ジェレミア・ゴッドバルトは、平凡と言えば平凡、非凡と言えばそれなりに非凡な少年であった。名門ゴッドバルト家の嫡子として生を受けた彼は、典型的な貴族そのものであり、家名を誇り、国を愛し、皇帝と皇族に忠義を誓っていた。
それは帝国臣民、殊に貴族の子弟ならば物心付く前から叩き込まれる教育であり、当然ジェレミアも両親や周囲の大人たちからそうあるべしと躾けられて育った。
その結果、十歳になったジェレミアの幼い身体には、ブリタニアと皇族への『忠義』がまるで皮膚のようにぴったりと定着していた。
幼いながらにゴッドバルト家の次期当主としての自覚を持つ彼は、常に背伸びをする子供らしくない、しかしある意味においてはすこぶる子供らしい子供でもあった。
『ジェレミア君は素晴らしい。まだこんなに小さいのに、実にしっかりとして。優秀な跡取りがおられて羨ましい』 『何てしっかりとしたお子でしょう。さぞ自慢のご子息でしょうね』
彼を見た大人たちは、礼儀正しくハキハキと利発な受け答えをする彼を口を揃えて誉めそやし、彼の両親を晴れがましい気持ちにさせた。貴族であれ平民であれ、我が子を褒められて嬉しくない親はいないのだ。
しかし、ある日彼が真顔で口にした言葉に、両親は色を失った。
「父上、母上。私は今年で十歳になります。どうか、私を幼年学校に行かせて下さい」
真摯な眼差しを向けてくる一人息子に、父は吸いかけのパイプを半端な位置で止め、母は息を飲んだ。
「何故?」
「私は軍人になりたいのです」
「それはかまわんが・・・何も幼年学校に入らなくとも良いのではないか?」
ゴッドバルト家の男は、代々に渡り一度は軍務に付く者が多い。故にジェレミアが軍人を志望すること自体は何ら意外ではない。むしろ男ならば一度は軍隊に入っておけと推奨したいくらいだ。
しかし、本家直系やそれに近い家の男子で、戦死せずに生涯軍人を続けた者は稀だ。ほとんどの者が五〜十年で退役して家を継ぎ、貴族としての務めを果たす。
家を守りながら妻を娶り子を成して平穏に暮らす者。投資事業で巨額の富を築く才覚溢れる者。生き方は様々であるが、とにもかくにも命の危機に晒され続ける物好きは少ない。
「いいえ。より優れた軍人となり、ブリタニアと皇帝陛下の御ために忠義を果たし、名誉に殉じるためには少しでも早く軍に入るべきです」
「あなたは・・・」
息子の決意の固さに、母の顔から血の気が引いた。
ジェレミアの言葉は幼さ故の純粋な愛国心に満ちている。それは彼女ら両親の躾の賜物であり、この国においては非常に正しいことだ。
しかし――
(この子は、行き過ぎている)
基本的にまじめで疑うことを知らぬジェレミアの思いは、常に苛烈なまでに一本気だ。 (名誉に殉じる・・・美しい言葉だわ。でも――) ジェレミアはゴッドバルト家の唯一の男子なのだ。嫡子である彼には、家督相続の権利と義務がある。
(殉じる?嫌よ・・・・嫌っ)
忠義・皇帝・皇族・ブリタニア・家督・名誉。
それらは皆大切なものだ。
けれども。
「死ぬために生きるなんて、私は――っ!この母はっ!赦さない!絶対に赦さないっ!」
我が子の命よりも重いものが、一体この世に幾つあるだろうか?
