『分からないことだけが増えていく』





必要最低限のものすら不足しているような殺風景な部屋。人の気配があるにも関わらず、盲目の剣士を主とするその部屋は酷く薄暗かった。

「冷えるねぇ」
ほぼ万年床と化した布団に包まり、似蔵は溜息混じりに呟く。南国土佐で幼少期から少年期の半ばまでを過ごした似蔵は、体質的に寒さが苦手だ。もっとも、餓えを初めとする『生きることの苦しみ』を一通り以上嘗め尽くした身にしてみれば、雨風しのげる屋根の下で感じる寒さなど何ほどでもない。
むしろ辛いのは寒さそのものではなく、冷えがもたらす身体の痛みであった。

「・・・・ん」
布団から這い出た似蔵の着物の右袖は、だらりと不自然に垂れ下がっていた。

(祟るねぇ・・・)
癒えて尚、折に触れてはジクジクと痛む右腕を摩りながら火鉢前に座り、手探りで炭を起こし暖を取る。当初盲目の似蔵の部屋に火鉢を置くことに武市は強硬に反対したが、似蔵はどうにもエアコンの作り出す誇り臭い暖かさになじめず、かといって石油ストーブなどは彼の過敏な嗅覚には刺激が強すぎる上、火事火傷などの危険度も高いため論外だった。結局、古き良き『雅』に対して奇妙に理解のある高杉の鶴の一声で、似蔵は部屋で火鉢を使用する許可を得たのだ。

「ありがたいねぇ・・・」
片方しかない手を火鉢にかざしながら、似蔵は冷えた身体に血が巡るのを疼きと共に実感する。
紅桜を自ら受け入れ、人を超えた動きで激闘を繰り広げた似蔵の肉体は、目に見える以上に傷んでいた。衣服越しにもわかる右腕の欠損だけでなく、今や彼の身体は内臓も含め痛みを感じぬ部位を探すことのほうが難しい状態にある。医務室から自室に移ることを漸く許されたものの、縋るものなしには歩くこともままならぬ身体では完全に床を上げることは適わなかった。

「ッ―」
右腕を摩る左腕に走った痛みに思わず顔を顰めた。

「参ったねぇ」
壁にもたれかかりながら、唇を歪め自嘲する。その嗤いは似蔵の敬愛する高杉のそれと良く似ていた。
ボロ雑巾のようになった身体を抱えながら、それでも似蔵に後悔はなかった。
紅桜を受け入れたこと。白夜叉と戦ったこと。そして迎えたこの結末。似蔵は強がりでも何でもなく、何一つ後悔などしていない。
似蔵はただ高杉の役にたちたかった。高杉のためだけに、己の全てを絞りきり捧げ尽くしたかった。そんな彼にとって、文字通り己の身体を捧げ高杉のための『剣』となる行為は、この上もなく甘美な至福の時であった。光を失くして以来久しく忘れていた『生』の実感の中で、紅桜を拒んだもう一人の人斬り河上万斉を馬鹿な小僧だと嘲いすらしていた。
もう一度時を遡ってやり直せると言われても、間違いなく自分は同じ選択をするだろう。否、今眼前に紅桜を差し出されたならば、躊躇うことなく再びそれを体内に受け入れるだろう。

悔いてはいない。胸を張って言い切れる。
ただ悔しい。どうしようもなく口惜しいのだ。万斉が知略に政略に剣技にと目覚しい働きを見せる傍らで、不具と成り果てた身体をただ横たえていなければならぬ現実が。
いっそあの時あの場で死にたかった。
今更詮無きことではあるが、あの時自害する力すら残っていなかった己が身が恨めしい。そしてそんな己を何の酔狂かわざわざ助け出し治療を施した万斉が憎い。憎みながら、こうして無様な身体を引きずっておめおめと生きながらえている自分疎ましい。



                                   ※



あの時―
光も音も感触すらも消え失せた暗闇の底で、似蔵の意識はただひたすらに高杉だけを求めていた。言葉を発することの出来なくなった唇の代わりに、魂を震わせて高杉の名を叫び続けた。
救いを求めていたわけではない。役目を果たせずに潰えた人斬りの末路にあるのは『死』だけだ。初めて人を斬った瞬間に似蔵はそれを悟っていた。
なればその最後を高杉の振るう刃によって賜りたいと魂の底から希った。
それまで似蔵は高杉に何かを求めたことなどなかった。高杉の側にあって高杉の命を受け従うこと。それが似蔵の悦びであり、それ以上を望むことは彼の中でいつしか禁忌になっていた。

