町田 千春 著 |
刺繍師番外編 ナトラス TOP |
ナトラスは気がつくとなぜか王宮内にある自分の館ではなく、前に刺繍侍女として働いていた刺繍室にいた。刺繍侍女長のアギ、副侍女長のカサの他に刺繍侍女達もいるが何かあったのだろう。皆席を立ち、ざわざわと落ち着かない様子である。
そんな刺繍侍女達を前にアギは皆、オクルスの兵がこの王宮を攻めに来て、程なくこの王宮内に雪崩込んで来るようだ。皆速やかにここから避難するのだ。皆いるか!と声を掛けた。皆慌ててはい。と返事をすると何かあった際の秘密の出口に向かって一斉に駆け出した。
ナトラスも皆に従って駆け出そうとしたが、なぜか自分の足には重い鎖がしっかりと絡み付いていて、自分だけここから動けない。
思わずすぐ隣にいた同じ日に王宮に上がったザホに、ザホ!助けて!わたし動けないの!そう叫んだのにナトラスの声が全く聞こえないようで無視したように目の前をザホは通り過ぎて行く。同じ東のタスカナの出のミボも目の前を通ろうとして自分の手の届く所にいたので、思わずその腕をぎゅっと掴もうとしたが手応えがなく、するりとすり抜けてしまう。
そんなナトラスの目の前にいたアギは居並ぶ刺繍侍女達の数を数えると、ザホにミボ、カヤもいるな。これで全員だな。では行くぞ!そう声を掛けたがナトラスは無視されたままだ。
アギ様!思わず元侍女であった時の呼び名でアギを呼んだが、 アギもザホと同じように自分を無視する。ササはここにおります!足に鎖が付いていて動けないのです!アギ様、助けて下さい!思わずナトラスはそう叫んだ。
アギはそんなナトラスの声に気付いていないのか、周りをキョロキョロと首を動かしながら誰かを探している。そして小さく、そうか。そうだった。トナはもうこの王宮にはいないのだったな。そう呟くとさあ皆、早く行くぞ!と叫ぶと部屋を出て行ってしまい、部屋には誰もいなくなってしまった。
そんなナトラスの目の前を故郷のコヌマにいるはずの両親と姉のサクと妹のホゾも同じように通り過ぎようとする。
思わずナトラスは声の限りに、父さん!母さん!わたしよ、ササよ!トナよ!助けて!そう叫んでみたが、先ほどのアギやザホと同じようにナトラスの存在に全く気がつかないように走り去って秘密の扉の方に逃げて行く。
助けて!わたしはここにいるの!
ナトラスは気がつくとなぜか王宮内にある自分の館ではなく、前に刺繍侍女として働いていた刺繍室にいた。刺繍侍女長のアギ、副侍女長のカサの他に刺繍侍女達もいるが何かあったのだろう。皆席を立ち、ざわざわと落ち着かない様子である。
そんな刺繍侍女達を前にアギは皆、オクルスの兵がこの王宮を攻めに来て、程なくこの王宮内に雪崩込んで来るようだ。皆速やかにここから避難するのだ。皆いるか!と声を掛けた。皆慌ててはい。と返事をすると何かあった際の秘密の出口に向かって一斉に駆け出した。
ナトラスも皆に従って駆け出そうとしたが、なぜか自分の足には重い鎖がしっかりと絡み付いていて、自分だけここから動けない。
思わずすぐ隣にいた同じ日に王宮に上がったザホに、ザホ!助けて!わたし動けないの!そう叫んだのにナトラスの声が全く聞こえないようで無視したように目の前をザホは通り過ぎて行く。同じ東のタスカナの出のミボも目の前を通ろうとして自分の手の届く所にいたので、思わずその腕をぎゅっと掴もうとしたが手応えがなく、するりとすり抜けてしまう。
そんなナトラスの目の前にいたアギは居並ぶ刺繍侍女達の数を数えると、ザホにミボ、カヤもいるな。これで全員だな。では行くぞ!そう声を掛けたがナトラスは無視されたままだ。
アギ様!思わず元侍女であった時の呼び名でアギを呼んだが、アギもザホと同じように自分を無視する。ササはここにおります!足に鎖が付いていて動けないのです!アギ様、助けて下さい!思わずナトラスはそう叫んだ。
アギはそんなナトラスの声に気付いていないのか、周りをキョロキョロと首を動かしながら誰かを探している。そして小さく、そうか。そうだった。トナはもうこの王宮にはいないのだったな。そう呟くとさあ皆、早く行くぞ!と叫ぶと部屋を出て行ってしまい、部屋には誰もいなくなってしまった。
そんなナトラスの目の前を故郷のコヌマにいるはずの両親と姉のサクと妹のホゾも同じように通り過ぎようとする。
思わずナトラスは声の限りに、父さん!母さん!わたしよ、ササよ!トナよ!助けて!そう叫んでみたが、先ほどのアギやザホと同じようにナトラスの存在に全く気がつかないように走り去って秘密の扉の方に逃げて行く。
助けて!わたしはここにいるの!
