何だかの記念日だとか。国のお偉方が定めたお仕着せの祝日だとか。そういったものに阿伏兎は生まれてこのかた興味を覚えた記憶がない。彼にとって暦とは、便宜上定められた数字という記号の組合わせであり、そこに何らの意味を見出すようなものではない。
むろん自分の誕生日くらいは覚えているが、それも今となっては戦闘能力衰退へのカウントダウンに過ぎない。
そんな彼にとって唯一の例外たる記念日は、彼の人生を決定付ける重要な選択を下した『あの日』に他ならない。
ある日鳳仙に『会わせたい者がいる』と有無を言わさず呼び出され、そこで出会った桃色の髪をした少年。
言葉を交わす間もなく少年の仕掛けによって夜兎同士の戦いは幕を開けた。
何故戦う必要があるのか?
何故この少年は自分に戦いを挑んでくるのか?
少年の攻撃をギリギリのところで捌きながら、阿伏兎の思考は酷く冷静だった。
一度拳を交え血の臭いを嗅げば、全てを忘れて熱狂する夜兎族の中にあって、彼の醒めた性分はあるいは異端であるかもしれない。
誰よりも種族を愛しその純粋な血を尊びながら、自身は戦いに『理由』や『意味』を求めてしまう夜兎らしからぬ夜兎であること。それは阿伏兎という男の持つ奇妙にして根深い矛盾であった。
この子供は何者なのか?
この凄まじいまでの強さは何なのか?
戦いながら沸き起こる子供への興味を抑えられなかった。
強い。この子供は恐ろしく強い。末恐ろしいたぁこういうのを言うんだろうねぇ。
まったく、こいつおときたら夜兎の『未来』そのものじゃぁないか。
端もゆかぬ少年の恐るべき技量に戦慄しながら、阿伏兎の心は喜びに打ち震えた。
この子供の成長を見届けたい。
この子供の築く『夜兎の未来』を共に歩みたい。
この子供の視線の先にあるものを眺めたい。
その思いの激しさは、まるで待ち侘びた恋人への恋情の如くに鮮烈であった。
『ねぇオジサン、何で手加減なんてするのさ?』
まだ少年といっても良い年若い夜兎に散々に打ちのめされ、地に付し血反吐を吐きながら見上げた奇妙に邪気のない笑顔。それはまさしく阿伏兎が求め続けた『夜兎』そのもので。
夜兎の『未来』と戦って殺される。
あぁ、こいつぁ素晴らしく上等な選択肢じゃねぇか。
負け惜しみでも自棄でもなく、阿伏兎は子供との短い戦いとその結末に満足していた。
その性質上、遠からぬ絶滅を宿命づけられた夜兎なれば、せめて大輪の仇花をこの宇宙のど真ん中に咲かせて散ればいい。ダラダラとゆるやかに死んでゆくような無様な姿をさらすくらいならば、伝説として語り継がれる存在にまで昇華すればよいのだ。
その点この子供ならば申し分がない。近い将来この子供は誰よりも見事に咲き狂うだろう。そして幾千幾万の赤い花を従え凄惨美に彩られて果てるのだ。
自分もまたこの子供を彩る赤い花の一本となる。
阿伏兎に自己陶酔の趣味はなかったが、その考えは抗いがたい甘美さで阿伏兎を侵食した。
(やっべぇー、チンコ勃ちそーだわこりゃ)
死を目前とした状況で、自分の息子でもおかしくない年頃の子供を相手に欲情するなど、我ながら変態としか思えなかったが身体は情欲に正直だ。
『おまえさんの勝ちだ。さっさと殺・・・・ぶほぉっ?!』
血の味のする唇で呟き、静かに目を閉じた阿伏兎の鳩尾に華奢な爪先が突き刺さった。
『あのさ、俺今日からここの団長だから』
涙目で悶絶する阿伏兎の話など一欠けらも聞かず、子供は言いたい事だけを言う。しかも、内容的に子供の戯言ではすまないことをシレっと言うから恐ろしい。
『え?前の団長?そんなのとっくに殺しちゃったよ?なんでそんなこと聞くの?』
小首を傾げて心底不思議そうに問う少年の冷酷な朗らかさに、阿伏の脳髄はいよいよ侵されてゆく。
『だめだよ。おまえは俺の部下になるんだから』
『何・・・・勝手なこと・・・』
『嫌なの?』
『いや・・・・』
『どっちさ?』
『いや、だから――』
『負けたくせに』
この一言が全てを決めた。
夜兎の世界とは野生の世界、即ち弱肉強食が絶対の理なのだ。
『・・・・わかったよ』
