町田 千春 著 |
刺繍師 番外編オクルス国のアスイル TOP |
叔父上ー。
遠くから声がしたので振り返ると、このオクルスの国の世継ぎの王子であるクロアスが私の姿を見つけたのかこちらに向かって一目散に駆け寄って来る。クロアスに従っている侍従達も皆慌ててクロアスに従って走って来た。
叔父上。そう言うとクロアスはぎゅっと私に抱きついた。そんなクロアスを傍らに立つ私の妻のミンダスは微笑ましそうに黙って見つめていた。
叔父上、お元気でいらっしゃいましたか?と言うと傍らに立つ妻にも叔母上もお元気でいらっしゃいましたか?とクロアスが笑顔で声を掛けるとミンダスは恭しく腰を折り礼をするとクロアス様もお元気でいらっしゃいましたか?と返した。
クロアスは私にとっては甥だが、このオクルスの王である兄とは十四歳も違い、五歳年下のクロアスの方が本当の弟のようだ。
セルシャの国の王女であった母は王妃にこそなれなかったが、三人の王子と二人の王女を産み、王妃様に王子がいなかった為兄がこの国の王となり、王の生母として母は亡くなるまでこの王宮で絶大な権力を振るい、母の望みはほとんどが叶えられたのだ。
兄や姉達と年の離れた子であった私は母たっての願いで乳母の手ではなく母によって育てられたのである。父王も私の他に四人も王子がいて皆健康に育っていたので、元より五番目の王子である私には全く王座を期待していなかったので母の願いを聞き入れて、私は母が亡くなる十歳の時まで母の手元で育てられたのである。
母は父と話す時こそオクルス語で話していたが、自分の館では身の周りにセルシャ語を話せる者達を置いていたので、その為私は自分の国の言葉であるオクルス語よりもセルシャ語の方が得意で、物を考える時ですらセルシャ語で考えてしまう。
叔父上聞いて下さい。そう不満そうに口を尖らせながらもクロアスはなおも私に甘えながら話して来た。どうやら長くなりそうだ。クロアスは私が王宮に上がると何かと理由を付けて私の所にやって来る。まあそれは何かと理由を付けて王宮に呼び寄せる兄も同じだが。全く親子揃ってそんな所は似ているのだ。顔は全く似ていないのに。兄王の妃で今のオクルスの王妃様に良く似た甥の顔を見つめた。
本来結婚した王子は王宮ではなく都にある離宮に住まう事になり、既に妻を迎えた他の兄達も皆いくつかの離宮でそれぞれ暮らしているが、私がミンダスを妻に迎える時に兄は離宮ではなく、この王宮に残って暮らさないかとしつこいぐらいしきりに薦めてきた。
母上の暮らしていた館が空いているし、クロアスもお前を慕っている。亡き母上の遺言でどうかアスイルをくれぐれも頼むと言われているので、このまま王宮に残らないか?何、周りが何か言っても私の意向で亡き母上の遺言でもあると言えば皆従うであろう。構うものか。
そう言い放ったので私は秘かに頭を抱えた。またいつもの亡き母上の遺言が始まった。またこれだ。同じ場に居合わせた同腹のもう一人の兄のカチハズは黙って面白そうにニヤニヤと笑いながら兄王が亡き母上の臨終の際に自分に弟の事を頼むと言った時の話を始めたのを眺めていた。
母違いの二人の兄達も、もう何百回も繰り返されたであろう話を聞かされているが、さすがに母違いの王である兄には何も言えないのか内心はうんざりしているであろうが、そんな素振りも見せずに黙って傍らで聞いている。
五番目の王子である私は本来王宮でさほど高い地位には付かないはずだが、兄王の意向で二番目の兄のカチハズと同等の地位を与えられている。
その時も慣例に従ってもっと下の地位でいいと言う私の必死の抵抗も空しく、兄王の独断で決定したが、周りの者達は誰も異論を述べられなかった。
兄王はいささか独断的とも言えるほどの権力を掌握していて、王が権力争いの道具にされている母の産まれ故郷でもある隣国のセルシャの国や我が国の最大の敵と目されるマルメルの国のような事は起こっていないが、その権力を私ごときの事で乱用しないで欲しい。
婚儀も本来五番目の王子の婚儀など王族として最低限の対面を保つ程度のものでいいのに、他の兄上達と同じようにして欲しいという私の望みを退けると兄はわざわざ他国からも参列者を招くほど、まるで世継ぎの王子の婚儀であるかのように盛大に行った。
