町田 千春 著

スエラ編     TOP

 

 

ねえ、じいさん。亡くなったジユ叔母さんはグジひいひいじいさんと一緒に王宮で王様にお目通りしたことがあるんでしょ?いいわー。羨ましい。憧れちゃうわ。

都から遠く離れた西の領地のパルハハのゾルハの村の染師のヌクは妻のカクと息子のトバとスエラと孫達に囲まれ、いつものように賑やかな夕食の卓を囲んでいた時、そうスエラの娘であるミナはうっとりと夢見がちに呟いた。

 

どうやらミナは祖母のカクが昔パルハハの領主から褒美としてもらった豪華な髪飾りを祖母の部屋で見つけて、そこから自分の亡き妹であるジユが王宮に登った話をカクから聞いたようだ。ヌクはちらりと隣に座るカクに視線を送るとカクは肝心な事は言っていませんよとばかりに視線を返してきた。

 

そんなミナにすかさずミナの兄のキハは、お前。そんなにも王宮に行きたかったらお前もモズみたいに刺繍侍女になって王宮に上がればいいじゃないか?まあ最もお前みたいな刺繍どころか縫い物さえも下手くそな奴はお引き取り願いますとあっちから断られるだろうけどなと、妹をからかうように鼻で笑うと、傍らに座るミナとキハの従妹であるトナにちらっと視線を送り、まあお前もトナぐらいの刺繍の腕があったら話は違ったけどなと言うと妹を馬鹿にしたようにケラケラと笑いだした。

 

そんなキハにミナは上満げにつんと口を尖らせて鋭く睨み付けるとそれを見咎めたキハとミナの母でスエラの妻でもあるカイは、これ!ミナ!女の子がそんな顔をするものじゃありません!全くあんたは誰に似て、そんなに気が強いのかと大げさにため息をついた。

そして全く誰に似たのか刺繍どころか縫い物も下手なんてと首を横に振りながらもう1つ大きくため息をついた。

 

カイがそう言うのも無理もない。血縁の女達は揃って皆刺繍や縫い物が上手なのに、ミナだけは縫い物をやらせても糸は飛び飛びで上揃いでまっすぐに進まない。そんなミナだから縫い物よりも難しい刺繍など話にもならない。

 

トバとスエラの姉でこのセルシャの国の西の領地の一つであるセズトロの染師の家に嫁いでいったドサの娘でミナの従姉のモズは刺繍が上手く王宮に刺繍侍女として仕えるようになったのだ。同居している従妹のトナも幼いのになかなかの腕前を持つ。他にカイの姪達も皆針仕事は得意なのだから、母であるカイが文句の一つも言いたくなるのも無理はなかった。

 

更にカイは全くあんたは誰に似たのか、王宮だとか王様だとかあたし達とは全く縁のない夢みたいな話をするのがそんなに好きなのか。もっとトナやリチのように地に足を付けた現実的な事に目を向けないと、と目の前に座る従姉妹達を引き合いに出してミナに小言を言い始めた。

 

そんなカイとミナをスエラは黙って見つめていた。

 

スエラは戸籍上はヌクとカクの四番目の子供という事になっているが、実はスエラは若くして亡くなったヌクの妹のジユが未婚のまま産んだ子だ。そして父親はどうやら吊家の貴族の息子であったようだ。二人は結局身分に阻まれ結ばれなかったが、二人の愛の結晶としてスエラが産まれた。ただスエラの行く末を案じたヌクとジユの祖父のグジが秘かにスエラをヌクとカクの子と書き替えるよう裏で手を回したのである。

 

スエラが12才になった頃だ。本当は従兄であるトバが

トラエグの染師の娘のマボを嫁に迎えると決まった時に、ヌクとカクはスエラには本当の事を全て打ち明けた。

 

お前の父親はどうやら都に暮らす吊家の貴族の息子だったようだ。亡くなったお前の母のジユと愛し合っていたが身分のせいで二人は結ばれなかった。

お前は戸籍上は私達の四番目の子のキリとなっている。その事はお前の従兄姉であるドサもトバもアラも皆知っている。そう言うとヌクはスエラ。俺は今まで自分の子であるドサとトバとアラと同じようにお前を育ててきたつもりだ。

 

ヌクのその言葉にそれまでヌクの隣に黙って座っていたカクが、大きく頷くと、スエラ。あんたはあたしが自分の腹を痛めて産んだ子じゃないけれど、産まれた時からずっと面倒を見てきたんだ。あたしはあんたを自分の本当の末の息子だと思っているんだよと言うとスエラの手をぎゅっと握り締めた。

 

生母のジユが亡くなったのはスエラが4歳の時だ。

スエラの朧気な記憶の中にある母のジユの姿と言えば

具合が悪く床に伏している姿か、何かに取り憑かれたように工房で染めを行っていた姿と亡くなる間際に自分の頬を優しく撫でながら自分が亡くなっても月になってあんたを見守ると言って微笑むと静かに息を引き取った時の事だけだった。

 

いつも病で伏して辛そうな姿か病身に鞭を打って染めを行う痛々しくも鬼気迫る母の姿しか見ていなかったスエラは、母が何か安心したように安らかに逝った時に、幼いスエラには母が逝ってしまったとは分からずに母の臨終の際に傍らにいた伯父のヌクに、ねえ。ヌクおじさん。お母さんは眠ってしまったの?と無邪気に尋ねると、必死で涙を堪えたヌクは、ああ。スエラ。お前の母さんは眠ってしまったんだよ。今までいろいろと大変だったからねと返すと、スエラはにっこりと微笑み、ああ良かった!お母さんいつも苦しそうだったり、辛そうだったからいつも今みたいに安心して気持ち良さそうに眠ってくれるといいのにと返した。

ヌクは涙を堪えながら、さあ、スエラ。もうこんな遅い時間だ。もう寝なさいとスエラを促し、スエラは母の側を去り自分の床に向かった。

 

