性埴輪。少し離れた同じ濠の中から男性器埴輪も出土しています。現代にアメノウズメノミコトが蘇った!と添え書きがありました。
つい先日まで東京新聞の夕刊に「考古漫遊」という石野博信先生のコラムが毎日掲載されていました。
8/21の記事がこの「女性器を見せる女性埴輪」についてでした。埴輪片をつなぎあわせ、スカートの裾をめくり上げ、奥のホトがあらわになっているのが判明し、かけつけた宮崎大の柳沢一男先生はニヤリとしたとありました。石野先生ご自身も一生懸命"その部分"の写真を撮ろうとカメラを構え最高のアングルを求めているうちにふと恥ずかしくなったそうな。アメノウズメに笑われているようだ、と。
古事記では天岩戸の前で乳もホトもあらわに踊るアメノウズメに男神たちは大喜びで大笑いしたとあります。大喜びはおいといて、大笑いというのは不思議な感じがしますが、当時は性に対して開放的だったようです。ナビちゃんは民俗学には縁遠いのですが、そもそも性に対して禁忌的になるのは文明開化以降、つい昨日のことだとう話もあるようです。それは西洋文明の影響であり、たとえばマツリは乱痴気パーティさながら、他地域からの血を混ぜる重要な機会であり、血族婚による危険を回避するシステムであった、と。日本人は元来性に開放的な民族であったというものです。それがどこまで真実かはわかりません。
古代の祭祀に俳優(ワザオギ)というのがあり、ワザオギとは手振り身振りでおかしいことをして神人を楽しませることです。古代の神様もちょっとエッチなパフォーマンスに興奮したんですね。少なくとも古墳時代の宮崎では下着をつけない女性のスカートめくりに喜んだ人がいたのは事実のようです。

2006.8.8
2/23日付の日記で巣山古墳のクスノキ製の棺蓋について書きましたが、にし先生経由でフタではなく船の一部ではないか?との見解が出ていることを知りました。
(にし先生はmixiでお世話になっている先生で、学術的に底の浅いナビちゃんにとってまさに知恵袋。心の支えです〜)
橿原考古研究所で岡林氏が棺蓋ではなく準構造船の波切り板ではないか?との異論を出されたとのことです。にし先生のご関係の方が実際に広陵町の公開展示に参加なさったときの写真や資料をUPなさっています。大変わかりやすいです。
考古文化研究会 ←勝手にリンクはってしまいましたm(_ _;)m
ナビちゃんが気になっていたのは「クスノキ製」というところだったので、これが棺ではなく船だとしたらクスノキはごく一般的な船材だといえます。今では三途の川の渡し賃を持ってあの世へ送り出されますが、貨幣経済の発達していない当時は船ごと持って常世の国に向かったのかもしれませんね。

昨日の日経新聞の夕刊に四川省成都市にある古代蜀王朝のものでは、という仮説のある巨大船形木棺群の記事がありました。
商業街船棺(せんかん)遺跡ホントに巨大木棺ですよね。紀元前403-221年の戦国時代の遺跡とみられています。私は中国に船形木棺があるというのを始めて知ってビックリ。日本では弥生時代にあたりますが、長江上流域に中原にはない葬送文化があったということは心にとどめておきたいな、と思いました。
棺材はすべてタブノキ。最長で19メートル。この遺跡から9つの船形木棺と8つの木彫木棺が出土。葬られたのは高位の人物だと示す遺物も一緒に出ました。成都周辺で船棺はいくつかの遺跡から出土しているようです。木棺の蓋などに蜀独特の「巴蜀符号」と呼ばれる文字が刻まれています。日本のカタカナに似た形状ですが残念ながら未解読。ちなみにタブノキは中国名「楠」。正確にはクスノキ科タブノキ属です。ちょっと気になりますね?

