このお話は、作者の純粋な楽しみのために書かれたものであり、 作中の登場人物や設定は、実際のものとは全く関係ありません(たぶん)。 また、彼らにまつわる著作権やプライバシーを侵害するために作ったものでもありません。 爪痕 abp 第四章 傷跡 家に帰ってからも、私は落ち着かなかった。 今日1日のデビッドの優しい眼差しだとか、 私の腰に回されたしなやかな腕や、 気遣うような柔らかいキス。 その全てに、酔いしれていた。 そしてもう一方で、これは今日だけのことと分かっていた。 気まぐれな彼が、今日1日だけ選んだ恋人が、私。 それは分かっていたけれど。 彼と手を繋いでカメラの前に立ったり、 みんなの前で頬に優しいくちづけを受けたり、 並んでステージに立ったり。 その一つ一つの瞬間が、私に夢を見させた。 甘く、苦い夢。 とても幸せな瞬間に、目が醒める。 デビッドに恋した日々は、なんて激しかったのだろう。 一生かけても味わえないほどの喜びと、 一生かけても味わえないほどの苦しみを、 彼はいっぺんにくれたのだから。 彼は、神様に愛されたような人だ。 その優しさと彼の発する眩しいほどの光は、 周りの人間を惹きつけてやまない。 彼がいるだけで、あたりを払うように雰囲気が変わる。 人の心を読むのが上手くて賢くて。 どれほど遠くからでも、彼だけは輝いて見える。 彼はその優しさと光と溢れるほどのユーモアで 人の心に知らないうちに忍び込むのが上手だ。 誰もが彼に、惹かれずにはいられない。 でも、でも彼は優しすぎる。自由すぎる。 優しすぎて、誰の心も素通りしてしまう。 誰かの心に留まることは彼には出来ない。 綺麗な鳥を駕籠に閉じ込めておくことが出来ないように、 彼の心もまた、一つ所に閉じ込めてはおけない。 それが分かっていたから、私は彼を好きにならないでおこうと思った。 こういう人間を好きになっても、結局自分が傷つくだけだと知っていたから。 でも、一目会ったときから、彼に惹かれる自分を止められなかった。 彼の行動に一喜一憂する自分がいた。 気付けばもう首まで、彼を愛する底無し沼にはまっていた。 もう自分ではどうすることも出来なかった。 でももちろん、彼は私の中にも留まってはくれなかった。 自由を好む美しい鳥を愛してしまった時から、解っていたのに。 彼がいつか私の元から飛び立ってしまうことくらい。 まるで当たり前のように、彼は他の場所へ飛び立ってしまった。 あれほど辛かった日々は、まだ私を真綿のように締め付ける。 それでも、あれほどの苦しみを差し引いても、 彼への愛は衰えなかった。 私は明らかに今でも彼を、愛していた。 彼を想うたびに、胸が引き裂かれそうになるほどに。 そう、多分別れた夫よりも、強く。 今日別れ際に彼が言った言葉。 やり直したい、と。 それを聞いた時、私の胸は高鳴った。 鼓動が彼に聞こえてしまうのではないかと思うほど。 デビッド、あなたと別れた後、どんな人と付き合っても、 あなたを忘れられなかった。 ずっとずっと、愛していた。 どんなに離れても、どんなに会えなくても、 想いは、止められなかった。 あなたを忘れるために結婚したわけじゃないけれど、 離婚してから結局分かったことは、 私はあなたを忘れられなかったと言うことだけ。 忘れようとしても忘れようとしても、 あなたは私の心から出ていってはくれない。 モルダーを演じるクールな横顔や 冗談を言うすました表情や 私と雑誌の表紙を飾るときの甘い微笑みは 何度も私に恋をさせた。 終わったことだと割り切れる潔さは、私にはなかった。 だから、今日彼が言ってくれた言葉は 私が長い間望みつづけたもののはずだった。 別れてからも、気が狂いそうになるほどに 彼が恋しくて仕方なかった私が、 何より望んだ言葉のはずだった。 でも、私を見るデビッドの翡翠の瞳は またあの苦しみを思い出させた。 また、あんな辛い思いをするの? あの人がよそ見をするのを、身を引き裂かれるような気持ちで 見ていなくちゃいけない、そんな、辛い思いを。 また、同じことの繰り返しに決まってる。 私ばかりが、愛してしまうのだろう。 彼との恋愛で、私が勝者になることはない。 彼と過ごした優しくて儚い日々が、胸を掠める。 数年前に二人で過ごした時間は、かけがえのない思い出だ。 連絡のつかない彼を一晩中待っていたことも、 タブロイド紙から彼と他の女性のデートを知らされたことも、 今となってはどれも素敵な思い出。 辛かったことももう良い思い出だと、 ずっと、そう思ってきた。 時間が経てばこの心の痛みも消えると信じたかった。 彼との思い出を美化することで、辛かった恋を 昇華させたかったのかもしれない。 本当は、時間が経っても何一つ変わってはいなかった。 今でもこの傷跡は癒えることなく、こんなに痛むのだ。 癒えない傷跡がまた疼いて、私はデビッドの手を取れなかった。 本当はあの時、死ぬほど嬉しかったのに。 すぐにもイエスと言いたかったのに。 辛く悲しい思い出が、私を止めた。 今でも愛していると叫び出しそうになる心を、殺した。 寝ていたはずの娘が起き出して来て、私に甘える。 「ママ、デビッドはかえっちゃったの?」 「ええ、さっき帰ったわよ」 「なあーんだ。あたしもおはなししたかったのに」 パイパーはデビッドが大好きだ。 もしかしたら、実の父親よりも。 親子揃って・・・ 私は一人で苦笑した。 「なに笑ってるの、ママ?」 「ん、何でもないわよ。そうねパイパー、今度また デビッドが遊んでくれるわよ。 さあ寝ましょう。あなた、少しお風邪を引いているでしょう。 薬は飲んだのね?」 「うん、飲んだ」 「そう、じゃあ早く寝て。咳がひどくならないうちに」 「ママ、だっこ」 「はいはい、甘えたさんね」 娘を抱き上げて、寝室へと運ぶ。 デビッドのことを頭から追い出すように、 私はこの小さな天使を抱きしめた。 今日はお酒を飲もう。 少し強いやつを。 そしてそのまま、酔いのなかですっと眠ってしまおう。 何も考えず、眠ってしまおう。 そしたら明日には、また彼と何もない顔で会えるだろう。 モルダーとスカリーに、戻れるだろう。 To be continued