町田 千春 著
 刺繍師 その後の王宮編     TOP


今日も無事王宮での刺繍侍女としての勤めが終わった。アラとジハは揃って刺繍室を出ると、そっと辺りを見回した。大丈夫だ。誰もいない。

その美貌と醸し出している毅然とした雰囲気から影の王妃様と皆から囁かれている刺繍侍女長のアラと、貫禄のある体型であれこれと的確な指示を出し刺繍室をうまく取り仕切っている副刺繍侍女長のジハの二人は刺繍侍女長と副刺繍侍女長だけが知る秘密の小部屋に入ると、肩の荷を降ろしたようにきつく結い上げている髪を手解き、刺繍侍女長と副刺繍侍女長としての表の顔から一気に寛いだ雰囲気になった。

ジハは締めていた着物の帯も緩めるとまったく三代の王様にお仕えするだなんて。おかげでこっちは大変だよ。二回も即位式の衣装に刺繍しないといけないんだから。そう文句を口にしながら、木の実を口の中に含んだ。

十年前に王様が退位されて二人の息子の内、1ヶ月だけ先に王様と妃のルカララとの間に産まれた息子のセホトルが次の王として即位した。そして王様は妃の一人のナトラスだけを伴い、都にある離宮ではなく都から遠く離れた薬草のたくさん採れる南のアズナスの森の側に離宮とは名ばかりの小さな屋敷を建て、ナトラスと数名の従者と侍女と暮らしている。

本当は王様は従者も侍女も連れずナトラスと二人きりで暮らそうとしたが、二人の息子達の猛反対に遇い、渋々最小限の供の者を連れて新しく建てた離宮へと移ったが、離宮と言ってもその地を治めているアズナスの領主の館よりもずっと小さく質素な館だと聞いているが、王様はそこで今までのしがらみから解き放たれ、好きな薬学を研究して自由にお暮らしらしい。

王妃であったメマリスとルカララは引き続き年若い息子達を支える為という名目で王様には従わず、都にある本来の離宮に移り住んだ。

王座に就いたセホトルは婚姻して十二年経つのに世継ぎの王子である息子どころか娘にも恵まれなかった。セホトルの母であるルカララや周りの重臣達は王妃であるサクレレ以外にも他の貴族の娘か、それ以外でも誰か気になる侍女がいれば妃に迎えて一日も早く子をと言っていたのだが、サクレレを深く愛していて他の女性に見向きもしないセホトルには周りの声や何よりも母であるルカララの重圧は苦痛以外の何物でもなかったのだろう。

ついに世継ぎに恵まれない自分は王位を降りて弟のマザンソに位を譲り、自分は前王として弟を支えると発表したのだ。

いきなりの予期せぬ発表に母であるルカララや重臣達は慌てたが、王室の今後を考えて熟慮したというセホトルの言葉に皆反論できなかった。それに弟のマザンソが王位を継ぐのに反論できる材料がなかったのだ。前の王様とメマリスとの間産まれた一月だけ弟のマザンソは既に三人の妃との間に二人の王子と三人の王女に恵まれている。

しかも妃の一人はセホトルとマザンソの従姉でもあるミルカシだ。ミルカシの父は彼らの叔父で先の国王と王妃の間に産まれた王子である。先の国王と王妃の血を引く次の王妃として申し分のない妃がいる上に二人の間にはククレスという王子まで産まれている。ククレスは身体が丈夫ですくすくと成長しているだけでなく、まだ幼いのに聡明で既に人の上に立つ者としての風格が漂っている、将来は偉大な王になるだろうと早くも囁かれている。

もしセホトルが他の妃を迎えても世継ぎの王子に恵まれるとは限らないし、次の王妃と世継ぎに相応しい王子がいる以上仕方がない。

反対するのであれば前王として都にある離宮に移るのではなく、自分も父王のように全てを捨てサクレレと二人で都を去りひっそりと暮らすと言う息子にさすがに母であるルカララも反対できなかった。それに新しく王妃となるミルカシの母はルカララと同じ北の出である。なのでミルカシが王妃になっても北は粗略に扱わないだろうという判断もあって、渋々ルカララも息子の譲位を受け入れたのだ。

その為王宮では新しい王様の即位に向けての準備が着々と進んでおり、刺繍室でも即位式の為の豪華な衣の刺繍を刺していて大変なのだ。


やっとマイスミ様の婚礼衣装の刺繍が無事に終わって、これでしばらくは大きな行事もなく落ち着くと思ったんだけどねと言うとジハはまた木の実を口に含んだ。

ジハの体格もますます前の副刺繍侍女長であったカサに似てきて、年々貫禄が出てきている。刺繍侍女長である自分と他の刺繍侍女達の間に位置する副刺繍侍女長は実は一番気苦労が多くて、それでカサもジハも甘いものに走り、肥えていったのかとすらアラは最近秘かに思っている。

