ラスト・シーン 〜美しき世界〜

これは一体何の冗談なのだろう?
バルログは目の前の光景を、どこか虚ろな瞳で傍観していた。
むせ返るような血の臭い。力なく横たわる大柄な男。男の腹には、冗談めいた大穴が開いている。
人の死など珍しくもない。彼自身、その手を爪を圧倒的な歓喜と悦楽の中で幾度となく血に染めてきたのだから。
ただ倒れているのがバルログのよく知る男だというだけのことだ。

「貴様・・・・こんなところで何をしている?」
バルログは労りを微塵も含まぬ氷の瞳を倒れ付した男に向ける。

「・・・・あ・・ぁ・・・・おま・・・えか」
ベガは億劫そうに首だけを動かしてバルログの声の方向に視線を向けた。実際、今の彼にとってはそれだけの動作が酷くしんどかった。本音を言えば、未来永劫瞳を閉ざす意外のことはしたくないくらいにだるい。


(血を流しすぎた・・・・か)
腹に風穴をあけたまま、ベガは些か間の抜けた感想を持った。

「なんだその無様な姿は?」

常の覇気を失くした男に、バルログは完璧な角度を誇る眉を露骨にしかめた。
バルログはかつて男を愛していた。それは男があくまで強く雄々しく、ある種の完成された美を持っていたからに他ならない。
だが、今目の前に転がっている男はどうだ?

弱々しく横たわる年老いた肉体。

「私の前で醜態を晒すな。貴様はそんな男ではないはずだ」
バルログにとって、『美』は全てだ。彼自身は言うに及ばず、彼の五感に触れるものはすべからく『美』であらねばならない。一度でも身体を重ねた相手が醜いなど、決してあってはならぬことなのだ。

「すまん・・・・だが・・・私はじきに終わる・・・・そう目くじらをたてる・・・・なっ・・・っ」
最後の言葉を言い終えると同時に、ベガの鼻と口から大量の血が吹き零れた。

(鮮やかな色だ)

男の流した血を、バルログは少しだけ美しいと思った。そしてそれによって、バルログは男を少しだけ許す気になった。

「死ぬのか?」
「ああ、死ぬだろう」
淡々と交わされる会話はその内容とあまりにもそぐわない。
相手の死を悼まず、己の死を悲嘆しない。そこには世間的な『死』への畏れが完全に欠落していた。

「貴様は世界を手に入れたのか?」
不意に覚えた気まぐれな好奇心を、バルログはそのまま口にした。どうせ相手はじきに死ぬ男だ。知りたいことは直截に聞いてしまうに限る。後腐れが残る心配もないのだから。

「いや・・・・・」
「世界制服は単なる愚者の戯言であったというわけか。私もとんだ茶番に付き合わされたものだ」
侮蔑の篭ったバルログの台詞に、ベガは酷く柔らかな笑みを浮かべた。
ベガはバルログを好いていた。より率直に言えば愛していた。否、愛している。その美貌を愛でた。その若々しい肉体を愛でた。そして何よりも、自他に対する残酷なまでの苛烈さを愛でた。
今際の時に聞くならば、愛する者のらしい台詞が良い。間違っても偽りの優しさに彩られた安っぽい言葉など掛けられたくはない。それが『悪』を貫いてきたベガの矜持だった。

「私は・・・・決して手に入らぬ”世界”・・・を見つけ・・・た・・・それ・・で・・良い」
「詭弁を弄すか?」
端整な唇に嘲笑をひらめかせたまま、バルログはベガの浮かべる穏やかな笑みに動揺した。バルログの知るベガは、こんなふうに笑う男ではなかったはずだ。
「詭弁・・ではない」
「では問うが、そんな世界がどこにあるというのだ?」
死に損ないの戯言に振り回されるのは本意ではなかったが、ベガの浮かべる微笑がバルログを捕らえて放さなかった。

「そうか・・・・おまえには・・・見え・・ぬか・・・・・ならば私が見せてやろう」

「まだそんな力が残っていたのか」
バルログは驚き呆れ、怒りを覚えた。余分な力を残すくらいならば、何故全力振り絞って敵と対峙しなかったのか。

「力・・・などいらぬ。バルログ、顔を見せろ」
「意味がわからん」
「とにかく。おまえの顔を見せろ」
「もう見ているではないか?」
「もっと近くで見せてくれ」
それは静かでありながら拒否売ることを他者に赦さぬ命令であった。

「好きにすれば良い」
バルログが折れた。ベガの声には、避けられぬ死を眼前に控えてなお威厳があった。
「そうだ。それで・・・・良い。バルログ・・・・顔・・・を・・・おまえの・・・・顔を良く・・・見せてくれ」
バルログに抱きかかえられたまま、ベガは愛する者の比類なき美貌に手を差し伸べた。

「見えぬのか?」
探るような手の動きに、バルログが訊ねた。
「近づけば・・・見える・・・・」
そういいながら、ベガの目は既に焦点がズレている。
「これで・・・良いか?」

それは美貌の青年に唐突に訪れた慈悲の心であったのやもしれぬ。バルログはベガの血で汚れた顔を両の掌で包み込むように支え、接吻を落とすかのように白い顔をベガの土気色に成り果てた顔に近づけた。

「あ・・あ・・・それなら・・・ば・・・見え・・る・・・・」
ベガは再び意思の力を掻き集め、開きたがらぬ瞼を開く。

「美しい・・・・な・・・・・バル・・ログ・・・おまえは・・・・・・・美し・・・い・・・・」
「知っている」
気負うこともなく受け入れる。

「私の・・・”世界”・・・・だ」
「私は誰のものでもない」
冷酷に否定した。

「手に・・・・・入ら・・・・ぬ故に美しい私の”世界”・・・私は・・・・愛している」
最期の最後に、最期故にベガは思いをそのまま口にできた。愛だの恋だの情だのと、甘ったれたものは全て捨て去ること。それが『悪』に染まらんと決意したベガの支払った代償だった。
だが、もう良い。もう良いのだ。

「バルロ・・・グ・・・・・・・私の目を見ろ・・・・そこ・・・に・・・・世界・・はある・・・・美しい・・・・美し・・・い・私・・・の世・・・界・・・・」
征服ではなく共存を、愛することを望んでしまった自分の負けだ。
負けでよい。勝ち負け上下優劣を超えて、自分は価値ある者と巡り合い、歪な形ながらも愛し合えたのだから。

「そうだ・・・・な。おまえの世界は美しい」
別の世界に旅立った男の冷たい額を、バルログは一度だけ愛しむように撫でた。

「ベガ・・・っ」
嗚咽が漏れた。けれども、バルログには己の流す涙の意味すらわからなかった。