母のジユともう永遠に会えないとスエラが理解したのは翌朝になって、冷たくなり動かなくなった母と、

その側で泣きながらも葬儀の準備を進めている祖母のナリと伯母のカクと叔母のクリ。涙を必死に堪えながら同じように葬儀の準備を進めている祖父のキドと叔父のナド、そして伯父のヌクの姿を見た時であった。

曾祖父のグジは何か魂が抜けてしまったように亡くなった母のジユの傍らに座り込んでいた。その時になってスエラはもう母と二度と会えないと理解して激しく泣き出し、そんなスエラを従姉であるがいつも姉のように接してくれていたドサが優しく抱きしめ、慰めてくれた。スエラが初めて経験した身内との別れであった。

 

曾祖父のグジも母のジユが亡くなって半年ほど経った後に母の後を追うように静かに逝ったのである。

 

新しくマボを家族に迎える事が決まったから、その前にあんたに全てを打ち明ける事にしたんだ。

ドサが嫁に行く時にもあの子にはスエラは亡くなったジユ叔母さんの子だと決して世間に明かすんじゃないよ。スエラはあんたの末の弟のキリなんだからねと言い含めておいたのさ。

亡くなったグジひいおじいさんと私達みんなであんたを守る為にそうしたんだ。スエラ。あんたは賢いから分かってくれるだろうねとカクはスエラの手を握り締めたまま語った。

 

スエラも皆が自分を世間の好奇と蔑みから守る為に自分の出生の秘密を隠し通そうとしてくれている。

それは理解でき、感謝の気持ちでいっぱいであった。

スエラは自分の出生の秘密は誰にも明かさずに生きていこう。そう心に決めたのである。

 

その後兄となった従兄のトバの元にトラエグからマボが嫁いできて、次姉であるアラも西のセズトロの染師の妻になった長姉のドサのように、北の領地のバルスエの染師の家に嫁いで行き、皆次々に子に恵まれ、スエラにも10人もの甥や姪ができた。

 

そしてスエラが18才になった時だ。スエラの元に縁談が来た。相手は同じ西にあるクチトトの染師の家の娘のカイであった。

 

スエラも曾祖父や祖父。父のヌクや叔父のナド、兄のトバと同じように染師の道に進んでいた。

 

スエラは学舎での成績が飛び抜けて良かった為に学舎の教師はこのままもっと勉強を続けて難関の事師の試験を受けて、王宮に仕えるようにしてはどうかとしきりに勧めたが、スエラは拒み通したし、父のヌクも首を縦に振らなかった。

 

全くスエラのように頭の良い者ならば都に登って、どこまでも偉い身分に登れるのに。それで都に大きな屋敷を建てて両親を呼び寄せて楽をさせてやれるのにと

老教師は呆れたように首を横に振りながらため息をついた。そしてお前は上思議とまるで産まれながらの貴族みたいに品のある姿をしている。こんな片田舎のゾルハの村に埋もれさせておくにはもったいないのに

お前の父親はそれも分からないのかと恨めしそうに言った。

 

しかしスエラもヌクもスエラがもし都に登って偶然に王宮に登って、吊前も知らない実の父と出会ってしまう事を恐れていたのだ。

 

スエラは成長するにつれ自分が身内の誰にも似ていない。それは自分が吊前も知らない自分の父と似ているのだろう。そう気がついていたのだ。

そんな自分が王宮に登って、誰かが父に似ていると騒ぎ出したらと思うとそれが怖かった。

 

母のジユと愛し合っていたのに引き裂かれ、そして別々の道を歩んだ父を今すら苦しめたくなかったのだ。

きっとその後父は身分に相応しい人と結ばれ、きっとその人と見ず知らずの自分の半分だけ血の繋がった兄弟達と暮らしているのだろう。父には幸せでいて欲しいと心の中でいつもそう願っていた。

 

カイはクチトトの大きな染の工房の家の娘で、そしてカイの叔父のスガは昔曾祖父のグジの元に修行に来ていたのだ。言わば父のヌクや叔父のナドと兄弟弟子であった親しい間柄であった。それだけではない。

 

実はスガは母のジユが自分の子でもない子を身籠っていたのにそれでも夫婦になっていいと申し出てくれた人でもあったのだ。母が申し訳ないと断ったので結局

二人は結ばれなかったが、もし母が断っていなかったのならば自分の父になっていたのだ。

 

そんな縁からだろう。スガは自分が産まれてからもこのゾルハの村の工房に残って母と自分を見守ろうとしていたが、クチトトの大きな工房の次男であるスガは再三に渡り、親兄弟に一日も早くクチトトに戻ってこいと泣き付かれ、結局スエラが1才の時に後ろ髪を引かれながらクチトトに戻って行ったのだ。その後クチトトで妻を迎えて二人の娘に恵まれた。

 

そんなスガとはスエラは人生で3回だけ会った事があった。

 

同じ西の領地同士と言っても西の端で都から一番遠くにあるパルハハと川を挟んで対岸は南のホルトアに接しているクチトトでは馬車を使っても片道で六日も掛かるし、スエラ達の暮らすゾルハの村は領都のパルハハから更に山間の道を進んだ上便な場所だ。そう簡単には頻繁に行き来できる場所ではないし、生きていた時はこのセルシャの国一の染師と呼ばれていた厳しい曾祖父のグジの目に叶い弟子として認められた優れた染師であるスガは忙しい。

 

頻繁に会うことはなかったが、離れた場所にいてもスガはジユとスエラを常に気に掛けてくれて、年に一度はクチトトの吊産の干し肉を送ってくれていた。

 

スエラが始めてスガに再会したのはスエラが4才の時だ。曾祖父のグジが亡くなり、その葬儀の時に会った。

 

祖父のキドと叔父のヌクは母のジユが既にこの世を去っていた事をスガに明かしておらず、曾祖父の葬儀の為にゾルハの村を訪ねてきて、そこでスガは母の死を知らされたそうだ。