自分は人あしらいが上手くないので商人達の応対の一切は全てジハに任せているので、ジハの元には付け届けも多いので甘いものには事欠かないのだ。

前の前の刺繍侍女長であったトクは痩せた女だったと聞いているが、その時に副刺繍侍女長であったラホも太った女だったのだろうか?ふとジハを眺めながらアラはそんな事を思って小さく笑った。

世話焼きで面倒見のいいジハは付け届けの菓子を持ってそれぞれの刺繍侍女や刺繍侍女見習いの部屋を頻繁に訪ねて皆の様子を伺って見ている事にもアラは気がついていた。ジハから侍女の些細な変化を打ち明けられた事も何度もあり、アラにとってジハはかけがえのない大切な右腕だ。

ジハはまた木の実を口に含むとマイスミ様はマルメルの国で無事にお暮らしなのかねと心配そうに大きなため息をついた。

王様とナトラスの間に産まれた二人の王女はそれぞれマルメルとオクルスの王家に嫁いで行ったがつい半年前に姉姫のマイスミはマルメルの国に嫁いで行き、その婚礼衣装や持参する衣の刺繍でアラ達刺繍侍女も忙しかったのだ。

アラとジハは婚礼衣装の最終確認の為にセルシャの国を発つ前夜にマイスミの部屋を訪ねたら、いつもはアズナスの離宮で暮らしているが、数日前から娘の婚姻の為に王宮に戻ってきた母であるナトラスの胸でマルメルの国に行きたくない。このままセルシャの国に残りたいと泣きじゃくるマイスミの姿を偶然見てしまい、その姿にアラもジハも胸をつかれた。

母であるナトラスはそんな娘を黙って優しく抱きしめながら、頭をいとおしそうに撫でていた。

ナトラスも王様も本心では今回の娘の婚姻は望んでいなかったのだろう。しかし王様には娘はナトラスとの間に産まれた二人の王女しかいなかった。セルシャの国の王女として産まれてしまった以上避けられない運命だ。

一度婚姻の為にセルシャの国を離れたら、もう二度とマイスミはセルシャの国の土を踏む事はないだろう。まして夫となる相手は十二歳も年上で既に妃と妃との間に三人の王女がいる。

妹姫のキシルスの結婚相手は一歳年下のオクルスの世継ぎの王子でキシルスが七歳の時に二人一緒に育った方が良いだろうという判断でオクルスの国に渡った。実際に二人が夫婦となるのは十年ほど先の事だろう。

周りは幼いのに国を離れるキシルスを憐れんだが、まだ周りの状況が良く分からない内にオクルスの国に渡ってしまったキシルスの方が幸せだったのかも知れない。ましてやマイスミの婚姻相手は既に即位している一国の王である。世継ぎの王子に嫁ぐのとは訳が違うのだ。

父譲りの賢さを受け継いだマイスミは自分の置かれた状況は痛いほど分かっているだけに辛いであろう。そんな風にアラは思ってしまった。

前夜あんなに母の胸で大泣きしていたのに翌日マルメルの国から迎えに来た使者と共に王宮を去る時には悠然とした態度で口元には笑みすら浮かべて、沿道に集まった者達に優雅に手を振っていた姿にアラはそっと目を伏せてしまった。

これからマイスミは遠いマルメルの国で本心を隠して生き続けるのか。

そうだね。アラも小さくため息をつきながらそうジハに答えた。

ジハも更に大きなため息をつくとマルメルの国の王妃様がミルカシ様のように寛容なお方ならいいのだけどと続けて口にした。

新しく王となるマザンソには彼の従妹で次の王妃となるミルカシの他に、西の領地のキヌグスの領主の娘のカカレスと元はミルカシ付の侍女であったセレナリの三人の妃がいる。

幼い頃からミルカシに惚れていて将来は自分の妃にすると豪語していたとおりになったが、どうやら恋多き性格であった祖父に似たのかミルカシを妃に迎えた後に自分から望んでカカレスも自分の妃とした。

王子に複数の貴族出身の妃がいるのは何も不思議な事でもないが、本来はカカレスの姉がマザンソの妃候補の一人であったが、姉に付いて王妃であるマザンソの母のメマリスに挨拶に来ていたカカレスを見初めて、姉ではなく妹のカカレスを妃に迎えたいと望んでカカレスが嫁いで来たのだ。

