町田 千春 著 |
刺繍師 その7 TOP |
あのカイの手に渡った副衛兵長の制服の刺繍には自分の髪の毛は埋め込まれていない?
にわかにトナはナトラスのことばが信じられなかった。なぜならトナ自身が刺繍に髪の毛を埋め込んで刺繍したのだ。埋め込まれていないはずがない。
そんなトナにナトラスは、トナ。私を誰だと思っている。私は元刺繍侍女で今は王様の妃だ。私は居ても立ってもいられなくなって裏で手を回したのだ。今回の衛兵の制服の最後の仕上がりの確認は私がしたのだ。その時にカイの制服の刺繍に埋め込まれていたお前の髪の毛は私が除いて、刺繍し直したのだ。そうナトラスは秘密を明かした。
トナは思わず驚いて目を見張ってしまった。
そんなトナに、お前は任命式の二日前に刺繍を完成させてアギに渡した。刺繍侍女が刺した物は刺繍侍女長か副侍女長がが仕上がりを確認して問題がなければそれぞれの者の手元に渡るが、今回はアギに今回の制服は元刺繍侍女であったそなたが確認するようにと王様からお話があったと言って私が預かったのだ。
もしお前が刺繍に髪の毛を埋め込むとすれば心の臓のある左の胸の所だろう。さすればクナクスの紋章の星の部分であろうと私は気がついた。トナ。お前と私は似ているだけあって考えることは同じようだ。なので私は部屋に誰も近づけずお前の刺した刺繍の部分をほどいてみたのだ。予想通りに星の部分にお前の髪の毛が埋め込まれていた。私は髪の毛を取り除いて刺繍を刺し直したのだ。私の刺繍の腕を侮るのではない。アギが次の刺繍師にと考えていたのだぞ。すぐその部分だけ刺し直すなどいとも容易い事だ。
そうナトラスは今回の件に纏わるすべてをトナに打ち明けた。
アギからお前が王宮を気病で急に去ると聞いてなぜトナは気病に掛かったのか、王宮を去らねばならぬほど悪化したのか。お前は刺繍侍女長として今までいったい何をしていたのだと問い詰めたらアギは恐らく気病の原因はカイという衛兵の事でしょう。トナはあの者の事を好いておりましたから。カイの任命式の後から急にトナは何やら様子が変わってしまい、どうやらカイとは何かあったようです。その辺りの事情は私よりナトラス様の方がご存じでは?今や王宮の全てはナトラス様の物ですから。
今回急にカイが抜擢されてマルメルの国に赴いたのは王様のお考えでしょうか?それともただの偶然でしょうか。そもそも今回のカイの抜擢も私にはナトラス様のご意志が含まれているような気がしてなりませんと言うと、深く腰を屈めて、ナトラス様。差し出がましいとはお思いでしょうが、かつてナトラス様の上に立って指導した身として一つ申し上げさせて頂きます。
その気迫にナトラスは言ってみよ。と促すと、ナトラス様。今あなた様は王妃様の称号こそございませんが王宮の誰もが、そして何より王様はあなた様をこの国の王妃様とお思いです。ご自分お一人の感情に振り回されてはなりません。あなた様が願えば周りを動かす力をお持ちなのです。今のあなた様にはそれだけの力があるのです。それ故にあなた様は広い視野で周りを良く見て、周りの者の声に耳を傾け、そして王妃様として皆の為に何が一番良いのか、冷静になってお考えになってお振る舞い下さいませ。
あなた様は今は王様に愛し愛されるお役目だけではなく、王妃様として人の上に立つ者として皆を正しく導き見守るのお役目があるのでございます、ナトラス様。 そう言うと
そう私はアギに諭されたのだ。アギは昔からいつも私に正しい事を教えてくれていたのだ。そう懐かしそうに優しく微笑んだ。アギが常にナトラスが王様の妃になってからも秘かに気にかけていたように、ナトラスもアギの事を立場が変わってもずっと影で慕っていたのだ。そうトナにははっきりと感じられた。
ナトラスはアギとトク。私は言わば二人の刺繍師に助けられ、支えられ、そしてどのように生きていくのか教えられたようなものだ。無論あの者達はいつもは黙って見守っていて必要な時は力を貸してくれていた。
トナ。お前は真っ直ぐな心の持ち主だ。そんなお前ならアギやトクのような皆を正しく見守り、導ける刺繍師になれると私は思っているのだ。カイがお前を好いたのは不思議な刺繍の力ではなく、そんなお前の人柄をカイは見抜いていてお前に惚れたのだと私は思っているのだ。
そう言うと出来る事ならば王様にお願いして何としてもカイにこのセルシャの国に戻ってきてもらい、マルメルの国の語師の娘との婚姻の話はなかった事にしてお前と一緒になってもらいたいのだが、さすれば今良好な関係を保っているマルメルの国との関係が拗れてしまうかも知れないとナトラスは顔を曇らせるとそう思うとずっと王様にその事を願い出られなかったのだ。と済まなそうな視線をトナに向けた。
今日北の領主の奥方達を王宮に招いたのも、今回の件で何か私が知らない話を聞いていないか、力になって貰えないかと考えたからだ。北の領主の奥方達はマルメルの国と縁続きの者も多いし、マルメルとは何かと交流がある。そう思ったのだとナトラスは明かした。
トナとてそれは分かる。マルメルの国と関係が拗れれば今は均衡を保っているオクルスの国との関係にも悪影響が出てくるだろうし、もしナトラスが願い出れば王様は何としてもナトラスの為にその願いを叶えようとするだろうが、それはこのセルシャの国の為にはならない。ナトラスへの想いと王としてセルシャの国にとって最善の道を選ぶ。その板挟みで王様を苦しめてしまうとナトラス自身が一番分かっているので、それ故に願い出られなかったのだろう。
思わずトナはナトラス様。お気持ちは分かります。アギ様の仰られるように今はナトラス様は影の王妃様なのです。私一人の事を考えるのではなく、このセルシャの国にとって何が一番為になるのかをお考えくださいと言うと、ナトラスはそうか、トナ。と大きく頷くとカイがマルメルの国から戻って来ない以上、お前にはこの王宮に残って次の刺繍師になって欲しいと私は思っているのだ。そうナトラスは自分の気持ちをトナに明かした。
カイの事が原因で気病になってしまったのならば、お前は何一つ後ろめたい事はしていないので気に病む事はないし、必要ならば気病が良くなるようどんな治療も受けさせよう。そう告げると、しかし刺繍師になって欲しいというのは私の願いだ。アギの言ったようにお前の人生はお前のものだ。そうナトラスは優しく微笑んだ。
今回の事は全てお前に明かした。今ならまだ間に合う。全てを知った上でもトナ、お前はこの王宮を去りたいと思うか?そうナトラスはトナに問うてきた。
トナはナトラス様、ナトラス様のお気持ちは嬉しいのですが、わたしは次の刺繍師にはわたしよりアラの方がふさわしいと気がついてしまったのです。
