芸術論

一般的には、芸術とは、「美」を作るものだと言われる。
しかし、美しくないものも多いし、そもそも分からないものが多い。
絵画、彫刻、音楽、小説、映画、舞踊・・・と様々な芸術がある。
非常に多面的な要素を持ち、総合的にその姿を捉えることが難しい
「芸術」という化け物に一応目鼻立ちがついたということで
ここに20年以上問い続けてきた取り敢えずの結論を発表する。

極論

 芸術とは、イメージを心に描き、それを表現して他人に伝えることである。



段階として、3段階ある。
1. 作り手の想い(心情)
2. 物に刻まれた形(表現)
3. それを鑑賞した人の気持ち(伝達)
恐らく、これは芸術と呼ばれるほとんどのことに当てはまると思う。

例えば、人生や日常の生活そのもの(生き様)が芸術だと言われることもある。
その場合、その人が抱く人生の理想のイメージがあり、それが
その人の言葉や仕草など無意識に表現されて、その人と接する周囲の
人は、その理想を感じ、その人が去って行く姿を見て気持ちが背中に
書いてあると思ったりするのだ。

また、美しくない絵画に於いては、作者が心に抱くイメージが苦悩で
あったり、自己の内面であったりする。それが的確に表現されて
受け手に伝わったとするならそれはそれで一つの感動を生む。

そこで、芸術のプロセスを心情、表現、伝達と3つの段階に分けて
論じることにする。
ただし、この3つは本来一つのものと考える方が自然かもしれない。
説明のため便宜上分けて考えるのだ。

評価論

芸術に関して、常に悩まされるのが評価だ。
良し悪しというのは、好みやなじみによって変わってくる。
最も注意しなければならないのは、見慣れていることが好評価になること。
自分が知っていることは、思ったように物事が進む。
期待して、期待通りの結果になる。
未知のものには、警戒心が働く。
慣れ親しんだものは、どうしても良いと判断されてしまうものだ。
時代背景によっても、評価は変わる。
権威有る作家の形を真似たものが評価が高いことも多々ある。
慣習にとらわれず、創意工夫が作品から感じ取れるかといった内容を
評価して欲しいものである。

心情論

 恐らく、芸術的な価値はここにある。
 着想やイメージが優れていなければ、芸術としての存在価値はない。
 それが作り手としての創作意欲であったり、伝えたいという気持ちで
 あったりするのだから、自らが感動し得るものでなければならない。
 美意識だけではなく、忘れかけた理想を思い出させてくれるとか、
 自分にもこんないいところがあったんだ、なんて思えるようなことも
 全ての人に共通した心情であり、芸術的なものなのだ。
 芸術を作品として世の中に示す場合に心情は、テーマとして扱われる。

 心情は、世界観という言葉に置き換えることも出来るだろう。
 物事を深く洞察し、矛盾を排除して洗練することにより、調和の取れた
 一つの世界が見えてくる。そういう整った世界では、物事の予測が
 容易であり、「らしさ」みたいなもので物事が把握出来る。
 心情を分かりやすい形で提示出来れば、受け手も自由に思いを巡らせる
 ことが出来るのである。
 こういうことをするのはあいつしか居ない、あいつならやりかねない、
 などというようなことも世界観を形成する重要な要素である。
 たった一つの魔法の呪文が、強大な力を呼び起こすというのもこういう
 秩序正しい世界にある心情法則だと言えるだろう。
 また、物理的に矛盾しても心情的には正しく思える世界観が成立する
 場合も多いが、これも心情法則による。