何。構うものか。お前の婚儀なのだぞ。盛大に祝ってやらないとあの世の母上に申し訳が立たないではないか。お前の事はくれぐれも頼むと言われているのだ。たった十歳のお前を遺していくのが悔しくてたまらない。私はアスイルとミンダスの子の顔が見たかったと死の床でも繰り返された母上のお気持ちが分からないのか。
それにミンダスを妻に迎えるのだ。盛大に祝ってやらねば王妃様や姉上にも申し訳ないであろう?そう私が納得せざろう得ない弱い点を確実に突いてくる。
私への過度な溺愛云々は別として兄はこの強大なオクルスを治める王としての手腕は確かで政治家としても認めている。ただし私への過度な溺愛は止めて欲しい。
私が本来は一国の王妃であるのに母に遠慮して王宮でひっそりと暮らしていて、母が亡くなった後に何かと影で私を気遣って支えてくれた王妃様に恩義を感じているのを知っていて兄は王妃様の名を出すのだ。
また父王と王妃様との間のたった一人の娘であった姉とは十六歳も年が離れているので、私が産まれた時にはもう既にこの国で一、二を争う名門貴族の元に嫁いでいたのでこの王宮で一緒に育った事は一度もないが、同じ父の元に産まれた姉弟という事で何かと可愛がってくれた。
ちらりとクロアスの傍らに控えるクロアスの侍従長に視線を送ると、すかさず侍従長がクロアス様。立ち話も何ですのでアスイル様とミンダス様をお部屋にお招きしてお茶でもいかがでしょうか?と勧めると、叔父上、叔母上。ぜひ私の館に来て下さい。
そうだ。ちょうど良い。すぐに使いを出してキシルスも呼ぶのだ。そう侍従長に伝えると傍らにいた侍従が一人黙って頭を下げると急いでキシルスの館の方へと走って行った。
さあさあ、叔父上、叔母上。行きましょう。そう言って私の腕に自分の腕を絡ませると弾んだ足取りでクロアスは歩き始めた。
仕方ない。まあ兄上に会うよりいいか。
私は内心苦笑しながら、クロアスの館へと歩き出した。
クロアスの館に着くと既にクロアスの妃で将来の王妃となるキシルスが茶の用意と共に待っていた。
キシルスはセルシャの国の王女で今のセルシャの国の王の異母妹に当たるが、七歳の時からこのオクルスの王宮で育っているので私とは逆に母国語のセルシャ語よりオクルス語の方が得意で、たまにキシルスの書いたセルシャ語の文を読むとあまりの綴りや文法の誤りに呆れてしまう時すらあった。
陽気でおおらかで小さい事に拘らない、ある意味将来の王妃にふさわしいとも言えなくもないが器の大きいとも言える性格で、一つ年下のクロアスとは共に育ったお陰で男と女として愛し合っているかは謎だが、姉弟のように年中一緒になって何かと楽しそうに騒いでいて、それはそれで微笑ましい。
たった七歳のキシルスがオクルスの国に渡ってきたのには理由があった。
亡き母の二つの遺言の内の一つ、自分はこのオクルスの国の王妃にはなれなかったのでどうかクロアスの王妃にはセルシャの国から王女を迎えて欲しい。それとアスイルの事はくれぐれも頼む。
母の遺言を受けて兄王はすぐに動いた。前のセルシャの王には王女はキシルスとキシルスの姉のマイスミしかおらず、早くしないと他の者との婚姻が決まってしまう可能性もあるし、成長して周りからオクルスについての悪い噂を聞いて先入観を持つ前にオクルスの国に連れて来て、育ててしまえばそれもない。それに将来の王妃になるならば一日も早く王妃教育を始めた方が良い。
頭の回転が早く口もうまい交渉上手な兄のカチハズが兄王の名代としてセルシャの国に赴き、たった七歳のキシルスを将来の王妃として迎えるので両国での準備が整う半年後にはオクルスに遣わして欲しいとの約束を見事取り付けたのである。
幼いキシルスを他国に嫁がせるのにセルシャの国の王が同意したのはやはり両国の力関係だ。オクルスの国が正式な王の使者として王弟自らが出向いて行き、交渉したのであれば断れないであろう。
それにオクルスにはセルシャの国の王の異母妹であるミナマサがいるので母親代わりになってくれるという事もあってセルシャの国の王は幼い娘を手放したのである。
小さい事に拘らないおおらかな性格が幸いしたのか、幼いのに他国に来たキシルスはすぐにこのオクルスの王宮にも慣れ、今ではすっかりこの国にも、この王宮での生活にも馴染んでいる。
