町田 千春 著

染色師外伝 その2     TOP

少し冷たい夜風に当たって酔いを覚ましてから戻ろう。頬に当たる少し冷たい夜風すら心地好かった。

あの大広間では皆の視線がちくちくと自分に刺さってくる感覚がして居心地が良くなかった。

その感覚を払うべくグリソルはゆっくりと庭園を歩いていた。

王宮の庭園とは言え夜なので、歩いているのはグリソルとグリソルに付き従うマサとグリソル付の数名の侍女だけだ。マサ達はグリソルの邪魔にならないよう少し距離を置いて従っていた。

ふと夜空を見上げると頭上には大きな丸い月が青白く光って浮かんでいる。今晩は満月であったか。

だから夜でも明るいのか。そんな事をぼんやりと考えながら歩いていると、目の前に誰か人影がある。

え?グリソルが目をすがめて相手を見つめると、そこには東のキクアラの領主の娘で、そしてカキトナの妻となったササミレの姿が映った。

ササミレもまさかこんな時間にグリソルが庭園を散策しているとは思っていなかったのだろう。

グリソルの姿を見つめると驚いた様に目を見開いた。

しばしお互い無言で見つめ合ってしまったが、すぐにササミレは我に返り、グリソル様。お健やかにお過ごしでいらっしゃいましたでしょうかと恭しく腰を折ってグリソルに挨拶をした。

グリソルとササミレは同じ年で、ササミレの方が数ヵ月ほど先に産まれた。なのでお互い同じ東の領地であるザルハスとキクアラの領主の娘時代は頻繁に会えはしなかったが文を送りあったり、幼い頃にはそれぞれの領主の館に招き合い泊まった事もある。

お互いそれぞれの領地に友達付き合いをする貴族の娘達がいなかった訳ではないが、やはり領主の娘という立場を理解し合えたのはグリソルにとってはササミレで、ササミレにとってはグリソルで言わば最も親しくしていた幼なじみでもあった。

そんなササミレは娘時代と異なり、グリソルには貴い人として接してきて、グリソルはお互いの間に昔とは違って大きな見えない隔たりができてしまった。

そう感じて寂しさにそっと目を伏せた。

グリソルもつい無意識にだろう。

ササミレ様もお健やかでと口にすると、ササミレと背後に控えていたマサが無言で何か言いたそうに見つめてきたので、慌ててササミレ殿もお健やかでおりましたか?と言葉づかいを改めた。

そんなグリソルにササミレははい。とまた恭しく腰を折って深々と礼をした。

言いたい事、聞きたい事はたくさんある。けれど何から話したらいいのだろう。そして自分はササミレに何を打ち明けるのであろう。

そんな風に逡巡して立ち竦んでしまったグリソルに背後から控えめにマサがグリソル様、立ち話もなんでしょうから、あちらに東屋がございます。あちらでお二人でお話しされてはいかがでしょうか?と言うとちらりとササミレを見ると、積もるお話もおありになると思いますので。と暗に二人が過去に懇意にしていた事を知っているという視線を送ってきた。

グリソルもマサの声に小さく頷くと、ではササミレ殿。あちらに参りましょうと促すとお互いの侍女を引き連れて少し先の東屋に向かって歩を進めた。

その間二人は無言で青白い月に照らされた王宮の庭園の細い曲がりくねった道を静かに歩いて行った。

二人はそれぞれの侍女達を少し離れた場所に控えさせると東屋の椅子に腰掛けた。グリソルはササミレの顔を久しぶりにじっくりと眺めた。

娘時代の愛らしさに加えて母となったからだろうか。どこか穏やかな落ち着いた美しさも湛えていた。それとも穏やかで優しい夫に愛されているからだろうか。

娘時代、タツルスの妃にふさわしい適齢期の貴族の娘達の中でもササミレと西のパルハハの領地の姪のサアンゾの美しさは評判であったとグリソルも知っていた。

サアンゾが婚姻前の娘時代からどこか既に成熟した女のような色香を漂わせていたのに対して、サアンゾはまるで少女のままに時が止まってしまったかのように

純真で愛らしかった。笑うと豊かな頬にえくぼが浮かぶのが愛らしい。同性である自分ですらそう思ったのだから、タツルスもそう思っても不思議ではない。

そうグリソルは一瞬思ったが、自分の考えに小さく頭を振った。

夫としてタツルスに接していてグリソルはタツルスが誰かを本気で愛する事はない人なのだろう。と気がついていた。自分とレナミルは言わば政略結婚としてタツルスの自分の意思ではなく選ばれた相手である。

タツルスが自分で選んだ相手とすれば元侍女であったカトハルであるが、カトハルが一際タツルスの寵愛を受けているかと言うとそうでもなかった。

タツルスの父である王様には王妃様の他に三人の妃がいるが、その内元侍女であったクミハルは一身に王様のご寵愛を受けているのは周知の事実であるが、タツルスとカトハルの間には王様とクミハルのような深い繋がりは感じられなかった。

タツルスには妃達の他に西の貴族の奥方のセルカイのように自分との婚姻前から今も続いている年上の女友達がいるが、周りの状況を即座に判断できる賢さと立ち回っていく上手さ、そして心の機微にも敏いセルカイの事は姉のように慕っているのだろうと容易に推測できたが、それは男女の愛ではないのだろう。

タツルス様は愛し愛される事をお望みではないのだ。

ササミレはタツルスの妃候補と囁かれていて、秘かに恋仲であるという噂すら流れていたが、タツルスはササミレにそういった感情は抱いていなかったのであろう。

けれどササミレはタツルスに秘かに想いを寄せていたのではないだろうか。

お互いいつ誰に嫁がされるか分からない領主の娘という立場から、そういった恋心を明かし合った事はないが、幼い頃から物語の優しく美しく王子に憧れていた夢見がちなササミレならばタツルスに想いを寄せていても不思議はなかった。そして自分もカキトナに惹かれているという事を他人に打ち明けた事はなかった。

気がついていたのはグリソルとカキトナが一緒にいる時に感づいてしまったグリソルの父と、そしてカキトナの叔母である王様の妃のクノスクだけであろう。

そしてカキトナ本人も自分が想いを寄せている事には気づいていたのだろう。

そう思った途端にグリソルの瞼の裏に控えめだが優しい包み込むような暖かい眼差しを浮かべたカキトナの笑顔が浮かんできた。

立場上グリソルから話し掛けないとササミレは話せないだろう。グリソルは迷いを振り払うようにササミレに笑顔を向けるとササミレ殿もお元気そうで何よりです。タスカナでのお暮らしはいかがでしょうか?と笑顔で尋ねた。

東の領地では少し北寄りのキクアラと東の領地の中ほどにあるタスカナでは多少の気候の差や文化の差はあるが、基本的に同じ東の領地である。ササミレがタスカナでの暮らしにすぐ馴染んだのは想像に明るい。

