町田 千春 著
 刺繍師 その後の王宮編     TOP





ナトラス様が急にお亡くなりになったそうだ 勤めから戻った夫のカイはトナの顔を見ると、言い出しにくそうな表情で口ごもりながらトナにこの訃報を伝えた。 カイの視線は大丈夫か?とトナを心配して優しく見つめてくる。トナが王宮で仕えていた時にナトラスに目を掛けられていた事は無論カイも知っている。 トナは思いもよらなかった突然の訃報に動揺しながらも小さくカイに向かって頷くと視線でなぜ?と問いかけていた。 今トナとカイは都から遠く離れたカイの故郷でもあるクナクスのマルメルの国との船が行き交う港町のスセリで暮らしていた。夫のカイは元は王宮の副衛兵長であったが今はここで沿岸警備長の任務を賜っていた。 カイの主な仕事は不審船がいないか見張ったり、距離は離れているが対岸にあるマルメルの国の情勢を港に着いた船員や商人から聞いたり、自分が見聞きして感じた事を王宮に報告する事であった。カイは一時マルメルの国に赴いていた事があり、事情がありセルシャの国に戻れなかった間にマルメル語を学び始めて、セルシャの国に戻った後もマルメル語を学んだので今では難なくマルメル語も話せ読み書きもできるし、マルメルの王宮に仕える者達と人脈も築いていた。その為に王宮に仕えるより沿岸警備長の方がふさわしいとの事で派遣されたのだ。しかしこれも裏でナトラスが手を回してくれたからだとトナは気がついていた。 トナが王宮を去ると決めてすぐにカイと結ばれる事になったのだ。しかし病で王宮を秘かに去った事になっているトナを妻に迎えるにはどうしたら良いのか。ナトラスはそれを知って直ぐ様トナとカイにとって最良の道を王様からの王命という形で与えてくれたのだ。 カイにマルメルの国で学んだ事を生かして将来沿岸警備長の職に着いて欲しい。今の沿岸警備長が数年で年老いて退任するまでの間、北のサクチリ領主の元に仕えてマルメルの国の王の従妹でもあるサクチリ領主の奥方からマルメル語やマルメルについて詳しく学んで欲しい。そう王命が下ったのだ。王命を受けてサクチリ領主もカイを丁重に迎えてくれた。 それだけでなくナトラスはサクチリ領主の妻であるハガラスにも用意周到に根回しをしておいてくれて、トナをハガラス付の刺繍侍女にと推薦してくれていたのだ。 結局トナは王宮を去って半月ほどは故郷のタスカナに戻り、十数年振りに家族との再会の時間を懐かしく楽しんだ後にタスカナの領主経由でナトラスからこの後北のサクチリの領主の奥方の元に仕えるようにという 文を受け取り、ナトラスからの直々の文に驚いたタスカナの領主がサクチリまでの馬車や途中の宿まで手配してくれた。 到着したトナを先に到着していたカイが優しく迎えてくれた。サクチリでの新しい生活に慣れた頃に二人は正式に夫婦となった。そして数年後に二人はスセリに赴き、その地で二人の間の始めての子のサミを授かったのだ。その後二人の間には三人の子に恵まれ、トナはこのスセリの地でカイと子供達と穏やかな日々を過ごしていた。 トナの視線に促されてカイがトナを気遣いながらも今日王宮から届いた知らせの内容を伝えてくれた。 王様は退位された後、都にある離宮で暮らすという慣例に従わずに二人の元王妃であったメマリスとルカララは都にある離宮に残し、自分は最愛のナトラスだけを伴い都から遠く離れた東の森の側に新しく名ばかりの小さな離宮を建て、そこでほんの数人の侍従や侍女と暮らしていた。