クロアスとキシルス、そしてミンダスと皆で円になり卓に座って、茶を飲みながら何やらなごやかに談笑している。
私はそっと妻であるミンダスを見た。
ミンダスはクロアスを見て、何か想うのだろうか。しかし妻の横顔からは何も伺えなかった。
ミンダスは私にとっては母違いだが姪に当たる。
ミンダスの母は父王と王妃様との間に産まれたたった一人の王女で、私達兄弟姉妹の長女に当たる。
当初ミンダスは家柄からして将来の王妃として従弟のクロアスの元に嫁ぐであろうと囁かれていたが、母が将来の王妃にはセルシャの国の王女をと望んだので、キシルスが将来の王妃に決まった。
それに私とミンダスの結婚が決まったのも母の意思と言うか我儘でもある。
私が九歳の時に母は病に掛かり、もう長くはないと分かったのだが、母はアスイルの子の顔を見れないのも悔しいが、せめてアスイルの妻となる者を決めたい。そうでなければ死んでも死にきれないと騒いだのだ。
慌てた父王とその時はまだ世継ぎの王子であった兄は急いでミンダスを私の妻に選んだ。この国で一、二を争う名家の娘であるミンダスならば母も文句は言わないであろう。
斯くして私が九歳、ミンダスが五歳の時に父王と母の前で婚約式なるものを行ってそれぞれ署名をしたが九歳の私ですら良く分かっていなかったので、五歳のミンダスは訳が分からないうちに将来の夫が決まってしまったのである。
未来の王妃から王座に着く事は絶対にあり得ない五番目の王子の妃になる事になってしまった妻だが、成長するにつれ、私はアスイル様の妃になれるので嬉しいですと言い出していた。
確かに彼女の祖母である王妃様と母である姉上に似ているだけあって、控えめでおっとりとした性格のミンダスと好奇心旺盛でやんちゃで騒がしいクロアスとは正直あまり合わないと思う。
クロアスが十歳の時にキシルスとミンダスを自分の館に招いて茶会を催したが、二人が茶器の蓋を開けるとそこには数十匹もの虫が入っていた。王宮で振る舞われる物にそんな物が混入しているはずはないので、明らかにクロアスの仕業だった。
それを見た途端にミンダスは黙ってしくしくと泣き出し、キシルスはクロアスを激しく叩いて抗議したが、クロアスは悪びれずに可笑しそうに笑っていた。
まあ母も兄も二人が性格的に合わない事は見越していたのかも知れない。それに敢えてミンダスを私の妻にしたのも、次の王の舅としてミンダスの父が権力を握らないよう牽制する意味もあったようだ。
母がセルシャの王女を王妃にすると言ったのも、単に自分の祖国を贔屓するだけではなく、オクルスとセルシャの国の結び付きが強くなれば、マルメルの国への抑止力にもなるという政治的な計算もあったのである。
父王より政治的な才能のあった母の血はどうやら二人の兄達には引き継がれたが、正直私は政治的な駆け引きや権力には全く興味がなかった。
私が政治や権力には興味がないと言った時にアスイル様は恵まれた境遇でお育ちだからですよと言った者がいるが、同じ母の元に産まれて育った環境も同じはずの私と兄達なので、それは違うはずだ。むしろ母の手元で育った私の方が母に似て政治や権力に関心があるのならば納得できるが。
同じ両親を持つはずなのに似ていないのは女への関心もだ。
兄のカチハズはたまに兄上の役目はこのオクルスの国の民を慈しむ事で、俺の役目はこのオクルスの国の女達を慈しむ事で、お前の役目は兄上に可愛いがられる事だなどと笑えない冗談を言うが、同じ両親から産まれたというのに兄のカチハズの精力旺盛さには呆れてしまう。
兄も兄王に負けず劣らず政治的な才能があるが、立場上兄を支えるのだけなので精力が有り余っているのだろう。
兄王も一国の王としてクロアスの母である王妃とセルシャの国から嫁いで来たミナマサともう一人貴族の娘である三人の妃がいるが、兄は一国の王でもないのに五人もの妃がいるだけでなく、他の女にも手を出しているという話は耳に入ってくる。口が上手いので女達もつい兄に口説かれるとその気になってしまうのだろう。
ミンダスが私の妻になってそろそろ一年になるが、床を共にしたのはほんの数回だ。夫として不甲斐ないと言われてしまえばそれまでだが、どうもその気が起きない。あまりにも幼い頃から身近にいた為に妹のようにしか見れないのかも知れない。