それ故に嫁いですぐ子を身籠れたのか。

そんなグリソルの問いかけにササミレはお陰様でカキトナ様も父上様も母上様もお優しい方々なので、私のような者でもタスカナの暮らしは順調でございます。と返した。ササミレが私のような者と言った時に少し哀しげな表情を浮かべたのをグリソルは見逃していなかった。タツルスとお互い想い合っていたが王妃様の差し金で引き離されたという噂のあったササミレはタツルスの婚姻後、他の貴族の子弟達は表向きは自分なぞ恐れ多い。内心は別れたくないのに引き離されたタツルスの恨みを買いたくないという想いからか、誰もササミレに結婚の申込みをしなかったのだ。

そんな中でカキトナがササミレに結婚を申込み、娘の行く末を案じていたキクアラの領主がカキトナの両手を強く握り締め大泣きしたという噂すら流れていたくらいだ。

世間の噂では王妃様の仕打ちに同情した王様が自分の妃でカキトナの叔母でもあるクノスクを通じて、兄であるタスカナの領主と甥であるカキトナにササミレを妻とするよう説得させ、二人はそれに折れたとすら伝わっていた。

タツルスを秘かに想っていたかも知れず、タツルスと噂があった為か自分に非があるとどこか恥じていて、自分を責めているようなササミレにそんな事はないと安心させてたくて、グリソルはカキトナ殿のようにお優しい方の元に嫁げて、そしてすぐに元気な二人の男の子にも恵まれたササミレ殿はお幸せな方です。と笑顔を向けた。

そんなグリソルにササミレは本当にカキトナ様はお優しくてと言うと思うところがあったのだろう。少し涙ぐんで声を詰まらせ、なので私のような者を妻にしてくださったカキトナ様の為にも一日も早く将来は良きタスカナの領主の妻になれる様、精一杯カキトナ様をお支えしようと思いますと答えた。

過去に何があったとしても今はカキトナを信頼して愛しているであろうササミレに引き換え、自分はタツルスとの間に愛も信頼と言えるほどの深い絆もない。

思わずグリソルは無意識でうらやましいですわと声を漏らしてしまった。そんなグリソルの言葉にササミレは、はっと息を飲んだ。

どうやらササミレの耳にもいくつもの噂とも事実とも言える王宮での話が伝わっているのだろう。

タツルスは妃の中では一番グリソルを気に入っているが、いつまで経っても二人の間に子が授からないのでグリソルは思い悩んでいる。そこに王妃様の姻戚である若いレナミルが嫁いで来た為に余計悩みが深くなっいると囁かれている事はグリソルも知っていた。

タツルスの愛云々は別としても嫁いで来て、世継ぎの王子どころか王女すら授かっていないグリソルは妃としての務めを果たせていないので、せめて子ぐらいは授かりたいと思っている。

グリソルの思わず漏らした言葉が自分達夫婦との繋がりの深さを比べてとは露とも思っていないであろうササミレは、グリソル様。タツルス様はお立場上、何かとお忙しくてご気分が休まる時も少ないかと存じます。そういった時はお子は授かりにくいと聞きますし、

それにタツルス様はお立場上、王妃様と縁の深いレナミル様をお迎えされましたが、一番大切に想われているのはグリソル様だと聞いております。そしてちらりと今日グリソルが身に纏っている衣に視線を送ると、今日の素敵なお召し物もタツルス様自らグリソル様の為に選ばれてご準備されていたとか。タツルス様のグリソル様への想いの深さへの表れですね。なので例え周りが何を言っていたとしても周りの声にお耳を傾けずタツルス様の愛だけをお信じになれば、きっとその内全て上手くいくと思います。といつしか昔の友を勇気づけるような口調でササミレは述べていた。

世継ぎの王子の妃と一介の領主の跡継ぎの妻という立場の隔たりはあるが、ササミレは昔同様に自分を想ってくれている。その気持ちはありがたかったが、ササミレにはまさか今も自分はササミレの夫であるカキトナに秘かに心を寄せていて、タツルスとは愛どころか信頼という絆すら感じられないという事はとても打ち明けられない。

そんなササミレにどう応えていいのか分からず、内心グリソルが戸惑っていると、急にササミレが何か身体に違和感でも感じたのだろうか。一瞬小さく顔をしかめたのにグリソルは気がついて思わずササミレが心配になり椅子から腰を浮かせると、少し後ろに控えていたササミレの侍女二人もそんなササミレとグリソルの様子に気がついたのであろう。

グリソルの手前、控えめにだがササミレ様。大丈夫でいらっしゃいますか?と心配そうにササミレの元に掛け寄って来た。

思わずグリソルは侍女にササミレ殿は何かお加減が良くないのか?と心配そうに尋ねると、少し年長な方の侍女はグリソルに恭しく頭を下げると、グリソル様。

ササミレ様はお腹にお子を宿しておいでなのです。と伝えると、また恭しくグリソルに頭を下げた。

子を宿している?

つまりそれはササミレの腹の中にはカキトナの子が宿っているという事だ。

カキトナの元に嫁いですぐに双子の男の子を宿し、そしてまたすぐに新しい二人の間の命を宿した。

貴族の子弟の中には艶聞が絶えないような色恋沙汰の多い者達もいるが、妻を迎える前にも、そしてササミレを妻に迎えてからもカキトナについてはそういった話を耳にした事がなかった。むしろタツルスの従兄でもあるアソニジがカキトナは色恋沙汰に興味がないのでカキトナの心を揺さぶる女がいたら、その女の顔を見てみたいぐらいだと宴席でからかったという話すら伝わってきていた。

早くも三人目の子が授かったのはカキトナとササミレの愛の深さを見せつけられた気がして、グリソルは皆に分からないように小さく拳を握り締めた。

侍女はササミレ様は宴の人の多さにご気分が悪くなり、少し風に当たってからお戻りになると仰って席を外されたのでございますと宴からのササミレの中座を詫びた。

すぐに薬師を。グリソルはマサに声を掛けると、マサは大きく頷き、傍らに控えていたグリソル付の別の侍女が二人慌てて宮殿の方へと走っていった。

申し訳ございません、グリソル様。そうササミレは少しまだ辛そうな表情を浮かべて謝ったが、それはまるでカキトナとの間に子を身籠った事を詫びている用に聞こえてしまう。

まさか、ササミレは自分がカキトナを想っていた事を知っていたのでは。そんな気すらして秘かにグリソルが狼狽していると宮殿の方からこちらに向かって慌てて一直線に走ってくる二人の人影が徐々に近づいて来た。すらっとした体型の男と小柄な女だ。

目を凝らして見るとカキトナとグリソル付の先ほど宮殿に慌てて走っていった侍女の一人だ。

二人の侍女が宮殿に向かって走っていったが、どうやら一人は薬師を、もう一人はササミレの夫であるカキトナを呼びに行ったようだ。

カキトナは東屋に着くと、ササミレ!大丈夫か!と慌てて妻の元に駆け寄り、ササミレの手を取り顔を覗き込んだ。ササミレがはい。大丈夫でございます。と小さいがはっきりした声で返事をするとほっとした表情を浮かべた。そしてようやく視線をササミレから周りに移した時、ササミレの目の前に座るグリソルに気づいて、はっと大きく息を飲んだ。

