黒猫が横切るのは悪いことが起こる予兆だって言うけれど、そんな事全然無いと思うわ。
だって猫って可愛いじゃない?
「黒猫」
「ちょっと!!いきなり立ち止まんないでよっ!」
チェルシーは、道の途中で前触れも無く立ち止まった前を歩く翠に抗議した。
「君こそちゃんと前を見て歩いて欲しいですね。それともとっさに止まる事も出来ないほど反射神経が鈍ったんですか?」
全く悪びれた様子も見せず振り向いた翠が答える。
「後から歩いて来る人への配慮ってものが欠けてるのよ。もう少し周りの人の事も考えなさいよね」
「君にそんなことを言われるなんて心外ですね」
そこまで息もつかさない応酬を繰り広げると、今度は目線での冷戦が始まる。
白龍の企みでスラムに落ちて来てしまった留美奈たち一行。
脱出するために、優勝者はスラム支配者にどんな願いでも叶えてもらえるというキリング・フィールドに参加して、やっと今、決勝トーナメントに勝ち進み束の間の休息を味わっているところ・・・のはずだった。
何故か今チェルシーは翠と二人、並んでスラムを歩いている。
理由は「買い物」。
彼らは当然キリング・フィールドで優勝するつもりであったから、スラムから脱出したら食料やその他雑多なものが必要になるはずだった。
それぞれ担当を決めて町へ繰り出したのだが、一番重要な食料担当がチェルシーと翠になってしまったのである。
あのくじがいけなかった、とチェルシーは思う。
それぞれの担当はくじで決めたのだが、チェルシーと翠のくじは高麗とシエルによって細工されていた。
高麗、シエルいわく「二人に仲良くなってもらう為」だそうだ。
年に一度の大掛かりな大会ということもあって、スラムはいつになく賑やかで、人通りも多い。その上、二人は先のキリング・フィールドでは大活躍して、顔も名前も知られている。双方見てくれだけは申し分ない。すれ違う者の視線を集める。
通りを歩く人々は少し遠巻きにして二人を見、そして噂話に花を咲かせる。
チェルシーも翠もそれには気付かない振りをして歩いていた。
「で?女性への配慮も忘れて急に立ち止まった理由をお聞かせ願えるかしら?」
「おや、君も女性に分類されていたとは知りませんでした。すみませんでしたね」
「なっ!」
「黒猫がね、通ったんですよ」
あやうく再戦かと言う所で、翠はこの戦いのそもそもの原因を明かした。
静かになった自分の背後をチラッと見ると、先ほどまで怒鳴っていたチェルシーが呆れた顔で見上げてくる。
「馬鹿?」
「失礼ですね」
翠は前に向き直ると、再び歩き始めた。
チェルシー・ローレックと話すとき、彼はいつもこうだ。
お互い、相手の発言に間髪入れず返す。
頭で次に言う言葉を考えている訳ではないのに、勝手に口から出てきてしまう。
「だってそうじゃない。何?あなた迷信なんか信じる人だっけ?」
「いいえ、別にそう言うわけじゃないんですがね……」
急に翠の言葉の歯切れが悪くなったのにチェルシーが気付く。
この男に好意を持って接したことは過去一度もない。
だが確かそんなに嫌いじゃなかった事は覚えている。その他のレジスタンスとは明らかに違う印象を持った青年だった。
だからと言って今、すぐ仲間同士のように振舞えるかといえばそう言うわけでもない。
――不思議な関係だな。
とにかく、あまり言いたくない事だったら別段突っ込んで聞く気にはなれなかった。
黒猫にどんなエピソードがあるのかなんてどうでも良い事だ。
「聞かないんですか?」
「え?」
「どうして黒猫にこだわったか」
最初は翠の後ろにいたチェルシーは、今は並んでスラムの大通りを歩いている。
「聞かれたいの?」
「嫌な切り返しですね。でも、そうかも知れません」
そう言うと翠は何かを思い出すように目線を落とした。
「じゃあ聞いてあげるわ。どうして?」