2006.5.29
この週末はお山にこもっておりました。連日雨だったので散歩もままならず、あまりにたいくつで箱根美術館へ行ってきました。雨で緑がたいそう美しくお庭は格別!瀬戸・信楽・備前等々見事な甕や器が見られますが、ここには縄文〜古墳時代のものも多数あります。珍しいところでウサギの埴輪。目が意外と写実的。ウサギの埴輪の実物はナビちゃんはじめて見ました。写真は左から撮ったものですが、右目などはちょっとつり目で本当にうさぎさんぽくてかわいかったです。通りすがりの若いお嬢さんたちも「かわい〜!」を連発。「でもどうして足がこんなに太くて寸胴なんだろう」とも。・・・埴輪ですから。それでも興味を持って長いこと眺めてくれただけでもうれしいです。
さておなじ陳列室にひしゃげた高杯が展示でしてありました。全体的に暗緑色で灰釉がかけられてあり、古墳時代と注釈がある。う〜ん、これはかなり違和感。しかもその注釈には江戸時代茶人が使用したようなことまで書いてある。墓の中から出たかもしれないカップで、それで茶〜するのが江戸時代の流行なのか〜!?そのあと売店で絵葉書を見ていたら、くだんの高杯の葉書もある。裏を返したら「奈良時代」とありました。売店のお嬢さんに葉書と展示に齟齬があるので確認していただけますか、と言いおいて博物館を後にしました。わざわざ注意するあたりが私も年をとったなぁ、とちょっと自己嫌悪。
そして翌日も雨ですることがないので朝からアニメを見ていました。プリキュアの舞ちゃんの母親は考古学者、という設定です。「古墳の発掘してるの」と言いながら背景は住居跡らしき遺跡の発掘風景。まぁそれは許そう。舞ちゃんはママの大事な人物埴輪を割ってしまうのですが、それが手のひらに乗るくらいのわずが8センチ程度のお人形。・・・・埴輪ではなく土偶では??と思いながら見ていると、その人形がアップになると確かに底が筒状!!うーむ、中途半端に正確だ。ミュージアムショップのミニチュアじゃあるまいし、本当に8センチの埴輪が出土したら考古学的には大変な発見なのでは。舞ちゃんのママは子供のときにそれを掘り当てたのが考古学者になるきっかけだったそうですが、そんなスゴイものしまいこんでる学者なんて、もし発覚したらF氏の次くらい有名になりそう。まぁアニメだしねー。いや、アニメだからこそ正しい知識を子供に与えておくべきなのか・・・。ヒマはヒマなりに考えさせられる休日でした。

2006.3.31
金毘羅船ふね 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
どなたも一度は耳にしたことのある香川民謡ですが、ナビちゃんはこの「シュラシュシュシュ」が気になっております。金毘羅さまはもともとヒンドゥー教のワニの姿の神様で、12神将のひとり。薬師如来の眷属ですが天部つながりでは阿修羅とも無関係ではありません。
さて金毘羅船とは「金刀比羅宮」参詣用の大阪と香川を往復した船のこと。でも実はこの金毘羅船の実態はよくわかっていません。こんぴらさんがブームになるのは19世紀で、その頃には宝船とかにみられる帆をかけた小廻船(小弁財船)というものになり、荷船を兼ねて参詣客を運んだようです。
金毘羅船船の歌ができたのはそれ以降なのは確実。なぜなら船に帆をかけての航行は江戸時代からで、実は結構歴史は浅いんです。帆を使うのは平安時代からあったようですが、当時はあくまで補助的なものだったようです。
さて、ここで「シュラシュシュシュ」ですが、修羅とは大石を運ぶ二股の木製そりのこと。古墳時代の修羅で有名なのは大阪の藤井寺から出土したものが、近つ飛鳥博物館にあります。かーなーりー、大きいですよ。石室に使う巨石を運んだんですから当たり前ですね。
なぜ修羅と呼ぶようになったのかというと、あの阿修羅からきていて、帝釈(大石=タイシャク)を動かすからだとか。
ネットで見つけた記述なのですが、金毘羅船は荷船として米を運んでいたようです。お米って一石、二石って数えますよね?イシを運んでシュラシュシュシュ。ほら、そういう気になってきたでしょ?
では2番の歌詞「金毘羅み山の青葉のかげからキララララ」のキラは何だ!?と自分でつっこんでナビちゃんは考えた。広辞苑をひくと「綺羅」「棋羅」とある。前者はきらきらひかっている様子、後者は碁石を並べたようにずらりと並ぶさま、とある。囲碁と神仙思想は切っても切れない仲ですし、米俵を乗せた修羅ごと筏(いかだ)に積んで、いくつもその筏を連ねて金毘羅船で曳航したら・・・それこそ綺羅棋羅(きらきら)とそれは豊かに瀬戸内の海で輝いてみえたことでしょう。

