このお話は、作者の純粋な楽しみのために書かれたものであり、 作中の登場人物や設定は、実際のものとは全く関係ありません。 また、彼らにまつわる著作権やプライバシーを侵害するために作ったものでもありません。 爪痕 abp 第七章 交錯 昨日は人生で一番最悪な日だった。 ジリアンが他の男と一緒にいるのを見なくてはいけなかったから。 そしてちっとも彼女を忘れていない自分に気付かされたから。 強引にジリアンの手を取ってくちづけた時、彼女の瞳に当惑の色が浮かんでいた。 そしてティアの瞳にも。 でもあの時、自分の気持ちに嘘がどうしてもつけなかった。 彼女が恋人にキスしようとしているのを見た瞬間、 頭に血が上って、気付いたら彼女の腕を引き寄せていた。 彼女は僕のものだと言わんばかりのキスをしてしまっていた。 お互い相手がいるのに、どうしてこんなに諦められないんだ。 このままでは、誰も幸せにできず終わってしまうかもしれないのに。 もうすぐ、子供も生まれると言うのに。 次の日、撮影に現われた彼女の顔を見て、僕は言葉を失くした。 彼女の右の頬が、微かに腫れている。 傍目には分からないほどだったが、僕はすぐに気付いた。 何も言えず見つめる僕の視線を、彼女は気まずそうに逸らした。 あなたは何も見なかったのよ、とその瞳が言っていた。 メイクで綺麗に隠して、ジリアンは撮影をこなした。 僕は気付かない振りでモルダーを演じ、彼女も何もなかったように スカリーを演じていた。 でも僕は、心配で仕方なかった。 撮影が終わり、彼女は逃げるようにトレイラーに帰った。 僕はそんな彼女の後を追った。 ドアを叩き、彼女を呼ぶ。 扉の向こうから、冷たい声が聞こえる。 「ごめんなさいデビッド、今は誰とも話したくないの」 「いやだね。開けてくれるまで動かない」 「帰って・・・お願い」 ドアの向こうから微かな声が聞こえたけれど、僕は そのまま回れ右をして帰る気なんて、これっぽっちもなかった。 だからまるでモルダーのように、ドアを蹴破った。 「!!」 そこには、目を赤く腫らしたジリアンが、びっくりした顔で立っていた。 「デビッド・・・なんてことするの!!」 そこから先は驚きのあまり、言葉にならないようだった。 「たまにはモルダーみたいにドアを蹴破ってみたかったんだ。 ちゃんと弁償するよ。とりあえずここは用心が悪いよね。 だってドアはもう使い物にならないんだから。 さあ、僕のトレイラーに行こう」 そう言って僕はジリアンを促して歩き出した。 ジリアンはおとなしく僕の後に続いた。 「なんて強引なの。あまりに大胆で怒る気にもなれないわ。 でも私がどれだけ呆れているか、あなた分かってるんでしょうね」 「もちろん。でも僕は君と話がしたいんだ。 そのためにはこれくらい、仕方ないことだよ」 僕がさらっと言ってみせると、彼女は心底呆れた風に 半分笑いながら肩を竦めた。 無理して笑っているようなそんな笑顔だった。 「モルダーだってスカリーの家のドアを蹴破るようなことはしないわ」 僕は彼女に笑いかけ、できるだけ軽い口調で言った。 「そうだね。モルダーならもっと違ったやり方で相棒を気遣うんだろう。 でも僕は、モルダーじゃない。僕なりのやり方でしか無理なんだ」 ジリアンは僕を見上げて、そうねと呟いた。 僕のトレイラーに着いて、ジリアンをカウチに座らせる。 ジリアンの目はまだ赤い。頬も少し腫れている。 さっきより少し、腫れが大きくなった気がする。 「さあ、話して」 僕はジリアンの前に跪いて、彼女と目線を同じくした。 「話すことなんか・・・」 僕は彼女の頬に手をやった。 