禅と悟りの概念

【私の経験】

私は、20代前半に禅修行というよりは、自分探しというか、ユング心理学の精神分析的な
アプローチで、無意識の中の自己矛盾と格闘していた。
ちなみに、ここに書いたことも含めて、現在の仏教の禅宗である臨済宗、曹洞宗とは
一切関係なく、参考文献により独学で学んだことを付け足しておく。
求道心を持つ者は、ある意味普通でないと思う。
自分の場合、自閉症、モラトリアムといった傾向が強く、集団の中で取り残される自分が
どうあるべきかと悩んでいたことなどが求道心のようなものに結びついた。
また、無意識に抑圧されたコンプレックスにより自分が犯罪者に仕向けられるようなことが
あるならば、むしろ無意識に構築したものを一度オーバーホールにかけた方がいいというような
考えだった。
その際に大いに参考にしたのが禅の考え方であり、自分の論理武装を解除するために、
公案は、大きな役割りを果たした。
その結果、ある時、もやもやして自分にまとわりついていたような感覚がスッと消え、
聡明で静寂の中に自分が居るという驚くべき心境を得て、その後もそれが持続している。
既に10年以上経つが今も変わらない。
これを悟りというかどうかは分からないが、とにかく、無意識の中にあった矛盾が
整理されたことには変わりない。
小さな悟りは、気付くことであり、日常誰もが経験することである。
大きな悟りは、その積み重ねで、無意識の根本に近い部分で気付くことがあって、
成就されるようである。また、完全な悟りというのもないと言われる。
結局、自己保存欲から来る甘えを、どれだけ克服出来るか・・・
それは、「一度本気になってみなされ」というだけのことなのかもしれない。

【悟って得るもの】

何もかも分かった様な気になったり諦めるのが悟りではない。
悟りを開くと世捨て人になるような観念が世の中にあるけれど、悟りそのものは特別な
ことではなく、重大な選択を迫られた時に誰でも少なからず経験することだ。
経営者などにはそういう精神の境地に至る人が多いと言われる。
「覚悟」とは、悟りを覚えると書く。
迷いや執着から離れなければ正しい判断が出来ないのだから、言葉というものは
よく考えて作られたものだと思う。
会社経営などで、苦しい状況に追い込まれた時、この人は信用出来るか、
騙されるのではないか・・と、人を信用出来なくなるようなことがあると思うが
そういう場面で根拠のない心配から離れて、冷静に見るべきところを見て決断することは、
悟りを得ることと非常に近いのだ。
悟りの恩恵とは、コンプレックスにより、抑圧されたものが自分にマイナスに働いている
場合の解消であるとか、甘えを断ち切ってより高次元の発想を得るとか、現実にない
妄想を抱かない様に精神を鍛えて無駄な迷いや苦しみを断ち切るとかそういうことにある。
痛いものは痛い、苦しいものは苦しい、分からないことは分からない。
それを認めてそうならないために予め普段の生活を工夫する。
そして喜ぶべきことで喜び、楽しむべきことを楽しむ。

【悟りを求める危険】

悟りを開く前後には、非常に精神的に危険な状況を通らなければならない。
躁鬱を繰り返すようなことになる。感情というか、無意識の平衡状態が壊れて
自分の存在を肯定出来なくなる辛い状態がある。
理屈でどう自分に何を言い聞かせても、すべて悪い方に取ってしまうのだ。
悟りに至るまでには、一旦、社会的な善悪観念からも離れる必要があり、それが
最後まで残ってしまうことが普通の様だ。

【悟りと社会生活】

悟りを開いた人間が普通に社会生活を送れるかというと、それはほとんどの場合
難しいかもしれない。多かれ少なかれ価値観や責任の概念が普通とは違ったものに
なるからだ。集団の中で力関係によって動かされるというような部分では、恐らく
期待される行動を取れないと思う。無意識のうち自我に根ざした利害関係で動かされる
ということがないからだ。悟りを得た者がうまくやって行くためには、理性でその
すべてを掌握して意識的に行動しなければならない。
また、物事の考え方が感情を超えるので、代償原理を意に介さないくらいに実質的な
物事の見方をするようになるだろう。
悟りを開いた者がどういう職業に適するかといえば、それは芸術分野だろう。
創作は、自我の好みの領域を超えて色々な側面から物事を見る必要がある。
決めつけず、好みによらず物事を見てオリジナルを得なければならないのだから。
精神が研ぎ澄まされている程に高い評価が得られるものだ。
禅師は、その素朴な生き様そのものが、何の因習も真似事もない芸術だと言われる。