戦った末の覚悟の死ならば諦めも付く。頑張った良くやったと褒めてもやれる。しかし、初めから『名誉の死』をゴールと定めて生きる我が子の姿など見たくない。それが親のエゴであったとしても、嫌なものは嫌なのだ。
「あ・・・・あの・・・」
母の彫りの深い顔に浮かんだ怒りの形相に、ジェレミアは僅かにたじろいだ。
自分と良く似た ―実際にはジェレミアが母に似ているのだが― 癖の強い翠の髪を持つ母は、率直に言って怒らせると父親よりも怖い。彼女は様々な意味で豪快かつ思い込みと気性がすこぶる激しいのだ。
「母上?その・・・私は・・・・」
決して自殺願望があるわけではない。ただ一帝国臣民としての、そしてゴッドバルト家の嫡子としての決意を語っただけなのだ。
怒りと哀しみと悔しさの入り混じった表情、そんなものを美しい母の顔に浮かばせたかったわけではない。
「私は・・・」
国に報いるは忠義。なれど、母を悲しませるは不孝。親から生まれ、育まれている身である以上、父母を悲しませるのは人として正しい道ではない。
「コルチェスターに行きなさい」
困惑する息子と眦を吊り上げた妻の間を分けるように、それまで静かに二人のやり取りを聞いていた父・ジェフリーが良く響く声で厳かに告げた。
「父上、しかし――」
「コルチェスターはとても良い、立派な学校だ。私も私の父も通った」
「それは、存じております」
ジェレミアの父ジェフリー・ゴッドバルトも、祖父であるジークフリート・ゴッドバルトも、曾祖父もそのまた前も・・・ゴッドバルト家の男たちは皆コルチェスターの寮で青春を送ってきたのだ。
「おまえは早く軍人になりたいと言ったな?」
「はい」
穏かな声で語りかける父に、ジェレミアは決意の固さを示すかのように大きく頷く。
「何も私は、軍人になることそのものをいけないと言っているわけではないのだよ。国のために働きたいというおまえの心がけは、とても立派だ。父親として私は誇りに思うよ」
ジェフリーはこういう時決して頭ごなしに叱りつけたり、感情的に持論をがなりたてたりはしない。ジェレミアが明らかに間違っているならば、親として厳しい態度に出ることに躊躇いはないが、この場合彼の息子は何も間違っておらず、むしろ帝国臣民として模範的な思想を持っているのだ。
(何故これはこうも父に似てしまったのか・・・)
パイプの煙を吐き出すついでに溜息一つ。
ジェフリーの愛息ジェレミアの気性は、自分よりも祖父であるジークフリートと酷似している。つまり、手がつけられぬ程に生真面目・一本気・頑固なのだ。
ここで父親である自分が息子の『忠義』を否定すれば、適当という言葉の本来の意味をまだ知らぬジェレミアは確実に迷う。迷い傷ついた挙句、可笑しな方向に全力で走り出さないとも限らない。
「軍人になりたいのならば、コルチェスターの軍事教練課程に進むと良い」
「軍事・・・教練課程?」
「ん?なんだおまえは・・・コルチェスターに軍事教練クラスがあることも知らずに幼年学校を志望していたのか?」
「え・・・あ・・はい」
戸惑った表情を見せる息子に、ジェフリーはやれやれと首を振る。この自ら定めた一本の道しか見えぬ子供は、両親の反対を覚悟で幼年学校を志した瞬間から、それ以外の選択肢など視界の隅にも入れなかったのだろう。
一つのことに集中できるのは素晴らしい資質だ。しかし、それに捕らわれるあまり視野が狭くなってしまうのは些か問題ではあるまいか?
(将来詐欺に引っ掛からねばよいのだが・・・)
親として少しばかり心配にもなる。
「あの・・・コルチェスターの軍事教練課程?とはどのようなものなのでしょうか?」
「ふむ。私の在学中にはまだ存在しなかったカリキュラムなのだが――私が知る限り、幼年学校と同等以上の教育を受けられることは確かだ」
息子の興味を最大限惹きつける間をとって、ジェフリーは母校の新設カリキュラムについて語り始めた。
コルチェスターは創設百五十年を誇る古き良き学び舎だ。伝統を重んじる校風故、やたらと新しいシステムを導入することはないものの、時代とニーズに合わせて幾つかの改革も行ってきた。近年 ―といっても四十年程前の話だが―では女子の受け入れ、そして先にジェフリーが上げた軍事教練課程の設置が挙げられる。
