町田 千春 著 |
染色師 ネナ TOP ネナ。急で悪いけど今晩はオクルスの商人の相手をしてくれないかい?
ネナが遅く起きて皆のいる食堂に顔を出した途端に、この館の主であるイクがそう声を掛けてきた。
この館に勤める者達は皆昼と夜が真逆な生活を送っていた。日が登ると共にやっと解放され一人寝台に寝転がり眠りにつき、日が暮れる頃に起きてきて夜に備えて準備する。
そして夜が更けた頃に全てが始まるのだ。
ここはセルシャの国の都にある花の蜜の館。
そう言わば娼館であった。
ただこの館は一見の客は取らない館で、客は馴染みの者かその紹介で来る上客ばかりを相手とする店であった。その為にいきなり飛び込みで今晩の予定を入れられる事は珍しいし、それにネナは王宮に仕える馴染みの事師との先約があったはずだ。と言うことは。
大方の予想はできたのでイクに視線を送るとイクは小さく頷くと、ヤタが今晩大切な客人をもてなしたいから、どうしても店一番のあんたをって使いを寄越して来たんでねと小さく苦笑した。
ヤタの願いならイクも無下には断れないだろう。
ヤタはこのセルシャの国で手広く布を扱っている商人だ。館で暮らしている女達の衣や肌着、寝台の敷布等
何かとこの館では布は入り用だが、ヤタの口利きで良い品が安く手に入るよう便宜を図ってもらっている恩があるし、普段は無理難題を押し付けてくるような厄介な客でもない。
そのヤタが無理を承知で頼んできたという事はヤタの商売にとっては相当重要な客なのだろう。
それにネナ自身もヤタには個人的に恩がある。
ネナの父は元はセルシャの国の南に位置するオスハデで大きな酒工房を営んでいたが、ある日莫大な借金を残して姿を眩ましてしまったのだ。残された母と幼い弟の為にネナは春を売る身に身をやつしたが、残された母は今セルシャの国の北に位置するモロタリの飾り者職人の後妻に収まって、ささやかだが穏やかな毎日を送っている。その縁談を持ってきて世話してくれたのがヤタであったのだ。
直接会った事はないが、その男はネナが春を売っている事も含めて分かった上で母と、そして一緒に弟も引き受けてくれたのだ。
先立った妻との間に一人娘しかおらず弟の事も実の子のように可愛がってくれ、元々手先が器用であった弟は義父と同じ飾り者職人の道に進んでいる。前に伝え聞いた話では同じモロタリの飾り職人が弟の事をえらく気に入り、娘と一緒にならないかと口説いているとそうだ。
母も弟も元いた場所から遠く離れた地で新しく穏やかな暮らしを送れているのはネナにとっても嬉しい事であった。
ヤタには恩がある。
それを分かっていてイクも言っているのだ。
ネナは分かったよと頷くと、でも今日はスエが来るんだよと言うとイクはにやりとしたり顔で笑うと、大丈夫だよ。そこはあたしに任せておくれ。もうアデに話はつけてあるからと笑うと、気だるそうに椅子に座って爪を磨いていたアデに視線を送るとアデもネナに向かって色っぽい目配せを送ってきた。
まあ、そういう事ならば仕方ない。
どういった男かは分からないがオクルスの商人ならばいずれ自分の国に帰るだろうから、一晩か気に入られたとしても数晩相手をすればいいだけだ。
ネナは夜に備えて他の女達と同じように粥と干肉を煮た物を食べ終えると身支度を整える為に自分に与えられている部屋に戻った。
そして男を迎え入れる為の準備として豪華な衣を身に纏い、髪を結い上げ化粧を施した。
この館では女達は美しく着飾って客を迎えると決められていた。部屋に入れば早かれ遅かれ結局は服を脱いで寝台の上で相手をもてなす事にはなるが、ここはあくまでも世間的に金も立場もある男達が束の間日常を忘れ寛ぐ場所でもある。その為に迎える方も美しく着飾って出迎えるのが筋であるというのが、この館の主であるイクの考えであったし、実際美しく装って出迎えると男達は皆満足そうに微笑んでいた。
ここは場末の娼館ではなく、限られた選ばれた男達だけが集える場所なのだと男達の自尊心をくすぐるのだろう。
さて、今日はどんな服装で出迎えようかね?オクルスの男だと言う事は。
ネナはいくつもの手持ちの衣の中から淡い桃色の下衣を選ぶとのその上に良く熟した果実のような深紅の衣を重ねて羽織ると、そこに赤と緑の糸でサラシェの花や葉の刺繍を刺した帯を締めた。上衣と下衣の襟元をうまく重ねて合わせて桃色の下衣が微妙に見え隠れするようにするのがネナのこだわりであった。鏡の前で微妙なさじ加減で桃色と深紅の配分を調整し、満足がいくと次は髪と化粧に取り掛かった。
ネナは比較的手先が器用であるのでその日の衣に合わせていくつかの髪型に結い上げられる。今日はまず全体に一つ大きく緩く結い上げて、そこから一筋だけ片側に髪を垂らした。銀のサラシェの花を象った髪飾りを垂らした髪の片側に挿した。
そして顔に薄く粉を叩くと頬にうっすら紅を指してまるで湯上がりのようにほんのり色を添えると、逆に唇にはたっぷりと紅を指して上衣と同じように深紅に染めあげていった。仕上げに首筋や手首にいくつもの花を水と油に漬け込んで作られた香り水を振り掛けると準備万端だ。後は客人を待つだけだ。
さて、今夜の男はどんな男だろうね。
ネナは椅子に腰掛けてぼんやりと自分の手入れされた爪を眺めながらそんな事を考えていた。
館の女達は常に念入りに爪を整えていた。それは寝台の上で自分も男も傷つけないようにする為であった。
ここの客は皆金も立場もある男達だが、それだからと言って皆好ましい相手とは限らなかった。さすがに暴力を振るう客はいないが、軽く尻や胸を叩いてきたり、布で手首を縛って女の自由を効かせなくしたり、恥ずかしい姿を見せろ、卑猥な言葉を口にしろと要求してくる客もいた。
そういった性癖はないが、えらく太って脂ぎった顔や鼻につく酸えた身体の匂いや、どこか肌の手触りとでもいうのだろうか。感覚的に肌の合わない男もいる。
例えそんな男でも、そんな素振りは一切見せずに一夜の相手を勤めなければいけない。
まあヤタの大切な取引相手という事はオクルスのかなり力のある布商人なのだろう。となると恐らくそれなりの年の男であろう。まあ女を求めてくるという事は男としてまだ枯れてはいないだろうから老人と呼ばれる少し手前ぐらいの年だろうか。
このセルシャの国でも南の者達は獣の肉や良く熟した酒を好むので南と近いオクルスの羽振りの良い商人という事ならば日頃良い物を、つまり肉や酒を好んで食べていて肥えた男かも知れない。
さて、今夜の男はどんな男だろうね。
ネナはぼんやりとそんな風に思いながら客人の男を待っていた。
コンコン。
部屋の扉が2回ゆっくりと叩かれた。
この館では客は初めてでも馴染みでも同じように等しくイクがそれぞれの女達の部屋に案内をした。
女達の部屋は扉を開けると奥に細長い三間続きの部屋となっていた。扉を開けるとすぐに客人をもてなす寝台のある部屋で続いて浴室の間、その奥に女達が化粧を施したり、衣や飾り物などをしまってある言わば自分だけの子部屋があった。女達は客人を奥の小部屋で待ち、扉が叩かれるとゆっくりとその小部屋から姿を現した。部屋を開けてすぐに待ち構えているより、少しゆっくりと焦らすように姿を現した方が男達をそそるとの計算からであった。
ようこそ、花の蜜の館へ。部屋の中からネナはそう声を掛けるとカチャと扉が開く音がして、イクがどうぞ、ごゆっくりお愉しみ下さいねと客人に声を掛けると部屋の前から下がっていった気配がした。男はイクが去った気配がした後にゆっくりと一歩一歩部屋の中に入ってきた足音が聞こえた。
え?