【空の概念】

空(クウ)とは、無とおなじ意味だ。
しかしながら、これは「無い」ことではない。
意識がとらわれなく有りのままに物事を見ることである。
例えば、空き瓶があったとする。空き瓶が真空である必要は無く、空気が入っていて
自然に空(カラ)の状態で十分に空(クウ)なのだ。
思考を止めてしまう必要も無く、時間の流れに任せて自然にありのままに眺めて
過せば、それが空であり無である。
すべてを受け止めてそのまま受け流すかのような。
天気がいい日に、草原に寝っ転がって流れる雲を眺めているような心境がそれに近い。
無を「虚無」と考えたり、思考や時間を止めてしまうことが空や無だと考えるのは間違いだ。
空のおおよその概念がつかめても、されを悟るのはまだ容易なことでは無い。
頭で考えたものは、それが正しくとも、所詮現実のコピーであってそれそのものではない。
百聞は一見に如かずというが、悟りとはそういうものだ。

【妄想】

人間の思考とは、言ってみればシミュレーションのようなものだ。
勉強や経験により、現実を頭の中に写し取って、現実に即した確かな正しい知識と、
シミュレーション・モデルを頭の中に構築して、現実に起ることを予測したり、
物事や世の中のことを把握していると言っていい。
しかし、頭の中にあるものは必ずしも正しいとは限らない。
それが一致しないと、間違いや苦しみを産むのだ。
予測出来無いことのなかに、不安を抱き、ありもしないことを想像して苦しむのが
妄想である。被害妄想というのは案外多い。

【座禅】

足が痛い、堅苦しい、退屈、眠い。
座禅に望まれる態度は、我慢ではない。
苦しいと思うのは、とらわれである。
受け身ではいけない。心に何かを得たいというような行動がなければ。
充実感のようなもの、確固たる態度のようなものが望まれる。
本来心が捉えるべきものをきちんと捉えていれば、静かに座っていても
少しもイライラすることなく、苦しくもない。
集中力を伴うリラックスというか・・・
一旦、悩み日常から離れて、考えを白紙に戻して偏りのない状態になる。
そこで外界が自分に自然に働きかけてくるものとは・・・。

【方便】

優れた人は、頭の中に抽象的なことや、複雑なことを思い描くことができる。
それらを概念と呼んだりするが、それそのものを他人に伝達するのは案外難しい。
似たものを以って比喩によって伝えることが、比較的容易な方法ではあるが、
似たものは似たものであって、それそのものではない。
比喩を離れて、概念そのものを獲得するのが一つの悟りであるが、多くの場合
比喩を真に受けたり、言葉尻にとらわれて屁理屈をこねてしまうことが多い。
例えることそのものは、元々矛盾したものなのだ。それは嘘とも言える。
嘘も方便というが、前提条件が揃っていれば、意味を限定して比喩を使うことで
意図することを相手に伝えることができることは多い。
方便の言葉尻をとらえて、その矛盾にこだわることは、冗談を真に受けることと
趣が似ている。

【1を知って99を失う】

ある物事が100の要素で成り立っているとき、そのうちの1つを知ってしまうと
他の99に関心がなくなり、時として何も知らなかった時より、かえって無知になって
しまうという。多分に東洋思想的なものがあるが、人間にはそういうところがある。
悟りは、そういう偏りをなくし全知を得る行為だとも言われる。

【論理武装と公案】

悟りを妨害するものに、論理武装と自己の正当化というのがある。
悟りとは、現実をそのままに見て受け止められる心の状態でもある。
観念的に物事を見ることと、実体験とは違う。
観念的な理解は、物事を分かったつもりにさせるが、矛盾点を追求して行くと
理屈に依存している限り、説明出来ないところまで自ずと追い込まれてしまう。
そこで論理的思考の限界がくる。このとき論理的に矛盾することを言って
ハッと気付かせるのが公案である。
人間の心の中にある甘えは、とにかく粘着性のもので、こちらを剥がしたと思って
別のところを剥がしていると、いつの間にか、一度剥がしたはずのこちらがくっついている
というようなみとを繰り返す。代償のコンプレックスで成り立っているようなもの。
責任転嫁するように論点がずれたり、形を変えたり、別の場所に逃げたりもする。
それを一点に追い詰める。
「〜だから出来ない」と理屈をこねるが、理屈どうこうではなく、やろうという意志が
ない点が問題なのだから、そこに追求の刃が向けられる。