実際妹も弟もいない末子の私にとってはミンダスは妹のようだし、クロアスは弟のようだ。
それにミンダスには申し訳ないが、私の心の奥にはずっと一人の年上の美しい人が住んでいる。
それは私だけの秘密だ。
私が正式にミンダスと結婚したのは私が二十二才の時なので、王子としては遅い年齢だ。
ミンダスとは私が九歳の時から婚約者という事で、事ある事に何かと顔を合わせていたが、いつまでも婚儀を挙げなかったのは兄王が世継ぎの王子の婚儀を差し置いて臣下となる王子が先に婚儀を挙げるのはいかがなものかと言い出したのだ。私が婚儀を挙げて王宮から去るのを阻止しようという魂胆が見え見えの理屈である。
婚姻前に兄王の名代としてセルシャの国に赴いた時にあの人と出会ったのだ。
予てよりずっと母の生まれ故郷であるセルシャの国に行ってみたかったが、何かあったらどうすると有らぬ心配をする兄王に止められ、一度も行けなかったのだ。私は幼い頃から過度にいろいろ与えられ過ぎた為か何かを強く望んだり、求めたりする事がなかったが、幼い頃から母から何度も繰り返し聞かされていて心の中にまだ見ぬセルシャの国の風景が浮かんでくるようになっていた。
どうしてもセルシャの国に行ってみたかった。それに誰かが私を待ってくれている。どこかそんな不思議な想いがあったのだ。
渋る兄王にせめて婚姻前に一度でもいいから行かせて欲しいとの何度も粘って、ずるい手だが兄王を説き伏せるのに兄や姉達にも懇願し兄王を説得するのに援護をしてもらい、やっと兄王も一度だけならばと渋々認めたのだ。
父王も母ほどではないが末子の私を何かと可愛がっており臨終の場で兄姉達に向かってくれぐれもアスイルを頼む。そうでなければあの世でお前達の母上に顔向けができないと言い残している。一国の王として兄王に国を頼むとでも言ってくれれば良かったのだが。
まあ父王より母の血を引いた兄王の方が明らかに政治的な手腕に優れていて、父王の御代より上手く国を治めているのでそう言えなくて私の事を言ったのかも知れないが。
こう伝えたので兄王だけでなく他の兄や姉達も過度に私の世話を焼きたがり、それを知っている王宮に仕える者達も追随する。時に煩わしくらいだが、その時ばかりは姉達に泣きついた。
めったに私から頼み事をする事がなかったので姉達はここぞとばかり奮闘した。姉達も母譲りの性格で兄のカチハズのように口が上手く交渉上手だ。姉達と兄の三人はあらゆる方面から手を回して兄王を説得に掛かった。さすがの兄王も三人から攻撃されれば折れるしかない。
斯くして私は兄王の名代としてセルシャの国に赴いたのだ。
事前に兄王の妃でセルシャの王女であるミナマサからセルシャの国の王の妃で実際に王宮の全てを取り仕切っているナトラスに文を送っておいてもらい、セルシャの国に着いたらセルシャの国の王宮に仕える刺繍侍女と仕立侍女に会わせて欲しいと頼んでおいたのだ。
私は政治や外交の駆け引きには全く興味がなかったが、母の手元で育てられた為だろう。衣。特にその国独自の織りや染め、刺繍などについて関心が深かった。権力を握っていた母の元には次々にあらゆる美しい衣や織物、染物や刺繍が刺された帯などが献上されてくる。毎日のように新しい物を見ていた気がする。
母は刺繍の帯を手にすると決まっていつも、この刺繍も美しいけれどセルシャの国の王宮で刺された刺繍の愛らしさには敵わないわ。オクルスの刺繍は派手過ぎるわ。セルシャの国の刺繍の繊細な愛らしさが懐かしいわと口にしていた。
母の望郷の念と少女時代の追憶も含まれていたと思うが殊更セルシャの国の刺繍について誉めるので、そんな刺繍を刺すという王宮の刺繍侍女に会ってみたかったのだ。
セルシャの国に着いて本来の目的の外交や塩の権利についての交渉は兄王の選んだ腕利きの通師達に任せて私は妃のナトラスに面会して、早速刺繍侍女長と仕立侍女長の二人に引き合わせてもらったのだ。
その時、私の目の前に現れたセルシャの国の刺繍侍女長であるアラに私は驚いて目を奪われた。
