本紀行文は、当方が昭和56年(1981)の2月末から3月にかけて、単独で北海道を旅行した時の記録である。鉄道による移動とユースホステル(YH)宿泊を主体とした、当時の学生としては典型的な旅行スタイルであった。北海道においては、この後すぐに石勝線が開通したが、一方で赤字ローカル線の廃線ラッシュが訪れ、本日記で言及した線区の中でも、根室本線(一部)・名寄本線・興浜南線・湧網線・標津線・札沼線(一部)が廃止された。さらに今後北海道新幹線開業にともなって函館本線(山線)も廃線もしくは貨物専用になる。
今回の旅行のテーマは「気温」である。実際の気温と体に受ける感じの関係を知ろうと思う。そこで温度計を持っていくことにした。出発前のTVの天気予報では「1月の寒波に引けを取らない超一級の寒気団がやってくる」とのことだった。「望むところだ」と思いながら、20:05家出発。外は小雪がちらつく天候だったが、気が張っているせいかそれほど寒く感じなかった。その時の気温は2℃であった。自宅の最寄りの駅から国電に乗って上野へ。上野でワンカップとつまみを買い、19番線へ行くと、「ゆうづる5号」はほとなく入線してきた。宮脇俊三氏の言う通り、寝台は頭がつかえるが、酒が飲めないということはなく、足も十分伸ばせて、さすが4千円だけのことはあると思った。ところがいざ発車すると、トイレの音が聞こえたり暑かったりで寝付けず、時々小さい窓から外の景色を眺めた。福島県に入ってから雪景色になったようであった。 「ゆうづる5号」は予定より10分ほど遅れて7:16ごろ青森に到着した。外はかなり雪が降っていて、まさに「津軽海峡冬景色」そのままである。途中の停車駅は少ないのに、ドアの両側の通路には雪の吹き溜まりができていた。ホームに降りるとやはり寒い。「いよいよ北国だ」と思い、背筋がぞくぞくする。通路を通って連絡船に乗り込んだ。
青函連絡船5便「ようてい丸」は、遅れた特急「はくつる」の到着を待ったので、出航予定の7:30より30分ほど遅れて動き出した。列車ではほとんど眠れなかったので、連絡船では4時間しっかり寝ようと思っていたのだが、となりに小さな兄妹がいて、まず大きい方の子のウルトラマンの歌で起こされ、もう一度寝たら今度は小さい方の子供の泣き声で起こされ、挙句の果てには大きい方が船酔いして汚物を私の靴にかけるという、踏んだり蹴ったりの状態で、寝不足が残ったまま函館に着いた。函館発11:45の稚内行き急行「宗谷」は連絡船からの客を乗せると、網走行きの特急「おおとり」に続いて発車した。「宗谷」は立つ人はいなかったが、ほぼ満席の状態であった。外は一面真っ白で、スキーに行った時のバスからの眺めを思い起こさせた。外はかなり寒いのだろうが、二重窓で仕切られた車内は十分暖かかった。隣席にいた東北大の一年生という人と話をした。札幌が実家で「ゴキブリを見たことがない」とのことであった。天気は函館では曇りであったが、次第に晴れてきて、雪をかぶった羊蹄山がとてもくっきりと見えた。札幌でその学生が降り、日が傾いてくると、車内も多少寒さを感じるようになった。「宗谷」は、雪の石狩平野を北へ向けて快走していった。粉雪が風で舞い上がり吹雪く光景は初めて見るものであった。日が完全に暮れて「宗谷」は予定の18:30より15分ほど遅れて旭川着。ホームに降り立つと肌を突き刺すような寒さを感じた。バス停でバスに乗るまでの間温度計を出しておいたら-3℃まで下がったが、実際はもっと低かったようである。しばらくして耳がしびれてきたので、慌てて帽子を耳までかぶせた。道路はほとんど氷に覆われていた。バスの中は、「ゴー」という音がするほど、かなり暖房をきかせていた。バスは行けども行けども「神居〇条〇丁目」という名前ばかりで、本当にYHの前まで行くのか不安になったが、十数分でYHの前に着いた。