2006.3.5
素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が言うには「韓(から)の国には金銀があり、もし我が子の治める国に船がなかったら良くないだろう」と次々鬚を抜き取ったところ杉の木となり、胸毛を抜き取ったところ檜になり、尻の毛は艨iまき)の木となり眉の毛は樟(くす)の木となった。更にその用途を定め揚言して言うには「杉と樟とこの二つで船を作るがよい。檜は立派な御殿に、艪ヘ生きとし生けるものの墓の棺に。食用となる果樹の種子はよく蒔いて育てなさい」
以上日本書紀。ナビちゃんの愛する古墳時代の木棺、コウヤマキはスサノヲの尻毛だったんですね・・・。オヤジの尻の毛だなんてゲーですね。
先日の日記でさらりと古墳時代畿内の木棺はすべからくコウヤマキ、と書きましたが、このコウヤマキは奥が深いです。日本書紀からもわかるように当時すでに木材を用途によって使い分けていたのは確実で、しかも植林までしていたようです。日本人と木の付き合いは想像を絶する歴史があるんですね。
古語でマキといえば「コウヤマキ」のこと。「槇」とも「真木」とも書きます。名前のとおり高野山に多くあるというので「高野槙」と呼ぶようになったそうです。福島以西の本州四国九州に分布し、一科一属一種で日本の固有種。姿は美しい円錐形で杉っぽい。径1.5mにもなる。以前はスギ科に分類されていて、実際花粉症の原因にも。あぁ、書いていてもくしゃみが出ました・・・とほほ。
水に強く腐りにくいのが特徴。船を作るのにも使われました。風呂桶には高級ヒノキ、普通でサワラが使われますが、関西ではコウヤマキが最高とされます。長持ちするからですね。もっとも現在木製の風呂桶を使用している家庭はごくわずかと思われますが。
畿内でも弥生時代の墳墓からはカヤ、ヒノキ等の木棺が出てきます。大阪、雁屋遺跡からはコウヤマキ、カヤ、ヒノキの3種類が出土しました。古墳時代になってどうしてコウヤマキだけになったのでしょうね?百済の武寧王の墓がコウヤマキ、とは以前書きましたが、この人は対馬で生まれたという説もあるんです。
今もコウヤマキは仏事に使われます。箒の形の葉が魔を祓うのだそう。またコウヤマキは神霊が降りてくる憑り代であり、死体の方に悪霊が憑かないように埋葬した後その上にコウヤマキを植えたそうです。

2006.2.23
巣山古墳にクスノキ製木棺蓋出土!!
スゴイの出ましたね!奈良県の巣山古墳(4C末〜5C前期・前方後円墳・長220m)から大型木棺の蓋、舟形木製品、木偶など木片約50点出土。隋書倭人伝に「倭人は船上に遺体を置いて陸地を引く」とあるそうです。こうした文献を裏付ける出土品。ナビちゃんが気になるのは「クスノキ製」というところ。巣山古墳から出土した木簡の蓋、舟形木製品は大変装飾性が高く立派なものです。もがり(死んでから埋葬するまで遺体を安置するところ)から古墳まで運ぶ際に修羅か輿のようにして古墳の石棺に遺体を移したのち、壊して周濠に廃棄したのでは、という見解が載せられていました。古墳時代の葬送儀礼の解明についてまた新たな一歩を踏み出すたいへんな発見だと思います。
ですがこの巣山古墳、竪穴式石室2基と小型の石室らしきもの1基が確認されていますが、盗掘されていて石棺についての記述が見つけられませんでした。本当に石棺があったのか木棺だったのか不明です。調査報告書が読めればいいんですが、他県に住んでいるとそれも難しく大変残念です。
そして気になる「クスノキ製」ですが、古墳時代の畿内の木棺は例外なく「コウヤマキ製」だということです。但し今回の出土品は木棺の「蓋」なので棺部と蓋部で違う木を使ったのか、あるいはもがり用と埋葬用で木を使いわけていたかもしれません。コウヤマキは耐水性に優れた桶とかに使う木で、クスノキは天然の防虫作用があります。死亡から埋葬までかなりの日数をかけた当時の葬儀を考えるとありえる話だと思います。
2/20の朝日新聞で韓国南道の松■洞古墳群の7号墳からクスノキ製の木棺が出土した記事がありました。5〜6世紀のもので伽耶国の時代です。韓国では大型クスノキは育成しないので日本からの輸入品とかんがえられます。こことソウルの中間くらいにある百済の武寧王の墓からはコウヤマキの木棺が出土しています。コウヤマキは一属一種で日本にしかない木です。一昨日まではなぜ伽耶国ではコウヤマキでなくクスノキを使って棺を作ったのだろう、と思案しておりましたが、今日になって日本の古墳からクスノキの木棺蓋が出土。日本の木棺の素材についてまたひとつ再考の余地がでてきたようです。
というわけでここ数日脳内で古代史熱が高いナビちゃんなのでした。  ■は山へんに見という字