「ないとは言わせないよ。このほっぺ、殴られたんだろう。 殴ったのは君の彼氏だね」 「・・・・・・」 ジリアンは顔を伏せる。 僕はその顔を手で挟んで、こちらを向かせた。 「君の彼氏が乱暴者だってことは、知ってたよ。 まさか君と付き合ってるとは、昨日初めて知ったけれど。 ・・・何があったんだ」 「あなたには、関係のないことよ」 僕はジリアンの手を取った。 「関係なくないよ。僕はいつだって君を心配してる。 君が少しでも悲しい顔をすれば、誰より不安になる。 そんなことまで駄目だなんて言わないでくれ。 長年仕事をしてきたパートナーとして、心配する権利くらいは 僕にだってあるんだ」 ジリアンの大きな緑の瞳から、涙の雫が一つ、溢れた。 僕はその涙を指で拭ってやり、彼女の髪を梳いた。 「さあ、話して」 ジリアンは言葉を選ぶように、ゆっくりと話しはじめた。 「彼が・・・あなたのことを悪く言うから・・・私・・・・私、 思わずかっとなって、彼をぶってしまったの。 そしたら・・・」 その時のことが思い出されたのか、彼女は泣き出した。 僕は何も言わず、彼女を抱きしめた。 彼女は僕の背中に腕を回し、僕の肩に顔を埋めた。 彼女の華奢な体を抱きしめていると、どうしようもなく 愛しい感情がこみ上げてくる。 忘れようとして封印した、僕の心の底の感情が。 「ジル・・・」 愛していると言えない僕は、その代わりに強く強く 彼女を抱きしめる。 僕を庇ってぶたれた君を、どうして忘れられる? どうして過去のことと、割り切ってしまえる? 目をつぶっても、ティアの顔は浮かんでこなかった。 僕は彼女の肩を持ち、体を離した。 目を真っ赤にした彼女の白い瞼にキスしてから、 涙を拭い、痛々しく腫れた頬を癒すようにくちづける。 彼女は次から次へと涙を零しながら、僕を見る。 そして僕の瞳の中の炎に気付き、息を呑む。 これから僕がしようとすることを悟ったように。 彼女の艶やかな唇は、小さく震えていた。 何も言わなくていい。 僕はジリアンの唇に人差し指を押し当てて、首を振った。 僕は静かに顔を近づけ、彼女の唇に自分の唇を押し当てた。 彼女の唇は、微かに震えていた。 何年ぶりかに味わうジリアンの唇は、前と同じだった。 柔らかくて甘くて、僕を酔わせる。 昔と同じように、深く深く、彼女にくちづける。 彼女の唇に触れた瞬間、堰を切ったように僕の気持ちが溢れ出した。 積もりに積もった想いがすべて、出てくるようだった。 結婚して愛する人がいて、違う道を歩んでいると思っていても 本当は何も、変わってはいなかったことに気付く。 僕のジリアンへの気持ちは、少しも変わっていなかった。 ただ誤魔化していただけだと、今痛いほどに解った。 自分でも驚くほどの想いの強さが、このキスに宿っていた。 ティアと結婚しようと決めたとき、僕はジリアンへの気持ちを凍らせた。 まるでどこかの美術館に飾られている彫刻のように、 ジリアンへの気持ちを凍らせて、二度と蘇らないようにした。 でも彼女と唇を合わせただけで、その唇の温かさが、 石像のように固まっていた気持ちを一瞬で溶かした。 僕の気持ちは命を吹き込まれ、生き生きと動き出した。 きっとそれはジリアンにも伝わってしまっているのだろう。 僕の想いを、この抗いがたい強い想いを。 “磁石が惹かれ合うように、僕は君から離れられない” そう語りかける僕のキスに戸惑いながらも、 ジリアンは躊躇いがちに、キスを返した。 ティアのことも、これから生まれる子供のことも、 彼女の恋人のことも、彼女の娘のことも、 今の僕らの頭の中にはなかった。 