この商売を続けていると部屋に入ってくる足音だけで相手がどんな性格や体格なのかだいたい予測がついた。
慌てたようにせかせか性急に部屋に入ってくる音や太って床がミシミシと音を立てたり、時には既に興奮して鼻息も荒く入ってくる者もいるし、年老いた男は歩く速度が遅くその足取りは弱々しい音がしていた。
しかし男の足取りはせこせこした所は微塵もなく何やらゆとりと自信のような物も足音から感じられた。
歩く速度はゆっくりとしているが、老人の弱々しい音ではなく力強さが感じられる。働き盛りの男としての自信がみなぎっているといった風情だ。
女を求めてこの館に来たはずだが、一秒でも早く欲望を満たしたいといった気配も感じられず、どこか余裕すら感じさせる足音だった。
男が寝台の横にある椅子を引いて腰かけた音がしたので、ネナは二呼吸ほど置いて奥の小部屋から寝台のある部屋に姿を現すと、扉の方に顔を向けネナの方に背を向けて、初めての空間でもまるで自分の部屋のように寛いだ様子で足を組んで座っていた。
上背のしっかりした後ろ姿でその男が座っていると椅子がおもちゃのように小さく見えた。太っているというよりも鍛え上げられた身体で引き締まっている。商人と言うよりも衛兵のような身体をしているのが衣越しでも感じられた。
ネナはそんな男に向かって声を掛けた。
ようこそ、花の蜜の館へ。あたしはネナよ。
今晩あなた様をおもてなし致しますわ。
ネナの声に振り返った男の姿を見てネナは思わず驚いてその男を無遠慮に見つめてしまった。
振り返った男は自分より10才くらい年上だろうか。
恐らく年は30半ばか後半と言った所であろう。ヤタが賓客としてもてなすくらい重要な商売相手にしては若い。ヤタが50半ばの男なので息子の年齢くらいだ。
もちろん年若いが大商人もいない訳ではない。ただそういった場合はほぼ父や時は祖父が築いた跡を継いだ跡継ぎ息子である。そういった場合は産まれた時から恵まれた環境に育った者特有の甘さというものがどこか漏れているが、この男からはそういった気配が微塵も感じられなかった。という事はこの男は己の力で自分の今の地位を築いたのだろう。
そして良く見るとなかなか精悍な整った顔立ちをしていたし、さすが布商人のヤタが賓客としてもてなすだけあって洒落た織りの衣を纏っているし、オクルスの柄なのだろう。見た事はないが複雑な模様が織り込まれた幅広の帯を締めていて、さりげないが質の良さそうな洒落た服装をしている。
この男の容姿と自信のありそうな雰囲気ならば、わざわざこの館に来なくても酒場などに行けば簡単に女の方から寄ってきそうで、ヤタに無理難題を言って一夜の快楽を満たす手筈を整えさせる必要はなさそうだ。
それにこの男の視線だ。餓えて女を求めている男の目ではない。
と言う事は。ネナは一つの考えが閃いた。
ネナは悠然と微笑むと、ようこそ、オクルスの商人様。ヤタの能力にはご満足頂けたのかしら?そう声を掛けた。
すると今度は逆に男の方が驚いた表情を浮かべたが、すぐにおかしそうに声を出して笑い出した。笑うと目尻が下がり、なかなか愛嬌のある顔になった。
どうやらネナの推測通り、この男は急にヤタに無理難題を言ってヤタがどれだけそれを解決できるのかヤタの判断力や行動力、人脈、そういった商人としての技量を試したのだ。ただ本業の商いで試すと影響が出る恐れもあるし、慣れた生業に関わる事なのである程度の経験で何とか出来てしまう恐れがあり、ヤタ本人の本当の器を試すのにこういった難題を出したのだろう。
男はひとしきり面白そうに笑うと、そうだ。良く分かったな。そうネナを楽しそうに見つめてそう言った。
どうやら客人として馬鹿丁寧にもてなす必要もなさそうなので、そんな男に向かってネナは肩を竦めて見せると、この商売をしてると相手の身なりや足音や視線、息遣い。そんな物からもいろいろと推理ができるんだよ。そう言うと、あんたの容姿ならわざわざこんな所に来なくても女が寄って来るだろう?それが何よりもの証拠だよと敢えてぞんざいな口の利き方で声を掛けた。
この男は自分と飾ったうわべだけの言葉を交わしたいとは思っていない。そうどこか確信があった。
男はそんなネナの口調に腹を立てた様子も見せずに逆に楽しそうに笑って頷いた。
お前の見立てどおりに確かに俺に抱かれたいという女は多い。実際セルシャの国にいる間も何人もの女に誘われた。そうニヤリとネナに向けて笑ったが、それは女に誘われたという事よりもネナが言い当てた事を楽しんでいる風情だ。
そしてけれど俺は問題を起こすような事には手を出さないからな。そう笑いながらもきっぱり言った。
確かに相手が生娘ならば親に知られれば責任を取って嫁に貰えなどという話に発展しかねないし、火遊びの人妻ならば夫に知られれば厄介だ。酒場の女達も背後に悪い男達がついていて何かと言いがかりを付けて金を巻き上げようとする輩もいる。
一時の欲望で今まで築き上げたものを一瞬で棒に降るような愚かな事はしない判断力と自制心は持ち合わせているようだ。
ここなら値段は高いが厄介事は起こらず、一夜の欲望は満たせるだろう。まあ女に餓えた様子でもないので
実際今晩は例え抱かれたとしても案外あっさりと終わるかもしれない。そうネナは考えていた。
で今晩はここに来たって事だね。でもあんたの目を見てると女に餓えた目をしてないしねとネナもニヤリと笑ってやった。
男もニヤリと笑うと小さく頷き、まあ。そうだな。
それほど餓えてないけれどお前なら抱いてみたいなと
笑いながら言うと、ヤタからここのネナはいい女なのできっとお気に召してあなた様を満足させる事間違いないでしょうと言われたんだが、正直それほど期待していなかった。だけど本当だな。顔は美しいし、見たところいい身体をしてそうだし。そう言うと何よりお前は賢い。気に入ったよ、ネナ。と笑い掛けた。
そして真剣な表情をすると、どうしてお前みたいな女がここにいる。生まれは南の方か?とちらりとネナの黒髪に視線を送ると、自分は椅子から立ち上がり寝台の端にどっかりと座り込むと顎でネナに座れと椅子を示したので、ネナは指示されたとおりに椅子に座ると促されるままに自分の過去について正直に聞かれるままに話し始めていた。
もちろんこんな場だ。一夜の限りの相手に正直にすべてを話す必要はないし、嘘や話を脚色したってせいぜい寝物語にしか過ぎないのだから罪はない。けれど促されるままに見ず知らずの出会ったばかりの男に正直に全てを打ち明けている事にネナは話しながらも自分で自分に驚いていた。