いいえ、刺繍師と言うより刺繍侍女長として皆を導き見守り、支えるのはアラの方がふさわしいのです。そう気がついた以上、わたしは産まれ育ったタスカナとこの王宮以外を知りません。ナトラス様がご自身でこの王宮がご自分の生きる場所だと気がつかれたようにわたしもわたしの生きる場所はどこなのか知りたいのです。そうアギに伝えた時と変わらない想いを伝えた。
最近はいろいろ身の回りに大きな出来事が起こり過ぎていたのでその想いは心の片隅にずっと置いてあったが、実際トナがこの王宮に上がって自分は本当に狭いタスカナのことしか知らなかったのだと日々つくづく感じていたのだ。アラとカイの出身の北やジハの出身である南、アギやクハの生まれ育った西、自分の出身と同じ東でも隣の領地であるザルドドやザルハスについてもほとんど知らなかったし、幼い頃に学舎で学んだこの国の事はほんの一部に過ぎず、この王宮で出会った人達から伝えられた話に驚き、笑い、そしてまだ見ぬその土地に思いを馳せていた。またそこに暮らす人々にも同じように思いを馳せていた。
ナトラスはそんなトナにそうか。お前がそう思ってしまったのならば仕方ないな。と言うと王様と私の御代には刺繍師の刺繍の力を借りる事はないだろう。それならば刺繍師としての役目を果たしてくれる者よりも日々刺繍侍女長としての勤めを果たしてくれる者を選んだ方が皆の為になるのだな。そうトナに笑顔を向けてくれた。
思わずトナはナトラス様は元の王家の血を引く王子様を産んで王座を継がせたいという願いを刺繍師に託されないのですか?と疑問に思っていた事を尋ねるとナトラスは優しく笑いながら、トナ。刺繍師の事は王様と王妃様だけが知る秘密なのだ。私は正式には王妃ではないし、王様もお二人に秘密を明かせば混乱が生じるとお分かりでこの秘密は明かしていないし、これからも明かすおつもりはないそうだ。
それに私も王様も、もしこの後二人の間に王子が産まれたら、それはそれで運命だし、もし王子に恵まれなくてもそれはそれで私達の運命なのだと分かっておる。なので刺繍師の力を借りずに私達は共に生きていこうと思っているのだ。
そう全てを明かしてくれた。
そんなトナにナトラスはお前の気持ちは全て聞いた。ならば私のする事はお前の生きたいようにさせてやる事なのだなと言うと、静かに椅子から立つと自ら部屋の隅の飾り棚の上から美しい飾りの箱を手に取ると、トナと自分の前にある大きな机の上に置くと蓋を開けた。
中からは美しい薄紫の文紙と筆と墨が出てきた。ナトラスは何やらさらさらと筆を走らせると、最後に箱の奥にある印を文紙に押すと文を畳んでトナに手渡した。そしてこう告げたのだ。
トナ。私からのお前への餞別だ。持って行くが良い。
トナが慌てて文に目を通すとそこには、このタスカナのオリズの出のトナは王宮の刺繍侍女として役目を果たしてくれた。この度病で一旦王宮を離れて治療を受ける為に王宮の外に出る事を認める。もしこの者が各領地に来て助けを求めた際は必ず力になるように。そして病が癒えて、もしまた王宮に戻り刺繍侍女として仕えたいと望む場合はそれを許可する。そう記され、ナトラスの署名と印が押されていた。
これは。と驚くトナにナトラスはこれを持っていればこのセルシャの国のどこにいても何か困った事があった時はこの文を領主や村を治めている者に見せるが良い。きっとお前の役に立つはずだ。私の署名がある。アギから今の私には力があると言われたが、トナ。お前が本当に必要な時にこれを使うが良い。私の力は何かあった時にお前を支える為に使われるのだ。
トナ、せめてこれぐらいの事は今回の償いとしてお前の為にさせて欲しい。そしてもしお前がこのセルシャの国のいろいろな所に行って何かを見て感じて、やはり自分が生きる場所は王宮だと思ったのならば戻って来て欲しい。その機会をお前に与えよう。
ただお前が自分の生きる場合が他に見つかったのならばただ一つ願いがある。その地でお前らしく幸せに暮らして欲しい。そしてお前が共に生きたいと思う者と巡り会えるようにとそう心から願っておる。
そうナトラスはトナに笑顔を向けた。トナが今まで見たナトラスの姿で一番美しく、その表情は輝いていた。
トナはナトラスからの文を大事そうに懐深くにしまうとナトラスに深く一礼してナトラスの部屋を辞した。
ナトラスもそれ以上は何も言わなかった。もしまた二人が王宮で再会すればそれはトナが選んだトナの生き方だし、もし二度と会えなかったとしても、それはそれでトナは別の人生を選んだという事だ。
ナトラスの館を出た途端、ふいにトナは力強い腕に引っ張られ、その強い力の先を見るとそこには怒ったような、そして泣きそうな表情のアラが手にトナがアラの部屋に置いてきた刺繍の布を握り締めて立っていたのだ。
アラはトナをナトラスの館の側の木陰に周りに気づかれないよう強い力で引っ張った。
トナ!どこに行こうとしていたの!あたしやみんなに黙って王宮を去ろうとしていたのね!これで二度目ね!あの時はカイが気がついて引き留めてくれたけれど、今度は私があんたを引き留める番ね。あんたが急に具合が悪いと言って休むなんておかしいと思って、アギ様にみんなの目を避けてこっそりと尋ねたらトナの部屋に行くが良いとだけ言うじゃない。急いであんたの部屋に行ったらジハ宛の文と私の部屋にはこの刺繍が置いてあるじゃない!
慌ててあんたが行くなら故郷のタスカナに通じてる東門だと思って追いかけようと東門に行ったらナトラス様付の侍女もそこにいたのよ。それで話を聞いたら運良くまだあんたは王宮の外に出ていないで、ナトラス様の館にいると聞いたのよ。ナトラス様はあんたが黙って王宮を去らないように急いで若い侍女が通ろうとしたら必ず一度止めて、ナトラス様付のあんたの顔を知っている侍女に顔を改めてさせるようにと各門の衛兵に命じていて、あんたが見つかったから、その命を取り下げに使いの侍女を送っていて、そこであたしの事も知ってた侍女から話を聞けたのよ!
そう怒ったようにまくし立てた。 どうして急に王宮を去る事にしたの?あんたの病はあたしとカイが想い合ってるからあんたは恋に破れて、それであんたがナトラス様にカイの顔を見るのが辛いからしばらく顔を合わせないようにしてもらいたいと願い出たら、ナトラス様がマルメルの国へ遣わす一員に急にカイを加えてマルメルの国に行ったけれど、マルメルの国で急にあんな話が持ち上がってカイは戻って来られなくなってしまってあんたはあたしとカイに済まない事をしたと悔やんで、気病になってしまったと言うじゃない!
