町田 千春 著 | ||||||||||||||||
織物師 その1 TOP | ||||||||||||||||
それは冬も近くなった秋のクチの日のことであった。
セルシャの国の南に位置するアズナスの領主の妻であるセセナルは二人の息子であるマクトヨとサダクスを連れ、領主の館から少し山深い里に出掛けていて、領主の館に戻る途中であった。
セセナルがこの山深い里にこっそり忍びで来たのには訳があった。次男で五歳になるサダクスは産まれた時から何かと病弱で、この頃は激しく咳き込んだり、息が苦しそうな時が多く、領主の館に仕える薬師でも治せない病に、見かねたセセナルはこの山深い里にあるオホラという草を煎じて飲めば効くという民の間に伝わっている治療法を試そうと思ったが、夫であるアズナスの領主のクキツタはそれで悪化したり、万が一命を落としたらどうすると猛反対した。
仕方なくセセナルは夫の目を盗んで、信頼できる数人の供だけを連れその治療法について詳しい老人を訪ねに行ったのだ。
急に先導をしていた侍従が慌てたように足を止めたので、セセナルの乗っていた馬車も急に止まった。
セセナルは馬車の脇に控えていた侍女に何事かと尋ねると、侍女は奥方様、どうやら道に赤子が捨てられていたようです。と困惑した声で答えた。
捨て子?こんな道の真ん中に?
先ほどここに来るのに同じ道を通った時には何もなかったということはつい先ほどここに捨てられたのか。
セセナルは怪訝に思いながらも自分の領地に捨てられた幼子を領主の妻としては見捨てる訳にはいかない。
急いで馬車から降りると困惑したように泣いている赤子がくるまれた包みを抱いている侍従の元に駆け寄った。母と一緒に馬車の中にいたサダクスと、自分一人で馬に乗っていた九歳になるマクトヨも母に従って赤子を抱き上げた侍従の元に歩み寄って来た。
赤子は女の子でくるまれている布は暖かそうな綿を幾重にも重ねた物で、どうやら子を寒空から守ろうとしていたようだ。良く見ると布の隅に何やら一枚の紙が入っている。セセナルは慌ててその紙を引き抜きとそこにはナハとだけ書かれていた。
この子の名前はナハか。それならばこの子はちょうど半年前くらいである春のナハの日に産まれたのか。
セセナルは泣いているナハを見つめた。良く見ると赤子だというのに整った愛らしい顔立ちをしている。
このまま元気に育てば将来はきっとさぞ美しい娘になるであろう。
思わずセセナルは侍従の腕から自分の腕にその赤子を抱き上げていた。
本当ならばセセナルも娘が欲しかった。ただ二人目の子であるサダクスを産む直前に病に掛かってしまい、
そのせいであろう。ひどく難産でサダクスを産むのに丸一日も掛かってしまい、産まれてきたサダクスはその為だろう。病弱になってしまったし、自分はもう子は望めないと薬師から言われてしまった。
夫であるクキツタは見た目こそ熊のような髭の濃い大男であるが気性は穏やかで子煩悩で、自分以外の妻や女を側に置こうとはしなかった。そういった性格であるからであろう。このアズナスの領民を大事にしており、領民からも慕われていた。
娘には恵まれなかったが、自分は幸せだ。
そうセセナルは思っていた。
セセナルはセルシャの国の東にあるトクオクの領主の娘で、母はやはりセルシャの国の北にあるモロタリの領主の娘であった。そして母方の従姉妹であるククアスは王妃である。幼い頃から仲が良かったククアスは王妃というこの国では誰よりも高い地位に着いているが、最初は夫である国王の女癖の悪さに最初は涙していたが、ここ数年はすっかり夫に愛想をつかして一人息子で世継ぎの王子であるシメロスの成長だけを楽しみに暮らしていることをセセナルは秘かに知っていた。
数年前に届いたククアスからの文には、王様があまたの侍女に手を付けるのに今まで我慢して耐えて来たが、ついに身分も卑しいどこの生まれもか知らない舞師の女をご寵愛して、ついにはその女との間に子まで成したと聞いて、私はもう王様にすっかり愛想をつかしてしまいました。
これからはシメロスの成長だけを楽しみに暮らして参ります。そう綴られていた。
ククアスに比べれば自分は幸せ者だ。
しかしやはりもう子供が、そして娘に恵まれなかった
ことは心残りである。
まるで誰かが自分に与えてくれたように、ここに置いていった捨て子のこのナハをこのまま見捨てることができようか。
自分の傍らに立っているマクトヨとサダクスも母上、この赤子はどうなるのですか?と心配そうに赤子を眺めている。