【公案の機能】

究極的な目的は、無意識にある根本的な自分の心の動きを意識が自覚することである。
無意識は、意識でも理屈でもどうにもならないものであり、
それを自然な状態に保つなら最も安心出来る普遍的な存在でもある。
存在はそのまま意志であり、何物にも依存しない素朴なものである。
理屈で考えた「そういうもの」ではなく「それそのもの」である。
それを行うのに理由など要らぬ。
他人がやれと言ったからやるのでもなく、環境のせいでも、損得でもなく、
しんどいからやらないのでもなく、失敗を恐れてやらないのでもなく、
恥をかいてでも、無意味でも、自然に自ずと行動に出るようなものである。
それに気付いた時、人は何とも言えない気持ちの良い笑いを得る。
人間同士の争いも、実は意識のごく表面で行なわれていることでしかない。
喧嘩をして打ち解けてみると、その内面に気付く。

公案に対する答え方は、人によって違うし、一つではないと思う。
客観的に見るととんでもない行動で示されることが多い。
そこに工夫があれば、尊敬出来るような解答も出せると思う。

花瓶を持って、「これは花瓶にあらず、何と呼ぶか」と問われる。
この答えとしては、
「〜を入れる良い入れ物だなあ、と言って受け取る」
「逆さに花瓶を地面に置いてその上に座る」
「花瓶を受け取り地面に叩き付けて割って見せる」
などがあるだろう。
理屈に合わない言いがかりや、要求を受けた時どう対応するか、
公案には、それを問うものが多い。
しかし、問題を無視したり逃げたりする態度では答えたことにならない。
屁理屈をこねるとそれも拒絶される。
公案を公案で返すこともしばしばで、一休さんはそれを好んだ。

目の前を歩いている女性が、ハンカチを落したら、後ろを
歩いている男性にとって、それは一つの公案と呼べるかもしれない。
どう答えるかは、その人次第。
必ずしも拾って前の女性に渡さなければならない訳ではない。
知らん振りをして通り過ぎる、わざと踏んで通り過ぎる
というのもあり得る。

問題に真剣に取り組むことで、気持ちがどう動いたかが大切。
他人の下心が見抜けなかったり、相手が意図しない受け取り方をしたり、
相手の意図した要求がどうあれ、自分がどう受け取ったかが真実。
どう受け取るべきだったか、というのは別の問題なのだ。
それでいいではないか。

登山家は、「なぜ登るのか」と問われ、「そこに山があるからだ」と
よく答えるが、禅的に言うなら「お前なら、そこに山がなくても登るだろう」
となるかもしれない。
「三度の飯よりも〜が好き」
それに理由が必要だろうか。

【主観と客観】

悟りには主観も客観もないと言われる。
しかしながら、悟りが個人経験である以上主観でしかあり得ない。
また、客観は、外見から判断するものだからなかなか本質的な心には至らないだろう。
「拈華微笑」を以心伝心で受け取るのは主観対主観だと思う。
主観と客観を区別しないという考えではなく、すべてが主観であるという考え方が
正しいように思う。つまり客観とは、影法師のようなものだと。

【剣の達人】

強い剣とは、力の剣でもなければ、技巧の剣でも、疾風のごとく速い剣でもないという。
とらえどころのない無我の自在な剣だという。
考えることは迷いを生み、手が止まる。そこに隙ができる。
相手を見ると、打つべきところが自ずと分かる。
それが見えて来るまで修行を積めという。

【千手観音】

人間が、無意識に持つ能力を発揮しようとする時、それを絵にすれば
恐らく20本くらいの手があるようなものだろうと思う。
沢山の手があるから多くの人を救える観音様という意味ではなくて、
心が千本もの手を持つかの様に自由に自在に働くと考えるべきものだ。
普通の人は、心を鍛えていないのでほとんどその手は依存する何かに
甘えて、しがみつくために使われている。
甘えを一つ一つ断って、その手を解放して行くと、今まで出来なかった
ことが次第に出来る様になるという考え方をしてはどうだろう。
心を鍛えることによって何本もの手が自由に使える様になるのだと。
ここで言う手とは、何かを行うだけでなく、目の様に物事を確かめる
感覚としての役目も果たす。その感覚的な働きの方が実は大きい。

