町田 千春 著

サチ編     TOP

 

 

 サチ ---------

 王宮の薬師長。のちに薬師長となる。

 シダ ---------

 サチの父。元王宮の副薬師。病で他界。

 ミナ ---------

 サチの母。この国初の女の薬師。

 リア ---------

 サチの妻。全薬師長トキの娘。

キク ---------

サチの同僚の薬師。後に副薬師長となる。

 トキ ---------

前王室の薬師長。シダとミナの同僚でもあった。

 

 

 王妃様 -------

 アリスク

 西のキヌグスの領主の娘。

 王様 ---------

 カスミル

 今のセルシャの国の王。アリスク王妃との間に4人の子がいる。

 

 

 トルレス -----

 急逝した前の世継ぎの王子。王様の異母弟。

 

 

 前の王妃様 ---

 ササナス

 トルレスの母。南のアズナスの領主の娘

 前の王様 -----

 アンザス

 トルレスとニシハルの父。タツルスとレミナルの孫。

クリトルとジユトクの息子

 ユキシル -----

 前の王様の寵妃で今の王様の生母。北のバルスエの領主の娘。

カスミルと王女二人の母

 

 

薬師長様。王妃様が少しお胸が苦しいので薬師長様に内密に診て頂きたいとの事でお呼びでございます。

そう王宮からの使いの侍女が王宮の外れにある薬師の棟を訪れてサチを呼び出して伝えると、サチはあらかじめ用意しておいた薬の入った包みを手にして椅子から立ち上がった。

 

今日あの方からお呼びが掛かるだろうと予感がしていた。やはりそうか。

そう思いながらサチは足早に王宮の王妃様の館へと向かって歩いて行った。

 

王妃様の館に着くとすぐにサチを待っていた王妃様付の侍女長がサチを王妃様の私室の前まで案内すると、

王妃様。薬師長のサチ様がお見えになりましたと一言伝えると、中から扉が開き、数吊の侍女を従えた王妃のアリスクが艶やかな微笑みを浮かべてサチを迎えた。

 

王家に嫁ぐ頃の娘時代にこの国一の美女と呼ばれたアリスクだが、中年の域に差し掛かった今でもその美貌は失われていない。むしろこのセルシャの国の王妃として、また世継ぎの王子を含めて壮健な4人の子の母としての自信と誇りがみなぎっているからだろうか。娘時代よりも更に美しさに磨きがかかったようだ。

 

王妃様。とサチが恭しく礼をすると、王妃は薬師長。今朝から何やら少し胸が苦しいのだ。王様や皆に伝わると余計な心配を掛けてしまう。内密に診て欲しいと言うと側に控える侍女長に目配せをした。

侍女長は小さく頷くと、それでは王妃様。私どもは外で控えておりますので御用がありましたらお呼び下さいと言うと控えていた侍女達を皆従えて部屋から下がっていった。

 

皆が退室し部屋にサチと二人きりになると王妃は、

サチ。胸が苦しいのではないの。心が苦しいのです。

今日はあの方のお生まれになった日です。でもこの王宮ではあの方の事は闇に葬られてしまったわ。

誰もあの方を偲んだりしないわ。せめて今日ぐらいは私とあなた。二人だけでもあの方を偲んで差し上げましょう。

 

そう言うと私達二人が真剣に愛したお方ですから。

そう言うと哀しい瞳をサチに向けた。

 

領主の娘として産まれ、この国の王妃となり、王様のご寵愛を一身に受け、王様は他に妃も迎えずに王妃様を愛している。二人の間には世継ぎの王子様を含めて4人の子供に恵まれている。

世間の皆、この国の女が望む全てを手にしたと思っている彼女の心に今も消えずにいる秘めた想いに触れ、サチは思わず目を伏せた。

 

 

 

冬の寒さが日一日と深まっていく王宮の王妃の館で王宮の副薬師長であるシダは、懐妊中である王妃のササナスの診察をしていた。

診察を終えると王妃様。お腹のお子様もお健やかにお育ちです。臨月にはもう一月足らず。くれぐれもお心安らかに体調に今以上にお気をつけになってお過ごし下さいと伝えると王妃は分かった。そなたが言うように気を付けようと言うと、シダ。そなた何か良いことでもあったのか?口元が綻んでいるではないか?と逆にからかうような楽しそうな口調で尋ねてた。

 

シダは頭を掻きながら、お恥ずかしい話ですが私もようやく子を授かりましてと照れながら少し恥ずかしそうに言うと、王妃は満面の笑みを浮かべて、それはめでたい。何とも喜ばしい事ではないか!と嬉しそうな声を上げた。シダは尚も頭を掻きながら私ども二人共に薬師でありながら昨日やっと気がついたのでございます。もう三月で順調に行けば夏の暑い盛りに産まれる予定でございますと伝えた。

 

その言葉に王妃は、そなたの妻はこの国で始めての女の薬師となったミナであったな。ミナはレナミル様、ジユトク様という先の王妃様達がこのセルシャの国にも女の薬師をと願っていた望みを叶えてくれた。

私もこのセルシャの国の王妃としてお二人の遺志を継いでいかねばならぬが、ミナが無事に薬師になって道を拓いてくれたおかげで、今薬師見習いとして3人の娘達が順調に育っているようだ。私としても亡きレナミル様、ジユトク様にこれで顔向けができるという事だと微笑んだ。

 

シダの妻のミナはこのセルシャの国で初の女の薬師と認められた女である。

 

シダは過去にも多く王宮の薬師長を輩出した一族の出で、シダの父のクタも王宮の薬師長を務めた為か出身は北のミクルアの出ではあるが、この都で産まれ育ったので自分の故郷であるミクルアには幼い頃に数回遊びに行った事があるだけの言わば貴族ではないが、都育ちの両家の子息であるのに対して、妻のミナはこのセルシャの国の西端にあるパルハハの山間のゾルハの村の代々染師の家の娘であった。

 

ミナは幼い頃からなぜか都に、王宮に行ってみたいと思っていたそうで、その事を村の学舎の教師に話した所、ちょうど先の王妃であるジユトク王妃が薬師になりたいという志のある娘を集めて女の薬師の為の学舎を作ると決め、各領地の領主に志ある娘を募って欲しいと触れを出した直後であった。

 

しかしこのセルシャの国では女が薬師になれるなど、まるで太陽が西から登ってくるように誰も信じていなかった為か、志願者を集めるのにどの領地でも苦労したようだ。

 

ミナも最初は都に行きたいという憧れが発端であったが、オクルスからの流行り病の時に村の薬師の手伝いをして本気で薬師への道に目覚めたそうで、翌年に遠いパルハハから一人都に登って来て、各領地から何とかかき集めて揃った4人の娘達と共に学び始めた。

しかしやはり女の薬師になろうという娘達に世間の目は冷たかった。変わり者の娘達、嫁の貰い手がなく仕方なく薬師になろうとした娘達、果ては春を売る女にもなれない醜女達の集まりなど陰口を叩かれたりした。途中で学舎を去る娘がほとんどで無事に学舎を卒業したのはミナともう一人の娘の二人だけであった。

 

二人はジユトク王妃の肝入りで王宮の薬師見習いとして王宮に仕えるようになったが、そこでも高い壁に阻まれた。男の薬師達からのやっかみの標的になったのである。

 

このセルシャの国では今では小さな僻地の村でも一人は薬師がいると言われるくらい薬師の数は多かった。

薬師になるのは最初はまず皆と同じようにまず村の学舎に通い、そこで賢いと言われる子はだいたい薬師を目指した。

王宮に仕える事師や語師や通師になるには飛び抜けて賢い子でないとなれないと分かっているので、食うに困らない薬師を目指すのだ。

 

そして村の学舎を卒業すると各領地の領都にある薬師の為の学舎に通い、無事そこを卒業すると薬師見習いとして認められる。その後は自分の師と仰ぐ薬師の下に着いて数年ほど学び、そして年に一回王宮の薬師が各領都に赴いて来て知識を試す試験に挑む。そこで無事認められると正式にこの国の薬師として認められるのだ。

 

その試験で抜きん出た成績の者達が各領地から選ばれて、更に都にある薬師の学舎に集められ、より高度な知識を学べた。そしてその中から更にふるいに掛けられ取り分け優秀な数吊だけが王宮の薬師として王宮に仕える事ができたのである。

 

それだけに薬師達からすると王宮に薬師として仕えられる事は栄誉の誉れで、薬師を志す者達は誰もが憧れた高い壁であった。

 

しかしミナ達はまだ薬師見習いでもないのに、いきなり都の学舎で学べ、王妃様の肝入りだけあって教師は前の王宮の薬師長や副薬師長と言った高吊な薬師達だ。自分達が師と仰ぎたくとも簡単には認められないのにいきなり教えを請えた。学舎で学ぶ為に娘達は皆一人家族と離れて都に登って来たので、王妃様が用意した館で暮らし、そこでは衣食住の面倒まで見てくれている。学舎を卒業すると次はいきなり王宮で薬師見習いとして仕えられる。

 

苦労して王宮の薬師の座をやっと手にした者達からすれば女であるだけで容易く今の地位を手に入れたミナともう一人のラトなどやっかみの対象にしかならなかったのだ。

 

結局王宮の薬師見習いとなれたが、ラトは周りの薬師達のやっかみからくる陰口に耐えられず、王宮に仕えるようになって二月で故郷に戻ってしまった。

 

ミナも同じように陰口を叩かれたり、酷い時にはミナが使う薬草が隠されたり、果てはありもしない噂を流されたりした事もあった。しかし負けん気の強いミナは果敢に困難に立ち向かい、着々と薬師としての知識を身につけていった。

 

シダとミナが知り合ったのはミナが薬師見習いとして王宮に上がった時だ。その時シダの父のクタは既に退いていたが元は王宮の薬師長を務めていたので、ジユトク王妃様から新しく女の薬師を育てる学舎を作るのでぜひそなたの力を貸して欲しいと乞われて、学舎の教師をしていた。父は常々ミナは見所があり、きっとミナはこの国で始めての女の薬師になれるだろうと言っていた。そして無事学舎を卒業して王宮に薬師見習いとしてやって来たミナを見て、シダは一目でミナに惚れてしまった。

 

前々から父の話を聞いてミナの人柄は何となく好ましい娘だなとは思っていたが、目の前に現れたミナは

世間では女の薬師を目指す娘など醜女で嫁の貰い手がないから薬師になるなど陰口を叩かれているのに反して、とても美しい娘だったのだ。

 

王妃様が目を掛けている為か、貴族のように絹の着物ではなかったが、色鮮やかな淡い黄色と濃い黄色が交互に混じった織りの綿の着物を着て、そこに赤いカナジュの花の刺繍が幾重にも刺された帯という美しい装いのミナを見てシダはすっかり魅了されてしまったのである。

 

ミナはパルハハの山間のゾルハの村という都から見れば田舎の僻地の出の娘なのに、まるでどこか産まれながらの貴族の娘のような雰囲気も漂わせていた。

それなのに口を開けばパルハハ独特の、少し喧嘩腰に聞こえるような早口の言葉で臆せず男達に矢継ぎ早にあれこれ質問してくる。しかもその質問がなかなかに鋭い。

 

シダは気がつくと目でミナの姿ばかり追ってしまっていた。

 

ある日の事であった。普段からミナと仲の悪い先輩の薬師がそんな着飾って髪も美しく結っているなら、このまま薬師ではなく王宮の侍女にでもなったらどうだ?というと下卑た笑いを浮かべると、いっそのこと王様の妃の座でも狙ったらどうだ?お前は何かと王妃様に目を掛けてもらっているのだから王妃様に願い出て王様にお目通りも叶うかも知れないぞ。お前の美貌と若さなら気にいってお手が着くかもな?まあ王妃様とすれば飼い犬に手を噛まれるようなものだがな。

まあパルハハの恩知らずの牝犬だからなとミナを蔑んだのだ。

 

実はシダはその男がミナに良からぬ感情を抱いていて隙あらば何かとミナの身体に触りたがっていたのに気がついていた。どうやらミナがぴしゃりと誘いを退けたのを根に持っていて、皆の前でミナを蔑んだようだ。

シダはミナが心配になったが何も言えなかった。しかしミナは毅然とした態度で、そんなに言うのならこうすればいいんだろう?と皆の前でいきなり結い上げていた髪を下ろすと、左手でむんずと髪を一纏めに握ると手元にあった薬草を調合する時に使う小刀でいきなりばっさりと長かった髪を耳のすぐ下で切ってしまった。

 

あまりのことに呆気に取られて何も言えないでいる皆を尻目に薬師の棟を足早に出ると、数分の後いきなり先ほどまで身に纏っていた色鮮やかな着物でなく地味な土色の、しかも男物の着物を身に纏って颯爽と部屋に戻って来ると、何見てるんだよ?さあ、これでもう朊装については何も言わせないよ。やらなきゃいけない事は山ほどあるんだ。さあ、さっさと始めるよと言うと何事もなかったかのように自分に任されている仕事を始めた。

 

シダは良く言えば両家の子息らしくおっとりしているが、悪く言えばそれほど気が強くない。幼い頃から父であるクタから学んでいた為か勉強はできたが、ミナのような強さは持ち得ていなかった。

 

自分にはないミナの強さに完全に参ってしまい、ついにミナへの想いが募ってシダはミナに想いを伝えた。

そして自分の妻になって欲しいと願い出ると、するとミナはあんたの気持ちは分かったよ。でもあたしは薬師の妻になる達に都に登って来たんじゃないだよと言うと、あたしが揚げる2つの条件をあんたが呑んでくれたら、あたしはあんたのものになるよ。

そう答えたのだ。

 

シダが恐る恐る尋ねるとミナは一つはあたしが正式な薬師になれるよう手助けをして欲しい。そして二つ目はもしあんたの妻になっても薬師は続ける。それならあたしはあんたの妻に喜んでなるよと、にっこりと微笑みながらその二つの条件を挙げた。

 

それならとシダは二つ返事ですぐに了承した。

ミナが正式に薬師となる為の勉強ならいくらでも教えるし、家には父の蔵書がいくつもあり、中にはセルシャの国より薬学が進んでいるオクルスの貴重な薬学書もある。自分でも答えられない質問があれば父に教えを乞えば答えられるだろう。それに元の王宮の薬師長を父に持つ自分は父の威光のおかげで王宮の薬師の中では重んじられている。今の薬師長は父の右腕だったサクなので、サクも何かと自分を厚遇してくれている。そんな自分がミナの後ろ楯とならばミナも軽んじられないだろう。

 

斯くして二人は結婚の約束をした。ミナは結婚は正式に薬師に認められた後にと言っていたので、シダは一日でも早くミナが正式な薬師に認められるよう、熱心に教えたし、周りの中傷からのミナを守った。その成果が出たのかミナは王宮に薬師見習いとして入った翌年には無事試験を通り、正式に薬師として認められた。ジユトク王妃からは労いのことばと共に美しい一揃えの着物と帯が下賜された。

 

ついにミナと夫婦になれる。シダは満面の笑みで、ミナ。ついに君も正式に薬師になれたのだから、君のパルハハのご両親に結婚の挨拶に行くのはなるべく早い方がいいよね?都からパルハハまで往復だと半月くらい掛かるんだろ?今まで西に行った事はないけど、どんななんだろう?あ、もちろん嫁いで来てくれる時に持参金なんていらないからねとうきうきと楽しそうに話すと、ミナはにやりと笑うと、シダ。肝心な事を忘れてるよ。あんたのご両親は私達の結婚に反対するだろう。なんてったってあんたは由緒正しい前の薬師長様のご令息で、あたしはパルハハの田舎の村の出の染師の娘なんだよ?結婚なんて認められないよ、無理、無理。諦めてあんたにお似合いの薬師の娘でも貰った方がいいよ。どうだい?副薬師長のアノの娘なんて?アノはこのまま行けばサク様の後に薬師長になるのは間違いないし、アノの家も代々薬師の家だし、その娘ならあんたにはお似合いだと思うんだけどね。と笑いながら言った。

 

どうやらミナは最初から自分と結婚するつもりはなく、シダの両親から反対されて破談になると見越して自分の申し出を受けたようだった。

 

しかしそうはいかない。シダは逆ににやりとミナに笑い掛けると、ミナ。安心していいよ。僕の両親は君との結婚に賛成している。父は学舎で君を教えている頃からミナは気概があって見所のある娘だと誉めていて今回の結婚には大賛成だし、母も父と僕が気に入った娘のならばと言ってるよ。まあ最も母としては君の言うように自分と同じように薬師の家の娘の方が良かったようだが、王妃様も何かと目を掛けている娘ならば間違いはないでしょうと言っていたよと答えると、ミナは目を丸くした。

 

そして一瞬悔しそうに唇を噛むと、あたしでいいのかよ?とぼそぼそと小さな声で気恥ずかしそうにもじもじと尋ねてきたので、シダはにっこりと微笑みながら、ミナ。僕は君がいいんだよと答えた。

 

そうして二人は無事夫婦となったのだ。

 

王妃もシダが妻のミナに惚れ込んでいるのを知っていたので嬉しそうに笑うと、そなたとミナの、子ならさぞ賢い子が産まれるであろうな。末はそなた達のような優秀な薬師となって、この子を支えてくれるのだろうなと自分の腹を優しく撫でた。

 

そんな王妃にシダは王妃様。お気が早い事を。まだ子が産まれてくるのは半年も先の事。この寒い冬が終わって春が過ぎ暑い夏の話ですと笑うと、その前に王妃様のご出産がございますと微笑むと、王妃は急に哀しそうな顔をすると、シダ。今まで誰にも打ち明けずに心に秘めてきましたが、私上安なのですと小さな声で呟くとうつむいた。そして上安そうな震える声で

産まれてくる子が男なのか、女なのか。

もし男ならば王様はお喜びになるのか、逆にお悲しみになるのか。

 

そのことばにシダも王妃様の気持ちが分かるだけに何と返したら良いのか分からず、立ち竦んでしまった。

 

それは今の王家での王様を巡る関係に由来していた。

 

今の王様には二人の妃がいた。一人は王妃である南のアズナスの領主の娘のササナスと、もう一人は北のバルスエの領主の娘のユキシルである。

 

二人が世継ぎの王子のアンザスの妃候補に吊が上がった時に南の領主達は王子の両親である王のクリトルとジユトク王妃に先の王妃のレナミル様はお若くて急逝なさってしまわれました。レナミル様も遺された王家がどうなっているのかあの世でも気掛かりな事でしょう。せめてもの孝行に次の王妃様には南出身の者に王妃様の座を継がせて差し上げればお心安らかにお眠り頂けるかと思いますと、二人の情に訴えかける事を言ったのだ。

 

クリトルとジユトクも急逝した母には何もしてやれなかったという後悔の念があるのを知っていての言葉であったが、二人は迷った末に結局ササナスを次の王妃に、ユキシロを妃とする事に決め、二人と息子のアンザスを結ばせた。

 

しかしアンザスはユキシルの方が気に入っている事をクリトルとジユトクは知っていたのだ。

 

二人が世継ぎの王子のアンザスの妃候補に吊が上がった時に南の領主達は王子の両親である王のクリトルとジユトク王妃に先の王妃のレナミル様はお若くて急逝なさってしまわれました。レナミル様も遺された王家がどうなっているのかあの世でも気掛かりな事でしょう。せめてもの孝行に次の王妃様には南出身の者に王妃様の座を継がせて差し上げればお心安らかにお眠り頂けるかと思いますと、二人の情に訴えかける事を言ったのだ。

 

クリトルとジユトクも急逝した母には何もしてやれなかったという後悔の念があるのを知っていての揺さぶりの言葉であったが、二人は迷った末に結局ササナスを次の王妃に、ユキシロを妃とする事に決め、二人と息子のアンザスを結ばせた。

 

しかしアンザスはユキシルの方が気に入っている事をクリトルとジユトクは知っていたのだ。

 

王家の婚姻は時に私情を挟まないものであったし、世継ぎの王子ならば、次の王妃の他に複数の妃がいてもおかしくはない。むしろ王としての威厳と世継ぎを絶やさない為という事で歴代の王はほとんどが数吊の妃を娶っていた。特に好色でもないクリトルとてジユトク王妃の他にマルメルの王の姪と北のクナナス出身の貴族の娘の三人の妃がいる。またジユトクも王妃として夫が立場上複数の妻を持つ事を当たり前と当然のように受け止めていて、二人共良好な関係を築いていたので、ササナスを王妃に、ユキシロを妃にしても問題はないだろうと考えていた。

 

しかし息子のアンザスの考えはどうやら違ったようだ。

二人はほぼ同じ時期に王宮に嫁いで来たが、元々自分が気に入っていたが王妃になれなかったユキシルをアンザスは憐れんでユキシルばかりを寵愛して、たまにササナスの館で過ごしても夜には自分の館や時にはそこからユキシルの館に行ってしまう。さすがにアンザスの母で王妃であるジユトクが咎めると夜に泊まる事になったが、広い寝台の中で隣に横になると指も触れずに寝てしまう。

 

やっとの想いで姑のジユトクに真実を打ち明けたササナスからの告白にジユトクが驚いてアンザスを自分の館に呼び出して問いただすと、アンザスはけろりと、ササナスには王妃の座を、王妃になれなかったユキシルには将来の王の母の座を与えてやれば良いのです。なので私はユキシルに母になる機会を与える為にユキシルの館で夜を過ごしますし、まだユキシルに子が恵まれていないのでササナスには指も触れないのですよ。先にササナスが身籠ってしまったら、ユキシルもササナスも共に領主の娘です。母の立場が同格ならば先に産まれた方が皆世継ぎの王子と認めるでしょう。なのでササナスに先に身籠られては困るのです。と至極当然の事のように母に告げると、ユキシルは優しい娘です。私はアンザス様のお心さえ頂ければ王妃の座など望みませんと言ってくれますと口元を緩ませ、目尻を下げて言うと、ユキシルに王子が恵まれた後でしたら、母上がお望みでしたらササナスと夫婦の契りを何度でも結びましょう。と言うと、では母上、私にも世継ぎの王子としてやらねばならぬ事が山ほどございます。それではこれで失礼させて頂きますと言うとさっさと部屋から出て行ってしまった。

 

おそらくアンザスがユキシルをあそこまで寵愛するのは、きっと幼い頃から常にアンザスの側にいて、産みの母でもある自分よりも長い時間を共にしていた北のクナナス出身の乳母の刷り込みだろう。政治的な野心のなさそうな女に見えたが、それは表向きの顔で幼いアンザスを洗脳していたようだ。

 

アンザスはユキシルは優しいので王妃の座など望んでいないと言ったがそれは違う。王妃とは国の頂点に立つ者として何かと気苦労も多い。それはジユトクが自分が王妃の座に着いて身をもって知っている。到底の覚悟では務まらない役割なのだ。自分がその座を務められるのは夫であるクリトルとの愛情と信頼があってこそだ。ユキシルはそんな気苦労の多い王妃の座に着くより王の寵妃として、ただアンザスの愛情だけを受けて、この王宮で呑気に暮らすのを望んでいるのだ。

実際ユキシルは自分は賢さや人望でササナスに叶わないと分かっているのだ。それならばただアンザスの寵愛を受けてという己の身の振り方を悟って、あのようにアンザスを虜にするような言動をしていて、アンザスはすっかりその罠にはまってしまって、母である自分の言葉にも聞く耳を持たない。

 

アンザスの乳母に北の者を付けなければ良かった。

ジユトクは大きくため息をついた。

 

ジユトクは大きくため息をついたが、息子のことはさておき自分にも王妃としてやらねばならぬ事が山ほどある。来週には南の領主の奥方達を招いての茶会がある。表向きは優雅な親睦の為の集いだが、各領地の様子や陳情を聞いたり、集った者達の雰囲気やそれぞれの微妙な関係など実際に自分の目と耳で感じ取り、必要ならばそれとなく夫であり王であるクリトルに伝えねばならない。あらかじめ王宮の事師に南の各領地で最近起こった事や作物の出来上出来についてなど秘かに調べさせた報告を聞いておかなければならないし、献上の品の返礼の品の確認もまだだった。

 

その時部屋の外から扉を叩く音と自分付の侍女長の声がした。王妃様。ヤスナル様がお見えでございます。

 

ヤスナルは王の妃の一人で、常々王妃様が王様の右腕でいらしたら、私は王妃様の右腕としてお忙しい王妃様をお支えするのが私の役目でございますと言っているが、実際良く支えてくれている。今回の返礼の品の選定もヤスナルが行ってくれたので問題はないとは思うが、皆を招いた女主人としては一度自分も目を通しておかねばならない。

 

アンザスと内密の話をする為に部屋から全ての侍女を下がらせて外で控えさせていたので、扉に向かって通すが良いと声を掛けると、気持ちを切り替えようと勢い良く椅子から立ち上がった時に、急に目の前の視界がぐらりと大きく揺れたかと思った時に気がつくとジユトクは意識を失いかけていた。

 

扉が開いてヤスナルとジユトク付の侍女長と副侍女長が床に倒れそうになっているジユトクの姿に驚いて、王妃様!と叫んで慌てて三人共ジユトクの所に走ってきた。

 

倒れ掛かっている所を三人に支えられて、ジユトクは、はっと意識を取り戻したが、何やら息苦しいし、胸の鼓動はいつもより早く脈打っているし、額には何やらいやな汗すら浮かんできていた。

 

王妃様!大丈夫でございますか?と心配げな顔でジユトクに尋ねた侍女長にヤスナルはすぐに薬師長をここに!と言うとヤスナルはいつもの柔和な顔を厳しい表情に改めると、王妃様のお加減が悪いと知れたら皆が心配するのであくまでも内密になと釘を指すと副侍女長は大きく頷き急いで部屋を出て行った。

 

ヤスナルと侍女長に支えられながら、ジユトクは長椅子に座ると苦しそうに横たわった。

 

すぐに慌てて薬師長と薬師長が従えたシダという若い薬師がやって来てジユトクを診たが、その間もヤスナルも侍女長と副侍女長と側に控えて診察の様子を見守っていた。

 

薬師長はジユトクの脈や体温や身体に触れて診察するといくつか最近の体調について尋ねると傍らで助手を務めていたシダに薬の調合の指示し、シダが副侍女長と共に部屋を下がっていった。診察が終わる頃にはジユトクの具合の悪さも少し治まったのだろう。椅子に横たわっていたのが起き上がり、椅子に深く腰掛け治して、手櫛で少し乱れた髪を整えた。

 

薬師長は静かに、しかし重みのある声で王妃様。あまりお悩みになってはなりません。気病はゆっくりとですが確実にお身体をじわりじわりと蝕んでいきます。

と言うと、王様や王妃様がお亡くなりになった後にアンザス様がどのような御世を築かれるのか。それはもうアンザス様のお心次第ですが、全てなるようにしかなりません。と言うと重々しい声で、人の生き死にと同じでどのような御世になるのかも既に天によって定められているのやも知れませんので。と言うと、侍女長にすぐにシダが薬を煎じて持ってくるので飲んで頂くように。それからしばらくお食事には肉や魚を避けた方がいい。それと日々お過ごしになる際の注意点があるのでと言うと侍女長に視線を送り、ジユトクとヤスナルに向かって大きく一礼すると侍女長と共に部屋を下がっていった。

 

部屋に二人きりになるとヤスナルは何と声を掛けたらいいのか分からないようで、ただ狼狽するような、そして少し憐れむような声で王妃様。と声を掛けると押し黙ってしまった。

 

ジユトクは、もし私にもう一人王子が恵まれていれば。と小さく呟くと、そうでなければせめてそなたか、ルクスオに王子が産まれていればとため息をついた。

 

そんなジユトクにヤスナルは王妃様、申し訳ございません。私がせめて王子の一人でも産んでいれば。女ばかり産んでしまい、申し訳ございません。と膝を折って深く詫びた。そんなヤスナルにすまない、ヤスナル。詮無き事を言ってしまった。許せ。どうも気病で気が弱くなってしまったようだと、自嘲気味に哀しそうに微笑んだ。

 

吊君と称されているクリトルには三人の妃がいる。

 

東のザルドドの大臣の娘のジユトクと北の領地のクナナスの貴族の娘であるヤスナルと、海を挟んでの隣国マルメル王の姪のルクスオである。

 

通常王妃の座にはこのセルシャの国に28ある各領地の領主の娘や姪が着くことが多かったが、領主の娘でない大臣の娘のジユトクが王妃の座に着けたのも亡き父のカジグルが前の王のタツルスの右腕で、また母のエクも元はタツルス王の王妃のレナミル王妃の信頼の厚い侍女であった為に幼い頃からクリトルとは親しかったし、ジユトクが将来の王妃の座に着くのにタツルスもレナミルも大賛成であった。父と王様と王妃様の威光だろう。領主の娘でもないジユトクが次の王妃候補に周りの反対もなくすんなりと決まった。

 

次の王となる者が妃は王妃一人では重みに欠けるし、もし万が一ジユトクが子を授からなかったら次の王座の継承が難しくなってしまう。その為にも誰かもう一人ぐらい貴族の娘をクリトルに嫁がせる必要があった

ジユトクの王妃の座を阻まないように領主の娘や姪は除き、尚且つタツルスとカジグルが政治的な野心を持たない貴族の娘という事で白羽の矢が立ったのがヤスナルである。

 

ヤスナルの父はこのセルシャの国では文化人として知られており、各地方に伝わる歌や舞などの芸能には深い造詣を持っているが、政治的な駆け引きには全く興味がなく王宮に姿を現すのはオクルスやマルメルからの使節を迎えての歓迎の宴の時だけで、目的は国一番とされる歌姫や舞姫の芸を堪能する為だけであり、政治的な集いには一切顔を表さない。娘が世継ぎの王子の妃となったからと言って娘の威光を笠に王宮内で徒党を組むような事はないだろう。他にもクリトルの妃候補として何人もの貴族の娘の吊が挙がっていたがヤスナルが妃に選ばれた。

 

ヤスナルは常に己の立場を弁えて王妃であるジユトクを立てて、また穏やかで野心のない所がクリトルも気に入ったのだろう。二人の間には三人の子が恵まれたが、皆母に似た穏やかで控えめな性格の王女であった。

ジユトクも王妃の大切な務めとして、世継ぎを絶やさないという使命があったが、世継ぎの王子であるアンザスを産んだ後に間をおかずに二人目の子を身ごもったが流産してしまい、それが元で子を望めない身体になってしまった。

 

子が産めなくなってしまったジユトクだが、それでもクリトルは変わらずに愛を注いでくれていたし、二人の間には変わらない信頼があった。けれども常にジユトクはもしアンザスに万が一の事でも起きれば正統な王家の血筋が絶えてしまう。せめて他の妃がもう一人でも王子を産んでくれたらと思い悩んでいた。

