淡光差す世界
シトシトと降り続ける雨。陰鬱に垂れ込めた雲。
何となく気だるい昼下がり、珍しく患者も途絶えた診察室で、テンマは大きく伸びを一つした。
殺人容疑を掛けられ追い回され、なおかつヨハンの足跡を命懸けで追った日々。
今にして思えば長かったのか短かったのかわからぬあの日々は、確実にテンマの中の何かを変えていた。一言でいうならば、素晴らしく心身ともにタフになった。
多少のことでは動じない。死なない。壊れない。そんな医者らしからぬ妙な自信がついていた。
現在テンマが働いているのはドイツの片田舎。かつて逃亡中に世話になったシューマン医師の助手という形で働いている。事件後一度は国境なき医師団に従事していたが、彼にはどうしてもドイツに心残りがあったのだ。
元来優しく人当たりの良いテンマは、村人たちに大歓迎された。質素だが素朴な温もりに満ちたここでの暮らしをテンマは愛している。
雲の切れ目から、唐突に一条の光が射した。
その眩くも淡い白金の光は、灰色の世界の中で一際異彩を放つ美しさでテンマの目を釘付けにした。
淡くけぶる白金。
その色彩はテンマにあの青年を、彼の『心残り』を思い出させた。
色素の薄いどこか浮き世離れしたあの青年は、今も病院のベッドで眠り続けているのだろうか?
(あの子にとって、目覚めは幸せなのだろうか?)
いっそあのまま穏やかな闇にたゆとうていたほうが・・・・・・・・・・
(いけない、これは医者の考えることじゃない)
テンマは仄暗い思いを振り切るように、もう一度灰色の世界を切り裂く一条の光を見据える。
たとえそれがわずあかであっても、人は闇ではなく光を道しるべに歩むべきなのだ。
「あ・・・」
テンマの口から間の抜けた声が漏れた。
光の中に浮ぶ、ありえない人物の姿。
憎んだ。否定した。拒絶した。そして最後に赦した相手。
平和な日々の中、心の奥底で渇望していた唯一人。
「ヨハン!」
テンマは無我夢中で診察室を飛び出した。
走った。
我を忘れて走った。
ようやく見出したその姿が幻でないことを確かめるために。蜃気楼のごとく消えないように。二度とこの手の内から逃さぬように。
「ヨハン!ヨハン!!」
彼の本当の名前を知ってなお、テンマは彼を『ヨハン』と呼ぶ。それが彼らの間の名前だから。テンマが追い続けた名前だから。
テンマにとって彼は『ヨハン』以外の何物でもない。愛情も憎悪も。憐れみも蔑みも。悲しみも怒りも。全ての感情の向かう先は『ヨハン』なのだ。
「また会えましたね、Dr.テンマ」
「ヨハン・・・」
あのどこか菩薩を思わせる微笑を浮かべ、穏やかに語りかけてくるヨハンにテンマは言葉を失った。
話したいことは山ほどあったはずなのに。再会した時一番にかけたい言葉も用意していたのに。
今微笑む彼を前にしてみれば、何一つ出てこない。ただ、『ヨハン』と馬鹿の一つ覚えのように繰り返すだけだった。
「泣いているのですかDr.?」
「あ・・・あぁ」
言われて初めて、テンマは己が涙を流し地面に膝をついていることに気がついた。
「そんなところに座っていないで・・・僕を抱きしめてくれませんか?」
微笑むヨハンの言葉に導かれるかのように、テンマはのろのろと立ち上がり、求め続けていた細い身体を言葉もなく抱きしめた。
『ヨハン』は確かに実在していた。
※
ヨハンとの突然すぎる再会を果たしてどのくらいの時が過ぎたのだろうか?
