子供はいつも大人の都合に振り回されてばっかりで、そのくせ彼らの過ちの代償は、いつでも子供が払うのだ。
「大人になったアリス」
「雲一つない青空」と言うものが、果たして一体どういうものなのか。
知っている者はこの地下世界に何人いるだろうか。もしかしたら一人もいないかも知れない。
チェルシーは天井に張り巡らされたプレートを眺めながら、文献の中でのみ通用する言葉を思い出した。
「見てみたいわね……」
誰に言うでもなく、小さく呟く。吐息と共に漏れ出た、本当にかすかな声。
かすかな……望み。
「何か言ったか?」
不意に隣から低く太い男の声が掛かり、チェルシーは目線を下げた。
「別に……独り言よ」
特に詮索する様子もなく、その男、赤はまた黙って手の中の珈琲カップに視線を落とす。
厳つい体の大の男が、その体の大きさに不釣合いな小さな可愛らしい珈琲カップを両手で持て余しているその姿があまりにも滑稽で、チェルシーは思わず吹き出した。
「何だ?」
「別に……」
言いながらも彼女はくすくす笑い続け、その様子を険しい顔で赤は見やる。
彼の場合、表情の険しさと実際の感情とが必ずしも比例するわけではない。
そういう風な顔の構造なのか、すぐに眉間にしわが寄るようになっているのである。
「チェルシー、おかわり」
「テイル……紅茶は水やジュースじゃないのよ? 一体何杯目よ」
呆れたように溜息をつくと、チェルシーはテーブルの向かいに座っているテイル・アシュフォードからカップを受け取った。
「私ももらおう」
「崇神も何気に飲むわよね……」
今度はティーカップには程遠い、ブランデーの入ったグラスを受け取る。
両手にティーカップとグラスを持ち、長い金髪を翻し、チェルシーは席を立った。
「それにしても……こうやってゆっくり集まるのは久しぶりだな」
後ろに久しぶりに気を緩めた男の声を聞き、背を向けたまま彼女は微笑む。
彼、華泰がこんなにくつろいでいるは本当に久しぶりだった。
「何とか公司の方も軌道に乗ってきたな」
無感情に告げる相変わらずの崇神の声にも、微妙に安らぎの色が見え隠れする。
ティーカップにお茶を継ぎ足しながら、ふと気付いたことをチェルシーは口にした。
「……そうよ、何も私がわざわざ席を立たなくても、ワインとポットをテーブルに置いとけば良いんじゃない」
「…………それでこの前大変なことになったのを、もう忘れたのか?」
チェルシーの独り言に、赤がうんざりしたように口を挟んだ。
何のことを言っているのか咄嗟に思い浮かばず、彼女は眉間にしわを寄せて考え込む。
「この前、そうしておいたら、トランプゲームが白熱して、挙句の果てには大乱闘になっただろ。それで――」
「そう言えばそんなこともあったわね」
なかなか思い出さないチェルシーを待つことなく、赤は前回の失敗を思い起こしながら言った。
崇神はもちろんすぐに何のことか分かったらしいが、他の二人、華泰とテイルは「あぁ、そう言えば……」と言った表情で手を打つ。
「そう言えばその時テーブルを引っくり返したんだっけ。それでお茶や何やらが赤に掛かったよね!あぁ、だから今回はテーブルの上がやけに綺麗なのか」
ようやく事情が呑み込めたと言うように、テイルはさらっと言った。
やけに綺麗どころか、白い丸いテーブルの上には、各自のカップの他は全く物が載せられていないと言って良い。多分前回の一番の被害者である赤が、事前に避けておいたに違いない。
「一番場を荒らしていた者の一人が、こうもさっぱり忘れているとはな……」
溜息と共に赤はガックリと肩を落とした。
どういうわけか、争いごとに参加しない割に、その火の粉は彼に良く降りかかる。損な性格だというのは自他共に認めるところだろう。
「諦めろ、テイルもチェルシーも…華泰も、こういうことはすぐに忘れる性質だ」
「お前は覚えているくせに黙っている性質だな」
崇神の同情と取れなくもない微妙な一言に、華泰は自分のグラスを空けながらぼそりと言う。それには答えずに、チェルシーが差し出した並々と注がれたグラスを、彼は受け取った。
「悪いな」
「いいえ。ほら、テイル!早く受け取って!」
テーブルにひじを付きながらぼけっとしているテイルに、チェルシーは中身がこぼれる勢いでカップを突き出す。
「何で僕の時と崇神の時とで態度が違うんだ!」
「馬鹿みたいに口開けてぼけっとしてるあんたがいけないのよ」
もぎ取るようにティーカップを受け取り、テイルが激しく抗議した。
当然と言うようにチェルシーが返す。
「口なんて開けてない!全く、いい年して子供っぽいったらありゃしないよ」
「あんたに子供っぽいとか言われたくないわね!すぐむきになるその性格、直したら?」
「そっくりそのままそのセリフ、お返しするよ」
「…………いい加減に、止めてくれ」
ますます勢いを増す二人の言い合いに、前回の失敗を見たのか、赤がすんでのところで制止をかけた。
崇神は相変わらず無関心を決め込み、華泰は面白そうにただ見ている。この二人は自分に被害が及ばない限りこうやって「我関せず」を貫くのが常だ。
結局歯止めを掛けるのも、事態の収拾をつけるのも、このメンバーの中では赤しかいない。
「赤、お前、最近ふけたよな」
たった今思いついたように華泰が呟いた。
「あっ!それ私も思ってた!」
「前々からふけ顔だったけど、最近更に酷いよね」
「言ってやるな、本人も気にしてるんだ」
華泰の呟きに便乗するようにチェルシートテイルが続く。締めくくりは一見味方のような崇神の一言。
「誰のせいだ、誰の」
言っても無駄に違いないが、言わないよりましだとばかりに赤が口を開く。アンダーグラウンド広しと言えど、こんな事を正面切って言える命知らずはここにいる四人だけだろう。
そして言われても赤がさらりと許せてしまうのも、この四人だけなのだ。
「あれだな。今度赤を励ますために、どこか五人で出かけよう」
最初の部分はいかにも付け足したような感じだった。
今の忙しさの中では余り現実味のない提案をした華泰を、残りの四人が一斉に振り返る。
「いつになることやら……」
呆れたように小声でささやきながらも、チェルシーの頬は緩む。
例え実現しなくとも、そんな提案をしてくれたことが嬉しかった。
まだこのメンバーの絆は、巨大な組織の中に埋もれてはいないのだと、確かに実感できるから。
出会った当初からは比べるまでもなく、皆が皆成長してる。大人になる。
それでも変わらないモノが確かにあるから、それが分かるから、大人になっても大丈夫。
私たちにこんな不完全な世界を押し付けた「大人」はまだ憎いけれど、彼らと同じ「大人」になる気は毛頭ない。
押し付けられた不完全な世界だけど、私たちもまた同じ不完全な者達だから、きっとそれなりに上手くやっていけるんじゃないだろうか。
きっと――……
いつか書きたいと思っていた、「創立メンバー五人勢揃い編」。
所々キャラが壊れつつ、まぁでも、五人が仲良かった頃はこんなんじゃなかったのかなーって勝手に想像しております。