半月ほど前の満月の夜のことであった。 ナトラスは夕食後一人深い森を背にした庭で静かに佇んで空の満月を仰ぎ見ていた。 普段そんな事をしないナトラスの姿に王様も驚いていたが、どこか不思議な、そうどこか静謐で神聖な美しさが漂っていて王様もその姿に躊躇して声を掛けられないでいたそうだ。ほどなくして王様の視線に気がついたナトラスが振り返り王様ににっこりと優しく微笑むとようやく王様はナトラスの側に寄った。 何を見ていたのだ?王様がそう尋ねるとナトラスは尚も優しく穏やかに微笑みながら、そうですね。私の子供の頃やオクルスとマルメルにいる娘達の子供の事を思い出しておりましたと答えると、そして王様と始めて出会った時の事も思い出しておりました。と言うと いろいろございましたが、私は王様のお側にいられて幸せでしたわ。その事を噛み締めておりましたの。 そう囁くように言うと王様の肩に自分の頭をそっと預けた。王様もそんなナトラスを静かに抱き寄せて二人はしばらく寄り添って夜空の月を仰ぎ見ていたそうだ。 その後二人はもう休むと言って寝室に向かったそうだ。なので仕える者達もそこで下がったそうだ。 翌朝仕える者達は慌てて寝室から飛び出して来た王様の姿と言葉に皆驚いたそうだ。 誰か!すぐに薬師を呼んでくれ!ナトラスが、ナトラスが息をしていないのだ!早く‼ 最後はいつもは穏和な王様とは思えないような罵声にも近いような激しい声に慌てて寝室に向かった。 いつもは王様より先に起きてくるナトラスが寝台の上で静かに横になっている。しかしその穏やかな寝顔は 安心して休んでいる。そんな風にしか見えなかった。 慌てた侍従の一人が失礼致しますと断るとナトラスの側に駆け寄りナトラスの身体を起こそうと触れるとナトラスの身体は血が通っていないかの如く冷たくなっていた。 ナトラス様!思わず侍従は少し手荒くナトラスの身体を揺さぶったが、ナトラスの身体は力なくだらっと前に倒れて揺れただけで一切声を上げなかった。 部屋にいた者達が一斉に皆息を飲んだ。 数秒皆息を飲んで凍りついたように固まっていたが、慌てて薬師を呼びに走った者、ナトラス様と泣きながらその場に崩れ落ちた者。涙を隠そうと皆に背を向けて声を殺して泣き出した者。王様!と王様に声を掛けた者がいた。その中で王様もただ呆然と立ち尽くしていたそうだ。 その後慌てた駆けつけた薬師によってナトラスの死が確認されたそうだ。ナトラスは特に持病もなく眠りにつく前まではいつもと同じように、そう王様に抱かれてその後眠りに着いたそうだ。 いつもなら自分が目覚めたら時には先に起きているナトラスがまだ休んでいるので、何気なくそっとその手に触れてみて血の通っていないような冷たさに慌ててナトラスを見つめると呼吸をしていない。そこで王様は異変に気がついたのだ。 薬師は急な心の臓の病で恐らく一瞬だけ苦しんだのか、それとも苦しみを感じる間もなくこの世を去ったのか。なので苦しみの声も上げなかったのかも知れないので傍らにいた王様も気づかなかったのではと、王様を気にしながら静かに伝えたそうだ。


ちょうど半月前の満月の日。 だとしたらきっとあの日の、そして恐らくはあの時であろう。あの時きっとナトラスはこの世を去ったのだろう。トナはあの時の不安な気持ちを思い出して思わずぎゅっと目を瞑った。 ちょうど半月前の満月の日であった。内容は薄ぼんやりとしか覚えていないが、何か重苦しい嫌な夢を見ていて明け方にトナははっと目を覚ましてしまった。 傍らにはカイが休んでおり、カイは深い眠りに着いているようで規則正しい寝息が聞こえている。トナもあれは夢だったしと気を取り直して、もう一度眠りに着こうと横になったがすっかり頭が冴えてしまって一向に眠気は襲ってこなかった。 トナは眠るのを諦めてカイを起こさないように静かに寝室を抜け出し、家族が食事を取る部屋の窓辺に椅子を静かに置くと月明かりを頼りに刺しかけの刺繍を刺し始めた。 スセリに来てからはカイや自分や子供達の帯などの刺繍をしていたが、いつしかトナの見事な刺繍を見た者達から自分の帯も刺して欲しいと頼まれるようになり、そしてトナが元は王宮の刺繍侍女であったがカイの妻になる為に王宮を辞したという話がどこからか伝わって、今では地元のスセリの者達だけでなく、港に立ち寄るマルメルの船員や商人達からも刺繍を頼まれていた。 今刺しているのもマルメルの商人から頼まれた刺繍で、当初は一月後にマルメルに戻る時までに刺しておいて欲しいと頼まれていたが、数日前に急に帰国が一週間早まったので可能ならばそれまでに仕上げて欲しいと懇願されていた。