男が聞き上手で上手く話を促してくるからかも知れない。話しながらもネナはぼんやり考えていた。またこんなだからきっと交渉が上手く商人として成功したのだろうとも思っていた。
促されるままに自分の身の上を話し終えると男は大きく納得した顔をして頷くと、どおりでお前のその髪飾りについて不思議に思っていたんだが納得がいったなと言うと、その髪飾りはモロタリにいるお前の弟が作った物だろう?と尋ねてきたので、ネナは思わず無意識だが、とっさに髪飾りに手をやっていた。
ネナの仕草でそれが正しいと分かったのだろう。
思わずまじまじと男の顔を見つめてしまったネナに答えを聞かせるように男はお前の着ている衣や帯、結い上げた髪の分量や向きとか、それにその襟元の着こなしなんて偉く洗練されているのに、その髪飾りだけ一見するといい品だが、良く見ると所々花弁の彫りに甘い所があるし、僅かに線が乱れている。これだけ洗練されているお前が選んだ品にしてはおかしいと不思議に思っていたが、弟が作ったならお前にとっては国一番の職人が作った物よりも思い入れがあるよなと、うん、うんと納得したように頷いていた。
そんな所にまで注意を向けていたのか!ネナは思わず舌を巻いた。
ああ、弟が贈って寄越してくれたのさ。義父さんに倣って作ったからこれぐらいしか姉さんにお礼はできないけど使って欲しいと贈られて来て嬉しかったさ。思わずネナはもう離れてから長く顔も見ておらず、だが記憶の中で少年から青年に育っている弟の顔を思い浮かべて懐かしそうにいとおしそうに目を細めて自然に笑みが溢れていた。
男もそんなネナをどこか優しい眼差しで見つめているのに気がつき、ネナはどこかこそばゆい気がして、慌てて取り繕うように、酒が必要なら運ばせようか?と男に声を掛けると男は小さく首を横に振ると酒はいい。
と言うと顎で自分の方へ来いと合図してきたので、ネナは椅子から立ち上がると寝台の端にどっかりと座り込んでいる男の目の前に立った。
男は自分の前に立ったネナに満足そうに微笑むと、ネナの腰をぐっとそのたくましい腕で引き寄せるとネナの腰を両手で抱き締めた。座った男を見下ろすように立つ事になったネナに男はまた目線で指示してくる。
そうネナの方から口づけしろと。もちろん客とこれから始まる交わりの前触れのように口づけを交わす事はあった。しかしネナはどこか躊躇しそうになっている自分に内心驚いていた。
そんなネナの躊躇をまるで分かっているかのように男は優しくネナの瞳を見つめてくる。
ネナは一つ大きく息を吸うと自分から男の顔に自分の顔を近づけるとそっと触れ合うか触れ合わないかくらいの軽い口づけを男にして、自分の唇を男から離そうとした途端にぐっと男の大きな右手がネナの首から頭に回され、ネナの頭を抱え込むようにすると男の唇がネナの唇にぐっと押し付けられ、そしてネナの唇をこじ開けて自分の舌でネナの舌を巻き込むように絡ませてきた。
二人の舌と舌が絡まり合い、男が更に深く絡まろうとネナの首の角度を傾け、自分の首も傾けるとより一層お互いの顔が交差して重なり合う。ぴちゃぴちゃという舌が立てる粘着質な音と共にお互いの唾液が銀色の糸を引き絡まり合う。その濃密すぎる口づけで空気が薄くなりネナは一瞬気が遠くなりそうだった。
身体から力が抜けたネナに気づいた男はようやく唇を話すと男の唇は妖しく濡れていた。それはネナが男の唇に残した自分の口づけの名残だ。
男はにやりと微笑むと素早くネナの腰に回していた左腕ごとネナを寝台の上に横たえると空いていた右手と
寝台から引き抜いた左手で一気にネナの帯の結び目を解いた。
こういった商売の為かネナの帯は緩くもないが普通の女達のようにきつくは結んでいないので、いとも簡単にほどける。
男は優しい手つきでネナの衣の襟元から手を差し入れ衣の前をくつろげるとネナの白く滑らかな肌が男の視線に晒される。見知らぬ男に肌を晒すなどネナにとってはいつもの事なのになぜか胸が苦しくなる。それは男の視線が熱っぽくも自分を包み込むような優しい暖かい眼差しだったからだ。
そう遠い記憶の中にある幼い時に自分が学舎の試験で良い成績を取ってそれを報告した時や小さな手で父の工房の手伝いを必死にした時にそんな幼いネナの姿をまぶしそうに、そしてどこか誇らしそうに見つめて、
ネナ。お前は本当にいい子だなと言うと、その大きくて肉厚で毎日の作業で荒れてかさついた手でネナの頭をくしゃくしゃと嬉しそうに撫でてくれた時にネナを見つめてくれた父の眼差しにそっくりだったからだ。
思わずネナは目を閉じて息を大きく吸った。
そんなネナに男が優しく笑ったのを目を閉じていたのにネナは感じていた。
そっと目を開いてもう一度男を見つめると男はネナに優しく微笑み掛けてきたが、その瞳は熱っぽくネナを求めている。
ネナもなぜかこの男を欲しいと心と身体が叫んでいて、思わず自分から男の肩に両手を添えると自分の方に引き寄せていた。
ネナの求めに応じるように男が一気にネナが身に纏っていた衣も帯も一気にネナから引き剥がすと自分の素早く身に纏っていた衣も脱ぎ去り、二人は生まれたままの姿となった。
男はネナの上に覆い被さるとネナの肌をその大きな手でゆっくりと愛撫し始めた。大抵の男達は胸や尻を撫でると直ぐ様自分の欲望を満たそうと自分自身をネナの中に納めたり、中にはろくに愛撫などせずいきなり突き入れる者すらいたが、男はそんな男達とは異なりネナの肌の滑らかさ、緩やかに弧を描く身体の輪郭までじっくりと味わうかのように優しく身体の隅々まで愛撫していく。そうまるでネナの全てを己の手でしっかりと確かめるように。
男の愛撫にネナは知らずに身体をしなやかにくねらせて応えていた。唇からは声とも吐息とも取れる短くも深い、そう身体の奥から涌き出る声が自然に洩れてきていて、同じようにネナの身体の奥にある女の泉からも新しい泉の水が溢れ出てきていた。そして二つの胸の頂きは固く立ち上がり、男が愛撫する手のひらに引っ掛かり、まるでもっと確かな手応えを欲しいと貪欲にネナ自身がねだっているかの如く男を誘っていた。
男はどこか目を細めて子供のように無邪気に嬉しそうに微笑むとネナの左の胸の頂きを親指と薬指で摘まむと更に頂きの中にある芯を立てさせようと軽く引っ張ったり、指と指を擦り合わせてその間にある頂きの中の芯を摘まみ出そうとする。時は頂きの割れ目に爪を立てて直接的な刺激を送ってきた。
男の乾いた指の皮膚の感触だけでなく指紋まで感じられるような刺激にネナの呼吸はより深く甘くなっていた。