答えた阿伏兎に不服はなかった。この子供に殺されるならば本望と思う気持ちに偽りはなけれども、本音を言えば生きてその成長を見たかった。
『オジサンの名前は?』
『・・・・・・・・・阿伏兎・・・・オジサンとか言うな』
『アブト?ふ〜〜〜ん変な名前!』
失礼極まりないことを言いながら、少年は阿伏兎の無精髭を無造作に撫でた。虫ケラのように人を殺すその手は、まだ小さく白く不思議と柔らかかった。
あの日から今日に至るまで、阿伏兎は一方的な宣言に従う形で側近として神威に仕えている。
流れた時間の分だけ阿伏兎は年老い、神威は少年から青年へと鮮やかなる変貌を遂げていた。しかし、外見がいかに変わろうと神威の本質たる『夜兎』は何一つとして変わらない。今も昔も、神威は切ないほどに夜兎として在った。
本能のままに戦う兎。
生き急ぐように戦う兎。
死に急ぐように戦う兎。
戦いを喰らい戦いに喰われる兎。
神威の全ては戦いに収斂される。彼の全ては戦いによってのみ表現される。それこそが阿伏兎が焦がれてやまぬ『本物』の夜兎なのだ。
三年ほど前から神威は阿伏兎を床に呼びつけ組み敷くようになっていたが、それは神威にとってただソレだけのことに過ぎぬと阿伏兎は理解していた。
上質の戦いに飢えた魂を慰めるため。
戦いに昂ぶり収まりのつかなくなった若い肉体を鎮めるため。
そうした衝動を性的欲求にすり替え阿伏兎の中に吐き出すことで、神威は己の中のバランスを危ういところで保っているのだ。
(俺を相手に選んだのは、まぁ確かに賢い選択だ)
もし仮に神威が闘争本能・殺傷本能・破壊衝動といった夜兎の本能を滾らせたまま女を、あるいは並の男を抱けば相手は確実に死ぬ。神威は力の抑制が致命的に下手な上に、生命を殺めることに倫理的な禁忌がまるでないのだ。
もともとノンケで男に掘られることなど考えたこともなかった阿伏兎が、彼独特の醒めた思考と諦観にも似た達観から抗うことなく若い兎の蹂躙を受け入れたのは、正直そのあたりのこともあった。
(6月1日、ねぇ)
朝から取り掛かってようやく片付いた書類の山を脇に寄せながら、阿伏兎はカレンダーを見やり溜息を吐く。
昨日や一昨日、そして明日や明後日と何ら変わらぬその日に、愛しの団長様はお生まれあそばしたのだ。
自他の誕生日に特別な意味など求めぬ阿伏兎であったが、梅雨による曇天の時節の始まりに生を受けるとは、流石団長だとわけのわからぬ感心の仕方をしたのも今は昔の物語。
(そろそろ構ってやんねぇと拗ねやがるからな、あのスットコドッコイは)
阿伏兎はよっこいしょといささか親父くさい声を出しながら腰を上げ、生身の右腕と機械の左腕を伸ばして凝りを解す。上司が上司なだけに止むをえないというだけで、元来阿伏兎とてデスクワークは嫌いなのだ。それがすっかり日常業務と化している現状は、彼的に甚だ遺憾であるとしか言い様がなかった。
(俺様作スペシャルチャーハンに旗でも立ててやるかね?まったく、いい大人がお誕生日会でもねーだろうに)
この日のために極上の蟹缶3ダースを初めとする神威の好物を大量に揃えた張本人でありながら、阿伏兎は胸中で悪態を吐く。そして充分過ぎるほど成熟した大人である彼は、それが照れ隠しにすぎないことを自覚している。冷静すぎる男は戦うにも働くにも恋をするにも難儀なものだ。
(唯一の記念日をこさえた奴の誕生日くらい、祝ってやっても罰はあたんねーだろ。大体無視なんぞしたら後どころかタイムリーに怖ぇからな)
阿伏兎の仕える若い兎は、恐ろしく腕が立つだけでなく、恐ろしく性質が悪いのだ。そのはた迷惑さをわかりやすく例えるならば、プロ格闘家のスキルとパワーを持つヒステリックな彼女、ゴリラの腕力を持つ我侭な5歳児といったところか。
神威は日頃しつこく付き纏われることを嫌う。団長のためにと熱心に励んだ挙句、『おまえ、ウザイよ』の一言で散って逝った団員の数など阿伏兎は数えたくもない。しかし、放置すればよいかと言えば、かように簡単なものでもない。『退屈だよ』『使えないね』と消された団員もまた相当数に上るのだ。
では、いかようにすれば神威は満足するのか?
