このお話は、作者の純粋な楽しみのために書かれたものであり、 作中の登場人物や設定は、実際のものとは全く関係ありません。 また、彼らにまつわる著作権やプライバシーを侵害するために作ったものでもありません。 爪痕 abp 第三章 虚構 彼女が離婚したと聞いたのは、それから1年ほど経ってから。 そのニュースを聞いたときの僕の気持ちを、想像できるだろうか。 本当なら、すぐにでも彼女の元に飛んでいきたかった。 抱きしめて、思いっきり僕の胸で泣かせてやりたかった。 でもそれは、僕の役目ではないのだろう。 彼女が僕を必要とするのなら、僕はいつでも飛んでいく。 でも今彼女が必要なのは、きっと僕ではない。 それでも僕は、ちょっとでしゃばったことをした。 ゴールデングローブ賞の授賞式が、近づいて来ていた。 彼女は誰にエスコートされるのだろう。 離婚したのなら、彼女にエスコートを申し出る人間は 掃いて捨てるほどいるのだろう。 でも僕が、彼女をエスコートしたかった。 ドレスアップした美しい彼女の腰に手を回し、 眩しいフラッシュの波に揉まれたかった。 せめてカメラの中だけでも、愛し合っている二人を 演じたかった。 それくらいは、許されると思った。 僕はジリアンに、電話をかけた。 通り一片の挨拶を交わした後、授賞式のことを持ちかけた。 きっと断られるだろうな・・・ そう思いながら。 でも返ってきたのは、期待を裏切る甘いアクセント。 「デビッド・・・いいの? あなたは誰か他に同伴する人がいるんじゃ・・・」 「僕にそんな人はいないよ。 君をエスコートしたいんだ、君さえいいと言ってくれるなら」 僕は息を呑んで、彼女の返事を待った。 少しして、ため息のような笑い声が聞こえた。 「ええ・・・・喜んで。 ふふ、またタブロイド紙が色々書き立てるわね」 「いいじゃないか、好きなようにさせたら。 それより君、何を着ていくか考えろよ。 今からドレスアップした君を見るのが楽しみだ」 「そうね、あなたをどきっとさせるような 大胆なドレスを着ようかしら。 実はもう何着か、持って来てもらっているの」 「僕の顔が赤くならない程度に大胆なのを頼むよ」 そう言うとジリアンは、可笑しそうに笑った。 「あら、百戦錬磨のあなたも、赤くなったりするのかしら?」 「ひどい言われようだ。僕はまだまだうぶな少年だよ」 冗談を言うと、やっとジリアンの大笑いが聞けた。 僕は彼女の笑い声が大好きなのだ。 明るくて開放的で、スカリーとは全く違う笑い声。 そう、随分長い間、聞いていなかったな・・・ 僕は昔に戻った気持ちで、彼女の笑い声を聴いていた。 「それじゃ、当日君の家まで迎えに行くからね」 「リムジンで来てくれるの?」 「当然じゃないか。本当はかぼちゃの馬車で行きたいけど ちょっと予算的にね、苦しいから」 「ふふ、じゃあ我慢するわ。・・・デビッド、」 「なに?」 「ありがとう。気を遣ってくれたんでしょう。 私が離婚したことを聞いて・・・・」 少し弱くなった彼女の声を聴いて、 僕はすぐにでも側に行って抱きしめたくなった。 けれど、僕はあくまでさりげなく答えた。 「僕はただ君をエスコートしたかっただけだよ。 そのために僕と一緒に行きたいって言う女性を 100人くらい泣かせたけどね」 笑った彼女の声からは、さっきの弱い響きは消えていた。 僕は自分の冗談が彼女を安心させたことを知る。 「また言ってるわ。・・・ありがとう、それじゃ 授賞式の日に」 「ああ。それじゃ」 僕は飛び上がらんばかりの喜びとともに、受話器を置いた。 授賞式当日。 僕は着替えを済ませて、姿見の前に立った。 鏡でもう一度、自分の姿を確かめる。 タキシードに包まれた自分を見て、大きく肯く。 うん、悪くない。 君の横に立つ資格は、あると自惚れていいかな。 リムジンに乗り込んで、君の家へ急ぐ。 手には大きな薔薇の花束。 まるで恋人同士に戻ったかのように、僕は興奮していた。 君の家に着くまで、待ちきれず窓の外を眺める。 しばらくして、君の家が見えてきた。 僕は確かめるように一歩一歩、エントランスへ進む。 