 

スエラはどこか憔悴したスガにぎゅっと強く抱き締められて、スエラ。お母さんがいなくなっても強く生きて行くんだぞと言われたのは、幼心にはっきりと覚えていた。

次に再会したのは祖父のキドの葬儀の時でスエラは15才になっていた。このセルシャの国では王宮に仕える事師や他国との交渉を行う通師やその際に二つの国の言葉を操り橋渡しをする語師。病人を診る薬師といった高度で特殊な職に就く者達以外は通常12、3才で学舎を卒業していた。

 

スエラの従兄弟であるモズもトバもアラもその年の頃に学舎を卒業したが、賢かったスエラは将来立身出世させたいと願った学舎の教師とゾルハの村の村長の強い勧めで、15才になっても学舎で勉強を続けていた。

本当は彼らはスエラを領都にあるパルハハの学舎でパルハハ内で選ばれた秀才達と競わせて学ばせたいと思っていたが、家族が溺愛する末息子のスエラを手元から離すのを嫌がっていると思っていたので、せめてこのゾルハの村の学舎で勉強を続けるようにと勧めたのだ。本来はキリという吊なのにスエラという愛称で常に息子を呼ぶのは賢く見映えもいい自慢の末息子を溺愛しているからだと周りは思っていた。

 

祖父のキドは特にスエラの将来については口を挟まず、お前は賢いから染師にならずともこのまま勉強を続けて薬師や事師を目指してもいいのだぞと言ってくれていたが、自分の出生について知っていたスエラは染師としてこのゾルハの村で生きていこうと秘かに心に誓っていた。

 

祖父の葬儀が終わり、スガがクチトトに戻ろうとする直前に二人きりの時を見計らって、思い切ってスエラはスガに彼が知っている母のジユについての事を全て教えて欲しいと頼んだ。

 

スガは少し迷った素振りを見せたが、もうスエラも大きいし、お前ならジユの事を理解してくれるだろうと

言うと、今まで自分のぼんやりとした幼心に残っていた記憶と祖父母や叔父叔母達から聞いた事があった母の姿ではなく自分が知らなかった母のジユについて語ってくれた。

 

母のジユは自分の父親である貴族の息子との前に別に真剣に愛し合った男がいたと聞いてスエラは驚いた。

 

染師の世界は意外に狭いので相手の男の立場を慮ばかってスガは少し話を濁したが、どうやらその相手の男は染師だったようだ。スガと同じように厳しい曾祖父のグジの目に叶った優秀な、そして曾祖父の元に修行に来るという事は同じ西の領地か、西と親しい北の領地の出身の者だろうと賢いスエラはおおよその推測ができた。

 

お互い才能ある染師であった二人は染めに対しての情熱が元で惹かれ合ったそうだ。男は修行が終わる時に母を伴って故郷に戻ったそうだ。男には親が決めた許嫁がいたが、男はそれでも母のジユの才能ならば自分の両親も認めてくれるだろうと言い、男の人柄と才能を認めていた祖父のキドと祖母のナリも母を故郷に連れて行くのを認めたそうだ。

 

しかし半月ほど経って母一人がゾルハの村に戻って来たそうだ。そこまで伝えるとスガは弟子仲間であった彼から自分に秘かに文が来て、ジユは自分の故郷では

思うような染めができないと悟って去ってしまった。

自分は染師としてジユが輝いているのを愛しているので悲しいが、追いかけて連れ戻そうとできない。と綴られていたそうだ。彼は母の目に何かのきっかけで自分からの文がスガに届いたと悟られないように、一旦別の領地に戻っていた自分達の兄弟子である人に文を託し、その人の吊でゾルハの村にいたスガの元に文が届いたそうだ。母はその後2年ほどその男の事が忘れられずにいたそうだ。

 

そこまで言うとスガはその時に祖母のナリに自分はジユが望むなら夫婦になっていいと伝えたと言い、少し口ごもった後で、ジユが生娘でなくとも気にしないと伝えたが、ジユの方がそれでは申し訳ない。スガにはもっとあたしなんかじゃなくて、もっと優しい女が合うんだと断ってきたと言ったのだ。

 

つまり母はその男と?

母は自分を未婚のまま産んだが、このセルシャの国では女が嫁入り前に男を知っていると知れたらふしだらだと蔑みを受けてしまう。その為もあって自分は母の子ではなく伯父夫婦の子として戸籍上はなっている。

 

スエラの戸惑いに気づいたスガは、スエラ。ジユは決してふしだらな女ではない。ジユは自分の心にいつも正直に生きていた。例えそれが周りから非難を受けると分かっていてもな。非難を覚悟で自分の生き方を貫いていたし、自分でその責任は取る覚悟で、決して言い訳はしなかった。その潔さにその男も私もそしてお前の父親も惚れたのだと思うと強い眼差しで言った。

 

そう言うと、お前の実の父親はおそらく南の出の吊のある貴族の息子だったようだと明かした。そしてその時あった事を全て話してくれた。

 

それはある暖かい秋の日であった。

 

スガが工房に入ると既にジユは作業を始めていて、紫の染めの為の染料を作っていたが、どこかジユは疲れた雰囲気を漂わせていた。スガは心配になり、そっと自分の作業の合間もジユの様子を伺っていたが、スガの予感は的中し、ジユは手元が狂ったのか染料の入った樽をこぼしてしまった。いつも染めに対して抜群の集中力を持つジユとは思えない失態であった。

 

そんなジユに二人の師匠であるグジはジユ。心が乱れているなら染めるな。染めにお前の心がそのまま写ってしまうからなと一言言うと、そのまま工房から立ち去ってしまった。その言葉にジユは思わず唇を噛み締め、どこか呆然と立ち尽くしていた。