『おや似蔵殿ではござらぬか?これはまた派手にやらかしたものだ』

何もなかった似蔵の世界に、一番聞きたくない声が割り込んできた。
河上万斉。どこか楽しげな響きを持つ声の主は、鬼兵隊において似蔵と並び称される凄腕の人斬りだった。

初めて会った時から、似蔵は万斉が嫌いであった。ほとんど生理的に受け付けないといっても良かった。
人斬りという日陰の仕事をする傍ら、音楽プロデデューサーなどという似蔵には想像もつかぬようなきらびやかな世界の住人でもある男。まずもってそこからして気に喰わなかった。
これでどちらも大したことがなければ、所詮は二束の草鞋を履く半端者よと一笑にふして終わるところであったが、似蔵にとって不快なことに、万斉はどちらの道でも一流の名に恥じぬ卓越した才能の持ち主だった。その上知略・謀略・政治的交渉術にも長け、飄々とした人となりながら高杉をして苦笑させるほどに肝も太い。
可愛気のないガキだと思った。
たいていの事柄を水準以上のレベルでソツなくこなし、上手に世間を遊泳しながら道楽で人を斬る男。人斬り以外生きる術を持たなかった似蔵とは対極にある器用さが酷く不快だった。

若く健康で多くの才能に恵まれた青年が何ゆえ人斬りなどになったのか?

不快に思いながらも、やはり同業者のことは気になるもので、似蔵は万斉の挙動を耳で追うようになっていた。そして追えば追うほど万斉という人間がわからなくなった。

己と同種の人を斬ることにしか真の快楽を見出せない男なのか?
,しかし、彼の言動を見るにつけ必ずしも常に血に餓えているというわけでもない。夜中に聞こえてくる試行錯誤するような三味線の音からは、副業あるいは本業の音楽プロデューサーとしての仕事にも充分なやりがいを感じていることが伺えた。
では己や木島また子がそうであるように、高杉晋助という一個人に傾倒し、彼を神の如く崇め奉り、彼が黒いといえば白いものも黒なのか?
否、それも違った。万斉は明らかに高杉を好いていた。が、また子の偶像崇拝に近い恋慕と異なり、万斉が求めるのはあくまで個人と個人の対等な関係であり、高杉が黒だと言っても己が青だと思えばそれを貫く頑固さが万斉にはあった。万斉が『連中の唄を最後まで聞きたくなった』だの『なかなかロックな連中であった』だのとワケのわからぬ理由で軽く職務放棄をかましたことを、似蔵は病床で苦々しく聞いたものだ。
ならば武市の如く、腐った幕府を打ち倒しより良い世界を創り直したいのか?
・・・それも微妙に違う気がした。彼が求めるのは改革ではなく破壊であり、そういった意味ではもっとも高杉に近い感性を持っているように思えた。

何故人斬りをしているのか?何故鬼兵隊に身をおいているのか?何故高杉の側を離れぬのか?
何もわからぬまま、似蔵はなおも耳と鼻で万斉を追った。そして最悪の答えに辿りついた。
ある朝高杉の身体から漂った、濃厚な雄の臭い。それは紛れもなく河上万斉のものであった。
後頭部を力任せに殴られたような衝撃に眩暈を覚えながら ―盲目でも眩暈はするのだ、皮肉なことに―
似蔵は万斉がここにいる理由を理解した。
似蔵が禁忌としたさらに先の領域に、万斉はいとも容易く足を踏み入れ、そこに実る甘美な果実を当然の権利のようにもぎ取って食んだのだ。
己の焦がれた篝火が、得体の知れぬ若造に組み敷かれ夜毎啼かされているという事実に、似蔵は完膚なきまでに打ちのめされた。
似蔵は己を蛾の一匹に過ぎぬと認識していた。その認識の是非はともかくとして、高杉という強烈な篝火に魅入られた魂は、否応なしに蛾となって愚かしくも焼け死ぬまで炎の周りを舞うより他なくなるのだと信じていた。
だが万斉は違った。彼は蛾ではなかったのだ。一人の男として、怪しくも美しい篝火を愛でる術を持っていたのだ。
禁忌という聖域をつくらずにはおられなかった己と、欲するものを欲するままに貪った男。蛾ではなく、ただの雄として高杉の傍らに侍ることを許されている男。
己が負け犬であることを否応なしに思い知らされた。
産まれて初めて感じる嫉妬などと綺麗事を言うつもりはないが、それは間違いなく似蔵の人生最大の嫉妬であった。
よりにもよってそんな男の声を、今わの際に聞かされなければならぬとは。もし似蔵にその余力が残っていたならば、おそらく彼はその身を捩って笑っていただろう。

(あぁ、これはきっと罰なんだろうねぇ・・・あの人の役にも立てず暴走した蛾が受ける報いってやつさねぇ)
笑う力のない似蔵は、代わりに一筋の涙を流した。

『痛むでござるか?』
見当違いも甚だしい台詞を吐きながら、万斉は大柄な似蔵の身体をこともなげに抱え上げ、あっさりと続けた。

『さ、帰るでござるよ。皆が待っておる故、な』
こうして『死』を待っていた人斬りは、同じ人斬りの手によって『生』の世界へと連れ帰られた。


万斉によって与えられた『生』は、しかし生易しいものではなかった。
似蔵を待ち受けていたのは穏やかな癒しなどではなく、いっそ死んだほうがマシと思えるような果てない痛みの連続であった。
侵食の進んだ身体から紅桜を除去するための手術は困難を極め、複雑骨折した手足の手術は数十回を数えた。