【手持ち無沙汰】

相当な集中力で物事に取り組む人は、退屈な状態に置かれたとき、
感覚が同じだけの情報を要求するために落ち着きがなく挙動不審に
なったり手持ち無沙汰になることがある。
退屈な時に人は悪い事をするというが、気をつけなければならない。
外界に即応しようとするその態度は、決して悪い事ではないが、
何を見るべきかをきちんと学ばなければならない。
修行したり鍛えるだけでは駄目なのである。
心を鞘に収めて律する必要がある。

【感情の構造と悟り】

すべての根源は、自己保存欲にあると思う。
その深いところに安心と恐怖があり、浅いところに好き嫌いがある。
その働きを司るところを感情体と定義しよう。
自分にプラスになることがあれば喜び、奪われたり不満があると怒り、
失うと哀しみ、寂しがったり、欲しがったり、気になったりする。
感情体は、無意識の中にあって常に不安定な平衡状態を保つ。
これは、物質世界の基本原理を反映した(力×量×時間)の法則に従う。
安定な状態が崩れると収束したり発散したりする。
この感情体は、外界の調和するものや似たものと共鳴して自らを増幅する。
これが「好き」なものである。
また、打ち消し合うもの、不調和なものによって衰退する。
これが「嫌い」なものである。
好き嫌いは、無意識の中に経験によって構築され感情体によって定義される。
また、感情体は、状態そのものを安定に保つための平衡補償作用を持つ。
こちらが追い掛ければ逃げ、相手から遠ざかろうとすると逆に追い掛けて
来るような作用を持つ。これは電磁誘導とよく似ている。
この不安定な感情体の上に、知識などが構築されているのだから厄介なものだ。
心を平常に保つことがいかに大切なことか。
これに対して、理性は、意識下にあり感情を統制しようとするが
本能と結びついた感情は、容易に飼い馴らせない。
意識は、道理で動くが感情は理屈を受け付けない。
私は、この感情体と自己とを合わせたものが自我だと考えている。
悟りは、この感情体と隔絶することではない。
感情体に惑わされない強い自己を持つことなのだ。
悟りとは、経験から生まれる自然な自信のようなものだと思う。

【女性の悟り】

男性に比べて、女性はある意味悟っているとも言える。
男性は、夢や理想、悪くいえば欲求に結びついた妄想によって動かされ易い。
一方、女性は、外界からの感覚的な刺激や、確固たる言葉によって直接的に
動かされ易い。
女性が弱い存在だと言われるのは、単に肉体的なことによるものではない。
外界からの刺激があまりに直接的に作用するため、かばってやらないと
精神的に持たない場合が多々あるということだ。
男性が楯になってかばうとか、感情を補償する様に言葉をかけるとか
そういったことで感情バランスを取ってやる必要がある。
逆に男性は、外界の刺激に対して、自分の考えで感情を補償して
立ち向かうことができる。
現実に即した夢や理想を持つ男性は強いが、それがあまりに現実から
かけ離れていると逆に弱い存在になるとも言える。
女性は、男性より平均して悟りに近い状態にあることが多いが、
感覚と感情を切り離せないため、純粋な悟りに近付くことは難しい。

【禅的な表現】

目から鱗が落ちる
喉から手が出る程欲しい
頭の天辺から声を出す
豆腐の角に頭をぶつけて死ね
腹ぺこでおなかと背中がくっつく
ほっぺたが落ちるほど美味しい
臭くて鼻が曲がる
穴が開く程見つめる

【中国の禅師】

元祖 達磨 面壁九年。インドから中国に禅を伝えた。
ニ祖 慧可 片腕を切り落として達磨に示し弟子入りを乞うた。
三祖 僧燦
四祖 道信
五祖 弘忍
六祖 慧能

【日本の庶民に親しまれた禅師】

一休宗純、良寛和尚

【参考文献】

禅と精神分析  東京創元社
 鈴木大拙、E・フロム、R・デマルティーノ 著
 小堀宗柏、佐藤幸治、豊村左知、阿部正雄 訳
ISBN4-488-00658-2 C1015 \1500E

フューチャー・ホームページへ戻る

(C)2004 Future on netyou ALL RIGHTS RESERVED.