2006.2.2
今年に入ってから東京都や横浜市の地元の古墳を週末ごとにぽちぽち散歩しております。冬は寒いですが草木が茂っていないので墳丘の形がわかりやすく、実は古墳めぐりには適した季節です。先日、相棒のうしちゃんと鬼太郎茶屋に行ってきました。誘うのに悪いと思ったのか「近くに下布田遺跡もあるよ〜」・・・ふふふ。かわいいじゃないの。
下布田遺跡についいてはまた別の機会に触れたいと思いますが、鬼太郎茶屋がある深大寺は奈良時代満功上人が開いたという古刹です。深大寺から調布駅に向かって虎狛神社と布多天神という式内社が二つもあります。要するに深大寺より古い創建ということになります。
さてナビちゃんは宮崎アニメで「千と千尋」は大層お気に入りで是非あの湯屋で働いてみたいと思っていますし、ハクさまはナビちゃんの心のダーリンです。「コハク」というとつい「琥珀」という字を思い浮かべて漠然ときれいだなと思っていましたが、「虎狛神社」(コハクジンジャ)を見て、なるほどこの字があったか!とひらめいた。キトラで有名になった四神の白虎。虎でなおかつ白かったりする。古い地図を見ると、虎狛神社の北東に北の川があったが現在は消滅している。う〜ん、益々ハクさまにぴったり!漢字で書いたら「邇芸速水虎狛主」といったところでしょうか。北の川は野川の支流で、野川は多摩川の支流。この多摩川・野川沿いには古墳や横穴墓が多数存在しています。ちなみに「虎狛」は、最初に述べた満功上人の祖母、登羅さんにちなんだ虎ヶ島という地名と、狛江市の狛、渡来系の集団の名からつけられたものと思われます。
宮崎アニメは武蔵野と縁深いし、関係がなくもないかな?大変楽しい調布市・狛江市古墳散策でしたが、一緒に行ったうしちゃんは今インフルエンザで寝込んでます。皆様もお気をつけて。

2006.1.6
トップページ左の白い犬は昨年6月に青森県八戸市、市子林(いちこばやし)遺跡から出土しました。長さ4.3センチ高さ2.1センチ。この遺跡は縄文、奈良、平安の複合遺跡でどの時代の遺物かははっきりしていません。右の黒い犬は広島県北広島町、吉川氏城館跡から出土した安土桃山時代、今から約400年前のものです。ナビちゃん的にはかなり時代の新しいものなので普段ならスルーしている遺物ですね。ふふふ。
現在でも妊婦さんが5ヶ月目の戌の日に腹帯を巻く習慣がありますが、江戸時代子犬の土人形は安産のお守りだったので、この黒いワンちゃんもおそらく女性の持ち物と推測され、そのため出土した位置は城で女性が生活する「奥」であったと想像することができます。長さ4.3センチ、高さは3センチ。
ああ、戌年にあやかって少子化にも少し歯止めがかかるといいですね。アタシが年とったとき年金払ってくれる人がいないとねぇ・・。リタイアした後に年金でのんびり古墳めぐりするのがナビちゃんの理想です。