そして右の胸は立ち上がっている頂きには触れずに大きな手のひらで胸全体を包み込むとやわやわと優しく揉んでいく。
左胸への直接的な刺激と右胸への緩やかな刺激に思わずネナは潤んだ瞳で男を見つめると、男はニヤリと笑うと、どうして欲しいんだ?とネナに問いかけてきたが、男には答えが分かっているはずだ。
思わずネナは甘い息の混じった声でいじわると声を掛けると男はお前が可愛いからいじめたくなるのさ。でもそろそろこっちも可愛がってあげないとなと笑うと、今まで緩い刺激しか与えられていなかった右胸の頂きに唇を近づけると舌で弾いた。弾かれた途端にネナの唇からは短くも鋭い吐息が洩れた。そのまま男の舌がネナの右の胸の頂きを弾いたり、吸ったり、時折軽く頂きの芯に歯を立てた。右胸への暖かく湿ったむず痒いような柔らかな感触と左胸への乾いた時には鋭い痛みにすら感じられる直接的な感触に更にネナはしなやかに身体をくねらせてて、自然と腰も緩やかに揺れていく。泉の水は更に溢れてネナの密やかな場所を潤していく。
もっとこの男を深く感じたい。早く自分の中に招き入れてこの男と一つになりたい。深く繋がれば心まで繋がれるのかしら。
ネナは自分の中からそうはっきり感じていた。この商売をして数多くの男達に抱かれて遊び慣れた男達に女としての身体の悦びを教えられ次第にネナも身体の悦びを覚えていったが、この男と一つになりたい。そう感じた事は今まで一度もなかった。ましてや心まで繋げたいなんて考えた事すらなかった。ここは快楽の為に一共に過ごす場所だ。どんなに熱い夜を共に過ごしても所詮夜が明ければ男達は元いた本来の自分の場所へと戻っていく。そこには妻や子や恋人など本当に愛する人の元に戻っていく。
この男だって国には妻や子や本当に愛する女がいるかも知れない。それでもこの一夜は自分の身も心も感じて抱き留めてもらいたかった。
口に出せない想いのこもった切ない視線で男を見つめると男は優しくネナに微笑み掛けるともう一度ネナの唇に自分の唇をしっかりと重ねてくれた。
ネナも夢中で男の口づけに応えて唇を寄せると二人の口づけがより深くなっていく。
何度も深く唇を重ねると男はネナの頬や額や鼻の頭にも啄むような優しい口づけを降らしていく。ネナはうっとりと口づけに酔いしれて目を閉じた。
目を閉じるとより一層男の身体から放たれる匂いや気配、そういったものがまざまざと感じられる。
男の身体からは秋に豊かな森の木陰の土を掘り返した時に感じられるような深い森の匂いと土の匂い。そしてどこか果実のような甘酸っぱさも漂っていた。
ネナは幼い頃から父の酒の工房でいくつもの酒が熟成されていく過程の匂いを常に感じて育っていたので嗅覚に優れている。時にはそれが仇になり、客の男の放つ匂いに内心は辟易する事もあったが、この男の放つ匂いに包まれるとどこか母の腕に抱かれた幼子のようにほっとしていた。
その途端にネナが記憶の彼方に押し込めていた遠い日の記憶が甦ってきた。
ネナ。お前が惹かれる匂いは本当のお前が欲している、必要な物を教えてくれるんだ。酒の匂いの微妙な違いをかぎ分けたネナに父が優しくそう言うと優しくネナの頭を撫でた。
父さん!
ネナは思わず泣き出しそうになり、ぎゅっと男にしがみつくと男はそんなネナを強く優しく抱き留めてくれる。そして優しく自分の頬でネナに頬擦りするともう一度優しく唇を重ねてくれた。
まるで男に身体だけでなく心まで抱かれているような
錯覚をしてしまいそうな優しさに思わずネナは切なくなり咄嗟に涙で潤んだ瞳を向けると男は優しくネナの涙で潤んだ瞳の端を指で優しく拭うと瞼の上にそっと口づけた。
せめてこの一夜だけなら、しっかりと自分の身体に男のかさついた指の感触もしっとりと濡れた舌と唇の感触も刻み付けて欲しかった。
それだけではない。深い森のような匂いだけでなく、男が自分の中で果てた際に漏らすであろう艶めいた獣の呻き声のような声も自分の耳の奥に刻み付けて欲しかった。そして何よりも自分の身体の最奥にある秘められた泉のある場所に男の記憶をしっかりと刻み付けて欲しかった。
ネナはそっとそそり立つ男の剣に手を伸ばした。
すでに男の太く大きな剣は固く立ち上がり、その存在を顕にしていた。
ネナとてこの花の蜜の館で一番の稼ぎ頭の自負はある。己の指や舌の技で男達を高ぶらせる事など容易い事だ。正直、さすがに自分の泉が潤っていない時に押し入られるのは勘弁して欲しいが、こういった商売だ。
さっさと男達を奮い立たせて自分の中で欲望を吐き出して果ててもらえば仕事は終わる。いつまでもしつこくされるよりも身体の負担は少ない。
いつものようにネナは男の剣に指を絡めると慣れた手つきで愛撫しようとした。
すると男はネナの手の動きをネナの手を自分の手のひらにくるんで止めると、こう言ったのだ。
ネナ。今夜は全てを忘れて俺に委ねてくれ。技も何もいらない。ただ俺を感じて欲しい。
そう言うとネナの両手を自分の肩に回させると自分の両手でネナの背中をくるむように抱き締めてきた。
ネナはそっと男の広い胸に自分の頭を預けるとそっと目を閉じた。男は時折優しく自分の指にネナの黒髪を絡めるように優しく鋤いてくれる。
しばし二人は何も言わずにただ抱き合って互いの温もりや肌から立ち上る匂い、素肌の感触、そして鼓動を感じあっていた。
それだけで不思議と満たされた気分になり、更に秘められた身体の奥の泉からは新たな飛沫が沸き上がり、ネナの股を伝い落ち、小さく寝台を濡らしていた。
ネナの奥底から溢れ出る泉の水に気がついたのだろう。男はいたずらっぽくニヤリと笑うとネナの秘められた場所にそっと人差し指を一本差し入れると何かを探るように秘められた場所の壁面を軽く指でなぞってきた。男の指から送り出される緩やかな快楽の波紋が絶え間なく押し寄せ、男が指を更に奥に進む度にネナは途切れ途切れの甲高く甘い声を挙げ続けて、鼓動は一層早くなっていく。更に泉の水は止めどなく溢れて男の侵入を許していく。
夜のしじまに仄かな蝋燭の光に照らされた薄暗い部屋にはただネナの甘いあえぐ声とねばついた淫靡な水音だけが絶え間なく響いていた。
男の指がある一点を穿った時にネナの身体に一際大きな快楽の波が押し寄せ、ネナは高く鋭い声を挙げて一瞬その波に翻弄されて意識を手放しそうになっていた。
ネナの身体の力が抜けた隙に男は自分の剣をネナの秘所に納めるとゆっくりと、しかし確実に奥へ奥へと進めていく。唾液のように粘り気もある淡い乳白色の泉の水が剣にまとわりつき、男の侵入を助けていく。