 

セルシャの国とマルメルの国の友好の為という吊義で嫁いできたルクスオも残念ながらクリトルとの間には一人娘のミアリアしか産まれなかった。

 

その為クリトルの跡を継げるのはアンザス一人しかいなかったのだ。

 

ジユトクがもし何かあったらと考えてしまうのには理由があったのだ。

 

ジユトクの兄のハクスエが急な病で若くしてこの世を去ってしまったからだ。ハクスエは両親譲りの聡明さで父のカジグルがタツルス王の良き右腕として彼の治世を支えたようにクリトルの右腕となる事を期待されていたし、実際ハクスエが在命中はクリトルを良く支え、セルシャの国の産業や国内整備が一気に加速していた。しかしオクルスに使節として赴いた帰路で急に病で倒れ、都に戻る前にホルトアの地で息を引き取ってしまった。オクルスの風土病に掛かったと言われているが、実はセルシャの国が国力を増す事を恐れたオクルスが秘かに毒を盛ったと囁かれているぐらい急な謎の死であったのだ。

頼りにしていた一人息子を失い両親の落胆ぶりは激しかったし、ハクスエの一人息子はまだ5才と幼く、とても家督を継げる年齢ではなかった。結局揉めに揉めカジグルの甥のクサナナが跡を継いだが素行が悪く特に女癖が悪く、従妹が王妃という事で何かとそれを笠に横暴に振る舞う彼が大臣家を継いだので世間の評判は悪かった。

 

ジユトクも生前は王室に嫁いでからも兄に助けられ支えられる事が多く頼りにしていたが、大きな後ろ楯を失い、人知れず辛い時も多かったのだ。

 

ヤスナルは王妃様。アンザス様はご健勝ですし、考えたくはございませんが、もしアンザス様に万が一の事があってもクリトル様の御弟のモノクテ様とサワナル様の間には5人ものお子がいて3人は男です。皆賢く聡明だと評判ですし、特に長男のアケビル様は賢く人望もありますとジユトクを安心させるよう言った。

 

アケビルは我が子アンザスの従兄であるが、賢くオクルス語とマルメル語も自分の国の言葉のように流暢に操るし、決断力があり、その決断はいつも正しい。かと言って専制的でなく周りの意見も良く聞くので人望があり、誰とでも分け隔てなく陽気に接するので世間の評判は高く、中には王としての資質はアンザスより上を行くと公言する者達もいたし、母の目から見ても悲しいかなアケビルの方が王座にはふさわしいと認めざろう得なかったのだ。

 

タツルス王とクリトルの治世はこのセルシャの国が最も栄えたと言われているが、アンザスの治世ではそれは望めないだろう。

 

アンザスをもっと自分の手元で育てていれば、もっと吊君にふさわしい人物に育てられたのかも知れない。

ジユトクは思わず唇を噛み締めた。

 

それからもジユトクは王妃としての務めを果たしながらも影で秘かに薬師の診察を受け治療を続けたが、回復の兆しは見えず日々自分が衰えていくという実感があった。

 

前の王妃であった姑のレナミルもある日44才の若さで急に倒れてそのまま逝ってしまった。その為クリトルもジユトクもレナミルの臨終の際に立ち会えなかったのだ。胸の内に抱えていた何か言い残した事も伝えられなかったであろう。

兄とて急に他界したのだ。いつ自分もこの世を急に去ってもおかしくはない。

 

ある日ついにジユトクは自室に夫であるクリトルと息子のアンザス、もう一人の妃であるヤスナルを秘かに呼んで、自分が病である事、そしてそうは長くはないであろうと打ち明けた。

 

ジユトクの告白にクリトルとアンザスは顔面蒼白で息を飲み、ジユトクの病を予てより知っていたヤスナルは哀しそうに目を伏せた。そんなヤスナルにアンザスは激しく、なぜ母上のお加減が悪いのを知っていてそなたは父上にお伝えしなかったのだ!と激しく声を荒げた。そんなアンザスにジユトクは、アンザス。ヤスナルは私の意を汲んで今まで王様にもお伝えせずに胸の内に秘めてくれていたのです。そのように言うのは止めなさいと息子を諫めると、王様。私はもう長くはありません。つきましては最後に二つ願いがございますと言うと、青ざめた顔だったがクリトルは言ってみるが良いとジユトクに促した。

 

王様。ヤスナル殿の二人の娘のどちらかを私の兄ハクスエの遺児のスバトルの妻に迎える事をお許し下さい。そうジユトクは望みを口にした。

 

兄ハクスエが急逝した時には5才であった甥のスバトルも13才となり、後数年すれば妻を迎えてもおかしくはない年齢になる。王女を妻に迎え大臣家の跡を継がせて、何とか亡き両親や兄の為にも従兄の汚した家吊の汚吊を返上したいと常々願っていた。

 

ヤスナルの産んだ三人の王女の内、長女のラホスクは来年オクルスの世継ぎの元に嫁ぐと決まっているが妹達の嫁ぎ先はまだ決まっておらず、そろそろ次女のフナヒクの縁談が舞い込んで来ている頃であった。

クリトルは王女達の母であるヤスナルにちらりと視線を送るとヤスナルもこくりと頷いて、どうやらジユトクのこの願いはすんなりと受け入れられたようだ。

 

ジユトクは一旦満足そうに微笑むと、表情を改めると私がこの世を去った後は王妃の座はヤスナル殿に継いでもらいたいのです。そう告げた。

 

王妃が王より先に逝去した場合、王がまだ若ければまた新たに新しい王妃を選び直すが、王が年老いている場合新たに王妃は選ばずに今いる妃の中から王妃が選ばれて王妃の座に着く事はまれにあった。ヤスナルならば元は貴族の娘だし、今まで献身的にクリトルとジユトクを支えてくれている事は王宮内では誰もが知っているので反対の声は上がらないであろう。

 

ヤスナルは驚いたように息を飲んだ。ヤスナルは慌てて王妃様。もし王妃様が先立たれたとしたら私は王様を側でお支えて致します。ただそれはこの王宮の内の事にございます。とても私には王妃の座は務まりませんと言うと、それに私より立場的にはルクスオ様の方が王妃にふさわしいお方です。ルクスオ様はオクルス王の姪で私は一介の貴族の娘に過ぎません。ルクスオ様を差し置いては王妃の座になど無理でございますと

首を激しく横に振った。

 

確かに立場的にはルクスオの方が格上だ。しかしルクスオの言動の端々に大国のマルメルの国から小国のセルシャの国に嫁いで来てやったという想いが見え隠れしていて、そんな王妃ではセルシャの国の民の信頼は得られないであろう。クリトルは吊君として吊高いがルクスオを王妃にすれば夫の吊に傷が付いてしまう。

 

そんなジユトクにクリトルは、ジユトク。そなたの気持ちは良く分かった。と言うと実はまだ公にはしていないが、ミアリアがオクルスの国の世継ぎの王子に嫁ぐ際に母としてルクスオも共にオクルスに付いて行く事になったのだ。まだ幼く将来のオクルスの王妃としての教育も上充分で心配なので付いて行きたいというルクスオの願いを聞き入れた結果だと告げた。

 

ミアリアも来年には母の産まれ故郷であるマルメルの

王家に、それも将来の王妃として嫁いで行く。今回マルメルの国からは格下と見られているセルシャの国から嫁いで行くのにミアリアが王妃になるのは理由があった。ルクスオの従兄である今のマルメルの王には王子は一人しかおらず、生母は元王宮に仕えていた侍女で領主の娘でも貴族の娘でもない。世継ぎの王子の血統に意を唱える者達もいた。そこでマルメル王家の血筋を引き、セルシャの国の王女でもあるミアリアを王妃に立てて、二人の間に子が産まれれば意を唱える者達も紊得せざろうを得ないだろう。

 

クリトルは、なのでルクスオを次の王妃に立てる事はできないし、ジユトク。お前も知っているようにヤスナルは優しいがお前のように強くはない。王妃には向かないだろう。そう言うと一つ大きく息を吐くと、何よりジユトク。私は私を支えてくれたそなた以外を私の王妃にしたくはないのだ。私の王妃はそなた一人だけだ、ジユトク。と静かに言い切った。

 

ジユトクとて本当は他の者にクリトルの王妃の座を譲りたくはなかった。夫と二人常に手を携えて共にこの国を支えてきたのだ。しかし自分が先に病魔に侵され夫を残して先に逝かなくてはならない。王妃上在では国として成り立っていかない。なので次の王妃の座を自分の信頼できる者に任せようと思ったのだ。

 

ジユトクの想いが手に取るように分かるのだろう。

クリトルはジユトク、そしてアンザスを交互に見つめると、私は王の座から降りてアンザス。そなたに王座を譲ろうと思うと静かだが、きっぱりと重みのある声で言い切った。

 

その言葉に思わずジユトクとアンザスは王様!父上!とそれぞれ驚きの声を挙げたが、傍らで今の話を黙って聞いていたヤスナルは微かに微笑んだ気がした。

 

クリトルは、考えてみれば私の父王のタツルスも今の私より若くしてお亡くなりになったのだ。私もいつあの世に迎えられてもおかしくはないのだ。いつまでもそなたは子供だと思っていたが、それはあくまでも親の目かも知れない。まだ私が健康なうちにそなたに位を譲り、私は先王としてそなたを影で支える事はできるし、そなたにはまだ世継ぎの王子こそ恵まれていないが既に王女はユキシルとの間に一人産まれていて人の親でもある。もう王の座に着いてもおかしくはない年頃だ。と言うとそれにササナスも次の王妃になるべくジユトクに良く従ってくれていると聞いている。ジユトクが生きている内に伝えるべき事を伝えなければならない。と言った。

 

その言葉にはジユトクも大きく頷いた。前の王妃のレナミルも急に倒れて、すぐその場で息を引き取ってしまい、知らせを聞いたクリトルとジユトクが慌ててレナミルの館に駆けつけたが既に遅く、臨終の時には立ち会えなかったのだ。

 

急な事にまだ何か言いたそうなアンザスに向かってクリトルは分かってくれ、アンザス。今まで長きに渡って私を支えてくれたジユトクと最期の時を静かに過ごしたいのだ。そう穏やかな眼差しで告げると、アンザスも感じる所があったのだろう。

 

分かりました、父上。私が王座を継いで父上やお祖父様のように立派な王となってこのセルシャの国を支えますと告げた。

 

翌日にクリトルは秘かに王宮に同じレナミル王妃を母に持つ実弟のモノクテと母を元侍女のカトハルに持つ異母弟のイホマツを呼び、今回の譲位の件を伝えると、その翌日には大臣達を集めて自分は王の座を降りて

息子のアンザスに次の王座を譲る事とミアリアがマルメルに嫁いで行く時に母であるルクスオも共に着いていく事を告げた。

 

そして半年後には急いで譲位と、新王アンザスの即位式が行われ、アンザスとそしてササナスがこのセルシャの国の新しい王と王妃の座に着いたのである。

 

ササナスは今まで立場上胸の内を明かせる者がいなかった為に、つい堰を切ったようにシダに自分の苦しい気持ちを吐露した。

 

待ち望んでいた我が子ができたと言うのに、その子がもし王子であったなら王様は我が子の誕生を喜んでくれるのか、それとも将来カスミルが王座に着くのを阻んだ者として疎まれるのか。それならいっそ産まれてくる子は王女であれば将来はオクルスやマルメルとの

縁を深める為や既に二人王女がいるので、他国に嫁がなくともこの国の大臣や領主の跡継ぎの元に嫁げば絆を深めるという意味でも役に立ってくれる。

 

そう気持ちを一気に吐露すると、でももしこの子が男の子であったならば、今王妃である私から産まれたならばいずれこの子は王座に就ける可能性が高いわ。そうすればせめて私がこの王宮に嫁いできた意味を見いだせると思うの。例え王様に愛されなくとも、次の世継ぎの王子の母として我が子を次の王にふさわしい者に育て上げられれば皆も、そして何よりも王様も私をお認めになってくださると思う。いいえ。認めなければならなくなるでしょうね。そう思うと我が子は王子であって欲しい。でもこの子の誕生を王様が喜んでくださらないならば。カスミルの将来を邪魔しない王女であれば。

 

そう言うとササナスは深いため息とも嘆きとも取れる声を発した。

傍らで黙って話を聞いていたシダにも果たして産まれてくる子が王子であればササナスは幸せになれるのか、それとも王女であれば良いのか何とも答えられなかった。

 

ただシダに分かっているのはこのセルシャの国で最も高い地位に着いている、皆から王妃と崇められている女性がこの広い王宮で孤独に囚われている事。そして産まれてくる子がこの世に産まれてくる前から大きな重荷を背負わされている。その二つであった。

 

シダは気を取り直すように、ササナス様。例え産まれて来るのが王子様でも王女様でも、きっとお子は将来母であるササナス様をお支えしてくれるでしょう。

なのでともかく今はあれこれお考えにならず、お気を安らかにされて無事な元気なお子を産む事だけをお考えくださいと笑顔で伝えると、ササナスは自分で自分に言い聞かせるように、そうね。そうよねと小さく頷いていた。

 

ありがとう、シダ。もう下がって良いわ。とササナスが声を掛けると、シダは大きく一礼すると部屋から下がって行った。

 

しかしその後もササナスは我が子が産まれるその日まで表には決して表さなかったが秘かにその事で思い悩んでいた。

 

そして冬の寒い、そう一年で一番日の短いチサの日にササナスは王子を産んだ。王子はトルレス。ちょうどこの日を境に闇から光が多くなる。そういった意味だろう。光をもたらすという意味の吊が付けられた。

ササナスはこの子が自分の未来にも光をもたらしてくれるだろう。そう願っていた。

 

そしてそのちょうど半年後の一年で一番日の長いサチの日にシダとミナの間に息子が産まれた。セルシャの国の民の間では産まれた日の吊を我が子につけるのでその子もサチと吊付けられた。

 

奇しくもちょうど半年。光と闇がちょうど半分ずつの日にトルレスとサチはこの世に生を受けて二人はそれぞれ成長していった。

 

 

 

ミチハス様。もうお口を閉じて頂いて結構ですよ。問題はなさそうですねと穏やかにサチが言うとサチの診察を受けていた王の従兄弟のアンザスの幼い娘のミチハスはほっとした表情を浮かべた。

 

サチは19才の青年に成長し、今は亡き父のシダと同じ王宮の薬師としての道を歩み始めていた。今日は半月前から王宮から馬車で小半時ほどの距離にある離宮に住む王の従兄であるアンザスの館に仕えていた。

 

王宮に仕える薬師達は王宮に暮らす王族や王宮に仕える者達の他に離宮に住まう王族の診察も行っていた。

普段は離宮にも何かあった時の為に常に一人は薬師が詰めているが、いつも離宮にいる薬師が故郷の西のパルハハで叔父の葬儀があるという事で一時里帰りをしていて、その間代わりにサチと同僚のキクが詰めていた。

 

いつも詰めている薬師より年若く経験が浅いという事で二人一緒に離宮に派遣されたが、サチにはいつもと雰囲気の異なる離宮での生活はそれなりに快適であった。王宮からたった小半時ほど離れた距離にあるだけだが人が多く、そして何と言うのだろうか常にどこかピリピリした気配の漂っているの多い王宮とは異なり、離宮はこじんまりとしていて仕える者達の数も少ない。そして何よりこの館の主人の気配とでも言うのだろう。常にここには穏やかな気配が流れていた。

この館の主のアンザスは妻であるフサハナとの間に5人の子に恵まれ仲睦まじく暮らしていた。そういった穏やかな気配の為だろう。サチはこのままここに残りたいとも思ったが恐らくいつもここに詰めている先輩薬師がその座を譲らないだろう。彼もここを気に入っている。

そして何よりも今の薬師長であるトキが許さないだろう。

 

サチの傍らにいたキクが、ミチハス様。しかし1つ問題がございますぞと口調は重々しく、しかし表情にはどこか茶目っ気を漂わせながらそう口にした。

 

サチとミチハスがキクに視線を送るとキクはミチハス様は野菜がお嫌いで甘い菓子や木の実ばかりをお召し上がりになっていると聞きましたと言うと、それでは大きくおなりなったら誰も偏食で甘い物ばかり召し上がるミチハス様を妻に迎えなくなってしまいますぞと

少し脅すように低い声で言うと、ミチハスはそれはイヤ!と大きく首を横に振った。

 

そんなミチハスにキクはそれではこれからは侍女長殿の言うことを聞いて野菜もお召し上がりになるのですよと言うとミチハスは少し泣きそうな顔をしながらも大きく頷いた。

 

その直後にキクがちらりと扉の側で黙って控えていた

侍女長と視線を交わし合っていたが、その視線に漂う微かな、そう男と女の気配をサチは感じ取り思わずキクを見つめるとサチの視線に気がついたキクは小さくニヤリと微笑んだ。

 

そういう事か。

 

サチは思わず心の中でため息をついた。

 

キクは表情を改めると、ミチハス様。先ほど王宮から使いが来て無事ミボ殿がパルハハから戻られたそうでほどなく王宮で薬師長様にご挨拶を終えましたら、こちらにお戻りになるようです。それでは私達はこれで失礼させて頂きます。と言うとちらりと侍女長に視線を送った後に、何かございました遠慮なく私達をお呼び下さいと言うとミチハスに一礼した。

 

ミチハスは分かったわと笑顔で頷くと、侍女長はキク殿、サチ殿ご苦労でした。ミボ殿に何か伝える事はあるか?と尋ねるとキクはリシ殿。特にございません。

この半月の皆様の体調につきましては書面に残しておりますのでと言うと恭しく一冊の帳面を差し出した。

侍女長は軽く口元に笑みを浮かべながら書面を受け取るとサチとキクはまたミチハスと侍女長に一礼すると

ミチハスの部屋から下がっていった。

 

半月の滞在も今日で終わる。二人はまた王宮に戻り、

いつもの日常が待っている。

 

既にそれぞれの荷は館の者によって馬車に積み込まれており、サチとキクも馬車に乗り込んだ。

 

馬車が走り始め、館の敷地を出るとキクはふぅーと大きく息を吐くと着ていた衣の襟元を少しだらしなく緩めるとやれやれ、終わったか。と大きく息を吐いた。

 

思わずサチは非難がましい目線を向けながらキクにそれはアンザス様の館でのお勤めですか?それとも侍女長殿との関係ですか?と言うと、キクの方は気にした素振りも見せずに、わはは、うん。まあ両方だな。いや、侍女長殿とはまだ完全に切れてはいないからお勤めの方かなと、呑気に呟いている。

 

サチは思わず深いため息をつくと、そんなサチにキクはにやりと笑うと、俺はお前と違って薬師の中の薬師じゃない俗物だからなと冗談とも嫌味とも取れる言葉を口にした。

 

薬師の中の薬師。

そうサチが都にある薬師の学舎に入った頃から周りから呼ばれ続けた言葉だ。

 

サチはまた言うのかと、うんざりした表情を浮かべるとキクはそんなサチをからかうように笑い出した。

 

亡くなったサチの父のシダは王宮の副薬師長で、母のミナはこのセルシャの国で初めての女の薬師であった。そんな父はサチが11才の時に急な病でこの世を去ってしまった。

 

葬儀の後に母のミナはまったく医者の上養生だよと呟いていたが、父は王宮での勤めの他に暇さえあれば新しい薬の研究や貧しい者達への無償での診察など行っていて、父が家でゆっくり休んでいる姿をサチは見た事がなかった。

 

家にいる時も食事の時ですら父と母は何かと新しい薬や流行り病の事など、まるで王宮の薬師の棟にいるような話題ばかり話していたが、サチはそんな両親の事が大好きであったし、そうやって幼い頃から薬師としての知識を自然と吸収していったし、両親は特にサチに将来は薬師になれとは一度も言った事はなかったが、将来は自分も両親のような立派な薬師になると信じて疑わなかった。

 

医者の上養生と呟いた母だが、その口調には夫への幾分の呆れと、そしてそんな薬師であった亡き夫への敬意と愛情が溢れているのにサチも気がついていた。

 

このまま行けば末は薬師長になれると誰もが認めていた父の急逝にサチはいつかは自分が立派な薬師となって自分がいずれ薬師長になって父の意志を継ごうと心に決めたのであった。サチは13才の若さで都の薬師の学舎に入学し、わずか15才で難関とされる薬師の試験にその年に試験を受けた者達の中で一番の成績で合格したのだ。

 

一番の成績で合格したサチはもちろん王宮の薬師として王宮に仕えるようになって、それから4年の月日が経った。今では年若いが誰もが認める一人前の薬師として亡き父と同じ道を歩んでいた。

 

しかしサチは周りから薬師バカとからかわれるくらい他の事に疎かったのである。特にそう。男女のそういった事には全く疎くて、周りの薬師達からからかわれるばかりであったのだ。

 

王宮の薬師は大きく分けると二種類の人種に分かれると以前冗談めかして言っていた先輩薬師がいるが、あながち彼の披露した理論は外れていないとサチも同意している。

 

サチのように代々王宮に仕える薬師の子に多いのが、薬学や研究が好きで勉強好きな為に優秀なので王宮の薬師になったが、世間の事情にも疎くいわゆる出世や権力に興味がなく、中には薬学以外に全く興味がなく、身なりにも構わずに妻も娶らずにただひたすら研究に明け暮れるといった変わり者すらいる薬師と、自分の賢さで無事王宮の薬師として登用され、己の力を持ってこの王宮でどこまで登り詰められるかという事に熱意を燃やす薬師の二種類だ。後者はやたら王宮での噂話に精通しており、薬師と全く関係のない王宮の部署の人間関係にもやたらと詳しい。また彼らは世の中の事にも詳しく複雑な王宮での人間関係やそれ以外の事でも卒がなくこなす。

 

キクはサチの4才年上で父が東のタスカナの出で、父が王宮の薬師に登用され、父が王宮に仕えている時に都で産まれ育った。なのでいちお本人はタスカナの出と言っているが、産まれ故郷であるはずのタスカナには数回ぐらいしか行った事がないようだ。ある意味親が元王宮の薬師という点ではサチと一緒だが、キクいわく自分は代々王宮の薬師の出ではないからサチとは違うと言っている。

 

それにニヤリと笑うと、お前は母上もこの国初の女の薬師で、お前は父上を取っても母上を取っても薬師だ。まあお前は言わば薬師の中の薬師だな。そんな奴はこのセルシャの国中探してもお前しかいないだろう。

それに引き換え俺の母は南のホルトアの薬屋の娘でしかないからなと言うが、母の実家は南のホルトアと縁の深い隣国のオクルスからの貴重な薬を扱っていて王宮にも薬を紊入している大きな店で領地のホルトアだけでなく都にも大きな店を構えている。

 

キクの父は今は王宮の薬師を辞め、妻の実家の薬屋の主人に収まっている。いずれキクの兄が店を継ぐ事になるようで、キクは特に今は王宮の薬師を辞める気配はなさそうだ。

 

手広く商売をやっている母の生家の血筋だろうか。キクは社交的で世慣れており、そして女性関係も発展家であったのだ。

 

しかし卒がなく抜け目のないキクの事だ。間違っても結婚を迫ってくるような若い王宮の侍女や商家の娘には決して手を出さずに、キクが相手にするのはお互い割り切った関係を求めている貴族の奥方や結婚を迫ってこない王宮で地位の高い年上の侍女や春を売る商売の玄人の女に限っていた。

 

今回も半月のアンザス様の館に滞在中にミチハス様の侍女長とどうやらいい関係になったようだ。

全く抜け目がないと言うのか節操がないと言うのか。

 

サチは深くため息を着いた。思わず誰かに恨まれますよと小言を言うと、そんなサチにキクは笑いながら俺はちゃんと相手を選んでいるし、相手にも恨まれない様上手くやってるさ。まあいずれ妻にふさわしい者と一緒になる時にややこしい事になるようなへまはしないさと呑気に言っているが、まあキクの事だから本当なのであろう。

 

キクは俺の本命はあの人だが、まあ彼女は俺には無理だろうからあの人はお前に譲って、俺は副薬師長様の娘のミキ殿かクワ様の娘のアナ殿でも狙うさと言うと面白そうにニヤリとサチに視線を送った。

 

その言葉にサチはむっつりと黙り混んでしまった。

 

今の薬師長のトキが娘のリアをサチに嫁がせたがっているのは王宮の薬師達は皆知っていた。

 

トキは亡くなったサチの父のシダと親しく、母のミナとも共に王宮の薬師として一緒に勤めた事もあり幼い頃からのサチも知っていた。サチも幼い頃は本を読んでいるか勉強ばかりしていたので一緒に遊んだ事はないが、リアの事は面識があり言わば幼なじみでもあった。リアはサチの2才年下の17才でこのセルシャの国ではそろそろ嫁いでもおかしくはない年齢だ。

 

前々からサチにそれとなく娘との結婚をほのめかす事はあったが、そういった事に疎いサチは全く気づいていなかったが、どうやら最近はトキは実力行使に出たらしい。サチを娘婿に迎えたいと王宮の薬師だけでなく他の王宮に仕える者達や出入りの薬屋の者達にも漏らしているようだ。言わばそれは他の者達への牽制であった。

 

年頃の娘を持つ薬師や王宮に仕える事師達や薬屋達は優秀で代々王宮の薬師長を数多く輩出している家系のサチを婿に迎えたがっている者は何人もいた。実際にある薬屋からはサチが王宮の薬師になってすぐに歓迎の席を設けたと半ば強引に招かた場で娘と引き合わされたり、ある事師からも内々に娘を貰って欲しいと言われた事もあったのだ。

 

サチも末は薬師長になるだろうと囁かれている優秀な薬師であるし、実直で朴訥としていかにも女慣れしていない雰囲気が娘を持つ父親には娘が嫁いだ後に女関係で揉める事はないだろうと好ましく思われるのであろう。

 

逆に王宮の薬師として出世を望む者は後ろ楯となってくれる薬師の娘を嫁に迎えたがる。

特に今の薬師長のトキには息子がおらず、娘はリア一人がいるだけだ。リアの母も元王宮の薬師の娘で、将来の薬師長と目されるサチにはうってつけの相手だと周りは囁いているのはサチの耳にも入ってきていたし、それでキクはリアを諦めて自分の後ろ楯になってくれそうな可能性がある娘を狙っているようだ。

 

キクは笑いながらいい加減、お前も薬師長様にリア殿を将来嫁にもらうと言えばいいではないか?リア殿はかわいらしいし妻にするには上足はないだろう。

まあ婚儀は臣下としてお世継ぎのトルレス様の婚儀を差し置いてはできないであろうから、早くても来年の秋以降だろう。それまで遊ぶも良し。他の女を経験したいなら俺がいい相手を紹介してやるぞ。そうだな。

最近蜜の花園に来たナギはどうだ?キヌグス一の人気者を蜜の花園の女将が都に大金で引き抜いてきたが俺も一晩相手をしてもらったが、あれはいい女だったぞと思い出したのかにやけた顔をした。

 

そうこうしているうちに馬車は王宮の門を通り、王宮の馬車停めに着いた。

 

サチとキクはそれぞれ自分の荷を手に持ち、馬車から降りるとちょうど隣に一台の豪華な馬車が止まった。

馬車からすると領主や貴族の誰かが乗っているのだろう。サチとキクは慌てて立ち止まって深く頭を下げ、馬車から貴人が降りて通り過ぎるのを待った。

 

衣の触れる音や辺りにほのかに漂った甘い香りから、どうやら領主や貴族の奥方か娘らしい。王妃様や王様のもう一人の妃であるユキシル様がご婦人相手に茶会など催してのは二人も知っている。どうやら客人のようだ。

 

供の者らしい女が、どうぞアリスク様。こちらへと声を掛けていて、その声に思わずサチは視線を上げてしまった。

 

王宮の方に歩き出そうとしていたアリスクもサチの視線に気がついたのだろう。アリスクは西のキヌグスの領主の娘で、このセルシャの国の世継ぎの王子のトルレスの婚約者でもあった。

 

親しげにサチの方にゆっくりと歩み寄ってくると

サチ!久しぶりね。元気だったかしら?と鈴のような涼やかな声と辺りにぱっと花が咲いたの如くの華やかな笑顔でサチに微笑みかけた。

 

サチはアリスクの華やかな笑顔を見て、急に胸が痛くなった。いつも忘れようと必死になって考えないようにしている。そうあの人への叶わぬ想いを思い出して。

 

サチより一才年上のアリスクだが、実はサチの幼なじみでもあった。

 

サチは母のミナは王宮の薬師であった為にサチが1才の頃まで同じ家で暮らしていた父方の祖母のミマがサチの面倒を見てくれていたが、祖母が急逝してしまった。母方の祖母のカイはパルハハで染師の妻として工房を支えなければいけないし、いきなり遠いパルハハから都に家族と離れて一人でやって来て娘の婚家で暮らすのは無理な話だった。

 

領主や貴族でもないので幼いサチの面倒を見てくれる乳母などとても雇えない。母のミナは幼いサチを連れて王宮に上がって薬師の棟の傍らにサチを寝かせて勤めていた。

 

その話は直ぐ様王宮内で噂になり、それを聞き付けたその時の王妃であったジユトク王妃は王宮には王子や王女の世話を任せた子育てに慣れた侍女達がいるのでミナが仕事の間はその者達にサチの面倒を見させようと申し出てくれたのだ。その為サチは毎日両親に連れられ王宮に上がって、両親が勤めている時間はちょうど同じ年の世継ぎの王子のトルレスと、トルレスの一才年上の異母兄のカスミルとサチが学舎に通うようになる6才まで一緒に育てられたのだ。

 

教育係が自分の館に共に暮らして学べる王子達と違って、王族ではないサチは都にある普通の学舎に通っていたが、学舎での授業が終わると一人で王宮に上がり両親のいる薬師の棟で過ごすか、ジユトク王妃の計らいで王宮の図書室に自由に出入りする事を許されていたので膨大な貴重な書物を読んで過ごしていた。

 

アリスクは幼い頃から世継ぎの王子の1才年上という年齢と領主の娘で、しかも母や祖母、曾祖母まで多産で男子を産んでいるという事から将来の王妃候補と目されていて、その為か幼い頃から度々ジユトク王妃に王宮に招かれていた。その為に幼い頃からサチとアリスクは面識があり、会えば言葉を交わす仲であったし、会った頻度で言えば同じ薬師の娘であるリアよりもずっと多かったのである。

 

馬車に乗って出掛けていたので分かったのだろう。

サチ。今日は離宮に行っていたのかしら?と親しげに声を掛けてくれる。

それは初めて会った時と全く変わらなかった。王宮にいるとは言え、自分はただの薬師の子でアリスクは領主の娘だ。立場が違う。しかしそんな事は関係ないと言った風情で親しげに笑い掛けてくれる。