2005.10.23
先日新聞の書評欄で見かけた高橋大輔著「浦島太郎はどこへ行ったのか」を読みました。いや、大変おもしろかったです。浦島伝説を追いかけて丹後の海から全国津々浦々沖縄・石垣や果ては中国までの踏査紀行。最終的には古代海人族の痕跡を追って、海の道をたどりながら、いかに古代の政治宗教が製塩、製鉄、稲作と密接に結びついていたのかが見えてきます。誰もが知ってる浦島太郎から考古学をひもとく。作中「ん?」思うところもありましたが、それを差し置いても学術的にかなり評価できる作品です。ナビちゃん的にはかなりオススメ。「日本書紀」には雄略22年(478年)7月に浦嶋子が丹後の海を出て蓬莱へ行ったとあります。ナビちゃんはオフラインで同人誌を2冊出しましたが、それが「さきたま古墳群編」と「西安編」。さきたまの金錯銘鉄剣は471年、雄略の御世に作られ、また秦の始皇帝を語るときに蓬莱を無視することはできません。こういうのをシンクロニシティっていうんですね。でもまさか浦島太郎とカブるとは思いませんでした。作中、この478年同月に伊勢の外宮に丹後から豊受大神を天照大神の御饌都神(みけつかみ、食物を司る神)として迎え、また同年中国への遣使も行っている事実にもちらりと触れています。この年何かがあったことは確かなようです。なぜ丹後から神を迎えたのか?もしくは迎えなければならなかったのか。ここで思い出されるのは雄略から5代あとの継体天皇は越前は三国あたりの出身であったということ。浦嶋子がいた宮津とはちょうど若狭湾を挟んで向かいあった位置にあります。武烈天皇の死後、当初仲哀天皇の4代末の倭彦王を擁立しようとしたにもかかわらず越前からわざわざ継体を担ぎ出します。仲哀はヤマトタケルの子。その血筋ではなく継体を選んだ理由を推理する・・・。う〜ん、当時の日本海側はかなり熱いです。

2005.10.20
大変久しぶりの更新です。更新するきっかけが考古学的遺物の大損失!とは本当に悲しいです。そう、キトラと高松塚の壁画のカビカビ大発生!!今朝(正確には昨日19日)の朝刊各紙を見比べてため息の連続です。しかも各紙それぞれ違う写真を載せるあたり、そんなにあちこち選べるほどひどい状態だということですものね・・・。先々月、先月あたりにBS2でキトラの壁画はがしの特集番組が放映されました。「発掘された日本列島2005展」でもダイジェスト版が見られますが、確かに現場でがんばっている方々はエライと思うし、その仕事ぶりには感服いたしましたが、現場に至るまでの時間のかかり方はいったい何なんでしょうか。もし、一般企業で会社の財産に致命的な損失を負わせた場合、社長解任担当者一同更迭減棒は当たり前だと思いますが、文化庁ではそういった責任はどのように処理なさっているのでしょうか?まったくもって不思議です。個人の顔がぜんぜん出てこない。カビが生えてから1年も2年も経過しているわけですよ。わざわざ予算を組まなくてもその間にかかわった関係担当者の退職金を没収するだけでも高松塚古墳をすっぽり覆う冷却ドーム分の費用は賄えるのではないでしょうか。ナビちゃんは結構憤慨しております。

2005.8.12
8/9に1日夏休みをとって姪を連れて東京科学博物館で催している「縄文VS弥生」展を見に行きました。子供はさすがに飽きっぽくてじっくり見て回るというのはできませんが、そもそも展覧会自体が夏休みの小中学生を意識した作りになっていて、実際子供がたくさんいて驚きました。でもこのうるさいお子様の中から未来の大考古学者が生まれるかも!なーんて。
5月に青谷上寺地に行ってきましたが、そこで保管されている遺物がまた仰山展示されていて・・。ああよかった5月に行ってきて。・・・今、青谷に行っても展示館はスッカスカということですもんね。青谷は日本有数の弥生遺跡です。鳥取から青谷までちょっと離れているので、東京で遺物の見学をするいい機会です。殺傷痕のある人骨や弥生時代の木製品の数々を是非ご覧になってはいかがでしょう?
子供と一緒に行っていいことは、恥ずかしくなく体験コーナーに参加できることです。姪と一緒に石刃のレプリカ作りと銅鐸の模様を写し取ったり、縄で土器の模様描いてみたりしました。帰ってきてから「勾玉キット」で勾玉作成もしてみました。姪の夏休みの宿題の自由研究もこれでばっちりです。なかなか楽しかったですが一度やってみたので二度は結構というのが正直な感想ですけど・・。