 世界観は、無意識のうちに作られる場合もあるが、芸術に於いては
 作ろうと意図から意識的にそれを扱う必要が出てくる。それは、安易
 には成し得ず、他の人が考えない所まで考え、物事を洞察して法則を
 掴み、無意識にあるものを意識の領域に引き上げなければならない。
 その作業は、観察や気配りのように客観的に行われることもあるが、
 多くの場合は、自己を道具にして主観的に物事を捉えなければならない。
 芸術家の多くは、そのために「代償的で強引な」自我を持たない。
 自分をその場に置いて、自分がどう思うか自然に主観的に評価するのだ。
 強い自我を持つと、その判断ができなくなる。心の目が曇ってしまうからだ。
 心情が主観的に評価されていることが、伝達段階で共感を生むかということに
 大きく影響する。良心的な作者によって検証(洗練)されたものは、
 安心して受け入れられるものだ。作品に人柄が表れるというのも、
 そういう配慮によるものだろう。

 心情は、人の心を動かす(感動させる)芸術的価値そのものである。
 断片的な形容詞で表現される要素を組み合わせて、実在感、存在感のあるもの
 にまでイメージを発展させるのである。
 志の大きさ、理想の高さ、イメージの完成度などが評価され尊敬に値するものとなる。
 それを作り出すには、作り手の実体験が不可欠だろう。
 このモチベーションとも言える心情なしに、表現や技術先行で映画などを
 作ることは概して成功しない。そういったのには元々共感出来る心がないのだ。

心情要素の例
 美しさ、優雅、可憐、かわいさ、上品な、豪華な、調和の取れた、
 雄大さ、勇猛果敢さ、大胆、鮮烈、斬新、豪快、痛快、颯爽とした
 ほのぼの、うっとり、ほんのり、心和む、優雅な、神秘的、
 切実な、心憎い、味のある、潔い

表現論

 折角、素晴らしい心情が描けていても、それを他人に伝えるための
 表現力を持たなければ何にもならない。
 また、表現方法を知らずして心情をより明確にイメージすることも不可能だ。
 芸術家の才能の大半は、表現という部分にかかってくるだろう。
 芸術的表現は、一部解明されて技術的に扱うことは可能になっているが、
 多くは未解明のまま、人間の感覚と無意識的によって作り出される。
 美術関係の技術も、その多くは理論的な体裁を持たず、漠然と作例が
 並べられているだけに過ぎない場合が多い。
 明確に技法を記述した書籍がない訳ではないが、優れた技の多くは今でも
 人から人へと直接伝えることが多いようである。自分が持つ技術を理論的に
 解明することに時間をかけるよりも、直接伝えた方が早いということだ。
 しかし、コンピュータ・グラフィックスの分野では、遠近法、陰影法などの
 絵画技術が理論的に解明されてリアルな映像を作り出している。

 表現の難しさは、多くの情報を操作する難しさだと言える。
 しかも、多くの場合それらは同時に操作することを要求され、失敗すると
 やり直しが出来ない場合も少なくない。
 一筆で表現しなければならないもの、楽器演奏、スポーツ芸術などを
 考えてもこの難しさについては共通したものがある。
 表現で大切なのはその再現性である。場合によっては、その困難さから
 元々表現しようとしていた心情までも歪められてしまうことがある。
 多くの場合は、扱う情報の多さから気が遠くなるような作業を必要とする。
 慣れるとそれらを効率的に扱える技法が身につく。いずれの場合も、
 自分の描いた心情と表現したものとの差を感じ取る感覚の鋭さが必要であり
 それを一つ一つ修正して行く几帳面さが必要だ。
 自分の表現手段をミスしないまでの完成度に仕上げることが要求される。
 作品に操作し切れていない情報が残った場合、それは多くの場合誤解を招く。
 「それは意図しなかったものだから気にしないでくれ」では済まされない問題だ。
 気になるものは気になるのであり、誤解を招くなら排除しなければならない。
 良い作品は、見る人を選ばず、自然にテーマに目を向けられるような配慮が
 成されているものである。テーマを決めて作品を作ろうとした時、本来の
 テーマ以外の要素が目立って途中でテーマを変更して成功する場合もあるが、
 これは表現としては一度失敗しているのである。