朝、YHの放送で「気温はマイナス25℃です」といっていたのでびっくりして外を見たら、快晴で雪が光っていた。朝食をYHでとるつもりだったが、列車に間に合いそうもないので、朝食をとらず7:50にYHを出た。外はさすがに厳しい冷え込みであった。バス停で温度計を出してみたら、アルコール柱はみるみる下がり、-15℃まで達した。バスは通勤客で満員であった。駅でサンドイッチと缶コーヒーを買い、8:48発の網走行き特急「オホーツク」に乗り込んだ。しかし予想通り通路側は景色が見にくいので、上川を出たあと食堂車へ行き、コーラを飲みながら外を見ていた。上川を出ると北見峠の登りにかかるが、列車は雪山の谷間をぬって登って行った。途中部落などもほとんどなかった。トンネルをぬけて下りになってからは、調理室横の通路に立って外を見ていた。遠軽が近づくと急に「湧網線」という案が浮かんできて、時刻表をみたところ、非常に良い接続なので、急遽予定を変更してあわてて遠軽で特急を降り、11:04発の名寄・雄武行きに乗り換えた。この列車は気動車の二両編成で、一両が名寄行き、もう一両が雄武行きである。特急の乗客は出張サラリーマンのような人が多く、宮脇氏の言うように冷たい感じがするが、この列車になると乗っているのは土地の人ばかりで、親しみがわく。11:26中湧別着。ここで湧網線の11:37発網走行きに乗り換えた。
この湧網線の列車は気動車一両である。乗ってみると座席はほぼ満員であった。旅行者が多く乗っていた。そこで運転室の方へ行ってみると、運転室のブラインドが一つあけてあったので、そこで前をみることにした。雪は少なく、線路の所だけ特に除雪したという感じではなかった。寒い通路にずっと立っていなければならなかったが、それさえ克服すれば、前・右・左と三方向の景色をみることができるベストポジションである。途中に仮乗降場がいくつもあり、停まるところもあれば停まらないところもあった。これは最初からはっきり決まっているのであろうか。中には板張りの小さな台だけの仮乗降場もいくつかあった。芭露駅を過ぎると左側にサロマ湖が見えた。といっても一面雪に覆われていて、みたところではその下が湖だか牧草地だかわからない。ただ牧草地にしてはあまりにも広すぎるので湖とわかる。運転室には運転士の他に職員が二人乗っていた。時々車掌が来て何やら連絡をしていた。浜佐呂間駅で職員が降り、前が見やすくなったなと思ったら、今度は車掌が運転室へやってきた。その後の一駅では、ドアを前のスイッチで開けていた。それからしばらく行くと、中湧別を出てから一番にぎやかな街に着いた。常呂駅である。ここはサイクリング合宿で阿寒からサロマ湖まで120kmを走った時、休憩して夕食をとった場所である。常呂駅を過ぎると左手にいよいよ流氷が見えてきた。しかもすぐ間近にである。といっても単なる雪の面で時々起伏があるだけだが、手前にテトラポットがあったり漁船が集まっているところがあり、その辺から先が海なんだなとわかる。並行して通っている道は合宿で走ったなつかしい道である。やがて左手には能取湖、ついで右手に網走湖と見えてくるが、いずれも同じ雪の面であった。能取湖は海へ通じるところがはっきり見え、ぽっかりと口をあけたようすがよくわかった。13:51網走着。外に出たが、それほど寒くない。しかし気温は-5℃であった。駅前の食堂でほっけ定食を食べたが、ほっけは大きくてとてもおいしかった。これはやはり身のしまりがいいからであろうか。網走発15:52の釧路行きは客車で、他にタンク車、郵便荷物車をつないでいた。車内は高校生が多かった。網走の次の乗降場を過ぎるとまた流氷が見え始めた。その向こうの知床の山々もしだいにはっきりと見えるようになってきた。こちらの流氷はところどころにひび割れのように海水が見える場所があった。やがて原生花園と濤沸湖が見え、16:29浜小清水駅着。高台に登って流氷を見たあとYHに向かったが、歩く時間がかなり長く、だんだん顔や手がしびれてきた。気温は-13℃であった。