自分の知らないところでそんな話になっていたのか!この王宮ではあること、ないことさまざまな噂が飛び交っているが、まさかあの狭い刺繍室の中でも自分が知らないうちにそんな話になっていたのか。トナは思わず笑ってしまった。
そんなトナの様子にアラの方が驚いて違うの?と真剣な表情で尋ねてきた。
トナはゆっくり首を横に振って否定するとアラはばつが悪そうに遠回しに私の耳にはそう伝わってきていたのよ。
あんたがカイの制服の為に刺した刺繍があまりに見事なんでみんなあれは王命だからだけじゃない。トナはカイの事が好きだからだわと囁いてたし、あたしもあの刺繍を見た時にそう感じたの。そうアラは明かし、トナは思わず苦笑してしまった。さすが皆選ばれて刺繍侍女になっただけある。刺繍を見ただけで自分のカイへの恋心が分かってしまったのか。それだけ自分はカイへの想いを込めて刺繍を刺していたのか。トナはアラのことばで改めて自分のカイへの想いに気づかされた。
それにあんたと仕立侍女のクチが食堂でカイの事を話をしていてクチが恋文を書いたらカイに渡してあげると言ってたのを仕立侍女のマズがこっそり聞いてて、それが刺繍侍女の誰かに伝わったそうなのとアラは明かした。クチは口が固いのでクチから話が漏れたとは思っていなかったが、あの時は小声で話していたし、まさかマズに聞かれているとも、そしてその話が刺繍侍女にも伝わっているとは夢にも思わなかった。 つくづく王宮とは不思議な場所で、自分は良くこの不思議な場所で他の人が知らないいくつものあんな大きな秘密を知ってしまっていたのだなとトナは心の中で苦笑いしてしまっていた。 それにトナは先ほどナトラスからカイがマルメルの国に遣わされたのは、ナトラスの意思とは無関係で王様は自分が王座を退いた後に王となるはずの二人の息子のどちらにも自分が王座とは無関係な薬師のガクから様々な事を教えてもらったように教育係の者だけではなく、違う立場からいろいろな事を兄のように教えてくれる者を側に置きたいという思いから、人望に優れて今回抜擢された若い優秀な二人に更に見聞を広げてもらい、帰国したらそれぞれの王子の側に仕えさせようと思って使節の一員に加えたと明かされていた。 それがこんな話に繋がっていたのか。確かに自分は周りからナトラスに特別可愛がられていると思われているようで、カイから贈られた髪飾りをモロタリの商人の男はトナが自分で注文したことにしていたが、部屋に戻った後に真剣な表情をしたジハから、今回の髪飾りはナトラス様から褒美として秘かに大金を貰ったから頼んだじゃないわよね。それか本当はこの髪飾りはナトラス様からの賜り物なの?トナ。誰にも言わないから本当の事を教えてと詰め寄られたのを思い出した。 全く全てが笑ってしまうくらい尾ひれが付いて話が広がっていたようだ。 トナはアラに正直に今回の事を全て打ち明けた。自分もカイを好きになった事、ナトラスから刺繍の力でカイを自分に振り向かせる方法を教わった事、アラがカイの手巾に刺繍を刺しているのを見て嫉妬に駆られてナトラスから教えられた刺繍を刺してしまった事、任命式でのカイの様子、カイが文と髪飾りを旅の途中で贈ってくれた事、クハの姿を見て後悔した事、アギには刺繍の力を使って後悔しているのを見破られて本当は病ではないが薬師の元に通っていた事、そしてアラがミブに秘かに刺繍を教えていたのを見て次の刺繍師は自分ではなくアラだと思い王宮を去る決意をした事。 その間アラは黙ってトナの話を聞いていた。 話を聞き終わるとアラはトナ。あんたが次の刺繍師はあたしだって思ったのは分かったわ。 アギ様はあんたに三つの道があると言ったけれど、王宮に残って刺繍師の道を選ばなかったから、もう一つの王宮を去る道を選んだの?でもこの王宮に残ってカイがマルメルの国から戻って来るのを待つことだってできるじゃない?そうアラは強くトナに言った。 そして少し悲しい目をして、あたしは実はあんたとカイが想い合ってるって前から知ってたのよ。そう呟いたので思わずトナはアラをじっと見つめ返してしまった。 そんなトナにアラはあたしカイの事が好きだったのよ。いいえ今も好きよ。だけどカイの気持ちはあんたにとっくに向けられてたのよ、トナ。カイはあんたと始めて東門で出会ってあんたを刺繍侍女の棟に送り届けるまでの間に恋に落ちていたのよ、トナ。 そう言うとアラはトナに打ち明けていなかったカイとの話をしてくれたのだ。
カイは偶然あんたに出会ったわ。その娘が自分の死んだ親友と同じ名前で驚いたそうよ。カイはこの王宮に上がってから同じトナという名の人に出会わなかったそうなの。そう言った。
そしてアラは悲しそうな目をすると、それにね。トナ。あんたとカイが出会ったあの日はちょうどトナが海に出て戻らなかった日だったのよ。そう呟いた。
親友の命日だったのか!トナはまるで運命の糸が絡み合ったような不思議な縁を感じた。会った事もない、今は北の海の底で眠っているもう一人のトナが自分とカイを引き合わせてくれた。そんな気がした。
カイは王宮に上がってから亡くなったトナの母さんに毎月給金の一部を送っていたのよ。亡くなった息子の代わりに生活を支えてあげる為にね。トナの父さんはもう亡くなっていて残っているのは母さんだけなの。それが最近めっきり身体が弱っていると自分の故郷の母さんから伝え聞いたそうよ。
カイはあの日任務だったから死んだトナの事を偲んで夜空を見上げていたの。クナクスの紋章にもある星を見上げてトナの事を思い出していたんだって。自分は本当はこの王宮にいるのではなく、クナクスに残るべきだったのではないだろうかと想いを馳せていたそうなの。思い切って王宮を去る希望を出して故郷に戻ろうかと思い始めていたんですって。そんな時に急にどこからか亡くなったトナの声が聞こえた気がしたそうなの。
王宮に残るんだ、カイ。それがお前の定めだ。お前を待っている人がいるよ。ってね。それでカイは慌てて辺りを見渡したら、遠くから東門に向かって走ってくる人影があるじゃない。あんな時間に東門に走ってくるなんて王宮を秘かに去ろうしてる者よ。見つかったらただじゃ済まないわ。あの時自分は危険だと分かっていながらトナを引き留められず、みすみすトナを失ってしまった。せめてその人は危険に晒さないように自分が引き留めて、何事もなかったようにしようと、とっさにそう思ったそうなの。
なのでさっき亡くなったトナが言っていたのと同じ王宮に残るんだ、それが君の定めだ。と声を掛けたそうなの。
そしたらその娘はなんと名前をトナと言うじゃない。カイは本当に驚いたそうよ。それでカイは合点がいったそうよ。同じ名前のトナを救う為にトナが自分を呼んだってね。
それで始めてカイと出会った時にカイは、そうなのかトナか。トナなのかと呟いていた訳だ。トナにも合点がいった。
アラは死んだトナもまっすぐな性格でそしてたまに無鉄砲なことをしでかす人だったそうよ。どこかの誰かさんに似てねと少しいたずらっぽくトナに視線を向けて小さく笑った。
どうやら同じ日に産まれただけあって自分とトナは似ているようだ。それ故にカイも自分に親近感を抱いたようだ。
それでカイはその後にもトナは大丈夫だったか?心配事は解決したのか?とあんたの事ばかり気になってたそうよ。とアラは少し寂しそうな顔をすると、あんたには言わないでいたけど、カイはあんたは大丈夫だったか気になってあんたと出会った数日後に刺繍室の前まで来たの。その時あたし達は知り合って、あたしはカイの事が好きになってしまったの。刺繍侍女のみんなはカイはあたしに会いに来たって思ったみたいだけどね。
でもその時にはもうカイの心にはあんたがいたのね。と寂しそうに微笑んだ。そのアラの表情にトナもきゅっと胸が痛くなった。自分も同じように感じた事があるのでアラの気持ちは痛いほど分かる。
結局あんたはその日は勤めは休みであんたに会えなくて宿舎に戻ったらあんたから制服の刺繍が綺麗に直されて戻って来ていて本当に喜んだそうなのよ。それでその話を仲間の衛兵にしたら、周りにカイ、ついにお前にも本気で惚れた女が現れたか!と言われてカイは自分はあんたに惚れてたんだって気がついたそうよ。
前にもクハがジモからカイが自分の事を何度も嬉しそうに話していたと言っていたがそれは本当だったようだ。