しかしすぐさま、慌ててグリソルに向かって大きく頭を下げると、グリソル様。お元気でいらっしゃいましたでしょうかと言うと、この度はササミレがご無礼を致しました。妻に代わり私からお詫び致します。と

更に深く頭を下げた。

グリソルは思わず周りに気付かれないようにぎゅうと拳を握り締めると平静を装い、カキトナ殿。お久しぶりでございます。カキトナ殿もお元気でいらっしゃいましたでしょうか?と言うと、ササミレ殿の気分が優れない様なので薬師を呼びました。直ぐにこのまま診てもらう様に。ササミレ殿も不安でしょうから、カキトナ殿。宴の方は私から上手く言っておきますから、そなたはササミレ殿の側に付いてあげなさい。

そう命じる様に一つ一つの言葉をいつもより低くゆっくりした声で告げた。

その声にカキトナは何か言いたそうな表情を浮かべてはいたが、グリソル様。ご配慮ありがとうございますと言うと、その声を待っていたように傍らに控えていたマサが、ではカキトナ様、ササミレ様。こちらでございますと宮殿にあるカキトナの叔母であるクノスクの館の方へとカキトナとササミレ、そしてササミレの二人の侍女を案内した。そして先ほどカキトナを呼びに行った小柄なグリソルの侍女に何か彼女の耳元で小声で伝えると侍女は小さく頷くと、カキトナ達の後に従った。

彼らがクノスクの館の方に歩き始めるのを見届けるとマサは、グリソル様。そろそろ宴に戻りませんと。とグリソルを宴の行われている大広間の方へと導こうとした。

グリソルは小さく首を横に振ると、マサ。私もどうやら慣れない乾杯の杯を重ね過ぎてしまったようで少し気分が優れないの。なのでもう今日は休むわ。

タツルス様にその様にお伝えしておいて。いいえ。

タツルス様はサカタリ様や他の方とのお話が弾んでいると思うのでタツルス様の侍従長に伝えておいて頂戴

。カキトナ殿の事も一緒に伝えておいて。

そう言うとマサは承知致しました、グリソル様。と言うと自ら宮殿の方に向かって歩き始めたので、グリソルは数名の侍女を引き連れて、宮殿の大広間とは反対方向にある自分の館の方へと向かって歩き始めた。

自分の寝室に入ってどれぐらい経ったのだろうか。

薬師を呼んだ方が良いかと尋ねた侍女に酔ってしまっただけなので大丈夫なので、少し一人にして欲しいと

告げて侍女達を遠ざけたが、まるで魂が自分の身体から抜け出てしまい脱け殻のようで衣も夜衣にも着替えず飾り物も外さずにただぼんやりと椅子に座っていた。

グリソルの脳裏には先ほど久しぶりに再会したカキトナの姿ばかりが浮かんでいた。自分がタツルスの元に嫁いでから大きな宴などにはカキトナも参列していたが遠い席であったし、周りや、そして何よりタツルスの目を恐れて意識的にカキトナを見ない様にしていたのだ。

しかし今日、間近でカキトナの姿を見てしまった。

婚姻前は誠実だが少し控え目な印象のカキトナだったが、夫となり、父となったからだろうか。

昔と変わらない誠実さはそのままに、そこに男としての強さや自信のようなものも今のカキトナからは感じ取れた。そして昔は自分に注がれていた優しい眼差しをササミレに向けていた。

そう想うとグリソルはぎゅっと目を瞑った。

もう自分は世継ぎの王子であるタツルスの妃で、カキトナと結ばれる事はないのに。そう頭では分かっているが胸が苦しい。カキトナとてササミレを妻にして子までいる。自分とカキトナは一緒に一本の道を手を携え合って歩んでいくはずだったのに、その道は途中で大きく二つに分かれてしまい、カキトナはササミレの手を携え歩き出していて、自分はもう一つの道をタツルスと手を携え歩いている。いいや。タツルスと手を携えては歩いていない。一人で道の分岐点を振り返りながら歩いている。

その時であった。外から扉を叩く音がした。

一人にして欲しいと告げてあったはずだが?

訝しげに視線を扉の方に向けると扉の外から、マサの声がする。

グリソル様。お休みの所失礼致します。タツルス様がお見えでいらっしゃいます。と声を掛けるとすぐに扉が開かれた。

その声にグリソルは慌てて椅子から立ち上がった。

部屋に入ってきたタツルスもグリソルは既に休んでいると思ったのだろう。

着替えもせずに起きていたグリソルの姿に驚いた様で、グリソル。そなた具合が悪いと聞いたが、休んでいなくて平気なのか?と心配そうに眉を寄せた表情を浮かべて近寄ってきた。

どうやら具合が悪いと聞いてグリソルが休んでいるのを確認しに来たようだ。

申し訳ございません、タツルス様。ご心配させてしまいました。ただ慣れない乾杯の杯を重ね過ぎて酔ってしまっただけにございます。気がつくとまるで何か言い訳をする様に少しいつもより早口で告げていた。

そして心の隅でどこか自分は大丈夫なので、今晩は一人にして欲しい。そう思っていた。

慌ててそんな考えを打ち消す様に笑顔を浮かべると、その後の宴はいかがでしたでしょうか。使節の方々はお喜びになっておりましたでしょうか?と尋ねると、ああ。使節の方々もお楽しみ頂いた様で笑顔で賓客用の館にお帰りになって行ったと答えた。

無事に宴は終わった様だ。それにはグリソルもほっとした。

自分は身体の具合は悪くないし、無事宴が終わった事も聞いた。もうタツルスがここにいる用事はないはずだ。グリソルはタツルス様。ありがとうございます。

タツルス様はお疲れの事と思いますので今晩はゆっくりお休みくださいませ。そう丁寧に述べるとゆっくりと頭を下げてタツルスが部屋から出て行くのを見送ろうとした、その時であった。

頭を上げた自分とじっと自分を見つめるタツルスの視線が一瞬絡まり合った。

タツルスの瞳の奥に何かいつもと違う暗い光が漂っている。

そんな気がしてしまい、思わずグリソルは慌てて視線を反らしてしまった。

そんなグリソルにタツルスはいつもより低い。しかしどこか荘厳な声でこう告げたのだ。

いったい誰の事を想っているのだ、グリソル。

その声に弾かれる様にグリソルははっと小さく息を飲むとタツルスの顔をじっと眺めてしまった。

お互い何も言わずにしばし無言で見つめ合ってしまった。二人の視線だけが絡み合う。

自分の心の奥底に隠していた想いを見破られてしまった。

グリソルは思わず絡み合っていた視線を外すよう俯いてしまったが、それはタツルスの問いに無言で応えてしまっていた。

そうか。タツルスはそう低く告げるとグリソルの腕をぎゅっと掴んだ。

いつもタツルスが自分に触れる時はそっと優しくしか触れない。思わずいつもと違うタツルスの気配に小さくグリソルが身じろぐとタツルスはグリソルを一気に自分の方にグリソルを引き寄せると耳元にこうそっと囁いた。