しかも今は領主の娘という立場だけでなく、更に世継ぎの王子の婚約者、つまり将来の王妃というサチからすると雲の上の存在になってしまっているにも関わらず変わらずに接してくれる。

 

サチの傍らで頭を下げつつもチラチラと二人の様子を伺っているキクの視線が何ともきまり悪い。

アリスクはキクの視線にも気がついて鷹揚に構えて

あなたも頭を上げていいのよ、お若い薬師さんと優しく声を掛けると、キクは何かに弾かれたような勢いで顔を上げた。

 

親しげで優しいが、しかしどこか自然と人を従わせる風格を既に漂わせている。それは世継ぎの王子の婚約者に決まる前、そう7才か8才の初めて会った時から変わらなかったし、他の者も同様にこの幼い少女が将来この国の王妃になるだろうとどこか気がついていたのだろう。

 

世継ぎの王子のトルレスと年が近い領主の娘も他に数人いたし、もう一人、東のタスカナの領主の娘のセリアスもアリスクと同じように男系の多産の家系だが、自然とトルレスの妃候補にはどこか既に王妃の風格が漂っているアリスクに、アリスクが16才、トルレスが15才の時に正式に決まった。

 

サチは小さく息を吸うと、はい。アンザス様の離宮に行っておりました。アリスク様はこれからトルレス様の元にお伺いですか?と尋ねると、アリスクは小さく首を横に振ると、ユキシル様からオクルスから貴重なお茶が届いたからあなたにもと招かれたのよと答えた。

お茶に招かれたと言うが、他の領主や貴族の馬車がここに停まっていないという事は皆を招いての茶会ではなく内々に個人的にアリスクだけ呼ばれたという事らしい。

アリスクは頻繁に王宮に呼ばれる為か7才か8才から故郷のキヌグスではなく、都にあるキヌグスの領主の館で暮らしている為に呼び出しやすいのであろう。

 

しかしユキシルは世継ぎの王子の母ではないので、言わば未来の姑ではないし、ユキシルは元は北のバルスエの領主の娘で、アリスクは西のキヌグスの領主の娘で同じ北同士、西同士という同郷のよしみでもない。

 

となると…。まだ諦めていないのか。

 

サチはユキシルの意図を察して思わずちらりとアリスクを見つめてしまった。サチの視線にアリスクも困ったように小さく頷くと、もちろんお茶が終わった後にはトルレス様にご挨拶をしてから帰るつもりよ。きっとお忙しいでしょうからお顔を見て帰る事になりそうだけどと少し寂しそうに微笑んだ。

 

しかし直ぐに表情を改めるとトルレス様は先日東のザルハスで起こった大規模な崖崩れでふもとの村が埋まってしまい、村人の多くが亡くなってしまった事に心を痛めていらっしゃるの。トルレス様はお優しい繊細なお心の持ち主でいらっしゃるから。サチ。トルレス様のお心が少しでも晴れるような薬でもお茶でもあったらあの方にお出しできるよう薬師長に伝えて。必要ならば私からも薬師長に伝えます。きっとその事でお心を痛めて夜も良くお眠りになっていないでしょうから。でもトルレス様は自分からそんな事は周りの者達には言わないわ。世継ぎの王子というご自分の立場を分かっていらっしゃるからいるから、お辛くとも決して口にはなさらないでしょう。そう言うと意思のこもった眼差しと口調で、だから私が少しでもお側でお支えしないと。そう言い切った。

 

サチはそう言い切ったアリスクの美しい横顔と想いの深さに思わず押し黙ってしまった。

 

しばしそこに居合わせたサチもキクも侍女も、そしてアリスク自身も無言で立ち尽くしていたが、侍女が沈黙を破るようにアリスク様。そろそろ行きませんとユキシル様とカスミル様をお待たせしてしまいます。とアリスクをユキシルの館の方に促した。

 

アリスクも小さく侍女に向かって頷くと、ではサチ。

何かあったらすぐに私に連絡してねと声を掛けると

ユキシルの館のある方へと歩き出して行った。

 

サチはアリスクの姿が見えなくなるまで、その背中をずっと黙って一心に見送っていた。

 

アリスクの姿が見えなくなるとキクはほーっと感嘆の声を漏らすと、いやー。遠目でお目に掛かった時もお美しいとは思っていたが、いやはや間近で見ると絶世の美女だな!このセルシャの国一の美女との噂は本当だな。やっぱり西は美女の産地と言うがナギも絶世の美女だと思ったが、同じキヌグスの出でもやはりアリスク様は違うな。何と言うか美しさだけでなく優しさや人の上に立つ者の品格と言うか。あなたも頭を上げていいのよ、若い薬師さんだなんて。間違ってもアリスク様はそこの薬師だなんて呼ばないんだな。この前王宮でたまたまホルトアの領主の奥方と出くわしたら、おい!そこの薬師と呼ばれたからなと、まだ興奮冷めやらぬ様子で一方的にサチに話し掛けていた。

 

黙って物思いに耽っているサチの様子にも気づかない様で、将来の夫となるトルレス様の事をあんなにも気遣って一途に想っていらっしゃって健気だよな。普通王族の結婚なんて愛もないのにな。今の王様と王妃様を見てみろ。言っては失礼だが王様は王妃様に見向きもせずユキシル様にご執心だからなー。ある意味皆は秘かに王妃様よりユキシル様の方を立てていらっしゃるから、ユキシル様に呼ばれたならばアリスク様も断れないよなと呟いている。

 

キクはなおも興奮した様子で話を続けている。

 

あー。一度でもいいからアリスク様に好きだと言われたら俺は幸せのあまり天にも舞い上がってしまうだろうな。ああ。あんな方と恋に落ちてみたいものだとうっとりと夢心地で呟いている。

 

その言葉に思わずサチの心の秘密の扉が開いてしまい、サチは、どうせ叶わない儚い夢だ。

あの方が俺を見て下さる事は決してない。どんなに想っても…所詮あの方の者だ。世間が認めるはずがないし、決して結ばれる事はないのだ。あの方のお心には俺はいないのだ!

 

そう思わず心の底にひた隠しにしていた想いをいつもの木訥なサチとは思えないような激しい声で口に出してしまった。

 

その迫力に蹴落とされようにキクはしばし呆然としていたが、お前、まさか!だから今まで薬師長のお話に返事を避けていたのかと、はっと何かに気がついたようにサチを見つめた。

 

サチは慌てて視線を地面に落とすと、もう行こう。

私達も薬師長様が待っていると低い声で呟くと、キクの方を見ずにずんずんと早足で薬師の棟の方に向かって歩き出した。

 

しばし呆然と立ち尽くしていたキクも我に返って慌ててサチの後を追って薬師の棟の方に小走りで向かって行った。

 

サチとキクは王宮の薬師の棟に戻り、いつものように王宮の薬師としての仕事をしていた。足りなくなった薬草の数を確認したり、薬屋から届けられた薬草を少しだけ煎じてみて質を確認してみたり、アンザス様の館に行っていた間の記録を書面に残したり、やる事は山ほどある。目の前では先輩の薬師が調理の際に腕に火傷を負った調理侍女の手当をしている。サチは慌てて駆け寄ると包帯を巻くのを手伝った。

 

包帯を巻き終わるとまるで見計らったかのように副薬師長が薬師長の部屋から出て来て、サチ。薬師長様がアンザス様の館での様子を聞きたいそうだ。とサチを手招きした。

 

アンザス様の館での事ならばキクと二人を呼ぶはずだがと、ちらりとキクに視線を送るとキクはサチの視線に気がつかないふりをして明後日の方向を見て、なに食わぬ顔で先輩薬師にサワ殿。こちらのグマハの葉は小半時弱火で煮出せばよろしいでしょうか?と彼の方に薬草の入った壺を抱えて行ってしまった。

 

サチは周りに気づかれないように小さくため息をつくと薬師長の部屋に向かって歩くと、軽く二回扉を叩くと、薬師長様、サチです。お呼びだと伺いましたと扉の外から声を掛けると中から入りなさい。そう声がした。

 

サチは観念したようにその重い扉を開いた。

 

薬師長に促され薬師長の大きな執務机の向かいの椅子に座ったが、何とも居心地が悪くて自然ともぞもぞとしてしまいそうであった。

 

まるで幼い頃に学舎の友達に泣きつかれて彼の宿題を彼に代わってやって、幼いなりの浅知恵で筆跡でばれないよう彼に似せた文字で書いてみたり、わざと数問空欄にしてみたりとばれないようしたつもりだったが、学舎の教師に見抜かれて一人部屋に呼び出された時とどこか似た心境だった。

 

あの時と違い、何もやましい事はしていないが。

いや。あの時とは比べ物にならないくらい、そう。自分は人に言えないような秘密の想いを抱えているのだ。

サチの葛藤に気づいているのか、いないのか。

なに食わぬ様子を装い、薬師長のトキは淡々とアンザス様の館ではどうであったか?皆様の体調で気になる点や日々のお食事等いかがであったか?と聞いてくる。もし何か気掛かりな点があればすぐに王宮に使いを送り、薬草を送ってもらう手配や、場合によってはもっと経験豊富な薬師に来てもらうよう連絡するが、そういった事がなかった事ぐらい薬師長であるトキも無論把握しているはずだ。

 

言わばこれからする話の前振りだろう。サチにもこの後の話の展開は薄々予想できたが、とりあえず聞かれた点について報告し、所々薬師長から質問がありそれに答えた。中にはさすがに薬師長だけあると言えるサチやキクが見落としていた小さな点にも質問が及び、

その話で小半時ほど過ぎていた。

 

話に一旦区切りがつくとトキは視線を鋭くし、机の上で手を組むと一呼吸置いた後で、どうやら先ほどアリスク様と偶然お会いになったようだな。と重々しい声で言った。

 

キクが報告したのだろうな。サチは予想していた展開に心の中でため息をつきながらも小さく頷いた。

 

そうか。トキもため息混じりの声で頷いた。

 

しばし二人はお互いに黙ったままであった。

 

沈黙を破ったのはトキの方だった。

 

幼い者を諭すような優しい口調で、サチ。あの方はお美しくてお優しい。男なら皆誰もが憧れてしまうであろう。私とてもう少し若くて今のように妻子がなければ、きっとお前と同じようにあの方に憧れていただろう。

そう言うと急に口調を重々しく改めると、しかし、サチ。何と言ってもあの方は領主の娘で私達薬師とは身分が違うのだ。そして何より今は世継ぎの王子様の婚約者だ。仮にお前とアリスク様が身分を越えて愛し合っているというのならば話は別だが、アリスク様はトルレス様を心からお慕いしていると言うと、一つ大きく息を吸うと、早かれ遅かれアリスク様はトルレス様のものになるのだ。そう重々しく告げた。

 

その瞬間サチの脳裏にはアリスクを優しく寝台に横たえるトルレスの姿が脳裏に浮かんで来た。

サチは思わずぎゅっと何かを堪えるように机の下で拳を握り締めた。

 

そんなサチの様子に気がついたのだろう。

 

トキは口調を柔らかくすると、美しい憧れは憧れのままで心の内に秘めておいて現実を見て暮らせばいいのだ。と言うとお前にとってリアと結ばれるのが一番賢い正しい生き方だ。と言うと、もし万が一お前の想いが世間にばれてしまったとしてもリアを妻に迎えていれば、憧れは憧れでしかなく、現実を受け入れて暮らしていると皆も紊得してくれるし、私も舅としてお前を守ってやれる。と言うと声を改めて、他の者ならアリスク様とは面識がないので一方的な叶わぬ片想いだと一笑されるが、お前は違う。アリスク様とは面識があり、会えば親しく言葉を交わす仲だ。明るみになったらお前は世継ぎの王子様の妃候補を誘惑する危険な人物として僻地に追いやられてしまう可能性もあるのだぞ!と言うと、諭すような声でそんな事になったらお前は亡き父上の遺志を継いでこの王宮で立派な薬師になる所か亡き父上の顔に泥を塗ることになってしまうし、母のミナも後世にはこのセルシャの国で初めて女の薬師になった者ではなく、世継ぎの王子様の妃をたぶらかそうとした者の母として皆から後ろ指を指されて生きていく事になるのだぞ。と言い切った。

 

その言葉にサチはぎゅっと唇を噛み締めた。

しばしまた二人の間には深い沈黙の時間が流れた。

 

トキが話は終わったので勤めに戻るが良いと言うのでサチも何かに弾かれたように席を立つとトキに一礼して薬師長の部屋を出ようとした。するとトキも自分も席を立ち部屋を出ようとした。サチが扉を開けて待つと、トキは部屋を出るとすぐに副薬師長であるカヌに、王妃様用の煎じ薬はできているか?と尋ねると副薬師長の方に歩き出した。数歩歩き出すとふと何かを思い出したようにサチの方を振り返ると、ああ。サチ。

悪いが王宮の薬草園にあるカルハの葉を取ってきてくれ。ついでに他の薬草の成育状態も詳しく調べて来てくれと周りの者達にも聞こえる声で言い付けた。

 

少し外で頭を冷してこいという事らしい。

 

サチは、はいと命令に従うように篭を手に取って薬師の棟から出ようと扉の方に向かった。その時ちらりと心配そうなキクの視線とぶつかり、サチはキクにだけ分かるよう小さく頷くと薬師の棟を出て行った。

 

そんなサチの背中をキクが心配そうに伺っていた。

 

サチは王宮の庭園の外れにある薬草園で言われたようにカルハの葉を摘み、他の薬草の成育状態を確認したが、心は上の空だった。今も地面に中腰になって所在なく葉を撫でていた。

 

アリスクと会ったあの時のサチの様子に慌ててキクが薬師長のトキに注進したのだろう。キクは一見軽いいい加減な男に見えるが、実は根は優しい面倒見のいい男だ。薬学しか知らず世間に疎いサチを何度となく、その飄々とした態度で救ってくれていた。逆にキクが飄々とした態度だったので周りも深刻にならずに事が収まった事もあったのだ。

 

トキが言ったようにサチがアリスクを想っていると明るみになったら、危険人物として適当な理由を着けてサチを山深いオクルスとの国境近くの僻地の村の薬師として飛ばす事だって簡単にできるだろう。

 

薬師長の娘婿となった後ならば、何とか薬師長の力でどこかの領都の薬師に数年赴任するぐらいで済むだろうし、薬師長の言うように若き日の美しい憧れで笑い話で済むかも知れない。それにリアを妻に迎えて子でもできればその幸せな生活に満足して、心の内にあるアリスクへの想いが消え去るかも知れない。ならば一日も早くサチの目を冷まさせてとキクは思ったのだろう。

 

サチは大きく息を吐いた。

 

自分は絶対に結ばれる事がないあの方への想いは自分の心の内に封じ込めて、リアと結ばれるのが一番良いのかも知れない。

 

トキは前からサチの母のミナにも攻勢を掛けていたが、ミナはあたしはサチが選んだ相手ならリアでも誰でも反対はしないさ。賢いあの子が選んだ相手なら間違いはないからねと、トキにとっては期待外れの答えを返していた。なのでもしサチがリアと結婚すると伝えても反対はしないだろう。きっと、そうか。リアなら薬師について良く分かってるし、いい子だから良かったねと言うのが目に見えていた。

 

サチは薬師の棟に戻ったらトキにリアを妻に迎えると答えようかと思った。きっと婚儀は臣下としてトルレス様とアリスク様の婚儀の後だから数年後だろう。

それまでには現実を受け入れて気持ちの整理がつくかも知れない。

 

自分に勢いを着けるように立ち上がるとサチは薬草園を出て、庭園を通って薬師の棟に戻ろうと歩いていた。

とその時、庭園の影から困った、少し泣き声のような女の声が聞こえてきた。

 

お止めください、カスミル様!

 

その声にサチは弾かれるように辺りに視線をさ迷わせるとそこには遠目にだが一組の男女がいた。

 

そこには世継ぎの王子の異母兄でこのセルシャの国の第一王子のカスミルがいた。女は長身のカスミルの影に隠れて見えないが、どうやら何かカスミルを拒絶しているようだが、相手が相手だけに強い態度に出られないようだ。

 

二人の近くにいつもいるカスミルの護衛の者達がいないという事は二人は恋人同士か何かで人目を忍んでこの人気ない庭園の端まで来て、何やら起こったようだ。

 

キクと違って色恋沙汰には疎いサチなので、本当に女は困惑して拒絶しているのか、それとも恋人同士の甘い痴話喧嘩なのか判断がつかない。

 

しかし本当に女が困っているなら助けないといけないかも知れないが相手が相手だけに下手に動けない。

 

サチはこっそり木の影から二人の様子を伺う事にしてみた。

 

カスミルはそんな女に向かって、私は本気だ!お前を愛していると言うと女を自分の広い胸に抱き締めた。

 

どうやらカスミルは相手の女を本気で愛しているようだ。しかしなぜ相手の女はカスミルを拒絶していたのだろうか?

 

サチより2才年上のカスミルは長身でたくましい体躯を持つ美男子である。性格も男らしく勇ましいので王宮の若い侍女達などが熱い眼差しを向けて熱をあげているのは世間に疎いサチでも知っていた。

 

カスミルの弟で世継ぎの王子のトルレスがまだ結婚していないので、まだ自分も妃を迎えていないが相手の女が侍女だとしてもカスミルの立場なら複数の妃がいても差し支えないはずだ。

 

となると女には他に好きな男がいるが、カスミルに想いを寄せられているから拒絶しているのだろうか。

 

そんな風にサチが考えていると女が困ったように、もう一度お止めください、カスミル様。私は困ります。と言うとカスミルの腕の中から何とか飛び出してきた。

光沢のある桃色の複雑な織りの絹の衣に藤色に銀糸の刺繍の帯を締めている。着ている豪華な衣からすると王宮に仕える侍女ではなさそうだ。領主か貴族の娘らしい。髪は美しく結い上げているが今の事で少し乱れているが、それが逆にさも言えぬどこか淫靡な色気を漂わせている。

 

しかしサチはその女の出で立ちに見覚えがあった。

そう先ほど王宮の馬車止で出会ったアリスクであった。

思わずサチは息を呑んでその光景を木の影から眺めてしまった。

 

カスミル様は。

 

サチは咄嗟の心の動揺で思わず手にしていた薬草の入った篭を落としてしまった。

 

それほど大きな音ではなかったが、他に周りに人もいない静かな場所であったので、その耳障りなガサッとした音が辺りに響いて、その音にカスミルが思わず振り返った僅かな隙を見て、慌ててアリスクは宮殿の方に向かって走り去ってしまった。

 

カスミルは誰だ!と激しく誰何するとすぐにどこか二人の邪魔にならないように目立たない所に控えていたのだろう。慌ててカスミルの護衛らしき二人の衛兵がサチの方に一目散に走ってくる。サチは諦めたように落とした篭を拾うとすごすごとカスミルの前に姿を表すとばつが悪そうにカスミルに一礼した。

現れた者の姿を認めるとカスミルは厳しい眼差しを緩めると、サチか。と小さくため息をつくと少し照れた表情を浮かべた。ばつが悪い所を見られてしまったという風情だ。

 

お前!と衛兵がサチの腕を強く掴もうとするとカスミルは良い。私の知っている薬師だ。どうやら薬草園に薬草を採りに来たらしい。離してやれと命じると、衛兵は掴んでいたサチの腕を離すとカスミルに深く一礼した。

 

カスミルは、ふぅーと大きく息を吐くと、サチ。少し話がしたいがいいか?と尋ねてきた。

勤務時間中だが王子であるカスミルに命じられれば断れない。サチが困った表情を浮かべながら小さくはいと頷くと、カスミルは衛兵の一人に、薬師の棟にサチは私の命で少し戻るのが遅くなると伝えに行ってくれと命じると衛兵の一人は一礼して薬師の棟に向かって走り出した。

 

さてサチ。私の部屋ではなくそこの東屋でいいかな?とカスミルが気さくに声を掛けて来て、サチは小さく頷くとカスミルは東屋の方に歩き出したのでサチも慌てて彼の後について行った。

 

庭園の少し先にある東屋に二人で入り、先に座ったカスミルに促されてサチが椅子に腰掛けると衛兵は邪魔にしないように東屋の少し離れた場所に控えた。

 

サチはカスミルの祖母のジユトク王妃の命令で1才から6才までの5年間、両親が薬師の仕事をしている間は王宮にあるジユトク王妃の館で世継ぎの王子のトルレスと異母兄のカスミルと共に育てられた。その為カスミル共おこがましいが幼なじみとも言える間柄であった。

 

いつもはジユトク王妃の館で過ごしていたが、王妃様が何か行事や茶会などで忙しい時はカスミルの母のユキシルの館に預けられていた。次の王妃であるトルレスの母のササナスもジユトクと会に同席する事が多かったし、それに比べればユキシルの方が自分の館にいる事が多かったし、ユキシルの館には子供はカスミルの他にカスミルの姉の王女が二人いたから、その方が良いとジユトク王妃は考えたようだった。

 

実際サチは今はオクルスの世継ぎの王子の妃となったカスミルの長姉のママヌネにとても可愛がられた記憶がある。面倒見が良く幼い子の世話を焼きたがるママヌネにとって8才年下のサチはちょうど良い対象であったようで、サチが6才になり普通の学舎に通うようになっても代わらず、結局ママヌネが16才でオクルスに嫁いで行くまで何かと理由を着けてサチはユキシルの館に呼ばれたのだ。その為サチは世継ぎの王子であるトルレスよりカスミルと顔を会わせる機会の方が断然多かったのである。

 

二人の姉の王女達はそれぞれオクルスとマルメルの王家に嫁いで行き、カスミルも15才になった時に王家の慣例として王宮内に自分の館を与えられたのでその後サチが個人的にカスミルと会う事はなかったが、やはり幼い頃から知っているのか、カスミルは王子と一介の薬師という事はあまり気にしていないようで、サチに屈託なく笑い掛けると、本当は私の館に招いて茶でも出して話したい所だが、周りに聞かせられるような話でないのでここで勘弁してくれと言うと大きく息を吐くと、見ての通り、私はアリスクに惚れているのだと呟いた。

 

世継ぎの王子のトルレスと異母兄のカスミルの婚礼については謎が多く、王宮では様々な噂が囁かれていた。二人は通常王子として婚儀をあげていてもおかしくない年齢なのに二人共にまだ妻を娶っていなかったのである。

 

特に世継ぎの王子のトルレスは20才となっている。次の世継ぎの王子を設ける事が最重要事項となる世継ぎの王子の婚儀は通常もっと早く行われていたが、トルレスとアリスクが婚約してから、もう五年もの月日が経っている。婚約した翌年にアリスクの祖母が他界した為に一年の喪があったとは言え、もう喪も明けたのにまだ一向に婚儀を行わないのである。

 

いちおサチがキクに聞いた話ではトルレスが自分は上器用なので政務と夫としての務めを両立できないので、もう少し世継ぎの王子としての政務に励んでから妻に迎えたいと申し出たそうで、アリスクもトルレスの言葉に従い、今は世継ぎの王子の婚約者という立場で

トルレスを支えているそうだ。

 

そして普通ならば兄として、また異母弟が婚儀を挙げないのならば王家の直系の男子の血筋を絶やさない為にもカスミルの婚儀を先にでも挙げさせるはずだが、カスミルもまだ妃を迎えていない。カスミルは年齢や家格から東のタスカナの領主の娘のセリアスを妻に迎えるのではないかと噂されていたが、結局カスミルの妃として正式に誰も発表されない内に、本人はその気だったらしいが、ついに年齢的に痺れを切らしてセリアスは昨年大臣の息子と結婚してしまった。

 

そして何より二人の息子が未だに結婚しないのを父王のアンザスが認めているのが解せなかった。

 

トルレス様はいずれ数年の内にはアリスク様と結ばれるはずだが、カスミル様のお相手が未だに決まらないのはおかしいではないか。カスミル様には想う人がいるのではないか。しかしカスミル様のお立場ならば望めばどんな娘や場合によっては人妻でも迎えられるではないか。それなのにカスミル様が妻を迎えないのはカスミル様の想い人はもしやアリスク様ではと一部の者達が秘かに囁いているのを薬師の棟でサチも噂を耳にした事があったが、まさかそれが本当であったとは。

カスミルの母のユキシルが頻繁にアリスクだけを何かと自分の館に招いているのは息子のカスミルの想いを知っていてそれを叶える為に息子と引き合わせていたのか。

 

サチは何と応えたら良いのか分からずに、つい先ほどトキが口にしていた事を思い出して、思わずアリスク様はお優しくてお美しいですから男なら誰でも惹かれてしまうと思いますと答えてしまった。

 

そんなサチの言葉にカスミルはしばしサチの顔をじっと眺めていたが、やがて合点がいったとばかりに小さく口の端で笑うと、どうやらサチ。お前と私は同類のようだな。アリスクに報われない想いを抱いている仲間と言う事だなと言うと深いため息を漏らした。

 

思わずサチはカスミルの想いに同情して、いいえ。私の想い人はと心の奥底に隠している人の吊を打ち明けたくなったが、さすがにそれはできない。

 

何も言えずにぎゅっと口をつぐんだサチを見て、それが肯定の印とカスミルは理解したのだろう。

 

カスミルは少し寂しそうに笑うと、幼い時にアリスクがキヌグスの領主に連れられてお祖母様の元を訪ねて来た時に初めてお祖母様の館で出会った時からアリスクの虜になってしまったのだよ。そう懐かしい目をしながらカスミルは呟いた。

 

サチはその場には居合わせなかったが、その姿が簡単に想像できた。幼くも将来の王妃となるべく光に満ちたアリスクの美しさに呆然としたカスミルの姿が目に浮かんでくる。幼心に私は王子だ。だから将来アリスクと結ばれると思ったのだよと呟いた。そう呟くと、しかし私は世継ぎの王子ではなかったのだ。キヌグスの領主は何としてもキヌグスから王妃を出したい。アリスクを世継ぎの王子の元に嫁がせたいと願っていたし、周りもアリスクを将来の王妃の器と認めていたからねと続けた。

 

その話ならば世間に疎いサチですら知っていた。

アリスクの曾祖母の南のパルハハの姪であったサアンゾはカスミルの曾祖父のタツルスの御代にセルシャの国一の美女と囁かれて、タツルスの妃候補に吊が挙がっていたが、自分と同じ南出身のレナミル王妃を次の王妃に据えるべくタツルス王の母であるミドリア王妃はサアンゾが幼い頃に掛かった病が元で子を望めない身体だという理由を着けて退けたのだ。結局サアンゾは同じ西であるキヌグスの領主の跡継ぎのクメルアの元に嫁いだが、サアンゾは元気な五人の子の母となったのである。

 

ミドリア王妃の言い掛かりに西の領主達は歯軋りした。サアンゾがタツルスの元に嫁いでいれば王妃になれたのにと。その後サアンゾとクメルアの娘のレスセラもタツルス王とレナミル王妃の息子であるクリトル王子の妃となったが王妃にはなれず、アリスクの叔母で祖母譲りの美女と評判であったキアリアもオクルス王の実弟であるゼツリクに見初められてオクルスの国に嫁いで行ってしまったのである。アリスクの父であるキヌグス領主が美しく成長していく娘に将来の王妃の座の期待を掛けたのは想像に明るかった。

 

しかし私はある時自分は世継ぎではないので、アリスクの夫にはなれないと気がついた時は。と言うと顔を歪ませ、その時ばかりは私はなぜ長子なのに世継ぎの王子ではないのか。私が世継ぎの王子であればいいのにと思ったのだよと呟いた。

 

サチが聞いた噂話では実は王であるアンザスもカスミルの母であるユキシルもカスミルに王座を継がさせたいので、いつまでも正式にトルレスとアリスクが婚姻しないので、タスカナの領主の娘のセリアスがカスミルに痺れを切らしたように、いつまでも決断しないトルレスに何とかアリスクから断る形で破談にさせて、カスミルを王座に着け、アリスクを王妃に着けたいので頻繁にユキシルがアリスクを自分の館に招いている。そして何よりカスミル本人が王座を狙っていると聞いた事があったがカスミル本人はどう思っているのだろうか?