それで周りがよし!そのトナもお前に惚れてくれるよう俺達が協力しようと言い出したそうなの。と言うとカイは本当に周りに愛されていたのね。それだけにマルメルの国の語師にも見初められてしまったのだけどと大きくため息をついたので思わずトナも笑いながら頷いてしまった。 王宮に仕える者で好きな相手が現れた場合は通常恋文を送って何度かやり取りをして、男が女に髪飾りを贈り、相手がそれを身につけてくれたら相手の気持ちを受け入れたという意味になる。 カイの周りもまずトナに恋文を送れとせっついたそうだ。その時一緒にいたタスカナ出身の西門の副衛兵長のカグが待ったをかけたそうだ。 待て待て!タスカナの女は純朴で控えめなんだぞ!前の王様のお妃様のサイミシ様だって控えめで王様のご寵愛がサラトメ様に移ってしまってもずっと黙って王様をお待ちになっていたじゃないか?いきなり恋文なんて送って寄越したらお前は他の女にも文を送った事が何度もあるような手慣れた軽薄な男だと警戒されてしまうぞ!カイ。お前は侍女達に人気があるから尚更だ。 それにもし万が一その文がきっかけで口うるさい刺繍侍女長の婆さんに王宮から逃げようとしていたなんて発覚してしまったら大目玉だぞ。よし!ここは俺がタスカナの領主様の内密の件だと言って文を届けてやる。タスカナの者同士だし、そうすれば周りも不審に思わないだろう。いいか、カイ。いきなり告白なんてするんじゃないぞ。まずは礼儀正しく感じ良く刺繍の礼の文を送るんだ。そう伝えたそうだ。 それであんな風にカイからの最初の文が届いたのか。 それにタスカナの女は控えめだと言うのにはトナは思わず笑ってしまった。このセルシャの国ではそれぞれの地方で独特な訛りや言い回しがあるが、特にタスカナは訛りが強い。 トナもタスカナにいる時は周りも皆タスカナ訛りのことばで話しているので何とも思っていなかったが、王宮に上がってすぐの頃は自分のことばが都のことばとかなり違っているのに気がついて気恥ずかしくなってしまい、つい話すのに躊躇してしまう頃があったし、同じタスカナから王宮に上がった先輩の刺繍侍女のミボも仕立侍女のナハも同じだったと言っていた。 気心の知れた仲間の侍女なら問題ないが、異性で特に気になっている人から話し掛けられたらタスカナ訛りが出てしまわないか気になって、つい皆口数が少なくなってしまっても不思議はない。するとカイとカグの話を聞いていた北のモロタリ出身のスマがそれなら数回文のやり取りをした後にとびっきり凝った美しい髪飾りを贈って喜ばせてやれば必ずそのトナという侍女もお前に夢中になるな。俺の故郷の従兄が腕のいい飾り物職人だから、俺が文を書いてとびっきり美しい髪飾りを作ってもらうようにしてやるから待ってな!と請け負ってくれたそうだ。 任命式の数日後のあたしの勤めの休みの日だったわ。あたしはカイの為に刺繍を刺した手巾を渡しに東門に行ったの。そうしたらカイはなぜかとても忙しそうだったのよ。 それでもあたしの姿を見つけるとすぐにあたしの所に駆け寄って来てくれて、あたしあの時本当に嬉しかったのよ。もしかしたらカイもあたしの事を想ってくれているのかもって。 そうしたらカイが任務だから詳しくは話せないけれど急にしばらく王宮を離れる事になった。しかも明後日には王宮を発つと言ったのよ。あたし本当はどこに行くのか聞きたかったわよ。でもそう言われてしまったらそれ以上聞けないじゃない? だからカイにいつ王宮に戻って来るの?と尋ねたらカイは口ごもっておそらく来年の春まで戻れないだろうと言ったの。だからあたし思わずそんな長い間王宮を離れるの!と驚いた声を上げてしまったらカイが急に真剣な表情であたしにこう言ったの。 アラ。君なら信頼できるから一つ頼みたい事があるんだ。聞いて貰えないか? あたしカイの頼みだったら何でもするつもりだったから、ええ。何でも言ってと答えたらカイったらあたしにこう言ったのよ。 しばらく王宮を離れている間、トナの事が心配なんだ。アラ、トナにまた何かあったら支えてあげて欲しい。本当は俺が側にいてトナを支えてあげたいけれど、遠く離れているからそれもできない。アラ、君ならトナとも親しいから安心してトナの事を頼めるよ。俺が王宮を離れている間トナの事を頼むよ。 思わずトナは驚きのあまり手で口を覆ってしまった。そうでもしないと驚きと喜びのあまり声を上げてしまいそうだったからだ。しかしそれはあまりにもアラに対してばつが悪い。 そんなトナの気持ちが分かるのかアラは冗談のように軽くトナを睨んだが、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。 全くあたしの気持ちも知らずにカイったらあたしにあんたの事を頼んだのよ。結局そう言われてしまったから、あたしはあたしの気持ちも伝えられずに、手巾も渡せずに終わってしまったの。 そうアラは微かに寂しそうに微笑んだ。代わりにあたし、どうしてトナを好きになったの?詳しく話を聞かせてと頼んだら全て話してくれたわ。 だからあたしカイに分かったわ。トナの事はあたしがしっかり見ているから安心して。だからくれぐれも元気で任務が終わったら王宮に戻って来てね、約束よ。そう言ったの。 なのにカイはまだ王宮に戻って来ていないのよ。あたしとの約束を守ってくれていないの。とまた寂しそうに微笑んだ。 そう口では言っているがアラにもそれがカイの意思ではなく抗えない大きな力のせいだと知っている。そしてそれはトナも同じだ。 二人はしばし無言で黙ってしまった。お互い遠いマルメルの国にいるであろうカイに思いを馳せていた。 いったい今カイはどうしているのだろうか。 沈黙を破るようにアラは一つ大きく息を吐くといいえ。トナを守ってというカイとの約束を違えてしまったのはあたしの方ねと寂しそうに笑うと真剣な表情をしてトナ。あんたにモロタリの商人があんたが注文した髪飾りだと言って髪飾りを渡した時にこっそり袖口に文を押し込んだでしょ?あたし、あんたが急に髪飾りなんて頼むからおかしい。さてはモロタリならカイがスマに頼んだ髪飾りねって閃いて、そっとあんたと商人のやり取りを横目で見てたらこっそりあんたに文が渡されたわ。きっとあの文はカイからの文に違いない。きっとスマが協力してモロタリからカイの文と髪飾りを王宮まで届けさせて周りに不審に思われないようにあんたに届けるよう手筈を整えたんだって分かったの。
任務で遠く離れた地にいてもカイはまだあんたの事を想ってると気づいたら、ちらっといっそカイがこのまま戻って来なければいいのにと思ってしまったのよ。だってカイが戻って来たらあんたもカイに惚れている。二人は結ばれて、あたしの想いは実らないもの。そうしたら本当にカイは戻って来れなくなってしまった。本当に悪いのはあたしなのよ。それがきっかけであんたはこの王宮を去ろうとしてしまったんだから。そう寂しそうにアラは微笑んだ。
でもトナはそんなアラのことばを聞いても恨む気持ちは微塵も沸いてこなかった。もし自分がアラの立場だったらきっと同じように考えただろうし、アラの想いが叶ってカイはマルメルの国に留まる事になったのではない。それにそもそもそれがきっかけで王宮を去るのではないのだ。いくつもの出来事が折り重なって自分の居場所はこの王宮ではない。自分の居場所を、そして共に生きる人に出会いたいと思ったのだ。
全てはトナとカイ、アラ、それにその語師の娘やナトラス、王様といったそれぞれの運命という複雑な糸が幾重にも絡まって、折り重なって今回の出来事は起こったのだ。
そう。一つの布に幾本もの異なる色の糸が重なり、複雑な図柄を描き出す刺繍のように、それぞれの運命が交差して今回の出来事は起こったのだ。
もしあの時にナトラスがカイを副衛兵長に任命しなかったら。もしアラがカイに自分の想いを正直に伝えていたら。もしカイがマルメルの国ではなくオクルスの国に遣わされていたなら。もし語師がカイを気に入らなかったら。もしその語師の娘に他に相応しい相手がいれば。
きっとそれはそれでまた別のそれぞれの運命が交差して、別の出来事が起こっていたのだろう。
同じ刺繍の図柄を違う色糸で刺した時に見える印象が異なったり、同じ色糸でも別の図柄を刺した時に別の刺繍が仕上がるように。
全ては起こるべくして起こったのだ。運命という大きな力に導かれ、時には翻弄され。お互い胸の中に浮かんでくる様々な想いに囚われ、トナもアラも何も言えずにしばし立ちすくんでいた。
カイが戻って来てくれるといいけれど。アラがそう口を開いた。
あたしもカイが戻って来れるか心配になって、先月クナクスの領主様に文を書いて何か聞いていないかと尋ねたのよ。そうアラは言った。
アラは自分を王宮に送ってくれたクナクスの領主には恩義を感じていて、定期的に王宮で得た情報をクナクスの領主に文で伝えていたのでクナクスの領主とは伝があった。
クナクスの領主の妹はマルメルの国の港のあるセセラホという領地の領主の元に嫁いでいるので妹経由で他の者が知らない話を聞いている可能性も高い。
アラは王宮でもカイの婚姻話が今後のクナクスとの関係に影響を及ぼすので皆心配している。特にナトラス様がカイに済まない事をしたという想いとセルシャの国益を想う気持ちの間で板挟みのお立場になっている王様をひどく心配されているが、ナトラス様は領主の娘でも貴族の娘でもないのでメマリス様やルカララ様のように伝がなく情報にも乏しくお困りのようだ。何か領主様はこの件でご存じではありませんか?そう文を送るとクナクスの領主から直ぐに返事が来て、皆が知らない今回の件の詳細が記されてあった。
実は語師の娘は年の離れたマルメルの国の副事師と恋仲だという噂はマルメルの王宮内では知れ渡っている公然の秘密らしいが、娘の父親である語師は二人の結婚に猛反対しているそうだ。そんな娘なので才色兼備と名高い娘だがマルメルの王宮に仕える者や貴族で娘に婚姻を申し込む者が誰もおらず、このままでは娘は一生結婚できないと焦った父親が目を付けたのがカイであったそうだ。
マルメル語が話せないカイの耳にはこの結婚に不都合な噂は伝わらないだろうし、人柄が良いので万が一噂が伝わっても娘の過去も水に流して夫婦になってくれそうだと目を付けたようだ。娘はカイより四才年上でカイの事を弟のように思い、あれこれと面倒を見てくれているが、まだその事師との仲は続いているらしい。
問題はその語師の父親がカイとの結婚を諦めてくれれば簡単に解決するがとクナクスの領主からの文は締め括られていたそうだ。
だからトナ。何かのきっかけで語師の父親が二人の結婚を諦めてくれれば、カイだってまたこの王宮に戻って来れるじゃない。クナクスの領主様からの文が届いてから一月も経っているから何か状況が変わったかも知れないし、まだ望みはあるんだから。
それにアギ様も今すぐ刺繍侍女長の座を退かれて次の刺繍侍女長が決まるのではないわ。もう少し刺繍侍女のままこの王宮でカイが戻って来るのを待ってみてもいいんじゃないの?