『アンタぁ・・・何で俺を助けたんだい?』
痛みに喘ぎながら、似蔵は万斉に疑問をぶつけた。そこには多分に余計なことをしてくれた相手に対する非難が込められていたが、矛先を向けられたとうの万斉は涼しい顔だ。

『好きだからでござる』
返ってきた答えに、似蔵は数秒痛みすらも忘れて絶句した。

『意味がわからない・・・ねぇ』
好きという言葉の意味は知っている。だが、万斉からそうした感情を向けられる意味がわからなかった。というか、正直今もわからない。

『好き、は好きでござるよ似蔵殿。拙者は似蔵殿が好きでござる』
この男は一体どんな顔をして言っているのか。こんな時目が見えないのは不便だと、似蔵は今更なことを思った。

『物好きだねぇ』
『似蔵殿の音はキレイでござる。哀しくて寂しく痛ましい・・・少し、晋助の音と似ているでござる』
晋助、と万斉が呼び捨てるのを聞くたびに心が揺れる。『高杉さん』と口にするたびに、心地よく高揚しながらも緊張している己に比し、万斉の呼びかけのなんと自然なことであろうか?この年若い人斬りは、誰かや何かを仰ぎ見たことなどないのだろう。

『拙者は全ての美しき音色を好む。汚い音で溢れたこの世界では、キレイな音は貴重品でござる』
そう語った万斉の声は、ふざけてはいなかった。

『キレイだの好きだの・・・こんなトウのたった人斬りに、アンタぁ頭大丈夫かい?大体アンタにはあの人がいるじゃぁないか』
口にした途端似蔵は激しく後悔した。高杉と万斉が肉体関係を持っていることは既に公然の秘密ですらなかったが、さりとてこのように露骨に口の端に乗せる話題ではない。他人の閨事情に首を突っ込むなど浅ましいにも程がある。ましてや気紛れな大将と掴みどころのない幹部の秘め事だ。我が身が可愛ければ見ざる聞かざる言わざるが最良の選択肢であることはそれこそ猿でもわかる。

(俺は何を言ってるんだぃ・・・っ)
万斉のことなどどうでも良かったが、下卑た質問は大切な『あの人』をも汚すことを意味しているというのに。

『晋助は晋助。似蔵殿は似蔵殿。似てはいてもそれぞれ異なる美しき音を持っているでござる。先に申したでござろう?拙者は全ての美しき音色を好むと』
『・・・・アンタは・・・・・・・・・・・・・・』
あまりに悪びれぬ堂々たる浮気宣言に、似蔵は再び言葉を失くした。
高杉という強烈な光を食らってなお足ることを知らず求め続ける。万斉の持つ若さだけでは説明のつかぬ獰猛な貪欲さに似蔵は空恐ろしさすら感じた。

『もっとも良き音色にも等級はある故、全ての音を平等に愛すことはちと難しいでござるが』
『音』を『女』に言い換えたならば、相当ロクデナシな発言をしていることに恐らく本人は気づいていない。そして性質の悪いことに、気づいたところでまったく気にもしないだろう。一般常識を知り尽くした上で、それが意に沿わぬとなれば平然とレールから外れる男なのだ。そういう男だからこそ、表裏双方の世界を破綻することなく渡り歩けるのだ。

『拙者が一番に愛でる音は晋助の音でござる。これは譲れぬこと故、似蔵殿にもわかって欲しいでござる』
何が楽しくて忌み嫌う男の惚気を苦痛に喘ぐ病床で聞かねばならぬのか。

『が、安心召されよ。拙者、今のところ似蔵殿の音が二番目に好きでござるv』
『勘弁してくれないかねぇ・・・・・』
見えずとも万斉が無駄にイイ笑顔を浮かべている様が容易に想像できてげんなりした。


衝撃の二番目宣言以来、万斉はそれまで以上に似蔵の病室を訪れては甲斐甲斐しく彼の世話を焼いた。
似蔵にしてみれば、嫌っている相手から一方的で強引な好意を押し付けられているわけだが、任務に失敗して暴走した挙句、一人では用すら足せぬ身と成り果てたとあっては不平不満など言えるはずもなかった。
似蔵の世話をしながら、万斉は実に多くのことを半ば一方的に語った。
音楽のこと。プロデュースしている歌手のこと。季節の移ろいや旬の食べ物のこと。彼の話題は尽きることがなかった。

『アンタ・・・お喋りな男だったんだねぇ』
思わず似蔵がそう漏らすほど、万斉は饒舌であった。

『好きな相手と会話するのは楽しいものでござるよ。似蔵殿は晋助と違うて良い聞き役故、ついつい拙者も口が軽くなる。晋助など、拙者が懸命に話しているというのに、うるせぇだの黙れだのと・・・酷いとは思わぬでござるか?』
そんな愚痴とも惚気ともつかぬことを、いかにも傷ついているといった口調で語るのだ。