時おり男は自分の剣の先でネナの内壁の敏感な場所を突くとネナは一際高い鋭い声を挙げて上り詰めていく。
もうネナは自分が春を売る身だという事も忘れ、男が自分の身体に施す愛撫に酔いしれていた。
ネナの内壁は貪欲にうねって、男をもっと最奥に招こうと絡みついて離さないよう男の剣をしっかり締め上げようとすると、男がうっと小さい艶っぽい声を漏らした。男が仕返しのように一際強くネナの胸の頂きを摘まむとネナはまるで子供のように何度か首を横に振りながら吐息混じりの甘い声を挙げた。
男の剣が最奥に到着するとネナは安堵の甘い吐息を吐いた。ネナの潤んだ瞳と男の熱っぽい視線が絡み合い、どちらともなく唇を寄せて舌と舌を絡み合わせるように深く口づけをし、両指も絡み合わせるように両手を重ね合い、そして何よりも深い所で互いの男と女を感じ合っていた。
互いの唇が離れると男が緩やかに腰を動かし始め、ネナに絶え間なく快楽の熱い波を送ってくる。男の送ってくる熱い波に呼応するかのようにネナの腰も緩やかに揺れて、更にその熱い波に導かれるようにネナの唇からは深く甘い吐息が漏れ、男の唇からも時おり切羽つまったような短く小さな低い声が漏れていた。
二人の揺れる腰に呼応して寝台がギシギシと揺れ、男の送り出す熱い波は次第に大きく激しくなっていく。ネナはその熱い波に翻弄されないようにだろうか、薄れゆく意識の中で無意識で男の肩にぎゅっとしがみついて、甘い吐息を漏らしながら首を小さく左右に振りながら、上り詰めていく。
思わずネナの内壁が一際強く男の剣を締め上げた瞬間。男はうっとという獣の遠吠えのような声を挙げるとネナの内壁に熱い飛沫の濁流を浴びせた。
その瞬間、ネナはついに意識を手放して遠い世界に飛んでいた。
しかしその世界に一人で飛んでいたのではない。
男と手と手を取り合い、共に二人だけの甘く濃密で淫靡な世界に飛び立っていたのだ。
そしてその夜は二人は何度も身体と身体を重ね合い、より深い二人だけの濃密な世界に誘い合っていた。
何度も身体を繋げてネナは気だるい身体を男に預けていた。男はネナを抱いてネナの頭を自分の胸に置くと何度もいとおしそうに優しくネナの髪を撫でていた。
なあ、ネナ。お前は自由の身になったらどうするつもりだ?家族のいるモロタリに向かうのか?
不意に男はそう尋ねてきた。
このままいけば後数年で借金は返済でき、自分は自由の身になれる。けれどその後に普通の女が望むような平凡だが幸せな温かい家庭を持つ姿は想像できなかった。
一領都の娼館にいたならば遠く離れた領地にでも移り住んで過去を隠して生きていけなくもないだろう。
けれど都でも特に名の知れた娼館にいたのではこの国のどこにいても自分の過去は例え隠したとしてもいずれ明らかになってしまうだろう。
まさか。ネナは男の問いに小さく首を横に振ると、
あたしなんかが母さんとクスの所に行って過去に都で春を売ってたなんてばれたら大騒ぎになってしまうよ。
母さんの夫になってくれた人は自分の娘にすらあたしの素性は明かしてないんだからね。あたしは今でもオスハデにいてオスハデの領主様の館の下働きをしてるって事になってるんだ。それにあの人の娘の夫はモロタリの領主様のお側近くに仕えている。身内にそんな女がいると分かってしまったら立場がなくなるよ。
あたしの過去で母さんとクスの穏やかな生活を壊したくないんだよ。
思わず声に寂しさが滲んでしまっていたようで、男はそうか。とだけ言うとまた優しくネナの髪を撫で始めた。
そしてニヤリと笑うと、まあお前ならどこにいてもお前らしく輝いていて男どもを翻弄し続けているんだろうな?と言うとまたネナの胸を少しいやらしい手つきで撫で始めた。
ネナは思わず勘弁してくれよ。あたしはもうくたくたなんだよ。あんたが何度もしつこくするんだからと口を尖らせながら軽く睨むと男の方は、はははとどこか楽しそうに声を立てて笑うと悪い、悪い。お前が俺をその気にさせたからつい調子に乗ってしまったんだよ。と言うと表情を改めて、お前が俺を駆り立てるんだよ。俺をこんなに熱くさせたのはお前が初めてだ、ネナ。と言うと胸に抱いていたネナの身体を素早く組敷くとネナの唇に自分の唇を重ねて舌を絡みつけてきた。下腹部に当たる男の剣は既にまた固く大きく兆していた。
男の先ほどの言葉と自分を求めてくれているという男の身体の欲望の兆しにネナの身体は気だるい倦怠感の中でも早くも身体の奥の女の泉は新しい息吹きを起こし男を招き入れようと潤み始めていたし、男の胸に当たっているなだらかな両胸の頂きも固く凝り出して男に自分も早くも高まっている事を身体で伝えていた。
早くもう一度自分の中に来て欲しい。もっと深く感じさせて欲しい。あなたを感じたい。
男はネナの身体から発せられる言葉に気がついたようで、唇を離すとその濡れた唇と舌と指先をネナの身体に這わし、所々ネナの身体に自分の証を刻み付けるように小さな吸い跡をつけながら胸、腹、そして下腹部、そしてついには秘められた場所の入口まで降りてきた。
ネナが男を迎い入れようと両足を軽く開くと男はぐっと自分の両手で更に一際大きく開かせるとネナの泉の入口に同時に指と舌を這わせる。泉の水を掻き出すような細やかな指使いとからかうような舌使いにネナは腰をもじつかせながら、絶え間なく甲高い甘いうめき声を挙げてしまった。
潤んでいく意識の中でネナの心は叫んでいた。求めていた。
もっと。もっと。来て。奥まで来て。
あなたをもっと感じたいの。
ネナの心の声を聴いた男が指と舌の代わりに自分の兆した剣をネナの中に納めてきた。
何度も身体を重ねて獣のように這う姿で後ろから付き入れられたり、ネナが男の腰の上に乗り上げ自らの重さで串刺しにされて腰をくねらせたのもあったが、
やはりこうやって正面で向かい合うと、まるで身体だけでなく心も向き合っている気がして、ネナは知らずに安堵の笑みを漏らしていた。
そんなネナの笑みに男もネナと瞳を合わせると笑い返すと、男はまた激しく腰を動かしてネナに熱い悦楽の波を送ってきた。
ネナは男の送り出す熱い波に誘われて極まり、そしてついに男の灼熱の飛沫の放流を浴びると身体を痙攣させて最後に一際甲高い艶めいた甘い声を挙げると完全に意識を手放していた。
男はそんなネナからそっと身体を離すと小さく寝息を立てているネナをまるで我が子を見守る父のように優しく見つめると、ネナの素肌に優しく布を掛けると床に落ちている自分の衣を拾い上げると素早く身につけ、そしてネナを起こさないように音を立てないで静かにネナが一人眠る部屋を後にした。