いいえ、トナ。お願いだからそうして。もしカイが王宮に戻った時にこんな理由であんたが王宮を去ったと知れたら、あたしカイに顔向けできないわ。
そう言うとそれにね。と言うとアラは急に恥ずかしそうな表情を浮かべるとトナ。あんたは覚えている?初めて王宮に上がって刺繍侍女候補の娘達が集められた日のことを。あたしはクナクスにいる頃から話し掛けにくい雰囲気なのか、みんなあたしを遠巻きに見ているだけで誰もあたしに話し掛けて来なかったわ。それなのにあんたはあたしに屈託のない笑顔で話し掛けてきてくれた。あたしあんたの笑顔が眩しかったの。ああ、この子はきっと周りから愛されて、まっすぐに育った子だなって羨ましかったの。
だからどうしたらいいのか分からなくなってしまってあんな素っ気ないことを言ってしまったけれど、あの時は本当に嬉しかったの。部屋割りを発表すると言われた時に、どうかトナと同じ部屋になりますようにと心の中で祈っていたの。
思いがけないアラの告白にトナはびっくりした。
でも思い出してみればトナとアラ、ジハ、それに既に王宮を去ったクハの四人で同室の刺繍侍女見習いの頃、トナとジハとクハが検討違いの話をしていると黙って本を読んでいるはずのアラが急に違うわよと言って正しいことを教えてくれたり、トナが熱を出して寝込んだ時に寝ずに看病してくれた時もあった。常に素っ気ない態度ではあったがトナの事を気に掛けてくれていた。
王宮を去ろうとした時も心配して部屋に様子を見に来てくれてトナが部屋にいないのに気づいて、刺繍侍女の棟の前で心配して待ってくれていたし、今回もアギから話を聞くとすぐトナを追いかけてくれた。
アラもトナを最初から大切な友として見てくれていた。トナの胸の中はじんわりと暖かくなっていた。
それにね。あの時あんたはアギ様に今回の刺繍は誰の何の為に刺すのでしょうか?と尋ねたわ。そしてあんたは刺繍を刺す時に一番大切な事は相手のことを想って一針一針心を込めて刺すことだって言ったわ。
あたしクナクスにいる時から頼まれてたくさんの刺繍を刺してきたわ。もちろん婚礼衣装の為や誰か好きな人に贈りたいっていう人もいた。でもそれが誰か知っている人の婚礼衣装でもそんな事思って刺したことは一度もなかった。いかに早く上手に刺すかしか考えたことがなかったのよ。
あんたの話を聞いた時にあたし、ああ。あたしは一生この子には敵わない。そう悟ったの。
王宮に上がった時にいつの日か必ず刺繍侍女長になって、偉くなって母さんや義父さん、義兄さん達、クナクスの周りの者達を見返してやりたいって思ってたわ。それにあたしの刺繍の腕なら将来きっと刺繍侍女長になれると自信もあったわ。
だけどあんたのあのことばを聞いた時にあたし、この子にはあたしは一生敵わないと思ったのよ。
それならせめて刺繍の腕を上げて、あんたが刺繍侍女長になったら、あたしが副刺繍侍女長になってあんたと共に素晴らしく美しい後世まで王宮で代々伝えられるような刺繍を刺していきたいと思っていたのよ。あんたがいたからあたしはここまでやってこれたのよ。
そこまで言うと、トナ。あんたという大切な友で仲間で、そして同じ人を好きになった恋敵として、そして将来の刺繍師の座を競って目指す者としてもあんたがこの王宮にいてくれないと。
だからトナ。ここに残ってちょうだい!そうアラは真剣なまなざしでトナを見つめるとトナの手をぎゅっと強く握り締めた。
アラの瞳は親に置き去りにされそうになった子供のようにどこか泣きそうに潤んでいた。
トナが最初王宮に上がる際に言われた任期の五年が終わっても王宮に残りたいと思ったのは、アラのように将来刺繍侍女長になりたいという大きな野望を抱いていたり、王宮で誰か偉い人に見初められたいと望んで残ったのではない。
自分もアラのように刺繍を刺したいと思ってアラの背中を追いかけるように刺繍の腕を磨いていたのだ。
アラがいなかったら今の自分はいない。
しかしそれと同時にトナは気がついてしまったのだ。前から薄ぼんやりとトナの頭の中にあった想いは先ほどナトラスから全てを打ち明けられて、はっきりと形を表してトナには分かってしまったのだ。
もうこの王宮には刺繍師は必要はない。今の王宮、そしてこれからの王宮に必要なのは刺繍侍女長なのだ。
刺繍侍女長の裏の顔である刺繍師の役目は遠く離れたコヌマの地にいる元の王家の末裔を見守り必要とあらば支える事だが、元の王家の末裔であるナトラスがこの王宮に上がった時点で遠く離れたコヌマの地にいる元の王家の末裔を見守るという役目は当に終わっていたのだ。
また元の王家の血を受け継いだナトラスの娘の二人の王女達は恐らくオクルスとマルメルという二つの大国に挟まれたセルシャの国の王女に産まれた宿命と年回りからしても将来はそれぞれオクルスの国とマルメルの国の王家に嫁いでセルシャの国を去っていくだろう。
もしこれからナトラスと王様の間に子供が恵まれたら話は違うが、もしこの後二人の間に子が授からなければ見守るべき元の王家の血を受け継いだ二人の王女達が国を去ってしまえば遠く離れた異国に暮らす二人を見守る事は叶わない。その役目も終わるのだ。
そうなると刺繍師のもう一つの役目である王様と王妃様の願いを託された刺繍を刺すという役目だが、今の王様は刺繍師に願いを託すことはなく自分の力だけで王座を全うするつもりのようだし、正式には王妃様とされているメマリス様とルカララ様には一切この秘密を明かすつもりはないのなら、今の王様の御代に刺繍師は必要はない。
それにトナは王様は次の王となる二人の息子の王子様達に刺繍師の事は伝えないだろう。どこかそんな気がしていた。
王様とナトラスが結ばれ、元の王家と今の王家の血を受け継いだ子が産まれた時点で過去からの因縁はようやく解き放たれて今まで王宮で闇に葬られ、秘かに代々伝えられてきた刺繍師の役目も終わったのではないか。賢い王様はそうお考えになった。そんな気がしていた。
つまりもう王宮には刺繍侍女長の裏の顔である刺繍師は必要ないのだ。
アギがトナとアラのどちらを次の刺繍侍女長にしようかと決めかねていたのはトナの相手を想って刺繍を刺す想いの強さだ。つまりそれはアギはアラよりトナの方が次の刺繍師に向いていると思ったからだ。
しかし刺繍の腕、そして何より刺繍侍女長として日々刺繍侍女達を見守り、正しい道に導いて行く力は自分は到底アラには叶わないとミブに秘かに刺繍を教えていたアラの姿を見た時にトナは気づいてしまった。
つまりトナは裏の顔である刺繍師であり、アラは表の顔である刺繍侍女長なのだ。
そしてトナはアギの言ったようにある意味、影の王妃様であるナトラスの望んだ刺繍を刺した、そうこの王宮での最後の刺繍師だったのだ。
ナトラスが王宮に上がり、元の王家と今の王家の因縁を終わらせたように、トナも最後の刺繍師としての役目を果たしたのだ。
表立っては刺繍侍女長と名乗る影の存在の刺繍師。表立っては王妃とは呼ばれない影の王妃。どちらもこのセルシャの国の表の歴史には伝えられない影の存在だ。