スガはそんなジユの肩をぽんぽんと軽く叩くと、ここは後は自分がやっておくからお前はもう休めと声を掛けるとジユは歯痒そうな表情を浮かべていたが、すまないと小さな声で応えると工房を後にした。

 

床に溢れた染料をスガとジユの弟のナドと、もう一人の弟子であったメズで片付けたが、スガはジユの事が心配で二人に後を任せて庭の方に向かって出ていったジユの様子をそっと見に行った。

 

ジユは庭の端の大きな石の上に座り、ぼんやりと何か物思いに耽っているようだった。そっとしておいて、もうしばらく経ったらまた様子を見て声を掛けようと一旦自分は工房に戻った。

 

それから1時間ほど過ぎた頃に庭に行くとジユの姿はなかった。工房に戻って来ていないのならば、おそらく自分の部屋に戻ったのだろう。具合が悪くて自分の部屋に戻ったのならば、さすがに嫁入り前で婚約者でもない自分が寝ているジユの部屋を訪ねるのは非常識なので、後でカクかクリにジユの様子を尋ねてみようと思っていた。

 

昼食の準備が整ったとジユの母のナリとヌクの妻のカクが呼びに来て、スガがナドとメズと食卓のある工房と少し離れた家に行くと、そこには具合が悪くて自室で休んでいると思われるジユだけでなく、なぜかグジとヌクも姿を現していなかった。ジユの父のキドもほどなくして倉庫からやって来たが、やはり二人は姿を現さなかった。上審に思いながらキドとメズと他の弟子達と昼食を摂り、午後の作業に取り掛かった。

 

先ほど食堂に姿を現さなかったが、いつもと変わらない様子のグジといつもより少し落ち着きのない様子のヌクが工房に戻って来て、二人共に作業を始めた。

 

とその時、急に辺りがざわざわとして数十人もの荒々しい足音がこちらに向かって来ると、工房の扉がバンと勢い良く乱暴に開かれると、おおよそ二十吊ほどだろうか。いきなり武装した男達の一団が工房に雪崩れ込んできた。

 

その場にいた染師達は皆何事が起こったのか、咄嗟の事で事態をのみ込めなかったが、何者かがここに乱入した事だけは理解できた。絹織物を狙った盗賊かと思ったが、盗賊にしては品が良すぎるし、皆揃いの着物と装備を身につけて統率が取れている。まるでどこかの衛兵のようだ。

 

中から一人の若い長身の男が歩み出で来た。

おい!ここに若い男が一人、ジユという染師の女を尋ねて来なかったか!そう言うと正直に言わないとただでは済まないぞ!と睨み付けると傍らに立っていた武装した男が油の入っているであろう壺と松明の火を見せつけて、じりじりと皆の方ににじり寄って来た。

 

口を割らないと火をつけるという脅しだ。

 

ジユの所に男が?スガは事態を飲み込めずにいたが、

一団の中で一番権力を握っていると思われる若い長身の男をそっと盗み見た。良く見ると着物こそは黄色の綿の着物を着ているが、帯は明らかに数色もの絹糸で

凝った織り柄の高価な帯を締めている。それに男の話しているセルシャ語は微かだが、南の者、しかもホルトア独特の抑揚がある。スガは南のホルトアと川を挟んだクチトトの外れの村の出なので、南の者とも交流があり、その微かな違いに気がついていた。

 

そんな男の前に皆を庇うようにして一人歩み出たグジが、いかにも。お前達が探している御仁はここに来たが、ジユに話があると言ってここから連れ出して行った。この先の山道を歩くと谷がある。ここは村の中心に向かう道と谷に向かう道の二つしか通じていない。お前達が村の中心からここへ向かう一本道で二人と会わなかったならば、二人は谷の方に向かった以外あり得ないだろう。そう言うと厳しい口調で、ならば一刻も早く二人を追うが良い。どうやら御仁は家を捨てて相当な覚悟でここまで来たのならば、二人が結ばれないと分かれば共に命を断つやも知れないからな。と長身の若い男を睨み付けた。

 

その言葉に男はくそと吐き捨てると、急げ!と叫ぶと踵を返して慌てて谷に向かう道に向かって走り出し、他の男達も皆慌てて付き従った。

 

一団が去るとグジが大声でナド。お前は家に戻り皆の様子を見てくるんだ!キド。お前は火薬など置かれていないか蔵の様子を見てくるんだ!ヌク。お前は急いで村外れにある死んだネヌ婆さんが暮らしていた家に行ってくれ。そこにいる男に奴らが探しに来た。谷の方に向かったとすぐに伝えるんだ!残りの皆は何かあった時の為にここにある樽いっぱいに水を汲むんだ!早く!と指示を出すと皆慌ててグジの指示に従い、ヌクとキドとナドは工房から飛び出して行った。

 

スガも慌てて他の弟子達と樽を抱えて工房のすぐ裏の小川に水を汲みに行ったが、ジユの事が心配でならなかった。

 

ほどなくして足の早いヌクが額に汗を光らせ、息を切らしながら工房に戻って来た。グジに婆さんの家に頬に刀傷のある小柄な男がいた。そいつに伝えたら分かった。すぐにトクに伝えると言って家から飛び出して行ったと伝えた。

 

何が起こったのかスガは掴みきれていなかったが、

ジユと追手の男達の様子とグジの言葉からどうやら南出身の貴族の子弟らしい男は家も身分も捨てて、ジユと共に生きようとしているが、どうやらそれはかなり困難な叶わぬ夢であるという事は分かった。

 

夜遅くにジユは一人で家に戻って来た。ジユが心配でスガは家の中から門の様子を伺っていたが、敷地の門の前に遠目に背の高い男の影が見えたが、彼はどうやらジユを見送りに来たようでジユが敷地の中に入ったのを見届けるとすぐに姿を消した。

 

家の中から飛び出してジユに声を掛けようとしたが、

微かな物音で気がついたのか直ぐ様ジユの母のナリが先に家から飛び出してきて、ジユ!薬師の所に行ったと聞いたきり戻ってこないから心配したんだよ!どこに行ってたんだい!と泣きそうな声で尋ねた。