その問いに対し阿伏兎が出した答えは、
『常に団長様に注意を払い、打てる布石は全て打つこと。その上で欲しがる時に欲しがるだけ+αを臨機応変に与えること』
であった。
はっきり言って極限に面倒くさい、というか難しい。ちなみに今のところそれをつつがなくこなし生き延びているのは阿伏兎のみである。おかげで阿伏兎は年若い団長にすっかり気に入られ、心身ともに日々酷使されているというわけだ。
神威は泣く子もひきつけを起こす宇宙海賊春雨・第七師団長であるからして、品行方正な好青年である必要はないのだが、それにしても部下に手を焼かせすぎではあるまいか?見目麗しくご成長あそばした団長様は、年相応に落ち着くどころか日毎年毎その厄介さを増していく。子供故の我侭など、成長すれば自然と言わなくなるものだとタカをくくっていた数年前の己が憎い。
「阿伏兎ー阿伏兎ーーーっ!」
「はいはい!今すぐ参りますよ!」
噂をすれ何とやらな団長様に大声で返事をしながらキッチンへと向かう。
まったく、自分の主戦場の一つにキッチンが加わるなど想定範囲外もいいところだった。小器用な性分故、昔から自分で食べる分の煮炊きくらいはできたのだが、今や給食のオバチャン並のスピードで大量生産可能であった。慣れとは何とも恐ろしい。
「ご飯まだぁーーー?!」
「ちょっ!あんたさっきオヤツ食ったばっかでしょうが?!」
思えば神威と出会うまで、オヤツの習慣などなかった。
「だってそろそろ仕度する時間でしょ?」
「いつもそんなに早くからせんでしょう」
こちとらオサンドンどころではすまぬ神威の食事の世話をしているのだ。一食につきそんなに時間を掛けていては、他の仕事が何もこなせない。
「でもさぁ、今日は特別でしょ?」
「あ?何が特別だ」
わざと無関心を装ってやれば、
「前に教えたじゃないか」
露骨に拗ねて横を向く。殴りかかって来ないことにいくらかの違和感を覚えつつ、阿伏兎は意地悪く口の端を歪める。
「何を、ですかい?」
「・・・・・・・・・もう、いい」
俯いた顔から発せられ、床に吸い込まれていく声を聞きながら、阿伏兎は調子に乗りすぎたことを自覚した。
「嘘ですよ、団長」
去っていく小さな肩を、後ろからすっぽりと抱きかかえてやる。
馬鹿で阿呆でやることなすこと無茶苦茶で、他人の言葉も思いも一切意に介さぬ天上天下唯我独尊でありながら、こうして予想外の繊細を見せては阿伏兎の精神を攻撃する。
(アンタ、本気に性質悪過ぎだ)
こんな姿を見せられては、放っておくわけにもゆくまい。
「何だよ?離して・・・・よ」
「ハッピー・バースディだ、団長殿」
お誕生日おめでとうなど自分の柄ではないけれど、一年に一度だけ、己の運命を変えた子供がこの世に生れ落ちた日だけの『特別』だ。
「阿伏兎、ご馳走作ってね?」
「ご期待に添えるかわかりやせんぜ?」
「阿伏兎のご飯、美味しいから好きだよ」
「そりゃどーも」
「何だよ、せっかく褒めてあげたんだからもっと喜びなよ」
神威が上から目線なのはいつものことだ。彼の生まれ持った強さが彼にそれを許したのだから仕方がない。
「デザートは阿伏兎がいい」
先ほどまでの傷ついた姿が嘘のように、語尾にハートマークまで散らして神威はご機嫌だ。食欲や性欲といった原初の欲を神威は隠さない。彼にとってそれは何ら恥ずべきものではない。
「お気に召すままに、コンチクショウ」
今年もまた一つ年を重ね、その分だけ性質の悪さに磨きのかかった神威に、阿伏兎はやれやれと溜息を吐く。ハメられたのならばまだしも、素の神威にいいように振り回されているのだから情けない。
惚れた弱み。
自然に浮かんできたそんな言葉に、阿伏兎は先よりも盛大な溜息を吐いた。