今朝も快晴である。駅までの道で気温を測ったら-10℃であった。同じYHに泊まった女性4人と一緒に駅まで歩き、8:46発釧路行き「しれとこ1号」に乗った。斜里までは再び流氷が間近に見られた。斜里で女性たちのうち3人降りたが、彼女たちとは今日も同じYHに泊まることになる。斜里を出てからは海をはなれ、阿寒へと向かう。もう一人の女性と話をした。彼女は女性では珍しく一人で、しかもきちんと計画を立てず自由にまわっているとのことだった。登りにかかり、列車はエンジン音を震わせながらも速度は遅くなる。トンネルを抜けて川湯着。ここもなつかしい駅である。右に硫黄山、左に摩周湖への道路が見える。ここから標茶までは宮脇氏にいうとおりたいした眺めではない。やがて標茶に着き、彼女は標津線に乗り換えるためにおりていった。標茶をすぎると列車は湿原の中を走る。見渡す限り平らで、はるか向こうに山があり、その山並みの向こうには阿寒岳が白く光っている。後の列車できた前出の女性3人(玉川大の音楽科一年生)はここでツルをみたそうである。それにしてもその広さには感動する。地図を調べると、線路から山の端まで20km程ある。湿原の広さに見入っているうちに、遠くに工場が見え始め、しだいに家も多くなってきて、11:45釧路着。合宿の出発点だったなつかしい駅前に出た。計画はここで30分程待って12:25発のバスで丹頂の里へ行く予定だったが、なぜかレンタカーという案が浮かんできて、さっそく駅レンタカーの受付に行ってみると、コルサならあるということなので、受付のおじさんに「ひとりでもったいないな」といわれながら5,500円払って借りることにした。旅行になるとすぐに気が大きくなるのは悪いくせである。車の運転は約一か月ぶりだったし、トヨタの車だったので、最初は当惑した。特に、駅前を出て少したった所で、前のトラックが泥水を跳ね飛ばし、一瞬前が全く見えなくなったときは肝をつぶした。あわててブレーキをかけたが幸い衝突は免れた。まったくどこで何が起こるかわからない。道は国道だったので雪はなかった。車はスノースパイクタイヤをはいていて、走っていると唸るような音がして乗り心地が少し悪く、ブレーキがよく効いた。常に50-60kmでとばして丹頂の里に着いた。丹頂はかなりいたが、遠くて肉眼ではよくわからない。備え付けの望遠鏡で見ると、さすがにその姿は優雅である。写真を撮るのはとても無理であった。釧路に戻ってバス待合所に行き、予定通り友人のW氏と合流した。しかしW氏の方は函館から札幌の夜行鈍行が故障で止まったりしてかなり苦労してきたようであった。W氏と車で市内を回ったが、戻る時に夕日が正面になり、目がくらんでまたもや当惑した。
朝、W氏と釧路駅に向かった。気温は-4℃である。この位の気温ではもう寒いと感じなくなってしまった。今日は釧路発9:00の特急「おおぞら4号」で一気に札幌に出る予定である。ホームでW氏と別れ、列車は西へ向かう。宮脇氏の著書と照らし合わせながら右・左と動いて車窓から外を眺めた。列車は湿原と海の間を縫うように走る。厚内で海と別れ、川沿いをのぼって池田に到着する。例の女性三人は襟裳岬へ向かうべく釧路発7:56の鈍行に乗ったが、この「おおぞら4号」はその列車を池田で抜かしてしまうのである。池田・帯広と十勝平野の駅をすぎ、列車は狩勝峠への登りにかかる。しかしどうも特急というのはつまらない。今回わざわざ特急券を買いなおして窓側の席にしたのは正解だったが、乗客の雰囲気が何か都会的で旅情が感じられない。特急の唯一の楽しみは食堂車であろうと思って昼食を食べに行き、ウェイトレスさんが「〇〇定食はどうですか」と勧めるのを無視してカレーライスを頼んだ。外を見ていると、山にさしかかるにつれてしだいに雪になってきた。新得をすぎ狩勝峠にかかると吹雪のような状態になった。こんな天候の中を列車がスイスイと走っているのは何とも不思議な気がする。時々右窓遠くに大雪の山々が見えた。いくつかトンネルを抜けて石狩側に出てもやはり雪であった。冬型の気圧配置で日本海側は雪になっているのであろう。今度はこの狩勝峠を鈍行で越えてみたいものである。
計画ではこのままこの列車で札幌へ出るのであるが、それではどうもつまらないので、いろいろ検討した結果、滝川で降りて、そこから数kmしか離れていない新十津川駅に行き、札沼線で札幌へ行くことにした。「おおぞら4号」は雪の中を空知川に沿って下り、滝川着13:41。滝川駅から新十津川駅までは国鉄バスが通っているが、あいにく次のバスは15:50でこれではどうしようもない。他に新十津川駅へ行くバスもなさそうなので、仕方なくタクシーで行くことにした。タクシーは線路をくぐり、大きな橋を二度渡った。メーターはどんどん上がり、7~8分後、メーターが910円のところで、タクシーは雪の中の小さな一軒家のようなところの前で止まった。