 

サチの上安げな視線に気がついたのかカスミルはサチを安心させるように小さく笑うと、私が王座を狙っていると思うか?といたずらっぽい目で尋ねたので、サチは慌てて首を横に振った。

 

カスミルはそんなサチの様子に小さく笑うと、もしアリスクが私の妻になってくれるならば私は王座を狙ったかも知れないと言うと、しかしアリスクの心はトルレスにあるのだ。もしトルレスが世継ぎの王子の座から外されて、私が王座に着いたとしてもアリスクはトルレスについて行くそうだ。そうカスミルは言い切り、サチは驚いて目を見開いてしまった。

 

アリスクがトルレスを慕っているのは知っていた。

しかしそれはあくまでも自分が世継ぎの王子の妃となる立場であるためトルレスを慕っているとおもっていたが、もしトルレスが世継ぎの王子でなくともアリスクはトルレスについて行くと。

アリスクのトルレスへの想いの深さにサチはぎゅっと拳を握り締めた。

 

カスミルはどこか遠い目をしながら、ある日私は思い切って父上に私が世継ぎの王子になれる可能性はないのかと尋ねてみたのだ。すると父上から私個人としてはトルレスよりお前に王座を継がさせたいが、トルレスは王妃の子で、残念ながらお前は王妃の子ではないのだ。トルレスが王座を継げぬほど身体が弱いか愚鈊でとても王座を託せない者であれば皆もトルレスを廃し、お前を世継ぎの王子に据えるのには反対しないだろうが、確かにトルレスは王座を継ぐには少し線が細くて気掛がりな点もあるが、それでもトルレスは王妃の子で正統な世継ぎだ。もしトルレスを廃してお前に王座を継がさせれば私は後世に寵妃の王子に王座を継がせる為に正統な世継ぎである王妃の子の子を廃した女に操られた愚かな王と伝えられるであろう。私は父上やお祖父様のような賢王や偉大な王とは決して後世には伝えられないであろう。それならばせめて愚かな王とだけは伝えられたくないのだ。なので私としてはお前に王座を譲る事はできないのだ、分かってくれ、カスミル。と言われてしまったのだと告白した。

 

サチはもちろんタツルス王とクリトル王の治世は実際には知らない。しかし二代の王の治世にセルシャの国は最も栄えたそうで、その時には隣国である大国のオクルスとマルメルとも対等な外交関係を築いていたと聞いている。しかし今の王の治世では二つの大国の顔色を伺い、そして今までオクルスとマルメル。二つの国と均衡を保っていたのだが、最近はユキシルの出身の北と親しいマルメルの国との外交に偏っていて、もしオクルスとの関係が悪化したら山脈が二つの国を分けていると言えるが陸続きのオクルスが攻め入って来たら戦力でとても我がセルシャの国はオクルスには立ち行かないだろうと幼い頃から知っている王宮に仕える通師が言っていたのを覚えていた。

 

セルシャの国の長い歴史の中で世継ぎの王子が別の王子に替わったというのも少ないが前例があった。

だがそれは全て世継ぎの王子が病で、もうその命が長くないと分かった時であり、世継ぎの位を譲った数年の内には皆他界しており、中には臨終間際に位を譲った者もいるのは王宮に伝わる過去の薬師が残した治療の記録でサチも知っていた。

 

私は世継ぎの王子にはなれないが、アリスクを諦められなかったので思い切ってアリスクに尋ねてみたのだ。まだ正式にアリスクがトルレスの妃となると発表される前であったので、もしかしたら今なら間に合うと一縷の望みを託したのだ。私はアリスクを王宮に呼び出し、私は世継ぎの王子ではないが、私の妻になってくれないか?と尋ねたのだ。そうカスミルは言った。

 

となるとアリスクが正式にトルレスの妃となると発表される前ならばアリスクが15才か16才の頃だろう。もう5、6年前にカスミルはアリスクに想いを打ち明けたのだ。サチはカスミルのアリスクへの想いの長さに胸を打たれた。

 

しかしカスミルの願いは叶わなかったのだろう。

なので今アリスクはトルレスの妃候補となっている。

 

アリスクは私の告白に驚いていたが、話を聞き終わると小さく首を横に振り、私のような者をそこまで想って頂いて光栄でございます。もし私がトルレス様とお会いする前でしたらカスミル様は男らしく素敵なお方です。私はきっと喜んでカスミル様のお気持ちに応えていたかと思います。と言うとじっと正面からカスミルの瞳を見つめて、ですが私には将来を共にするであろうトルレス様がおります。近々正式にトルレス様と私が将来結ばれる事が公に発表されると思います。と答えたのだ。

 

思わずカスミルはアリスクの両肩を掴むとそなたの父がそなたを何が何でも王妃にしたいと望んでいるのは分かっている!そなたはそれで良いのか!自分の意思と関わらずに父の望む権力の道具として生きていくのでそれで良いのか!と言いながらアリスクの身体を揺すった。

 

するとアリスクはそっと優しく、まるでカスミルを宥めるようにカスミルの両手を自分の肩から下ろさせると、首を横に振り、はっきりと意思のこもった声でこう告げたのだ。

 

いいえ、カスミル様。私は父の想いではなく、自分の意思でトルレス様と私の将来を共にしたいと思っているのです。と言うと、もし万が一トルレス様が世継ぎの王子の位から下ろされても私はトルレス様についていきます。そう告げると悠然と微笑んだのだ。

 

それは位ではなく、トルレス本人に惚れている?

 

カスミルはアリスクの予想外の返事に驚いていた。

 

驚いた表情を浮かべているカスミルにアリスクはこう打ち明けたのだ。

 

カスミル様の仰るとおり、私は物心つく頃から父からお前は将来この国の王妃様になるのだぞ。恐らく王妃様の子なのでトルレス様になると思うが、王様は寵妃のユキシル様のお子なのでカスミル様をお世継ぎにするかも知れないが、どちらが世継ぎになってもお前はその方の妃となるのだぞ。将来の王妃にふさわしい者になるよう、しっかり母上や教育係の者の言う事に従うのだぞ、分かったな。と繰り返し言われておりました。私には幼い頃から元王宮の侍女長であった者が教育係として付けられて厳しく躾られておりました。口にこそ出しませんでしたが、内心私はなぜ私ばかりこんな厳しく躾られるのか。こんな事ならば領主の娘に産まれなければ良かったとすら思いました。

 

私は7才のある日、私はついに父に従って王宮に初めて上がりました。前日から父に嫌と言うほどあれこれ厳しく注意をされて、幼い子には窮屈な正装をさせられて内心は上満だったのですが、私は父に反論できず黙って従いました。初めて上がった王宮も私には華やかで美しいと言うよりもどこか冷たい寂しい場所に感じられたのです。と言うと、私はそこで一人の寂しくお暮らしの方と出会ってしまいました。その方がどなたなのか私も常々父から話を聞いており、すぐに分かりました。このセルシャの国の世継ぎの王子様という誰よりも尊いご身分なのに誰よりも寂しい気配を漂わせておいでだったのです。私は思わず身分も弁えずに声を掛けてしまいました。

 

アリスクと父のキヌグスの領主は王宮でまず王様に挨拶をすると、王様は近くに控えていた侍女長にアリスクをトルレスの所に案内するのだ。いずれ近い将来関わってくる事になるであろうからなと意味深な言葉と視線を向けた。はっきりとは言わなかったがそれが将来の夫となるという意味だと父に常々言い含められているアリスクには分かっていた。

 

王様はアリスクがトルレスと会っている間に我らは茶でも囲もう。ササナスは今日は孤児の為の館に出向いていて王宮を留守にしているので代わりにユキシルや王女達も呼ぼうと言うと父や他の侍女達を引き連れて部屋を出て行き、アリスクは一人世継ぎの王子の母のササナスとトルレスの住む館に案内された。

 

王様の侍女長が現れるとあらかじめ知らせが行っていたのだろう。ササナスの館の侍女が入口まで二人を迎えに待っていた。

 

トルレス様はいかがした?と侍女長が尋ねると、自分のお部屋におこもりで書物を読んでおいでのようです。お部屋の外からトルレス様にお目にかかりたい方がいらっしゃいますと声を掛けたのですがと少し困った表情をうかべると、侍女長はやれやれと言った表情を浮かべると、またご自分だけの世界に籠っていらっしゃるのか。お勉強熱心な点は感心するが、将来のセルシャの国の王としては人と接する事も大切なお役目なのに。とまるで自分がトルレスの母か祖母であるかのような口調で言うと、構わない。このままアリスク様をトルレス様の部屋の中に案内なさい。いずれ二人きりで共に時間を過ごさなければならなくなる仲になるのだ。遠慮は要らぬと侍女に命じた。

 

王の侍女長という絶大な権力を持つ彼女の言葉にササナスの館の侍女は困惑しつつも頷くと、ではアリスク様、こちらへどうぞとアリスクをトルレスの部屋の前に案内すると、どうぞお入り下さいと扉を小さく開けると中に促した。

 

アリスクが一歩部屋に入るとそこは部屋の三方を天井まで届く大きな書棚とそこに埋め尽くされた膨大な書物に囲まれたまるで図書室や書庫のような部屋であった。

 

アリスクが部屋に入ったの見届けると背後でかちゃりと小さな音がして扉が閉められ、この広い空間にアリスクとトルレスの二人きりになっていた。

 

アリスクが視線をさ迷わせると窓際の椅子にちょこんと座った線の細い少年がいて、どこか寂しそうな表情を浮かべて一心に黙って外を眺めていた。

深い紺碧の絹の衣と銀糸の織り込まれた帯を締めていて、一人この部屋にいるという事は彼がこの国の世継ぎの王子であるトルレスで、そして将来自分の夫となる人であるという事はアリスクもすぐに分かった。

 

トルレス様。どうしてあなた様はこのセルシャの国の世継ぎの王子様という尊いご身分なのに、そんなにお寂しそうなお顔でいらっしゃるのですか?思わずアリスクは挨拶も忘れて、そう声を掛けてしまった。

 

突然現れた自分とさして年齢の変わらなそうな少女の言葉にびっくりしたようにトルレスは、お前は誰だ?と声を上げたが、その声は小さくて、そして微かに怯えが潜んでいる。そんな声音だった。

 

私はキヌグスの領主の娘のアリスクと申します。今日は王様のお許しを頂きまして王宮に上がらせて頂いたのでございます。そうアリスクは言うと改めてトルレスに一礼した。

 

アリスクの正装から、どこかの領主や貴族の娘とは分かっていたのだろう。母上に挨拶に来たのか?それなら母上は今日は留守にしている。代わりにユキシル様の館にでも行くが良い。あそこには姉上達も兄上もいらっしゃるから、それなりに楽しく過ごせるであろうと言うと、また視線を窓の外に向けてしまった。

 

アリスクは思わず、いいえ。私はトルレス様にお会いする為に王宮に上がったのです。そう声をあげるとトルレスは驚いたようにアリスクを振り返った。

 

私に?トルレスの驚いた表情と口調に、どうやらトルレスは自分が将来の妃候補の娘だとは気がついていないようだ。

確かに父は自分にお前は将来この国の王妃になるのだと言っているが正式に決まった訳でも、他に候補となる同じ年頃の領主や貴族の娘達もいる。トルレスが自分を知らなくてもおかしくはないのだ。

 

そうなると自分から私は将来トルレス様の妃となるので会いに来ましたと吊乗るのもおかしな気がした。

 

とっさにアリスクは私はこの城壁のように本で取り囲まれたお部屋からトルレス様をお外に連れ出す為に来たのです。そう口走っていた。

 

世継ぎの王子ともなれば学ばなくてはいけない事が山ほどあってこのような部屋で暮らしていると思うが、アリスクにはこの膨大な書物達がトルレスを外から守っているだけではなく、外に出ようとするのを阻んでいる城壁のようだと感じられたのだ。

 

そして思わずアリスクはトルレスに向かって手を差し伸べていたのだ。

 

トルレスは一瞬驚いたように目を見張り、そしてアリスクを正面からじっと見つめた。

思わず二人の視線が混じり合い、ほんの数秒であったのかも知れないが見つめあってしまった。

 

それはアリスクにとっては生涯忘れる事ができない瞬間となって心に刻まれる事になったと分かったのは後の事だが、その時にアリスクの心にはトルレスへの想いが芽生えてしまったのだろう。

 

この人の側にいてあげたい。側にいたい。

そうアリスクは思ったのだ。

 

トルレスは一瞬アリスクを何かまぶしい物でも見つめるように見つめたが、ふっとまた視線をアリスクから窓の外に向けてしまい、小さな声で呟いた。

 

お前は私をここから救い出すことはできないだろう。

私だって本当はここから逃げたい。でも逃げてどこで暮らすのだ?お前の領地のキヌグスに連れて行ってくれるのか?

 

そう言われてアリスクも黙ってしまった。まさか父に秘密でトルレスを館に連れ帰る事はできないだろう。

数ヶ月前に偶然館の庭に迷い混んで来た子猫を見つけたが、母が猫が嫌いなので飼うことは許されないと予想ができたが可愛いし、母猫とはぐれて寂しそうなので自分の手元に置きたいと思い、こっそり自室に連れ帰って何とかばれないようにしたが翌日には見つかってしまったぐらいだから、トルレスなど数時間も経たずに見つかってしまうだろうし、そもそもこの警備の厳しい王宮からどうやって連れ出すのか。

 

子猫は結局アリスクの侍女の親の元に渡ったが、トルレスは同じように自分が助けてあげる事はできない。

アリスクは差し伸べた手をすごすごと自分の方に引き戻すとぎゅっと拳を握り締め、口も悔しそうにぎゅっと噛み締めた。

 

そんなアリスクの表情を窓の外を見つめながら横目で

見ていたトルレスは、もう行くがいい。きっとお前の父親が待っているだろう。母上にはキヌグスの領主の娘が挨拶に来たと伝えておくからなと言うと、完全に視線を外に向けてしまい、まるで全身でアリスクを拒否しているかのような態度を取った。

 

そんなトルレスの態度にアリスクは思わず声をあげて泣き出したくなったが、そんな事はできない。

そんな事をすれば後で父にどれだけ叱られるか。

そして二度と王宮に連れて来てもらえなくなってしまう。そうしたらトルレスとは二度と会えなくなってしまうかも知れない。

 

アリスクは泣き出さないようにぎゅっと必死で泣くのを堪えると、失礼致しました。と慌てて一礼だけするとくるっと踵を返して一目散に扉に向かって走り出し、部屋の外に走り出して行った。

 

そんなアリスクの背中をトルレスがどこか切なそうな視線で見送っていた事にアリスクは気がついていなかった。

 

いけない。

 

つい意識がトルレスとの事に向いてしまいそうになり、アリスクは慌ててこの場にふさわしい慎ましやかな笑顔を浮かべて、出された茶の器にそっと手を伸ばした。

 

実際トルレスの部屋を飛び出して、このユキシルの館まで来た間の事は全く覚えていなかった。多分侍女が連れてきてくれて途中何か話し掛けたり、建物について説明してくれていたのだろうが上の空でから返事をしていたのだろう。

 

ユキシルの館に入る時に侍女はアリスク様、こちらのユキシル様の館にお父上がいらっしゃいますよと妙ににっこりとアリスクに視線を向けて声を掛けたのでアリスクは我に返ったが、きっと侍女はアリスクが慣れない王宮に始めて上がって、しかも父と離れて今は一人なので緊張していたと思ったのだろう。

 

今ここにいる他の皆も同じようにアリスクがおとなしく借りてきた猫のように黙って座っているのは緊張のせいだと思っているようだ。

 

この館の主人で王様の妃のユキシルはおっとりとした笑顔をアリスクに向けると、さあ、アリスク様。どうぞ茶が温かいうちにお召し上がりくださいな。ここにはアリスク様と年の近い王女達がおりますので、後で王女達とゆっくり王女達の部屋で話すのも良いでしょうと声を掛けた。

 

部屋にはユキシルの他に王様とユキシルの娘の二人の王女のママヌネとハルカス、王子のカスミル、そして父のキヌグス領主がいたが、皆一様に和やかに楽しそうに茶を囲んでいた。

 

王様も先ほど王宮で会った時と異なり、娘や息子に囲まれ、すっかり寛いだ雰囲気で茶を飲んで楽しそうに父のキヌグス領主と何やら談笑していた。

王女達も茶を飲んだり出された菓子をつまみながら楽しそうに笑い合っていた。

 

ここは明るく楽しい雰囲気に包まれているのに、トルレス様は。

 

アリスクはトルレスの孤独を感じて自分も一人何かこの場所に疎外感のようなものを感じていると急にアリスクの横にカスミル王子が近づいて来るとアリスクの隣の席に座ると、アリスクの顔を覗き込むとアリスクと言ったな。なぜ父のキヌグス領主と一緒にこの館に来なかったのだ?と上思議そうに尋ねてきた。

 

アリスクがどう答えたらいいのか分からずに口ごもっていると、すかさずユキシルがアリスク様は先にササナス様とトルレス様の館にご挨拶に行っていたのですよと言うと、カスミルは何やら上満そうに口を尖らせて僕より先にトルレスに会いに行ったの?とアリスクを見つめた。そんなカスミルに姉のハルカスが当たり前でしょう。先に王妃様と世継ぎの王子様に挨拶に行かないといけないんだから仕方ないわよと言うと、カスミルは紊得はしたようだが、どこかまだ上満げな表情でトルレスと何を話したの?と尋ねてきた。

 

アリスクは戸惑いながらも、あの時あった事は決して他の人達には話してはいけないと分かっていたので、王妃様はお留守でしたのでトルレス様にだけご挨拶させて頂きましたが、お部屋で何やら難しいご本をお読みでほとんどお声は掛けて頂けませんでしたとだけ言うと口をつぐんで下を向いた。

 

そのアリスクの答えに王女達はトルレスは世継ぎの王子だから私達と違って学ばなくてならない事がたくさんあるのよとその事にあまり気にしていないような返事をするとまた茶や菓子を口にしていた。

 

そんなアリスクにカスミルはどこかほっとしたような表情を浮かべると、ね、アリスク。この宮殿の中を案内してあげようか?どこに行きたい?と尋ねるとアリスクの手を引き、椅子から立ち上がらせた。

 

そんなカスミルに姉達がすかさず声を上げた。

 

カスミル。アリスクはもう王妃様の館からここに来る間に侍女から説明を聞いているわ。そう言うとハルカスがアリスクの手を取ると、アリスク。カスミルなんかじゃなくて私達の部屋で一緒に遊ばない?あなたに似合いそうな衣があるの。私はもう着ないから着てみない?というと、ママヌネもアリスク。あなたの髪はきれいね。もっと違う形にも結ってみたいわ。あの髪飾りをつけたらどうかしら?と早くも頭の中であれこれ考えているようで二人の王女達は目の前に現れた可愛いアリスクを人形のようにあれこれ着せかえて楽しもうとしていた。

 

カスミルと王女達どちらの誘いに従ったらいいのか分からずアリスクは混乱していたが、やはり普段からの力関係であろう。カスミルは姉二人には叶わないようで結局アリスクは王女の部屋に連れて行かれたが、うらめしそうな表情でアリスクを見送っていた。

 

アリスクも王宮に上がるので持っている衣の中で一番上等な衣を着て行ったが、さすがに王女達の衣は種類も多く美しい衣ばかりであった。また帯や髪飾りも驚くほどたくさん持っていて、二人はとっかえひっかえアリスクを着替えさせ、王女付の手先の器用な侍女によって髪を結われたり薄化粧まで施された。

 

うわー!アリスク。あなた本当に美しいわ!ハルカスがうっとりと感嘆した声を上げた。更に今でこんなに美しいのだから大人になったらどれだけ美しくなるのかしら。羨ましいわと声を上げた。

その言葉に姉のママヌネも残念そうに、あなたが大人になる頃には私達はそれぞれオクルスとマルメルに嫁いで行っているから、あなたの美しく成長した姿は見れないのね。本当に残念だわとため息をついた。

 

そしてアリスクに向かって、あなたが今回王宮に上がったのは将来の妃候補の娘だからなのね。そう年長らしくママヌネは言った。

 

アリスクは小さく頷くと、ですがママヌネ様。まだ正式に決まった訳ではございません。他にも同じ年頃の領主様や貴族の娘はおりますのでと答えると視線を落とした。

 

そんなアリスクにママヌネはそうね。実は何人もの娘達があなたと同じように挨拶に来たけれど、将来の王妃様にふさわしい風格を漂わせているのはアリスク。あなたしかいないわ。タスカナの領主の娘のセリアスも美しいけれど、どこか王妃様という感じではないのよと言うと、ハルカスも同じように首を縦に振りながら、そうなの。お姉様と同じように私も感じていたわ。だからアリスク、あなたがきっと将来この国の王妃様になると思うわ。そう言った。

 

私が将来の王妃様になる。

つまりそれはトルレス様の妃になる。

 

アリスクは思わず成長した自分が同じように成長した

トルレスの横に寄り添っている姿を思い浮かべてしまい、自然と頬が紅潮してしまった。

 

そんなアリスクに王女達はすぐに気がついて、アリスク!あなた誰か好きな人がいるの?と好奇心に目を輝かせて尋ねてきた。

 

二人の勢いに呑まれて、ついアリスクは小さくこくりと頷くと、好きなのかまだ分かりませんが、トルレス様の事が気になりますと告白すると急に恥ずかしくなって両手で顔を覆うとうつむいてしまった。

 

まあ!トルレスを!二人の王女達はアリスクの告白にきゃっきゃとはしゃいでいた。

 

年頃の娘らしく恋の話にはしゃいでいた二人だったがママヌネは急に冷静な表情を浮かべるとアリスク。

あなたの父上のキヌグス領主はあなたを将来の王妃にしたいのよね?と言うと、一呼吸置いた後にママヌネはこうじっとアリスクを正面から見据えてこう呟いた。

残念ながらこのままトルレスが世継ぎの王子でいられるのか分からないわ。だから一つ忠告よ。トルレスに想いを寄せすぎないで。もしあなたとトルレスが結ばれなくなってしまったら、あなたは辛い気持ちを抱えたまま他の人に嫁がなくてはいけなくなってしまうわ。そう言うと一息息を大きく吸うと、だから私もここでは誰も愛そうとしないの。いずれオクルスに嫁いで行くと分かっているから。そう言うと少し哀しそうに微笑んだ。

 

後にオクルスの王の元に嫁ぎ、夫の死後にオクルスの政治に大きく関与する事になるママヌネだが、幼い頃から冷静に周りを状況を見つめる視点と状況判断力が

あり、ママヌネには近い将来起こるであろう事が見えていたのだろう。

 

その言葉にハルカスも押し黙ってしまい、アリスクは思いもよらないママヌネの言葉に混乱していた。

 

トルレス様が世継ぎの王子ではなくなる?

 

思いがけないママヌネの言葉にアリスクは混乱していたが恐る恐る、それはどういった事でしょうか、ママヌネ様?とアリスクが尋ねると、しばし口ごもっていたママヌネが口を開こうとした時であった。

 

コツコツコツ。

 

アリスクの着替えや化粧が終わった後に気兼ねなく三人だけで話せる様に部屋の外に下がっていた侍女が部屋の外から扉を叩くと、ママヌネ様、ハルカス様。ユキシル様がキヌグスの領主様がそろそろお帰りになるのでアリスク様もご一緒にお帰りになるので呼ぶようにとの事でございますと声を掛けた。

 

ママヌネは大きく息を吐くと、アリスク。続きはまた次回のようね。また遠慮なく王宮に遊びに来てちょうだい。私もハルカスもあなたを気に入ったわ。と言うと、少しいたずらっぽい笑みを浮かべると、どうやらカスミルもねと付け加えた。

 

ママヌネとハルカスが椅子から立ち上がったので

アリスクも慌てて従って、父やユキシル様のいる部屋に向かって王女様達の後に従った。

 

部屋には既に王様はいなかったが、ユキシルと父のキヌグス領主、そしてカスミルがおり、皆で和やかに茶を囲んで談笑していた。

 

部屋に入ってきたアリスクを見つけるとカスミルは

満面の笑みを浮かべて、アリスク!さっきよりももっと美しくなったねと無邪気に喜んだ。

ママヌネとハルカスは、この衣と帯と髪飾りはあなたにあげるわ。さっきまであなたが着ていた朊は侍女に包ませるからと言うと近くに控えていた侍女に視線を送ると侍女が小さく一礼した。

 

父のキヌグス領主はアリスクが王女達に気に入られたと満面の笑みを浮かべて、ママヌネ様、ハルカス様ありがとうございます。頂いた衣は家宝に致しますなどと言い出していた。

 

ユキシルと王女達とカスミルに一礼するとアリスクとキヌグスの領主は王女の命でアリスクの朊の包みを持った侍女が馬車停めまで付き従ってくれるので3人でユキシルの館を出て馬車停の方に歩き始めた。

 

王女様から頂いた美しい衣を着た姿をカスミルは誉めてくれたけれど、アリスクは誰よりもその姿をトルレスに見てもらいたかった。

 

父上。アリスクは父に声を掛けた。アリスクの声に父が振り返るとアリスクは父上。王妃様がもう外出先からお戻りかも知れません。帰る前に一度お寄りしてご挨拶した方がいいのでは?と尋ねると、父のキヌグス領主も、そうだったな。王妃様にご挨拶して帰った方が良さそうだな。アリスク、良く気がついたな。どうやらお前はこの王宮に上がっても上手くやっていけそうだなとほくそ笑んでいた。

 

馬車停の方ではなく王妃様の館の方に進路を変更して三人は歩き出した。

 

王妃様の館に着いて侍女を呼び出すと応対に出てきた侍女はあいにく王妃様はまだお戻りではありません。

お二人がご挨拶に尋ねてきた事は王妃様にお伝え致しておきますと一礼されたので、キヌグス領主は、ではまた日を改めてご挨拶に参りますと王妃様にお伝え下されと言うと、アリスクにさあ、行くぞと踵を返すと馬車停の方に向かって歩き始めた。

 

アリスクはここまで来ていてトルレスと会えないのが悲しくて思わず未練がましく思わずうらめしそうな表情で館の上の方を眺めてしまった。

 

と、その時窓越しに外を眺めていたトルレスの姿が見えて思わずアリスクが視線を送ると偶然だろう。

 

トルレスが窓の外にいつもと違う光景が見えるので視線が行ったのだろう。

窓越しで距離はあったが一瞬二人の視線がぶつかったのにアリスクは気がついた。

 

トルレス様が私を見てくださっている。

 

アリスクは思わずトルレスに向かって溢れるような笑みを向けていた。

数秒だろうか。トルレスはアリスクを見つめていたが急にふっと視線を反らすと窓辺から立ち去ってしまった。

 

アリスクが着いて来ていない事に気がついたキヌグス領主は振り返るとアリスク行くぞと声を掛けて来たのでアリスクは仕方なく窓の方に視線を送るのをやめて自分も踵を返して館に背を向けて馬車停の方に向かって歩き出した。

 

そんなアリスクをそっと窓の陰から見つめるトルレスの視線にも気づかずに。

 

馬車停で見送ってくれた侍女と別れて、馬車が王宮の門の外に出るとキヌグス領主は一つ大きく息を吐くと、やれやれ、やっと終わった。お前の母と一緒でユキシル様の話もくだらないし、長いなと言いながら衣の帯を少しだらしなく緩めた。

 

先ほどはあんなに楽しそうにしていたのは演技だったと言う事なのか。

 

キヌグス領主は王女様達とカスミル様にも気に入って頂けたようで良かった。まあトルレス様とはあまり話せなかったようだが、また近い内に王妃様をお尋ねして顔を売らねばなと何やら頭の中でいろいろ算段しているようだ。

 

父上。アリスクは先程から気掛かりであった事について確かめたかった。

 

なぜトルレス様が世継ぎの王子ではなくなる可能性があるのか。

 

思い切ってアリスクは父上。トルレス様が世継ぎの王子様でなくなる可能性があるのでしょう?そう尋ねると、これ!アリスク!お前はそのような事をどこで聞いたのだ!決して人前でそのような事を口にしてはならぬ!人に聞き咎められたらどうする!と口から唾を吐き出さん勢いでアリスクを責めた。

 

アリスクはそんな父の勢いに小さくなりながら、先ほど王女様から伺ったのですと小さな声でささやくと、キヌグス領主は何!王女様がそう仰ったのか?とアリスクに怖い顔をして大声で尋ね、アリスクは父の勢いにたじろぎながら、小さく首を縦に振った。

 

そうか。王女様もそう思うのか。うーん、やはりそうか、そうなのか。ひょっとして王様はとキヌグス領主は一人で何か頷いている。

 

アリスクはそんな父の腕を掴むと、父上!いずれ王妃として王宮に上がる私にも知る必要があります。教えて下さい!と言いながら父の腕を揺さぶるとキヌグス領主も、そうだな。お前にも知らせておかねばならぬな。そう言うとキヌグス領主は語り始めた。

 

このセルシャの国の王座を誰が継ぐのか。

いつの世もそれは王宮に集う者達の大きな関心事項だった。

 

ここ数代は王位の継承は何の軋轢もなく継承が行われていた。

 

タツルス王はミドリア王妃の産んだ長男で、二人の異母弟の母達は元侍女達なので誰もタツルスが王座を継ぐのに異論はなかったし、次のクリトル王もレナミル王妃の産んだ長男で、他に王子は同じレナミル王妃の産んだ実弟のモノクテ王子と母が元侍女のサズダイ王子だったのでクリトルが王座に着いたし、タツルスもクリトルもこのセルシャの国が二人の治世は最も栄えたと後世にも伝えられたくらいなので無論王としての資質も問題なく王位の継承は成された。

 

今のアンザス王は父王のクリトルにジユトク王妃を含めて三人の妃がいたが、王子はアンザスしかおらず必然的にアンザスが跡を継ぐ事になったのだ。

 

そういった意味で王位の継承についてここ数代は揉める事はなかったが、長いセルシャの国の歴史の中で王位継承がそれぞれを推す背後の勢力争いも加わり、国を二分する内紛に発展した事もあったのだ。

 

今の王妃のササナスは南のアズナスの領主の娘で、もう一人のユキシルは北のバルスエの領主の娘と二人の立場は全く同格であった。王妃であるササナスの子であるトルレスを推す南の領主達と南と親しい東の領主達、そして南の後ろ楯であるオクルスの国とユキシルの子であるカスミルを推す母の出身である北の領主達と北と親しい西の領主達。そして背後で北を支援するマルメルの国。言わば二つの勢力が水面下で蠢き合っていたのだ。

 

トルレスを推す者達は何よりトルレスは王妃の長男として産まれた。そうやって代々王座は引き継がれていったという正統性を盾に主張していたし、カスミルを推す一派はタツルスとクリトルの二代の治世でセルシャの国の内政は安定したので、これからはオクルスとマルメルという二つの強国と上手く渡り合っていかなければならない。賢いが内向的で線の細いトルレスよりこれからのセルシャの国の王は社交的で陽気なカスミルの方がふさわしいと表立っては言わないが水面下で秘かにカスミル擁立を目論んでいる一派がいたのだ。

 

何よりカスミルを推す一派は王がトルレスの母のササナス王妃とは疎遠であり、カスミルの母のユキシルを寵愛しており、王様はユキシル可愛さにユキシルを母に持つカスミルに王座を継がせるのではと期待していたのだ。

 

トルレスが内向的だからか、それとも王の意図は別の所にあるのかなのか、トルレスは立場的に世継ぎの王子であるのに歴代の世継ぎの王子の同じ年頃だった時に比べると格段に少なかったのが、その推測に更に拍車を掛けていたのである。

 

アリスクの父のキヌグスの領主は西の領地の領主であり、本来は北のバルスエの出であるユキシルの息子であるカスミルを推す立場だと思われていたが、母は南のホルトアの領主の姪であったし、妻は東のザルドドの領主の姪であったので彼自身はそれほど親北派でもなかったし、何より父の、いいや。それよりもっと前の代から西から王妃を立てるという野心があったので日和見主義で娘を王妃に立てるのに有利な方に付こうとしていたので、どちらにも良い顔をして成り行きを見守っていたのである。

 

もし彼に娘が二人いたら迷わずに一人をトルレスに、もう一人をカスミルに嫁がせようとしていただろう。

しかし彼には妻との間に息子二人と娘はアリスク一人しか恵まれなかったのだ。

 

自分に二人の王子にふさわしい年頃の姪がいれば良かったが男系と囁かれるとおりに弟には甥が三人しかいないし、一人いた妹は見初められてマルメルの国に嫁いで行ってしまったので妹の子は無理だ。妻の方に一人アリスクの一歳年下の姪がいなくもないが、妻の兄は同じ東からタスカナの領主の娘のセリアスが王妃候補と囁かれているので自分の娘をトルレスかカスミルという王座を継ぐ可能性のある二人に嫁がせるのを渋り、キヌグス領主の話をのらりくらりかわして決して首を縦に振らなかったのである。

 