ネナは肌寒さを感じて小さく身震いをして目を覚ました。どうやらかなりぐっすりと深い眠りに落ちていたらしい。寝台から身を起こすと素肌のままの自分の肩から掛けられていた布が床に滑り落ちた。どうやら男が眠っている自分に掛けてくれていたようだ。既に日は登ったらしく部屋に差し込む日差しが新しい一日が来た事を告げていた。しかしネナは肌寒さを感じていた。
傍らにいたはずの男の姿が見えないのだ。床の上には自分が脱がされた衣と帯だけが無造作に打ち捨てられ男の衣は姿を消していた。
何も告げずに男は去ったらしい。
傍らに感じた熱い男の体温を無意識に思い出していて
その途端にネナはとてつもない寂しさとまるで凍えるような身体の冷たさを感じて思わず自分の腕で自分を抱き締めていた。
どんなに熱く抱き合っても所詮一夜を共に過ごすだけの春を売る者と客の関係だったのだ。
考えてみればネナは男に自分の過去も含めて素性を明かしたが、逆に男は自分の名前すらネナには明かしていなかった。
所詮他の客の男達と一緒じゃない。
何を期待していたの。所詮一夜限りの相手よ。
ネナの中のもう一人の自分が自分を嘲笑う。
あんたは所詮春を売る身の女。あっちだって一晩楽しんだら待っている人の元に帰って行ったじゃない。
ネナは自分で自分にそうよねと言い聞かせる。
しかし胸が何かにわしづかまれたように苦しくなり、
瞳には自然に涙の粒が浮かんできていた。
ネナは涙を堪えるようにぎゅっと口を強くつぐみ、
泣き出さないように自分で自分を律していた。
男が去った後も自分の身体には男の跡がしっかりと残されていた。白い肌のかしこに残された小さな赤い印。昨晩朧気になっていく意識の中でも男の舌や唇、指が自分の身体のどこを這っていったのかはしっかりと身体が覚えていた。そして男が優しく自分の髪を撫でる時の手のひらのかさついた感触。そして低い声。自分を見つめた漆黒の瞳の優しさ。
自分の記憶の中にも男はしっかりと刻み付けられていた。
湯を浴びて男の痕跡を全て洗い流してしまおうと寝台から起き上がり床に立った途端に秘所から男が昨晩放った灼熱の飛沫の残滓が股を伝わって溢れ出てきた。
その生々しい感触にネナは想いを振り払うように首を横に振ると浴室に向かい、丹念に身体の隅々まで丁寧に洗い流して、男の記憶を肌からも、自分の脳裏からも、そして心からも消し去ろうとした。
ネナが簡単に衣を羽織り、髪も無造作に一つに緩く結い上げて食堂に行くとまだ疲れて寝ている者の方が多かったが、数人の仲間達が気だるそうに椅子に座って談笑していた。
ネナ姉さん。ネナの姿を認めるとミズが椅子から立ち上がってネナに声を掛けてきた。昨日はどうやらお若いの相手をしたから激しかったようね。姉さん、ほら、こんな所にも跡が残ってるわよとニヤニヤと笑いながらネナの首筋を指し示した。いいわね。若いし、ちらっと見かけたらなかなかいい男だったじゃない。
私なんて昨日の爺さん、散々しつこく身体を撫で回して人をその気にさせたのに中に入ってきたら二擦りか三擦りしたらあっという間に果てちゃって、その後はもうぐっすり高いびきよ。まったくだわと言いながら食卓に置いてあった木の実を口に放り込んだ。
仲間と挨拶のようにいつも交わされるこんな些細な戯言にも胸が痛んだ。でもネナは小さく無言で笑って見せた。
またいつもの日常が始まるだけだ。
そう自分で自分に言い聞かせてネナも喉を潤そうと水差しに手を伸ばした時に食堂に入ってきたホタがネナに声を掛けた。
ネナ姉さん。イクが呼んでるわ。そう言って顎で奥を指し示した。
食堂の奥にはイクの部屋があり、客と揉めた時や給金の取り分についての話など何かある時は女達は個別にイクに呼び出されていた。
何だろう?昨日の姿を消したあの男とは特に揉め事を起こしていないはずだ。もしやあの話の続きだろうか。ネナは一つ思い当たる節があり、とりあえず水で喉を潤すとイクの部屋に向かった。
前からイクはネナに自分がこの館の主人を辞める時が来たらこの館の権利をネナに売り渡したいと他の女達には内密に打ち明けていた。
アデもこの館を引き継ぎたいようだけど、あの子はどうも金勘定が下手でね。あの子がここの主になったらー月と経たずに傾いちまうよ。あんたならしっかりしてるし、上手く采配してくれるだろうから、どうだい?この話を本気で考えてみないかい?そう話を持ち掛けられていた。
ネナも普通に誰かの妻になるのは諦めていたし、この館にいた女達もある程度の年齢になると自分は春を売る身から退き、同じような春を売る女達を抱える館を持ち商売を始めていた。ネナが最初にいたオスハデの館も元はこの館にいた女がオスハデに開いた館であり、ネナは評判を聞き付けたイクに引き抜かれたのだ。
ごく稀に金持ちの男に身請けされて、その男の妾になる者もいたがこの館一番の稼ぎ頭であるネナを引き受けるほどの財力の男はおらず、ネナにはそういった話とは無縁だった。
イクの部屋の扉を叩くと中からお入りというイクの声がした。扉を開いて中に入るとそこにはイクと机を挟んで正面にある長椅子に寛いだ様子で少しだらしなく座り悠然と茶を飲んでいた男がいた。
昨晩抱き合い、姿を消したあの男がそこにいたのだ。
思わずネナは小さく息を飲んだ。
イクはネナにそこにお座りと長椅子の空いている男の隣を席を示した。
ネナが戸惑いながらも座ると、イクはこちらのお方が
あんたを引き受けたいと申し出てくれたんだよ。
その言葉にネナは驚いて男の横顔をまじまじと見つめてしまった。男が去ったのはどうやらイクと話をする為だったようだ。
女達は身柄を引き受けたいという客が現れれば自分ではどんな嫌な相手でも断れない。しかしネナはこの男の側にいられるなら無論妾でも何でも良かった。
しかしこの話は簡単には行かないだろう。ネナはちらりと視線をイクに送るとイクはネナに言い聞かせるように、それはそれでありがたいお申し出だけど、あんたはここの稼ぎ頭だし、あたしは行く行くはこの館を任せたいと思ってるのでそう簡単には手放せないんだよ。
そう言うとネナと男の方をちらりと見ると、まあ、どうしてもネナを引き受けたいと言うのなら、そうだね。まあネナの借金の残金も含めて。そう言うとイクは一呼吸置いた後に100000000ディル払うというならば
この話を受けてもいいがね。と法外な金額を口にした。
無理だろう。思わずネナは唇を噛み締めた。
