町田 千春 著
 刺繍師 番外編 マイスミ     TOP

なぜわたしはここにいるのだろうか。

そもそもなぜわたしはここに産まれてきたのだろうか。

マイスミ様、マイスミ様。

マイスミは侍女のカクに声を掛けられ、はっと物思いから引き戻された。

マイスミ様。オクルスのキシルス様からのお文でございます。そう言ってカクは一通の文をマイスミに手渡した。

ありがとう。そう言って手渡された文を開けようとした時、上手く封がされているが誰かが一度開封し、また封をした気配が残っていた。

また開けられたのか。キシルスからの文にはたいした事は書いていないのに。

マイスミは諦めにも似たやるせなさを感じながら封を開いて、オクルスの国にいる妹のキシルスからの文に目を通した。

案の定、妹からの文には政治的な記載は一切なく、季節の挨拶の後には、ただ夫であるクロアスとの日常や日常で起こった些細な痴話喧嘩の愚痴のような事。

そんな事が書き連ねられていたが、妹の書いた文のセルシャ語の綴りや文法に怪しい箇所がいくつもあり、マイスミは読むのに苦労する所もあった。

マイスミは妹のセルシャ語の能力に軽くため息をついたが、無理もないと頭の片隅では思っていた。

妹のキシルスが自分達の生まれ故郷でもあるセルシャの国を発ったのは七歳の時で、今十七歳の妹は自分の生まれ故郷であるセルシャの国より嫁ぎ先であるオクルスの国で過ごした年月の方がずっと長いし、周りはオクルスの者だらけだ。

きっと話す言葉だけでなく読み書きもオクルス語の方が得意なのであろう。

マイスミと妹のキシルスはセルシャの国の王女として産まれた。

セルシャの国は海を挟んで今マイスミが嫁いで来たマルメルの国と山脈を挟んで妹のキシルスが嫁いで行ったオクルスの国という二つの強国に挟まれた王国だ。

セルシャの国の王であった父王には子は二人の異母兄と自分達姉妹の二人しか子はいなかった。

マルメルとオクルスの世継ぎの王子達の年齢との兼ね合いから必然的にマイスミはマルメルの国の世継ぎの王子のイクセルとキシルスはオクルスの国の世継ぎの王子のクロアスの元に嫁ぐのだろうという事になり、実際その通りになった。

妹のキシルスはオクルス側から一歳年下のクロアスと共に育てた方が良いので、早い内にオクルスに嫁入りさせて欲しいとの願いを受け入れ、七歳の時にオクルスの国に嫁いで行った。

実際に二人が夫婦になったのは昨年の事だが、未来の王と王妃としての厳しい教育を共に受けて学んできた為だろうか。妹からの文を読むと二人の間には燃えるような激しい愛は感じられないが、同士としての硬い絆と深い信頼と愛はひしひしと感じられた。

二人が十二歳と十三歳の時にあまりの王と王妃教育が厳しくて、二人で示し会わせて侍従と侍女に変装して

街に繰り出したのを見つかり、共にマルメルの王からこっぴどく怒られた話は妹の文で知っていたが、二人で一緒に王宮を出られて珍しい体験をできて楽しかったとも綴られていて、キシルスらしいなと思って笑ってしまったものだ。

きっと妹は自分の居場所を見つけて、時に悩み、戸惑い、怒りながらもクロアスと手を携えて歩んで行くのだろう。

それに引き換え自分は。

マイスミが文を机に置いたのを見計らったように

カクがマイスミ様。王宮から使いが来まして今晩王様はこちらにお出でになるそうです。お支度を。

そう恭しくマイスミに頭を軽く下げて伝えた。

分かった。すぐに入浴の準備を。

そう言うとマイスミは文を文箱にしまうと椅子から立ち上がった。

 

マイスミ。今日はいかがであったか?

そう言って夫であり、マルメルの国の王でもあるイクセルがマイスミの寝室に入ってきたのをマイスミは笑顔で迎えた。

無論本心ではない。

けれどマイスミは夫の顔を見ると条件反射のように笑顔を浮かべられるようになっていた。

王様。今日は妹のキシルスから文が届きました。

妹も私達のように夫婦仲良くやっているようで安心いたしました。難しい事は言わずそう差し障りのない事を伝える。

それが夫を喜ばせる方法だとマイスミは知っている。

そうか。それは良かったとイクセルは言うと、マイスミの唇に自分の唇を重ねた。

それはこれから始まる夫婦としての交わりの始まりを告げる鐘の音のようだとマイスミはいつも思う。

イクセルは唇に重ねたまま、マイスミの衣の帯をほどくと、肩からゆっくりと衣を下ろしていく。

あらわになったマイスミの白い首筋と肩に唇を這わせながら、片方の手で腰に手を回し抱き抱えながら、もう片方の手でマイスミの胸を手の中に収めると、ゆっくりと強弱をつけて揉みしだく。