些か脱線するが、ここでブリタニアにおける軍人になるためのルートを紹介しておこう。道は大きく分けて以下に挙げる三つである。
第一に一般公募に応じる新兵。これはほぼ平民の男子に限られ、余程特殊な事情でもなければ貴族の子女には無縁の話だ。身体検査をパスした健全な十五歳以上の人間ならば、基本的にいつでも誰でもなれる。
第二に、通常教育を終えた後、二年間の高等士官学校を卒業しての従軍。この場合、初めから下士官としての処遇を受けられる。経済的に余裕のある平民や、軍人志望の貴族の大半がこのルートで軍に入る。ゴッドバルト家の男たちも例外ではない。
第三に、幼年学校から士官学校を経ての入隊。
十歳〜十四歳までを幼年学校で基礎を叩き込まれて過ごし、一五〜一八歳までを士官学校で戦術・戦略論、KMFの操縦及びメカニックの基礎などを学んで過ごす。さらに高度な技術と知識を求めるものは上級士官学校へと進み、軍人としてのエリートコースを歩むのだ。このルートを選ぶのは、大概が裕福かつ愛国的な平民であり、貴族には少ない。
帝国貴族の多くは、愛国心と同時に風流と雅を愛でる気質を持っている。そんな彼らにとって、少年時代から軍事一色で育て上げられた人間の、ある種の粗野さは好ましいものではなく、そもそも平民風情の子供と我が子が机を並べて学ぶなどとんでもない!という、旧い考えの貴族が圧倒的に多いのだ。
名門の出でありながら、幼年学校から上級士官学校、前線に次ぐ前線で戦い続けるアンドレアス・ダールトン卿はかなりのレア・ケースと言えよう。
話を元に戻そう。
コルチェスターおける軍事教練課程とは、平たく言って貴族子女のためだけに開かれたプレ・士官学校である。 我が子を平民の子供と同じ幼年学校に入れることには抵抗がある。しかし、どうせ軍人になるのならば、一族の名に恥じぬ武功を上げ、一軍人としての栄達をも遂げて欲しい。
コルチェスター軍事教練課程クラスは、そうした親の貪欲な希望と、皇帝シャルルの武断政治の下、優秀な武官を数多輩出して更なる名誉をコルチェスターにという学校側の利害が一致して創設されたのだ。
もっとも、創設の動機こそ若干不純であるものの、そこはさすがの名門校。授業のクオリティは極めて高く、殊に戦場の花形たるKMF関連の授業と設備は幼年学校に勝るとも劣らない。
生きていくことに不自由のない貴族が求めるものとは何か?
百五十年も貴族を相手に学校を運営していれば、答えは自ずから出るというものだ。
「一年〜四年生までで一般課程を修め、それ以降は試験と面接でそれぞれの進路が決まる。おまえならば努力次第で望むコースに進めると思うのだが?・・・しかし、まぁコルチェスターはレベルが高いから――」
「行きます!行って、私はいつの日かナイト・オブ・ワンになってみせます!」
「それは頼もしいことだ。ブリタニアのために、そして我がゴッドバルト家と我が母校コルチェスターの名誉のためにしっかり励みなさい」
良く言えば素直。悪く言えば単純。そんな我が子をジェフリーは愛しく思う。
賢く立ち回ることの出来ぬ子だ。恐らくはその性分故に無駄に苦労もするだろう。しかし、小賢しいだけの人間には決して手に入れることの出来ぬ何かを掴むに違いない。
「頑張りなさい。私はいつでも応援しているよ」
愛する息子に心からの言葉を送った。
※
「おまえ、結局コルチェスターに行くのか?」
母と共に屋敷の外にでたジェレミアに、不躾に声を掛けてくる者があった。
「そうだ。それから、年上をおまえ呼ばわりするなと何度言わせるつもりだ?私はおまえよりも三つも年上だぞ」
十歳のジェレミアよりもなお幼い声の主は、キューエル・ソレイシィ。ゴッドバルト家の隣人であるソレイシィ家の嫡男であった。
「うるさい」
ジェレミアの説教を一蹴し、何が気に入らぬのか、キューエルは剣呑な目つきで三つ年上の少年を睨んでいる。
「うるさいとは何だうるさいとは!」
母の手前あまり声を荒げるようなことはしたくなかったが、年下の子供にこのような態度を取られて黙っていられるジェレミアではなかった。
