このお話は、作者の純粋な楽しみのために書かれたものであり、 作中の登場人物や設定は、実際のものとは全く関係ありません。 また、彼らにまつわる著作権やプライバシーを侵害するために作ったものでもありません。 爪痕 abp 第八章 逃避 ティアに子供が生まれて、僕の家はにわかに騒がしくなった。 可愛い顔をした、僕の娘。 いい加減だった僕は、責任と言う言葉を知った。 僕だけが自分勝手な感情に振り回されることは、 僕を頼るこの小さな手を裏切ることだと知った。 すやすや眠る娘の顔を見るたびに、 いい父親に、いい夫にならなければならないと感じた。 たとえティアを愛していないと心の隅が僕に訴えていても、 その訴えは聞いちゃいけない。 僕とティアだけの問題ならば、別れることも出来ただろう。 でも僕たちには、慈しまなければならない小さな命がある。 この命を守るためには、もう忘れなければならない。 僕が長い間想いつづけた人のことを。 ジリアンのことを、頭から追い出さなければならないと思った。 たとえ力づくでも。 ジリアンはすっかり元気になり、また明るい彼女に戻った。 撮影でもよく笑い、空き時間には娘と楽しそうに遊んでいた。 僕も時にはそれに加わりながら、彼女と友達として関わることに 慣れようとした。 ジリアンも僕をいい友人と思ってくれているようだった。 見た目には、僕らは仲のいい仕事仲間だ。 でも、それでも、僕はジリアンを忘れられない惨めな男だった。 妻も娘もいて、忘れようと心に誓っても、 毎朝彼女の顔を見るたびに、あの日のキスが蘇る。 どうにかなってしまいそうだ。 撮影から家に帰るまでの車の中でいつも、 僕はいい父親いい夫になるための心の準備をするんだから。 ジリアンを追い出すことに必死なんだから。 いつになったらこの想いは消えるのか、まったく解らない。 今僕らは、映画の撮影に入っていた。 XFとしての初めての映画だ。 何でも金のかかった映画らしいけれど、ジリアンと一緒なら テレビと同じように、リラックスして仕事ができる。 彼女が横にいることは、僕の精神安定剤だ。 あくまで仕事においては、だけれど。 それ以外では彼女は僕の心を見事なまでにかき回してくれるのだから。 モルダーのアパートの廊下で、僕らはキスシーンを撮った。 正確にはキスシーンではなく、キスする寸前にスカリーは 蜂に刺され倒れてしまうのだけど。 モルダーとスカリーの初めてのロマンスを表現するシーンは、 僕にはちょっと残酷だった。 今まではお互いクールな演技だったから、何とか 僕は気持ちを抑えてこられたのに。 スタートの声が掛かり、僕らは見つめあった。 僕がセリフを言う。 「スカリー、君が必要なんだ。 君なしで歩いて行くなんて僕には無理なんだ」 「モルダー・・・」 彼女は優しい表情で僕の頬に触れ、僕の額に長いキスをした。 彼女の瞳の表情の豊かさに、いまさら感心させられる。 彼女は瞳だけでなんでも伝えられる、本当に素晴らしい女優だ。 モルダーがキスしようとしていることに気付き、一瞬戸惑いの瞳を見せる。 そう、少し前に僕がキスしようとした時と同じ瞳だ。 僕はゆっくり唇を近づけた。 もうすぐ彼女が声を上げるはずだ。蜂に刺されて。 でも彼女の瞳を見ているうち、自分でも押さえられない 愛しさに支配されて、僕は我を失った。 僕は彼女が声を上げるより一瞬早く、唇を重ねた。 「!!」 台本にない行動に、彼女は驚いて目を見開く。 でも僕はキスを続けた。 キスを深めながら、彼女の頭を押さえる。 彼女は抵抗しない。 僕はそのまま彼女を廊下の壁に押し付け、さらに深くくちづけた。 「ん・・・」 ジリアンの吐息が漏れる。 スカリーのそれではない吐息が。 スタッフの息を呑む音が聞こえる。 なにやってるんだ、おまえたち! きっとそう思っているに違いない。 酸素を求めてジリアンが唇を外した。 息を切らしながら僕を睨む。 「デビッド・・・」 僕は何も言わずジリアンを見つめた。 「カ・・・・カット!!!」 クリスの慌てた声が聞こえてきた。 ジリアンは走り寄ってきたメイクのスタッフに 少し離れたところで化粧を直してもらっている。 「なんだなんだデビッド、おふざけはよしてくれよ」 クリスが苦笑して僕の肩を叩いた。 僕はそれに曖昧な笑顔で応えて、天を仰いだ。 自分の気持ちが押さえられないほどだなんて・・・ しかも演技の最中に。 もう、限界だ。 あの後今度こそ台本通りのシーンを撮って、撮影は終わった。 「驚いたわ、デビッド。何かのジョークなの?」 ジリアンは呆れたような顔で僕を見た。 僕はいつもの皮肉な笑顔を浮かべて言った。 「べつに。キスする直前に蜂に刺されるなんてそんな 都合が良くて安っぽい脚本に嫌気が差しただけさ」 ジリアンは一瞬僕を見つめてから、溜息を吐いて目を閉じた。 「あなたらしいわね。でもあれはカットされるわよ」 「分かってるよ。自己満足だ」 「あなたの自己満足に巻き込まないで欲しいわね」 「悪かった」 「冗談よ。・・・お疲れさま」 軽く手を上げて帰って行った彼女の後ろ姿を見送った後 僕は右手で顔を覆った。 ジリアンは驚いたわ、と言ったけれど、 あの行動に一番驚いていたのは、他ならぬ僕だった。 キスするつもりなんて全くなかったのに。 彼女の瞳を見つめるうち、吸い込まれるようにくちづけてしまった。 あの時、僕はモルダーを忘れていた。 ただ、ジリアンに恋する1人の男だった。 ここまで高まっていた自分の想いを持てあましながら僕は 家へ帰り、愛しい娘の顔を見て考えた。 これ以上、彼女の側にいたら、全てを壊してしまう。 僕は彼女の気持ちも無視して、思いを遂げてしまう。 彼女は僕を愛してはいないのに、僕だけが先走って 結果彼女も自分の家庭もすべて、ボロボロに傷つけてしまう。 自分だけの我侭が、周りを不幸にするだろう。 僕には選択の余地はなかった。 降りるんだ。XFを降りるんだ。 彼女の側から離れるんだ。 そうじゃないと、僕は今以上に罪深い男になってしまう。 これ以上彼女の側で自分を止められる自信がない。 現にこうして、夢中で撮影中に彼女にキスしたじゃないか。 彼女のいないところへ、行くんだ。 To be continued あれ?映画の撮影って、まだLAに移る前でしたっけ? まあそういう細かいことはFictionなんで、気にしないで このまま最後まで行っちゃいます。 ちんたら続いてごめんなさい。もうすぐ終わります!