時にはからかうように胸の頂を軽くつねったり、弾いてみたり、指の腹でゆっくりと擦ってみたりとするが、その時間が長ければ長いほど、きっと昼に何か気に入らない事や苛立ったり、難しい問題があったのだろう。そうマイスミは口には出さないが気がついていた。

夫であるイクセルは本来はもっと年を重ねてから王位に着くと周りも、そして誰よりイクセル自身も思っていただろうが、彼の祖父でもある前の王が王座に着いている間にイクセルの父であった世継ぎの王子が父である王よりも先に急に病で他界してしまい、王の死去により孫であるイクセルが若くして王座に着いたのである。

マルメルの国の最大の敵であるオクルスの国の王は自分の父ほどの年齢であり、王としての経験も長いし、そもそもオクルスの王はかなり独裁的とも言えるほど堅固な王政を敷き、絶対的な権力を握っている。

イクセルにとっては脅威であろう。

マイスミの生まれ故郷であるセルシャの国の王もまだ王としては年若いマイスミの異母兄のマザンソが王座に着いているが、父王もまだ存命で何か自分だけで判断を下すのに難しい事があっても、父王の助言を仰ぐ事もできるがイクセルは頼るべき人もなく、この強大なマルメルの国を若くして一人で支えていかなければならない。きっと夫には自分には計り知れない重圧があるのだろう。

けれど夫であるイクセルはマイスミにそういった苦しい胸の内を一切打ち明けなかった。

イクセル様はサトメス様をやはり私と同じように抱くのかしら。多分違うでしょうね。イクセルの愛撫を受けながら、ぼんやりとマイスミはそんな事を考えていた。

十二歳年上のイクセルにはマイスミが嫁いで来た時には既に妃のサトメスとサトメスの間には三人の王女が産まれていた。

既に妻も子もいたイクセルの慣れた導きで嫁いで来た時は生娘であったマイスミも女としての身体の悦びは徐々に覚えていったが、女として熟れていく身体とは裏腹に常に心は夫との間に見えない壁があると感じていた。

そして壁を作っているのは夫ではなく、自分自身であるとマイスミは気がついていた。

手慰みのようにマイスミの胸で遊んでいたイクセルがようやく手を止めると、そっとマイスミを静かに寝台に横たえると、自分の衣も脱ぎ捨てると優しく舌と指をマイスミの身体に丹念に這わせていく。

マイスミの身体も夫の舌と指が這っていくにつれ、徐々に火が付いて身体が熱を帯びてくる。

しかし熱が帯びてくる身体とは裏腹に頭はどんどん冴えて冷静になってきていた。

イクセル様との間に壁があるのは何もイクセル様に他の妃であるサトメス様や二人の間に既に王女様達がいるからでもないのね。

抱かれながら聡明で明晰なマイスミの頭は冴えていく一方だ。

現にマイスミの母であるナトラスが父王と結ばれた時には父には既に二人の妃と二人の王子がいたが、父と母は固い絆で結ばれて、今でもお互いを愛し合っているのは娘の自分にも良く分かっていた。

望んだ婚姻ではなかったが、逃れられない運命でマルメルの王に嫁ぐ以上、例え王妃という立場でなくとも夫であるイクセルと共に手を携えて、時には彼を支えて共に歩んで行きたいと願って、遥か海を越えて、このマルメルの国に嫁いで来たが、夫のイクセルが自分に望んでいるのは、自分を頼りにして、そして自分に可愛がられることを喜ぶ、美しく人形のような愛玩物の妻であると聡明なマイスミは嫁いで来て、すぐに悟ってしまったのだ。

そして本当の自分を夫には見せていないし、夫もそんな本当の妻の姿を見たくも知りたくもないのだろう。

夫にとって自分は庇護するべき世間知らずの美しくておっとりとした愛すべき妻でいて欲しいのだろう。

いくらイクセルは苛立ったりしていても決してマイスミを乱暴には扱わない。マイスミはか弱い者だから自分が可愛がって守らなければいけない。

そう思っているのだ。だから決して乱暴に扱われることはないのだ。

むしろ苛立ったりしている時はお気に入りの玩具で遊ぶ子供のようにマイスミの身体を愛撫し、マイスミが悦びの声を上げると、自分の男としての力に満足したように喜んだ表情を浮かべる。

なのでマイスミは夫に抱かれる時は必要以上に声を上げたり、悩ましげに眉を寄せて悦びとも苦痛とも取れる表情を浮かべてみたりと振る舞ってみせる。

夫の熱い飛沫が自分の身体の中で弾けて、そして自分の体内から夫がそっと離れた時にマイスミはイクセルに気付かれないように心の中でそっと安堵の吐息を漏らしたが、その時に上げた吐息は夫には夫婦の交わりに満たされて、満足した妻の安堵の吐息と思ったのだろう。いとおしげに髪を撫でてきた。

マイスミは浮かび上がってくる思考を止めようと、そっと口元に笑みを浮かべてイクセルに髪を撫でられながら目を閉じてみた。

マイスミ様はセルシャの国から献上された美しい人形だと陰口を叩いている者達がいる事をマイスミは知っていた。

 