テンマは無意識に診察室に戻り、無意識に『本日閉院』のプレートを玄関にかけていた。
「ヨハン・・・勝手に抜け出してきたんだろう?身体は大丈夫なのかい?」
ようやく落ち着きを取り戻したテンマが最初に口にした言葉は、ロマンティックとは程遠い医者としての言葉だった。
「ええ、おかげさまで大丈夫です」
「それは君が決めることじゃない。医者は私だ」
流されがちなテンマだが、こと医者の職分が関わってくることには退かない。かなり頑固だ。
「ねぇDr.テンマ。僕が真っ先にあなたのところに来たのは何故だと思いますか?」
「それは・・・」
真正面から問われテンマは答えに詰まった。
望んでいる答えはあるが、それを口にするのは余りにも自惚れが過ぎ躊躇われた。
「僕は、この世界の下らないルールで裁かれたくない」
「ヨハン?」
予想外すぎる答えにテンマは戸惑った。
「僕を裁けるのはDr.テンマ、あなただけです。裁いてください。Dr.の思い通りに」
「ヨハン・・・・すまないが私には君が何を言っているのかわからない」
「わからない?何故です?簡単なことでしょう?つまり、Dr.は僕を好きなようにしていいんですよ」
「・・・・・・・・・・・すまない。ますますわからなくなった」
テンマの優秀なはずの脳は急すぎる展開についてゆけずに煙を出す寸前だった。
「ヨハン、お茶を飲まないか?」
テンマは話題を変えることにした。根本的な解決にはならないが、医療の現場で応急処置が大切であるように、人間関係においても時としてその場しのぎは必要なのだ。
「はい、頂きます」
「紅茶・・・ティーパックのものしかないんだけど、いいかな?」
「おかまいなく」
マグカップに湯を注ぎながら、テンマはヨハンとの間に成立した短いがありきたりで『平和』な会話に心底安堵していた。
とりあえず大丈夫。ヨハンは錯乱しているわけでも、完全に精紳に異常をきたしているわけでもない。そう自分に言い聞かせる。
「どうぞ」
「ありがとう」
短いやり取り。そして沈黙。
「美味しいですよ」
両の掌で包み込むようにして持ったマグカップに形の良い唇を寄せたまま、ヨハンは彼だけが浮かべうるあの微笑を浮かべてテンマを見詰めた。
「・・・そ、それはよかった」
10も年下の同性の美しさに魅入っていたことに気づき、テンマは頭 に血が上るのを感じた。
「紅茶、久しぶりです」
「あぁ、長いこと眠っていたからね」
「Dr.・・・」
「ヨハン、幾つか質問させてくれ、いいね?」
再び会話が泥沼化する前に、テンマは気になっていたことを切り出した。
「頭痛はしないかい?」
「え?」
唐突なテンマの質問に、ヨハンはかすかな戸惑いを見せた。
「君は脳の手術を二度もした。それも術後昏睡状態が続くような大手術だ。なのに君ときたら、二度とも治療の途中で病院を抜け出してしまって。脳というのはとてもデリケートな部分なんだよ?下手をすれば失明したり手足に痺れが出たり、内分泌系にまで影響が出ることもあるんだ」
テンマはヨハンの精神状態と同じほどに身体の状態が心配だったのだ。ここまで傘も差さずに歩いてきたことも気がかりだ。
「問題ありませんよ、Dr.」
「それは診てみないとわからない。まずは問診からだ。それを飲みながらでいいから答えて欲しい」
再会して早々と思わぬでもなかったが、やはり医者としては脳外科手術を施した患者を放っておくわけにはいかない。
「問診だけですか?」
「いや、触診と聴診・・・血液と尿も調べて、レントゲンも取っておこう」
「嫌です」
「駄目だ。検査を受けること。それが君がここにいることの条件だ」
「でも・・・」
珍しく歯切れの悪いヨハンにテンマは溜息を吐く。一体この子は何を意地になっているのか?
「私は君の頭の中を二度も覗いているんだ。気にすることはない」
「それとこれとは」
医者というものは、どこか一般人と感覚がずれているのかもしれない。これは優秀な医者ほど顕著であるように思える。
「君は私の罰を受けに来たと言ったね?ならば私の言うことを聞きなさい」
「・・・・はい」
ここにきて、テンマは初めてヨハンに対して優位に立った。
※
堅い診察用のベッドに横たわり、ヨハンは見るともなく染みの浮いた天井を見ていた。
本来のテンマの実力からすれば、こんな片田舎の診療所などではなく、最新設備の整った大病院のトップにもなれようものを。
(欲のない人だ)
尊敬でも侮蔑でもなく、ヨハンはただ事実としてテンマをそう評価した。
(いきなり現れた僕を、詰問するでも通報するでもなく心配して・・・無用心すいぎるよDr.テンマ)
テンマのある種無分別とも言える優しさにヨハンは戸惑う。
自分を陥れ殺しかけた人間のためにメスを握ったテンマ。ヨハンにはテンマが理解できなかった。故に理解したいと欲した。
テンマに罰されたいと言った言葉に嘘はなかったが、テンマを理解したいという欲求もまた真実だった。
「ゆっくり息を吸って。止めて」
テンマの指示に従って呼吸を繰り返しながら、ヨハンはいつしか天井の染みではなくテンマの顔を見詰めていた。
「ヨハン?気分でも悪いのかい?」
「いえ・・・」
ヨハンの視線に気づいたテンマが『どうした』と首を傾げた
「何でもありません」
「じゃぁ続けるよ。押されて痛い部分があったら言いなさい」
胸骨付近から下腹部に向けてテンマの指がゆっくりと移動していく。
(何だかくすぐったい・・・)
笑いそうになるのをヨハンは堪えた。
(でも、嫌じゃない)
テンマの手は暖かく乾いていて心地良い。
(この手でもっと触れて欲しい)
密やかな欲望にヨハンの若い肉体は疼く。
(Dr.、今僕の心臓の音感じてますか?・・・・・・・・・・こんな格好で、僕は何を考えているんだろう?)