「おまえみたいな奴でも、コルチェスターに入れるんだな」
フンと鼻で笑う幼い顔が、なまじ整っているだけに酷く子憎たらしい。
色白の肌に鳶色の髪、良く晴れた青空の色を宿す瞳を持つキューエルは、黙ってさえいれば非常に可愛らしい子供だ。しかし、どうしたわけか彼はジェレミアを見るたびに憎まれ口を叩くのだ。
「当然だ。おまえの方こそ、目上にそんな態度ばかり取っていると、どこの学校にも入れないぞ」
「大きなお世話だヒヨコ頭」
「この髪は母上譲りだ!悪く言うと承知しないぞ!」
母譲りの髪を侮辱されたジェレミアの顔に血が上った。それでも年下の子供に手を上げないのは、ジェレミアが幼くとも紳士たれとの矜持を持っているからに他ならない。
「ヒヨコが不服ならタマネギだ。ミドリタマネギ、カビタマネギ
「・・・・・っっっ」
ジェレミアの拳が堅く握られた。幼い紳士の堪忍袋の緒はそう長くも丈夫でもない。
「お久しぶり。相変わらず可愛いのね、小さくて」
ジェレミアの拳が振り上げられる寸前、キューエルの顔は豊かな胸に押し付けられた。
「ジェレミアが家を離れてしまうのが寂しいのでしょう?」
「あ・・・アリエータ・・・様・・・」
キューエルの顔が瞬時に耳まで赤くなった。
たった三つ年上というだけで、何かと偉そうなジェレミアは嫌いだ。けれども、彼の母アリエータのことは・・・結構好き、というかかなり好き、ぶっちゃけ初恋の人だったりするのだ。
(どうしてこんなキレイな人から、あんなカビタマネギが出て来るんだよ。ジェレミアのくせに生意気だ)
アリエータを見る度に、キューエルの幼い心には様々な感情が押し寄せる。ジェレミアにしてみれば迷惑な話だが、横恋慕などというものは大体がそのようなものである。
「べ・・・・別に・・・ジェレミアなんかどうでもいいです」
押し付けられた乳房に名残惜しさを感じながら、キューエルはアリエータから目を反らす。
「あら、そうなの?私は貴方たちは仲の良いお友達だと思っていたのだけれど?」
「そ、それは・・・たまたま家が近所だっただけで・・・それにアリエータ様もいるし・・・」
最後の一言は消え入るような声で告げる。
アリエータ様がいなければ、隣になど行くものか。ジェレミアは嫌いだ。偉そうで生意気で、いつだって自分こそが正義であるかのように自身満々で。
(大嫌いだ)
豊かで癖の強い翠色の髪。アリエータとの血の繋がりを如実に語るそれが、キューエルは何より気に喰わない。
「おい!いつまでも私の母上にくっつくな!」
反抗的な態度を取りながら、アリエータから離れようとしないキューエルにジェレミアが声を荒げた。
(私の母上に馴れ馴れしくするな!)
非礼であると憤慨しながら、ジェレミアは羨ましいという気持ちを抑え切れなかった。
八歳の誕生日を迎えてからというもの、ジェレミアはそれまでのように母に甘えなくなった。誰に禁じられたわけでも咎められたわけでもない。ただ、ゴッドバルト家の男子たる者、いつまでも母親に甘えていてはみっともないと自覚したのだ。
女であるところの母は、もはや甘える対象であってはならない。これからは男子たる己が守るべきである。
ジェレミアは自分で決めたルールを、その一途な気性のままに頑なに守った。そしてそれを守れる己を密かに誇ってもいた。
けれども、それとは別にジェレミアはまだ十歳になったばかりの子供に過ぎないのだ。
良い香りのする髪。柔らかな手。名を呼ぶ甘い声。抱きしめられた暖かな胸。
世の中の子供が皆そうであるように、ジェレミアもまた深く母を愛し、彼女の持つ大きな『母性』をまだまだ欲していた。
(この私が、母上の子供である私が我慢しているのに!)
我が物顔で母に抱かれているキューエルに、嫉妬と羨望がない交ぜになった怒りが湧いた。
「べ、別にくっついてなんかいない!」
キューエルにはキューエルの矜持というものがある。どれほどアリエータに惹かれていても、夫と子供のある女が好きだなどと、断じて認めることは出来ない。それがジェレミアの母親ならば尚更である。
「離して下さい!」
迷惑だと言わんばかりに、本心では未練のあるアリエータの暖かな身体を突き放す。
(・・・・・!?)