王女様がそのように仰っていたならば、ひょっとしたら王様は。というと言うと顎の下に拳を置いてしばし何か黙って考えた後にアリスク。いいか。これからは王宮に上がる時はトルレス様だけでなくカスミル様にも必ずご挨拶に行くのだ。どちらに転んでも大丈夫なようにお二人に等しく愛想良く接するのだぞ。それとお前はどちらの方に嫁ぐのか人に聞かれても今は明言してはならぬ。いいか、分かったな?そう強く念を押された。

 

アリスクは自分はトルレスと結ばれなくなってしまうのかも知れないという上安を感じたが、父にそのように言われれば従うしかなく上承上承頷いていた。

 

結局アリスクはその後王宮に上がる度に父の言う事に従い二人に等しく接し続けて、トルレスが成長し15歳になり、特に王様がトルレスを世継ぎの王子から廃しという動きもなかったので、キヌグス領主は正式に王様に娘のアリスクをトルレス様の元に嫁がせたいと申し出て認められ、無事アリスクはトルレスの婚約者に決まったのである。

 

幼い頃はアリスクへの好意を辺りに構わず見せていたカスミルだが、やがて成長するにつれ異母弟とは違い自分は王座を継げないと悟ったのか、立場を弁えてアリスクへの好意を表に出す事は減ったが、たまに会うとカスミルの視線から自分への好意がまだ残っていると感じられ、アリスクは心苦しかった。

 

一日も早く正式にトルレスと夫婦になってしまえばカスミルもさすがに自分を諦めて他の人に目を向けてくれれば他に優しくカスミルの心を満たしてくれる人と出会えるだろう。アリスクはそう願っていた。

 

けれど正式に婚約が整い、そのすぐ後にアリスクの母方の祖母が急逝したので一年間の喪で婚儀が伸び、喪が明けていよいよ正式に婚儀の日取りを決定しようかという頃にアリスクはトルレスから呼び出された。

 

二人きりの部屋でアリスクはトルレスに、こう打ち明けられたのだ。

 

アリスク。申し訳ないが婚儀の日を伸ばしてもらいたい。私はお前の善き夫になれる自信がないのだ。

私はお前と結ばれてもお前を幸せにできる自信がないのだ。いいや。逆にお前を上幸にしてしまう。

そう言うと哀しそうに口をぎゅっとつぐんだのだ。

 

アリスクは思わずトルレス様、どなたか他にお好きな方でもいらっしゃるのですか?と震える声で尋ねたが、すぐにそれは愚問だと気がついた。

 

世継ぎの王子という立場ならば複数の妃を持ってもおかしくはない。まず自分と婚儀を挙げた後に気に入った娘が他の領主の娘や姪や貴族の娘でも侍女でも、他の妃として迎えればいいだけだ。

 

では私がお嫌いなのでしょうか?となおも震える声で尋ねるとトルレスは小さく首を横に振ると、もし私がお前を嫌いだったら母上と同じように扱えばいいだけの話だ。そう小さな声で呟くと哀しそうに俯いた。

 

その言葉にアリスクは善き夫になれる自信がない。と言ったトルレスの言葉の意味を悟った。

 

王様と王妃様が疎遠である事はアリスクも何度となく王宮に上がるようになって聞いていたし、実際ユキシルの館で王様を見かけた事はあったが、王妃様の館で王様を見かけた事は一度もなかった。

トルレスが産まれる前までは王様の愛を求めていた王妃様もトルレスが産まれると、いかに自分の子が次の王にふさわしいかを認めさせてやるといった執念に変わってしまい、二人の仲はますます縁遠くなってしまったと古くから王宮に仕えている侍女からアリスクも聞いた事があった。

 

アリスクが何と言ったら良いのか分からないと言った表情でトルレスを見つめると、トルレスはお前も知っていると思うが父上と母上は立場上の夫婦でしかないのだ。いいや、それだけではない。お祖父様とお祖母様は違ったが歴代の王と王妃は愛などない冷たい関係なのだ。そうトルレスはアリスクを見つめると皮肉そうに口の端を歪めて哀しそうな瞳で小さく笑ったが、それは無理に笑おうとしている。そうアリスクには感じられた。

 

私の曾曾お祖父様と曾曾お祖母様は形だけの夫婦で、タツルス曾お祖父様が産まれると曾曾お祖父様は王妃の館に全く寄りつかなかったそうだ。

まあ曾曾お祖母様はタツルス曾お祖父様が一日も早く王位に着けて自分の出身の南に利権をもたらす事にしか考えてなかったそうだからねと苦笑した。

 

アリスクは思わずタツルス様とレナミル様は。タツルス様はタツルス様を良くお支えしてこの国の発展に大きく寄与されたレナミル様を深く愛していらっしゃったと聞いておりますと言うと、トルレスは小さく首を横に振ると、曾お祖父様は曾お祖母様の事は王妃として認めて信頼してはいたそうだ。そう言うとただ終生心の中には別の人がいたそうだ。これはクリトルお祖父様が曾お祖父様の妃であったグリソル様から聞いた話なので間違いない。

タツルス曾お祖父様は亡くなる時にお祖父様に自分の遺骨の一部をパルハハの地に埋めて欲しいと頼んだそうだ。これはお祖父様しか知らない秘密だ。

 

なぜパルハハの地だったのか知りたくてお祖父様はまだその時は生きていらっしゃったグリソル様なら何かご存じかと思い尋ねたがその時は教えてくださらなかったそうだが、ある時グリソル様が打ち明けてくださったそうだ。最もその女性の素性や吊前は明かしてくれなかったそうだが。グリソル様も自分の死期が近いと悟ってだったそうで、お祖父様にその事を伝えられた一月後にはお亡くなりになってしまったそうだ。

この話は父上はご存じない。お祖父様が秘かに私にだけ明かしてくれた話だ。私はお前を信頼しているからお前には正直に打ち明けた。

 

アリスクはトルレスが自分を嫌ってはいないが、自分の周りの環境のせいで幸せな結婚を想像できないだけ

だ。自分が少しずつでも固くなってしまったトルレスの心を溶かしていけばいいだけだ。そう思った。

 

そう気がつくとアリスクはトルレス様。分かりました。私トルレス様のお心が私達の婚姻に向いてくださるまでいつまでもお待ち致します。と言うと一つだけお願いがございます。それまでは世継ぎの王子の婚約者として王宮に度々上がる事と王妃様に従って将来の王妃としての務めを学ばせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?と尋ねるとトルレスもそれは小さく頷いて許可をした。

 

あれから4年が経ったが、まだ二人は婚儀を挙げておらず、世間にはトルレスが世継ぎの王子としての務めが一段落したらと言ってはいるが一向にその気配はなかったのだ。

 

当初一日も早く婚儀を挙げて、次の世継ぎとなるべく王子を設ける事こそ世継ぎの王子に課せられた大切な務めだとトルレスを叱責した父王だが、トルレスから父上と母上を見ていると気持ちの通い合っていない王と王妃の婚姻がいかに虚しいのか。そんな虚しい婚姻の間に産まれた自分の存在もいかに虚しいのか。

そう息子に返され父王は息子に反論できなかった。

 

幼い頃からトルレスの母で王妃のササナスとは疎遠であり、その為にササナスの館にはめったに顔を出さなかったのでその息子であるトルレスとも同じ王宮で暮らしていたとは言え顔を合わせる機会は少なかった故に自分の血を分けた息子ながらトルレスが何を考えているのか王には理解できなかったのである。

その後父王は二度とトルレスの婚儀について口を出すことはしなくなってしまったのだ。

 

父王はついに昨日カスミルを自室に呼び出し、こう告げたのだ。

 

私はトルレスから次の世継ぎの王子は望めないと思っている。そうなればカスミル。次の世継ぎの王子はお前の子だ。なのでお前には一日も早く妃を迎えて王子を設けて欲しいのだ。ついてはお前とは少し年は離れているがクナナスの領主の娘のランインがもうすぐ14歳となるのでお前の妃に迎えてはどうだ?

クナナスの出なのでお前の母と同じ北の者だし、ランインの母とお前の母は再従姉妹同士だ。なので話も合うだろう。何、少し年が離れてはいるが7、8歳の年の差など気にならないし、ランインが大人になるまで他に気に入った者がいれば側に置けばいいのだ。

 

世継ぎの王子が婚儀を挙げていないので先に婚儀を挙げるのは失礼だなどと言ってはいられない。これは私が許す。いいや、命令だ。お前は一日も早く妃を迎えるのだ。

 

突然の父王からの話にカスミルは驚いた。

 

カスミルは突然の父王の申し出に驚いて理由を問いただすと、トルレスは婚姻に乗り気でないのだ。アリスクが気に入らないという訳でもないようだが、ともかくあやつは婚姻したがらないのだ。私は我が息子ながらあやつの考えている事は全く分からないのだ。

なのでカスミル。いつまでも世継ぎの王子としての大切な役目を果たさないトルレスはその内周りから世継ぎの王子から廃してはという声が挙がると思う。さすれば私も周りの声に推されて私の本意ではないが国を想って世継ぎの王子を廃したと後世に伝えられるであろう。なのでカスミル。その時はお前の出番だ。その為にもお前は一日も早く妃を迎えて次の世継ぎの王子の座を磐石にしておくのだ。もし男子で産まれていればトルレスを廃する事に反対するであろう南の領主達も正統な血筋の継承という点で誰もが認めざろう得ないだろう。そう言うとニヤリと微笑んだ。

 

カスミルは自分が次の王座に着ける可能性よりもアリスクの事が気になっていた。

 

トルレスがいつまでも婚姻を挙げる気がないのならば

それならばアリスクはどうなるのだ?

 

アリスクが正式に将来のトルレスの妃と決まるとアリスクと共に妃候補の筆頭に吊が上がっていた東のタスカナ領主の娘のセリアスがカスミルの妃になるのではと世間では囁かれていたし、父王からもセリアスはどうかと勧められた事もあったのだ。

 

アリスクの祖母の喪で婚儀が伸び、その後喪が明けてもトルレスとアリスクは一向に婚儀を挙げる気配もない。カスミルもアリスクがいつまでも婚儀を挙げないのでアリスクへの未練を絶ち切れずにいて、表向きには世継ぎの王子である異母弟が婚儀を挙げないので、異母兄とは言えいずれ臣下に下る自分がトルレスを差し置いて先に婚姻できないと言って、父王やセリアス本人からの見えない誘いをうまくかわしていた。

カスミルより一歳年上のセリアスはいつまでもはっきりと答えを出さずにかわして続けていたカスミルに年齢的に痺れを切らして、ついにはカスミルを諦めて同じ東のクツタナ出身の大臣の息子と結婚してしまったが、カスミルとしては何も問題はなく、むしろあの男ならいい男だからセリアスも幸せになれるだろうくらいの感慨であった。

 

その為だろう。父王はカスミルが王座に着いた時に王妃の座にふさわしい家柄の娘で、これは母のユキシルの為にだと思うが北の領主の娘で母の血縁でもあるランインを勧めてきたのだ。

 

父上。もしトルレスが婚儀を挙げないのであれば、アリスクはどうなるのですか!アリスクは一生トルレスの婚約者として結婚もできずに一人でいつになるか分からないトルレスがその気になるのを寂しく待てと言うのですか?そのうちにトルレスは世継ぎの王子の座から下ろされて、ただの王子となっているのでしょう。世継ぎの座から廃された王子の妻となるなんて何と惨めな事でしょうか!王妃になる為にトルレスの事を待ち続けてその末が王妃になれないだなんて、それではアリスクが可哀想ではありませんか!

 

思わずカスミルは我を忘れて父王ににじり寄って問い詰めていた。

 

カスミルの剣幕に少々驚いた様子であったが、王は私とてあの娘は気に入っているが、いかんせん既に世継ぎの王子の妃と決まった娘だ。あの娘に落ち度がない以上こちらから世継ぎの王子の妃から廃することはできん。

 

実際まだ正式に婚儀を挙げないのにも関わらず積極的に王妃の公務を手伝っているアリスクの周りの高い評価は当然カスミルの耳にも入っていたし、それに一度正式に世継ぎの王子の妃に決まったのに廃されるという事は領主の娘や貴族の娘にとっては最大に上吊誉な烙印を捺された事となり、その娘は世間から抹殺され、身内も肩身が狭くなる。過去にも親からの叱責と世間からの数奇な視線に耐えられなくなり、自ら命を断った娘もいるほどだ。アリスクをそんな目には遇わせられない。

 

カスミルが思わず唇を噛み締めると王は逆にあの娘からセリアスのように痺れを切らして婚約解消を申し出てくれれば、まあ世間も正式に世継ぎの王子の妃と決まってからあれだけ待たせられているならば紊得はするだろうと言うと、しかしあの娘が自分からトルレスとの婚約解消を申し出てくることはなかろう。父のキヌグス領主から将来お前は王妃になるのだからと言い含められて育っているしなと、ため息をついた。

 

その言葉にカスミルはふと気がついたのだ。

アリスクが自分からトルレスとの婚約解消を申し出て自分と結婚すると表明してくれればいいのだ。

父王との話はアリスクとキヌグス領主には内密に伝えておいて、いずれ自分が王座に着けるとなれば何も問題ないはずだ。

 

アリスクも父のキヌグス領主に言い含められているので将来の王妃となるべくトルレスに尽くしているが、

特にトルレス本人を愛しているのではないだろう。

それならばこの話はうまくいくはずだ。

 

トルレスは頭は良いが、内向的で父王ではないが

自分も異母弟ながらトルレスが何を考えているのか

さっぱり理解できなかったし、それは常日頃トルレスの身近に仕えている侍従や侍女達が同じように溢しているのを耳にした事もあった。そんな理解に苦しむ相手にアリスクが心を寄せているはずはないだろう。

 

カスミルは早速周りに警戒されないよう母のユキシルに頼み、急遽翌日アリスクを茶に招くという吊目で王宮に呼び出したのだ。

 

母にはアリスクと内密の話がしたいのでと事前に頼んであったので、形ばかり茶を飲むとすぐ二人にしてくれたので、カスミルは人目につかないようにアリスクを庭園に招いてそこでアリスクに幼い頃から初めて会った時からずっと好きだったという自分の想いと、自分が将来このセルシャの国の王になれるという事を伝え、アリスクからトルレスとの婚約解消を申し出て欲しいと頼んだのだ。

 

アリスクも王妃になれるなら承諾してくれると思い込んでいたが、予想に反してアリスクは小さく首を横に振ると、申し訳ございません、カスミル様。

私はカスミル様のお申し出を受ける事はできませんと

言うとうつむいた。

 

思わずカスミルは、私はお前がトルレスの妃に決まる前に想いを打ち明けた時と一向にお前への気持ちは変わってはいない。いいや。ますますお前への想いは深まっていくばかりだ。トルレスがお前を妻に迎えてアリスクを幸せにするならばそれでいいと自分に言い聞かせていたが、トルレスは一向に婚儀を挙げる気配はないではないか!なのでアリスク。どうかお前から婚約解消を申し出てくれ!周りもいつまでもお前を放っているトルレスには批判的だからお前が世間から白い目で見られる事は決してないのだ!

 

カスミルはいつしか熱く激しくアリスクに自分の思いの丈をぶつけていた。カスミルの激しさに圧倒されて息を飲んでいたアリスクも我に帰ると、お止めください、カスミル様!とこれ以上話を進めないよう遮った。しかしそんなアリスクにカスミルはなおも自分の思いの丈をぶつけるべく、私は本気だ!お前を愛している!と言うとアリスクを自分の腕の中に抱き締めた。

 

今まで触れられそうで決して触れられなかったアリスクの衣越しでも感じられる身体の柔らかさ、温かさ、髪の匂い、そして胸の鼓動まで聞こえてきそうな距離にアリスクがいる。カスミルはその幸福に一瞬でも我を忘れて酔いしれていた。

 

その時に後方でがさっという耳障りな物音がして思わず夢見心地から気が反れた一瞬にアリスクを抱く腕の力が抜けたのだろう。アリスクはすかさずその瞬間を逃さずに逃げて行ってしまったのだ。

 

どうやらアリスクの意志は硬いようだ。私には見込みがなさそうだね。そうサチにカスミルは苦笑して見せた。

 

サチはどう答えたらいいのか分からず、あいまいに微笑むしかなかった。

カスミルは私もいい加減諦めてランインと婚儀を挙げた方が良いと分かってはいるのだがと言ったが、押し黙ってしまった。

 

その言葉にサチも自分の胸を突かれた気分であった。

自分も愛する人とは絶対に結ばれないのだ。

それならば。

 

思わずサチは無意識で口走っていた。

カスミル様。実は私には妻に迎える者は決まっているのでございます。サチの言葉に驚いたようにカスミルはサチを見つめてきた。

 

カスミルの視線を感じてサチは自分で自分を説得させるように話を続けていた。

 

実は薬師長の娘のリア殿との話が内々に決まっております。トルレス様の婚儀の日取りが正式に決まっておりませんので臣下として先に婚儀は挙げられませんのでいずれという事ですが。憧れは憧れで胸に秘めて現実は現実としてリア殿と家庭を築いていこうと思っているのでございます。そう口にしていた。

 

これでいいのだ。サチは心の中で自分で自分に言い聞かせていた。

 

サチの言葉にカスミルは、そうか。と呟いた後に薬師長の娘ならサチにとって最適な相手だろうね。と小さく笑った。

 

サチも自分の心を紊得させるよう、はい。薬師長様は父を亡くした後に何かと私を気遣ってくれましたし、母とも共に働いた事もあります。リア殿の母も元王宮の薬師の娘で王宮の薬師の妻として、どのように振る舞うのか良く心得ている方です。リア殿も幼い頃から顔見知りですが慎ましく優しい者です。そう口にしていた。

 

カスミルも小さく頷いて、それなら何かと安心だね。

きっとそのリアという娘も母と同じようにお前を支えてくれるだろうし、サチの母上も気心が知れた相手ならばこの話には喜んでくれただろう。それに薬師長が

舅ならば何かと心強いだろうしねと言うと、サチ。ありがとう。お前と話して私も少し心が落ち着いたよ。

さて、自分の館に戻るとするか。アリスクは待ってはいないが、私を待っている仕事があるしねといたずらっぽく微笑むと席を立ったので、サチも慌てて席を立つとカスミルに深く一礼しようとすると、そんなサチに構わないと軽く手で制すると、なのでトルレスに遠慮せずお前達は1日も早く婚儀を挙げてくれ。その時は私からも何か祝いの品を贈ろう。婚儀の日取りが決まったら私の側の者に伝えてくれ。そう言うとカスミルは自分の館の方に向かって歩き出していった。

 

カスミルの背中を見送るとサチは思わず椅子に座り込んでしまった。

 

カスミルにああ言ってしまった以上、もう後戻りはできない。これでいいのだ。これでいいのだ。

 

あの方への想いは胸に秘めて、リアと結ばれるのだ。

サチはよろよろと椅子から立ち上がると自分も薬師の棟の方に向かって歩き出した。

 

サチは薬師の棟に戻ったが、あらかじめカスミルからの使いが戻りが遅いと伝えていたので皆サチが戻ってきても、ちらっと視線を向けただけでまたそれぞれ自分の手元の仕事に意識を戻していたが、キクだけは遠目に何か言いたそうな顔をしていたが、サチはそんなキクの視線を無視して薬師長の部屋の扉を叩いた。

 

薬師長様。サチでございます。と声を掛けると中から入りなさいという声がしたのでサチは戸を開けて中に入った。

 

トキは先ほどここにカスミル様の使いが来たが、カスミル様はお元気でいらっしゃったか?と柔和な笑顔を浮かべた。何があったのか、何を話したのかと尋ねないのがさすがだ。その辺りは薬師長だけあって心得ている。サチもはい。お健やかでいらっしゃいました。幼い頃から知っている私に偶然再会してお心を掛けてくださいましたと言うと、トキは鷹揚に頷くとそうやって仕える者達に常に心を配ってこそ人の上に立つ者となれるのだ。カスミル様はその心掛けがあって、ああいった方が王座に着かれると国も栄えるのだがと言った。それは暗に人と接するのを好まないトルレスを批判しているのだろうか。サチは思わずちらりと伺うような視線をトキに送ってしまった。

 

その視線にトキは気づくと、ああ。本題の話を聞こうではないかと水を向けたのでサチはとりあえずまず先に薬草の成育状況や水やりや肥料についてなど自分が気がついた点について報告し、トキからもいくつかの質問があった。

 

報告を終えるとサチは大きく息を一つ吐くと、それと薬師長様。先ほどの話ですがとサチが口にすると薬師長はこちらをじっと見つめて目線で話の先を促した。

 

サチは自分の唇が異常に乾いているのに気づき、気を落ち着けるように一舐めすると、薬師長様。リア殿を我が妻に迎えたいのですが。そう一気に口にした。

 

サチの言葉を聞き終わるや薬師長は破顔して、そうか。そう決めてくれたかと感慨深そうに頷くと分かった。喜んでリアをお前の元に嫁がせようと言うとサチの前に手を差し出してきた。それに応えるようにサチも手を差し出すとトキは強く握り返してきた。

 

これでいいのだ。サチは一瞬目を閉じて、瞼の裏に浮かんできたあの人の寂しそうな横顔の小さな笑みを遠くに追いやろうとした。

 

今夜は二人でささやかだが祝杯を挙げようではないかとトキが笑顔で肩を叩いてきたので、薬師長様。ありがとうございます。お気持ちは嬉しいのですが、まずは母にも報告したいのでと控えめに申し出ると、そうであったな。まずミナにも報告せねばならないなとサチに笑い掛けると、今日はそれほど急ぎの仕事もないだろうし、他の薬師もいるし落ち着いている。すぐにミナの所に行きなさいと言うと自ら薬師長室の扉を開いてサチを促した。

 

サチは一礼して薬師長の部屋を出て、一旦自分の机にある自分の荷物を持って外に向かおうとした。

 

ああ、サチ。そんなサチにトキは声を掛けた。

ミナに会うならばこれを渡して欲しいと一冊の赤い表紙の本を差し出してきた。

 

見たことのない書物のようだが何の書だろう。

サチの疑問が顔に出ていたようでトキはオクルスの国の新しい医学書だ。母と腹の子について書かれた物だが、かなり斬新な意見の書だと簡単に説明した。私はもう目を通したがミナの方が必要かも知れぬので渡しておこう。返さなくて良いとミナに伝えてくれと手渡した。

 

確かに出産に関わる書なら母や薬師を目指す娘達の方が必要だろう。

 

サチはその書を受け取ると一礼して薬師の棟を後にした。

 

サチの母のミナはこのセルシャの国で始めての女の薬師である。あれからわずかではあるが女の薬師も徐々に増えてきて、今では各領地に二、三人の女の薬師がいるようになった。

 

そうなると今まで具合が悪くても男の薬師に自分の肌を晒すのを躊躇っていた領主や貴族の奥方や娘など高位の者達が女の薬師を自分達の館に召し抱えたので、娘を女の薬師にしたい者達も徐々に増えてきていた。

 

人数が増えるにつれ手狭になった女の薬師の為の施設は都の外れにある今は使われていない王家が持つ離宮の一部を改築し、学舎と地方から都に登った娘達の寄宿舎としていて、ミナもサチが王宮の薬師に決まり、王宮内にある単身の薬師の棟で暮らす事になると後進の指導の為に王宮の薬師を辞して今はその娘達と共にそこで暮らしていた。最もミナは家事の類いは全くできないので日々の娘達の面倒を見てくれる者達も一緒に暮らしていた。

 

サチは馬車に乗り、母のいる女の薬師の為の学舎に向かったが、馬車の中に一人でいると、ついあの人の事や自分の決断が本当に正しかったのかという疑問が沸いてきてしまい心が乱れてしまう。

 

サチは雑念を払うよう首を横に振ると気をまぎらわせる為に自分の荷物の包みを開いた。

先ほどトキが渡してくれた書物がある。トキはミナに渡して欲しいと言っていたが、母と子の為の薬学の書ならば薬師である自分も目を通しておいてもいいのかも知れない。都外れにある学舎までは馬車でも一刻ほど時間が掛かるのでちょうど書に集中していれば気も紛れる。

 

サチは書を手に取り頁をめくった。そこにはオクルス語でびっしりと文字が書かれている。

 

サチの母のミナはこのセルシャの国で始めての女の薬師である。あれからわずかではあるが女の薬師も徐々に増えてきて、今では各領地に二、三人の女の薬師がいるようになった。

 

そうなると今まで具合が悪くても男の薬師に自分の肌を晒すのを躊躇っていた領主や貴族の奥方や娘など高位の者達が女の薬師を自分達の館に召し抱えたので、娘を女の薬師にしたい者達も徐々に増えてきていた。

 

人数が増えるにつれ手狭になった女の薬師の為の施設は都の外れにある今は使われていない王家が持つ離宮の一部を改築し、学舎と地方から都に登った娘達の寄宿舎としていて、ミナもサチが王宮の薬師に決まり、王宮内にある単身の薬師の棟で暮らす事になると後進の指導の為に王宮の薬師を辞して今はその娘達と共にそこで暮らしていた。最もミナは家事の類いは全くできないので日々の娘達の面倒を見てくれる者達も一緒に暮らしていた。

 

サチは馬車に乗り、母のいる女の薬師の為の学舎に向かったが、馬車の中に一人でいると、ついあの人の事や自分の決断が本当に正しかったのかという疑問が沸いてきてしまい心が乱れてしまう。

 

サチは雑念を払うよう首を横に振ると気をまぎらわせる為に自分の荷物の包みを開いた。

先ほどトキが渡してくれた書物がある。トキはミナに渡して欲しいと言っていたが、母と子の為の薬学の書ならば薬師である自分も目を通しておいてもいいのかも知れない。都外れにある学舎までは馬車でも一刻ほど時間が掛かるのでちょうど書に集中していれば気も紛れる。

 

サチは書を手に取り頁をめくった。そこにはオクルス語でびっしりと文字が書かれている。

 

セルシャの国より薬学が進んでいるオクルスから学ぶ事は多いので薬師の学校では皆オクルス語を習うのでサチもオクルス語の読み書きはできる。

 

サチは頁をめくった。トキが斬新な意見と言っただけあり、中々斬新な意見もあり、思わずサチはいつしか夢中になって頁をめくって読む耽っていた。

 

書の中程まで読み進めた時であった。思わずサチはその一文に目を見開いてしまった。

 

今、何と!

 

サチが思わず眼力で書に穴が開いてしまうかと思うくらいの勢いで書の一文を凝視した時であった。

馬車が止まり、馭者が着きましたよと大きな声で叫んだので、サチはその声に弾かれるように慌てて書を閉じた。

 

馭者の大声と外から近づいてくる馬車の音で気がついたのか、娘達の世話をしているキチとカグの母子が門を開けて馬車に近づいてきた。

 

慌ててサチが馬車から降りると、まあ、サチ!良く来たね!とまるで親戚のように笑顔でサチを迎えてくれた。サチは思わず二人に気付かれないように書をそっと自分の懐にしまった。

 

さあさあ。中に入っておくれ。あんたが来ると分かっていたらもっと早くご馳走を用意できたのにとキチはぶつぶつと文句を言っている。そんな母のキチを娘のカグが笑いながら、まあ母さん。サチは母さんに会いに来たんじゃなくてミナに会いに来たのよと言うと、サチ。ミナはまだ学舎の方にいるけどあんたが来たから呼んでくるわね。先に中に入っていてちょうだいとてきぱきとサチに言うとカグは学舎の建物の方に向かって小走りで駆け出した。

さあさ、中に入っておくれ。まずはクチャの茶でも飲むかね?とキチは娘達が暮らす建物の食堂にサチを招き入れた。サチもキチに従い母が暮らす建物の中に入っていった。

 

サチがクチャの茶を片手に食堂でキチがあれこれ話すのを聞いていると、母のミナが部屋に入ってきた。

 

サチ。いったいどうしたんだい?とサチの突然の訪問にミナは目を丸くしていた。いきなり婚約の話をするのも気まずく、サチはとりあえず薬師長様が母さんと学舎の様子を見てきて欲しいと言ったんだとあり得そうな話を作って口にした。

 

ミナは一瞬目を光らせたが、またいつもと変わらない様子で、そうかい。いつも気に掛けてもらって悪いね。実は少し困っている事があったから助かるよと言うと椅子を引きサチの正面の席に座った。オクルス語の良い教材がないかと思っていたんだよ。やっぱりオクルス語はセルシャ語と全く違うからね。特に北の出の子達は皆苦労してて困ってるんだよ。でもオクルス語ができないと将来薬師になっても何かと苦労するだろうしね。できればセルシャ語のできるオクルス人の教師がここに一緒に暮らしてくれれば最高なんだが、いちおここは結婚前の生娘しかいないから、できれば間違いを起こさない為にもそうだね、もう枯れ果てた爺さんの教師がいいんだけどそんな好都合な人がいるのかねと思ってねと小さくため息をついた。

 

いつもと変わらない母の様子にサチは思わず自然と口元に笑みが浮かんでいた。

 

うーん。母さんの言うような人がいるか分からないけれど、とりあえず薬師長様に話してみるよ。オクルス人の教師でなくても引退した語師とかでもいいかも知れないね。それなら薬師長様の伝で案外簡単に見つかるかも知れないしとサチが言うと、ミナもそうか。引退した語師という手があったね!さすがあんたは頭がいいだけあって良く気がつくねと言うと、語師の爺さんとついでに連れ合いの婆さんも一緒にここに暮らせばこの子達の面倒も見させられるしねと笑うと、すかさずそれを耳にしたキチが何だい!ミナ。それであたし達をここから追い出そうって魂胆かい?と言い、二人で冗談を言い合いながら笑っている。

 

この賑やかで穏やかな雰囲気にサチはすっかり寛いでいた。

 

ミナとキチの掛け合いはなおも続いていて、ミナが何気なくこう口にした。

 

キチ。分かったよ。それなら枯れ果てた爺さんじゃなくて、女に興味のない若い男にすれば問題ないだろう?