セセナルは腕にしっかりとナハを抱き上げると、マクトヨ、サダクス。この子はナハと言うのですよ。訳あって捨てられたようだけど、この子は館に連れ帰りましょう。きっとナハはそういった定めだったのでしょう。
そう言うとナハを腕に抱きしめてセセナルは馬車に戻った。途端に安心したのだろうか。ナハは急に泣き止んで母の手に抱き抱えられていたナハを不思議な顔で覗き込んでいたサダクスに視線を向けると笑顔を見せた。
それがナハとサダクスの出会いであった。
ナハが拾われてから十五年の歳月が過ぎていった。
ナハはさすがに身元も知れない捨て子であったので、領主の妻であるセセナルの手元では育てられないので、サダクスの乳母であるモズの元でサダクスの乳兄弟であるキハの妹として育てられていった。
ナハは成長するにつれ、母のモズにも父のガラにも兄のキハにも全く似ていず、また物心つく頃から周りから自分の出生についての話を聞いて知っていたが、自分を不幸だと思ったことは一度もなかった。
両親は本当の娘のように優しく厳しく育ててくれたし、兄のキハも本当の妹として接してくれて、それこそ兄妹喧嘩もして二人揃ってモズに怒られたことも何度もあった。
何より領主の妻であるセセナルや時期領主となるマクトヨとサダクスも事あるごとにナハを気に掛けてくれ、祭りや何やと用件を付けては領主の館に呼んでくれたり、新しい美しい衣や珍しい菓子など与えてくれた。
母のモズは乳の出が良くサダクスの乳母に選ばれただけでなく、織物の名手としてこのアズナスでは知れ渡っていた。モズはお前がこれから生きていく為に必要だからねとナハにも織物を厳しく教えてくれた。
運良くナハは手先が器用であったので、いつしかナハもモズのように織物が得意な娘として知れ渡っていた。
そして何よりナハの美しさはこのアズナスの男達に知れ渡っていた。
嫁に行けるようになる十五歳を前に早くも父のガラや母のモズ、兄のキハにナハを嫁に貰いたいと願い出てくる者もいて、中には手広く商売をやっている商家の跡継ぎ息子や広い土地を持つ者もいたが、皆首を縦に振らなかった。
それには訳があった。
お前の実の母親は舞師だったのかもね。
そうモズに言われた時に、ナハは何となく合点がいった。
舞師はセルシャの国を転々としながら祭りや領主や商人達の宴の席で舞を舞って生業を立てている者達のことを指しているが、時にはそういった場で舞師は春を売ることもあると、ナハですら知っていた。
そして舞師が子を産んだ場合、男であれば秘かに跡取りに恵まれない商家などにいくらかの金額と引き換えにこっそりと引き渡されるが、女を産んだ場合はその子も将来は母のように舞師になるのがほとんどであった。つまり金の為に愛してもいない男達に春を売るようになるのだ。
お前の母親はお前に自分と同じような生き方をさせたくなくて、お前を奥方様に託したのかも知れないね。
そうモズはナハの豊かに流れる黒髪を櫛でとかしながらそう呟いた。
領主の跡継ぎであるマクトヨは四年前に今の王様の従妹であるモエホノを妻に迎えている。
本来ならば領主の跡継ぎとして、もう少し早く妻を迎えるのが常だが、セルシャの国では前の王様と前の王様とククアス王妃の間に産まれた次の王様になるはずだった世継ぎの王子のシメロスが次々に相次いで亡くなったので、三年にも及ぶ長い喪があり、その間セルシャの国の領主や貴族の間では婚姻を控えていたのだ。
しかも当初マクトヨは喪が明けると同じ南のオスハデの領主の娘との婚姻話が進んでいたが、急に王家の方からモエホノを妻に迎えて欲しいとの話があり、立場上断れずにオスハデとの話を白紙にして、モエホノを妻に迎えた。
王家の方から迎えて欲しいと請われたが、モエホノは若く美しく、そして何より今の王様の従妹である。
今の王様であるスミラクの生母は王宮の侍女であった娘で、スミラクを産んだ時に難産が元でこの世を去ってしまい、王様の妹であるメラスレが母親代わりとして育てた為にモエホノとは実の兄妹のように育ったと聞いている。
そんなモエホノならば、このアズナスの領主の跡継ぎであるマクトヨでなくても、望むならもっと条件の良い相手にも嫁げる立場である。それなのになぜアズナスに嫁いで来たのだろうか。
マクトヨは残念ながら、父である元領主のクキツタに生き写しのような見た目で熊のような髭の濃い大男に育っていて、とても洗練された王宮で育ったモエホノが自分から気に入って嫁いで来たいと願ったとは思えなかったし、実際嫁いで来ても夫であるマクトヨと特に親しい訳でもなかった。むしろ夫であるマクトヨをどこか見下げた目で見ている。そんな雰囲気すら感じられていた。