一つ咳払いをして、君の家の呼び鈴を押す。 するとすぐに、可愛い声が僕を出迎えた。 「デビッド!!」 花柄のワンピースを着たパイパーが、 僕に飛びついてくる。 僕は笑って彼女を抱き上げた。 「やあ、パイパー。元気かい?」 「うん、とっても。今日はママを 迎えにきたんでしょ?」 「ああ、そうだよ。 今日は1日ママを借りるけど、いいかな?」 パイパーは僕の腕の中でませた笑顔を見せた。 「いいわよ、私もママもデビッドが大好きだもん。 こんどは私ともあそんでね?」 「もちろん。またバスケットしような」 「うん!じゃあ、ママ呼んでくる」 「ああ、たのむよ」 僕はパイパーをそっと床に下ろした。 彼女はぺたぺた足音を立てて中に走って行く。 僕はそんな彼女を愛しい気持ちで見つめた。 ほどなく、彼女の声がした。 「パイパー、いい子にしてるのよ。 それじゃあ、お願いね」 「はい、行ってらっしゃいませ」 ベビーシッターの声だろうか。 玄関先の柱にもたれて、腕を組んで待っていた僕は 彼女が現われるのを今か今かと待っていた。 ドアが開いて姿を見せた彼女に、僕は目を奪われた。 襟ぐりが大きく胸まで開いた柔らかそうなドレス。 シャンパンゴールドの優しい色が、彼女の陶器の ような白い肌を引き立てていた。 ぷるぷるして瑞々しい唇は、ドレスに合わせてか シックで落ち着いた色の口紅で彩られている。 首筋から鎖骨にかけての気が狂いそうなほどに 白くて美しい肌は、僕の理性を奪ってしまいそうだった。 髪は軽くカールして、上品にまとめている。 僕は数瞬言葉をなくして、見とれていた。 そんな僕に気付いた彼女は、不安げに問う。 「やっぱり・・・変かしら。胸が開きすぎよね」 僕は即座に否定した。 「いいや、そんなことはない。とっても素敵だ。 ただ・・・・・」 「ただ?」 「そのセクシーな君をこれから大勢の人間が 不埒な視線で見ると思うと、ちょっと妬けるね」 ジリアンはくすくす笑った。 僕の言葉が彼女に自信を与え、 その自信が彼女をますます輝かせる。 「あなたもすごく素敵よ、デビッド。 あなたにエスコートされるなんて、世界中の女性から 嫉妬されそうだわ」 「防弾チョッキを着ていくかい?」 「それはあまりファッショナブルではないわね。 あなたを盾にするわ」 「喜んで君を守るよ。さあ行こう」 そう言って腕を差し出した僕を、彼女は可笑しそうに見た。 「気が早いのね」 「もちろん。今から君は僕の恋人だ」 そう言うと彼女の表情が、ほんの少し翳った。 僕はそれを見逃さなかった。 彼女が僕をそういう対象で見ていないのは分かっていただろう。 僕はいじけそうになる自分を心の中で叱った。 車に乗り込み、向かい合わせの席に座る。 僕は輝くような彼女から目が離せない。 「いやあね、じろじろ見て」 「しかたないだろ。君があんまり綺麗だから」 「馬鹿なこと言ってないで。ねえデビッド、 やっぱり髪はアップにした方が良かったかしら」 「いや、このままがいいな。そのドレスに良く似合ってる」 「そう?でも・・・・」 言いながら鏡を見るジリアンに、僕は薔薇の花束を差し出した。 「デビッド・・・これを私に?」 彼女は驚いて花束を受け取る。 少し嬉しそうに、花に顔を埋めてその香りを楽しむ。 僕はそんな彼女を真っ正面から見つめて言った。 「君はこの薔薇と並んでもちっとも霞まないほど美しいよ。 とっても綺麗だ。ほら見てごらん、薔薇が妬んでる」 少し照れて薔薇を抱えた彼女ごと、抱きしめる。 君の抗議の声が聞こえる。 「デビッド・・・・私たちは・・・」 「分かってる。今だけ・・・今日だけ。 今日だけ、僕にこうさせてくれ。 今日だけ、愚かな僕を許してくれ」 そう言ってジリアンを見ると、彼女は微笑んでいた。 拒絶されると思っていた僕は、意外な気持ちで彼女を見る。 「今日だけ・・・昔の二人に戻りましょう。 キスしてくれる?昔のように」 「喜んで」 僕ははやる気持ちを押さえながら、ゆっくり彼女の唇にキスしようとした。 「いいえ、唇は駄目よ。わかるでしょ。 あなたの唇に、私の口紅がついちゃうわ。 