『そんな態度を取られると、拙者つい腹が立って手荒に扱ってしまうでござる』
続く言葉で似蔵を鋭く抉りながら、その声はやはりどこか楽しげで似蔵を酷く不快にした。

似蔵の意思に反して、彼と万斉の奇妙に濃密な時間は積み重なっていった。その中で、似蔵は万斉が裕福な武家の長男であることや、赤子の頃から師範代の母が奏でる三味線を聞いて育ったことなどを知った。
そして更に万斉がわからなくなった。情報が増えれば増えるほど理解が遠ざかる。いつしか似蔵は動くこともままならぬ闘病生活の何割かを、河上万斉という男を探ることに費やすようになっていた。



                                      ※



「似蔵殿、邪魔してもかまわぬか?」
戸の外から掛けられ良く通る声に、似蔵は無造作に『ああ』と答える。万斉の来訪を待っていたわけではない。どちらかと言えば顔など会わせたくもない。殊にこんな具合に失くした右腕が疼く日には誰にも会わず一人でいたい。
だが、万斉に来るなと言ったところで無駄であることは先刻承知。似蔵の鼻と同じく異常に発達した耳を持つヘッドフォン男は、既に似蔵の不調に気づいていることだろう。

「似蔵殿・・・あぁまた部屋をこんなに暗くして」
「あいにく俺には関係ないこってねぇ」
「見えずとも、日の光くらい入れねば身体に毒でござるよ」
勝手知ったる何とやらで、万斉は似蔵の返事も聞かずに窓を開け、冬の眩い日差しを薄暗い部屋に招き入れる。

「寒くはござらぬか?」
「問題ないよ」
「しかし火鉢だけというのはいかんせん・・・」
「俺にはこれで充分さね」
「似蔵殿は南国土佐の生まれでござろうに」
似蔵の向かいに座って自らも火鉢に当たりながら、万斉はそっと溜息を吐く。万斉とて火鉢の趣のある仄かな温みが嫌いなわけではない。しかし、似蔵の傷んだ身体に冷えは大敵なのだ。血行の悪さや皮膚の引き攣れによる痛みが出るだけでなく、免疫力そのものが著しく落ちてしまっている身体は容易にウィルスに感染する。

「くれぐれも風邪には注意するでござるよ。クリスマス前に臥せりたくはなかろう?」
「クリスマス・・・ねぇ?」
似蔵は万斉の口にした単語を口の中で繰り返し、軽く首を傾げた。
ここ十数年ですっかり定着した舶来の行事を、似蔵とてまったく知らぬわけではない。その季節に表を歩けば、嫌でも『クリスマス』という単語は耳に入って来たし、やけに陽気な音楽の流れる街にはやたらと人が ―特に若い男女が―溢れかえるのだ。
つまり似蔵にとっての『クリスマス』とは、うるさくて人で込み合う面倒な日でしかなかった。

「その口ぶりではあまり興味はなさそうでござるな」
「興味も何も、そんな外国の祭りは良くわかんないよ」
「クリスマスというのは、異国の宗教のシンボルとなった聖人の誕生日祝いでござる」
万斉に説明されても、やはり似蔵には何故皆がこぞってその日を祝うのかわからなかった。

「あいにく俺は神サマも仏サマも鰯の頭も信じちいないからねぇ。アンタはその外国の神サマとやらを信じてるのかい?」
この風変わりな人斬りならば、あるいは異国の神を信心しているやもしれぬ。ほんのちょっとした好奇心から似蔵は問うた。

「いや、拙者も無宗教でござるよ。もっとも、神を創りルールを定め縋りたがる気持はわからなくもない故、頭から否定はせぬが」
少々拍子抜けもしたが、逆にいかにもこの男らしい論理的な答えだとも思った。

「が、所詮この国のクリスマスは祭りの一つ故、そう難しく考える必要はないでござろう。楽しい雰囲気の中で、思い思われる者同士が贈り物を交換するのは悪いことではなかろう?少なくとも拙者は嫌いではないでござる」
「そうさねぇ、アンタはそういうの好きだろうねぇ」
似蔵は万斉が無類のイベント好きであることを思い出していた。いつぞやも何だかの祭りでまた子と一緒になってチョコレートを作っていた。何故そのままでも充分に食べられるものを、わざわざ手間暇かけて溶かしてからまた固めるのか?やはり似蔵には理解できなかった。

「似蔵殿はイベントは嫌いでござるか?」
「別に好きでも嫌いでもないよ」
事実だ。ただ単に興味がないだけなのだ。

「しかし、自分の誕生日くらいはそれなりに特別でござろう?」
「誕生日ねぇ」
正直それもどうでも良かった。そもそも祝われたこともなければ、一つ年をとることに意義を感じたこともない。ただ一年間生き延びたという事実が転がっているだけだ。

「似蔵殿の誕生日はいつでござるか?」
「えぇと・・・たしか12月23日だったかねぇ?忙しい時期に産まれたもんさ―」
「ちょ・・・っ似蔵殿っ!!!」
「な、なんだい?」
珍しくも狼狽した様子の万斉に肩を掴まれ、似蔵は思わず痛みに顔を顰めた。