マクトヨとサダクスはナハを何かと妹のように可愛がっているのは、このアズナスの領主の館では周知の事実で、何より二人の母親であるセセナルがナハを気に入っていることも皆知っていた。
領主であるクキツタも実の娘のように領主の館で育てることは領主という立場上認めはしなかったが、ナハが館に遊びに来ると喜んでくれていた。
きっと領主という立場でなかったら、ナハはクキツタとセセナルの娘としてマクトヨとサダクスと兄妹として育てられたであろう。
その為かいつしかマクトヨとモエホノの不仲に気づいた家臣達から、ナハをマクトヨの妻にしたらどうかという話が持ち上がっていたのだ。
実際領主なら複数の妻を持っている者は他にもいるし、もしナハがマクトヨの元に嫁いでも立場上正妻はモエホノとなるのでモエホノの体面は保たれるし、夫に対して愛情のなさそうなモエホノが嫉妬に苦しむこともなさそうなだ。むしろ勝手にやってくれとばかりに二人を無視していそうだ。
しかし肝心のマクトヨがこの話には首を縦に振らなかったのだ。
マクトヨはナハと弟のサダクスがお互いにお互いを想い合っていることに気づいていたからであった。
自分は不幸な結婚を強いられたが、弟と妹のように可愛がっているナハにはできれば一緒になって幸せになって欲しい。そう思っていた。
マクトヨは自分に仕えてくれているナハの兄のキハと二人きりになった時に、この本音を秘かにキハに打ち明けていた。
キハも兄として、そして乳兄弟としてナハとサダクスの二人と常に接していて、お互いが想い合っていることには、とっくに気づいていた。
二十一歳になったサダクスは跡継ぎではないとしても領主の息子ならば、そろそろ嫁を迎えるか、逆に跡継ぎの息子がなく娘しかいない他の領主の元に婿として嫁いで行く年齢である。
実際娘しかいない西のセズトロの領主から今十五歳になる娘の婿に来てくれないかとしきりに父であるクキツタの元に文やら使者が来ているのをマクトヨも知っていた。
弟のサダクスは身体こそ病弱であるが賢く、その聡明さはこのセルシャの国の領主達の間でも知れ渡っていたのだ。
全くアズナスの領主殿はうらやましい限りですな。
跡継ぎのマクトヨ殿は武人として領主として先頭に立って人を導いて行く資質に優れていて、もう一人の息子であるサダクス殿はこの国きっての英才ときている。優秀な二人の息子に恵まれていて、おまけにアズナスからは金山があり金まで採れる。王様のお従妹のモエホノ様で嫁いで来られて、アズナスは安泰ですな。
王宮での集まりなどで会う他の領主から、そんなやっかみとも本音とも言えることばを聞くこともしばしばであった。
おそらく自分とモエホノの間に子は望めないだろう。
マクトヨはそう悟っていた。
結婚をして四年、妻であるモエホノが自分に抱かれたのはほんの数回だけである。ここ二年はもうお互いの肌にも触れていない。妻は頭が痛いだの、疲れているだの、月のものが狂っただの何かと理由をつけては自分と寝室を共にしない。
自分に跡継ぎとなる息子も婿を迎える娘にも恵まれないのならば、弟のサダクスに跡を継いでもらいたいが、残念ながら弟は生まれつき病弱である。
自分より先に他界してしまう可能性はあるし、もし妻を迎えても子に恵まれない可能性も高い。
それに何よりナハは捨て子であったのは皆知っている。領主の妻が領主の娘や姪や貴族の娘でもない親の身分も知れない捨て子であったとならば、周りがそれを許さないだろう。
自分もだが、仲睦まじい両親の元で育った弟が他にどこか血筋の良い娘を正妻に迎えた後に、ナハを妻にするとはとても考えられなかったし、ナハを捨てた母親はどうやら舞師であり、愛してもいない男に抱かれ、そしてその男の子を産むような生き方を自分の娘にはさせたくはなくて、あの場所に置いたのではないかという話は聞いていた。
自分もナハが母に拾われる所を一緒に見ていたが、ナハの生母はどうやら計画的にあの道にナハを置いたようだ。
アズナスは金山のお陰で豊かな領地であり、もし捨て子でも他の領地より金がある為に誰かが拾って育ててくれる可能性が高く、ちょうどさすがに領主の妻が乗っているとは気付かなかったであろうが、それなりに金のある商家の奥方や領主に仕える家臣の奥方などが
乗ったと思われる馬車が通って行ったので、帰りを狙ってナハをできるだけ暖かくくるんで道に置いたのであろう。
つづく |