ふと感じた違和感に、キューエルはアリエータを凝視した。
暖かい。否、暖かすぎるのだ。まるで微熱でもあるかのように、アリエータの身体は暖かい。
(この暖かさは・・・・)
キューエルはその温もりに覚えがあった。
「アリエータ・・・様?」
今から一年と少し前、彼の母親も同じ温もりをその身に宿してはいなかっただろうか?
「あら?気がついたの?」
「あの・・・」
「ふふ、あなたは勘が良いのね」
「僕の母も少し前に・・・・」
キューエルに妹が出来たのは、一年と少し前だ。少しずつ膨らんでゆく母の腹に頬を寄せる度に、キューエルは自分に弟妹ができる喜びと、生命の神秘を感じたものだ。
「・・・・おめでとう、ございます」
礼儀に則った挨拶をする自分の声が、何故だか酷く空虚で寒々しい。
「母上?何のお話ですか?」
「・・・おまえ、気がついてないのか?」
二人の会話から完全に取り残され、怪訝な顔をしているジェレミアに、キューエルは軽く目を見開いた。
前々から鈍い鈍いとは思っていたが、まさかこれほど愚鈍であるとは思わなかった。
「信じられない」
「だから何だというのだ?!」
小馬鹿にされたことを察し、ジェレミアの眉が急角度に釣り上がる。
「おまえの母上に聞けよ馬鹿!」
「な・・・おい!」
人を馬鹿呼ばわりして走り去るキューエルの背中を、ジェレミアは呆然と見送った。
(泣いて・・・いた?)
ターコイズブルーの瞳に光るものが見えたのは気のせいだろうか?
(しかし、何故あいつが泣く?)
絡まれたのはジェレミアであってキューエルではない。母を横取りされて悔しい思いをしたのも、わけも分からぬままに馬鹿と罵られたのも、全てキューエルではなくジェレミアなのだ。
「意味がわからない」
「難しい年頃なのよ」
憮然とした顔で呟く息子にアリエータは好意的な苦笑を向ける。ジェレミアは決して暗愚な性質ではなかったが、ある種の事柄に対してはどうしようもなく鈍い上にトンチンカンなのだ。
(こういう所、あの人にそっくりだわ)
実直な夫の顔を思い描き、アリエータはクスリと声を立てて少女のように笑った。
「母上?」
「貴方、好きな女の子はいるの?」
「え?!」
予期せぬ質問にジェレミアの声が裏返った。
「いつかお嫁さんにしたい女の子はいないのかしら?」
「は・・・母上!私はそのように破廉恥なことは!」
「あら?女の子を好きになるのは破廉恥なことかしら?」
耳まで赤くして俯く息子の反応は余りにも予想通り過ぎて、ついからかいたくなってくる。
「それは・・・」
「困ったわねぇ。ゴッドバルト家の嫡子がそんな考えでは、子孫が絶えて家がなくなってしまうわ」
お家の断絶を持ち出され、ジェレミアの顔色が変わった。何があってもゴッドバルト家だけは守らなければならない。国に忠義を尽くすことが帝国臣民としての使命であるならば、家を守り先祖から受け継ぐ尊い血を絶やさぬことが嫡子としての己の使命なのだ。
「母上!その時が来れば、私は全力で家を存続させます!どうかご心配なさらずに、心安くお過ごし下さい!」
恋をする自分を想像することは出来なかったが、しかるべき貴族の令嬢と結ばれ数人の子を持つ自分を想像することは出来る。それは十歳の子供の感性としてかなりズレてはいたが、ジェレミアの『貴族』としての意識の高さの表れでもあった。彼にとって『家』とは半ば『公』であり、完全なる『私』である『個人』に勝るのだ。
「それでは、貴方はゴッドバルト家のためだけに家族を持つのかしら?」
「いけないでしょうか?」
母の目からいつしか揶揄の色が消えていることにジェレミアは気づかない。
「いいえ。ただそれは・・・とても寂しいことだと思うわ」
「寂しい?」
悲しげに語る母の言葉を繰り返す。
寂しい。
何故母はこんなにも哀しい顔でそんな言葉を口にするのか?
自分が嫡子としての義務を果たすことは、一族の、ひいては母の喜びではないのか?