「23日って・・・・!今日ではござらぬか?!」
「え?そうなのかい?」
そりゃ知らなかったと素で呟く似蔵に万斉は大きな溜息を吐いた。盲目の上に寝たり起きたりの暮らしでは曜日感覚が鈍るのは致し方ないとはいえ、何も自分の誕生日をきれいさっぱり忘れなくても良いではないか。

「何ということでござろう・・・拙者の計画がっ!」
「い・・・痛いよぉ」
肩を握る手に力が込められ、たまらず似蔵は抗議の声を上げた。身体を損なう以前であれば、単純な腕力で万斉に劣る似蔵ではなかったが、今の似蔵にとって万斉の握力は脅威であった。

「これはかたじけない!・・・大丈夫でござるか?」
慌てて手を離し似蔵の顔を覗き込みながら、万斉はどうしたものかと思案する。
彼はその言葉に偽りなく似蔵を好いていた。初めて会った瞬間から、その魂の奏でる物悲しく不安定で、それでいて凶暴な音に心惹かれた。
不器用な犬、無様な蛾。
彼の生き様を高みから醒めた目で見やりながら、その純粋な一途さを羨ましいとも思った。
物心ついた頃から、万斉は何かに不自由したことがなかった。物質的に恵まれていただけでなく、容姿や才能においても突出していた彼は、必死になって努力することなしに望むものをあらかた掴めた。掴めてしまったのだ。
凡人からすれば、それは羨ましいを飛び超して妬ましい話に他ならないが、当の本人にしてみれば達成感のない日常は何とも刺激に乏しい退屈なものであった。そんな日々はいつしか彼から子供らしい瑞々しさを奪っていった。
人は彼を冷静沈着、客観的判断能力に優れた逸材と評するが、万斉本人が求めていたのは我を忘れるほどの強烈な主観に他ならなかったのだ。

他の誰でもない自分で在りたい。自分になりたい。

持ちすぎた者たる万斉の焦燥を理解する者はいなかった。

鬱積していく感情を、音楽と人斬りで辛うじてごまかしていた時、万斉は高杉と出会った
陳腐な表現ではあるが、それはまさしく運命の出会いであった。それまで色を失くしていた万斉の世界は、高杉という存在によって俄かに鮮烈な色合いを帯びた。漠然とざわめいていたノイズは、一つ一つが一斉に主張し始め耳が潰れそうだった。今ではサングラスとヘッドフォンは万斉にとってなくてはならぬ保護フィルターとなっている。

しかし、それれでもなお万斉の頭は常にどこか冷静で、彼に愚かに徹することを許さなかった。
万斉の目に映る岡田似蔵は歪な魅力に溢れていた。自分自身に価値を見出さず執着もない。それでいて人斬りとしての矜持だけは高い。愚かしくも純粋一途な己の主観を、この世の真理と信じて疑わぬ心の強さを持ちながら、根っこの部分で無価値と思い込んでいる己に自信がない。
所々は高杉と酷似していながら、根底に流れるものはまるで異なる似蔵の音。その苦しみに満ち溢れた音を万斉は愛しいと感じた。

「それにしても酷いではござらぬか」
「何が、だい?」
拗ねた口調で己を詰る万斉に、似蔵は眉間の皺を深くする。自分のどうでも良い誕生日を忘れていたからといって、万斉に非難される筋合いはこれっぽちもないはずだ。やはりこの男はわけがわからない。

「だって・・・拙者、似蔵殿の誕生日をプロデュースしたかったんだもの」
「・・・・・・・アンタ、気持悪いよ」
自分と変わらぬ体格の人斬りの物言いに、似蔵は思わず真正直な感想を漏らした。この男は高杉の前でもこうなのだろうかと思うと、何か非常に複雑な気分になる。

「あぁもうっ!こうなったら今からでも準備するでござるよ!似蔵どのっ、何か欲しいものはないでござるか?」
「そんなこと急に言われても・・・・別にないよ」
似蔵は別段遠慮しているわけではなかった。ただ単に真実思いつかないのだ。そもそもこれまでの人生において、他人から贈り物を貰ったことなどほとんどなかったし、ましてやあれが欲しいこれが欲しいと強請ったことなど記憶にある限り一度としてない。子供の頃空腹のあまり母親に食事をせがんだこともあるが、そんなものはないと箒で滅茶苦茶に打たれてからは、空腹すらも口にすることはなくなっていた。

「何もないでござるか?」
「ないねぇ」
「本当に?」
「しつこいよ」
何度聞かれてもないものはないのだ。仮にあったとしても、それをこの羽振りの良い人斬り音楽屋に強請るつもりなど毛頭なかった。蛾にも野良犬にもそのくらいの意地はある。