ただただ、お互いに溺れていた。 昔一緒に過ごした甘い時間を思い出すように、 そっと、そっと心が寄り添うのを感じた。 僕は何度もジリアンにキスを繰り返し、 彼女は僕の背中に手を回した。 僕は彼女の白い首筋に唇を下ろし、そこに痕が残らない程度に 軽く吸った。 最初に体を離したのは、ジリアンだった。 僕が彼女のブラウスのボタンを外そうと手を掛けた時、我に返ったように ジリアンは体を起こした。 「だめよ・・・」 乱れた髪を直しながら、ジリアンは熱を持って潤んだ瞳を 見られまいと顔を背けた。 僕は彼女のその言葉を聞いた瞬間、体が固まるのを感じた。 どうして駄目なんだ、なんて聞けるはずもない。 誰だっていけないことだと言うだろう。 だから僕も、こう言うしかない。 「そうだね・・・」 彼女ははだけたスカートの裾を気にしながら、涙を拭った。 「今のことは忘れましょう。なかったことにしましょう」 「ジル・・・」 「魔が差した、そうでしょう?」 その言葉が、僕の炎のような熱情をまた凍らせた。 僕は目を閉じて、何とかしてこの情熱を諌めようと 大きく息を吐いた。 魔が差しただなんて言葉で片づけられる想いじゃないことは、 さっきの僕のキスでもう君は解っているくせに。 また、気付かない振りでやり過ごそうとするんだね。 君は一時の感情に流される事もないほどに、僕を憎んでいるんだね。 そんな君の気持ちを、僕は尊重するよ。 君を愛してるから。 愛してるから、君が僕を拒むなら、それを受け入れる。 この思いを封じ込めることを、君が望むなら。 それが君の願いなら、僕は身を切られる思いをしてでも封じ込めよう。 僕はもう一度だけ大きく息を吐いて、言った。 「そうだね、君の泣き顔があんまり色っぽいから、つい魔が差した」 「・・・・」 ジリアンは下唇を噛んで俯いた。 「・・・あんなやつとはもう別れろ」 僕は思わず強い口調で言ってしまった。 「別れたわ、昨日」 「そうか。もっといいやつを見つけるんだ、君をぶったりしないやつを」 僕がそう言うと、君は僕の顔を見た。 ずいぶん長い間、僕を見つめた。 その唇から、ずっと長い間待ち望んだ言葉が出てくるような気がして、 僕は待った。 でもその言葉は、ついに出てくることはなかった。 「そうね。素敵な男性を見つけるわ。あなたみたいな幸せな家庭を 築ける人を見つける」 僕は跪いてジリアンと目線を合わせ、その手を取って見つめた。 「約束してくれ。幸せになるって、約束してくれ」 君の幸せは、僕の一番の願いだ。 例えそれが僕によるものじゃなくても、君が幸せならそれで・・・ 「約束するわ。幸せになる」 そう言うとやっと、彼女の顔に笑みが戻った。 ジリアンをトレイラーまで送り届け、スタッフにドアの修理を頼んでから 僕は自分のトレイラーに戻った。 カウチに座り、唇を指でなぞった。 そこにはまだ、彼女の温かさが残っていた。 あの瞬間、僕は全てを捨ててもいいと思った。 仕事も家庭も、全て捨てていいと。 いつも体面ばかり気にする僕が、彼女のことになると そんなものどうでもよく思えてくる。 でも、彼女は僕など愛していないのだから、 こんな空回りの気持ちは、どこへも行きつかない。 僕がどれだけ望んだところで、彼女の気持ちが僕になければ ただの一人芝居なのだから。 さっきの甘いキスも、きっと忘れなければならない。 一度だけの戯れと、自分に言い聞かせて。 僕は一生懸命、ティアの顔を思い出そうとした。 でも、どれだけ思い出そうとしても、彼女の顔は浮かばなかった。 To be continued