2005.6.20
今日マンションの管理費の請求書を開封したら私が管理組合の理事長になっていました・・・。しかも今期より副理事は廃止とのこと。私は今まで一度も管理組合の総会に出席したことはありません。昨今、共同住宅のトラブルが絶えませんがそもそも無責任な役員の選任が事件を大きくしていると確信いたしました。私は管理人さん以外の住人の誰とも面識がありません。この勇気ある人事はいったい何事なのだーーッッ!?
さて先月18日に鳥取県にある青谷上寺地遺跡に行ってきました。弥生人の脳ミソが出た遺跡です。地形が特徴的なので鳥取空港に着陸する手前で飛行機から集落のあった一帯を見下ろすことができます。離着陸時はデジカメが使えなくて失敗。次の機会には普通のカメラ持参で搭乗したいと思います。
現地で遺跡から出土したマタタビで編んだ「カゴ」を見てきましたが、今日の日経新聞にこのカゴを復元したバスケタリー作家の本間一恵さんの記事がありました。この青谷上寺地遺跡のカゴの編み方は北米の先住民がよく使う「ティー・トワイニング」という方法の編み方で、なぜ古代日本にあった編み方が途絶えたのか不思議だ、とありました。カゴやザルの素材や編み方には地域の特色があり、マタタビを使うのは日本海側に分布していると本で読んだ記憶があります。北米と日本海側沿岸地域に偶発的に同じ編み方が発生した可能性がないわけではありませんが、日本人によく似たエスキモーの存在を考えると同じ文化の伝播の名残と考えた方がいいのかもしれません。ではそれはいつなのか?縄文時代に編んだカゴがあったのは確実ですが、太平洋を越えたその手段は海路なのか陸路なのか?カゴの編み方から考古学をグローバルに考える・・・スゴイですね。

2005.5.30
トップページにも書きましたが、コミケがとれました!うれしいですが、こりゃ真面目に中国編の原稿を書かねば・・・。がんばります!昨日、神奈川県横浜市の根岸森林公園内にある「馬の博物館」に行ってきました。6/5まで「はにわうま」展をやっております。全国各地の発掘された馬の埴輪を見比べられるので楽しいです。秦始皇兵馬俑博物館にある銅製の兵車馬、馬の部分だけですが(さすが馬の博物館!)レプリカがあってじっくり見れてよかったです。本物の展示は館内が暗かったんですよね。5月20日に海老名市にある秋葉山古墳群が国の指定史跡になりました!!めでたい!!ということは国からの補助金が出ますので、ヘタに整備される前にちょっと見に行きました。古墳時代前期の古墳群で、神奈川県としては古い時期のものです。まだ本格的な発掘調査は行われていないそうですが墳丘すそ部に葺石がそのまま確認できてちょっと感動しました。相鉄線かしわ台駅から(若い人で)一番近い6号墳まで徒歩30〜40分、というところです。

2005.5.24
ものすごく久しぶりに日記の更新です。いや〜、中国は楽しかったですけど何だかそれからいろいろありすぎてものすごく昔のことのような気がします。中国ネタはHPにUPしないのですか?とういうご質問が時々ありますが、西安編はオフラインで同人誌発行のみになると思います。誌上でご紹介できないぶんを少しUPするかもしれません。 さて、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がご逝去なさったのは記憶に新しいですが、新聞でバチカンの地図を見て驚いた。サン・ピエトロ寺院の前の広場って前方後円墳と同じ鍵穴形じゃあないですか!調べてみたら349年建設とある。ちょうど日本は古墳時代にあたります。もっとも現在の寺院は16世紀に再建され1626年に完成されたらしいので創建当初から同じ形だったかはちょっと疑問ですが。でもサン・ピエトロ寺院だってコンスタンティヌス帝の墓所だ。洋の東西を問わず王の墓に同じ鍵穴形の象徴。これは何かの符号では!?なーんてな。ちょうどコンクラーベの最中に妹の友人がイギリスから帰国していて、その話をしていたら「どうして前方後円墳ってあーゆー形をしてるの?」と聞かれました。・・・それがわかったら人類の文化的進化の深遠が覗けるのではないでしょうか。ところでイギリスでも連日ローマ法王の話題でもちきりだったそうですが「ジョン・ポール・セカンド」が「ヨハネ・パウロ・2世」だと気づくまでしばらくかかったそうです。・・・私だったら帰国するまで気づかなそうです。