世の東西を問わず徒党を組んで政権の座を巡って二つの勢力が対立し、権利の象徴である王族をも巻き込む。それはマイスミの産まれたセルシャの国も、このマルメルの国も同じであった。

セルシャの国ではマルメルの国と親しい北の領地の領主や貴族とオクルスの国と関係の深い南の領地の領主や貴族達の間で長きに渡り常に覇権争いが繰り広げられていた。

父王の妃であるルカララは北の名門貴族の娘だし、もう一人の妃であるメマリスも南の名門貴族の娘である。

父王はマルメルとオクルス、二つの大国との均衡を保つべく二人を妃に迎えたが、奇しくも二人がたった一月差でそれぞれ王子を産むと、父は故意に二人と距離を置いたようだ。父王ははっきりとはそう口にはしなかったが、外見こそ母のナトラスに似ているが、性格や物の考え方は父に良く似ていると自分でも感じているマイスミは父の考えた事が分かってしまった。

王家の血筋を絶やさないという意味で世継ぎでなくても王子の誕生は喜ばれるし、友好の証として他国や各領主の元に嫁ぐことができる王女の存在は歓迎される。

もしどちらかに次の子ができれば、まだ決まっていない王妃の座に次の子の母である妃を着けるよう周りは言い出し、王妃に選ばれなかった方を推している勢力は猛反発して、更に覇権争いが熾烈になるだろうし、国は乱れるだろう。

それはこのマルメルの国でも同じであった。

サトメスを王妃に擁立した一派はマイスミを影でセルシャの国から献上された美しい人形と卑下するだけではなく、マイスミの母のナトラスが貴族の出ではなく元は王宮の侍女であり、しかも王宮に上がる前の情報に乏しい事を上げ、母親は素性の怪しい者で、その美貌でセルシャの王の目に留まり、寵愛を欲しいままにした女だ。

そんな母を持つマイスミより、セルシャの国との友好の証として嫁いで来るのならば先の王と王妃の血を引く王子を父に、マルメルの国と親しい北のモロタリの領主の娘を母に持つミルカシ様の方がイクセル様と歳が近いし相応しかったのではないかと事ある事に影で吹聴しているようだ。

実際マイスミが産まれるまでイクセルの元にマイスミの従姉で今は異母兄のマザンソの妃でセルシャの王妃となったミルカシを嫁がせるつもりであったが、無事王女が産まれたのでマルメルの国に嫁ぐのはマイスミと決まったのだ。

両国の友好の証として嫁がせる娘は王女と王の姪では重みが違う。王により近い血筋の者の方が貴ばれるのだ。特にマルメルとセルシャの国のような力関係では王が自分の血を分けた娘を差し出し、二心のない事を示さなければならない。

父も寵愛している母との間に始めて産まれた娘である自分を溺愛してくれたが、その一方でセルシャの国の為になるのならば私情を捨てて、愛娘をマルメルの国に嫁がせるといった決断もできる王であった。

それ故にマイスミも父の想いが分かっているので父の命に従って、このマルメルの国に嫁いで来たのだ。

 

サトメスを推す一派が焦っているのには理由があった。

サトメスはイクセルとの間に三人の王女は儲けているが、未だに待ち望まれている世継ぎの王子が産まれていないのだ。

サトメスを擁立した一派と反目している一派はいつまで経ってもサトメスに王子が恵まれない事を理由に二十歳とまだ若く、ちょうど子を宿しやすい年齢のマイスミなら次の世継ぎの王子を宿す可能性が高い。

もし無事マイスミ様が世継ぎの王子様をお産みになったら、マイスミ様は格下とは言え一国の王女であり、何より世継ぎの王子様の生母であるのでサトメス様に代わり王妃に据えるのが良いのではないかと同じように影で吹聴しているようだ。

イクセルもいつまで経っても王子に恵まれないので表にはそんな素振りは見せないが、内心は焦っているのだろう。

そんな時に若くて美しいマイスミが自分の元に嫁いで来たのだ。

マイスミに王子が産まれる可能性を託して可愛がるのも無理はなかった。

サトメスを推す一派もマイスミ様はまだお若いので世継ぎの王子様を授かる可能性が高いので王様はマイスミ様を大切にされるのだと言われてしまえば反論できない。

サトメスが一日も早く世継ぎの王子を授かりさえすればと気を揉んでいるのだろう。

サトメスを推す一派の手の者がこの王宮にもいて自分に届くオクルスの王家に嫁いだ妹からの文にも秘かに目を光らせているのだろう。

イクセルはまたマイスミの張りのある肌に指と舌を這わせて来た。

どうやら今晩はもう一度抱かれるようだ。

観念したようにマイスミはそっと目を閉じて夫を悦ばせるように、イクセルの背中に自分の両手を絡めると自分の身体の方に引き寄せた。

引き寄せると夫の鼓動と体温をはっきりと感じられるほど身体はぴったりと重なり合ってくる。

けれど心は重なり合ったと感じた事は嫁いで来て五年。

まだマイスミには一度もなかった。

 