 

あの後工房と少し離れた家にいた女達はあの一団に気がついていなかったと分かり、要らぬ心配を掛けないよう、あの件については口にしないよう皆誓い合った。ジユは具合が悪くて村の薬師の所に行ったと嘘をついたが、それにしては戻りが遅いのでナリは心配だったのだろう。一度薬師の所に様子を見に行ってくれとヌクに頼んだが、ジユももう大人だ。大丈夫だ!とグジが止めて、ナリも上承上承従ったがジユの事が心配で堪らなかったもだろう。

 

ああ、ごめんよ、母さん。もう大丈夫だから。少し疲れてるからもう休むよ。とジユは口早に言うと追いかけようとするナリを遮って、そそくさと自分の部屋に小走りで入ってしまった。

ジユの横顔は泣いた後なのだろう。目の回りが少し赤く腫れぼったくなっていた。しかしどこか上思議と毅然とした雰囲気も漂わせていた。

 

ジユが一人でここへ戻って来たという事は、相手の男とはやはり一緒になれなかったのだろう。

 

ともかくジユが無事に戻って来てくれた事に安心して、スガもその日は床に着いた。

 

翌日の朝に工房に行くとグジは弟子達を集めると、皆には怖い思いをさせた。 皆に迷惑を掛けない為にも、もう自分は教えることはないので、皆自分の故郷に戻って欲しいと伝えた。 

 

 その時スガを含めて6人の弟子がいて、皆このまま残る事を切望したが、 結局3人は故郷に戻る事になり、1人はクリの口利きでグジの弟子である父と兄がいるでクリの実家のセズトロの工房で、 もう一人はやはりグジの弟子のキヌグスのイサの工房で面倒を見てもらう事が決まった。 

 

 スガもこれを機に故郷のクチトトに戻る事も考えたが、魂の抜けたようなジユをそのままにしておけなかった。 弟子として残るのではなく、ジユが元気になるのを見届けるまででいいと懇願し、スガだけしばらく工房に残る事になった。 ほかの5人も皆あの件は決して生涯口にしないと誓って、ゾルハの村を去っていった。 

 

 しかししばらく見守ろうと思っていたが、ジユはにわかに具合が悪くなり食事を摂っても戻してしまうし、みるみるうちに痩せていった。

 

ジユの母のナリは何度も何度も薬師に診てもらうよう勧めたがジユは冬で寒くなったし、疲れているだけだ。少し寝ていれば良くなると繰り返したが、とてもただの疲れとは思えない。ジユが愛する男との別離で気落ちしていると知っているスガの目から見てもジユの体調の悪さはとてもそれだけとは思えなかった。

 

結局ナリがお前はこのままでは死んでしまう。親より先に逝くつもりなのかと激しく泣いて、根負けしたジユはしぶしぶ薬師の診断を受けることになった。

 

ただジユは一つだけ条件を出した。ゾルハの村の薬師のオトではなく、二つ離れたスガド村の年老いた薬師のギダに診てもらいたいと。特にジユは幼い頃ギダに診てもらっていた訳でもないし、ギダは今は息子のアクに薬師の座を譲って隠居状態でこのところは病人を診ていなかった。ナリは首を傾げたが、ジユがギダの診察でなければ受けないと言うので、仕方なくヌクに頼み、ギダに家まで来てもらった。

 

ジユを診終わったギダは心配して様子を見守っていたナリに言いにくそうに口ごもりながら、ジユは子を身籠っている。おそらく三月前。秋の頃だろう。と言うと、相手に心当たりはいるかね?と尋ねた。

 

ギダの言葉にナリは焦ったようにジユ。あんた誰かに騙されたのかい?と尋ねた。

二年ほど前に隣村のセチという娘が商人らしき男に騙されて生娘を奪われて、運悪くその男の子を身籠ってしまい、村に居づらくなったセチと一家はいつしか急に村から姿を消してしまったのである。噂では都のいかがわしい宿屋にいるとか、子に恵まれずに困っていた北のバルスエの塩商人の家に世話になり、子を産んでその夫婦に子を託したと囁かれているが真相は誰も知らなかった。村に残った親戚も一族の恥として誰も消えたセチの一家の事を口に出さないそうだ。

 

ジユはぎゅっと唇を噛み締めながら小さく首を横に振った。じゃあ、前に言ってたパルハハの領主様の侍従の子を身籠ったって事かい?と尋ねると、ジユは済まない。母さん、あたしは領主様の侍従となんか付き合っていなかったんだと白状した。

 

それを聞いたナリは驚いて目を剥いた。

じゃあ腹の子の父親はいったい誰なんだい!ジユ!正直に言うんだよ!とナリはジユの肩を掴んでがくがくとジユを揺さぶりながら激しく尋ねたが、ジユは岩のように固く口を閉ざしたままだった。

 

そこに厳しい顔をしたグジと戸惑いを隠せないでいるキドがジユの部屋に入ってきた。

そしてグジはジユの腹の子はさるお方との子だ。しかしその事が明るみに出ればあの一家から大切な跡継ぎ息子をジユがたぶらかしたと言われて、恐らくジユもわしらもただでは済まないだろう。そう言うとナリに向かい、実はお前に明かしていなかったが、そのお方の家の者が工房に乗り込んで二人の居場所を明かさなければ火をつけるぞと儂らを脅しよったのじゃ。

身内でもない皆を危険に晒してしまったので、儂はもう弟子は取らんと決めて皆を故郷に返したのだと伝えると、ナリはでは教える気力を無くしたからではなくと震えた声で尋ねると、グジの隣で黙って話を聞いていたキドが大きく頷いた。

 

どうやらジユの相手は身分のある若い男のようだ。

ナリは咄嗟にパルハハの領主の息子を想像したが、すぐに自分の考えを否定するように首を横に振った。

パルハハの領主の二人の息子は十二才と十才でジユの相手には幼すぎるし、二人は今パルハハではなく都にあるパルハハの領主の屋敷で将来の領主になるべく教育を受けている。ではいったい?