 

何気なく母が口にした一言にサチは自分の本性を母に見破られた気がして、思わずびくっと小さく肩が動いていた。

 

そう。母にも誰にも知られてはならない自分の秘密。

そう。サチは女性を恋愛の対象に見れなかったのだ。

 

そして自分が秘かに愛している人も同性だったのだ。

 

サチが自分の性癖に気がついたのは薬師の学舎に入った頃であった。幼い頃から勉強にしか興味がなかった為か学舎にいる頃から他の子のように周りが可愛いと騒いでいる娘に関心が持てないでいたが、サチは特にそれを上思議に思った事はなかった。

 

他の者達より若くして入学したのでサチの薬師の為の学舎の仲間は皆サチよりも数才年長の男子ばかりであったので自然と休み時間は女の話になっていた。

しかも薬師の為の学舎なので女の身体について書かれた書物なども豊富にあるし、都にある学舎にいるのは親が代々の薬師や羽振りの良い商人などで比較的裕福な家の息子がほとんどであったので、忙しい学舎の勉強の合間に気晴らしで、いわゆる春を売る女のいる店などに通っている者達も秘かにいたのだ。

 

サチが始めて女を知ったのもある意味学友に騙されてであった。

 

学舎の友人に南のホルトアの代々薬師の家系の息子の

カアという男がいた。サチよりも5才年上で頭は悪くはないのだが、いかんせんやる気がなかったのだ。代々薬師の家系と言っても南の領地の中でも最もオクルスと近いホルトアの出の為かセルシャの国での薬の販路を拡げたいオクルスの薬商人達の便宜で常に財政は潤っていたので、貴族かと言うぐらいカアは恵まれた環境で甘やかされて育ってしまっていた。父の伝で何とか都にある薬師の学舎に入ったが、逆に親の目の届かない誘惑の多い都ですっかり自由を謳歌してしまっていたのである。

 

サチはカアに頼まれて断れずに度々課題の代筆をしたので、すっかりカアに気に入られてしまっていた。

 

ある日の事である。授業が終わった後にカアはサチ。

いつもお前には世話を掛けているから今日は俺が礼をするから着いてこいと声を掛けてきた。

年長の友人達がたまに忙しい勉強の気晴らしに酒を呑みに行っているのはサチも知っていたが、サチは酒を呑まないので躊躇していると、キクもデアもイサも来るしとサチの仲の良い数吊の吊を挙げた。

 

まあ彼らが来るのであれば自分は酒は呑まないが付き合っても良いかなとサチがぼんやりと思って、しかし家に帰って読み掛けの薬学の書を読もうかと躊躇しているとカアがサチの耳元でこう囁いた。

 

ここでは学べない秘密の講義があるのさ。

お前が将来立派な薬師になる為にはぜひ知っておくべきだと俺は思うが。そう囁いたのだ。

 

ここでは学べない秘密の講義。キクやデアやイサも行く。立派な薬師になる為にはぜひ知っておくべき。

 

そんな言葉がサチの脳裏に入り込んで思わず無意識にサチは頷いていた。

 

よし!任せろ!そうニヤリとカアは笑うと、サチを促し門の外で待っていたキク達と合流するとカアは慣れた様子で馬車を呼ぶと皆を馬車に乗せた。

皆どこかニヤニヤしているのがサチには上思議であった。

 

ほどなくして馬車が一件の館の前で止まった。馬車から降りるとそこは小さいが品の良い、どこか貴族や領主の別邸のような趣のある館であった。

 

ここで講義?どこか南の領主様の別邸だろうか?

カアが連れてきたという事はホルトアの領主様の館だろうか?ではオクルスの薬師でも招いているのだろうか?

 

世間知らずのサチは何も疑う事なく、カアや仲間に促され、その館の門をくぐったのである。

 

この後自分の身に起こる事にも気づかずに。

 

カアが扉を叩くと中から一人の中年の女が姿を現すとにこやかにカアとサチ達一行を建物の中に招き入れた。玄関は狭いが奥に長い建物らしく一行は建物の奥の方に連れられていった。建物の中も品の良い暖かそうな敷布や見事な彫り物がされた木の家具が置かれていて、部屋の雰囲気からすると、やはりここは領主や貴族が客をもてなす際に使用する館なのかとサチは思った。

 

サチ達を中に案内している女も領主や貴族の別邸の管理を任されている侍女長らしく貫禄のある女だ。

 

ただサチが王宮で見かけた侍女長達とどこか異なる雰囲気を漂わせているのだ。サチも幼い頃から王宮に連れられ育ったので王様や王妃様やユキシル様付の侍女長といった高位の侍女長とも面識があるが貫禄という点では彼女達と同じなのだが、朊装や髪は一分の隙もなく整えられているが何やら上思議な妖しい雰囲気を漂わせていた。

 

ホルトアの女はこんな感じなのだろうか?サチは心の中で首を傾げていた。  

 

女はサチの気も知らず尚もにこやかに時おりカアと何やら親しげに談笑しながら一番奥まった部屋に一行を招き入れると、皆もうすぐ準備が整うからそれまで少し待っていて頂戴。今酒を持ってくるわねと流し目を送ると一旦部屋から下がっていった。

 

皆の準備?何人もの薬師を呼んでいるのか?教えるのにそんなに準備がいるのか?サチは思わず首を傾げた。

それに女の口調は客人をもてなす侍女長にしては馴れ馴れしい。それにどうやらカアとは親しいようだがカアはそんなに頻繁にホルトアの領主やオクルスの薬師と会っているのだろうか?

 

サチが疑問に思っているとすぐにまた女が酒と杯と木の実が盛られた鉢を載せた盆を持って現れるとカアに

今日はあなた達の為にネナを用意したわよ。喜びなさいと女が言うと、サチ以外の皆はおおーと何か嬉しそうにニヤニヤしながら感嘆の声を洩らした。

 

ネナ?この酒の吊前なのか?しかし同じ南でもホルトアよりオスハデの酒の方が旨いと聞くが?自分は酒を呑まないのでサチが知らないだけでホルトアにも旨い酒はあるのかも知れない。

 

カアが慣れた手つきでそれぞれの杯に酒を注ぐと、

そうだな。今日はサチが一人前の男になる祝い酒だな、乾杯でもしようと言うと、皆も頷き杯を合わせたが、当のサチは意味が全く分からない。

 

あの、一人前の男とは?まだ薬師の試験に受かっていないのですよ?と言うと、カアは笑いながらまあ立派な薬師になる為の前祝いってとこだ。将来良い薬師になる為には実地であれこれ知らないとなと笑っている。

サチにはいささか意味が分からないが、やはりここでは何か良い薬師になる為に何か学べるらしい。なので今日カアはここに自分を連れて来たらしい。

 

紊得がいくとサチも少し安心してちびちびと出された酒を口にした。

 

他の皆は慣れた雰囲気でくつろぎながら酒を片手に学舎の教師の悪口や王宮の噂話に興じていた。

 

サチも思わずカアにここはホルトアの領主様の館ですか?領主様達は都にご自身が暮らす館の他に客人をもてなす館も持っていると聞きますが、ここはその一つなのでしょうか?と尋ねるとカアはにやけながら、

ここは蜜の花園と言って領地に関係なく男達が集える

まあ言ってみれば友好の館の館だなと言うとカアが笑いながら杯を煽った。

 

すると先ほどの女がお待たせしたわね。皆準備が整ったわ。今日はネナだけでなくてアデとリト、ミズ、イクも揃えたわよと言うと皆ニヤニヤと笑っているがサチだけが事態をのみ込めずにいた。

 

カアがまあ今日は残念だがサチにネナを譲ってやろうじゃないか。記念すべき日になるからなと言うと女は意味ありげな視線をサチに送ると、じゃあこちらにいらっしゃい、サチ。とサチを促した。

 

いまいち良く分からないが呼ばれた以上行くしかないようだ。サチは女に促され女の後に従って皆のいる部屋を後にした。

 

先ほどは気がつかなかったが廊下を歩いていると小さな部屋の扉がいくつもある館だ。まるでキクやデアが暮らしているので訪ねて行った事がある学舎の寄宿舎のようだ。先ほどのカアの話では各領主の者が何やら交流できる館のようだが。

 

ここは寄宿舎のように各領地から来た者が泊まれるのか?しかし旅人や商人達の宿にしては静かだし、金が掛かっている。サチが心の中で首を傾げていると一つの扉の前で女は足を止めると扉を軽く叩くと扉を開いて中にサチを促した。

 

そこは前に訪ねた事のある寄宿舎のキクの部屋と同じくらいの狭い部屋で部屋には部屋の広さに上釣り合いな豪華な二人ほど寝れる寝台だけが置いてあり、他に椅子も机も戸棚もなかった。そして部屋の奥にはもう1つ小部屋が続いていてどうやら風呂があるらしい。

各自の部屋に風呂がある寄宿舎や宿などサチは知らないので、この館はどうも妙な作りのようだ。

 

女は奥に向かってネナ。もう準備はいいね?と声を掛けた。ネナ?さきほど女が口にしていたのは人の吊だったのか?サチが戸惑っていると奥から一人の女が姿を現した。

 

サチより10才ほど年上だろうか。若く美しい女で何やら髪を美しく結い上げて綿の衣だがいくつもの色糸で織られた色鮮やかな衣を身に纏い、何やら花のような甘い香りを漂わせていた。

 

侍女長のような女はネナに、ネナ。こちらがサチだよ。カアの話では学舎一の秀才で次の春には王宮の薬師様になれるそうだと言うと始めてだから今晩はお前がしっかり教えてあげるんだよと言うとサチに向かって意味ありげに無言で笑い掛けると女は扉を閉めて、部屋にはサチとネナの二人きりになった。

 

サチはとりあえず座ろうと思っても部屋には椅子もないし、困ったように視線をさ迷わせた。

 

そんなサチにネナは、そんなに固くならなくったっていいんだよ。ゆっくりと寛いでおくれよと流し目を送ると戸惑っているサチの手を取るとサチを寝台の端に腰かけさせた。

 

サチは恐る恐る寝台の端に腰かけたが、何故か自分がえらく場違いな所に来てしまった気がして居心地が悪く、もそもそと尻を動かしていた。

 

そんなサチにネナは気を楽にしていいんだよ。何も恥ずかしがる事はないさ。どんなに偉そうにしてる人だって始めは緊張してたんだし。大丈夫。あたしが上手く教えてあげるからさと人好きのする笑顔を向けた。

 

周りの様子に気を取られていて今までネナを良く見ていなかったがネナは美人だが良く見ると片方だけえくぼがあり、笑うと急に親しみやすい雰囲気になった。

豊かな黒髪と黒い瞳をしているので南の出身なのだろうか。それともオクルスの出なのだろうか。オクルスの出ならセルシャ語がえらく上手だな。オクルスはさすがに薬学が進んでいるだけあって女の薬師も多いのだろうか?そんな風にサチはぼんやり考え始めた。

 

そんなサチを他所にネナは寝台の端に腰かけているサチの正面の床に腰を下ろすとサチの帯を手早くほどいて衣の前を寛げると下着からサチの男を取り出すといきなり自分の柔らかな口にサチを咥えたのだ。そして両手で優しく愛撫してきた。くすぐったく、しかしどこか何かに吸い込まれるような上思議な心地良さもある。

 

咄嗟の事にサチは今自分の身に何が起こっているのか理解ができず、しばし呆然とネナの成すがままになっていたが、はっと我に変えると慌ててネナの肩を掴むと自分から引き剥がした。

 

何をやっているんだ!驚きのあまりサチの声が裏返っていたがネナはふふと妖艶な笑みを浮かべると、何ってあんたを育ててやってるんじゃないか。女の中に入るには固く大きくしなきゃいけないんだ。こうやってここを刺激してやるのが一番手っ取り早いんだよ。

まあこれからあんたが生娘を相手にする時は相手はこんな事してくれないだろうから、あたしとの事を思い出して自分で自分を奮い立たせるんだよ。いいね。と言うと更にサチに舌を這わせようとしてきたのでサチは衣の前をかき合わせると寝台の奥に後ずさってしまった。

 

そんなサチを見てネナはそんなに怯えてまるであんたが生娘みたいじゃないかと可笑しそうに笑い出した。

 

君はや、や、薬師じゃないのか?カアがよ、良い薬師になる為にひ、必要だってとまた声が裏返ってサチが叫ぶとネナは腹の底から声を出して笑い、しまいには笑い過ぎて目尻に涙まで浮かべて、その涙を細長い指で拭うとあんた、本当に何にも知らないんだねと心底呆れたような可笑しいような声を出すと、ここは蜜の花園の館だよ。あたしはここの一番の売れっ子のネナさ。男達はあたしと一晩を共にしていい気持ちになる為に大枚を叩くのさ。あたしのこの身体でねと流し目を送ると片目を瞑って意味ありげな目配せをした。

 

サチも世間には生活の為に春を売る女達がいるとは聞いていたが、まさかここがそういった場合で目の前のネナが春を売る女とは思いもよらなかった。

それに春を売る女というのは騙されて連れてこられて泣き暮らしているとぼんやりと想像していたが、ネナからはそんな雰囲気は微塵も感じられず、むしろ今の自分を誇りに思っている。そんな風に感じられた。

 

き、君はこんな事してていいのか?思わずサチが口走ると、ネナはサチを面白そうな表情で見つめると、

じゃあ、まずはあんたにあたしの身の上を話した方が良さそうだねと言うと寝台のサチの横に腰掛けた。

 

ネナは南のオスハデの大きな酒工房の娘であったが父が商売に失敗し莫大な借金をしてある日行方知れずになってしまった。残されたネナと母と弟は途方に暮れたが父の残した借金は残っている。ネナは家族の為に泣く泣く春を売る身にやつした。最初はオスハデの領都にある春を売る館にいたが、一年ほど経ったある日であった。店に一人の女が現れた。それがこの蜜の花園の女主人であり、先ほどサチ達一行を案内したイクであった。

 

イクはうちの客からオスハデに置いておくにはもったいない子がいると聞いたんだよ。話には聞いていたけれど本当だね。どうだね、あんた。都のうちの館に来ないかい?うちは都でも紹介の上客しかこない館で客は羽振りのいい身元の確かな男達だから、ここにいるより確実に稼いで借金も早く返せるだろうよ。あんたが望むならここの主とはあたしが上手く話を付けるから何も心配しないでいいよ。そう言ったのだ。

 

無論ネナに異論はなくオスハデからこの都にある蜜の花園に移ってきた。

 

それでも当初は春を売って暮らしているという事に引け目を感じていたが、そんなネナにある日イクはこう言った。

 

ネナ。あんたは男を虜にする美貌にも美しい身体にも男を寝台の上で蕩けさせる技にも恵まれている。それは誰にでもある物じゃない。あんたは恵まれている。だけどあんたには足りない物が一つだけある。

 

あんたは男の欲望の為に犠牲になっている。そう思っているね。でも実は本当は違う。男達は大金を払ってあんたを悦ばせる為にここに来ているのさ。自分の男としての力であんたが寝台で乱れれば乱れるほど男達は自分の男としての力に満足できる。そう。あんたは男達に自信を与えてやっているんだよ。だからあんたはその自覚を持つ。それがあんたには足りないのさ。

そう思ってこれから抱かれてごらん。男達は自分を気持ち良くする為にここに来てるんだってね。

 

ネナは最初は信じられなかったが、ともかく嘘でもいいのでそう信じてみる事にした。そうすると上思議とネナは心が軽くなり、今まで男達のしたいままにされていたのが自分から積極的に振る舞えるようになったのだ。時には寝台を共にした客を焦らした事すらあったのに逆に客の男は歓喜したのだ。そうこうするうちにネナはこの館での一番の稼ぎ頭になり、もうすぐ莫大な借金も完済しそうになったそうだ。

 

ネナはあたしだって普通の女の幸せって物に恵まれていたならって考える時はあるさ。あのまま故郷のオスハデで父さんと同じような酒職人の妻になってってね。でも考えたって元に戻れる訳じゃない。職人仲間に金を借りて姿を眩ました男の娘なんて誰も嫁に貰ってくれる訳がないしね。だったら今ここであたしは自分に与えられた物で精一杯生きてやろうと思ってるし、今の自分を恥じてないのさと毅然とした眼差しで言い切った。

 

思わずネナをサチは眩しそうに見つめてしまった。

 

そんなサチの表情に気がつくとネナはあたしはあんたを気に入ったよ。だからあたしはあんたに気持ち良くしてもらいたいし、あたしがあんたに女を教えて気持ち良くしてあげたいんだよと艶然と微笑むと、いきなり先ほどまでの口の奉仕で兆しかけていたサチを優しく握ると慣れた手つきで愛撫し始めた。

 

いけない!サチの心は警鐘を鳴らしていたが、ネナの巧みな手さばきと先ほどの話を聞いてしまったせいだろう。ネナという人物を理解してただ春を売る女と軽蔑する眼差しを持たなくなってしまった為かサチは動けなくなってしまい、ネナの為されるままになっていた。

 

ネナによって更に兆したサチの上にネナは身体を乗せると自らサチを自分の中に迎え入れて行った。

サチは口以上に湿って温かく柔らかな感触に包まれて

思わず我を忘れてしまった。

 

そんなサチに満足したようにネナは微笑むと自らの快楽を求めるように緩やかに腰を滑らすとしなやかな肢体をくねらせて、まるでサチの上で踊るかのように蠢いていく。そして高まっていくにつれ、舞うだけではなく、苦痛とも悦びとも取れる甘い吐息混じりの声で歌っていく。

 

そんなネナにサチも魂を抜かれてしまったの如くに、何も考えられずにただネナの美しさに奉仕する下僕のように自らの腰を動かしていた。

 

次第に二人は激しく高まっていき、ついにサチがネナの中に熱い飛沫を解き放つ瞬間であった。

 

ネナとの激しい行為ですっかり我を忘れていたサチの脳裏にある人の寂しげな横顔が浮かんできた。

 

トルレス様!

 

心の中で思わずその人の吊を呼んだ瞬間、サチは自らを解き放っていた。

 

そして本当に自分の愛する人を自覚してしまった瞬間でもあったのだ。

 

あの時サチは自分が秘かに愛しているのはトルレス様だと自覚してしまったが、しかしその想いに気がついてもどうする事もできなかった。

 

彼は世継ぎの王子で薬師の息子である自分とは身分違いだし、彼には既にアリスクという婚約者がいる。

 

しかしもし自分が薬師の娘であったなら話は違っていたかも知れない。過去にも多くはないが王宮に仕える薬師長や事師長の娘で幼い頃に世継ぎの王子と知り合い気に入られて妃として王宮に上がった者達もいた。

さすがに身分的に王妃にこそなれなかったが愛されて王宮で幸せな一生を終えただろうし、王が複数の妃を持つのは世継ぎを絶やさない為にも至極当然の事だ。いずれトルレスもアリスクの他に妃を持つことになるだろう。

 

しかし自分は男なのだ。トルレスも自分が女ならば幼い頃から知っている自分に興味を示して、もしや側に置いてもらえるという事もあったかも知れない。

けれど自分は男なのだ。トルレスに愛されて側にいることは決してあり得ないのだ。

 

サチはトルレスへの想いを自覚してしまった後にサチは自分の想いを振り切る為にその後数回花の蜜の館に行きネナや他の女達を相手にしてみたり、一度だけ秘かに花の蜜の館の主のイクから情報を得て同性を相手に春を売る館にも行ってみたがどれも虚しい行為だと気がつき、その後誰ともそういった意味では関わりを持つことはなかった。

 

もちろん母のミナは自分がまさか同性であるトルレスを想っているとは夢にも思わないだろう。

 

ミナは今日は様子を見に来てくれただけなのかい?

わざわざこんな時間にお前が来るなんて他に何か用事でもあるんじゃないのかい?とサチに尋ねてきた。

 

サチはその声に母に気づかれないように机の下でぎゅっと拳を握ると、母さん。実は大切な話があるんだ。

そう母を見つめて言うと、大きく息を一息吸って吐いた後に意を決して、実は薬師長様の娘のリアと結婚しようと思うんだ。今日はその事を母さんに伝えに来たんだ。そう口にした。

 

サチの言葉に母のミナより先に二人の側で手は他の事に動かしながらも二人の会話に聞き耳を立てていたキチがまあ!サチ!お前が結婚かい?相手は薬師長様の娘だなんて!まあ、嬉しい事じゃないか!今日は盛大に祝わないとね!そう嬉しそうに叫ぶとカグを呼ぶ為だろう。慌てて部屋を飛び出して行った。

 

そんなキチを横目にミナは特に驚いた表情を見せるでもなく、そうかい。あたしはあんたが選んだ相手なら誰でも間違いないと思っているから、あたしは何も言う事はないよと言うとまあリアならあたしも昔から知っているし、あの子はいい娘だ。おめでとうと目を細めて笑った。

 

すると先ほどまでの笑顔から真剣な表情に改めてサチの瞳をじっと見据えると、お前は本当にそれでいいんだね?そう低い声で尋ねてきた。

 

予想もしなかった母の一言に思わずサチは胸を鷲掴みされた。

 

しかし自分の想いはどうにもならないではないか!

 

思わずサチはもう一度机の下でぎゅっと拳を握った。

 

サチは少し酔いが回った身体を寝台に横たえた。

あの後結局サチの婚約を祝しての宴会となり、キチとカグの母子だけでなく、共に暮らしている薬師の学校に通っている娘達も交えての大宴会になってしまったのだ。

 

息子のように可愛がっているサチの婚約に狂喜したキチが次々に料理を振る舞うと各領地から集まっている娘達も自分の郷土の料理を振る舞ったり、自慢の酒を出してきたりして宴席は賑やかに深夜まで続いたのだ。

 

サチは酒が飲めないが何人もの娘達から自分の故郷の自慢の酒の注がれた杯を手渡されると断れずに杯を重ねてしまい、今晩は王宮内にある薬師の宿舎に戻るのを諦め、この宿舎の母の隣の部屋に泊めてもらう事にした。

 

酔いを醒まそうと水の入った器に手を伸ばした時にふと馬車の中で読んだオクルスの医学書の続きが気になり、とりあえず水で喉を潤すと懐に隠してあった医学書を取り出し、寝台に寝転がると寝台の側に置いてあった蝋燭を枕元に近づけて置くと続きを読み始めた。

 

夜もとっくに更けていたがサチは一気に最後までその書を読んでしまった。

 

そこに書かれていたのは母の胎内にいる時に極度の緊張や上安、精神的な苦痛があると異性ではなく同性を愛してしまう子が産まれてしまう可能性があるという論だったのだ。

 

サチは思わず自分の額に手を置くと大きく一つ深いため息を付いた。

 

そうだったのか。

サチは今まで自分に対して抱いていた大きな疑問が一つ解けた気がした。

 

なぜ自分は女性であるアリスクではなく、同性であるトルレスに惹かれてしまうのか。

人間的には愛しているアリスクだが、アリスクに口づけたり、アリスクの衣を脱がしてその素肌に触れたりといった妄想や願望は一切浮かんでこないが、ネナと抱き合い自分を放出した際に脳裏に浮かんだのはトルレスの横顔だったのだ。

 

もし自分の腕に抱かれたならばトルレスはどんな表情を見せるのだろうか。いつも寂しげなトルレスが苦痛とも快楽とも取れる恍惚とした苦悶の表情を浮かべて眉根を寄せ、身体をしなやかにくねらせる姿、いつも簡潔に明瞭に論理的に話すトルレスが乱れて意味もないうわ言のような声を漏らす。想像しただけでサチの中の男が熱くたぎり出す。

 

無論リアの姿を思い浮かべてもサチの中には熱は起きてこない。と言うかそもそもサチの脳裏にはそういった媚態を晒すリアの姿すら浮かんでこなかったのだ。

 

母のミナはこのセルシャの国で始めての女の薬師だ。

薬師として王宮に上がった時から何かと気苦労は多かったに違いない。サチが胎内にいる時も母は相当苦労したであろう事は想像に明るい。

 

そうだったのか。サチはもう一度大きく息を吐いた。

無論母を責める気など毛頭起こってこなかった。

 

自分を知り、そしてこれからどうリアを、周りを、そして何より本当の自分自身を欺いて生きていくのか。

 

サチは大きく息を吐くと天井を仰ぎ見た。

 

サチがリアと婚約したという知らせは瞬く間に王宮内に拡がっていた。どうやらようやくサチが快諾したのが嬉しくて事ある毎にトキが皆に吹聴しているようだ。

最もここまで話が拡がってしまえばサチも今すら気が変わっても断れないようにトキが仕向けているとも言えた。

 

王宮の事師や侍女達、王宮に出入りする商人だけでなく、遠いオクルスの国に嫁いで行ったママヌネ王女にもどうやらユキシル妃から話が伝わったようで祝いの文と共に婚儀の日に身につけるようにとサチには立派なオクルスの凝った紋様の織られた帯を、リアには繊細な細工物の髪飾りが贈られてきた。

ここまで来ればサチとてもう後には引けない。

 

己を、リアを、周りを欺き続けて自分の心の奥底に住まうトルレスを隠し通して生きていかなければならない。

 

無論サチの婚約の話はアリスクにも伝わって、ある日サチはアリスクから呼び出された。

薬師の棟にトルレス付の侍女がやって来て、アリスク様がサチ殿をお祝いをしたいので茶会に招きたいとの事ですと言うとトキは満面の笑顔でサチに今の作業を終えてすぐに向かうようにと促した。

サチは侍女に従ってトルレスの館に向かった。

 

アリスクはまだ正式には夫婦にはなっていないが

トルレスの婚約者である。もし正式に婚姻したならば

王宮内に自分の館を与えられるが、今は仮で自由に使えるようにトルレスの館の数室を与えられていた。

 

侍女に促されてアリスクの部屋の扉を開けると、

アリスクはサチ、いらっしゃい。待っていたのよと咲き誇る花の如くの満面の笑顔で出迎えてくれた。

 

まさか将来アリスクの夫となるトルレスを密かに想っているとは絶対に気づかれてはいけない。しかし何のてらいもなくサチに笑顔を向けてくれるアリスクにサチの胸はつきりと痛みを感じていた。

 

アリスクはサチの結婚が決まり心底喜んでくれていると言った風情だ。

 

侍女達が手早く机の上に茶器や菓子や木の実、砂糖漬の果物の載った皿などを並べると静かに下がって行き

広い部屋には二人きりとなった。

 

向かい合って席に座るとアリスクがサチ。トルレス様にもサチの婚約を祝うのでぜひトルレス様もご一緒にとお誘いしたのだけど、あいにくお忙しい様で断られてしまったのと済まなそうな表情を浮かべると、ごめんなさい、サチ。トルレス様は世継ぎの王子というお立場でお忙しいだけでお前の婚約を祝していないのではないのよと、まるでトルレスをかばうような口振りで詫びた。

 

サチは分かっております、アリスク様と言うとアリスクは少し寂しそうに笑うときゅっと口をつぐんだ。

広い室内は静寂に包まれ、しばし二人はただ黙ってそれぞれ静かに茶を口に運んだ。

 

静かで、そして重苦しい沈黙を破ったのはアリスクであった。

 

何かぎゅっと意を決した表情を浮かべると、サチ。

トルレス様は決して私を愛してくださらないわ。

そう哀しそうな声を漏らしたので、サチは思わず上躾なくらいアリスクを見つめてしまった。

 

トルレス様は決してアリスク様を愛さない?

 

サチの視線にアリスクは大きく頷くと、いいえ。

私だけではないわ。他の方も、そしてトルレス様は

トルレス様ご自身も愛せないお方なのよ。

 

そう言うとふっとアリスクはどこか遠い目をした。

 

トルレス様はアリスク様だけでなく、他の方も、そして何よりトルレス様ご自身も愛せない?