ナトラスは、はっと悪夢から目が覚めた。 はあはあとまだ息が少し荒く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
疲れが溜まっていたり、不安になった時はいつも同じ夢を見る。最近はこの夢を見ることはほとんどなかったが、王様の不在が一月も続いて、自分では気がつかないうちに不安が溜まっていたらしい。
オクルスの王の六十の誕生の記念の祝賀行事に参列する為に王様がオクルスの国に赴いて、約一月王宮を不在にしていた。オクルスとの関係上、オクルス王の遠縁の娘でもある南の出身の妃のメマリスとメマリスとの間に産まれた王子のセホトルを伴っての旅であった。オクルスの手前王様は自分を連れて行くことは叶わなかったし、ナトラスとてそれぐらいの事は分かる。けれど頭では理解していても心と身体は、やはり寂しく不安であった。
王様とメマリスは元々愛し合って婚姻したのではなく、王家と南との権力の為の政略結婚で自分が王様の寵愛を受けてから王様とメマリスはここ数年はすっかり疎遠になっていて夜を共にしていなかった。
けれども自分がいない一月の間に何かのはずみで二人が共寝する可能性はあるし、万が一何かのきっかけで二人の仲が良くなってしまう可能性も捨てきれない。王様とて別にメマリスのことを特に嫌ってもいなかったし、メマリスとて同じように王様を毛嫌いしている訳でもなさそうであった。
もし何かのきっかけで王様が心変りされてしまったら。
不安な気持ちを抱えていても、王様の妃の一人という立場上、皆の前で取り乱したり不安な素振りはできないし、溺愛してくれる父親の不在で不安になっている幼い二人の娘達の手前母である自分は何事もなく、いつも通りを装わなくてはならない。
娘達の館を出て、自分の館の寝室に戻ると大丈夫よ、大丈夫よと毎夜毎夜一人寝の寝台で自分に言い聞かせていたが、やはり自分で思っていた以上に辛かったようだ。
無理もない。いつもこの広い寝台の中で王様の温かい腕の中に包まれて眠っていたのだ。いつも側にいるはずの王様の温かいぬくもりも、自分を包んでくれる腕の強さも、優しく名前を呼んでくれる低い声もない。
どれだけ自分が餓えていたのか。
ナトラスは額の汗を手の甲で拭こうとして傍らから感じられる安らかな寝息と寝台の布越しに伝わってくる温かな体温、そして独特の汗の匂いにほっと息を深く吐いた。
今日の午後に待ちわびていた王様がついにオクルスから王宮に戻って来たのだ。大好きな父親の帰還に父に抱きついて喜ぶ娘達を見つめながら、ナトラスも一刻も早く自分も娘達のように王様に抱きつきたかった。興奮する娘達を何とか寝かしつけて、自分の部屋に王様と二人で戻った途端ナトラスは王様に自分から堪えきれずにぎゅっと強く抱きついた。
王様はそんな自分を優しく見つめると、トナ。会いたかったぞ。そう独特の低い声でナトラスの耳元でそっと耳に息を吹き掛けながら囁いた。
トナ。それは封印した自分の本当の名前だ。王様は二人きりになるとトナという自分の産まれた時からの本当の名前で自分を呼んでくれる。
自分が自分でいられる。二人きりの時には安心して立場も表向きの作り笑顔も全て振り捨てて、本当の自分に戻れるのだ。
そんな風にナトラスは感じられるのだ。
王様が尚もいたずらっぽい目をしながら、ナトラスの耳に息を吹き掛ける。王様を知るまで自分も知らなかった自分の身体を熱くする秘密の場所だ。この身体にはそんな秘密の場所がいくつも潜んでいる。それを暴いて、そしてそれを知っているのは王様だけだ。