イクセルが王座に着く時にもイクセルを推す一派とイクセルの叔父であるマナトルを推す一派の水面下で激しい対立があったとマイスミは知っていた。

そもそもイクセルの父の急逝も表向きは病死とされているが、マナトルが王座に着くのを望んだ一派による暗殺ではないかと影で囁かれている事もマイスミはセルシャの国にいた時に父から秘かに教えられていたのだ。

マイスミの父であるセルシャの前王は一見すると無能で愚鈍な王に見えたが、実は誰よりも賢く、セルシャの国にとって今はどのようにマルメルとオクルスという二つの大国と付き合っていくべきなのか、そして

それぞれにマルメルとオクルスと縁のあるセルシャの国の領主や貴族達とどう接するべきなのか、時にどのように手駒として使うか優れた判断力と分析力、必要ならば時に冷静な決断もできる王であった。

父には異母兄が二人、そして自分達姉妹がいたが、マイスミは容姿こそ母のナトラスに似ているが、幼い頃から周りの状況を冷静に判断する賢さと抜群の記憶力を持つ点は四人の子の中で一番父に似たのだろう。

しかし父は娘の賢さに気づいていた故にマイスミをマルメルの国に嫁がせる事に決めたのだ。

マイスミが八歳の時の事であった。

父と二人きりの時に父はマイスミにお前が男であれば偉大な王になれたかも知れないなと寂しそうに微笑んだ後にマイスミ。お前は私の子の中で私に一番似ている。それ故にお前は難しい状況に置かれても、今どのように自分が振る舞えば良いのか瞬時に判断できるであろう。今一番難しいのがマルメルとの関係だ。

マルメルの王宮内ではイクセル様を推す一派とマナトル様を推す一派が水面下で激しく対立している。

最近めっきり体調を崩されているマルメルの王様はもし自分が亡くなったらマナトル様ではなく、孫のイクセル様に王座を継がせるよう遺言を遺されたそうだ。マナトル様が王位を継げば権力はマナトル様の妃のヨランズ様のお父上のダカイン殿が権力を握るであろう。マナトル様は控えめな気質で舅のダカイン殿が行う事には口出しはできないから実質王権は他の者が握る事になってしまう。それを避ける為に今回マルメルの王様は年長のマナトル様でなく、イクセル様に王座を譲るご決断をされたのであろう。

私も当初はお前ではなくミルカシをイクセル様の妃にと考えていたのだが、イクセル様のお父上のクレエキ様が急にお亡くなりになり状況が変わったのだ。

お前も知っているようにミルカシの母のケイホフは北のモロタリの領主の娘だ。モロタリには銀山と銅山がある。もしミルカシがイクセル様の妃になればセルシャの国から銀と銅を大量に輸入して武器を作ったり、その財源にできるとイクセル様を推す一派は企むであろう。

さすればこのセルシャの国もマルメルの国の権力争いに巻き込まれてしまう。何としてもそれは避けたいのだ。分かるな、マイスミ。

幼いながら賢いマイスミは現在のマルメルの国の王宮で起こっている権力争いと、それがセルシャの国にどう影響を及ぼすかすぐ様理解した。

それに現在のセルシャの国には他国との婚姻の駒にできる王族の娘が極端に少ないのだ。

マイスミの祖父である先の王はマイスミの祖母である王妃の他に五人もの妃がいたが、子は父王と叔父のゾルトア。そして三人の王女がいたが二人はそれぞれマルメルとオクルスの王家に嫁ぎ、セルシャの国に残り貴族の奥方になった叔母には息子が一人いるだけだ。

また現在王族として都にある離宮で暮らしている叔父のゾルトアには娘はミルカシしかいないので、友好の証としてマルメルに送れるのは王女であるマイスミとキシルスか王の姪であるミルカシしかいなかったのだ。

幼いキシルスをオクルスの申し出を受けて送り出すのにも理由があった。現在のオクルスの王の生母はマイスミにとっては大叔母にあたるセルシャの国の王女である。

オクルスの国に嫁いだ時には既に王妃がいたので王妃にこそなれなかったが、無事世継ぎの王子を産み、亡くなるまでオクルスの王宮で絶大な権力を振るったそうだ。

今のオクルスの王様も生母がセルシャの国の出である為、セルシャの国には至って好意的だし、それにオクルスの王に嫁いだ叔母のミナマサも健在である。

子に恵まれなかったミナマサがキシルスの母代わりとなってオクルスの王宮でも何かとキシルスを支えてくれるであろうし、セルシャの国に好意的な王の考えで、次の世継ぎの王子となった息子のクロアスの王妃にはセルシャの国の王女を据えると決めてくれた。

けれどそれにも罠があった。オクルスのセルシャの国の結び付きが強くなり過ぎるとマルメルの国が警戒するのだ。オクルスの王は亡き母の意思でセルシャの国の王女を次の王妃に据えると伝えたが、無論それはマルメルの国への牽制でもあった。