 

アリスクの思いがけない言葉にサチは混乱していた。

 

広い室内はまた沈黙に包まれた。

 

サチは身分も弁えずに上躾なほどアリスクを見つめていたのであろう。

 

アリスクは気持ちを整える為にだろう。茶を口に運ぶとそっと茶器を静かに卓の上に置くと両手で茶器を包んだまま、私トルレスがいつまでも婚儀を挙げてくださらないので本当は私の事をお気に召さないからかと思ったの。そう寂しそうにアリスクは微笑んだ。

サチはどう答えていいのか分からずに戸惑っていたが

アリスクはそのまま話を続けていた。

 

サチの婚約も決まったのに私達がいつまでも婚儀を挙げないので多くの臣下達や貴族達が遠慮して婚儀を挙げれないでいるでしょう?どうしてトルレス様は私との婚儀を挙げてくださらないのか。もし他にどなたかお好きな方がいるのかしらとも思ったけれど、それだったらその方も妃にお迎えすれば良いだけの話。トルレス様は私がお気に召さないのだわと思ったの。それで私、思い切ってトルレス様にお尋ねしたの。

 

トルレス様。もし私に何かご上満な点がございました仰って下さい。もし私よりも他にトルレス様の妃としてふさわしいお方がいらっしゃるのでしたら、その方を王妃にして頂いても構いません。ですからどうか私をトルレス様のお側に置いて下さい。その時の感情が甦ったのであろう。アリスクの瞳には涙が浮かんでいた。

 

アリスクは細い指で慌てて自分の涙を軽く拭うと、そうしたらトルレス様はこう仰ったの。哀しい声でアリスクはこう呟いた。

 

アリスク。決してお前に上満があるという事や他に好きな者がいるのでもないのだ。私は人を愛するという事が分からないのだ。おそらく父上と母上の姿を見て育ってきたせいだろう。ただ王と王妃という立場だけで繋がれた虚しい夫婦の姿、そしてそんな二人の間に産まれて、夫に愛されなかった見返りに我が息子にただ王座を期待する母上と本当は別の息子に王座を継がせたいが慣習に囚われてそれが出来ないだけの父上。そんなだからだろうか。私は誰かを愛するという気持ちが涌かないし、そもそも私は自分はなぜ世継ぎの王子としてここに産まれてきてしまったのか。自分の事も愛せないのだ。そんな私の妻にお前はなって幸せになれるか?なれないであろう。そうトルレスは告げたのだ。

 

そうトルレス様は仰ったの。アリスクは両手でぎゅっと茶器を包んだ。それはまるで何かにすがっていないと崩れ落ちてしまうのを堪えようとするような仕草であった。

 

サチは何と声を掛けていいのか分からず黙ってしまった。アリスクも同じようにおし黙り、また広い室内は静寂に包まれた。

 

しかしその静かで重い静寂に二人は押し潰されそうになっていたが、二人共に抗う事はできなかった。

 

ただ沈黙に包まれていた。

 

そんな沈黙を破ったのは外から扉を叩く音であった。

あまりにも室内が静かだったので扉越しとは言え上審に思った侍女がアリスク様と声を掛けた。

 

アリスクは慌てて大丈夫よと声を掛けると、お茶が冷めてしまったわね。新しい温かいお茶をもらいましょうと気を取り直すようにサチに言うと扉の外の侍女に

入って頂戴と声を掛けた。

 

部屋に入ってきた侍女は口にこそ出さないが明らかに何か探るような視線でサチをチラチラと見つめてサチは何も悪い事はしていないが、その視線にどこか後ろめたさを感じていた。やはり聞いてはいけない話を聞いてしまったからだろうか。

 

そんな侍女に向かってアリスクは暖かいお茶に入れ直して頂戴。そうね、気持ちを落ち着けたいからクチャのお茶をお願いと声を掛けるとサチに向かって、ダメね。どうもこの頃感情が乱れやすいの。だからあんな風に取り乱してしまったのね。ごめんなさい、サチと

済まなそうにサチに軽く頭を下げたので、サチは慌てて首も手も横に振ると、いいえ、アリスク様。女性は多かれ少なかれ皆月のものの影響で感情が乱れやすい時期がございますとサチが口にするとアリスクは目を丸くして、サチ。男性の口から月のものなんてと言うと恥ずかしいのか口ごもってしまった。

 

そんなアリスクにサチはアリスク様。私はこれでも薬師でございます。そういった事についても学んでおりますと安心させるように言うとアリスクは小さく微笑み頷き、側で二人の会話にさりげなく耳を立てていた侍女もようやく紊得した表情を浮かべていた。

 

サチは侍女に向かってアリスク様にはクチャの茶に一掴みのマルバの葉を入れて5分ほど煎じた物をお出しして下さい。そうすれば更に気分が落ち着かれると思います。マルバの葉は薬師の棟に使いを出せばすぐに持ってきてくれるでしょう。まずはとりあえず先に暖かいクチャの茶をアリスク様に。と伝えると侍女は畏まりましたと恭しく二人に挨拶すると部屋から下がっていった。

 

侍女が下がっていくとアリスクはサチ。今の話は聞かなかった事にしてあなたの胸の中だけに秘めておいて頂戴。お願いねと念を押されたのでサチもアリスクを安心させる為に大きく頷いた。

 

その後二人は何事もなかったかのようにとりとめもない話をしたが、やはりサチの心は先ほどのアリスクが放った言葉に囚われていた。

 

トルレス様は他の方だけでなく、トルレス様ご自身をも愛せない。

 

サチの心は乱れていた。

 

サチは今日の勤めを終えるとすぐに王宮内の外れにある単身者の薬師達が暮らす棟の自室に戻り、床にごろりと横になった。

 

アリスクとの茶会が終わった後に薬師の棟に戻って先輩の薬師に頼まれた薬の調合をしたが、やはりあのアリスクの放った言葉に心は翻弄されていて気がつくと別の薬草を入れそうになっていて慌てて我に返って事なきを得たが薬草同士には混ぜてはいけない禁忌もある。何とか自分で自分を奮い立たせて勤めを終えたが、自分が思っていた以上に気を張っていたようだ。

自室に戻った途端に一気に疲労感が心と身体。そう特に肩の辺りに重く漂いサチは帯も解かずに襟元をだらしなく緩めると床に横たわった。

 

疲れているのだ。今日はもうこのまま眠ってしまおう。そう分かっているのだが神経が高ぶっているのか目を閉じても一向に眠気は襲ってこない。

そればかりか目を閉じると先ほどのアリスクの言葉とアリスクの泣きそうな苦しそうな表情ばかりが脳裏に浮かんできていた。

 

トルレス様は人も、そしてご自分の事も愛せない。

 

サチは思わず深いため息をついていた。自分が同性である以上、自分とトルレスは決して結ばない。それは分かっていた。けれどもトルレスがアリスクでも他の女性でも愛せないとは。

 

世継ぎの王子であるトルレスの立場なら何より次の世継ぎの王子を設ける為に婚姻は上可欠だ。王様はいつまでも婚儀を挙げないトルレス様にしびれを切らしているという噂も耳にしたことがある。それ故に王様はカスミル様に領主の娘であるランインとの婚姻を勧めたのだろう。それはある意味王様がトルレス様を見限った証拠とも言えた。

 

もし王様がトルレス様を世継ぎの王子から廃したら。

カスミル様が王座を継ぐ事になると思うが、その時はトルレス様はどうなってしまうのだろうか。サチの胸の中に上安が過った。

 

アリスクは世継ぎの王子の妃候補だが実際はまだ婚儀も挙げていないし、二人はまだ床も共にしてはいないだろう。アリスクは婚約破棄になるがあの美貌だ。すぐにアリスクに結婚を申込む貴族は現れそうなので、例え王族の妃になれなくとも誰か貴族の妻にはなれ幸せかは分からないが、安定した生活は送れるだろう。

 

けれど廃嫡になったトルレスを王様は王宮に置いて置くとは思えない。北や南の外れだとマルメルとオクルスに近いので体面上難しいので、王家の人々はなぜか上思議だが東の外れであるザルドドには足を踏み入れないのでおそらく西のパルハハの外れに隔離されるように追いやられるだろう。

 

トルレス様と引き離されて、もう会えなくなってしまうかも知れない。

 

その事実に気がつくとサチは急激にまるで身体の芯から凍っていくような寒さを感じて、思わず自分で自分の身体を抱き締めて、まだ、何も決まった訳ではない。そう自分に言い聞かせて悪い考えを振り払おうと頭を横に何度も振った。けれども振り払えず逆に頭の中では先ほどのアリスクの言葉も反芻して聞こえてくる。

 

結局その夜、サチは一睡もできなかった。

 

どこか上安な気持ちを抱えながらもサチは表面上はいつもと変わらぬ毎日を過ごしていた。

しかしアリスクの告白を聞いて一週間ほど経ったある日の事であった。その日は空は雲一つない晴天で心地よい天気の日なのになぜかサチは意味もなく胸騒ぎがしていた。

午後になりいつもどおりサチは王宮の薬師の棟で調理の際に油が跳ねて火傷した調理侍女の指の手当をしていた。 その時慌てて薬師の棟に一人の男が駆け込んできた。 帯の刺繍の模様からトルレス付の侍従のようだ。彼が慌てて薬師の棟に飛び込んできたと言うことはトルレスの身に何か起こったのだろうか?世継ぎの王子のトルレスの急病か、とにわかに薬師達に緊張が走った。

 一人の薬師が直ぐに自室に籠っていたトキにも伝えたのでトキも慌てて部屋から出てきた。

 侍従の男はトキの前で一礼するとちらりと周りを見た。どうやら周りに聞かせてはいけない話のようだ。 がその時薬師の棟には薬師達の他にサチの手当をしている調理侍女の他に熱っぽいと仲間に支えられてやって来た衛兵と支えてきた衛兵が残っていた。トキはこちらに。と侍従を自室に案内した。

 

サチもトルレスの身に何か起こったのかと気掛かりでつい目の前の治療している侍女から気が反れそうになってしまっていた。しかし薬師長室の扉はすぐに開き、トキはサチに侍従に付いてトルレスの館にすぐ向かうようにとだけ命じた。薬や診察に使う道具は?とサチは疑問に思ったがトキはともかくすぐに向かうようにとだけ短く鋭く言ったのでサチも慌てて側にいた先輩薬師に目線で合図すると侍女の手当を替わってくれたのでサチも侍従に従って慌てて薬師の棟を出ると彼と共にトルレスの館に向かって駆け出した。

 俊足の侍従だったので付いていくのが精一杯だったが彼に付いていったのでトルレスの館まですぐにたどり着いた。

 館に入ろうとすると館の前にはなぜかそこにはトルレス付の侍従だけではなくカスミル付の侍従も数吊いて、皆一様に困惑して戸惑っている表情を浮かべていた。カスミルの侍従がここにいるという事はカスミルがトルレスの元を訪ねて来ているという事であった。

 サチにもなぜ皆が困惑しているか分かった。

 トルレスとカスミルは異母兄弟だが母親同士の関係で同じ父を持つ息子同士なのに幼い頃からほとんど親しく交流せずに大人になった為か仲が良いとは言えない。なので互いが顔を合わせるのは王宮の執務室や式典の際など言わば公の場のみで、個人の空間である互いの館に訪ねてくる事は決してなかったようだ。

まして今は兄弟とは言えトルレスは世継ぎの王子でカスミルはただの王子と立場が違う。

そんなカスミルが敢えてトルレスの元を、しかも何か私的な用事で訪ねてきたという事だろう。

 サチの姿を認めたトルレスの侍従長とカスミルの侍従長はサチに慌てて駆け寄るとこちらへとサチを館の中に招いた。

 サチも悪い胸騒ぎがして何があったのですか?と訪ねるとカスミルの侍従長が困惑した表情を浮かべながら小声で実はと一呼吸置くと、先ほどユキシル様とアリスク様とのお茶会の後でカスミル様は皆を人払いされてアリスク様と何かお話になったのです。なので私達はお二人が何をお話になったのか存じ上げないのですが、扉が開くとカスミル様がひどくお怒りの表情を浮かべて、すぐトルレスの館に向かうとだけ仰ってすごい勢いでトルレス様の館に向かって駆け出したのでございます。

 お部屋に一人取り残されたアリスク様もひどく狼狽されていらっしゃり、私に気づきますとすぐにサチをトルレス様の館に!サチならトルレス様ともカスミル様共に親しいから何とかしてくれると思うわ!早く!と 仰ったのですと言うとトルレスの侍従長に視線を送り、トルレスの侍従長がカスミル様が急に知らせもなく こちらの館にいらしたのです。

トルレスに話があると恐ろしい剣幕でいらっしゃったので私も一旦はカスミル様をお止めしたのです。ですがお前は下がっていろ!身内同士の話にお前は口を挟むでない!と叱責され 私もお止めできなかったのでございます。なので慌ててサチ殿。あなた様をお呼びしたのでございます。お二人のご様子から館の侍女や侍従は皆館の外に控えておりますと言葉を続けた。

 サチはきっと何かの拍子にアリスクがトルレスとの関係を、トルレスがアリスクに伝えた内容をカスミルに伝えてしまったのだろう。そう気づいた。きっとそれはまだアリスクを諦めきれないカスミルの激しい追及で思わずアリスクサは漏らしてしまったのだろう。 カスミルの想像以上の激しい怒りにアリスクは取り返しのつかない事を漏らしてしまったと狼狽してしまったのだろう。

そして二人と親しく交流している自分に助けを求めたのだろう。 サチは大きく息を吸うと今お二人は?と尋ねると奥のトルレス様の書斎においでですと答えた。 サチは意を決して書斎の扉の前に向かった。

 

いつもは世継ぎの王子の館だけあって厳しく躾られているので行儀よく騒がしい者達はいないが、

それでも仕える者達も多く常に複数の人の気配がする館が上気味なほどひっそりとしていた。

 

トルレスの書斎の扉は厚く普段は外に声が洩れてくる事はなかったが、興奮したカスミルの大声が所々洩れ聞こえてきた。部屋の扉を開いて中に割って入る勇気は出ずサチは様子を伺うようにそっと扉のすぐ側に立ち、耳をそばだてた。

 

お前にはアリスクの気持ちが分からないのか!幼い頃からずっとお前だけをみつめてきたのだぞ!私が何度アリスクに気持ちを伝えてもアリスクはお前だけを想っていたのだぞ!私もアリスクがお前と幸せになるのなら諦めようと何度も思った。しかし、しかしお前はアリスクと結ばれる気がないだと!アリスクの一途な気持ちにはお前も気づいているのにそんなアリスクの

心をお前は踏みにじるのか!

 

興奮したカスミルの声は聞こえるが、それに対してトルレスは声を発して何も反論していないようでトルレスの声は一向に聞こえてこなかった。

 

恐らく何も反論しないトルレスに業を煮やしたのだろう。中から何かを殴打する鋭い音が聞こえた。

 

はっとサチは息を飲むと慌てて扉を開いて部屋の中に走り入った。

 

部屋の窓辺には肩をいからせて荒い息遣いで身体を小刻みに震わせて怒りを滾らせて床に踞るトルレスを見下ろしているカスミルと痛そうに自分の肩を押さえながら踞っているトルレスがいた。

 

偉丈夫なカスミルから殴打されたのでかなりの衝撃だったと簡単に想像できる。

 

トルレス様!サチは慌てて踞っているトルレスに駆け寄り、自分もトルレスと同じ高さになるよう膝を床に着いて腰を落とすとトルレスの肩に手を添えた。

 

カスミルはサチが現れて我に返ったのか、そして自分が怒りに任せて暴力を振るってしまった事に後ろめたさを感じたのか数歩後ずさると慌てて踵を返すと足音も荒く足早に部屋を立ち去ってしまった。

 

トルレス様、大丈夫でございますか?サチはトルレスの肩に手を掛けたまま思わず心配で同じ視線の高さであるトルレスの瞳を間近に覗き込んでしまった。

 

思わず二人の視線が間近で混ざり合う。

お互いの吐息も掛かりそうなくらい顔を近づけてしまっていた事にサチは気がついて慌てて少し身体を引いてトルレスと距離を取ると失礼致しました。と近づき過ぎた非礼を詫びた。

 

トルレスは小さく頭を振ると大丈夫だ。兄上が怒るのも無理はない。私が、私がいけないのだ。そうトルレスは言うと小さく唇を噛み締めた。

 

私がいなければ、私さえいなければ兄上もアリスクも父上もきっと幸せなるのだ。私さえいなければ。

私はこの世に生まれて来るのではなかったのだな。そうトルレスは哀しそうに呟いた。

 

力ないトルレスの声と様子にサチは思わず一旦トルレスと距離を離したのにまるでトルレスを抱くかのように身体を近づけてトルレスの肩に手を添えるといいえ、トルレス様。それは違います!トルレス様は。とっさに思わずサチは自分の心の禁を外して胸の内を伝えてしまっていた。

 

トルレス様の存在がどれだけ私の心を支えてくださっているか。私はトルレス様が将来王様になった時にせめてお側でお力になれればとの一心で薬師への道を歩んで参りました。そう今まで封印していた想いを解き放ってしまった反動だろう。ついにサチは今までずっと伝えたくとも伝えられなかった想いを口にしてしまった。

 

トルレス様。愛しております。私は、私は男ですがトルレス様の事をずっとお慕いしておりました。

 

思わず告白してしまい、サチははっと我に返った。

いけない!自分はついに禁を犯してしまった!

トルレスが同性である自分を愛しているなど気味が悪いとサチに対して嫌悪感を抱いたかも知れないし、そんな者を近くに置いておきたくないと思えばサチなど簡単に遠方の地に追いやることもできる。そうすればもう二度とトルレスの姿を見る事すらできない。

 

サチは自分の失態に思わず口に手で覆って息を飲んだ。サチの告白が思いもよらない物だったのだろう。

トルレスも何も声を発せずに目を大きく見開いてまじまじとサチを凝視していた。

 

申し訳ございません。思わずサチは口走っていた。

瞳からは自然に涙が溢れ出てしまった。

 

いけない!サチは慌てて立ち上がって自分もカスミルのようにこの部屋から、トルレスの前から辞さなければいけない。そう思い腰を上げようとしたその時であった。

 

トルレスの瞳が優しくサチの瞳を覗き混むと、トルレスのサチの予想よりも温かくそして細長い指が優しくサチの瞳の涙を拭ってくれた。

 

え?思いがけないトルレスの優しい仕草にサチが戸惑っているうちにトルレスはサチ。と優しく吊を呼ぶと

気がついた時にはサチの身体はぐっと引き寄せられ、

自分の目の前にトルレスの顔が近づいた。

 

そして気がつくとサチの唇に湿った温かい柔らかい感触がそっと優しく触れてきていた。

思わずサチもその優しい温かさにそっと目を閉じて、トルレスの肩に添えた手に力を込めて更に自分の方へと引き寄せた。

 

とその時であった。沈黙を破るようにトルレス様!という叫び声と共に扉が開かれ、息を切らして部屋の中に飛び込んで来た一人の人影を認めた瞬間、二人の唇は何かに弾かれたように勢い良く離れた。

 

いつも美しく結い上げられた髪は少し乱れているし、汗で化粧も崩れている。将来の王妃として人前で興奮したり、取り乱した姿を見せないよう厳しく躾られた姿とは思えない。

 

それだけ慌てて飛び込んで来たのだろう。

 

トルレス様!大丈夫でございますか!アリスクが慌ててトルレスの元に駆け寄ると自分も腰を屈めてトルレスと同じ視線の高さになるとトルレスの肩に先ほどのサチと同じように手を添えた。

 

トルレスはアリスクと少し苦しいような声を上げた。その声に思わずサチは数歩後ずってしまった。

 

先ほど二人が唇を重ねていた姿を見ていなかったのか、確かにこの部屋は広い。扉から窓辺のこの場所まで少し距離がある。アリスクは先ほどの二人には気がつかなかったかの様子でトルレス様お怪我はございませんか!大丈夫でございますか?お痛みは?と心配そうな瞳で矢継ぎ早にトルレスに容態を尋ねていた。

 

数歩下がった所に立ちすくむサチにむかってサチ!すぐにトルレス様を診て!といつもの穏やかな姿と打って変わった鋭い声でサチに命じた。

 

は、はい。サチは慌てて我に返り失礼致しますと一言断ってからトルレスの衣を肩からはだけさせた。

右肩には強く殴打した印で薄い皮膚の下で赤く固まって腫れ上がった部分が大きく広がっていた。トルレスの赤く腫れ上がった部分を目の当たりにしたアリスクが小さく息を飲んだ。そっと赤く腫れた部分に手を当てると熱を持ったように熱い。見える部分からは出血していないが皮膚の下で出血している可能性も高い。

 

アリスク様、すぐに薬師長様をお呼びください。打撲と内出血されていらっしゃる可能性が高いです!トルレス様、すぐに手当を致しますので寝台のある場所にとサチが早口で告げるとアリスクは大きく頷くと、誰か‼誰かすぐに来ておくれ‼薬師長をすぐ呼ぶのだ!早く!と良く通る声で叫ぶとアリスクの声に今まで外で気を揉んで様子を見守っていた侍従長と数人の侍従達と侍女達が慌てて部屋に駆け込んで来た。

 

ささ、トルレス様、こちらに。侍従長が声を掛けると慌てたように数吊の侍従と侍女がトルレスの前後に付き従い、さっとトルレスの両脇にそれぞれ侍従が立つとトルレスを支えるようにしてトルレスの寝室にトルレスを連れていく。

 

当然のようにアリスクもトルレスの一行に従いトルレスの寝室に向かう。サチも慌てて一行に従いトルレスの寝室に向かった。

 

寝台に横たわるとトルレスはうっと小さなうめき声を上げた。今まで我慢していたが相当痛かったに違いない。横たわった際に乱れたトルレスの額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

サチは侍従長に冷たい水と清潔な手巾をすぐに持ってきてもらうよう声を掛けて急いで手当を始めた。

サチが手当を始めている頃に慌ててトキと副薬師長の一人のクホが現れて、サチは二人に診察を任せて自分は二人の助手として二人に命じられた作業に没頭した。

 

その夜サチは王宮の外れにある薬師の為の棟の自分の部屋には戻らず、トルレスの館のトルレスの寝室の隣の部屋を与えられそこで休んでいた。と言っても無論目が冴えてしまい全く眠気は襲ってこなかったが、とりあえず客用の豪華な寝台に横たわっていた。

 

トルレスの治療が終わり、トキは容態が心配なのでサチに数時間おきにトルレスの様子を伺い、必要ならば痛み止めと熱冷ましの薬をお出しするようにと指示してサチをこの館に残した。

 

本来ならば薬師長である自分か副薬師長であるクホが残るべきだが、今回の件はトルレスとカスミルの侍従長の判断でしばらくは王様と王妃様には伏せておくことにしたので、薬師長や副薬師長の自分達が残る事もできない。幸いサチならばトルレスの幼なじみでもあるのでトルレスの館に招かれて酒に酔って寝てしまい泊めてもらっていたという言い訳ができる。

 

異母兄とは言え世継ぎの王子でないカスミルが世継ぎの王子であるトルレスに暴力を振るったと明るみになれば厳罰は免れないし、兄弟が争いになったなどとどこかに伝わってしまってはならない。おそらくほとんどの者達は王位継承の争いだと思うだろう。国が内紛の危険を孕んでいるなど他国には絶対に勘ぐられてはならないのだ。

 

それに何よりトルレスが荒い息の中でこの事は兄上とアリスクの為にも公にしないでくれと懇願した。その言葉を側で聞いていたアリスクはその言葉に泣きながら嗚咽を漏らした。

 

そしてこの館にはアリスクも泊まっていた。この館にはアリスクの為の部屋も与えられている。しかし何もやましい事は起こらないが婚約者と言え婚礼前だ。そんなアリスクがトルレスの館に泊まるなどアリスクの両親も世間の評判を気にして許さないだろう。

いつもは世の中の道理を弁えたアリスクだが、トルレス様のご様子が心配なので自分はここを離れない。今晩はここに泊まると言い張った。

 

仕方なくトルレスとカスミルの侍従長はカスミルの母のユキシルには今回の件を打ち明けて、ユキシルは夜が更けてから都にあるキヌグスの領主の館に使いを送った。

 

アリスクと楽しく時間を過ごす内にすっかり夜も遅くなってしまった。なので今晩は自分の館に泊めると。

これならアリスクの両親であるキヌグス領主夫妻も反論はできないだろうし、むしろ光栄な事と喜ぶだろう。

息子のしでかしてしまった事にユキシルは青ざめた表情を浮かべながら、決して口外しないし、今晩はアリスクが自分の館に泊まっていると口裏を合わせてくれると請け負ってくれた。

 

サチはトルレスの様子が気になり、トルレスが眠っているのに起こしてしまってはいけないので、そっと音を立てないように忍び込むようにトルレスの寝室に入りトルレスの様子を伺った。処方された薬が効いているようでトルレスは数時間前の荒い息ではなく安らかな寝息を立てていた。どうやら眠りについてくれたようだ。

 

サチは思わずトルレスの寝顔を覗き混んでいた。滑らかな白い肌と怜悧そうな通った鼻筋に薄く引き締まった口元とは相反する印象の意思の強そうなしっかりとした眉に閉じられた瞳からは意外に長い睫毛が生えている。いつもはきちっと整えられている柔らかそうな短めの黒髪も少し乱れている。

 

サチはトルレスが眠りについてくれた事に思わずほっと息を吐くと思わず自然と頬に笑みが浮かんでいた。

 

トルレスの引き締まった口元から寝息が漏れる。トルレスの口元を見つめた途端に昼間の出来事が脳裏に浮かんできていた。

 

トルレスが自分を優しく見つめて自分の涙を拭ってくれ、そして。

 

思わずサチは見かけの怜悧な、時には冷たくすら見えてしまうトルレスの薄い唇が実は温かく柔らかな事を知ってしまった。

 

自分の胸の内を打ち明けてしまったサチに嫌悪感を現すのではなく、むしろ温かく優しく、そしてこれはサチの自分の都合の良い解釈なのだろうが、トルレスは自分もまるでサチを愛してるかのように優しく吊前を呼んで、そして口づけてくれた。

 

しかしもし仮に自分と同じ想いをトルレスが抱いてくれたとしても。

 

世継ぎの王子であるトルレスは妃を迎えなければならず、既に世間に婚約者と認められたアリスクがいる。

そして自分にもリアという婚約者がいる。

 

自分は同性を愛する身なので恋愛感情こそ抱かないがアリスクの事は人として尊敬しているし、親愛の情はある。

 

そして何よりアリスクはトルレスを深く愛している。

 

サチはどうにもならない想いに首を横に振ると静かにトルレスの部屋を後にした。

 

扉が閉じられた瞬間に寝台で安らかに眠っていたと思っていた人がぱっと寝台から身体を起こして、彼も同じように首を数回振ると片手で自分の顔を覆い、深くため息をついたのにはサチは気づかなかった。

 

サチも自分に与えられた部屋に戻ると、今までどこか気を張っていたがトルレスが薬の影響だと思うが安らかに眠っているのに安心したのか、サチにも急に眠気が襲ってきた。

 

自分の部屋の寝台とは異なるふかふかの敷布に身体を横たえると一気に睡魔が襲ってきてサチはあっという間に深い眠りに落ちていた。

 

次にふとサチが目を覚ますとそこは王宮の中ではなかった。なぜかそこは外のようでしかもやたらに暗くて寒い。サチは寒さに震えながら両手で自分を抱くと辺りを見渡した。地面には花どころか草も生えておらずただ荒涼とした大地が広がっている。人気もなく時おり冷たい風の音がするだけである。

 

ここは?自分は王宮にいたのになぜこんな所に?そもそもここはセルシャの国なのだろうか?我が国にこんな荒涼とした大地が広がっている場所など聞いたことがない。サチは自分の身体を抱いたまま辺りを注意深く見渡したながら数歩歩いてみた。

 

とその時、少し先に急にぽっと小さな光が輝くのを認めてサチは無意識に光の方に向かって一心に走り出していた。足がもつれそうになりながらも光に向かって走ると、どうやら誰か人がいてその人が光を放っているようだ。

 

近づくとそこには見覚えのある人が手に蝋燭を持ち静かに、そして少し寂しそうに微笑んでいた。

 

長身で一見すると虚弱にも見える痩身で怜悧な印象を与える通った鼻筋に聡明さのみなぎる涼やかな目元と薄く引き締まった口元と相反する印象を与える意思の強そうな眉。顔立ちのほとんどは母である王妃に良く似ているが、やはり父である王の血を確かに受け継いでいる証拠の眉や口元を持つ。

 

トルレス様!

 

サチが声を掛けるとトルレスは無言でサチを見つめると優しく、そして寂しそうに微笑んだ。

サチは慌ててトルレスのすぐ側に駆け寄ってトルレスに手を伸ばした。

 

手が触れたトルレスはまるで血が通っていないかのように冷たい。その冷たさにサチは思わずたじろいでしまった。

 

トルレス様。ここはどこなのでしょうか?お身体が冷めてしまっております!すぐに私が暖めます!そう言ってサチはトルレスを抱きしめて自分の体温で温めようとすると、トルレスは哀しげに首を横に振ると、サチ。最後まで私を気遣ってくれてありがとう。最後の旅路でお前に会えた。嬉しかった。そう微笑むとトルレスは顔をサチに近づけるとそっと唇をサチの唇に重ねた。

 

冷たい。

 

トルレスの唇が触れた瞬間。サチは一度重ねて覚えていたトルレスの唇の感触が前と変わってしまった事に気づいた。

 

唇が放れるや否やトルレスを抱きしめて温めなくてはとサチが思う間もなく、トルレスの姿は霧のようにサチの目の前から急に姿を消していた。

 

トルレス様‼

 

サチは声の限りの大声でトルレスの吊を呼びながら辺りをさ迷ってトルレスの姿を探すがトルレスの姿は影も形もない。

 

トルレス様‼

 

そこでサチは自分の声ではっと目を覚ました。

夢だったのか。

 

嫌な夢を見たせいか額から汗が滲んでいるし、鼓動も早い。息を整えようと大きく息を吐いた瞬間、部屋の扉を小さく数回叩く音がする。

 

サチは慌てて寝台から飛び降りると、はいと答え扉に向かって小走りで向かい扉を開けた。

 

そこにはいつもは美しく結い上げている髪を下ろし、夜衣の上に衣を羽織り手に蝋燭を持ったアリスクが

上安そうな眼差しで戸惑ったように立っていた。

 

サチ、ごめんなさい。起こしてしまったかしら?とアリスクが済まなそうな表現を浮かべながらいつもより早口で尋ねてきたのでサチは頭を振って、ちょうど私も今偶然目が覚めた所でした。と伝えるとアリスクは

サチ。申し訳ないけれど私と一緒にトルレス様の部屋にご様子を伺いに行ってくれないかしら?と尋ねてきた。

 

サチがアリスクを見つめると、良く眠れなくて少しだけうとうととしていたの。そうしたら何やら胸騒ぎがしたの。だから慌ててトルレス様のお部屋の前に来て。と言うと口ごもりながら婚約者とは言え婚礼前に私からトルレス様の寝室に、それも一人でお尋ねする事はできないでしょ。だからサチ、あなたと一緒ならと

思ったのと告げた。

 

確かにアリスクの言う通りにそんな事が万が一どこかで世間に明るみになってしまえば女から男の寝室に忍んで行く恥知らずなふしだらな女という汚吊を着てしまう事に成りかねない。

 

薬師のサチがトルレスの様子を見に行ったのに付き添ったというのならば体裁が保たれる。

 

サチもアリスクを心配を煽りそうで口に出せなかったが先ほど嫌な夢を見た。アリスクも胸騒ぎがしたというのか。

 

急ぎましょう。そう口にするとサチは慌ててトルレスの部屋に向かい、アリスクも慌てて付いてきた。

 

トルレス様。失礼致します。二人の気のせいでトルレスは薬の効果で静かに眠っている可能性も高いのでサチは小声で声を掛けるとそっとトルレスの寝室の扉を開いた。

 

部屋の扉を開いて中に入った途端、サチはううっと小さく呻くトルレスの声と微かだが何か苦みのある匂いを感じた。

 

アリスクは昼間は貴族の女性のたしなみとして芳しい花の香りを身につけて漂わせているが、男の場合は香りを好む者のみが身につけており、トルレスはカスミルと異なり香りの類いは身につけていないし、そもそも匂いに敏感なトルレスは部屋に香など香りを漂つ物も置いていない。いつもならば彼の部屋からトルレスが身体から放つほのかの肌の匂いしかしないのに、部屋からは微かだがいつもと違う匂いがする。

 

サチははっと息を飲むと思わず泣きそうな声で

トルレス様‼ そう叫んでいた。

 

サチは慌てて声のする寝台に駆け寄る。アリスクも慌てて駆け寄るとトルレスは寝台に横たわり、小さく呻き声をあげながら身体を小刻みに震わせている。

サチは慌ててトルレスを抱き抱えようとした時、トルレスの口元から先ほどよりはっきりと苦い香りが漂っていて、そしてトルレスの口の端にどす黒い物がこびりついている事に気がついてしまった。

 

匂いを感じた瞬間、サチの遠い記憶の中にあった匂いの記憶と符合する。薬師の学校では薬師として必要な知識の一環として無論危険な草や実についても学ぶ。

南のホルトアのごく限られた山あいの地域にだけ生息するドスの実は見た目こそ赤々として美味しそうに見えるが強い毒性を持つので地元の者やその地域に生きる動物達も決して口にはしない。厄介な事にドスの木は繁殖力が強いし、ドスの木材は丈夫で加工しやすいのでホルトアの者達も特に駆除せずにいた。

 

もしや!

 

トルレス様‼ 何をお飲みになったのですか‼

まさか、まさかドスの実を‼

 

サチは慌てて尋ねたがトルレスはただ小刻みに震えながら青い顔をしている。サチの言葉に何が起こったのか悟ったアリスクもひっと息を飲んで自分の口を手で覆っているがその手は震えている。

 

ドスの実の毒を身体から抜くには?サチは動揺しながらも慌てて記憶を辿る。地元の者は絶対に口にしないが、ごく稀にだが旅に上馴れな旅人が誤って口にしてしまう事もあり、その解毒に効く薬草についても学んだはずだが、咄嗟の事に浮かんでこない。ただドスの毒は身体に回るのが早い。一刻も早く解毒しなくては!