眠れないのならば刺繍を進めてしまおう。 トナは慣れた手付きで針を進めると布の上には色鮮やかな刺繍の花が咲き乱れていった。今回は商人からこの花を刺して欲しいと花の絵を渡されていた。 セルシャの国には咲いていないがマルメルの国には咲いているらしい色鮮やかな濃い紫の花弁が幾重にも重なった大輪の花であった。マルメルの王家に娘を嫁がせたい貴族からの依頼の品であった。どうやら今の世継ぎの王子はその花をこよなく愛しているそうで王宮にはこの花の面倒を見る庭師という者が仕えているそうだ。そこで王子が好きなこの花の見事な刺繍の刺された着物を着ていれば娘に関心を持つだろうと目論んだ者からの依頼であった。 トナは初めてこの花の絵を見せられた時に、トナの脳裏にはある一人の人が浮かんできた。 トナの記憶の中にいる妖艶で毅然と咲き誇る美しい人。そう、ナトラスである。 トナは見たこともないマルメルの貴族の娘ではなく記憶の中のナトラスを思い描いてその艶やかな紫の花を刺していたのである。 トナが慣れた手付きで花弁を刺していた時だ。 ぷつっ。突然花弁の途中で色鮮やかな紫の糸が切れたのだ。 いつもと同じ強さで糸も針も操っていたのになぜ? トナは思わず狼狽えた。 そう王宮の刺繍侍女達の間にはひとつの言い伝えが伝わっていた。 王宮では刺繍糸が突然自分の手の中で切れると 悪いことが起きると。



それは無論注意を切らさない為の戒めとして王宮内の刺繍侍女達に言い伝えられていた迷信だろうが、やはりトナは狼狽えていた。 はっきりとは覚えていないが先ほどの嫌な夢といい、 二つの事項が重なってトナは得体の知れない不安を感じた。 慌てて刺繍をその場に置くと子供達の休んでいる部屋に行ってみたが皆変わった様子もなく気持ち良さそうに休んでいる。続いてもう一度自分達の寝室に戻るとカイも同じように安らかな寝息を立てている。 不安な気持ちを鎮めようとトナはそっとカイの手に触れるか触れないかぐらいの距離で自分の手を近づけてみた。トナの指がカイの指に触れた瞬間に小さく身動ぎをしてカイがうーーんと少し寝ぼけたままの眼差しでトナを見つめて目を見開いた。 トナ?トナが起きている事に驚いたカイが慌てて半身を起こすと、トナ。何か子供達にあったのか?とカイが慌てて尋ねてきた。トナも慌ててカイを安心させるように首を横に振ると一度目が冴えて起きてしまって眠れなくなってしまったの。そう何もないとカイを安心させるように微笑んで見せた。 トナの笑顔に安心したようでカイはそうかと小さく頷くとトナを手招きした。トナが近づくとカイは自分の胸にトナの頭を乗せるとトナの身体ごと自分の身体も寝台に横たえるとトナの頭を優しく撫でながらそっと目を閉じた。 トナもカイの暖かな体温と規則正しい鼓動の音。そして自分の髪を鋤く優しい手付きにいつしか先程まで感じていた得体の知れない不安も忘れて、いつしかもう一度深い眠りに落ちていった。 あの後も何か悪い事が起こらないかと少し心配していたが、カイも子供達の身にも何も起こっていなかったし、故郷のタスカナから両親や弟達、妹に何かあったという知らせも来ていなかった。 あれは気のせいだったのだ。 トナが平常心を取り戻した頃だった矢先に突然ナトラスの訃報が舞い込んできたのだ。



今は退位したとは言え一国の王の妃、しかもナトラスが寵妃である事はこの国の誰もが知る周知の事実だ。 半月も前に亡くなったのならば、もっと早くナトラスの死後数日後には盛大な葬儀が営まれる事が都からカイの元にも至急の知らせが来て、とっくに葬儀が営まれていたはずだ。 トナの疑問が分かるのだろう。カイは小さく呟いた。ナトラス様の御遺言が発見されて、そこには娘達が国にいない以上私の葬儀は行わないで欲しい。ただ一つだけ願いがある。王様のお隣は王妃様達がいらっしゃるので無理だと分かっているので、せめてお側に埋葬して欲しい。そう記されていたそうだ。