そういった意味でも二人の王女のうち一人がオクルスの国に嫁いだのならば、もう一人の王女もマルメルに嫁ぐ。

国と国との婚姻は常に外交の駆け引きに使われる。

それに引き換えイクセルの父であるクレエキに嫁いだマイスミの叔母であったナケサタはマルメルに嫁いでたった二年で子も残さず他界してしまった為、マイスミには頼るべき人もいない。

父王は良いか、マイスミ。

お前にはこれからマルメルの国からもたらされた情報は全て伝えよう。それは秘かに探らせた情報もだ。

お前はマルメルの国に行ったら私や母のナトラスのように頼るべき者は誰もいない。

一人でどう振る舞えば良いのか判断して生きていかなければならないのだ。

なので私はお前が遠いマルメルの地でも一人強く生きていけるようにお前に知恵を授けるのだ。

必要ならばマルメルの王宮でその知識を持って毅然と振る舞え。しかしそれが害となるのであれば私のように何も知らない愚かな振りを装い続けるのだ。賢いお前ならどちらが今のマルメルの王宮で生きて行くのにふさわしいのか、すぐに分かるであろう。

私が王として、そして父としてお前にしてやれる事はそれだけだと言うと、寂しそうな瞳でマイスミを見つめて優しく頭を撫でた。

マイスミはマルメルの国に嫁ぐ事が決まってからマルメルの国について知るためにあらゆる努力をした。

元々マルメル語はセルシャの国の王女のたしなみとして不自由ない程度には話せるよう教育を受けていたが、父に頼んで自分に仕える侍女や侍従は皆マルメル語の話せる者に代え、更に新たにマルメル語の得意な者達も王宮に迎え入れて、普段の生活は全てマルメル語を話すようにしたし、父や異母兄達と話す時もマルメル語で会話をした。

唯一セルシャ語で話すのは元々は王族でも貴族でもないのでマルメル語の教育を受けておらずマルメル語が話せない母のナトラスと話す時だけであった。

過去にマルメルの王宮の中枢に仕えていた者も秘かに大金を払ってセルシャの国に呼び寄せ、正史で伝わっている事だけでなく、その者が知る王宮や王家に纏わる隠された話も教えてもらった。

夫となるイクセルの置かれた難しい立場も理解して、自分にできる限り支えようと思って嫁いだのだ。

けれどマルメルの王宮の者達も夫であるイクセルも自分にはイクセルを共に支える妻としての役割は求めずに、ただセルシャの国との友好の証としての愛玩物の美しい妻としての役割しか求めていなかったのだ。

マイスミはこのマルメルの王宮ではマルメル語が不得意な世間知らずの妻を装った方がいいと悟り、そのように振る舞っているのだ。

 

このマルメルの国では本当の私を知る人もいないし、誰も知ろうとしない。

マイスミは自分の傍らで満足したように安心して眠っている夫をじっと見つめた。

朝、目を覚ますと既にイクセルは自分の傍らにはいなかった。おそらくサトメスと三人の娘達から朝の挨拶を受けるのに自分の館に戻ったのだろう。

 

イクセルは極端に自分とサトメス、そしてサトメスの三人の娘達が顔を合わせるのを嫌がるのだ。

マイスミもセルシャの国にいる時は実母のナトラスの他に父王にはメマリスとルカララという二人の妃がいたが、普通に二人共と顔を合わせていたし、マイスミも妹のキシルスも邪険に扱われた事は一度もなく、同じ王家の者として接してくれていたし、マイスミがマルメルに嫁ぐ際はマルメルと縁の深いルカララが嫁入り仕度の準備の指示を母のナトラスにあれこれ伝えていた。

なので自分も同じようにマルメルに嫁いだ際はサトメスと娘達と友好的に接しようと思っていたが、どうやらサトメスはそう思っていなかったようだ。

母の影響だろうか。まだ一番幼い王女は違うが、上の二人の王女は時たま王家の行事で顔を合わせると、マイスミに明らかに敵意と憎悪の隠った視線を向けてくる。母であるサトメスや周りの侍女達から良くない話を吹聴されているのであろう。

母であるサトメスはそんな素振りも見せず、夫の年若い妻に鷹揚に微笑んでいるが、その穏やかな笑顔の裏で自分をどれだけ憎んで、そして恐れているのか。その為マイスミはこの頃は王家の行事に出席するのも億劫で、最低限の礼を欠かせない行事にしか参列しないようになっていた。

マイスミ様。マイスミが目覚めたのに気づいたらしくマイスミ付の侍女長のカクが控えめに寝室の扉の前で声を掛けた。マイスミは返事をして入室を許可した。

マイスミ様、朝のご気分はいかがでしょうか?とカクは控えめな笑顔と共にセルシャ語でマイスミに話し掛けてきた。

カクは自分の母であるナトラスと同じ歳で公にはしていないが、実は母はセルシャの国の者だそうで、マルメル語と同じようにセルシャ語が話せる。

遠いセルシャの国から嫁いでくるマイスミを気遣ってイクセル自らが選んでマイスミ付の侍女長に選んだとカクはマイスミに明かしたが、実際このマルメルの国では母のように何かとマイスミを気遣って仕えてくれているありがたい存在だ。控えめで、でしゃばらないが、瞬時に周りの状況を的確に判断してくれる。