しかし男は分かった。その額を払おう。これでネナは自由の身になって俺の者になってくれるんだなと逆に楽しそうに言うと、懐から手形の紙を出すと躊躇なくイクが提示した金額を書き込むとイクに差し出し、
これで話は纏まったなと言うと席を立ち上がり、
さあネナ。行くぞ。とネナの腕を掴むとネナを立ち上がらせようとした。
予想もしない展開に唖然としていたイクとネナだが、
イクは小さく一つため息をつくと、男に向かってどうやらあたしの負けのようだね。いいだろう。ネナを引き取っておくれ。そう言うとただし一つ条件がある。引き取った以上最後までしっかりと面倒を見ておくれよと言うと、ネナに幸せになるんだよと微笑み掛けた。
ネナの瞳には自然と涙の粒が浮かんできていた。
しかしこの涙の粒は朝に浮かべた涙とは違う。
喜びの涙であった。
ネナはイクに向かって小さく頷くと、それを見届けた男はこれから俺はオクルスに戻るからお前も一緒に来るんだ。必要な物は揃えるからどうしても必要な物だけ持って来ればいいと言うと、ああ。お前の弟の作った大切な髪飾りだけは忘れるんじゃないぞとどこか楽しそうにネナに声を掛けた。
ネナは涙に濡れた瞳で男に向かって大きく頷いた。
さあ、着いたぞ。
ネナは目の前に見える大きな屋敷に呆然と口を開いて見上げてしまった。そんなネナを男はどこか面白そうに見つめて笑っていた。
あれからの日々は急すぎて、また日々新しい発見と驚きに満ちていてネナには目まぐるしい毎日であった。
身柄を引き受けると決まった翌日にはセルシャの国を発つ事になり、しかも男はネナを他の男の目に触れるあの館から一刻も早く引き取りたいと言い出し、急かされてネナは慌てて旅の間に必要な数枚の衣や帯や靴や肌着、そして弟の作った飾り物だけ纏めると、残りの衣や帯や飾り物は同じ館の女達に譲り、仲間との別れを惜しんだ。皆泣きながらも口々に幸せになってねと祝福してくれた。
イクはあんたがオクルスの人に身請けされてオクルスに渡ったという事は誰にも言わないでおくよ。無論皆にも言い聞かせておくさ。新しい人生を始めるあんたが過去の影に怯えなくてもいいようにしてやるのはあたしの最後の役目だからね。客達にはあんたはクナクスの金持ちの爺さんの妾になってクナクスで泣き暮らしてるよと言っておくよと冗談めかして言っていた。
その日の夕刻には男の待つ宿に移り共に一泊し、翌朝早くに都を発ち、そして約一月を掛けセルシャの国とオクルスの国の国境でもある山を越えてようやくオクルスの国の都にたどり着いたのだ。
ネナが生まれ育ったオスハデからセルシャの国の都に初めて来た時もその大きさと壮麗さに驚いたが、セルシャの国よりも大国であるオクルスの国の都の規模の大きさ、人の多さと壮麗さは遥かに想像を越えていた。
二人を乗せた馬車が止まり、馬車から降りて目の前にそびえ立つ大きな屋敷を見てネナは驚いていた。
無論その大きさと壮麗さにも驚いたが、それよりもネナが驚いたのはこの屋敷の雰囲気からすると男が暮らす本宅のようだ。
旅の間に男の名はアグスという名であることは知ったが、アグスから家族や妻子についての話を口にしなかったのでネナの方からも特に尋ねる事はなかったのだ。春を売る身になった時からオスハデの館の主と、無論イクからも客から話してこない限りは客の素性やその他は一切聞いてはならないと言い含められていてネナも無論その世界に生きる身として、その掟は守っていた。
アグスの30を越えた年齢や成功した商人という社会的な立場からすると、既に彼には妻子はいるのだろうから自分は妾となってどこかオクルスの都にある小さな館でも与えられて暮らすのであろうとぼんやりと予想していたし、アグスの側にいられるならば無論それでも構わなかった。
しかし本宅らしき館に連れてこられてネナは驚いていた。
オクルスでは妾も同じ屋敷に暮らすのかしら。
まあこの広さならばそれも可能だしね。それとも先に妾は奥方様に挨拶でもするのが習わしなのかね。
まあセルシャの国でも王妃様と他のお妃様も同じ王宮の中で別に暮らしているのだからね。と気を取り直すとアグスに促されて屋敷の中に入って行った。
ネナはこの屋敷に使える使用人達の挨拶もそこそこにアグスにアグスの寝室らしき屋敷の一番奥の豪華な部屋に手を引かれて連れ込まれた。
奥方様や皆に挨拶の前にまずは抱きたいって事なのかねとネナはこの一月を振り返って思わず苦笑した。
旅の間同じ部屋で寝泊まりして、毎晩アグスの腕の中で眠ったが、なるべく大きな村のある場所で夜を過ごせるよう計画しての旅であったようだが、領都外れの小さな村の宿に泊まる事もあり、初めて出会った夜のように激しい交わりは旅の間一度もなかった。それに旅にはネナとアグスの他にアグスの右腕である無口で実直そうなイモラという男と他に二人のザズキとクリナという使用人も付き従っていたので部下のいる旅であまりそういった気配を漂わせるのもというアグスの考えもあったようだ。
いくら旅慣れた商人でもやはり旅には幾分かの危険も孕んでいる。慣れた自分の屋敷に着いて安心したのだろう。なので次はという所か。
しかし無論ネナも反対ではなかった。むしろアグスのたくましい腕に抱かれ、そしてもっとアグスを感じたかった。
アグスはネナを自室に連れ込むとネナを大きく豪華な寝台に座らせると、ネナ。お前の名前だがアリナはどうだ?オクルス語で宝という意味だからお前に似合うと思うがどうだ?それともアスフの方がいいか?この上もなく美しいという意味だが俺はお前にはアリナの方が似合うと思うんだがと急に口にした。
ネナはアグスの言い出した意味が分からずに思わず怪訝な顔をすると、アグスはお前のオクルスでの名前だ。まあ俺と二人きりでいる時はネナでも構わないが、使用人達も自分の使える奥方様の名前がセルシャの国の名前だと決まりが悪いだろうし、呼びにくいだろう。
イモラやザズキやクリナの他に数人の者達はセルシャ語に堪能だから不自由はないだろうが、この屋敷に使える多くの者達はセルシャ語は話せないからお前には追々オクルス語を覚えて貰わないといけないが、それまでは何かあったら俺やイモラを通して話を伝えてくれ。
ああ、それとお前に使える侍女頭にセルシャ語の話せる者を先に文を送って探しておいて候補者が見つかったから安心していいぞ。父親がセルシャ語の通師をしていた者の娘でお前とも年が近い。人柄もいいと聞くから近々屋敷に呼んだからお前が気に入ったらお前の侍女頭にするんだ。屋敷の事は昔から使えているカザイという婆さんが一切を取り仕切ってくれているから心配はいらない。カザイもようやく旦那様が気に入った方を見つけて奥様を迎えてくださったと喜んでいるから後で紹介するからな。そう口にした。