ある意味夫の寵を競い合う相手であるはずのカカレスをミルカシは本当の妹のように可愛がり大切に扱っているだけでなく、マザンソが自分の館を訪ねて来た時に常に声を掛け、時にはからかったり、好意のある素振りを見せているのにいち早く気づいて自分の侍女であったセレナリを妃にするようマザンソに勧めて、セレナリが妃になった後も何かと気を配り世話を焼いている。

マザンソは本心なのか悪びれずにミルカシもカカレスもセレナリも皆同じくらい大切で愛しているなどと常に真顔で言っていて、ミルカシもマザンソ様は誰か一人がお好きなのではなくて、皆の事がお好きなのよと鷹揚に笑って認めている。

お小さい頃から慎重な性格で書物や学問がお好きなセホトル様とやんちゃで剣や狩りがお好きなマザンソ様と本当にお二人は何から何まで正反対だね。

セホトル様はナトラス様だけをずっとご寵愛された父上に似てサクレレ様以外の女には見向きもされなかったのにどうやらマザンソ様は王妃様以外に五人もお妃様がいたお祖父様の血を受け継いだようだね。この様子じゃ、いつまた新しいお妃様が増えるか分かったものじゃないさ。ミルカシ様も反対されずに逆に喜んで甲斐甲斐しくお世話をしそうだし。と言うとジハはまた手元にあった木の実を盛大に口に含んだ。

あり得そうな話にアラもそうだねと相づちを打つと、ミルカシ様もお人がいいから。まったく。お妃様が増えて困るのは私達刺繍侍女だよ。ただでさえいつも優秀な刺繍侍女は足りなくて、こっちは猫の手も借りたいぐらい忙しいんだから。
刺繍侍女に向く手先が器用で刺繍が上手な娘を探すのに苦労しているんだからと口を尖らせた。

ジハが言うとおり優秀な刺繍侍女となる娘を集めるのに常に苦労しているし、無事正式な刺繍侍女となった後にもやはり未婚の娘達が集まっているので結婚の為に王宮を去っていく者達もいる。刺繍侍女長としてアラにとっても頭の痛い問題だ。

そんな時にナセが刺繍侍女になってくれて本当に良かったよ。何と言っても次の衛兵長の娘が自ら望んで刺繍侍女になったのだから、これからは刺繍侍女として王宮に上がろうという娘も増えるかも知れないね。そうジハは笑いながら言った。

アラやジハと一緒に刺繍侍女だったクハとマザンソ付の副衛兵長のジモの娘のナセは刺繍侍女である。幼い頃から母に刺繍侍女だった時の話を聞いていて自ら志願して刺繍侍女になる為に王宮に上がってくれた。無事刺繍侍女見習いを経て刺繍侍女になったが、母譲りの手先の器用さでいつも丁寧で美しい刺繍を刺す。

父のジモは幼い頃からマザンソの兄代わりとしての役割も担って身近に仕えていてマザンソの信頼も厚く、この度マザンソの即位と共に王宮の衛兵長となる事が決まった。王宮に仕える高位の者の娘が自らが望んで王宮に仕えたと知れ渡れば、王宮に仕えようと思う娘も増えてくれそうだ。

それにクタの末娘のカチも秋に十二歳になったら王宮に刺繍侍女見習いとして上がってくれるしね。そうジハは嬉しそうに続けた。

アラとジハが刺繍侍女見習いの時に同室であったクタは二人と共に刺繍侍女見習いから正式な刺繍侍女になる予定であったが、王宮に出入りする裕福な絹織物商人の跡継ぎに見初められ、刺繍侍女になる前に王宮を去った。

クタは自分は正式な刺繍侍女になる前に王宮を去ってしまったので娘が産まれたら刺繍侍女として王宮に上げたいと常々言ってくれていたが、六人の子の内三人が娘だったが上の二人の娘達はクタに似ず手先が不器用でとても刺繍侍女になれそうになかったのでクタは落胆していたが、末娘のカチはクタに似て手先が器用でクタはカチに刺繍の手ほどきをしていた。

クタの娘ならすぐに刺繍侍女見習いから刺繍侍女になれそうだね。そうジハはまるで自分の娘を自慢するように得意げに微笑んだ。

ジハはアラに刺繍侍女見習いの時はいろいろ覚えないといけない事が多くて大変だったけれど、今思うとあの時は楽しかったね。そう言うと目を細めた。

そんなジハにアラもそうだね。あの時はあたし達は同じ部屋で教え合って、競い合って。みんなでなんだかんだ言って一緒に楽しく賑やかに暮らしていたねと言うと少し寂しそうに微笑みながら遠い目をした。