検査服の前を大きく肌蹴たあられもない姿。そんな自分を思い出し、ヨハンは薄く笑う。
「・・・くぁぁっ!」
不意に右下腹部を襲った激痛にヨハンは短い悲鳴を上げた。
「ここか?」
テンマは慎重にヨハンが痛みを示した部分をもう一度押した。
「・・・・・・・っ」
声こそ殺したものの、ヨハンの顔ははっきりと苦痛に歪んだ。
「腹部の張りが若干見られる・・・・。酷く痛むか?我慢できるか?」
心配そうに覗き込んでくるテンマに、ヨハンは『大丈夫』と短く答えるが、その秀でた額には汗の玉が浮いている。
「大丈夫だ。すぐに精密検査をして処置してやる」
そう言い切るテンマは完全に名医の顔をしていた。
※
慢性盲腸炎。
それがテンマがヨハンに下した診断結果だった。
「よかった。安心したよ。盲腸なら簡単な手術で・・・40分もあれば終わるよ」
テンマから先の緊迫感はすっかり消えていた。が、診断を下されたヨハンにしてみれば笑い事ではない。手術自体が簡単だろうが、命に別状はなかろうが、今現在痛いものは痛いのだ。二度の脳外科手術以外に病気らしい病気もせずいたって健康であったヨハンにとって、人生初とも言える内蔵に直にくる痛みはかなり堪える。
「軽い鎮痛剤を点滴で入れるから安静にしていなさい。今から明日の夕方までは絶飲食して。あ、緩下剤も飲んでおいて」
テキパキと適切な指示を出すテンマを、ヨハンは少し複雑な思いで見上げた。
どこか頼りなげで茫洋としたこの東洋人は、医療の現場に立つと急に人が変わる。
(・・・・・少しカッコイイかも)
意識が集中できないほどの痛みの中で、ヨハンはそんなどうでも良いが限りなく本音に近いことを思う。
「Dr.テンマ・・・来てそうそうすみません」
迷惑をかけたかったわけではないのだ。ただ・・・・
会いたかった。きっとそれだけ。
「かまわないさ。それよりすぐに私のところに来てくれてよかった。たかが盲腸炎といって馬鹿にしていると腹膜炎をおこして大変なことになるからね。鎮痛剤が効くまで少し辛いだろうけど頑張るんだよ」
「は・・い」
声を出すのも苦しい痛みの中で、それでもヨハンは心が安らぎで満たされるのを感じていた。
テンマは優しい。テンマは温かい。テンマは自分を捨てない。テンマは弱者の手を決して放さない。
自分ガ弱者だなどと思ったこともなかったが、それによってテンマが手に入るのならば自分の存在定義などどうでも良い。
何故だか涙が溢れて落ちた。
「ヨハン、大丈夫だから。ほら、もう少し薬が効いてきてるだろう?いい大人が盲腸くらいで泣くんじゃない」
的外れなテンマの言葉に、あえてヨハンは逆らわなかった。代わりに、
「痛い・・・・です」
テンマの温もりがもう少しだけ欲しくて甘えてみた。潤んだ瞳で『痛い』と訴える『患者』を、『医者』のテンマは突き放せないとヨハンは知っていた。
卑怯だとは思わない。人と人との関わりは、計算と感情、あるいは感情からくる計算で成り立っているのだから。
「リラックスしてゆっくり息をして。いい子だ。それでいい」
(Dr.・・・・・)
テンマの掌が髪を撫でる感触に身を委ね、ヨハンは深い眠りに落ちていった。