ようやくアグスの言葉が意味する所を理解して思わずネナは震える声で尋ねた。
つまりあんたには奥方様はいなくて。
その後の言葉が告げられずネナはアグスを見つめると、ああ。言ってなかったか。俺はお前が聞いてこないし、俺はあの時俺をこんなに熱くしたのはお前しかいないと言ったはずだが。と笑いながら言うと、表情を改めるとネナ。俺の妻になって欲しい。俺はお前と一緒に生きたいんだ。そう優しい深い眼差しでネナを見つめながら囁いた。
ネナはその言葉に瞳からは涙が溢れ出し、声も出せずにただ黙って大きく何度も頷いて応えた。
そんなネナを優しい眼差しで見つめながらアグスの乾いた指先が優しくネナの涙を拭ってくれ、そっと唇を重ねてきたので、ネナもそっと目を閉じてその唇の優しさを感じていた。
優しい触れ合うような口づけから段々深く絡み合う口づけに代わり、一旦二人の唇が離れた。
ネナはアグスを見つめて微笑むと、アグス。一つ頼みがある。とこ口にすると、アグスは視線でネナの次の言葉を促した。
あたしにオクルスの言葉を教えて欲しい。と言うと
大きく息を吸うと、あたしもあんたと共にずっと生きていきたい。愛してるよはオクルス語で何て言うんだい?とアグスに微笑み掛けて告げると、アグスはとろけるような笑顔をネナに向けて、言葉は後でじっくりと教えてやるよ。まずは態度でしっかりと示して貰わないとなと言うと優しくネナを寝台に横たえると覆い被さってきた。
ネナは覆い被さってくる心地よい重さと肌の暖かさ、そして触れてくる指の優しさと眼差しの深さにうっとりと目を閉じると、自分からアグスの肩に手を添えると自分の方に引き寄せて唇を重ね合った。
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今のセルシャの国の王宮の薬師長はサチと言って、前の前の副薬師長の倅で前の薬師長の娘婿なんだが、頭は偉くいいが賄賂など効かない堅物でね。
たまたま宿で一緒になったオクルスの薬商人が口にした名前に思わずネナの遠い記憶が甦っていた。
あの時のサチがセルシャの国の薬師長になっていたのか。かつて自分が二回ほど相手をした生真面目そうな青年を思い出していた。あの時も悪友に騙されたように連れられて館に来ていたっけねと思い出して思わず懐かしさに自然と頬に笑みが浮かんでいた。
あれからネナは名をアリナと変え、アグスの妻としてアグスと共に生きていた。アグスに頼み自分の侍女頭になったハイナだけでなく、オクルス語の教師も側に付けてもらい読み書きも含めてオクルス語を必死に勉強したかいもあって今ではすっかり流暢にオクルス語を操り、元々オクルスの人々と同じ黒い瞳に黒髪である為かネナが元はセルシャの国の民だと気がつく者もほとんどいなかった。
オクルス語を覚えるにつれ、アグスから日常の会話で日々の商売について聞く度に自分ならこうしたらいいのにという思いが浮かんできて思い切ってアグスに提案した所、ネナの提案した方法でより多くの利益を生み出す事ができたし、ネナは元から衣の色合わせなど色彩や着こなしについても感覚が鋭く、ネナの目利きで仕入れたセルシャの国の絹やネナが柄や色を指示して作らせた絹織物がオクルス王妃の目に留まり、今ではアグスはお王宮お抱えの商人に名を連ねていた。
ネナはアグスの妻としてだけでなく右腕としてもアグスを支えており、セルシャの国に買い付けの旅の際は常に同行していた。
お前の目利きの才もあるが、お前と離れて数ヶ月も暮らすのは耐えられないな。その間俺に禁欲生活を送れと言ってるようなものだからな。お前を抱いた後に他の女じゃ満足できないようになってしまったからなと
アグスは笑うがネナもこの男と常に共に生きていたかった。
今日もセルシャの国に向かう際にたまたま一緒の宿になった薬商人と宿が混んでいたので食堂で相席になり、これも縁だと言うアグスと薬商人が酒を酌み交わしている際に最近のお互いの商売の話の際に懐かしい名を偶然聞いたのである。
ふとネナはセルシャの国の懐かしい人々に思いを馳せていた。風の噂ではイクの後にアデが花の蜜の館を引き継いだがイクが心配したとおりにはならず、今も繁盛しているらしい。
そして弟のクスはモロタリで一人前の飾り者職人となり、同じように飾り者職人の娘の妻を迎え三人の子の父となっていた。母は数年前に義父を病で亡くしたが今はクスやその妻、孫達に囲まれモロタリで穏やかな老後を過ごしているらしい。さすがに老齢な母は連れて来れないので無理だったが一度だけクスとはセルシャの都で十数年ぶりに再会した時はネナは弟の成長ぶりに思わず涙を流した。
一つ残念な事にアグスとの間には子は授からなかった。もしかすると春を売る身の時に孕まないよう飲んでいた薬の影響かも知れないが今となってはそれが原因かも分からなかった。
しかしアグスは逆に商売の才がないのに自分達の子だという情だけで商売を引き継がせるのはどうかと思うと常々口にしていたし、幸いにもイモラの数人いる甥の一人のキタラが賢く、交渉にも長けており、語学の才もあってセルシャ語も話せる。
ネナとアグスは将来はキタラに自分達の商売を任せようと思っていたし、キタラも二人を本当の両親のように敬ってくれている。
ネナが過去に想いを馳せている間にアグスと薬商人との話が終わっていたらしい。さて明日は早いし休むとするか。そう口にして席を立とうとした。
薬商人も今晩はいい話を聞けたよ。ありがとうな。
今度オクルスの国に戻ったら、また一度ゆっくり話そうじゃないかと相づちを打つと、アグスの傍らに座っていたネナに視線を向けると奧さん。お前の親御さんはいい名前を付けたな。アリナ。いい名だ。お前さんのお陰で商売繁盛なんてあんたはいい嫁をもらったなとアグスに笑いながら言うと、アグスは粋に片目をつぶると、そうだろう。アリナは俺にとっての最高の宝なのさ。だから常に肌身離さず側に置いているのさと
声に出して笑った。
二人で部屋に戻るとアグスがそっとネナを引き寄せて唇を重ねてきたのでネナも目を閉じて応えた。
そう。これからもこうやって二人共に生きていく。
ネナは自分の宝でもある男の背にそっと腕を回し引き寄せた。
完
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