マイスミ様。今日は宮殿の西側は何かと騒がしいので散策でしたら宮殿の東側がよろしいかと思います。

そうカクは控えめにこう述べた。

何も本当に西側で何か騒がしい工事や何かがあるのではない。恐らくサトメスや王女達が王宮の西側で茶会でも催すのだろう。暗になので今日は王宮の西側に近寄らない方が賢明だとカクはさりげなく伝えたのだろう。

分かったわ。今日の散策は東の庭園の方に行きましょう。そろそろセズリの花も咲き始めている頃でしょうしね。そうマイスミはセルシャ語でカクに返事をすると身仕度をする為に寝台から起き上がった。

ふっと自分の白い肌に昨日の夜にイクセルが付けたのであろう昨日の情交の赤い跡がうっすら残っているのに気がつき、なぜかマイスミは不安な胸騒ぎがした。

広大な王宮の庭園はいつ歩いても美しく整えられている。

マイスミはやる事もないので毎日ぼんやりと庭園を散策するのを日課としていた。いつもは自分の館から比較的近い王宮の西側の庭園をゆっくりと時間を掛けて散策するが、今日は自分の館から比較的遠い東の庭園の方に向かって歩いていた。

マイスミはずらずらと侍女達を引き連れて歩くのも苦手なので、何とか最低限の人数であるカクともう一人侍女の二人を連れているが、二人にはなるべく距離を置いて従ってもらうようにしていた。

マイスミが東の庭園に向かって歩いている時であった。広大な王宮の中でいつもは向かわない東の庭園の方にぼんやりと歩いていた為だろうか。

気がつくと脇の小道に迷い混んでしまったのだろう。

この王宮の中には王宮に仕える者達が使う小道が目立たぬようにいくつも張り巡らされていた。

どうやらマイスミもそんな小道の一つに迷い混んでしまったようだ。慌てて後ろを振り返るとカクと侍女の姿も見えない。きっと二人もマイスミの姿を見失ってしまったので慌てて自分を探しているだろう。

今来た道を戻るべきなのか、それともこのまま道なりに進んで行けば、どこかにたどり着くだろうか。

王宮の中にある道なので必ずどこかにはたどり着くだろう。そう思い、マイスミはゆっくり歩を進めた。

するとほどなくして先の方に何やら人の気配がする。

どうやら王宮に仕える者達がいるようだ。とりあえず誰かに声を掛けて東の庭園に向かう道まで案内してもらえれば。そう思って歩を進めると、マイスミの目の前には王宮の庭などの整備をしている者達であろう。

土を盛った手押し車や鍬を持った男達が数人いるが、なぜかマイスミの目は一人の男に吸い寄せられた。

明らかに他の男達と異彩な雰囲気を漂わせているのだ。

マルメルの国の者達はほとんどが寒い北の者だけあり、肌の色素が薄く肌の色が白く、髪の色も金髪か、いても淡い茶色の者がほとんどであり、瞳の色も碧眼である。

しかしその男は濃い焦茶というのだろうか。まるで土の、そう。それも養分をたくさん含んでいる肥沃な大地をなぜか連想させるような濃い髪の色をしている。

そして体格も大男というのではないが、痩せているが引き締まった身体からはなぜか人を引き連れて、どこか風を切って緑の広々とした草原を馬で自由に駆け巡っている。そんな姿がマイスミの脳裏に突如として浮かんできて、マイスミは秘かに狼狽した。

なぜ自分は今始めて見たこの男のそんな姿を思い浮かべてしまったのか。

男と周りにいる仲間とおぼしき男達の身なりからすると男達は侍従や衛兵でもなく王宮の下働き。言わば下男と呼ばれている者達だ。今までマイスミとこの王宮で出会った事はないだろう。

しかしこの広い王宮の中でお互い異質な者として生きてきた者同士だからなのだろうか。マイスミはなぜか彼の姿を見た瞬間、自分と同じ者がここにいた。

そう心の中で誰か、そうそれは心の中に秘かに住み着いている本当の自分であろう。もう一人の自分が心の中で叫んでいるのに気づいてしまった。

でもいったい彼はなぜ他の者と違うのだろう?

マイスミはそう思い、彼らの方に近づこうとしたその時の事であった。

この!何をやっているのだ!