自分とナトラスとは最後の刺繍師と最後に刺繍師に望みを託した王妃。一つの因縁を解き放つ最後の者としての役目の為に運命に呼ばれてこの王宮に来たのだ。
最後の刺繍師としての役目を果たしてしまったのならば、表の顔である刺繍侍女長にふさわしいアラがいる以上、自分はここを去るべきなのだ。
そうトナは悟ってしまった。 トナはアラの瞳をじっと見つめて小さく頭を横に振ると、アラ。アラの気持ちは嬉しいわ。わたしもアラがいなかったらこの王宮に残ろうとは思わなかった。アラに追い付きたい。そう願ってこの王宮に残ったし、アラのように美しく刺繍を刺せるようになりたいと今まで励んでこれたのよ。アラがいなかったら今の、そう刺繍師のわたしはいなかったの。 アラ、わたしはナトラス様の願いを叶えてこの王宮で最後の刺繍師として、闇に葬られた最後の刺繍師としての歴史を閉じる役割だったのよ。 王様はメマリス様とルカララ様には刺繍師の存在を明かさないそうだし、恐らくお二人の王子様達にも伝えないと思うわ。そうなるともう代々の王様も王妃様は刺繍師の存在を知ることはないのかも知れない。 この王宮に刺繍師は必要ないのならば、王宮に必要なのは刺繍侍女長なのよ。 アラ、わたしは刺繍師であなたは刺繍侍女長なのよ。いわば私達は太陽と月ね。表の顔である刺繍侍女長は太陽。裏の顔である刺繍師は月。太陽と月は同じ空に登ることはできないの。太陽が昼の空で皆を照らすならば、月は夜の空で皆を照らすように、わたしはわたしの居場所を探したいの。だから太陽のいるべき場所である王宮の刺繍侍女長の座にはアラ、あなたが着いて皆を導いて。そしてお願い。刺繍の技と共に後世に伝えるべき事は伝えていって。 トナもアラの手をぎゅっと強く握りしめて、そう伝えた。トナの瞳からは一筋の涙が頬に伝わっていた。 そのことばにアラは、はっと何か気づいたように小さく息を吐いてじっとトナの瞳を見つめ返すとそうなのねと呟いた。 そしてアラはこう言ったのだ。 トナ。知っている?あんたの名前のトナは終わらせる。そして1年の終わりの日という意味があるのよ。あんたは王宮の最後の刺繍師としてここに呼ばれたのね。 思いがけないアラのことばにトナは驚いた表情でアラをじっと見つめた。 そんなトナにアラは種明かしのようにジモとの結婚で王宮を去ったクハから教えられた事を話し始めた。 クハが王宮を去る前日の夜の事だったわ。こっそりあたしの部屋を訪ねて来て、アラ。王宮を去る前に言っておくわ。 みんながトナがあんたとカイの仲を引き裂く為にナトラス様に頼んでカイをマルメルの国に送ったと言っているけれどそれは違うの。 それにと少し口ごもった後にはっきりとした口調でアラ。カイの事が好きなあんたには残酷なことを言うけれど、トナとカイはお互いに想い合ってるの。これもあたしがジモから聞いた話だから確かよ。カイは王宮を去る前の晩に衛兵のスマにモロタリに着いたらトナ宛の文を書くからそれと一緒にお前が頼んでおいてくれた髪飾りをお前の従兄から受け取ったら王宮のお前に送るからトナに届けて欲しいと頼んだそうよ。 わざわざ遠い任地からトナに文と髪飾りを贈る。それがどういう意味か、アラ。あんたにも分かるでしょ?それぐらいカイはトナの事が好きなのよ。 スマにお前の従兄がどんな美しい飾り物を作ってくれて、それがどんなにトナに似合うか想像するのが楽しみだから、任務と言え途中でモロタリに寄れるなら今回の任務も苦じゃないさ。ああ、スマ。従兄にモロタリの領主様の館に王宮から来る一向にいるカイという衛兵に渡す物があると言って髪飾りを届けに来るように急ぎの文を送っておいてくれてありがとう。恩に着るよ。 そうカイは言ってたそうよ。とクハはアラに伝えたそうだ。
そしてクハはアラにこう言ったのだ。
あたしの故郷のパルハハには元の王家に仕えた人が落ち延びて来たという言い伝えがあって、それで元の王家で使われていた古いセルシャの暦が伝わっていたの。
それぞれの日に意味があって、アラ。あんたの名前は伝える、引き継ぐという意味があるの。アラ。あんたは次の刺繍侍女長になれると誰もが認める刺繍の腕を持つわ。あんたはカイと結ばれて王宮を去るのではなくて、アギ様や、その前の刺繍侍女長のトク様のように刺繍侍女長として王宮に伝わる刺繍の伝統を引き継いで伝えて行く役目だと思うの。
あたしジモと出会わなかったら、王宮の刺繍侍女であることを誇りに思ってるから刺繍侍女を続けたわ。だからもし将来ジモとの間に女の子が産まれて、その子の手先が器用だったら娘も刺繍侍女として王宮に上げたい。その時に刺繍侍女長がアラ、あんただったらいいなと思うわ。
そのことばにトナは自分が最後の刺繍師としてこの王宮に導かれてやって来たように、アラも次の刺繍侍女長としての運命に導かれて、この王宮にたどり着いて来たのだと深く納得して、アラに次の刺繍侍女長の座を託して自分は王宮を去るという自分の判断は間違っていなかったのだと確信した。
アラはあたしが次の刺繍侍女長であるように、あんたとナトラス様は全てを終わらせる為にこの王宮に呼ばれたのね。
昔のセルシャの暦ではトナの日が一年の最後の日だったそうよ。そして次のマクの日から新年が始まるの。ナトラス様と王様の間に産まれたマイスミ様のお誕生日がマクの日だというのも不思議な縁ね。アラは頬に笑みを浮かべながらこう言った。
そして表情を改めると刺繍侍女長の件は分かったわ。でもカイの事はどうするの?そう言うとアラは強い眼差しでトナを見つめて、カイという名前は元のセルシャの暦では星や導く。月と共に夜を照らすという意味だそうよ。あんたとカイの名前についてもクハからそう教えてもらったのよ。
あんたはさっきそのことを知らずに自分は月だと言ったわよね?つまり月と星は一緒にいて夜空を照らすのよ。あんたとカイは一緒にいないと。カイが戻って来るのをこの王宮で待ってみたら?アラはそう強く薦めた。
トナは遠いマルメルの国にいるであろうカイのことを想った。
もしまたカイと巡り会えたら。