「昔、君がまだ公司にいたころ、一緒に暮らしていたヘキサという女性が公司にさらわれました。その時も……」
目線を真っ直ぐ前に戻し、そこで一回息をついた。
「その時も、黒猫が通ったんです。ヘキサが『嫌な感じがする』って言ったんですけど、僕は馬鹿だなって、ただの迷信だって笑って。
……その直後ヘキサは公司に連れ去られた。どうってことない話なんですけどね。ただちょっと心に残っちゃってて」
最後は笑って誤魔化すように締めくくりチェルシーの方を見ると、彼女は翠よりも数歩後ろで立ち止まっていた。
「チェルシー?」
呼びかけてから、久しぶりにその名を口に出したことに気付く。
少なくとも好意的に呼び掛けたのはそれが初めてであることにも……。
「ごめんなさい」
一瞬聞き違いかも知れないと思わず声の主を凝視し、同時にその可能性を消去する。
「私、知ってたわ。そういう事が行われてる事も、あなたが公司を恨む理由も。
でも、何もしなかった。止められたかも知れないのに、そうしなかった」
翠が公司についての知識を総動員して推測する限り、彼女に能力者狩りを阻止することは不可能に近かったはずだ。
こんな風に落ち込まれるとは予想していなかった。
こんな反応を期待して話したわけではなかった。
――本当に?
自分でも知らないうちに、無意識に彼女に怒りをぶつけたがっていたのではないか?
どうして止めてくれなかったのか、どうしてあんな事をしたのか、そんな憤りを誰かにぶつけたかったのでは?
そして謝罪させ、苦悩させ、あの時自分が味わった苦痛を倍にして味あわせたかったのではないか?
だから話したんだ。
――この反応を、謝罪を期待していたんだ……僕は、多分。
でも今目の前で苦しそうに顔を歪めたチェルシーを見ても、何の喜びも感じなかった。
それどころか、自分のほうが胸が締め付けられるような気持ちだった。
もうやめよう、こんな事は。
多分、少なくとも目の前の彼女への憎しみや怒りは限りなく薄くなっていくのが自分でも感じられた。
――僕が真に倒したい相手は彼女ではなく、「公司」だ。
そう割り切ると、途端に今までのわだかまりがすっと消えていった。
「チェルシー・ローレック、君らしくないですね」
少し離れたところに立つ彼女に呼び掛ける。
「なっ!人がせっかく素直にっ……」
チェルシーがばっと顔を上げた。顔がまだほんのりと赤い。
「素直って言葉を君から聞くとは思わなかったよ」
「あんたねぇ……」
両手に震える拳を握り締めチェルシーが抗議の視線を向ける。
「向こうにちょっとした空き地があるんです」
「は?」
提案の意図を図りかねてチェルシーの思考が一瞬滞る。
「お手合わせ願えませんか?久しぶりに」
翠が振り返り涼しげに笑む。
「あんたにしては良い提案だわ!」
胸の前で左の手のひらに右手の拳を二、三度撃ちつけながらチェルシーも笑う。
ついさっきまでしおれてたとは思えない彼女の様子を見て、心底ほっとする自分に気付く。
恋人でもなく、友人でもなく、今となってはもう敵でもない。
言葉にすることが出来ない自分と彼女の関係。
でも、黒猫が悪いことが起こる予兆だと言うのはただの迷信かも知れない。
久しぶりにすっきりした気分で翠は先を走っていくチェルシーを追いかけていった。
その夜遅く帰宅した二人を冷やかしてやろうと待ち構えていた高麗とシエルは、彼らに声を掛ける事が出来なかった。二人は体中所々に切り傷やあざを作り、おまけに酷く殺気立っていたのだ。
「二人に仲良くなってもらおう大作戦」は大失敗に終わり、その上買い物もしていなかった事に一同落胆した。
チェルシーと翠のオーラが行く前よりはやわらかくなっているのに、気付いた者はいなかった。
翠って実は年齢不詳ですよね。
彼が一番、本編通してチェルシーへの見方が変わった人物だと思います。