お互いこの王宮に囚われて哀れだな。しかしそなたも私もここから逃れられないのだ。諦めるしかないのだ。そう告げると諦めろ、グリソル。そう最後に少し苦しそうに呟くと自分の胸元に引き寄せていたグリソルを軽々と抱き上げると、そのまま寝台に向かいグリソルを少し放り出すように寝台に落とした。

いつもは優しく寝台に横たえさせるタツルスとは違う。いつもと違う気配を漂わせるタツルスにグリソルはこれから自分の身に起こる事に小さく怯えた。

寝室には窓の外から射し込む青白い月の光だけが輝いており、辺りは暗いがその中にタツルスとグリソルの二人の姿だけ浮かび上がってくる。

いつもなら優しく夜衣を肌から滑らせるように剥いでいくのに、タツルスは荒々しくグリソルの腰元の帯を解く。すると衣の胸元がはだけて夜目にもグリソルの白い肌が晒されていく。もう既にタツルスとは何度も肌を重ねているが、思わずグリソルは咄嗟にはだけた自分の胸元を隠そうと衣の胸元をかばった。

それは隠していた自分の心を咄嗟に隠そうとした様に見えたのかも知れない。

そんなグリソルの態度にタツルスはもう一度低い声で諦めろ、グリソル。私もそなたもこの王宮からは、運命からは逃れられないのだ。そう言うと胸元をかばうように自分の衣の端を握っていたグリソルの両手をタツルスは左手でグリソルの頭上に繋ぎ止めるように寝台に押し付けると、空いていた自分の右手で一気に衣を脱がす為に手荒く衣を引き裂いた。

繊細な絹の衣の引き裂かれる音だけが静かな寝室に響き渡る。それはまるでグリソルの心の悲鳴のように叫んでいた。けれどグリソルは声を上げられなかった。

夫であり、そして何より世継ぎの王子であるタツルスの振る舞いには抵抗できない。ただぎゅっと目をきつく閉じ、唇も噛み締めた。

逆にそんな仕打ちをされても抵抗しないグリソルにタツルスはそなたは私にこんな風にされても嫌だという本心すら口にしないのだな。そうタツルスはどこか少し哀しそうな目をしてグリソルを見つめると、噛み締めたグリソルの唇をこじ開けるように自分の唇を激しく重ねると舌を絡ませようとグリソルの口腔内に荒々しく入ってきた。

タツルスは舌を激しく絡ませながら、グリソルが抵抗しないと分かったのだろう。グリソルの両手を寝台に繋ぎ止めていた左手を外すと、両方の手で下から掬い上げるようにグリソルの乳房を掴むと強く揉みしだいた。

タツルスと肌を重ねる時はいつも優しく扱われた事しかなかった。タツルスに女の手解きを教えたセルカイか他の貴族の奥方がそう教えたのだろう。

唇を優しく重ねた後に滑らせるようにグリソルの肌を優しく手のひらで愛撫して、そしてほどなくすると

重なってきたタツルスが自分の中に入ってきていた。

グリソルが王宮に嫁ぐと決まった時に母が秘かに領主の館に呼んだ、恐らく元は春を売っていた女だろう。年を重ねてもどこか堅気ではないような怪しい雰囲気を漂わせていた老女から男と女の交わりについて教えられた事があった。生娘であったグリソルが赤面してしまうような絵を見せられ、どのように抱き合うのか、どのように女は寝台の上で振る舞えば良いのか手解きされたが、実際に嫁いでみたらタツルスとは一度も老女から教えられたような激しい営みはなかったのだ。

しかし今日のタツルスはいつもとは違っていた。

きっと自分ではなく他の女を抱いている時はこのように激しく、そして獰猛な獣のような営みを繰り広げていたのだろう。自分の知らないタツルスの姿を知ってしまい、グリソルは思わず、これは罰だわ。

タツルス様の妃になったのにカキトナ様をずっと心の中に秘めていて想いを寄せていて、タツルス様に寄り添おうとしていなかった。タツルス様の本当のお姿を知ろうとしなかった私への罰なのだわ。そんな想いが浮かんできて思わずグリソルの瞳には涙が浮かんできた。

お許しください、タツルス様。そう思わずグリソルは口走っていた。

その声に弾かれるようにタツルスはじっと無言でグリソルを見つめると、いきなりタツルスはグリソルの首筋に舌を這わせると、いきなりかりっと小さな痛みがグリソルに走った。タツルスがグリソルの首筋に小さく歯を立てたのだ。

そして同じように肩から下へと徐々に肌に指と舌を滑らせていき、時折ぎゅっと強く握りしめられ、小さく歯を立ててグリソルの肌に噛み痕を残していく。

どこか遠い東の国では罪人に熱く熱したこてを肌に押し付け罪人の烙印を押す罰があると聞いた事があったが、まるで同じようにタツルスの熱い唇と強い指先が自分の肌に罪人の烙印を押していく。グリソルの白い肌に次々に罪人の烙印が押されていった。

首筋や肩や胸元、そしてタツルスはグリソルが抵抗しないので、グリソルをうつ伏せに這わせるとその背骨に沿って舌と指を這わせると背中にも次々と熱い烙印を押していった。

グリソルは声も出さずに静かに涙を流しながら、タツルスの施す愛撫とそして微かな痛みに耐えていた。

お許しください、タツルス様。

そう心の中でずっと繰り返しながら。

烙印のような舌と指での愛撫が終わるとタツルスはそのままうつ伏せになったグリソルの腰を持ち上げるとグリソルを寝台に膝立ちさせると、いきなりグリソルの秘所に舌を這わせてきた。

あまりの事にグリソルは驚いて、ついに戒めを破ってお止めください、タツルス様。と涙声で懇願していた。タツルスが自分のそんな場所にと思うと羞恥で気を失ってしまいそうなくらい恥ずかしい。

しかしそんなグリソルの懇願にタツルスは何も恥ずかしがる事はない。昼間は皆自分は清く正しいのだと言った仮面を被っているが、人間の本性などこんな物だ。皆昼間は清く正しい顔をしておいて、夜にはこんな事をしているし、私とて世継ぎの王子だと言われているが、所詮ただの男に過ぎない。そしてそなたはこの寝台の上でも仮面を被って、私には本心を打ち明けたりしないのだな。そんなタツルスの言葉に何も言えずにグリソルはただ黙っていた。