いきなり怒声がして背の低い中年の男が彼に手を上げた。男の身なりからすると王宮に仕える者のようだが、マイスミが接する事がない下級の者のようだ。

王の妃で、しかも普段はめったに人と接する機会が少ないマイスミがこの王宮で接する王宮に仕える者と言えば自分付の侍女達か夫で王であるイクセル付の侍従達か薬師である。彼らは直に常に王族に接するだけあって特に選ばれた優秀で、かつ家柄も由緒正しい家の出の者がほとんどである。

その他に仕立侍女や刺繍侍女と会うとしても侍女長か副侍女長と会い、たまにその者達に従って若い侍女が付き従ってくるが、マイスミと話すのは侍女長達で彼女達と言葉を交わす事はない。

目の前でいきなり怒声を上げて手を上げたので、そういった乱暴沙汰に縁のないマイスミは驚きのあまり、息を飲んで凍りついてしまったかのように身動きもできず、じっとその場で立ちすくんでしまった。

彼は男に手を上げられたが黙って抵抗せずに殴られていた。男は更に調子に乗ったように次は彼の足を払うと彼は地面に転がった。そんな彼に追い討ちをかけるように今度は地面にうずくまった彼を蹴り始めた。

この!よそ者が!卑しい血のくせに大きな顔をしやがって!

よそ者?卑しい血?

その言葉にマイスミははっと息を飲んだ。

もしや彼はカチュの血を引く者なのか!

先ほど自分が彼を見た時に感じた肥沃な大地や風を切って馬で広々とした草原を駆け巡っているのはそれだからだったのか。

マルメルの北には国家を持たずに遊牧を行う民族がいる。彼らは馬の扱いに長け自分達の手足のように自在に馬を操る。彼らは国家を持たずに王も立てず、仲間を治める者は世襲ではなく、合議の上で優れた人望と馬の扱いに長けた者を選ぶ。そういった民であるので争いを好まず自分達から戦を仕掛ける事もなく彼らは彼らだけで自分達だけの世界で生きていた。

しかし、そうイクセルから遡って六代前の王の時であった。

同じ母を生母に持つ二人の王子が王座を巡って骨肉の争いを繰り広げたのだ。どちらが王座に着くのか見通しの立たない状況で多くのマルメルの貴族達はどちらに付くべきなのか決めかねていて、戦況を黙って眺めていて有利と分かった方に付こうという魂胆だった。

そんな時に弟の王子のセルマサが目を付けたのが北にいる遊牧民族の彼らであった。

セルマサは戦いを好まないが、戦いの時には戦力となる馬の扱いに長けた彼らを何とか取り込もうとした。

その時に拗れてしまった兄と関係を修復するのに手を貸して欲しい。争いではなく合議で次の長を決めているそなた達の知恵を借りたいなどと言葉巧みに近づき、セルマサに同情した一部の者達がマルメルの国に赴いたのだ。

しかし彼らが赴いた先はセルマサから聞かされていた話し合いの場ではなく戦場だったのだ。

結局彼らは実戦には加わる事はなかったが、彼らの勇猛な騎馬姿を見た者達は戦意を喪失し、また北の遊牧民達も兄王子ではなく、セルマサの方に加勢したという噂が広まり、戦況は一気にセルマサに優位になり、結局味方としていた者達も次々とセルマサの軍に寝返り、結局最後は兄王子は最後まで残ったごく数人の侍従達と共に自害してセルマサの勝利となったのである。

騙されて加勢してしまった遊牧の者達だが、彼らを仲間であった遊牧の民達は権力争いの殺し合いの加勢した者と見なし、戻って来る事を許さなかったのである。

元いた生きる場所にも戻れず、また新しく王座に着いたセルマサも自分の使った卑怯な手を知らしめたくなかった為彼らを冷遇してマルメルの国から追放しようとしたのだ。

彼らに同情したセルマサの妻で新しく王妃になったジツクルの懇願で何とか彼らはマルメルの国と元いた遊牧の地の国境の外れに僅かな土地を与えられ、彼らはそこに定住して新しく生活を始めた。

いつしか彼らは秘かにマルメルの言葉でよそ者という意味のカチュと呼ばれるようになっていたが、もちろんその言葉には蔑みの意味が込められていた。

更にカチュと呼ばれた彼らは不幸に見舞われたのだ。

戦いに協力する事になってしまった者達の家族は遊牧の仲間から追われて、カチュが暮らす村に身を寄せて生活し始めたが、元は遊牧の民で定住していなかった彼らが新しい生活を軌道に乗せるには苦労の連続であった。誇り高き遊牧の民の末裔が哀れに思ったジツクルからの施しで食い繋いで生きていく。そんな日々であった。

そしてジツクルの温情はいつしか王妃がカチュの代表であった男と秘かに床を共にしていて、それは王妃からの報酬であったと囁かれるようになっていたのだ。

恐らくジツクルが王妃であるのを良く思わない勢力が流した噂かと思うが、都や村々にその噂は広まったのだ。

カチュの者達は馬を手足のように操るだけあって、

まあ馬のような精力と言うだけあってカチュの者達は盛んらしいからなと下卑た笑いを浮かべて、彼らを蔑んだ。

そのような噂を立てられたジツクルは王宮を去ると、自ら命を絶ったのである。

ジツクルという支えを失ったカチュ達は自分達の妻や娘達に秘かに春を売らせるようになったのである。

彼らを買った者達の多くはマルメルの貴族で、そして妻との間に子のいない者達であった。

今でこそマルメルの法で禁じられているが、四代前の王の御代までマルメルの貴族の間では異母兄妹と従兄妹の婚姻が認められており、婚姻による土地や財産の分割を避ける為に多くの貴族達が近親婚だった。