そこが新十津川駅である。滝川駅とは全く対照的で、駅前広場は小さく、まわりに店など一軒もない。広い北海道なのにこんな近くに全く別の線の駅があるのは不思議な気がする。写真を撮って列車に乗り込んだ。新十津川発14:43。気動車の2両編成で、そのうちの一両は昭和55年製の新品であった。乗客は一両に9~10人程乗っていた。列車はところどころに民家があるだけの、広く平らな雪の面を走る。たぶんここは水田地帯であろう。雪は深く、1m以上ありそうである。浦臼駅に着くと、「交換列車が20分遅れているため、この列車も20分遅れて発車の見込みです」とアナウンスがあった。乗客もこの雪では遅れて当然という顔をしている。それにしても、特急から鈍行に乗り移ると、その乗客の雰囲気の違いがはっきりとわかる。結局浦臼駅を22分遅れて発車した。雪は激しく降っていて、列車も苦労しながら進むようになってきた。特に札比内駅では、列車が発車しようとしてエンジンをふかしたが前へ進まず、仕方なしに2~3mバックして勢いをつけて出ようとしたがやはり進まず、さらに5~6mバックしてやってみたがやはりダメ。そこで10m位バックして突っ込んだらやっと出発できた。その後雪はだんだん小降りになり、石狩月形駅あたりでは陽が差してきた。乗客は次第に増えてきて、石狩当別駅では4両増結して6両編成となった。向かいの席に座っていたおじいさんが、「浦臼あたりまでは残しておいてほしいが、そこから先は列車がかわいそうだ」と言っていた。沿線に次第に家が増えてきて、17:40札幌着。予定より30分近く遅れた。今夜は札幌に住む知人に会い、ホテルに宿泊して明朝帰路につく。
今日も予定を少し変更していこうと思う。19:40出航の連絡船とその後の急行「八甲田」は変えないが、函館までは「宗谷」では混んでいそうなので、札幌始発の「ニセコ」にし、函館で余る3時間半の間に江差線に乗ることにした。札幌発10:20の小樽回り急行「ニセコ」は新しい特急型の14系客車で、電動式の行き先表示に「急行ニセコ 函館 小樽経由」と出ていた。以前は昭和30年代に製造されたオンボロ客車だったはずである。そういえば時刻表に「『ニセコ』は2月8日から編成が変わります」と書かれてあった。それにしても北海道の列車も変わったものだとつくづく思った。スキー客などを載せてほぼ満席となった「ニセコ」は、定刻より10分程遅れて発車した。小樽までは赤色の電気機関車が引き、小樽より先は2台のディーゼル機関車でひっぱっていった。やはり積丹の根元の山越えは一台では無理なのであろう。雪は往路で通った時からまた新たに降ったらしく、かなり積もっていた。車内販売でこまいのひものを買い、かじりながら外を眺めていた。倶知安とニセコでスキー客が降り、車内がすいてきた。車両は特急型でもやはり乗客は急行らしい。母子連れや地元の人たちが多い。蕨岱駅では停車駅ではないが停まり、下り急行「宗谷」とすれ違った。そういえば2年半前、合宿の帰りにやはりこのニセコ号に乗り、やはり蕨岱駅で停車し、「どうせ停まるならなぜ停車駅にしないのか」と考えたことを思い出した。その時はホームに降りることができたが、この車両は自動ドアでそれはできない。この車両だと、すれちがう「宗谷」がみずぼらしく感じる。この時列車はすでに定刻通り動いていた。長万部から機関車は一台となり、噴火湾沿いをひたすら走る。駒ケ岳がはっきりと見え、海を隔てて室蘭の方がよくみえる。室蘭は窓の正面に見えるから、間の海はやはり「湾」だ。
「ニセコ」は森から砂原支線に入り、15:35大沼着。ここで宮脇氏をまねて鈍行に乗り換えることにする。大沼の手前で抜いた長万部発函館行きの鈍行はほとなくやってきた。走っている線は本線でも、鈍行となるとにわかにローカル線の色彩が濃くなってくる。乗客は通学の学生や地元の人ばかりで、一両に10人程度である。沿線の景観からすれば、このような列車の雰囲気が当然なのであって、無人の原生林を特急の食堂車から眺めるということは北海道以外ではできないであろう。仁山駅でスキー帰りの母子連れが乗ってきて車内は少し混んできた。「みんなで実現させよう。北海道新幹線」という看板が滑稽にさえ思えてくる。