2005.2.28
さて明日ついに成田を出発するナビちゃんですが、去年の今頃は台湾に行っておりました。その2週間後に西表島に行く機会にめぐまれましたが、ああ、西表は最高でしたね。ナビちゃんには密かな野望が2つあって、そのひとつがマングローブの林をカヌーで散歩することだったのですが、念願叶って本当ーーに幸せでした。ものすごく性に合ってました。ナビちゃん肩には自信があります。半日くらい漕いでいたかったです。
ところでこの西表島にも貝塚が2つあります。去年はそういう旅行でなかったので訪ねられませんでしたが、また是非行ってみたいと思います。自然保護のため、森を伐採することができないので調査が不可能ですが、調べれば古代遺跡が結構出てくるのではないか・・・という学者先生談。そういえば例の海中遺跡は西表と台湾の中間くらいにあったのではなかったでしょうか?島の海岸には台湾のゴミがたくさん上がってきます。潮の流れもあるでしょうが、近いってことですよね。西表には大きな河が2つあります。前に沖縄本島の仲原遺跡に行ったとき、島のタクシーの運転手さんに、島に人が住んでるかどうかは真水があるかどうかで決まるんだよ、と教えられました。古代、西表島は海上交通の拠点だった、なんてことがあるかもしれません。素敵ですねぇ。

2005.2.22
みなさま花粉症やインフルエンザで苦しんでいらっしゃいませんでしょうか。
今回がトップページ最後の「本日のひとりごと」となります。といっても別になくなるわけではございません。近日中には日記のページにお引越し予定です。お友達から折につけ催促されていたリンクのぺージもやっと作りました。ついでにオフラインのページも作成いたしましたのでよかったらのぞいてみてください。
縄文前期にイネ栽培?ーーってなことで、岡山県で 縄文前期地層からイネのプラントオパールが大量に見つかりました。このイネは中国南部原産の可能性があるとういうことです。さ〜て、イネ栽培は北九州から始まり全国に広まった、と一昨年暮れに吉野ヶ里遺跡を訪れたとき堂々とパネル表示がなされていました。また機会があったらイネの考古学についてもちょっと書いてみたいと思いますが、まぁ、おおまかにはウソでないにしても 、ちょっとそれはどうかなぁ、と。このプラントオパールから北陸から採取されたイネは中国南部原産のものと異なっていたことがずいぶん前からわかっています。少なくとも日本にはほぼ同時期に2種のイネが大陸から別ルートで持ち込まれたわけです。今回の発見で南経由のイネは大幅に時代がさかのぼりましたが、イネは北九州からとはさすがに断言しにくくなったのではないでしょうか。それから、まるで邪馬台国は佐賀である、みたいな表示もちょっと・・・。まぁ、気持ちはわかるけどさぁ〜。

2005.1.30
昨年10月11日に遣唐留学生、井真成(せいしんせい)の墓誌が公表され、国号「日本」記述の最古の資料ということで新聞に大きく掲載されました。1/29には公開シンポジウム、翌日専修大学において市民セミナーが開催され、私も行ってまいりました。最古の資料!と大々的に報じられましたが、セミナー当日には実は台北でもっと古い墓誌が発見されていたという情報が入り、セミナー関係者も驚いていたようです。シンポジウムは平日に開催だったので参加できませんでしが、市民セミナーも大変盛況でまた内容も実に興味深いものでした。ちょっとかいつまんで紹介してありますので、ご興味のある方はのぞいてみて下さいね!

2005.1.3
長崎県平戸、入口遺跡 約9万年前の地層から旧石器が出土!日本最古級!! ということで10/13付の新聞に出ておりましたが、素晴らしいですね。今後の発掘にますます期待するところであります。 ーーーが、ここで出土したスクレイパー(scraper)(発音は[skreip] e の上にアクセント記号)朝日新聞では掻器、日経新聞では削器、とありました。たぶん、へら型の石器でどちらも正しいのではないかと思いますが、「掻」と「削」では字で見たときの印象がかなり違いますね。英和辞典をひいてみたら、scraperには削り取る、掻き集める、の両方ありました。英語って便利なようなそうでないような・・・ビミョー。

2004.10.18
パソコンを買い替えたら思いきりウイルスにやられました・・・。毎日毎日汚染されたメールが届きます。あたくし機械には弱いんです。もう本当にいい加減にしていただきたいです。 モンゴルでチンギス・ハンの霊廟が発掘されましたね!私の好きな時代からはかなり近代に近いのですが、以前、高木彬光の「チンギス汗の謎」とかいう本を読みまして大層おもしろかったのを覚えています。源義経・チンギス汗同一人物説(そんな説があるのか!?)の小説です。ご興味があったら是非。 折りしも一昨日、上野まで中国兵馬傭展を見に行ってまいりました。心の翼は大陸に舞い上がりますね。展示物の数は多くありませんが実物大の傭には圧倒されます。簡略化された埴輪を見慣れている私には、なんと言うかその写実的は造形に驚かされました。あ〜、西安に行きたい〜〜。