そんなグリソルを黙って背後から見つめていたタツルスはいきなりグリソルの中に猛った自分を捩じ込むようにして入ってきた。

その刺すような痛みにグリソルは唇を噛み締めて耐えた。

そんなグリソルを罰するかのように、そしてグリソルから何か言わせたいのか。

いつもと違いタツルスは後ろからまるで獣のように激しく突き上げてきた。

タツルスの手が這うようにグリソルの白い肌の上をさ迷うと、グリソルの乳房を鷲掴むと形が歪んで壊れてしまうかのぐらいの強さで握りしめられた。

痛みで胸の頂きは萎縮してしまっていたが、タツルスはそんな胸の頂きを指で摘まむように繰り出すと指の先でグリソルの胸の頂きを軽く弾いたり、きつく摘んだりする。

グリソルは痛みの中にいつもとは違う、そう身体の奥底に眠っていた今まで自分が見たくなかった、いいや。見ようとしなかった女の本性のような物が揺らめいているのを感じていた。

タツルスにまるで獣のように激しく抱かれて、痛みの中にもどこか身体の奥底から感じている悦び。

そうどこか男に激しく求められ愛される悦び。

熱い舌や指の強さ。抱き締めてくれる腕の強さ。

それを求めて待っていたのだ。

ただそれを与えてくれるのは、心の奥底にずっと隠していたあの人ではない。

ああ。

思わずグリソルは心の嘆きとも身体の奥から沸き上がってくる悦びからの声なのか分からないような吐息混じりの短い声が口から自然と漏れていた。

その声に導かれるようにタツルスは一際激しく突き上げるとグリソルの中に熱い飛沫を浴びせた。

その熱さと激しさにグリソルは自分の意識を手放していた。

 

あの夜から三ヶ月、グリソルはタツルスと顔を合わせていなかった。あの夜からタツルスは一度も昼も夜もグリソルの館を訪ねて来ない。

あの夜は目を覚ますとタツルスは既に自分の傍らには居ずに立ち去っていたし、タツルスと顔を合わせた時にどのような顔をして会えば良いのかも分からなかった。

やはりタツルスもあのように乱暴にグリソルを求めてしまった事を後悔しているのだろうか。

タツルス自身は姿を現さないが、定期的にタツルスの侍従長が珍しい果実や絹織物を携えて館を訪ねて来ている様だが、グリソルも気分が優れない事もあって、侍従長とは面会せずにマサに応対を任せていた。

そしてタツルスが王宮の侍女であるマスルクという娘を正式に新しい妃の一人に迎える事に決め、同じように侍女からカトハルが妃に上がった際はグリソルがその準備を手伝ったが、今回はタツルスと王妃はその準備の一切をレナミルに任せた。

最近はタツルスは前より頻繁にレナミルの館に泊まっているそうだし、タツルスは今までグリソルに任せていたタツルスの妃としての務めの全てをレナミルに任せるようにしていた。王妃としてはレナミルが次の王妃にふさわしいと皆に知らしめる絶好の機会と思っているのだろう。グリソルにはもし体調が優れないのならばタツルスの妃としての務めはレナミルに任せて今は養生を第一に考えるようにと、今までの王妃とは思えないような事を言ってきていた。

あれから三ヶ月、どうもグリソルは気分も体調も優れなかった。マサはしきりに薬師に診てもらうように勧めるが、グリソルはその願いを退けていた。

それには一つ、理由があったのだ。

あの夜から月のものが来ていなかった。

もしやあの日に。

グリソルは自分の考えを打ち消すように首を横に振った。いいや。まさかあの時に子を身籠るなんて。

しかしあれから三月。依然として月のものはやって来ないし、日々身体のだるさが増して最近は何やら胸がむかついて食事も喉を通らない日もある。

グリソル様。

ふいに声がして振り返ると、どこか思い詰めたような顔をしているマサがグリソルに一礼した。

いつもとどこか雰囲気が異なり、何かただならぬ雰囲気を漂わせている。

グリソル様。急ではございますが、私はこの王宮から下がる事となりました。今までグリソル様には大変優しくして頂き、グリソル様にお仕えできて幸せでございました。そう言うと大きく一礼したが、その目にはうっすら涙が滲んでいた。

思わずグリソルは駆け寄って、マサの両肩を掴むと、なぜ急に王宮を去ると言うのだ!何かあったのだな!そう問い詰めるとマサは口ごもった。

思わずグリソルは、マサ。これは私からの命令だ。言うのだ!いつものグリソルとは思えないような厳しい態度で問い詰めるとマサは、私のお仕え方が悪いのでグリソル様はお加減が悪いのに薬師に診せないとタツルス様の侍従長様は仰って、私をグリソル様付の侍女長の任から解くとお命じになりました。

侍従長様の仰るとおり、私では役不足だったのでございますが、このままグリソル様を一人残して王宮を去ると思うとと最後は涙声になった。

思わずグリソルは唇を噛み締めた。

自分のせいで気がつかない内に自分の周りに仕えてくれている者達に辛い想いをさせてしまっていたのか。

グリソルは、誰かおるか。声を掛けると侍女が扉を開けて部屋に入ってきた。

薬師を呼んで私の具合を診させる。すぐに呼ぶように。それとタツルス様の侍従長に私はマサの説得で薬師に診てもらうよう決めたので、マサを王宮から下げる事は私が絶対に許さぬ。そう伝えるように。といつものグリソルとは思えないような毅然とした強い態度でそう侍女に伝えた。

侍女が部屋を出て行くとグリソルはマサに、マサ。

済まなかった。私のせいでそなたは辛い立場に置かれていたのだな。許して欲しい。と深々と頭を下げるとマサは慌ててグリソル様!お止め下さい。私ごときに。と涙で詰まった声でグリソルに駆け寄った。

グリソルは大きく息を吐くと、マサ。間もなく薬師がやって来る。支度を。そう声を掛けると薬師の診察を受けるべく、自分の応接の間へ歩き出した。

 

いつもグリソルの担当をしている薬師の他に普段は主に世継ぎの王子であるタツルスを診ている王宮の副薬師長とそしてもう一人控えめな笑顔の奥に眼光の鋭さのある老女も揃って現れ、三人でグリソルの脈を取ったり、グリソルやマサにあれこれこの三ヶ月のグリソルの体調や様子を尋ねてきた。

最後に失礼致しますと言い、老女が寝台に横になったグリソルの腹を何ヵ所か慎重に何かを探るように触った。

触り終わると老女は何やら小声で副薬師長の耳元で囁くと副薬師長は笑みを浮かべると、グリソル様。

おめでとうございます。ご懐妊なさっております。

そう告げた。その声にその場にいた薬師と老女、マサと数名のグリソル付の侍女達は一斉にグリソル様。

おめでとうございますと皆深々と頭を下げた。

顔を上げるとマサや侍女達は皆満面の笑みを浮かべており、中にはまるで自分に子ができたかのように喜んで涙ぐんでいる侍女までいる。

しかし皆の歓喜とは裏腹にグリソルは浮かない顔をしていた。

あの自分の罪をタツルスに見破られて、罰を与えられるように抱かれたあの時にまさか子を身ごもるなんて。タツルス様と私の間には愛も心の繋がりもない。

まるでこの子は私の罪深さの証のようだわ。

皆が待ち望んでいたと思われた懐妊の報に浮かない顔をしているグリソルを怪訝な表情で見つめた。

恐る恐るマサがグリソル様。何かご不安でもございますか?と尋ねてきた。

まさかあの夜二人にあった事も、そして自分の心の奥に隠している罪を明かす訳にはいかない。

グリソルは小さく首を横に振ると、何やら不安なのです。そう呟くと思わず俯いてしまった。

そんなグリソルに副薬師長はグリソル様。何もご心配なさる事はございません。皆自分が母になると思うと不安になるようですが、皆子を産めば自然と母になれるのです。そう言うと傍らの老女が大きく頷き、グリソル様。私は産婆として数えきれないほどの者達を診て参りましたが、副薬師長様の仰るとおりです。