 芸術を考える時、それを「好き」「嫌い」で片付けようとする人があるが、
 その考え方では、芸術の完成度を上げることは不可能だ。
 表現しようとする心情が明確であれば、表現は自ずと適切、稚拙などという
 価値判断ができるのである。それは言い換えると上手、下手ということになるが、
 そういった評価基準を設けておくことは非常に大切なことである。
 それらを漠然と捉えて区別出来ない人は、「好き」「嫌い」でしかものを
 言えなくなってしまう。とはいえ、新しい価値感で作品を作る場合、
 現在の社会での一般的な価値基準では判断出来ないこともあり、優れた
 芸術家の作品が時代を先取りし過ぎていて評価されず、死後になって
 評価が高まるということも多いのである。
 芸術の評価として最もまずいのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という
 コンプレックスによる「好き」「嫌い」の判断だ。
 最愛の夫の作品だから「好き」とか、同郷のよしみで応援するというのも
 芸術の正統的評価からすると嬉しくないものだ。

 表現というものは、多くの情報を操作する必要があり、それが困難であるため
 ある人が、表現方法を模索してある表現目的まで達成出来たとすると、
 多くは、その人の弟子に就いて表現方法を真似しながら学んで行くことになる。
 Aという人がBを表現するのにたまたまCの要素を付帯的に使ったとすると
 後の人も何の疑問もなくBを表現するのにCの要素を使うということが起きる。
 別の方法で表現するという発想が得られない限りそれは続くこととなる。
 習い事をすると師匠を越えることが非常に難しいが、習った形のうち、何かを
 少し変えただけでバランスが崩れてしまい、身動き取れないのだ。
 形を変えるためには、その背後にある成立条件を読み取ってバランスを取ら
 なければならない。

 表現の難しさは、扱う情報量の多さにあるが、それにも増していざ表現して
 みようと思って挑むと、表現方法自体漠然としていて捉えどころがなく、
 どうすればいいか皆目見当がつかないことが多い。
 図形なども丸や三角や四角といった形で説明できるものはいいが、雲形定規で
 描かなければならないものや不定形なものをどう扱うかも難しい。
 そういうものから規則性や特徴を読み取って、それらを自分の中に確かな
 ものとして定義しておかなければならない。
 人間の認識は、比較に関して優れている。同じか違うかについては敏感だ。
 その能力を生かすためには、一度正確な形などを覚えなければならない。
 覚えると見たり聞いたりしたものとの違いが無意識に一瞬で分かる。
 言葉や数学のように比較的ハッキリしたものを学ぶことは容易でも、
 芸術分野では、その覚え方や物事の認識モデルの形成を自分自身で行わ
 なければならないため非常に困難だ。だからこの辺りのことについては、
 才能の差が出てしまう。
 形に意味付けしたり分類して、自分が扱い易い形で覚えて認識するのだ。
 その効率や正確さによって個人差が出る。
 認識モデルが悪いと、いくら時間をかけても適切な表現を得ることが出来ない。
 人間の感覚は、相対的なものであるため、とらえ所がないように思えることが
 多いのだが、適切な基準を見出せば、それを基準にして認識出来る様になる。
 定規の目盛りや、空間の座標軸なども基準を定める適切な例である。

伝達論

 ある意味、芸術はコミュニケーションなのだ。
 多くの芸術は、表現によって作品を作り、作品というものを通じて間接的に
 それを鑑賞する人とコミュニケーションする。
 そのため、作者が死んだ後でも心情を託された作品は、それを語り続けることになる。