 

その為か子に恵まれない。もしくは死産や無事産まれても病弱で成人しないといった問題が生じていたのだ。

 

カチュの女は好色で多産でしかも丈夫な子を産むらしい。そのような噂が広まり、跡継ぎに恵まれない貴族の夫婦が秘かにカチュの娘や妻を自分の屋敷や別宅に囲い混み、子が産まれると夫婦の間に産まれた子とされ、カチュの女達には金品が与えられ自分が産んだ子とは引き離され、二度と会えなかった。

 

イクセルの曾祖父である三代前のセクメス王の御代に近親婚が禁じられ、また以前の貴族だけでなく新しく商売などで財を蓄え、王室に献上した者達を新たに貴族に叙したが、それに猛反発したのが元からの貴族達であった。家柄を盾にする旧貴族と財力を物に言わせる新興貴族との王宮での覇権争いが激しくなり、それによって巻き込まれたイクセルの父も暗殺されたようなものだ。

 

中年の男は尚もカチュの彼に暴力を振るっているが、周りの男達も皆一様に黙って俯いて彼らを見ようとしない。関わりたくないのだろう。

 

マイスミは大きく一つ息を吐くと、止めなさい!

そう叫ぶと彼らの方にゆっくりと歩み寄った。

 

その場に居合わせた者達はいきなりの闖入者に驚いた様だが、いきなり現れた若い女の着ている物や立ち居振舞いから身分の高い、そう王家に近い間柄の者と判断したのだろう。慌てて姿勢を正すとマイスミに向かって深く一礼をした。

 

カチュの彼に暴力を振るっていた中年の男も慌ててマイスミに頭を下げたが、その視線は誰だ、この女は。といった警戒の眼差しを向けていた。

 

その時であった。マイスミ様!

いつもは冷静なカクとは思えないような慌てた声がして、カクともう一人の侍女が慌ててマイスミの姿を見つけて走って来た。

 

マイスミ様!ご無事でいらっしゃいましたか!

急にお姿を見失ってしまい、心配致しました!

そう言ってマイスミの所に駆け寄って来た。居合わせた皆がその声に驚いたようにマイスミを見つめた。

 

普段マイスミはめったに姿を見せないので王宮に仕えていてもマイスミの姿を見る事はないし、偶然姿を見ても何か大きな式典の際に壇上のイクセルの横に座るマイスミを遠目から眺める程度なので、マイスミの顔をはっきりと見て覚えている者達はほとんどいなかった。

 

しかし王様の元にセルシャの国から嫁いで来た若く美しいマイスミという妃がいるという事は記憶していた。

これはこれはマイスミ様。慌てて中年の男は深々とマイスミに頭を下げた。男もカクと侍女が現れた事によってどうやら王宮に不馴れなマイスミが間違って迷い混んでここに来てしまったと理解したようだ。

 

しかしカチュの男に暴力を振るっている所を見られて、ばつが悪いのか慌てておい。立つんだと地面に這いつくばっていた彼に手を差し伸べて慌てて起こした。

 

カチュの彼も黙って立ち上がるとマイスミに向かって無言で深々と頭を下げた。

 

良く見ると蹴られたせいだろう。彼の衣の肩の部分が少し割けて、そこから見えた盛り上がったたくましい肩が赤く腫れていた。

 

思わずマイスミは怪我をしているではないか!

大丈夫か!と彼の所に駆け寄ってしまったが、そんなマイスミに向かって彼は何も言わずに黙ってうつむいた。無意識にだろう。マイスミは彼を労るように彼の肩の部分に優しく触れようとしてしまった。

 

しかし周りの視線にはっとマイスミは我に返った。

慌てて自分の後ろに控えているカクの方に振り返るとカク。この者は怪我をしている。私の館に連れて行き、すぐに手当てを。薬師に見せるのだ。そう声を掛けると、カクと侍女は黙ってマイスミに一礼するとカチュの彼にさあと促した。

 

彼は一瞬迷った表情を浮かべたが、躊躇している彼に向かってカクがマイスミ様の温情だ。ありがたく受けるのだ。とぴしゃりと言い放つとその声に観念したようで、ぎゅっと口元を引き締めると黙ってマイスミ達に従って歩き始めた。

 

彼が歩き始めたのを確認したカクが

さあ、マイスミ様。参りましょう。

セジ、この者をマイスミ様の館に連れて行くのだ。

と控えていた侍女に声を掛けると一刻も早くマイスミをここから立ち去らせるように促した。

 

マイスミは黙ってカクを従え、来た道を戻り歩き始めた。

 

 

つづく