私の香りも移ってしまう」 「それより素敵なアクセサリーはないと思うけどな」 「明日の見出しが目に浮かぶわよ。 モルダー、スカリーの口紅をつけて登場」 僕たちは声を上げて笑った。 そして彼女の頬に、そっとくちづけた。 「わかった、じゃあ唇は我慢するよ。 でも、これくらいはいいだろう?」 言って僕は、君の髪をかきあげて 素早くキスマークをつけた。 「デビッド!」 「そこは髪で隠れて見えないよ。 明日には消えるだろう。今日だけ・・・・」 ジリアンは首筋に手を当てて、言った。 「そうね。今日だけ・・・・・私たちは恋人」 今日だけ・・・ 会場に着くと、目も眩むようなフラッシュが僕らを出迎えた。 僕は彼女と手を繋いで、中に入った。 ジリアンは終始、柔らかい笑みを浮かべていた。 今日だけで、一体何枚の写真が撮られただろう。 そしてそのどれにも、幸せそうな僕らが写っているに違いない。 虚構の恋人を演じる、僕らが。 少なくとも僕は、彼女への本物の愛情を目に宿していたけれど。 受賞式の後、たくさんのインタビューに答え、 たくさんの写真に収まり、君は少し疲れていたようだった。 「疲れた?」 ぼくはジリアンの耳元で囁いた。 「少し・・・・」 彼女は蒼白い顔で答える。 「そろそろ帰ろうか。送っていこう」 僕らは最後まで手を繋いだまま、車に乗り込んだ。 車の中で、ジリアンは何も言わず窓の外を眺めていた。 「疲れたね。大丈夫?」 僕が訊ねると、彼女は微笑んで答えた。 「ん、大丈夫。ちょっと人ごみに酔っただけ。 早く着替えたいわ」 そう言って、肩をすくめた。 僕はジリアンを見た。 今日1日、夢を見ているようだった。 ずっと君と手を繋いで、ずっと一緒にいて。 君と視線が合うと、君は優しく微笑んでくれた。 まるで昔のように。 馬鹿な僕は、一人で錯覚してしまいそうになった。 今、言えば・・・・ 君は、許してくれるだろうか。 「ジル」 僕が名を呼ぶと、彼女はこっちを振り向いた。 「ん?」 両手でピアスを外しながら、首を傾げて僕を見た。 僕はそんな君にまた何度目かの一目惚れをする。 少し目を伏せて、口を開いた。 「今日だけって約束だったけど・・・ 明日からも、また・・・恋人でいてくれるかな」 言ったとたん、彼女の顔がこわばる。 心持ち唇を開いて、無意識のうちに軽く舐めた。 視線を窓の外に移し、切なそうな横顔を見せた。 僕は祈るように、彼女の手を取った。 「ジル・・・何か言って」 「・・・・」 「僕を・・・・許してくれないかな。 ずっと・・・あれからずっと・・・君を愛してきた。 君以外は、目に入らなかった」 「うそだわ」 ジリアンは、かなしげな瞳で僕を見た。 「あの後のこと、私が知らないとでも思うの? あなたはあの後も、色んな女の人とたくさん デートしていたじゃないの。 一人の人を見てあげてって、頼んだのに・・・ あなたはちっとも、変わってないじゃない。 そんなあなたの言葉を、信じてくれというの? 私がその他大勢の一人じゃないっていう証拠は、 どこにあるの?」 君の瞳から一筋、涙が流れた。 「ジル・・・・」 「もう、私の心を惑わさないで。 今日1日、私がどんな思いで、あなたの横にいたと思う? あなたが同情から誘ってくれたのは分かってるわ。 そしてそれがただの気紛れだって言うことも。 それを知りながらあなたの恋人を演じることが、 どんなに・・・・辛かったと思う?」 僕は彼女の涙を指で拭った。 「違う、僕は気まぐれなんかで君を誘ったんじゃない。 君と一緒に行きたかったんだ。 もう一度君と、やり直したいんだ」 僕は自分の全てを懸けて、彼女を見つめた。 彼女は悲しそうに、首をふった。 「デビッド・・・私はあなたが、信じられない」 静かに止まったリムジンの扉を、自分から開けて 彼女は車を降りた。 僕はそれ以上何も言えなかった。 家に向かって歩いていく彼女の後ろ姿を見ながら、 僕は自分の愚かさを今まで以上に恥じた。 僕の向かいの座席には、彼女が置いていった薔薇の花束。 まるで彼女の、拒絶の印のように。 その紅だけが、目に痛かった。 to be continued