「ふむ・・・似蔵殿は欲がないでござるなぁ。拙者てっきり『あの人』とでも言われるかと思うておったのだが」
「な・・・っ!?っ」
似蔵は驚きのあまりうっかり火鉢の縁に触れ、慌てて手を離した。どうやら火傷はせずに済んだようだ。

「アンタ・・・・何考えてるんだい?」
「何とは心外な・先ほどから申しておろう?拙者はただ似蔵殿が喜びう誕生日プレゼントを贈りたいだけでござるよ」
「贈るって・・・あの人はモノじゃぁないだろう?あの人の意思はどうなるんだい?」
「ふむ・・・説得して駄目ならば、痺れ薬かあるいはいっそ媚薬でも盛るか打つか」
「おぃぃぃぃぃっっっっ!!!!」
それは犯罪だ。趣味と実益を兼ねた人斬りを生業としている己が言えた義理ではなかろうが、それはどう考えても悪質な性犯罪でしかない。

「あ・・・アンタは!仮にも・・・・その、あの人の恋人なんだろう?!なのにどうしてそんな酷いコトが言えるんだい?!」
「恋人でござるか〜良き響きでござるなぁv似蔵どのにかように認識されているとは拙者嬉しいでござるよ」
「今俺が問題にしてるのはそこじゃぁないっ!」
「拙者何か悪いことを言ったでござるか?」

駄目だ、人類と会話している気がしない。

似蔵はまたもや万斉に対して強烈な敗北感を覚えたが、何故かまったくもって勝ちたいという気が起きなかった。

「まぁ冗談はさておき」
「冗談だったのかいぃぃ!」
「当然でござる。晋助は拙者のもの故、他の者が抱くのはまかりならぬ。そして似蔵殿もじき拙者のものにする予定ゆえ、いかに晋助であっても初物は譲れぬでござる」
勝手だ。万斉の言い分は恐ろしく身勝手だ。
何故こうも手前勝手な話を堂々とできるのか?この男には気まずいとか申し訳ないとか後ろめたいといった感情がないのだろうか?
似蔵は天人が嫌いだったが、万斉はある意味天人以上に意味がわからないと思った。

「晋助はやれぬが、そうでござるな・・・・右腕など欲しくはないでござるか?」
「―っっ」
似蔵は己の顔が瞬時にして強張るのを感じた。
失くした利き腕、欲しくないはずがない。盲目の人斬りにとって、利き腕を失うというハンデは計り知れないのだ。というか、人を斬るどころか日常の暮らしにすらも酷く不自由しているというのが実情だ。
だが、いかに望んだところで失くした腕が生えてくるはずもない。骨折や裂傷創傷とはワケが違うのだ。絶対的に不可逆な喪失の重さに、似蔵は紅桜を取り除かれた初めて気づいた。
もう以前のようには剣を振るえない。あの人の役に立てない。そうした観念的な絶望感とは別に、当たり前にしていたことが出来なくなっている現実にぶつかるたびに似蔵の心は悲鳴を上げた。

「それも、冗談・・・かい?」
搾り出した似蔵の声は震えていた。人斬りである己らに人並みの常識や倫理など望むべくもない。そんなことは誰に言われずとも知っている。だが、これはあまりにも―

「悪趣味だよ・・・っ」
瞼の裏がカッと熱くなるのを懸命に堪える。同業者の心無い言葉如きに逐一傷ついて涙を流す人斬りなどお笑い種だ。

「え・・・ちょ・・・似蔵殿?!」
思いがけぬ似蔵の反応に、今度は万斉が面食らった。

「何か勘違いしておらぬか?拙者はただ・・・・そろそろ義手をと」
「・・・え?」
「え・・・って」
二人の間に沈黙が流れた。

「似蔵殿・・・今日の似蔵殿は酷いでござるよ。いくら拙者でもかように悪質な冗談は口にせぬ。言って良いこと悪いことの別くらいはわきまえておるというに、些か心外でござる」
「・・・・・ごめんよぉ」
万斉の切り出すタイミングに相当問題があったにも関わらず、似蔵は素直に頭を下げた。似蔵自身にも、ままならぬ身体のために無駄に僻みっぽくなっているという苦い自覚はあるのだ。

「右腕の傷跡も大分落ち着いてきたようでござるし、医師と相談しながらじょじょに慣らしてゆけば、ほぼ元通りに動かせるようになると聞いておるでござる」
「そう・・・なのかい?」
天人嫌いが祟って最新技術などとは縁遠い似蔵には信じがたいことであったが、万斉の言葉気慰めなどではない事実であった。実際、エイリアンハンターとして宇宙的に有名な海坊主の片腕が義手であることは、その筋の人間にはそこそこ知られている話だ。

「義手の他に、何か拙者にして欲しいことはござらんか?今からではろくなパーティーも開けぬ故、代わりに何か一つ似蔵殿の言うことを聞き申す。あ、晋助と別れろとか、似蔵殿に近づくなとか音楽止めろとかはナシでござるよ?」
言うことを聞くと言いながら、しっかり釘を刺すあたりが何とも抜け目のないこの男らしくて似蔵は苦笑した。