皆この時期は特に気持ちが乱れやすくなりますので、

どうかあまりご心配されずにお心安らかにお過ごしくださいませとグリソルを安心させるよう笑顔を向けた。

それにグリソルはもう一つ大きな不安が過った。

副薬師長は薬師と産婆の方に視線を送ると、そなた達は侍女長や他の侍女達にこれからグリソル様の毎日で注意すべき点を伝えるのだ。そう命じると薬師と産婆、それにマサと他の侍女達はグリソルと副薬師長に深く一礼すると部屋を出て行き、広い部屋に二人きりになった。

副薬師長は、次の王妃様の座についてお考えになっていて不安になられているのですね。

そうグリソルの心を読んだように副薬師長は告げた。

その声にグリソルははっと俯いていた顔を上げ、まじまじと副薬師長の顔を見つめてしまった。

この王宮には各領地から優秀な薬師が集められ、その中でも一際秀でた者が薬師長となるが、毎日王の診察をする薬師長は過去にも影で政治的に大きな影響力を持っていたり、ある薬師長は自分の娘を世継ぎの王子に嫁がせて、王妃にこそなれなかったがその娘が世継ぎの王子の生母になった事もあった。

薬師とは言えどさすが王権の中枢近くにいるだけあって、副薬師長もグリソルを取り巻く環境について理解しているのだろう。

もし私の産んだ子が王子であったら、私が次の王妃になってしまう可能性が出てきてしまいます。そう俯きながら答えると副薬師長は、グリソル様とレナミル様ではグリソル様の方が年長で、タツルス様のお側に上がってお仕えしている年数も多いですし、レナミル様は王妃様の姻戚とは申せ、領主の娘ではございません。お立場から言えばグリソル様の方が未来の王妃様にふさわしいのです。王様もグリソル様を次の王妃様にとお望みですが王妃様の手前そう仰れません。

ですがグリソル様が次の世継ぎの王子様をお産みになれば、世継ぎの王子様のご生母であるグリソル様が次の王妃になるのを退ける理由はないので、グリソル様が次の王妃様に決まるでしょう。

そう副薬師長は、はっきりとした声でグリソルに告げた。

もし王子ならばあの自分の心に秘めた罪が暴かれて罰のようにタツルスに抱かれた日に身ごもった子が王座に就く。その子は王家に、いいや。セルシャの国に何か災いをもたらす王になるのではないか。

何か空恐ろしい想いが浮かんできて、グリソルは自分の愚かな想いを打ち消すように首を横に振った。

いいや、まだ腹の子が王子とは限らないではないか。

王女の可能性もあるし、無事に産まれても元気に育つか分からない。それに無事に産まれてこない事もある。

そんなグリソルに副薬師長はグリソル様。今後お口に入れる物にはくれぐれもご注意下さいませ。と言うと

必要ならば食事もお毒味をさせた後にお召し上がり頂き、そして薬も必ず私がグリソル様の目の前で調合致します。と言うと副薬師長は声を潜めて鋭い眼差しでチルクス様の件はグリソル様もご存じですね。と言った。

王様の意向でタツルスに嫁ぐ事が決まっていた北のバルスエの領主の娘のチルクスが婚儀の二月前に病で急死した事、チルクスが次の王妃になるのを阻むべく、南の手の者が毒を盛ったと囁かれている事はグリソルも知っていた。

チルクス様を診た私の知り合いの薬師が言うのにはチルクス様は一緒に飲んではならない薬を飲んで、その中毒症状で亡くなられたのです。それぞれ別に飲むのでしたら害はございません。然れどそれを一緒に飲むと強い中毒症状で命を落とす事もあります。薬師ならば皆それを知っているので決して同じ時にその薬を処方する事はないのです。しかも片方の薬はチルクス様の為に調合された薬ではなかったのです。恐らく南の手の者がチルクス様のお側に仕えており、本来チルクス様が飲むはずの薬とすり替えたのです。

チルクス様は表向きは急な熱病でお亡くなりになったとされていますが、私は北のクナクスの出なのでその薬師は私には秘かにこの事実を打ち明けてくれたのです。南の者が背後で操っていたという確たる証拠がなければ、下手に騒げば逆に北にとっては命取りに成りかねません。今の王妃様ならば逆にそれを好機にと北を完全にこの王宮から排斥するでしょうから。

グリソルは自分と腹の子が既に否応なしに権力争いの渦の中に巻き込まれてしまった。

そう思うと、ますます子を身ごもった事を素直に喜べなかった。

副薬師長は、グリソル様。ご心配はいりません。

私や周りにお仕えする者達。そして何よりタツルス様がグリソル様を全力でお守りして下さるでしょう。

タツルス様は母親違いの弟君のサジカル様とマトバス様の事を大変可愛がられていらっしゃいます。

大変お優しい方なので、自分のお子となればさぞお喜びになって、何があってもグリソル様をお守りして下さるでしょう。と言うと、私はこれからタツルス様の元に参ってグリソル様のご懐妊をお伝え致します。と深々と頭を下げた。

思わずグリソルが、待って!と副薬師長を止めようとしたが、副薬師長は、いいえ。グリソル様。これはこの王宮の副薬師長として私が行う役目なのです。

 

そうグリソルにも阻止できないような気迫で答えるとグリソルに一礼してタツルスの元に向かうべく早足で部屋を辞して行った。

副薬師長が去ると思わずグリソルは一気に気が抜けて長椅子に座り混んでしまった。

タツルス様の子を身ごもってしまった。

しかし良く考えると腹の子には罪はない。

いけないのは自分なのだ。

この子を責めてはいけない。

グリソルはそっと自分の腹を撫でて、腹の中の子に話し掛けた。

ごめんなさい。こんな母を許して頂戴。

きっとお前が産まれてきたら、お前は権力争いに巻き込まれてしまうと思うの。お前が無事でいられる為に母はお前を守ります。

いつしかグリソルはうとうとと眠気が襲ってきた。

先ほど副薬師長が子を身ごもると眠くなると言っていた。

今は世継ぎの事も王妃の座も王宮の権力争いも全て忘れて、ぐっすり眠りたい。グリソルはそう思いそっと目を閉じた。

 

タツルスが自分の執務室で。タツルス様、副薬師長様が火急の用でお目通りを願っております。侍従が声を掛けてきた。

火急の用?訝しげに思ったが、ともかく何があったのか聞かないといけない。部屋に通すと副薬師長はタツルスに厳かに一礼するとタツルス様。おめでとうございます。グリソル様がご懐妊されました。この所お部屋に籠りきりだったのはその予兆だったようです。どうやら三月経っているようで、今の時期は特にお心が乱れやすくなる時期ですので、タツルス様がお側で支えてあげて頂ければグリソル様もお心安らかに過ごせるでしょうと笑顔で伝えると、執務室にいたタツルスの侍従長や侍従達は皆口々にタツルス様、おめでとうございますと述べ、頭を下げた。

グリソルが私の子を身ごもった?