トナは小さくアラに微笑みかけると、もしわたしとカイが共に生きる運命ならきっとまたどこかで巡り会える。そんな気がしているの。 わたしが王宮に導かれてアラ。あなたやナトラス様。それにジハやクハ、アギ様やカサ様、ガク様、それに刺繍侍女のみんなに出会えたようにね。それにこの王宮に縛られていたのではカイを追いかけてマルメルの国に行くことすらできないわ。だからアラ。この王宮の刺繍侍女長の座は信頼できるあなたに託すわ。だからわたしを行かせて。 そう言ってアラの手をぎゅっと握り締めた途端、トナは強い力でアラに抱きしめられた。アラは涙を流しながら、声もなく小さく何度も頷いていた。 どれだけ時間が経ったのだろうか。実際には数分だったのかも知れないが、トナとアラにとっては永遠にも感じられるほど長い時間であった。 もう行かないと。いつの間にか自分も涙を流していたトナは指先で涙を拭うとそう言った。アラもまだ涙に濡れたままの瞳で頷いていた。 ふとトナは自分の髪に挿していたカイが贈ってくれた髪飾りを外すとアラに手渡そうとした。しかしアラは軽くそんなトナの手を押し返して、持って行きなさい。きっと遠く離れた所にいるカイがあんたのこれからの旅を導いてくれるわ。良く見るとサラシェの花の五弁の花びらがまるで星みたいに見えるわね。お守りとして持って行きなさいよ。 それにあんたはあたしがこんな立派な髪飾りを貰っても身につけないのは分かっているでしょ?と少し冗談っぽく睨んだので思わずトナも笑ってしまった。 アラはあんな美しい刺繍を刺すのに自分が美しく着飾ることには無頓着で、髪も王宮の刺繍侍女の決まりで結い上げてはいるが、いつもその豊かな金髪を簡単に一つに纏めて結い上げているだけで、髪飾りも素っ気ないほど控えめないつも同じ髪飾りで結い上げていた。中にはアラは自分の美貌に自信があるから、凝った髪を結わないのよと半分やっかみ混じりで言う者もいたが、確かにアラの美貌なら凝った髪型や髪飾りは不要だし、凝った髪型や華やかな髪飾りを飾ったらまるで本当に王様の妃のように見えてしまうだろう。 アラはもし誰か別の素敵な男性に巡り会えたらその時はこの髪飾りは売ってしまったら?これだけ美しいんだからきっと高値で売れるわよ。それで嫁入り支度を整えたら?といつものアラらしくちょっと皮肉っぽく、しかし瞳と口元には温かい笑みを浮かべながらそう言った。 トナも笑いながら頷くと髪飾りを自分の髪に挿し直すと、もう行くわねとアラに言うと荷物を手に振り返らずにナトラスの館の前から歩き出した。 そんなトナの背中をアラは無言でじっと見送った。 アラはトナの背中を見送ると踵を返して北門へと向かった。 トナが王宮を去るとしたら故郷のタスカナに通じる東門か、それともカイのいるマルメルの国に向かう港へ向かう為に北門、このどちらかからだろうと思っていた。自分は東門に向かって誰かが北門でトナを引き留めてくれたらまだ間に合うはずだ。でもジハ達刺繍侍女は勤務中で無理だ。それにそもそもトナが黙って王宮を去ろうとしている事を知れば大騒ぎになってしまう。他に誰かいるか? 北門と言えば! 北門の副衛兵長のマクは以前から自分に恋文を何度も送って来ている。マクなら自分の願いに力を貸してくれるかも知れないし、副衛兵長ならば任務として北門を通る者を引き留めても職務上誰も不審に思わないだろう。 アラはトナの文をトナの部屋で読んだ瞬間とっさにそう閃いて、慌てて走り書きでマクにこのような容姿の娘が北門に現れたら何としても引き留めて欲しい、そして東門にいる自分に連絡を欲しいと書くと刺繍侍女の棟を飛び出した。 アラが東門に向かって走っていると途中で運良く衛兵に出くわしたので、わたしはナトラス様付の侍女だが、ナトラス様から火急の用で北門の副衛兵長に届けるよう言われた。急いで届けるようにと文を託した。 衛兵は今やこの王宮の女主人であるナトラスからの火急の用と言われたので、慌てて文を手に北門へと急いで走って行った。もしマクが非番で北門にいなくても他の衛兵がナトラスからの命と思ってトナを引き留めてくれるだろう。 ナトラスの名を騙ったので発覚すれば処罰されるだろうがアラはそんな事は構わなかったし、ナトラスとて気に入ってるトナが黙って王宮を去ろうとしているのを引き留めたアラを処罰するとは、とても思えなかった。 マクにもうトナを引き留める必要はないという事と今回の礼を言いにアラは北門に向かった。勤務はアギが皆にアラは具合が悪くなって早退したと言っているだろうから今日は勤めに戻らなくていいだろう。 アラが北門の近くに着くと北門はいつもと違って何やら慌ただしい、ばたばたした雰囲気に包まれていた。一旦何があったのだろう? 確か今日はナトラスが北の領主の奥方様達を招いて昼食会を催すとは聞いていた。しかし領主の奥方様達を招いての昼食会だの茶会だのやらの行事はナトラスだけでなく、他の二人のお妃様達も頻繁に行っており、何もこの王宮では珍しい事ではないので衛兵達も出迎えは慣れているし、奥方様達はまず自分達の領主から一旦都にあるそれぞれの領主の館に泊まり、そこから王宮に向かうので遠路はるばるやって来るのではないので誰かが遅れて来るという事もないだろう。 アラはとりあえず北門に向かうと、そこにはなぜか薬師長のガクと北門の衛兵長が何やら押し問答している様だ。立場が全く違う薬師長と衛兵長がいったい何故言い争いしているのか?他の衛兵達は困惑したように黙って遠巻きに成り行きを見ているようだ。 そのような事を仰られても困ります、ガク様。許しもなく勝手に通す事はできません。ましてや王様のお許しもなく勝手に戻ってきた者ですと衛兵長が叫ぶと、すかさずガクは何を言うのだ!今まで遠いマルメルの国で務めを果たしてくれていたのだぞ!王様には私から全てお伝えするので早く通すのだ!今回私が戻ってこられるよう様々な伝を使って呼び戻したのだからな!そう厳しく叱咤した。 どうやら誰かを通す通さないで揉めている様だ。アラは薬師長と衛兵長の横で黙って立っている者の姿を見て思わず息を飲んだ。 アラは慌てて一目散に三人の方に駆け寄った。 さて、これからどこに行こうか。トナは大きく空を仰いだ。空は晴れ渡ってまぶしいくらいの青が目に刺さるくらいだ。 アギの話では既に館にはいつトナが行ってもいいように連絡が行っているので、ひとまずダサルにある元刺繍侍女の館に向かって、そこでしばらくゆっくりしてこれからのことを考えてみてもいいのかも知れない。 それとも久しぶりに産まれ故郷のタスカナに戻って父さんや母さん、弟のトジとエジ。妹のムクとも会いたい。トジやエジ、ムクは母さんからの文で話は聞いているが実際どんな風に成長しているのか。 またアギに言ったように今まで行ったことのない場所に行ってみるのもいいかも知れない。自分はタスカナと王宮という狭い世界しか知らない。 そうアギの故郷の西にあるパルハハに行ってみてもいいし、ジハの産まれ故郷のオスハデのある南に行くのも面白そうだ。トナは今まで海という物を自分の目で見たことがない。アラが、そしてカイが産まれ育った北のクナクスの地に行ってみて、実際に海を見てみてもいいかも知れない。 トナは目を閉じて大きく深呼吸をしてみた。ふーっと大きく息を吐くと、自然と足は王宮にある東門の方へと進んでいた。 自分の産まれ育ったタスカナに続いていて、そして始めてカイと出会った場所でもある。 東門に近づくと任務に着いていた衛兵の一人が、おい待て。そこの侍女。どこに行くのだ!そうトナに少し厳しい声を掛けて来たので、トナは懐から病のトナを王宮から下げる命の文を取り出し、無言で頭を軽く下げると衛兵に手渡した。 その文に目を通した衛兵の男はそうか。と言うと長い間ご苦労であった。生まれ故郷でゆっくりと休むがいい。とどこかトナを慈しむような優しい視線をトナに向けた。 今まで一度も出会っても、声を掛けても、お互いの名前すら知らない者同士だが、この故郷から遠く離れた王宮で互いに泣いて笑って日々を過ごしていたであろう者同士という想いからだろう。そんな風にトナに優しく声を掛けてくれたようだ。 トナは文を懐に畳んでしまうと、王宮に向かって深く一礼をした。そしてありがとうございます。そう小さく呟いた。 その途端トナの脳裏にはこの王宮に上がった時からのさまざまな出来事が走馬灯のように浮かんできた。