「特に―」
「何か考えるでござる」
「う〜ん・・・・・」
言われて真剣に考える似蔵は、実はかなり真面目な男なのかもしれない。考えて考えて、漸く似蔵は言うべきことを決めた。

「して欲しいことってぇよりは、答えて欲しいことが幾つかあるんだけどねぇ・・・質問でもいいかい?」
「ほう?拙者に答えられることならばかまわぬでござるよ?」
似蔵の意外な申し出に万斉ははっきりと興味を示した。駆け引きの下手な似蔵が、一体何を聞きたがるのか?それは万斉ならずとも興味深いことだろう。

「アンタぁ・・・何で人斬りになんてなったんだい?」
「これはまたのっけから難しいことを」
シンプルなようでいて、自らの在り様に関する根源的な質問はなかなかに奥が深い。

「答えたくなければ無理にとは・・・」
「否。約束ゆえ拒みはせぬ。しかしちと説明が難しゅうて・・・・一言で言うならば、この世界に溢れる醜く不快な騒音を手っ取り早く消したかったからでござろうか」
自らの言葉にう〜んと悩みながら、万斉は考え考え言葉を選んで語る。

「武家の嫡子殿がそんな理由で人斬りかい?」
似蔵は呆れた。何不自由のないあらゆる面において優秀な若者が、子供の我侭のような理由で裏社会で恐れられる人斬りになったなど、本人の口から聞いても信じられない。

「善良で平凡で退屈な両親。それなりに自由気ままな生活。格別不満があったわけではござらぬが、何かが、嫌な音のする何かが自分の中で蠢き続けるのでござるよ。人を斬ったところでその音は消えなんだが、それでも斬らずにおられなんだ。あの頃の拙者は人を斬り、三味線を掻き鳴らしようやく眠れたでござる」
「贅沢な話だねぇ・・・」
ことあるごとに息子に手を上げる酒乱の父親を叩き殺し、生まれた村から逃げ出し、食うにも困って盗み殺し奪い、その凶剣を見込まれ捨石の人斬りにされた似蔵とは始まりからして違うのだ。

「いまもその音はするのかい?」
「するでござるよ。なれど、晋助と会ってからは全てのものが鮮明になったでござる。色も音も味すらも」
「わかるよ」
高杉には人一人の世界を変えるだけの力があるのだ。似蔵はそれを身をもって知っている。

「今も人斬りをしてここにいるのは、あの人のためかい?」
「それは違うでござる」
「違うのかい?」
意外だった。似蔵の見る限り、万斉は晋助にそうとう惚れているはずなのだ。彼が戯れめかして先に見せた独占欲も、おそらくは8割方本気であったに違いない。

「拙者は晋助に惚れておる。愛していると言っても良いほどに。なれど、晋助そのものを愛しているのか、晋助の奏でる音を愛しているのか、まだ自分でも良くわからないのでござる。そもそも、晋助と晋助の音は分けて考えるべきものなのかすらもわからぬ。似蔵殿はどう思うでござるか?」
「え・・・?そ、そんな難しいこと、俺にはわかんないよ」
唐突に話を振られ似蔵は混乱した。元来似蔵はこうした観念的・哲学的な思想とは無縁なのだ。彼の生きてきた環境の厳しさを思えば、己の内面世界で言葉遊びなどしている余裕がなかったことは想像に難くない。

「拙者が今も人斬りをするのは、厳密に言ってその行為が晋助のためになるからだはないでござる。ただその行為を為す限り、拙者は晋助の側近くにおられる。つまり拙者が人を斬るのは、晋助のためではなく晋助の側にいたい己のためでござる」
それは偽悪的ともとれる万斉の冷静な自己認識であった。彼は己を卑下もしなければ正当化もしない。人並み外れて豊かな感受性を持つ一方で、人並み外れて冷静な観察力をも持っているのが河上万斉なのだ。

「アンタは高杉さんをどうしたんだい?」
高杉を止めたいのか。高杉と共に行き着く果てまで行きたいのか。
殺したいのか。殺されたいのか。刺し違えたいのか。
いずれにせよ人斬りと過激派テロリストに穏やかな終着点などありえまい。

「どうもしないでござる。晋助は晋助、ありのままが一番」
嘘か真か、万斉は平然と嘯いた。

「ならアンタはどうしたいんだい?」
この何からも自由な男は、何を夢見て生きているのか?