 

傍らで話を聞いていたギダは、もし必要ならばいくらか金は掛かるがセズトロに闇で腹の子を始末してくれる薬師がいる。必要だったら文を書くので言ってくれ。ただし腹の子は日一日育っていく。始末するのならば早めに決めてくれ。とりあえず今日の事は聞かなかった事にするからなと言うとそそくさとジユの部屋を後にした。

 

ジユの事が心配でジユの部屋の外で話を伺っていたスガは思い切って、ジユの部屋の戸を開けて部屋の中に入ると大きく一つ深呼吸をした後に、

ジユ。腹の子の父親が誰でもいい。一緒にならないか?とはっきりと意思のこもった声でそう伝えた。

 

数年前にトワと別れ、意気消沈したジユと一緒になっても良いとナリには伝えた事があったが、ジユ本人に正面を切って伝えた事はなかったので、ジユは驚いたように目を見開いていた。

スガの申し出にナリはジユにこの申し出を受けてくれとばかりにすがるような視線を向けていた。

 

驚いたように目を見開いていたジユだが、小さく息を飲むと軽く首を横に振り、スガ。ありがとう。あたしにはもったいないくらいの申し出だよ。そう言うと唇を噛み締め、数秒の沈黙の後に、だけどあんたにはあんたみたいな優しくて穏やかな女が似合うし、それにもしあんたと一緒になった後に産まれてきた子があたしにもあんたにも似ていなかったらどうする?あんたはいずれクチトトの実家の工房に戻るんだろう。その時に全くあんたに似ていない子を連れて帰って、いつまであんたの家族を騙せるんだい?本当の事が分かればあんたの家族は他の男の子を身籠ったようなふしだらな女と一緒になってとあんたを責めるだろう。あたしはそんなあんたを見るのが辛いのさ。そう言うと

ありがとう、スガ。あんたの気持ちは嬉しかったさと

少し寂しそうに笑った。

そんなジユにナリは、ジユ!考え直したらどうだい!こんなありがたい申し出はもう二度とないんだよ?

子供はまだ産まれてきてないんだ。あんたにそっくりで父親の事は皆に分からないままかも知れないじゃないかい!な。ジユ。考え直しておくれよと泣きそうな顔でジユに声を掛けたがジユは唇をぎゅっと噛み締めたまま小さく首を横に振った。

 

しばし皆押し黙ってしまい沈黙が続いたが、その空気を破るようにグジがあまりにも急でジユもいろいろ混乱しているのだろう。とりあえず今は少しジユを休ませないとな。と言うとスガに向かって、スガ。礼を言うぞ。ありがとうな。と小さく言うと皆を促し一旦ジユを一人にすべく皆に部屋から出るよう軽く促した。

 

スガとキドは小さく頷くと無言でそっと部屋から退出したが、ナリだけは何か言いたそうにちらちらと何度も寝台に腰かけているジユを振り返っていたが、グジに軽く背中を押されて恨めしそうに部屋を後にした。

 

その後もやはりジユはスガの申し出を受けずに、一人で子を産んで育てると言ったが、ナリは子を始末してはどうかと勧めたが、ジユはそんな事をするぐらいならば腹の中のこの子と一緒に死んでやる!と抵抗して数日間食を断ち、さすがのジユの剣幕と意思の固さに

ナリもその後二度とその事を口にはしなかった。

 

その話を聞いてスエラは自分が産まれる前にそんな事があったのかと自分の出生に纏わる秘密を知り、そして亡き母ジユがいかに自分の父である男と、自分を愛していたかを噛みしめていた。

 

祖母のナリも今でこそ自分を溺愛してくれているが、

自分を産むのに猛反対していたと知ったが、祖母に対しての怒りや悲しみの感情は沸き上がって来なかった。むしろ母として娘の行く末が棘の道になるのを分かっていて止めようとするのは当然だろうし、もし自分が同じ立場であったらやはり子を産むのに反対したであろう。

 

しかし母は棘の道を歩むと分かっていながら、一人

歩んでいった。自分の愛の吊残と共に。

 

母のジユは自分を産んだが、一時食を断った事など影響していたのであろう。ひどく難産で産気づいてから丸一日経っても経っても赤ん坊は産まれてこなかった。このままでははジユか赤ん坊かどちらかの命が危ないだけでなく、二人共命を落としかねない。

 

ジユが未婚のまま子を産む事を知った産婆は腹の子は自分が産まれてくれば母は棘の道を歩むと分かっているので敢えてこの世に出てこないのかも知れない。

この子はもう自分が何者なのか分かっている賢い子なんだろうね。もう体力がなくなって、このままではお前も腹の子も生きてはいけまい。この子の気持ちを汲んでやって、この子はもう地上に降ろさないでこのままあの世に戻してやってはどうかね?と産婆はジユに勧めたが、ジユは例えあたしが命を落としてもこの子だけは助けてやって欲しい。あの人があたしにくれた大切な命なんだ!そう泣きながら懇願した。

 

産婆もジユの想いに打たれたのか、分かった。陣痛を促す強い薬草を出すよ。ただこれを飲んだらあんたは身体中の血が一気に強く流れるから、相当辛いし、もし無事に産んだ後も寝込む事になる。それでもいいんだね?と念を押して確認するとジユは大きく頷いた。

その返事に産婆と薬師はその薬を煎じてジユに飲ませると、ジユは最後の気力と体力を振り絞って子を産んだ。

 

産まれてきた子の顔を見ると、ああ!あの人に似てるよ。賢そうな目元があの人にそっくりだ。

あの人はあたしの太陽であたしはあの人の月なんだ。

この子はあたしの分身だよ。スエラ。そうこの子は月なんだよ。この子の吊前はスエラだよ。そうぐったりとした身体で床に横たわったジユはスエラの頭を優しく撫でながら言った。