トナがじっと頭を下げているのを遠目でトナが病で王宮を去る事になったと いう文を読んだ衛兵が見つめていた。
ようやくトナが身体を起こして荷物を手にして、東門から王宮の外に出ようと一歩踏み出そうとした時であった。
おい!タスカナの娘!こっちに来い!先ほどの衛兵がそうトナに向かって叫ぶとトナを手招きした。いったい何があったのだろう。もしや先ほどナトラスがトナを引き留める命令を各門の衛兵に出していて、命を取り下げる使いの侍女を各門に送ったけれど、連絡が行き渡っていないか、引き継ぎが上手くいってなかったのかも知れない。他の衛兵も詰所に呼ばれたトナを不思議そうな顔で眺めていた。
トナは呼ばれるままその衛兵の男に従って東門の衛兵の詰所の中に入った。衛兵の男はトナを椅子に座らせるとお前、トナと言うのか?偶然だな。俺の故郷に残してきた母さんの名もトナと言うんだ。と言うとこの王宮で今まで大変だったんだな。気病になるなんてさぞ辛い思いをしたんだろう。刺繍侍女長の婆さんはそんなに意地悪い婆さんでお前はこき使われたのか?それとも先輩侍女達は性悪で若いお前をいじめたのか?そう心配そうな顔をしてトナに尋ねてきた。
そんな病の身でこれから一人でタスカナに戻ろうとしてたのか?そりゃ、心配で放っておけねえな。よし、確か今朝タスカナから王宮に油を納めに来た商人がいたからそいつにお前をタスカナまで一緒に連れて帰ってもらえるように俺が話を付けてやるからな。トナ、お前はここで少し待ってろ。そう言うとおい!と東門にいた衛兵の中で一番年若そうな衛兵を呼ぶと、今朝タスカナから来た油商人をここに連れて来てくれと彼を使いに走らせて、トナには温かい湯を注いだ器を手渡してくれた。
どうやら彼は衛兵としてではなく、個人的に気病で王宮を去るというトナにひどく同情してくれ、トナをここに呼んだようだ。本当は気病ではなく王宮を去るので思わずトナは心の中で苦笑いしてしまった。それになんだかんだ言ってもセルシャの国の民は世話焼きで優しいのだ。見ず知らずのトナが王宮で気病に掛かって去って行くと知って同情して心配してくれている。
きっとトナが新しい地に行っても同じように優しい人々が待ってくれているはずだ。トナの心も暖かくなっていた。一旦故郷のタスカナに戻って家族の顔を見てから、西でも南でも北に行ってみてもいいな。トナはそんな風に温かい湯を飲みながら思っていた。
若い衛兵が戻って来るまでトナは親切で世話焼きの衛兵と話をしてタスカナの商人を待つ事にした。
最後に王宮を去る前に親切にしてくれてありがとう。あなたはどこの出なの?とトナが尋ねると、衛兵は俺は南のホルトアの出で名前はアラと言うんだと笑った。
アラ?この衛兵もアラなのか!思わずトナは一見無愛想だが情に厚く、そして将来皆を刺繍侍女長として導いていくであろう友を思い出して笑ってしまった。でも東門は通常北と西出身の衛兵が守っているはずだが、どうして今日は南出身のアラが東門にいるのだろうか?
疑問に思ってアラに尋ねると、ああ。今日はナトラス様の元に北の領主の奥方様達が昼食会とかで揃って来ているんだ。そういった時は普段は北門を守ってる南や西の出の者が外されて、変わりに北や西の出の衛兵が北門に付いて代わりに俺達南や東の出の衛兵が東門や南門に回されるんだ。それで普段は北門を守っている俺も今日は東門の番になったのさ。
まったく今のセルシャの国じゃ領主の奥方様達を狙うような物騒な事を考える者なんて、この王宮の衛兵にはいないのに面倒だよなとぼやいていた。そもそも俺達衛兵や侍女はお偉い方と違ってやれ南が北がと権力争いなんて関係なくこの王宮で仲間として上手くやってるのにな。こっちを見習って欲しいぜ、まったくとぼやいているのにトナも同意して一緒に笑ってしまった。
いつまで経っても若い衛兵は戻って来ない。東門から一番遠い正反対にある西門に行ったとしても、こんなには時間は掛からないはずだ。
アラはまったくカゾは何をやってるんだ、遅いな。俺もちょっと様子を見てくるから、ここで待ってろ。そう言うとトナを一人衛兵の詰所に残し、自分は詰所から出て行った。
北門の近くでアラは使いに出した若い衛兵のカゾとようやく出くわした。カゾ、お前いったいどれだけ待たせるんだ!何をやっていたんだ?と少し怒り気味で尋ねると、カゾは北門が騒ぎになってて遅くなったんだと興奮気味に答えた。
普段は北門を守っているだけにアラは奥方様達の列に何かあったのか!と尋ねると、カゾは小さく首を横に振ると突然北門に現れた予想もしなかった者の名前を挙げて、アラに今回の事を話し始めた。
もちろんその話は東門の衛兵の詰所にいるトナの耳には入っていなかった。
トナが一人東門の詰所で待っていると数名の衛兵達が中に入ってきて、こんな所に侍女がいる事に驚いた様子を見せたのでトナは事情を伝えた。
衛兵の中で一番年上らしい男は自分達は交代の時間になったのでここに来たがまだ詳しくは話を聞いていないが先ほど北門で何やら騒ぎがあったようだ。今日はナトラス様が北の領主の奥方様達を招いているから多分馬車と馬車がぶつかった事故があったのではないかと思う。それで普段北門を守っているアラはまだここに戻って来れないのだと思うと言うとこのままアラをここで待つか、それともアラには自分が伝えておくからまだ日が高いうちに王宮から出て他に東に行く馬車を探すか?と尋ねてくれた。
そういった事情ならアラはしばらく戻って来れなそうだ。今の時間ならば他に東に向かう馬車も王宮の外に出て東に向かう街道沿いの商人を訪ねれば教えてくれそうだ。
トナは衛兵に礼を言うと詰所を出て、東門に向かって歩き出した。
もうすぐ東門に着いて、王宮の外に出ようとした時であった。
トナの背後からどこか遠くからこちらに向かって一直線に走ってくる人の気配を感じて、トナは思わず振り返ってしまった。
その背の高い姿はどんどんトナに向かって近づいてくる。そしてその見覚えのある姿がはっきりとトナの視界に入った時に、聞き覚えのある声がした。
ここに残るんだ、トナ。それが二人の定めだろう。俺を待っていてくれたんだろう。
その声にトナは大きく頷くと、溢れんばかりの満面の笑顔を声の主に向けると自分もその声のする方に向かって一目散に駆け出した。
完
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