まずその美しさである。北の領地であるクナナスの出だそうで私達マルメルの国の者と似て金髪に碧眼の女だった。流れるような豊かな金髪を結い上げ、そして全ての顔の造作がまるで緻密に精巧に作られたように整っている。知的な雰囲気を醸し出す薄く引き締まった口元も魅力的だが、何よりその一見整い過ぎている故に冷淡にも見える顔立ちと相反する、静かだが意思のこもった青い瞳の眼差しの強い輝きに私はすっかり魅了されてしまったのだ。
それに先輩である刺繍侍女達を差し置いて二十歳の若さで刺繍侍女長になったという有能さにも感服してしまった。一緒に引き合わされた仕立侍女長はアラの母親ほどの年齢であったから、その若さで刺繍侍女達を取り仕切っていると言うのだから素晴らしい。刺繍侍女長となるには刺繍の腕は元より、人望があり多くの刺繍侍女達を纏める統率力がなければ務まらない。
私は自分にない物を持っているアラに我を忘れてすっかり惚れてしまったのだ。
私はすぐ様アラについて調べさせた。若くして刺繍侍女長に上り詰めただけあって彼女の存在はセルシャの王宮でも有名であったので、彼女に関する情報はすぐに得られた。
それにあの美貌だ。無論皆気になる存在であろう。特に男達は。恋に落ちるかは別としても、あの美貌に目を奪われない男はいないであろう。
なのでアラに求婚した男はこの王宮で三十人にも、五十人も下らないという噂はすぐに耳に入った。けれどアラは将来刺繍侍女長になるという望みを抱いて、クナナスの領主に自ら願い出て王宮に上がったそうで、この王宮に仕える高位の男達から求婚されても全くなびかなかったそうだ。
実際アラは刺繍侍女長としても有能で、彼女が刺繍侍女長に就いてすぐに刺繍侍女達の待遇改善として、勤めが休みの日の外出を認めるようにしたそうだ。今までの刺繍侍女長達が行えなかった事を断行したのだから決断力と実行力のある強くて美しい女なのだ。
高嶺の花として崇められているが、そもそも王宮に士官しようという男達は出世欲が強い者達が多いので、彼女はそういった男達の闘争本能と獲得本能を刺激するのであろう。
アラには一度元王宮の副衛兵長の男と噂があったらしいが、どうやらそれは噂に過ぎなかったそうだ。彼女と同郷のクナナスの出なので親しくしていたがそれは単に同郷のよしみで、その男はアラと共に刺繍侍女になった東のタスカナの出の娘と結ばれたそうだ。
そんな彼女なので私の王子という地位には興味を示さずに簡単にはなびかないであろう。実際セルシャの国に赴いて私が未婚の王子だと言う事で私に秋波を送ってくる侍女達がいたが、彼女はそんな女ではない。
しかし私は今まで色恋沙汰に興味がなくそれにミンダスという婚約者もいる。男と女云々は別としてもミンダスは気心が知れているし性格的には合うので夫婦としては上手くやっていけるだろうと思っていたので特段他の女を
私も王子として年頃になった時に王宮の慣例に従い、年上の貴族の奥方の一人を宛がわれ女の抱き方の手解きを受けたが、その後自ら彼女を王宮に呼ぶ事はなく月に一度まるで王宮の薬師が体調を診に来るように彼女が赴いて来て相手をするぐらいであるくらい私は性的な面では極めて淡白であったが、初めてアラは自分の物にしたいと思い、アラと結ばれる姿すら想像してしまった。
アラは私が会って話を詳しく聞きたいと使いを出すとすぐ求めに応じてくれた。
無論私がオクルスからの賓客であり、ナトラスや王妃であり私の遠い縁者でもあるメマリスからくれぐれも失礼のないようにと言い渡されているのであろうからだと思うがそれでも嬉しかったし、普段は煩わしい王子の地位もこの時ばかりは感謝すらした。
私が興味を示していると知って王宮に伝わる昔の刺繍侍女達が刺した見事な刺繍の数々を携え私が滞在している王宮内の館を訪ねて来てくれ、詳しく説明してくれたが要点を得た説明だし、私の問いかけにも直ぐに的確な答えを返してくれた。私が刺繍以外の話を向けても優しく応えてくれる。
話すと賢いだけでなく、一見冷淡にも見えるが実は情に厚い優しい女だとすぐに分かり、私はアラと過ごす時間が楽しくてたまらなかった。
それに一見冷淡そうに見える女が情に厚く優しくそして他の男にはつれないが、自分にだけ優しくしてくれると男は勘違いしてしまうようだ。兄のように女慣れしていれば違うであろうが私は色恋沙汰に慣れていない。兄のカチハズのように慣れていれば。いいや。百戦錬磨の兄ですらアラはなびかないかも知れない。