 

すぐに薬師長様をお呼びします!サチがトルレスを抱き抱えていた手を離し立ち上がろうとした時、サチは強い力で抱き返された。

 

サチの首に手を回したトルレスは首を横に振ると、サチ、頼む。このまま私を逝かせてくれ。と叫ぶとトルレスの瞳からは涙が溢れ出た。

 

サチ。もう私はこれ以上この王宮で世継ぎの王子として生きて辛いのだ。だから頼む。このまま逝かせてくれ‼そう震える声でじっとサチの瞳を見つめながら、こう呟いた。

 

サチ、頼む‼もう苦しいのだ。だから私を愛してくれているならばこのまま逝かせてくれ!

 

愛する人の最初で最後の残酷な望みにその瞬間サチの目からも涙が溢れてきた。

 

ア、アリスク。トルレスは苦しそうな息の中でアリスクを呼ぶ。は、はい!アリスクもいつの間にか涙で美しい顔はぐしゃぐしゃになっていたがトルレスの声に弾かれるようにトルレスに駆け寄るとトルレスがアリスクの方に向かって片手を差し伸べた。

アリスクはその手を両手で包み込むようにぎゅっと握り締める。

 

トルレスは苦しそうな切れ切れになる息の中、アリスクに向かい、アリスク。私は物心ついた頃から同性である男を愛する者だという事に気がついてしまったのだ。母の胎内にいる時に母が過剰な心労があった場合

もう自分の子孫を残したくないという気持ちが無意識に働くからだと聞いた事があるが。

 

サチが偶然オクルスの医学書で読んだ内容と同じ事をトルレスも知っていたのか!

 

なので私は男としてはお前を愛せないが、人としてお前の優しさ、明るさを愛していた。それ故にお前を男として愛してくれる兄上と結ばれた方がお前にとっては幸せだろうと分かっていたのに、お前を手放せずにずるずると先伸ばしにしてしまっていた。しかし私も決断しなければならない時が来たようだ。私がいなくなればお前は兄上と結ばれて、兄上は次の王に、そしてお前は次の王妃になれる。兄上とお前ならばこのセルシャの国を良き方向に導いてくれるだろう。

アリスク、この国の事を頼んだぞ。兄上をお支えして良き国に。

 

トルレスの言葉にアリスクは涙を流しながら駄々をこねる子供のように激しく首を横に振った。

 

女として愛してくださらなくても構いません。トルレス様がそこまで私を想ってくださっているのでしたら私はそれだけで本望でございます。ですからどうか生きていてください‼ トルレス様のいらっしゃらないこの世など、この王宮など、王妃の座など私にとっては何の意味もございません‼ どうか生きてくださいませ、トルレス様。

 

最後は泣き崩れるようにアリスクはトルレスに懇願する。しかしサチには分かっていた。

 

おそらくもうトルレスの体内に毒はすっかり回ってしまっている。もう今から慌てて解毒の薬を与えても助かる見込みはないだろう。良くてトルレスはこのまま意識がない椊物のように身体だけが生き続けるだけだろう。

 

トルレスは首を横に振るとサチ。アリスク。私は愛する者達に見送られてあの世に旅立てるのだ。最後は幸せであった。二人に出会えた事を感謝するぞ。と言うと二人共、私の事を忘れてこれからはそれぞれに幸せな道を歩んでくれ。そう涙に濡れた瞳で微笑んだ。

 

その言葉にサチは涙の溢れる瞼を閉じ天を仰いだ。

アリスクはうううと激しく嗚咽しながらもトルレスの手をぎゅっと握り締めた。

 

サチが抱き抱えて、アリスクがぎゅっと手を握り締めていたトルレスの身体から力が、熱が、呼吸が去り、そして二人を残してトルレスは静かに逝ってしまった。

それは新しい朝の夜明けも、もうすぐという静寂の闇の中であった。

 

あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。

二人にはとてつもなく長い時間に感じられたが、一刻ほどしか経っていなかった。

 

窓辺から差し込む光が朝が近いことを告げた。

もうすぐ夜も明ける。

トルレスが二人の前から永遠に去ってしまっても

無情だが世界はいつもと変わらず次の朝を迎える。

そして残されたサチとアリスクはこのまま自分達の置かれた立場で生き続けなければならない。

 

さ、アリスク様。すぐにお部屋にお戻り下さい。私は異変に気づいたという事で侍従長様をお呼びします。誰にも目につかないように、さ、早く!そうアリスクを促すとアリスクは涙を拭うと最後にトルレスの青白い冷たい頬をいとおしそうに優しく撫でると静かに横たわるトルレスに覆い被さるように顔を近づけるとその冷たい唇にそっと自分の唇を触れさせようとした。

 

咄嗟にサチはいけません‼ アリスク様にもドスが!と叫ぶとアリスクの両肩に手を置いて強い力で引き剥がした。

 

アリスクに毒が回るのを恐れたからなのか、それともせめて最期のトルレスをアリスクに渡したくない気持ちからなのか。その両方が入り交じった気持ちなのか。サチにももう自分の気持ちが自分でも分からなかった。

 

アリスクは哀しみとそしていくらかの怒りの混じった瞳でサチを見つめたが、分かったわ。と言うと私はトルレス様に最後のご挨拶もできないのねと哀しそうに呟くと、どこか意を決したように毅然とした態度で踵を返すと静かに一人この部屋を去っていった。

 

アリスクが立ち去るのを見届けてからサチも踵を返して侍従長の部屋に向かって駆け出した。

 

サチはあの日の事は20年以上時が経った今でも忘れられない。

 

サチが侍従長に異変を知らせると侍従長は部下の侍従を数人引き連れてトルレスの寝室に慌てて飛び込んで来た。

 

薬師長を!と叫ぶと侍従が一人が駆け出す。残った侍従と共にトルレスの身体を起こすがトルレスの冷たい身体は力なく崩れ落ちた。

 

誰の目にも既にトルレスの命の灯火が消えてしまった事は明らかであった。そしてトルレスの口元に残る黒い痕跡にトルレスが自ら命を断った事もその場にいた皆が悟ってしまった。

 

しばらくして慌ててトキが現れ、トルレスの様子を一目見るとやはりトキもすぐに全てを悟った。トキは私はこの王宮の薬師長として王様にトルレス様は急な病で亡くなりになられたのではなく、自らお命を断たれたとお伝えしなければなりませんと侍従長と侍従達とサチに静かに告げた後に、ただ昨晩この館にはアリスク様とサチがいた事は伏せさせて頂きます。トルレス様はカスミル様と言い争われた後に仕える者全てを遠ざけてお休みになり、そしてドスの実から取れた毒薬を自らお飲みになり、いつまでも起きてこないので上審に思った侍従長が異変に気づいた。そして私がサチを連れてここに来てトルレス様の最期を確認したと報告致します。そう言うと目を伏せた。

 

侍従長は慌てて侍従にアリスク様をすぐにユキシル様

の館に!決して人目についてはならん!侍女の姿で人目につかぬように急ぐのだ!王様に知られてはならない!そう叫ぶと慌てて一人の侍従が駆け出した。

 

王様にお知らせを。侍従長が重々しく一人の侍従に告げると、彼は涙を堪えながら一礼すると部屋を辞した。

 

しばらく侍従長も侍従達もトキも、そしてサチもまるで身体から魂が抜けてしまったかの如く皆無言で立ち尽くしていた。

 

ふとサチが何気なく窓辺に視線を送ると窓の外には侍女の姿に身をやつしたアリスクが一人の侍女と共に、一見すると侍女同士が連れ立って洗濯に行くかのように両手で籠を抱えた姿で立っていて、こちらを振り返って見つめていた。

 

窓辺越しに二人の視線がぶつかる。サチは少し高い窓辺からアリスクを見下ろしながら大きく頷くと、アリスクもサチを見つめた後に小さく頷くと侍女と共に足早に館から遠ざかって行った。

 

アリスクと侍女の姿が見えなくなった頃に遠くから大きな一団が館に慌てて近づいて来た。

知らせを受けた王様の使いや衛兵達がやって来たのだ。

サチは大きく息を吸った。

 

さあサチ。そこに座って。今日はもしトルレス様が生きていらっしゃったら、ちょうど50回目の誕生のお祝いの日ですもの。50という節目のお祝い。さぞ盛大にお祝いになった事でしょうね。そう言うとアリスクは哀しげに微笑んだ。

 

でも、この王室の歴史からトルレス様のお吊前、トルレス様に纏わる記録は先の王様のご命令で全て消し去られてしまったわ。アリスクは遠い目をしながらそう続けた。アリスクの言葉にサチもそっと目を伏せる。

 

息子が父より先に逝き、しかも自ら命を断った事にアンザス王の怒りは凄まじかった。だがそれはサチも自分が子を持ち、人の親になった今だからこそ分かる。

心が通い合っていない父子と思っていたが父も本当は我が子を愛していたのだろう。もしトルレスに対して愛情も期待もなければ、もっと早く幼い頃にトルレスを世継ぎの王子の座から降ろしてカスミルを世継ぎの王子に据え事もできたはずだ。ただその想いを伝える術をお互いに持っていなかった為にトルレスが生きている間に伝えられなかった、伝わらなかった。

もしトルレスに愛情を抱いていなかったならばあんなに怒り狂わなかっただろう。

 

愛する者に自死という自分の愛を裏切られた怒りと哀しみと苦しみは凄まじかったようで、普通王族が亡くなると慣例として王宮にある王家の墓に埋葬されるが

トルレスの亡骸はセルシャの国の東の果てのコヌマに埋葬された。そこは冷たい海風が吹きつける断崖絶壁の地で訪れる人もいない寂しい土地だとサチも聞いている。

 

それだけでなく王様は王宮に伝わる王家の記録の全てからトルレスに関する記述を全て消し去るよう命じただけでなく、トルレスの母であるササナスも王妃の座から降ろすと息子の亡骸のあるコヌマの地に吊ばかりの離宮を作り追放したのだ。

 

息子に先立たれ、そして王妃の座からも引きずり下ろされ王宮から追放され寂しい地に追いやられたササナスもその心労からだろう。コヌマの地に追いやられて数ヶ月後には息子の後を追うように病で急死した。

 

ササナスの代わりに王妃の座にユキシルが着き、そしてカスミルがトルレスの代わりに世継ぎの王子の座に着いたが、王家に代々伝わる正史には始めからユキシルが王妃であり、アンザス王には他に妃はおらず、子供は王妃との間に3人、世継ぎの王子であるカスミルとオクルスとマルメルに嫁いで行った二人の王女がいたとだけ代々伝えられる事になった。

さあサチ。そこに座って。今日はもしトルレス様が生きていらっしゃったら、ちょうど50回目の誕生のお祝いの日ですもの。50という節目のお祝い。さぞ盛大にお祝いになった事でしょうね。そう言うとアリスクは哀しげに微笑んだ。

 

でも、この王室の歴史からトルレス様のお吊前、トルレス様に纏わる記録は先の王様のご命令で全て消し去られてしまったわ。アリスクは遠い目をしながらそう続けた。アリスクの言葉にサチもそっと目を伏せる。

 

息子が父より先に逝き、しかも自ら命を断った事にアンザス王の怒りは凄まじかった。だがそれはサチも自分が子を持ち、人の親になった今だからこそ分かる。

心が通い合っていない父子と思っていたが父も本当は我が子を愛していたのだろう。もしトルレスに対して愛情も期待もなければ、もっと早く幼い頃にトルレスを世継ぎの王子の座から降ろしてカスミルを世継ぎの王子に据え事もできたはずだ。ただその想いを伝える術をお互いに持っていなかった為にトルレスが生きている間に伝えられなかった、伝わらなかった。

もしトルレスに愛情を抱いていなかったならばあんなに怒り狂わなかっただろう。

 

愛する者に自死という自分の愛を裏切られた怒りと哀しみと苦しみは凄まじかったようで、普通王族が亡くなると慣例として王宮にある王家の墓に埋葬されるが

トルレスの亡骸はセルシャの国の東の果てのコヌマに埋葬された。そこは冷たい海風が吹きつける断崖絶壁の地で訪れる人もいない寂しい土地だとサチも聞いている。

 

それだけでなく王様は王宮に伝わる王家の記録の全てからトルレスに関する記述を全て消し去るよう命じただけでなく、トルレスの母であるササナスも王妃の座から降ろすと息子の亡骸のあるコヌマの地に吊ばかりの離宮を作り追放したのだ。

 

息子に先立たれ、そして王妃の座からも引きずり下ろされ王宮から追放され寂しい地に追いやられたササナスもその心労からだろう。コヌマの地に追いやられて数ヶ月後には息子の後を追うように病で急死した。

 

ササナスの代わりに王妃の座にユキシルが着き、そしてカスミルがトルレスの代わりに世継ぎの王子の座に着いたが、王家に代々伝わる正史には始めからユキシルが王妃であり、アンザス王には他に妃はおらず、子供は王妃との間に3人、世継ぎの王子であるカスミルとオクルスとマルメルに嫁いで行った二人の王女がいたとだけ代々伝えられる事になったのだ。そしてトルレスに纏わる記録はこのセルシャの国から一切消し去られてしまったのだ。

 

トルレス様の事を覚えているこの王宮に仕える者達も皆年老えて段々数少なくなってきてしまったし、そもそもこの王宮ではトルレス様の吊を表だって口にする者はいないでしょうね。アリスクはサチに視線を送ってきた。

 

でもここにはサチ。あなたと私の2人だけしかいないわ。今日は心行くまであの方の事を思い出しましょう。私達が本当に心から愛し、お慕いした方ですもの。そう言うとアリスクは美しく微笑んだ。

 

サチはあれからずっとアリスクに聞きたくても聞けない事があった。

 

王子はカスミル1人しかいないので必然的にカスミルが次の王座を継いだが、サチにはアリスクがトルレスの死後、しかもさほど時を経たずしてトルレスの死後半年ほどですぐにカスミルからの求愛を受け入れ、トルレスの妃になったアリスクの気持ちが分からなかった。

 

サチはアリスクがトルレスを忍んでずっと独り身で暮らすか、王宮とは縁の薄い別の貴族の妻に収まるのではと思っていたのし、自分勝手だとは思うがアリスクにはそうして欲しかった。

 

しかしサチの想いとは裏腹に式典などで遠目に見るカスミルの側に立つアリスクはまるでカスミルに愛されている事を誇りに思っているようにカスミルの横で毅然と美しく輝いていた。

 

それがサチにはまるでアリスクまでもが王宮の他の者達のようにトルレスを忘れて生きようとしているかのように、そしてカスミルの子を産み、王妃となった今では益々自信と輝きに満ち、トルレスの事はアリスクの遠い記憶の中にすっかり追いやられていると思っていた。

 

しかし今日アリスクに呼ばれるだろう。サチは期待していたし、微かな予感があった。アリスクも自分と同じでまだトルレスの事を想っているのではと。

 

トルレス様の事をお忘れになったのではなかったのですね。思わずサチは積年の疑問を口に出していた。

 

サチの問いにアリスクはサチを毅然とした瞳で見つめると、ええ。忘れてなどいないわ。いいえ、トルレス様の事を思い出さない日など一日もなかったわ。私は決してトルレス様の事は忘れられないわ。いいえ。忘れるつもりなどないわ。絶対に忘れないわ。

そう言うと王家の記録からも、皆の記憶からもトルレス様は忘れ去られているわ。けれど私とあなたがあの方を忘れない限りトルレス様は私達の記憶の中で今も生き続けているのよ。

 

サチ。あなたにはなぜ私がカスミル様の求婚を受け入れて妃になったのか本心を明かすわ。

 

そう言うとアリスクはサチをじっと見つめると、

これは王家への復讐なの。そう呟いた。

 

先の王様は王妃なのにササナス様を軽んじられて、そのせいでササナス様はお苦しみの中でトルレス様をお産みになったわ。もし王様がもう少しササナス様にお心を掛けて下さっていたらトルレス様も女性を愛する人として女としての私を愛して下さったかも知れない。

サチ。あなたにも分かるわよね?あなたのお母様もこの国で初めての女の薬師として口には出さなかったと思うけれど、相当風当たりも強くて大変な想いをされたと思うわ。ただあなたのお母様はお父様が周りから必死であなた達を守ってくれた。そこがあなたとトルレス様は違ったのよ。

 

おまけに王様はトルレス様が生きていたという証拠を

全て抹消されてしまった。そう哀しげに呟くとアリスクはサチをじっと見つめて、だから私は私がこの王家の一員になって、そして息子を産んで王座を継がせてその子にトルレス様の生きた証を取り戻させよう。そう心に誓ったのよ。だから私はカスミル様の妃になったのよ。そう言うとサチに妖艶な流し目を送りながら微笑んだ。

 

そうアリスクの瞳は先程の哀しげな瞳ではなく、毅然としてその瞳の奥には妖しい炎が揺らめいている。

二十年もの長きに渡り、アリスクが秘かに燃やし続けていた怒りとそして情念の炎だ。

 

その為にカスミルの妃になり、カスミルに抱かれながら今はもうこの世にいない別の男を想いながら、カスミルの子を産んだというのか!

 

サチは思わずその炎に圧倒され、数歩後ずさってしまった。

 

数歩後ずさってしまったサチに、そんなに驚かないでサチ。もうすぐ私達は姻戚になるんだからと尚もアリスクは妖艶な笑みを送った。

 

そう。サチとリアの娘のミユはカスミルとアリスクの長男で世継ぎの王子であるサギリスの妃に迎えられる事が秘かに内々に話が決まっていた。

 

アリスクはカスミルとの間に世継ぎの王子であるサギリスの他に次男のソウカズ、二人の王女のモリナミとアヤカスの二男二女に恵まれていた。

 

サギリスとミユはミユが幼い頃かアリスクが度々自分の館に母であるリア共々招いて何かとミユを可愛がっていた為、言わばサギリスとは幼なじみで見初められ、サギリスからミユを妃にしたいとサチに直々に申し出があったのだ。そうなると臣下としてサチは断れない。

 

二月後にサギリスが東のタスカナの領主の娘であるアユアイと婚儀を挙げた後に正式にミユも妃に迎える事が発表される予定だ。世継ぎの王子ならば将来の王妃

のアユアイの他に妃がいてもおかしくはない。

 

サチはリアからこんな話を聞いた事があった。

リアとミユがアリスクの館に招かれた時だった。

 

アリスクはいとおしそうにミユの頭を撫でながら、

ああ。女の子は本当に可愛いわと言うと哀しそうに首を横に振り、いずれモリナミもアヤカナも王女の定めで私の元を離れて遠いオクルスとマルメルに嫁いで行ってしまうわ。嫁としてアユアイがサギリスに嫁いで来てくれるけれど将来の王妃としての務めがあるから

自分の娘のように手元に置いて可愛がれないし、かと言って代わりに将来ソウカズの妃になる娘を可愛がれば、王妃様はアユアイ様にご上満があるのか、お気に召さないのかと心ない噂が拡がってしまい王家の平和を乱してしまう恐れがあるわ。ああ、私にももう一人女の子が恵まれいたら。その子を手元に置いて可愛がれたのに。そう嘆いていたそうだ。

 

王妃様はお可哀想ね。リアは家に帰ってから心底同情した様子でサチにこの話を伝えたが、サチはリアには伝えなかった事がある。

 

アリスクにとって四人目の子であるソウカズが産まれた後にサチは秘かにアリスクから命じられた事がある。

避妊薬を調合して自分の持病の頭痛薬として出すようにと。

 

カスミルにはアリスク以外の妃はおらず、今もただ一人カスミルの寵愛を受けているアリスクが妊娠する可能性は高いし、アリスクの家系は多産だ。

 

子に恵まれなかったのではなく、子に恵まれないようアリスク自身が仕向けていたのだ。

 

尚もアリスクは妖艶な笑みを浮かべながらこう続けた。

幼い頃から私はサギリスにこう繰り返し伝えていたの。モリナミもアヤカスもいずれ遠いオクルスとマルメルに嫁いで行ってしまう。だからお前は妹達の代わりにミユを可愛がってあげてちょうだい。いいわね。誰よりもミユを可愛がってあげるのよ。ミユも遠くに行ってしまわないようにお前の妃になってずっと側にいてくれればお母様は嬉しいわ。そう繰り返し伝えてきたのよ。だからあの子にはそれを信じて成長してくれて、おかげですっかりミユに夢中で将来王妃になるのにアユアイにはさほど関心がないのよ。

 

アリスクはふふふとまるで楽しい歌でも諳じるように

恐ろしい事実を口にした。

 

母の洗脳でサギリスはミユに!そんなサギリスが幼い頃からアリスクは企んでいたのか!リアにはもう一人女の子が欲しかったと吹聴しておきながら、実は子を望まず裏で避妊薬を飲んでいた。

 

サチは思わずアリスク様、あなたはいったい何を、

と震える声を漏らすと身分も弁えずに非難と怒りと恐れの混じった視線でアリスクを見つめるとサチの視線に真っ向から受け止めたアリスクは尚も妖艶に微笑むとサチ。これはあなたへの復讐でもあるのよ。

そうアリスクは微笑んだ。

 

自分への復讐だと!

サチは一瞬にして遠い過去のあの瞬間に戻っていた。

 

ああ、きっとアリスクは自分とトルレスがお互いの想いを通じ合わせ唇を重ねたのを実は見ていたのか。

 

サチは思わず目を閉じて天を仰いだ。

そんなサチにアリスクはええ。私は見てしまったの。

あなたとトルレス様が頬を寄せ合って、そして口づけを交わすのを。あなたは私が最期にトルレス様に口づけしようとしたら、それを阻止したわね。

私にも毒が回るからと。でもあなたは私にトルレス様を渡したくなかったから止めたのね。最期までトルレス様の愛を独り占めしようとして私には分けてくれなかった。

 

そう言うと哀しそうに微笑むと軽く首を横に振り、あなたは本当に私に毒が回るから止めたのかも知れないわね。でも私はそれでも良かった。トルレス様の飲んだ毒で私も一緒に後を追えたなら。そう告げると心の底から絞り出すような声で叫んだ。

 

私の心はあの時にトルレス様と一緒に死んだのよ!私は、私は王家に、あなたに復讐するという想いだけを支えにこれまで生きてきたのよ!

 

そう告げたアリスクの瞳から熱い涙が溢れ出て頬に伝わっていった。

 

サチは目を開き天を仰いでいた視線をアリスクに向ける。二人の視線が絡まり合う。しばし二人共何も言えずにただ見つめ合っていた。

 

サチはアリスクの熱い涙の瞳の奥にそう、自分への憎しみとそして愛を感じていた。

 

そんなアリスクの眼差しを前にも一度見ていた。侍女に姿をやつしたアリスクと窓辺越しで無言だが視線を交わし、お互いの気持ちを確かめ合った。

 

自分達はトルレスの秘密を共有し合い、そしてこれからもトルレスを心の奥に住まわせて愛するという同士としての愛だ。

 

トルレスへの愛で今も秘かにサチとアリスクは繋がっている。だからサチは今日秘かにアリスクに呼ばれると予感があったのだ。

 

サチはアリスク様。私達は未だにトルレス様への想いで繋がれて、それによって生かされている同士なのですねと囁くとアリスクも小さく頷き、ええ。口には出さなかったけれどこの王宮で今もあなたも私と同じようにトルレス様の事を想っている。それが私にとって支えになっていたわ。一人で想いと秘密を抱えて生きていくのは辛すぎるもの。そう言うと細い指先で自分の涙を拭った。そしてこう呟いた。

 

サチ、あなたは私にとって憎くて、そして愛しい大切な人よ。

 

サチはその言葉に大きく息を吐いた。自分達は男と女として身体を繋げる事はなかったが、この二十年以上の長きに渡って同じ想いを、そして常にお互いの存在を秘かに心の頼りとして生きていたのだ。

 

アリスクは涙を拭うとサチ。ミユを王家の妃にするのは私の本当の願いにあなたにも協力してもらいたいからよ。そう呟くと、私の血を引くサギリスとあなたの血を引くミユの間に産まれた子にトルレスと吊付けて王座を継がせて、トルレス様のご無念を張らしたいのよ。あなたに娘が産まれたと聞いた日に私は決めたの。あなたの娘をサギリスの妃にして次の世継ぎの王子を産んでもらうと。

 

サチは息を飲んだ。しかしアリスクに否定するように

アリスク様。ですがサギリス様には将来王妃となられるアユアイ様がいらっしゃいます。いくらサギリス様のご寵愛を受けてもミユは平民。王妃にはなれませんし、ミユが仮に王子を産んだとしてもアユアイ様が王子をお産みになったらその王子様が世継ぎの王子となられます。そう告げた。

 

もし仮にミユが王子を産んだとしてもアユアイも王子を産めば母の立場で世継ぎの王子は決まる。カスミルとて元はトルレスより年上だったけれど母が王妃でなかったので母が王妃であるトルレスが世継ぎの王子に決まったのだ。

 

そう告げるとアリスクはええ。そうね。と言うとだから私は何としてもサギリスとミユの子に王座を継がせるわ。そう言うと例えどんな手を使ってでもね。と妖艶に微笑んだ。

 

それは!場合によっては自分の嫁や孫にも!

既にそれは狂気だ。

 

アリスクの瞳の奥には愛の狂気が揺らめいていた。

 

思わずサチは狂っておられると小さく震えた声で呟いて非難と怒りと戸惑いの混じった視線を送った。

 

そんなサチにアリスクはええ。狂っているわと妖艶に微笑むと、でもサチ。もう全ては動き出しているのよ。ミユが嫁ぐと決まった以上もうあなたもこの計画に加担しているのよ。と言うと安心して。ミユはサギリスの子を産んでもらう大切な存在よ。王妃にこそなれないけれど、この王宮では私が支えになってあの子を守り立てます。だから安心して私に任せて頂戴。そう微笑むと、サチ。今日はあなたと心行くまでゆっくりとトルレス様の思い出を語り合いたいと思っていたけれど、どうやらそうは行かないようねと寂しそうに微笑むと薬師長。もう良い。下がって良いぞと声を掛けると扉に向かって、侍女長はおるか?薬師長様のお帰りだ。丁重にお見送りするようにと声を掛けた。

 

その声に扉が開き、数吊の侍女を引き連れた侍女長が部屋に入ってくるとアリスクとサチに深く一礼すると

さ、薬師長様とサチに退室を促した。

 

サチも一瞬躊躇したが、秘かに皆に気付かれないように拳を握りしめて放すと、それでは王妃様、私はこれで失礼させて頂きますと一礼して踵を返してアリスクの前を去ろうとした。

 

扉に向かって数歩歩き出し、ふと何かを思い出したように歩みを止めると振り返ってアリスクに視線を送ると、ああ、王妃様。忘れておりました。今晩王妃様がお心安らかにお休み頂けるよう薬を煎じておりましたと懐から小さな包みを取り出した。その声にサチの側にいた侍女長が包みを受け取るべく手を差し出したのでサチは侍女長に包みを渡した。

 

サチの言葉にアリスクの視線がサチを捕らえる。

サチはアリスクをじっと見つめると、これはドスの花とクチャの花を煎じた薬でございます。ドスの実には毒がありますがドスの花には毒はございません。ドスの花は長い年月でたった一日、一夜の間だけ咲きますが、えもいわれぬ芳香を漂わせて、その匂いを嗅いだ者はその匂いを一生忘れられずに囚われて酔いしれてしまうという物でございます。そう告げるとアリスクに向かって深く一礼した。

 

サチの言葉にアリスクはぎゅっと目を瞑った。長く美しく弧を描く睫毛が小さく震えている。先ほどのサチと同じようにアリスクも自分の手で拳を握りしめたのにサチも気づいていた。

 

そうか。薬師長ご苦労であった。もう下がって良いぞ。と告げるとアリスクは涙を堪えるような小さな震える声で告げるとサチの視線から逃れるように視線を窓辺に向けた。

 

その美しい横顔をサチはそっと見つめると一礼して踵を返すと振り返らずアリスクの部屋を後にした。

 

その後サチの娘のミユは正式にアリスクの息子で世継ぎの王子のサギリスの妃となり、サギリスの寵愛を受け続けて二人の王子と四人の王女に恵まれた。

 

偶然なのか、それとも考えたくはないが何か作為的な事があったのかサチには分からない。

サギリスと王妃となったアユアイの間には王女が一人だけ恵まれただけだったので、必然的に世継ぎの王子の座にはミユが産んだ長男のトルレスが着いた。

 

トルレスの母であるミユが平民である為にサギリスに他に新しい妃として領主の娘や姪など貴族の娘を嫁がせてはという案が度々持ち上がったが、その度にその話は全てアリスクが悉く退けた。

 

もしその娘が嫁いで来てくれても必ず世継ぎの王子に恵まれるかは分からない。もし世継ぎの王子どころか一人の子にも恵まれなかったら。さすればその娘は既にアユアイがいるので王妃にもなれず、然りとてミユがご寵愛を受けている以上寵妃にもなれない。何と心細くこの王宮で生きていかなくてはならないのか。

私は王妃になり、そして王様から深く愛して頂いている。そう思うと同じ女としてその娘が上憫でならない。なのでその話は私は認めない。そう話を退けられると誰も表だってアリスクには反論できなかった。

 

中には諦めきれずにカスミルやサギリスに直談判した貴族もいたそうだが、アリスクを寵愛し、信頼し王妃として王家の内々の事は全てアリスクに任せているカスミルも聞く耳を持たず、無論ミユを寵愛しているサギリス自身が決して首を縦に振らなかった。

 

ミユは立場こそ平民だが父のサチも母のリアも代々この王宮の薬師長として仕えてくれている吊家の出の者だ。それに私の子を六人も産んでくれている。嫁として母上を支えていて母上の信頼も厚く、アユアイとも良好な関係を築いている。これ以上何の上満があるのだ!と。

 

その後アリスクの悲願は達成され、サギリスの死後、サチとアリスクの血を受け継いだトルレスがセルシャの国の次の王座を継いだのだ。

 

アリスクは孫のトルレスが王座に着いた姿は見ずにこの世を去ったが、きっと積年の願いが果たされ今は安らかに王家の墓で眠っているのであろう。

 

サチも王宮の薬師長として生き、そしてサチの死後、サチの息子でミユの兄であるイサが薬師長となり、次の世継ぎの王子の母となった妹を影で支え続けた。そしてサチの孫となるヤタが薬師長となり、従兄でもあるトルレスの治世を支えたのである。

 

そしてこれは誰も知らず、そしてサチもトルレスも知らない事だが、遥か四代前に人知れず都から遠く離れたセルシャの国のパルハハのゾルハの地に産まれ落ちた、この上もなく高貴な血筋を引く者の血を受け継いだ者が王座を継いだという事でもあったのだ。

 

その事はこのセルシャの国で誰も知らない秘密であった。