ナトラスはくすぐったそうに身をよじらせ、口元からは早くも甘い吐息が零れる。それを合図のように王様のがっしりとした太い腕がナトラスの身体をぎゅっと強く抱き返すと、ナトラスの唇に王様の暖かく湿った唇がそっと触れてきた。
ナトラスは堪らなくなり、自然と王様を自分の中に招き入れるようにそっと唇を開いた。そんなナトラスの誘いに応えるように王様は深くナトラスの口腔内に入り込み、ナトラスは頭をのけ反らしながら無意識で王様の頭をしっかりと抱き返すと、その硬い髪の間に指を滑らせていた。
いつもよりも深くて長い口づけに酔いしれながら、ナトラスは朧気になっていく意識の中で妖しく甘い芳香を漂わせながら夜だけに花開いていく夜行花と自分の姿が重なっていくのを感じた。
自然と瞳は潤み、同じように自分の身体の芯もゆっくりと潤み始めている。夜露に濡れて妖しく咲く夜行花の発する甘い芳香に抵えずに虫が吸い寄せられるかの如く、王様はそんなナトラスをじっと熱っぽい視線で見つめてきた。
ナトラスも同じように熱く潤んだ瞳でじっと王様を見つめ返すと、吐息混じりの甘い声でこう呟いた。
どうぞ、私を王様で満たして下さいませ。
それを合図に王様は優しくナトラスを寝台に横たえると、その熱く大きな肉厚の手がするりとナトラスの肩から夜衣をそっと滑り落として、その代わりに王様の大きな身体がナトラスにのし掛かって来た。
ナトラスはそのしっかりとした身体の重みと少しざらざらした肌の感触、そして独特の汗の匂いをこの手でしっかりと味わうように、ぎゅっと強くその広い背中に自分の手をさ迷わせた。
王様の熱い腕に抱かれ、久しぶりの王様との夜を堪能して眠りについたが、どうやらそれでもまだ一月の空白を満たせるほどではなかったようだ。
なのでまたあんな夢を見てしまったのだ。水でも飲んで少し落ち着こう。そう言えば少し喉が掠れて痛い。あんなあられもない声を上げたのも一月振りだったので、喉が痛くなってしまったのか。
水差しは少し寝台から離れた台の上に置かれている。
ナトラスは自嘲気味に笑うと、疲れているであろう王様を起こさないようにそっと寝台から降りようとした。
しかしそんなナトラスの気配に王様は少し身動ぐとまだ眠たそうな気だるげな低い声で、トナ。どうしたのだ?そう尋ねてきた。
王様は安らかにぐっすりと眠っているとばかり思っていたナトラスはその声に驚きながらも、少し怖い夢を見て目が覚めてしまっただけでございます、王様。と王様を安心させるように何事もなかったような振りを装おって答えた。
一月にも及ぶオクルスへの長旅の上に気の張る外交の駆け引きもあって、口には出さないがさぞ疲れているだろう。それなのに王宮に着くや否や自分と娘達にたくさんの珍しい土産物を携えて会いに来てくれた。それだけでも十分なのに、自分をしっかり抱きしめてくれた。
疲れているであろう王様を休ませてあげなければ。ナトラスはそう思い、とっさに何事もなかったかのように振る舞っていた。
そんなナトラスに王様はそうか。と小さく呟くと、ではトナ。そなたが怖い夢を見なくていいようにしようではないか。そう優しくナトラスに微笑み掛けた。
怖い夢を見なくていいようにする?そのことばに小さく首を傾げて王様を見つ返したナトラスの耳元で王様はこう囁いた。
私がお前を怖い物から守ってやるぞ、トナ。だからそなたは安心して私の側にいるがいい。
そしていたずらっぽい目をして、眠らなければ怖い夢を見ずに済むのだ、トナ。そうナトラスの耳にそっと囁くと、また優しくナトラスの素肌に大きな手を滑らせていく。
二人の甘く密やかな夜はまだ明けないようだ。 完 |