アラもジハもお互い口には出さないが、都から遠く離れた地にいるであろう懐かしい友の事を思い出しているのだろう。アラもまっすぐな瞳と黒髪を持つ友の事を思い出していた。

一度だけ文が届いた事がある。アラが刺繍侍女長となったすぐ後の事だ。風の便りで自分が刺繍侍女長になったと聞いたのだろう。短いが心のこもった祝福の言葉が綴られていた。

あの時は北のサクチリにいたが、今はどこにいるのだろうか。きっとどこにいてもあのまっすぐな瞳のまま自分らしく生きているのであろう。アラは年を重ねてもきっと変わっていないであろう友の姿を思い浮かべて微笑んだ。

そんな友の傍らにはきっと今もあの人がいるのだろう。お互い助け合い、支え合い、笑い合いながら共に暮らしているのであろう。

彼の姿を思い浮かべた瞬間、アラの胸は小さく痛んだ。あれからもうかなり時が経っているのに、まだやはり彼の事を思い出すと胸が切なく苦しくなるのか。アラは少し自嘲気味に微笑んだ。

恋の炎というものは自分の意思とは関係なく、もうとっくに過去の出来事だと頭では思っていても心の奥底で静かに小さく燻り続けるようだ。

あれからもうかなりの時が経っている自分ですらこうなのだから。

アラは思わず傍らに座るジハをじっと見つめてしまった。

アラの視線に付き合いが長いだけあってアラが何を考えているのかジハは気がついたようで、大丈夫だよ。もうとっくに気持ちの整理はついたさ。あれは一時の気の迷いだったのさ。まああたしも楽しかったし、あれはあれでいい思い出さ。とさばけた口調で言ったがそれはジハの強がりでしかないとアラは気づいていたが、敢えてそれ以上何も言わなかった。

ジハがある布商人の男と恋に落ちた事はアラも知っていた。その男に着いて行こうとするならば大切な右腕であるジハが王宮から去るのは悲しいし残念だが、アラはあの時のように王宮を去ろうとする友を引き留めるつもりはなかった。

副刺繍侍女長がいなくなればいろいろ大変だがジハが自分で選んだ道だし、次の副刺繍侍女長が決まるまでは何とかアラ一人で刺繍侍女達を取り仕切っていけばいいと思っていたしそれとなく自分の想いはジハには伝えていた。

けれどジハは思い悩んだ末にその男と別れて王宮に残る決断を下したのだ。

ジハはアラを軽く睨むと影の王妃様と囁かれている美貌の刺繍侍女長様があまたの男から求婚されてもびくともしなかったんだから、副刺繍侍女長のあたしが先に王宮を去る訳にもいかないだろうと冗談を言うと、いったいあんたは今まで何人の男に求婚されたんだい?副衛兵長に事師に通師に語師。新しく薬師長になったクアもあんたに求婚したと聞いたけれど本当かい?と噂に上った人数を指折り数え始めたので思わずアラも苦笑いしてしまった。

かく言うアラもあらぬ心配を掛けてしまうので一番近くにいるジハにすら打ち明けていなかったが、本気である人から熱い想いを寄せられ、共に生きたいと乞われた事があった。

相手はオクルスの王子であった。

彼はオクルス王の同腹の王子で兄から可愛いがられ、オクルスの王宮内では高い地位を授けられていた。兄の名代としてセルシャの国に使節としてやって来た時に出会ったのだ。

母がセルシャの王女だった為彼はセルシャの国の人と同じくらいなめらかなセルシャ語を話し、母から聞いたのであろう。セルシャの国について詳しく、また刺繍侍女についても詳しく知っていた。

私は兄弟の末の子でね。次の王となる兄上と違って五番目の子ともなると世継ぎ教育も必要ないし母上も兄上達と年の離れた末子の私を何かと猫可愛がりして自分の手元で育てたいと言い出し、父上もお認めになったのだよ。おかげで私はオクルス語よりセルシャ語の方が得意なくらいで物を考える時もセルシャ語で考えてしまうのだよといたずらっぽく微笑んだ。

まあ兄上の他に王子は母違いを含めると私の他に四人もいるからね。そう言うと真剣なまなざしでアラ。私の妃になって欲しい。そなたが望むなら私はオクルスの王子の地位を捨ててこのセルシャの国で暮らしてもいいし、そなたがオクルスに来てくれるのならば婚約を破棄してそなただけを妃とする。そう打ち明けてアラの手をぎゅっと握り締めた。

彼は恵まれた環境で愛されて育った者だけが持つと鷹揚さがあり、おおらかで優しく一国の王子なのに尊大な所は一つもなかった。笑うと目が線のように細くなり片方だけえくぼが出る顔も愛嬌があり、母や兄だけでなく周りの人達からも愛されているとすぐ分かった。