「この世界の終わりを晋助の傍らで眺め、孤独の玉座に座った晋助を抱きたいでござる」
迷わず言い切った。

「・・・最後に一つ。ああの人に真っ先に目をつけたお目の高いアンタが、何を好き好んで俺みたいなモンにちょっかいかけるんだい?」
ずっと気になっていたことだ。露骨な敵意を向ける似蔵に怯むことなく近づき、死を待つばかりの身をお節介にも引き上げただけでなく、食事や着替えの世話まで焼く理由が知りたい。

「それは似蔵殿が似蔵殿だからでござる」
「わかんないよ」
簡単なことだと言う万斉の言葉の意味が似蔵にはわからなかった。似蔵が似蔵であることに何ら意義などないというのに。

「似蔵殿が可愛い人だからでござる」
「・・・・・・・・わかんないってば」
これだけ踏み込んだ質問を次々にしていながら、結局似蔵には万斉が徹底的に理解不能な男だということしかわからなかった。

「ふむ・・・わからぬでごござるか。鏡を見れぬのが実に惜しいでござる」
「俺は生まれたときから見えてないわけじゃぁないよ」
似蔵の記憶が正しければ、己の姿かたちがギリギリ可愛いと言えなくもなかったのはせいぜい12歳までだ。やはり音楽屋などという特殊な職種の人間は他と異なる感性を持っているのだろうか。

「アンタ、変わってるってよく言われないかい?」
「おや?質問は終わりではなかったでござるか?」
「あ・・・・」
「かまわんでござるよ。似蔵殿が拙者に興味を持ってくれるのは喜ばしいことでござる」
「どうしてだい?」
逆の立場で考えたならば、いい年をして『何で?』『どうして?』を連発する男など鬱陶しいことこの上もないはずである。

「愛情の反対が憎しみではなく無関心だと定義するならば、関心を持つのは好意の始まりに他ならぬ故」
「アンタの言うことは一々小難しくていけないねぇ。学のない俺にはサッパリだよ」
哲学的というか観念的というか、独自のロジックで感情に理屈を添えるような万斉の言葉は似蔵にはまだ難しかった。

(あの人ならこの男の言っていることを理解だきるのかねぇ)
似蔵の脳裏を独特の含み笑いがよぎった。己の理解できぬ領域の会話を、しどけない姿のまま閨で交わす二人。その想像は似蔵を息苦しくさせた。

「晋助と同じことを言う。拙者格別難しい話をしているわけではないというに」
「難しいよ」
やれやれと溜息をつく万斉に、現金にも似蔵は安堵した。身体を繋いではいても、完璧に分かり合える二人だけの世界を持っているわけではないのだ。

「もう質問は終わりでござるか?」
「ああ・・・煩くして悪かったねぇ」
「かまわぬというに・・・そうだ似蔵殿。誕生日の記念に拙者に触れてはみぬか?」
「触れる・・・のかい?」
途端に似蔵は警戒を露にした。万斉の性癖を知っていれば当然の反応だ。

「触れると言っても、顔に、でござるよ?や、もちろん他もとお望みならば拙者は一向構わぬでござるが」
「遠慮するよ」
この場でズボンを下ろしかねない万斉を慌てて静止する。誕生日に意味も意義もないが、だからといってわざわざそんな日を選んで同業者の一物になど触りたくはない。

「似蔵殿。これが拙者の素顔でござる」
トレードマークのヘッドフォントサングラスを外し、万斉は似蔵の隻腕をとって己の顔へと導いた。

額・目・鼻・唇・頬・顎。
万斉の男らしい顔を指で辿りながら、似蔵は頭の中で似顔絵を描いていく。

(こいつは大した男っぷりだねぇ)
脳内に描き終えた万斉の似顔絵を眺めやり、似蔵はなるほどと頷いた。

「いい男でござろう?」
「そうだねぇ」
思わず素直に肯定する似蔵に、万斉は噴いた。

「笑うこたぁないじゃないかね」
「いや、すまなんだ。あんまり似蔵殿が素直で―」
弁解しながら更に噴出す万斉に、似蔵は呆れた。

「アンタ、思ったより笑い上戸だねぇ」
「そういう似蔵どのは素直すぎるでござるよ」
まったく、なんと可愛らしい年上の人なのだろ。やはり似蔵は面白いと万斉は改めて認識した。

「何はともあれ、ハッピー・バースデーでござるよ似蔵殿」
ようやく笑いを収めると、万斉はおもむろに似蔵の耳元で囁き、そして―

「な?!」
似蔵のこけた頬に触れるだけの接吻を一つ。

「来年はもそっと親密な接吻をしたいでござる」
問題発言をサラリとかまし、驚きに固まってしまった似蔵をおいて出て行ってしまった。

「俺は・・・・・わかんないよ」
小難しい万斉の言葉。己に寄せられる感情。万斉という人間そのもの。
憎み嫌っていたはずの男が、いつしかそれだけではなくなっていたこと。
彼に触れることを拒まなかった己自身。触れられて尚 ―酷く驚きはしたが― 嫌悪や怒りが湧かないこと。
もはや似蔵には何もかもがわからなくなっていた。
そのくせ奇妙に心地よい気分になっているのも不思議だった。

「誕生日・・・ねぇ」
12月23日。年末の一大イベントの前日が、似蔵にとって少しだけ特別な意味を持った。

FIN





間に合わなかった似蔵さん誕生日ss。思いがけず長くなりました。そして万斉が出張りました。
あの・・・・・・おまけとか書きたいです・・・・・年賀交換の絵も、原稿も簿記の勉強も(嗚呼嫌だ)あるのに・・・・・・・