そう言うと小さく首を振って、まさか王様もそしてナトラス様ご自身も王様より年若いナトラス様の方が王様より先に逝かれるとは夢にも思っていなかったのだろう。そう言うと哀しそうに目を伏せた。 遺言の日付はナトラスの亡くなる約一年ほど前の日付で、ちょうどその一月前にナトラスにも仕えていた王宮の侍女長が亡くなった頃だったそうで、恐らく彼女の死に触れナトラスが書き記したようだ。 王様はナトラス様のご遺志に従い葬儀は行わなかったそうだ。しかしマルメルに嫁いで行ったマイスミ様にはお伝えするという事で、その件で私の所に知らせが来たのだ。そう言うと王様は私よりナトラスが先に逝ってしまうとは。もう一つの遺言は叶えられないではないか。ナトラスと泣き崩れたそうだ。 そのあまりにも哀れなお姿に見ている方も胸が苦しくて誰も王様を正視できなかった。そう都からの事師の文には記されていたそうだ。 あの糸が切れたのは、奇しくも自分と同じトナの日に生を受けたあの方がこの世を去られて瞬間だったのか。ナトラスは遠く離れた地にいる自分に別れを告げに来てくれたのか。 トナはぎゅっと拳を握り締めて、目を瞑った。 そうしていないと激しく泣き叫んでしまいそうだったからだ。 そんなトナにカイはそっと寄り添うと静かにトナを優しく抱き締めた。



夜も更けて子供達も寝静まった頃にトナはそっと一人庭に佇み夜空を見上げていた。カイもトナがナトラスの事を偲んでいると分かっているのだろう。 寝室を出て行こうとするトナに何も言わずにただ黙ってそっと優しくトナの肩に自分の大きな衣を掛けて くれた。そんなカイの優しさがトナにはありがたかった。 ちょうど今日は月のない夜で空には幾千もの星達が瞬いている。けれど夜空の王妃とでも言うのだろうか。 やはり月の出ていない夜空はトナにとってはどこか何かが足りない、虚しさのようなものを感じていた。 トナは目を閉じて記憶の中で今でもはっきりと覚えているナトラスとの出会い、ナトラスからカイの服に刺繍を刺せと命じられた時、カイの副衛兵長の任命式の時、そして秘密を全て打ち明けられた時、そして別れの時。その時々のナトラスの姿を思い出していた。 トナの日にこの世に生を受けトナとして育ち、その名をササに変えて王宮に上がり、そして王様に見初められ王様の妃となりナトラス様と皆から呼ばれるようになったある意味数奇な運命を背負って産まれ生きた美しい人であった。 ナトラス様はお幸せだったのだろうか。ふとトナの胸にそんな想いが過っていた。王宮で最後にナトラスと会った時にはナトラスは王様を愛し愛される事を誇りに思っている。そんな風に感じた。しかしあれから二人の娘は王女の定めとして遠いマルメルとオクルスの国に嫁いで行ってしまった。そして愛する人を遺して急に逝ってしまった。 ナトラス様。あなた様はお幸せだったのですか? 思わずトナは心の中で今はもう問いかけても答えてくれない、遠くに行ってしまったナトラスに問い掛けていた。 ナトラス様。あなた様がいなければ今の私の穏やかなカイとの幸せな暮らしはありません。ナトラス様はお幸せだったのですか?私一人幸せでいいのでしょうか。 そうトナが心の中で問い掛けてた時であった。 ふっと急に冷たい夜風がトナを頬を撫でたが、その風の中にどこかで嗅いだ独特な香りがした気がして、トナは思わずはっと目を見開いた。 遠い記憶の中で嗅いだナトラスの香りが一瞬漂ったのだ。その瞬間トナの脳裏にはええと静かに、そして妖艶に微笑むナトラスの姿がまざまざと浮かんできたのだ。 ナトラス様。あなた様はお幸せだったのですね。 トナも負けず劣らず脳裏に浮かぶナトラスに向かって微笑み掛けた。 幾千の星が瞬く様に幾千、いいや。それ以上の人が生き、そしてその命の炎がいつ費えるか分からないこの世で自分とナトラスはお互い不思議な縁で巡り合えたのだ。 そして自分も、ナトラスも愛する人と巡り合い、困難の末に結ばれ、そして愛し合った。 トナはもう一度夜空を見上げると、愛するカイの待つ家へと静かに戻って行った。