 伝達で最も大切なことは、受け手が自然に受け入れられることである。
 芸術作品が拒絶される例はとても沢山ある。特に文化が違うと、ある形に
 独特の意味付けがされていたりするので、受け手が何を連想するか予測出来ない。
 だから、作品を作る人は、予め受け手となる人とコミュニケーションをとったり、
 よく観察しておかなければならない。
 しかし、作品が受け入れられるのに最も大切なものは、受け手の意志の尊重であろう。
 突然見たくもないものを見せられて不愉快な思いをするというのでも困る。
 作り手の意図的な小細工は、警戒心を誘い拒絶される。作品はあくまでも自然に
 見てもらう立場にあるのだ。
 作品に託されたものが優れていれば、好感を得て受け入れられるだろう。
 また、表現されたものに親しみや共感が得られれば、それも評価されるだろう。

 伝達は、作品という表現物の持つ情報のみによって伝えられるものではない。
 作品に託されたものを鍵にして、受け手が独自に経験した記憶を呼び起こす
 ことにより心情を伝えたり、想像力をかきたてて希望を抱かせるということも
 優れた伝達である。表現し過ぎるのは、望ましくないことも多い。
 黙っていれば尊敬出来たのに口に出したために・・・みたいなこともある。
 暗示して見る人に判断を委ねるのも重要だ。

 標識やアイコン、数学記号など「記号」や言葉は、それだけで多くの情報を一度に
 連想させることが出来る。これは、伝達という意味では優れているが、既存の
 心情をただ伝えたい時には有効だが、より深く幅が広い心情を伝えるのには不向きだ。
 詳細に表現しても、安易に既存の解釈で済まされてしまうことになる。
 「学歴」や「レッテル」が敬遠される理由と似ている。

その他の議論

 味の分からない人間に料理人は勤まらないと言われる。
 芸術でも全くその通りで、単に憧れだけでその道に足を踏み入れた場合、
 悲惨な結果が待っていることを知らなければならない。
 心構えというか、辛く困難なものに立ち向かうための心の支えをどこに
 持つかといった辺りはとても難しい問題だ。
 一般の社会では、良くも悪くも自分を自我をもって社会に位置付けなければならない。
 他の人に誉められてそれに従い、叱られて従い・・となる。
 しかし、芸術家はそれでは勤まらないのだ。
 芸術的な善し悪しが分からない者を評価することはあまりに過酷である。
 分かっていないがために、批判すると自己そのものを全否定してしまうのだ。
 自分と自分が採用した表現要素を区別出来る人は、批判されても「ああそうか」と
 簡単に直せてしまうが、無意識なコンプレックスの中から生み出した自分のやり方で
 自分が良いと思って表現した物を否定されると自分自身を否定されたに等しい辛さを味わう。
 人によっては、何を批判されているのか分からず落ち込む場合もあるだろう。
 確かな才能があって、大筋捉え方が間違っていない場合はそんな問題は起きないのだが。
 考え方の価値観や方向性が間違っている場合は、いちいち直しても直し切れるものではない。
 何より恐ろしく不幸なのは、無知と勘違いである。

 自分に厳しい芸術家は、自分より認識力が低い見地で評価されることを嫌う。
 特に、自分で満足出来ないものを認識が低い見地から誉められるのを好まない。
 最も受け入れ易いのは「下手だけど好き」といった評価だろう。
 評価に従う従順さも必要だが、批判に対して反論するだけのものも持っていなければならない。
 自分がそれをこう表現したのは、こういう意図によるものだ、というだけで批判から
 自己を防御出来たりする訳で、自分の考えを明確にして足場を固めながら創作活動を
 していないのはあまりに無謀だと言えるのだ。
 それだけに、自分のやっていることの位置付けがしっかり定義出来ていなければならない。
 自然の道理を弁えているのが芸術家であるが、概してその当たり前の道理が分からないのである。
 自分の作品や表現の適切さを自分で客観的に評価出来、自己満足や思い上がりと常に
 厳しい態度で戦わなければ良い作品は生まれない。
 平常心を保つためにも、そういった葛藤が出切る限り少なくなる様に、正しい道を見つけて
 歩む様にしないと芸術の道は険しい。

芸術を更に哲学するためのキーワード

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