(わからない・・・)
キューエルの心。母の心。
キューエルの心など知ったことではないが、母の心が分からぬのは子として大問題である。
「私はゴッドバルト家の嫡子です。その私が、家の存続とますますの繁栄を願うことは、正しい在り方ではないのでしょうか?」
母に尋ねながら、ジェレミアの胸には漠然とした不安が油染みのように広がっていく。自分が正しいと信じてきた『信念』とも言うべき価値観を、愛する母に否定されたならば、何を指標にして進めば良いのか?
「私は、間違っているのですか?」
膨らんでゆく不安は、もはや息苦しさに変わっていた。
自分が正しいと信じている時のジェレミアは強い。迷わず、憶さず、後ろを振り返らない。しかし、彼のその強さは諸刃の剣でもあった。一度『信念』という足元が崩れれば、そこに拠っていた『強さ』も同時に瓦解する。
これが赤の他人からの否定であれば、子供とはいえ大貴族としての驕慢さを充分に持つジェレミアは、『下々の者に、貴族たる者の気概は分からぬ』と鼻先で笑い飛ばしもしただろうが、相手は実母なのだ。
「私は――」
不安で、怖くて、寂しくて。
「馬鹿ね、男の子が泣かないの。もうじき貴方はお兄ちゃんになるのだから」
「・・・・・え?」
男子たる者みだりに人前で涙を見せてはならぬ。それは分かる。が、今は母何かサラリととんでもないことを言わなかっただろうか?
「母上・・・その、お兄ちゃんとは・・・?」
「驚かそうと思って黙っていたのだけれど、私のここには貴方の妹が入っているの」
「妹・・・」
愛しそうに腹部を撫でる母の姿に、ジェレミアは形容しがたい衝撃を覚えた。
弟妹が出来ることは嫌ではない。むしろ喜ばしいことだ。生まれたばかりの妹の可愛さを自慢するキューエルを羨ましく思ったのは、そう古い記憶ではない。
にも関わらず――
(母上の中に・・・赤ん坊がいる)
その認識は、ジェレミアを酷く度惑わせた。まるで母が見知らぬ人間になってしまったかのような、言い知れぬ距離感を覚えた。
(嬉しいことなのに、喜ばなければいけないのに・・・)
キューエルが見せた不可解な反応の数々が鮮やかに蘇る。理解したいと渇望する母の心よりも先に、生意気な幼馴染の心を理解してしまうとは、何とも皮肉な話である。
もっとも、ジェレミアが感じているのはある種の疎外感であって、キューエルの幼い恋心とは別物なのだが、男の子にとって母親とは初恋の相手なのだ。
「もう動くのよ」
「――!」
母の白い手に導かれて触れた腹部は、不思議な温もりを宿して微かに膨らんでいた。
(気がつかなかった・・・)
一つ屋根の下に暮らし、朝夕顔を合わせていながら、母の体の変化にまるで気づかなかった己をジェレミアは恥じた。思えば、二月の半ばから三月の中頃まで母は体調が優れず臥せっていたというのに、寒さの厳しい時期と重なったため風邪をこじらせたとしか思わなかったのだ。
「4ヶ月目よ。まだあまり目立たないけれど、これからどんどん大きくなっていくわ。貴方の時もそうだった」
「私も?」
「ええ。貴方は私のお腹の中で、とても健康に順調に育ってくれたもの」
この母の体の中に、自分も入っていた。
当たり前すぎて意識したこともなかったが、紛れもない事実だ。
「母上・・・私も、いずれこうして家族を持つのでしょうか?」
「そうね。貴方ならばきっとステキなお嫁さんと結婚して、幸せな家庭を作れるわ」
「幸せな、家庭・・・」
「そう、貴方と貴方のお嫁さんと子供たちが、毎日笑って暮らせる素敵なお家よ」
「笑って、暮らす・・・」
ゴッドバルト家の当主として立派に家を継ぐことしか考えていなかったジェレミアにとって、それは『新しい』価値観であった。
無論、今の家族、今の生活を不幸だと思っているわけではない。厳格な祖父、穏かな父、朗らかな母。ジェレミアは彼らを愛し尊敬していたし、子供らしく懐いてもいる。
ただ、自分がいずれ家を継ぐことを考えると、責任感の強い子供の心は義務感で溢れ個人の幸せについてまで気が回らなくなってしまうのだ。