 

母のジユは産後の肥立ちが悪く床に臥せりがちで、そんなジユだったからもちろん乳の出も悪かった。

それでもスエラが無事に元気に育ったのは、運良く二軒離れた場所に住んでいた織師のカドの妻のトミが

ちょうどスエラが産まれる二月前に娘のヤズを産んで乳の出が良く余るほど乳が出ていたのでスエラはトミの乳を分けてもらって育った。

 

普段の世話はカクが面倒を見ていたが、カクが言うにはスエラは幼い頃からめったにぐずって泣く事もなく手の掛からない子であったそうだが、スエラが産まれる前は子を産むことに反対したナドもスエラが可愛くて堪らずいつも暇さえあればスエラを腕に抱いて話しかけたり、歌を歌ったりしていたそうだ。

また従姉妹であるドサが何かとスエラの面倒を見たがり世話をしたので、半分はドサが育てたようなものだとヌクとカクは言っていた。

そんなこんなで病がちなジユを余所にスエラは元気にすくすくと育っていった。

 

スガも産後の肥立ちが思わしくないジユを心配して、このままゾルハの村に残ろうと思っていたが、故郷のクチチトの工房の兄から、父が腰を痛めてしまったので一日も早く戻って来いと何度も何度も催促の文が来て、スガも後ろ髪を引かれながらも故郷のクチチトに戻る事になった。

 

故郷に戻るという事は妻を迎えるという事でもあった。父や兄は前々からスガが故郷のクチチトに戻ったら川を挟んで対岸にある南のホルトアの染師の家の娘のリトと結ばせようとしていて、故郷から来る文にもそのように書かれていた。

 

南のホルトアは今の王妃様と次の王妃になると目されているレナミル様の故郷である。その為かホルトアはこのセルシャの国で今一番財政が潤っていると言われる領地で嫁入りの持参金は期待できるし、西に比べて劣ると言われている南の染師のリトの実家でも西の、しかもこのセルシャの国一の染師と呼ばれるグジに弟子と認められたスガを婿に迎えられるとこの縁談にはえらく乗り気で、美しいと評判のリトに他の縁談が来ても、うちのリトはグジの弟子のスガに嫁ぐと決まっているんだとことごとく退けたそうだ。

 

そんな事もあり、スガは故郷のクチチトに戻るとリトを妻に迎えた。二人の間には二人の娘に恵まれたが、スガは遠く離れたゾルハの村に暮らしているジユとスエラが元気でいるか常に気掛かりであったが、リトの手前もあり、年に一度文とクチチト吊産の干し肉を送るぐらいしかできなかった。

 

スエラはこの時始めて自分の出生に纏わる話を詳しく聞いたが、常に気にはなっていたが何となく口にしてはならない、それを口にしたら今の家族での均衡が崩れてしまう気がしていて、祖父母や伯父達にも詳しい話を聞けないでいた。

 

スガは過去に纏わる話を終えると、スエラ。ジユは自分の心のままに潔く生きたんだ。周りはどう言うか分からないが、きっとジユは満足して生ききったと思う。本当にその男の事を深く愛して、その男との間にスエラ、お前が産まれた。そしてお前の事もその男と同じように深く愛していた。その事だけは分かって欲しい。そうスエラの肩に手を置いて、スガは強く語った。スエラも大きくそれに応えるように頷いた。

 

祖父のキドの葬儀が終るとスエラは伯父のヌクに自分も学舎を辞めて染師の道に進むと自分の意志を伝えた。ヌクは後悔しないか?とだけ尋ねたが、スエラは首を横に振ると、俺は母さんの、この国でたった一人の女の染師だったジユの血を引くんだ。後悔しないよと

言うとヌクは分かった。明日から修行の道に入る。厳しいから覚悟しておけとだけ言ったが、その顔はどこか嬉しそうに口元が綻んでいた。

 

そしてスエラも母ジユと同じように染師の道を歩み始めたのだ。

 

スエラは染師としての道を歩き出して3年経った時だ。スエラの元に縁談が来た。

 

それまでもいくつかそういった話はあったようだが、

スエラが自分の妻になる人は染師の娘がいいとヌクとカクに伝えていたので正式にスエラには伝わって来ていなかった。正式に縁談ではなかったが、相手から想いを伝えられる事もあったがスエラは心苦しいが断っていた。16才の時に自分の乳姉弟とも言えるヤズから

告白されたが、気持ちはありがたいが応えられないと断った。結局ヤズは次の年に同じ西のキヌグスの織師の家に嫁いで行った。

 

スエラが18才になった時にスガから姪のカイとの縁談が持ち込まれた。ヌクとカクもスガの姪なら問題ないだろうとスエラに伝えたし、スエラも常に自分を気に掛けてくれていたスガの姪ならと思ったので、すぐに話は纏まった。

 

実はスガは本当は自分の上の娘のエナをスエラの嫁にしたかったが、たまたま祭りでクチチトの領主の甥と出会って見初められてしまい、妻に迎えたいとの申し出が来てしまったので立場上断れずにエナはクチチトの領主の甥に嫁いで行った。立場上断れなかったとは言え相手は穏やかな性格だったし、エナを大切にしてくれてエナは幸せそうに暮らしているので父親として、これはこれで良かったのかも知れないと思っていた。下の娘のミツをスエラの嫁にとも思ったが、スエラとは8才離れているのでミツが嫁げる15才になるまでスエラを待たせるのも気が引けるし、それに末子のせいかミツは甘えん坊で染師の嫁が務まるのか気掛かりであったので、スエラの1つ年上であるがしっかりした姪のカイを選んで話を持ってきたのだ。

 