グリソルがカキトナを心に秘めていても二人が交わる事はあり得ない。この常に人目がある王宮では不可能だ。そもそもグリソルもカキトナもそんな大それた事をできる者達ではない。グリソルの腹の子は自分の子に間違いはないが、三月前に身ごもったとすれば、あの日以来グリソルとは顔も合わせていない。と言うことはあの夜にグリソルは身籠った事になる。

それまで散々グリソルが嫁いで来てから数年、床を共にしていたが子は授からず、まさかあのようにグリソルを抱いた日に身ごもるとは。

タツルスは思わず小さく頭を振った。

タツルス様。タツルスの侍従長がタツルスに声を掛けた。これから至急グリソル様の元に参られますか?周りの者達は妻の懐妊の知らせを聞いて当然のように妻の元に向かうと思うのだろう。

副薬師長も当然と言った顔でタツルスに笑顔を向けた。

あの夜以来久しぶりに顔を合わせるし、正直どう顔を合わせていいのやら分からないが、ともかくグリソルの元に向かわなくてはならないようだ。

タツルスは侍従長に、これからグリソルの元に向かう。グリソルの元に知らせを。そう伝えると傍らに控えていた侍従が一人一礼すると足早に執務室を飛び出して行った。

皮肉なものだ。なぜよりによってあの夜に私達に子が授かったのか。

タツルスは心の中でそう呟いて、グリソルの元に向かって歩き出した。


タツルスがグリソルの部屋を訪ねて来たのはもう夕食時も終わり、グリソルが寝室に入ろうとした頃であった。

二人が顔を合わせるのはあの夜以来なので、あれからもう三月も経っていた。

やはりタツルスも気まずかったのであろう。

それで自分の元を訪ねて来たのも日の出ている時間ではなく、夜の闇にひっそりと紛れて姿を現したのか。

常に陽の当たる場所にいる一国の世継ぎの王子であるタツルスがまるで己の罪を恥じて人目を避けて懺悔に訪れた罪人のようだとすらグリソルを感じた。

二人の間に何かただならぬ事があったと気がついてはいるが口に出せないマサが二人の為に温かい茶の入った盆を机に置くと静かに部屋から下がって行った。

 

しばしグリソルもタツルスも黙ったまま互いに俯いて

いたが、やがてタツルスの方から口を開いた。

副薬師長からそなたが子を宿したと聞いた。

具合はどうか?と済まなそうな心配顔をしながら

グリソルの瞳を覗き込みながら尋ねてきた。

グリソルは思いがけず優しく温かいタツルスの視線に少し戸惑いながらも体調について言葉少なく答えた。

グリソルの返答にタツルスは大きく息を吸うと、グリソル。済まなかった。そなたは望んでもいないのにこの宮殿という檻に閉じ込められてしまったのだったな。そして心に秘めた者がいるのにも気がついていた。

私は父王と母上を見て育ったので愛という物が分からないのだ。きっと私は人を愛するという事ができないのだろう。そう自嘲気味に小さく、少し寂しそうにタツルスは笑った。

その寂しそうな笑顔と先ほどのタツルスの温かい視線を思いだし、グリソルは咄嗟にそれを否定するように首を横に振った。

きっとタツルスはまだ本当に愛する人と出会っていないだけだ。グリソルには確信があった。

きっといつかタツルスは本当の愛を知る日が来るのであろう。ただその相手は自分ではなかった。そしてレナミルでもカトハルでもなかったと言うだけだ。

そんなグリソルにタツルスは再び温かい視線を向けると、そなたとの間に愛があるとは言えないが、縁があってこの宮殿に共に囚われる身となった私達だ。

そして私達に子が授かったのも何かの縁だろう。

子が産まれたら王子でも王女でもミアンゼと名付けようと思う。私達の子だ。これから大切に育てていこう。そうタツルスは静かに告げた。

ミアンゼ。滅多に手に入らない美しい真珠という意味だ。

秘かにお互い心の中に罪を抱いたまま抱き合ったあの一夜に授かった清らかな真珠のような子。

グリソルは産まれてくる子がどこか自分達を救ってくれる気がして、思わず頬に涙が伝わっていた。

そんなグリソルの頬の涙をタツルスの指が優しく拭ってくれた。

始めてタツルスと心が通じ合った。そう感じられた。

その夜グリソルは自分の傍らで柔らかな寝息を立てて眠っているタツルスと、そしてまだ見ぬミアンゼとの遠い穏やかな未来の姿をぼんやり夢見た。

愛ではないが、深い信頼で結ばれた年老いた自分とタツルスの姿を。

そしてこの国を支えるべく父の傍らにいる立派な青年の姿を。

 

グリソルの体調が安定した五ヶ月を過ぎると懐妊が公にされ、人々は待ち望んでいた世継ぎの王子の子の誕生に沸いていた。

気が早い、しかし大方の者達は産まれてくる子は王子で母の身分も領主の娘なので世継ぎの王子になるのにふさわしいと囁き合っていた。

そんな周りの喜びを余所に困惑している様子であったのはグリソルの両親であるザルハス領主夫妻とグリソルの弟で次期領主となるキチトワであった。

グリソルの懐妊の知らせを聞き、急いで揃って王宮に参内してグリソルと面会した。母であるミントクは母らしく身重の娘の体調を気遣ってあれこれ心配していたが、父であるザルハス領主とキチトワはグリソルの置かれた立場を危惧していた。

グリソルの産んだ子が仮に王子であれば王様はすぐにでもグリソルを今は空席の次の王妃の座に据えるだろう。いいや。産まれたのが王女でも初めてタツルスの子を、セルシャ王家の血筋を引き継いだ子を産んだ手柄としてグリソルを王妃の座に据えるかも知れない。

弟のキチトワは父であるザルハス領主とは異なり、度々都に登っては他の領地の跡継ぎや貴族達とも交流して外交に務めている。その為かキチトワには今回のグリソルの妊娠に纏わる周りの様々な政治的な思惑が伝わってきていた。