「ねぇジェレミア、貴方は知っているかしら?女の人が赤ちゃんを産むことは、とても大変なことなのよ」
「大変?」
「女の人は皆、とても長い時間、とても痛い、苦しい思いをして子供を産むのよ」
「母上も痛かったですか?」
「ええ。貴方はなかなか出て来てくれなかったから」
「・・・・・申し訳、ございませんでした」
ジェレミアは心の底から母に謝罪した。自分が当たり前のように生まれてきた裏で、大好きな人が辛い思いをしていたのだ。そんなことも知らず、知ろうともせず生きてきたことが、どうしようもなく申し訳なかった。
「そんな顔をしないで。責めているんじゃないのだから」
「でも・・・」
「優しいのね、貴方は」
「私は・・・」
優しくなどない。何も知らずに守ってやるだの何だのと、一人息巻いていた愚かで浅はかで子供なのだ。
「そんな優しい貴方にだから知っていて欲しい。苦しんで一生懸命産んだ子供に、幸せになって欲しくない母親なんて一人もいないの。私は、貴方に幸せになって欲しい。国のため家のために尽くすことも貴方の幸せかもしれないけれど、それだけじゃなくて、ただのジェレミアにも幸せになって欲しいの」
「ただの・・・ジェレミア?」
ジェレミアの眉間に深い皺が刻まれる。今日の母の言葉は、どれも酷く難しい。
ジェレミア・ゴッドバルトではないただのジェレミア。
帝国貴族でも帝国臣民ですらないただのジェレミア。
どちらも余りに非現実的で、ジェレミアには想像も付かぬ人物像だ。
「難しいかしら?」
「申し訳ありません。私には良くわかりません・・・」
母の言葉も理解できぬ己は、真実キューエルに罵られたように馬鹿なのではなかろうか。
「今すぐに分からなくてもいいわ。でも、大人になって貴方が何かに迷った時、少しでいいから私の言葉を思い出して?」
「はい・・・」
不出来な我が子に失望するでもなく、惜しみなく与えられる柔らかな微笑。それがジェレミアを更にいたたまれない気持ちにさせる。
「あら、また動いたわ」
「母上・・・その、私の妹はいつ頃産まれるのでしょうか?」
『私の妹』。つい先ほどまで存在すら知らなかったというのに、驚くほど自然にその言葉を口にしていた。母の胎内に子が宿ったと知った時の疎外感とはまるで違う、『兄』になることへの純粋な歓び。それは不思議な晴れがましさでジェレミアの小さな胸を高揚させた。
(あいつもこんなふうに嬉しかったのだろうか?)
マリーカを自慢していたキューエルを思い出しても、もう羨ましいとは思わない。逆に自慢してやろうと気の早いことを思いすらする。
「十月の初め、貴方の夏季休暇がちょうど終わって学校に戻る頃だと思うわ」
「そんな・・・」
それでは、可愛い妹とすぐに会えないではないか。一度生まれてきた妹は逃げたりはしないが、乳幼児の成長は驚くほどに早い。世故に疎いジェレミアであったが、マリーカの成長を見るにつけ、その著しい成長に驚きを禁じえなかったのだ。
先週這っていた赤子が今週にはヨチヨチと覚束ない足取りで歩く。意味を成さぬ音を発するだけだった小さな唇が、何時の間にやら『にぃーに』と紡ぐ。それはもはや成長というよりも進化に近いものとしてジェレミアの目には映っていたのだ。
「安心なさいな。リリーシャの動画を毎日メールで送ってあげるわ」
「リリーシャ?」
「私が用意した名前なのだけれど、どうかしら」
「リリーシャ」
もう一度その名を舌の上で転がしてみる。
良い名だと思う。否、最高に良い名前だ。
「素敵な、素晴らしい名前だと思います」
「ありがとう。お兄ちゃんが貴女の名前を褒めてくれたわよ?嬉しいわねぇ」
目を凝らして見なければわからぬほどのささやかな膨らみに、アリエータは微笑みながら話しかける。
「早くリリーシャに会いたいです」
「あらあら、お兄ちゃんはせっかちさんね」
笑われて頬を紅潮させながら、ジェレミアは自分の心が暖かな幸福感で隅々まで満たされていることを感じた。
彼がその日その時感じたことこそが、『ただのジェレミアとしての幸福』であったと理解するのは随分と先の話である。