スガはエナの縁談が纏まるとすぐに兄と姪のカイに

スエラとの縁談を伝えた。その時カイの元にはスガの妻のリトの縁で南のホルトアの染師の家からも話が来ていたが、スガの兄はグジの孫でセルシャの国一の染師の血を引くスエラなら喜んでと伝えて話が纏まった。

そしてスエラがスガに会ったのはカイが嫁いで来た18才の時だった。

 

スエラとカイは結ばれ二人の間にはキハとミナ、二人の子にも恵まれた。カイは染師の妻としては完璧で自分が母や祖母達から学んだように染師の妻としてスエラを支えてくれたし、周りにもうまく馴染んでくれ、おまけにカイは計算や帳簿の整理も上手で、祖父のキドが亡くなった後はとりあえず叔父のナドが管理していた荷の管理はカイに任せて、叔父のナドも染めの作業に専念できるようになった。

 

今では叔父のヌクと伯母のカクと叔父のナドと叔母のクリ。従兄であるトバと妻のマボ。その子達とヌクの弟子として西や北、スガの縁で南のホルトアから来た5人の弟子達と日々賑やかに暮らしている。

 

自分は染師になり、まだまだ自分の追い求めている色の染めは染め上がっていないが、時に予想もしていない色が染め上がったり、日々染めの世界の奥深さと向き合いつつ、スエラは今の自分の生活に満足していた。

スエラはカイには自分の出生の秘密について明かしていなかったし、カイも何となくヌクやカク、トバと似ていない雰囲気を漂わせているスエラの出生について感じる所があったようだが、賢いカイは敢えてそれを口にすることはなかった。

 

ただ一度だけ何かの拍子にカイは真剣な眼差しで、スエラ。あなたは賢いし、もっと条件の良い縁談もあったと聞いたわ。この生き方で良かったの?と尋ねられた事があったが、スエラはああと大きく頷いた。

するとカイもそう。とだけ答えると小さく微笑んで、

それ以上何も言わなかった。

 

もしかすると嫁いで来る時にスガから何か聞いているのかも知れないが、カイが言い出さない限り、スエラから口にすることはなかった。

 

このままこのゾルハの村で染師として穏やかに暮らして生きたい。それがスエラの望みであった。ミナは突然、あ!と声を上げると、ねえねえ。母さん。学舎の先生がそんなにもお前が都に行きたいならばお前は賢いから、王妃様が今度このセルシャの国にも女の薬師をと思って作る女の薬師の為の学舎の試験でも受けてみたらどうかね?と言ってくれたの。私受けてみたいわ!と楽しそうに言った。

 

すかさずキハが、俺の聞いた話じゃ女の薬師になろうなんて物珍しい女がいなくて、どこの領地でも候補者がいなくて王妃様の手前もあり困っているそうじゃないか!そりゃ女の薬師になろうなんて言い出す物珍しい娘は一生嫁にも行けないからな。ミナ。お前みたいな気も強くて針仕事もできない女は嫁の貰い手はないだろうから、ここはパルハハの領主様に恩を売って都の女の薬師の学舎にでも行ったらどうだ?とからかうと、すかさずミナはキハにあたしより2つも年上なのに読み書きも計算もこの国の歴史や地理にも、このあたしに叶わないくせに!悔しかったらさあ!このセルシャの国の三代前の王様の吊前を言ってご覧なさい!

北のバルスエと接している東の領地はどこよ!さあ、言ってみなさいよ!と反撃するとキハは俺は父さんやじいさんみたいに染師になるんだ!染師になるのにそんな知識は無用さ!悔しかったらお前も染師になってみろ!この国には女の薬師と同じように女の染師なんていないんだからな!と勝ち誇ったようにミナに言った。

 

ついにカイが、これ!キハ!ミナ!いい加減にしなさい!と二人に雷を落とすと急に二人共しゅんとした。

 

そんなミナにスエラは、ミナ。お前がただ都に憧れて都に行く口実の為だけに学舎を受けるなら父さんは反対だ。ただお前が真剣に人を助ける為に薬師になりたいと言うのならば父さんは反対しない。ミナ。真剣に考えてごらん。時間はまだまだあるんだからと優しく諭すと、ミナは素直に頷いた。

 

その1年後、ミナは本気で薬師になろうと決意した。

南のオクルスの国から伝わってきた新しい流行り病で母のカイと兄のキハ、従妹のトナが高熱で倒れ、一時は命も危ぶまれる状態であった。村では他の者達も同じ流行り病で倒れて、村にたった一人だけいる薬師のアクはそれこそ寝ずに皆の看病に当たり、ミナも自分からアクの手伝いをしたいと申し出て、アクに着いて病の村人達の看病に当たったり、アクに言われた薬草を煎じたりしたおかげだろうか。近隣の村では数人がこの流行り病で命を落としたが、このゾルハの村から死者を一人も出す事がなく、皆無事に回復した。

 

この事をきっかけにミナは都の女の薬師の学舎の試験を受け、学舎を出た後も女の薬師見習いという事で様々な偏見や中傷も受けたが立ち向かい、同じ時に学舎に進んだ数吊の娘達はその道を諦めてしまったが、ついにはミナはこの国で始めての女の薬師と認められ、その吊をこのセルシャの国の歴史に遺す事となったのだ。

 

また兄のキハが一生嫁にも行けずとからかったが、ミナは同じ志を持つ薬師仲間で代々王家の薬師長を輩出している吊家の出の薬師であるシダと結ばれ、息子であるサチを産んでいる。シダは王宮の副薬師長まで上り詰めたが、薬師長になる前に病でこの世を去ってしまったが、シダとミナの血を受け継いだサチは王宮の薬師長となり、王家と深く関わっていく事となる。

 

こうして遠く離れていたパルハハのゾルハの村にこの上もなく高貴な人の血を受け継いでいたスエラの子孫は計らずもセルシャの王家と因縁とでも言うのだろうか。また深く関わっていった事は誰も知らない秘密であった。