姉上。王様はどうやら王子様が産まれた場合は直ぐにでも姉上を次の王妃の座に据えて、また王子様の許嫁には先月無事にお産まれになったカキトナ様とササミレ殿との間に産まれたアサフク嬢をとお考えの様です。そうキチトワは声を潜めてグリソルと両親に伝えた。

先月ササミレは三人目となる子を無事に出産していた。元気な女の子だとグリソルも伝え聞いていたが、王様は産まれたばかりの子にもうその様にお考えとは。

それは本当の話か?さすがに気が早いと思われる話に父であるザルハス領主は訝しげな顔をしたが、キチトワは首を横に振ると、いいえ、父上。間違いございません。今回王様はアサフク嬢がお産まれになったと聞くと直ぐ様お祝いとして使いを送っております。王様自ら一領主の跡継ぎの子の誕生を祝うなどありますでしょうか。最も王妃様の目を怖れてカキトナ様の叔母上であるクノスク様からの使いという事にしたそうですがとキチトワは告げた。

恐らくキチトワは確実な筋から情報を仕入れたに違いない。キチトワが王様の側に仕えて王様の信頼も厚い王宮の侍女と秘かに通じている事はグリソルはキチトワ本人から聞いていた。

弟のキチトワには南の領主であるアズナスの領主の娘のレリマスという婚約者がいるが、それとは別にどうやらその侍女とはかなり深い仲であるようで、かなり王様に近い機密な情報まで手に入れているようだ。

それは本当の話か?さすがに気が早いと思われる話に父であるザルハス領主は訝しげな顔をしたが、キチトワは首を横に振ると、いいえ、父上。間違いございません。今回王様はアサフク嬢がお産まれになったと聞くと直ぐ様お祝いとして使いを送っております。王様自ら一領主の跡継ぎの子の誕生を祝うなどありますでしょうか。最も王妃様の目を怖れてカキトナ様の叔母上であるクノスク様からの使いという事にしたそうですがとキチトワは告げた。

恐らくキチトワは確実な筋から情報を仕入れたに違いない。キチトワが王様の側に仕えて王様の信頼も厚い王宮の侍女と秘かに通じている事はグリソルはキチトワ本人から聞いていた。

弟のキチトワには南の領主であるアズナスの領主の娘のレリマスという婚約者がいるが、それとは別にどうやらその侍女とはかなり深い仲であるようで、かなり王様に近い機密な情報まで手に入れているようだ。

同じ南とは言え実は南も一枚岩ではなく、アズナスの領主様は同じ南の領主というお立場上表立っては言えませんが今の王妃様の為さり様には反対されておいでです。私がまだ幼いレリマス殿と婚約したのはこの王宮で微妙なお立場の姉上を影でお支えするべく南でも姉上の味方をしてくれそうな方と縁者になる為にアズナスとの縁を結んだのです。そう告げた。

キチトワがまだレリマスと婚儀を挙げていないのはレリマスがまだ十四才と幼いからだ。来年十五になったら婚儀を挙げる予定だが、その時にはキチトワは二十二十才になっている。

元々キチトワは同じ年で母同士が再従兄妹の北のクナナスの領主の娘のワカトザと結ばれるのではと周りは思っていたが、グリソルがタツルスの元に嫁いだ直後に姉の婚儀の宴の席で見初めたレリマスの愛らしさに一目惚れしたとキチトワが言い出し、年の離れたレリマスとの婚約が整ったのだが、どうやらそれは微笑ましい愛情を装った弟なりの戦略だったようだ。

自分にも父にもない弟のしたたかな一面をグリソルは垣間見てしまった。

キチトワが姉のグリソルを心配するのには理由があったのだ。

グリソルの懐妊が分かるとタツルスは以前に増してグリソルを丁重に扱う様になったのだ。

朝の挨拶もグリソルがタツルスの執務室に挨拶に向かうのではなく、タツルスが自分の館から執務室に向かう際にグリソルの館に立ち寄り挨拶を受ける。

夕食を共にする機会や夜グリソルの館に泊まる事も増えた。それに伴い逆にタツルスがレナミルの館で過ごす事が減っていると聞いていた。

グリソルはタツルスが自分への償いとして優しく接してくれていると分かっていたが、周りはそうとも知らずにタツルスの愛情はグリソルに傾けられている。

そう思っているようだ。中にはタツルス様は本当はグリソル様をご寵愛されたいが王妃様の手前それが出来なかった。しかしタツルス様のお子を見事に身籠られた以上王妃様に憚る事なくグリソル様をお寵愛できるようになったのだとすら囁く者達もいた。

現にそんな周りの噂が既に耳に届いているのだろう。一度レナミルと王宮ですれ違った時に表向きはいつもと変わらない笑みを湛えたレナミルの瞳の奥に自分に対する妬みと自分を愛さないタツルスへの怒りと悲しみが滲んでいるのにグリソルは気がついてしまった。そんなレナミルに哀れとも申し訳ないとも心の中では思っているが、しかしグリソルは自分達二人の間に起こった事はタツルスの気持ちや立場を思うと、とてもレナミルには明かせない。

あれから5ヶ月経ち、もうグリソルの腹はいつ産まれてもおかしくないぐらい膨らんでいる。

心配された腹の中のミアンゼも問題なく育っているようで、時折この狭い腹の中から早く広い外の世界に出てみたいとでも言っているかのようにグリソルの腹を強く蹴りあげる時もあり、グリソルはそんな腹の中のミアンゼがいとおしくてたまらなかった。

それはタツルスも同じようで、時折グリソルの腹の上にタツルスが手を当てると蹴り返してくるようで、

ははは。ミアンゼ。そなたは元気がいいな。きっと私や母であるグリソルを困らせるほどやんちゃで元気な子であろうなと目を細めて笑っていた。

その為だろうか。王宮内ではグリソルの腹の中の子は王子で、母親の身分からしても世継ぎの王子になり、そしてグリソルが程なく正式に次の王妃の座に就くだろうと噂がまことしやかに囁かれていた。

急に今までグリソルとは形式的な付き合いしかなく疎遠だった領主や貴族達から何かと見舞いの品が贈られて来たり、挨拶に伺いたいという申し出が増えていた。無論グリソルは体調を盾にそれらの申し出を断っていたし、見舞いの品はタツルスの侍従長に伝えて、礼を欠かない程度に受け取るぐらいにして残りは王宮に仕える者達に適切に分け与えるよう指示していた。

逆にそれが王宮に仕える者達にグリソル様は下に仕える者達にもお優しい。グリソル様こそが王妃様にふさわしいと囁かれる要因になっている事にグリソルは気がついていなかった。

 

そんなある日の事であった。

午後に庭園をゆっくりと散策している時であった。

いきなり腹を刺すような痛みが感じられ、思わずグリソル腹を抱えて痛みに顔を歪ませた。

側に従っていたマサが慌てて、グリソル様!大丈夫でいらっしゃいますか?直ぐにグリソル様をお部屋に!

副薬師長様とタツルス様の侍従長様にお伝えするのだ!と他の侍女達に指示を出した。

 

つづく