16:25函館着。16:45発の江差・松前行きは気動車の6両編成で、2両が江差行き、4両が松前行きである。私が乗るのは木古内までで、この区間は江差線である。ちょうど夕方の帰宅時間で、車内は通勤通学客で満員で自分も立っていた。五稜郭を過ぎて函館本線と分岐してもしばらくは住宅地が続く。函館本線では五稜郭を過ぎると沿線が閑散としてくるのとは対照的である。必ずしも本線の沿線の方がにぎやかではないということがよくわかる。上磯駅を過ぎると住宅地は終わり、海岸線に出た。左窓正面には海を隔てて函館山が島のように突き出ている。車内も次第に空いてきた。次第に暗くなり、列車は定刻より4分遅れて17:51木古内に着いた。すぐに連絡橋を渡り、上り列車に乗り込む。帰りは車内で眠っていた。気づいて外を見ると、函館の街の明かりが光っていた。函館山からの夜景を美しいものにするために、特に多く明かりをつけているのであろう。上り列車は19:09函館着。社内でも連絡船の時刻を放送していたが、実際に駅を降りて連絡船の乗船口に向かったのは私も含めて2人だけであった。
青森からの「八甲田」の車内はすきま風が入って寒く、風邪気味の体にだいぶこたえた。(完)
〔一日目〕寝台特急「ゆうづる」は常磐線経由で、乗車当時の車両は2段B寝台24系25形客車(2便)と24系24形客車(3段B寝台)(1便)があった。また季節列車として583系寝台電車1往復もあった。「ゆうづる」が臨時便も含めて完全に廃止されたのは1994年。
〔二日目〕急行「宗谷」は元々札幌-稚内を走る準急だったが、1961年の急行格上げ時に函館発となった。しかし自分が乗った1981年の10月には札幌発に戻り、2000年3月より特急となった。現在では札幌-稚内の特急は「宗谷」一往復のみとなっている。尚、それ以前に二度稚内へ行った時の列車は、この急行「宗谷」と、夜行急行「利尻」又は「礼文」である。また現在稚内発の列車は全種別でみても一日に7本しかない
〔三日目〕遠軽から乗り換えたのは名寄本線である。名寄行きは名寄本線をそのまま走り、雄武行は途中の興部駅から興浜南線に向かう列車だった。興浜南線は1985年に廃止、名寄本線は1989年に廃止された。湧網線は中湧別駅で名寄本線から分岐し、サロマ湖、オホーツク海、能取湖、網走湖の沿岸を通って網走駅に至る路線であった。鉄道ファンには人気路線だったが1987年に廃止。湧網線・名寄本線・興浜線・天北線でオホーツク縦貫の幹線鉄道路線構想があったが興浜線がつながることなくついえさってしまった。
〔四日目〕釧網本線「しれとこ号」は以前は優等列車だったが、1980年までに普通列車(通過駅あり)化された。その後快速列車化、「しれとこ摩周号」への名称変更がなされ、2024年には再度普通列車となり、景勝区間で減速するなど観光路線色を強めている。尚、釧網本線標茶から分岐し根室標津及び途中の中標津で分岐し厚床を結んでいた標津線は1989年に廃止された。
〔五日目〕根室本線は1966年(昭和41年)10月1日に落合駅 - 新得駅間の狩勝峠の区間(日本三大車窓の一つがあった)を新線に切り替え、1981年(昭和56年)10月1日には短絡ルートとなる石勝線の開業により、道央と十勝・釧路を結ぶほとんどの列車運転系統が従来の滝川駅経由から石勝線経由に変更された。さらに2016年台風による被災が原因で2024年(令和6年)4月1日に富良野駅 - 新得駅間 (81.7 km) の運輸営業を廃止。札沼線は、かつては石狩沼田駅を終点としていたが、1972年(昭和47年。新十津川駅以遠廃止)、2020年(令和2年)の2度にわたる部分廃止を経て北海道医療大学駅(当別の一つ先)が終点になっている。
〔六日目〕急行「ニセコ」は函館-札幌間の代表的急行列車だった。昭和61年11月に廃止された模様。江差線の木古内までは現在は道南いさりび鉄道、その先の江差線は2014年に廃止、松前線はそれよりかなり前の1988年に廃止となっている。尚、写真に「のりかえ伊達紋別方面」という標識が写っているが、これは倶知安駅で分岐していた胆振線で、1986年に廃止された。東北本線の急行「八甲田」は1993年臨時列車に格下げ、1998年に廃止。