けれどアラは自分にとっては申し訳ないほどありがたいその申し出を断った。

私には申し訳ないくらいありがたいお話ですし、あなた様のお人柄には敬服しております。

けれど私は王宮の刺繍侍女として生きていく道を選んだのでございます。なのであなた様に着いていく事はできません。お許し下さいませ。

そう彼に自分の偽らざる想いを伝えると彼には自分の返事が予想できたのであろう。

それでも少し寂しそうに笑うと私は自分の信念を持って生きている人が好きでね。そなたを始めて見た時から惹かれてしまったのだよ。そなたの美しい姿にはそなたの生き方がそのまま現れている。何と素晴らしい女がこのセルシャの国にはいたのかと心が震えたのだよ。

そんなそなたが私に従って王宮を去るとは思えなかったが、一縷の望みを託して言ってみたのだよと最後は優しく微笑むと、そっとアラの頬に触れるか触れないかぐらいの別れの口づけをすると、振り返らずにゆっくりとした足取りで去って行った。

アラも黙って彼の背中を見送った。

その後彼は予定通り婚約者であったオクルスでも一、二を争う名門貴族の娘と結ばれ、その婚儀は弟を溺愛する兄王の意向で世継ぎの王子の婚儀並みに盛大に行われ、セルシャの国からも兄王の名代としてマザンソも参列している。

マザンソと共に婚儀に参列した通師や語師からその盛大で華やかな婚儀の話はアラの耳にも伝わってきていた。

もし彼の申し出を受けていればさすがにオクルスの国の王妃にはなれなかったが、王妃に準ずるくらいの扱いは受けていただろう。

やっぱり私は王妃様でも王族の妃でもなく、影の王妃様ぐらいが一番合っているのだろうね。そう心の中で呟くと思わずジハに悟られないように笑ってしまいそうになる頬を引き締めた。

このセルシャの国の本当の影の王妃であったナトラスとはまだナトラスが王宮にいる時に秘かにジハも交えて三人でこれからの刺繍侍女の進むべき道についていろいろと話し合った。

ナトラスの後押しもあってアラが刺繍侍女長になってからはいくつものしきたりを変えていったのだ。

今まで自由に王宮の外に出られなかった刺繍侍女も休みの日ならば王宮の門が閉まる前までなら外出できるようにしたり、オクルスやマルメルの優れた刺繍の技を学べるようナトラスから使者を送ってもらい、それぞれの国の王宮に仕える刺繍侍女達を招いて、今までセルシャの国の王宮では伝えられていなかった新しい技も皆に伝えた。

言葉の問題があるが、もし逆にセルシャの国より栄えているオクルスやマルメルで刺繍を学びたいという者が現れたら、王族同士の縁を頼りにそれぞれの国に遣わしてみてもいいとすら思っている。今の王宮に新しい世界に飛び出そうとするそれだけ気概のある刺繍侍女がいるかどうかはいささか謎だが。

もしあのまま王宮に残っていたら望んだかも知れないであろう友の姿を思い浮かべて、アラは微笑んだ。

やはり王様はセホトルにもマザンソにも過去の隠された歴史とナトラスが元の王家の末裔である事は伝えていたが刺繍師の秘密の刺繍の力については伝えなかったそうだ。

アラも次の刺繍侍女長と副刺繍侍女長には隠された歴史については王宮に伝わる過去の刺繍侍女達が代々伝えていった素晴らしい刺繍の技と共に秘かに伝えて行こう。そう決意したのだ。

そう自分は刺繍師ではなく、この王宮の刺繍侍女長として新しい道を切り開いて行くのだ。

さあさあ、また明日も忙しくなるよ。即位式の日は近づいているんだから。そうアラはジハに声を掛けると座っていた席から勢い良く立ち上がった。

その途端、アラが肩に掛けていた布がするりと滑り落ちたので、アラはその布を優しい手付きで拾い上げた。

その布には美しい刺繍が刺されているが、年月を得ているのだろう。布は少し古びて黄ばんでいるがアラは今でもそれを大切に手元に取っていた。

まっすぐな瞳と黒髪を持つ友が王宮を去る時に自分に託してくれた大切な物だ。最後の刺繍師であった友を思い出し、アラは心の中で呟いた。

トナ。あんたが託してくれたこの王宮の刺繍侍女長としての役目はあたしがしっかりと果たすから安心してちょうだい。

アラは刺繍の布を慈しむように優しく撫でると自分の肩にもう一度掛け直すと、ジハを促して静かにこの秘密の部屋から出ていった。