それでもセルシャの国にいる間中何かと暇を見つけては上手い理由を付けてアラと会ったがアラも私の人柄は幸いにも気に入ってくれたようで、会うと控えめだが賓客に対する儀礼的な笑顔ではなく、親密さを感じられるような笑顔を向けてくれていた。
私はセルシャの国を発つ前夜に秘かにアラを王宮の庭園の東屋に呼び出し、想いを伝えた。
しかしアラは私には申し訳ないくらいありがたいお話ですし、あなた様のお人柄には敬服しております。けれど私は王宮の刺繍侍女として生きていく道を選んだのでございます。なのであなた様に着いて生きていく事はできません。お許し下さいませ。
そう私に済まなそうな、そして少し寂しそうな目をして言った。
真摯に私の想いを受け止めて正直な自分の偽らざる気持ちを伝えてくれたアラに私も思いの丈を伝えると、その美しい頬に触れるか触れないかぐらいの別れの口づけをすると、アラの身体からはほのかにアラが懐深くに潜ませている香袋だろうか。艶やかな花とどこか力強い樹木の混ざったような香りが微かに私の鼻孔を掠めた。
私はアラのなめらかな頬の感触と微かな香りを記憶に留めながら、彼女の元を去った。
そしてオクルスの国に戻って半年後に予定通りミンダスとの婚儀を挙げたのだ。
私が物思いに耽ってあの人の事を思い出しているうちに三人の話は別の話になったようだ。
キシルスがミンダス様。ちょうどセルシャの母が荷を送って来たのです。宜しかったらミンダス様にこちらを差し上げようと思いまして。そう言うと傍らに控えさせていたキシルス付きの侍女長に包みを持って来させた。
包みからするとどうやら刺繍の帯らしい。ミンダスが包みを空けるとセルシャの国で愛されている可憐な赤いサラシュの花が幾重にも咲き乱れるように刺されている。可憐だが見事な刺繍である。
私よりミンダス様の方が似合うと思いまして、もしミンダス様がお気に召したのでしたら差し上げたいと思いますのとキシルスが続けた。
私が思わず見事な刺繍だなと口にするとキシルスはアスイル様。お褒め頂きありがとうございます。これは我が国の王宮に仕える刺繍侍女長のアラという者が刺した刺繍にございます。アスイル様からその様に仰って頂けたのなら光栄でございますと微笑んだ。
やはり幼くしてセルシャの国を離れたとは言えキシルスにとっては祖国だ。誉められて嬉しいのだろう。
それより私はこの刺繍の帯を刺したのがあのアラと知り、先ほどまで彼女を思い出していたのは偶然の一致ではなく何か運命のようなものを感じていた。
もし今日あの場所でクロアスと会わなかったら。兄王の妃で今の王妃様がミンダスに会いたいと言っているので二人で共に王宮に参内して挨拶するようにと兄王の命がなければ。王妃様のご都合が良かったのが今日のあの時間でなければ。もしキシルスがミンダスと二人きりの時に包みを見せていたら。私はこの刺繍の存在も知らずにいたし、今私が誉めなければキシルスは誰が刺した刺繍なのか話さなかったかも知れない。
私は思わずキシルス。申し訳ないがこの帯は私に譲ってくれないか?そう口にしていた。
キシルスもクロアスも、そして何よりミンダスは驚いた表情を浮かべている。明らかに女物と分かる帯だ。私が身に纏うはずがない。
ミンダスは小さく震えたようにアスイル様、それはどなたかにと小さく無意識に漏れ出たように呟いていた。私は慌てて、そうだ。そなた達も知っている私の大切な人の墓前に捧げるのだ。もうすぐ命日だし、産まれ故郷のセルシャの国の王宮で刺された物と知れば、あの世で泣いて喜ぶだろうねと少しいたずらっぽい目をして笑顔を
キシルスもミンダス様。それではこれはアスイル様にお譲りしてよろしいでしょうかと言うと、ほっとした表情を浮かべたミンダスはええと笑顔でキシルスに答えた。
私はアラが刺した美しい刺繍の帯をそっと撫でた。
あの人は今もセルシャの国の王宮で強く美しく生きているのだと思ったら、私は自然と笑みが浮かんできていた。
私の心の中で今もあの人は美しく輝き続けている。
完
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