あなたが望むならなんだって。
あなたが笑うならなんだって。
私の全身全霊をかけて、あなたの幸せだけを、ただ、願う。
「ティンカーベルの死骸」
あれはいつの頃だったか。
まだ幼いルリ様の声をどうにかして聞きたくて、手当たりしだいの本を集めて読んできかせた。
自分だって絵本を読んでもらったことなんてないくせに……。
自分に与えられなかった愛情をルリ様にそうやって与えていたのだろう。そうすれば過去の自分も救われる気がして。
地下世界にある絵本なんてたかが知れている。だから地上へ出て、留美奈に連れて行ってもらった「本屋さん」にあった本の多さに思わず絶句してしまった。
話には聞いていたけれど、あれだけたくさんの本を前にするとどれをルリ様に選べばいいのか分からなくなって、留美奈に全部選んでもらった。
そのなかの一つが「ピーターパン」だったのを覚えている。
あの時はただ、こんなに面白い話もあるのかとルリ様と二人で感心したものだったけれど、しばらくしてふと思い出したピーターパンに浅葱留美奈の面影がちらついて、彼がピーターパンならネバーランドへ誘われるウェンディはルリ様だろうと思った。だったら私はティンカーベルかなと柄にもないことを考えて一人で笑った。
ピーターパンが見ているのはいつでもウェンディで、ティンカーベルはそんな彼女に嫉妬する。
ただ、もし私がティンカーベルだったなら、そのティンカーベルはどうしようもなくウェンディが大切で、ウェンディの幸せだけを願っていて、二人に嫉妬するより先に自分の心に宿る気持ちにふたをしてしまうだろう。
ウェンディが望むのならどこだって、彼女が望むならなんだって。
大空の向こうへ不思議な粉で連れて行って、そしてピーターパンに会わせてあげる。
他に望むものなんて何もない。彼女が笑って、あの少年の隣にいつまでもいることができるのなら、私の手には何も残らなくたって構わないのだ。
ふわりと意識が持ち上がって、つらつらと考えていたものが霧散する。
そしてその翡翠の瞳を開いたときには、直前まで自分がどんな夢を見ていたのかチェルシーはまるで思い出せなかった。
重く霧がかった思考と視界の向こうで、なんだか聞き覚えのある声二つが会話していて、ほとんど無意識にチェルシーは目の前の布に手を伸ばした。
つかんだ布。視線をずるずると上げていくと、一番始めに目に入ったのは鮮やかな赤。ああこの「赤色」には見覚えがある、まとまらない思考がこの赤色の正体を探る。
答えが出されるより先に、その赤色はふり返った。
「……ローレック?」
この声も覚えている。
赤い髪の男の名が、乾いた口のなかで音にならずに消えた。ひどく喉が渇いていた。
「ローレック、起きたのか? 気分は」
ほんの少し慌てたような声で、彼は服をつかんでいたチェルシーの手を(彼にしては)慎重に引きはがした。一時、戸惑うようにその手を握ってからベッドのなかへそっと戻す。
そんな彼の横から、これまた懐かしい男が顔を出した。崇神、と音にならない声が漏れる。
「目が覚めたのか? なら、医者を呼んでくる」
言うなり崇神は身を翻し、ややあって扉の閉じる音が聞こえた。
「……き、せ……き?」
「無理をするな。俺はまだしばらくここにいる。命の巫女なら、すぐそこで寝ている。……馬鹿者、起きようとするな。ちゃんと寝ていると言っただろ、信じろ」
ルリの姿を確認しようとしたチェルシーの額が、赤の大きな手に押さえられる。そのまま枕に沈められた。
身を起こしただけで眩暈がした。頭が重い。思考がまとまらない。
冷え切った額に、赤の温かい手が心地良い。まるで存在を確かめるように置かれた赤の手の温かさに、チェルシーはそっと目を閉じる。
「待ちくたびれた」
ふたたび睡魔に襲われた脳に、赤の低い声が響く。
「なに、を」
「その声が、もう一度聞けたことに、感謝する」
「…………」
ときどき、この男はさらりととんでもないことを言ってのける。あまりにさらりと言うものだから、こっちはいつだって何も言えなくなって困るのだ。
そう、昔はそうだった。
チェルシーは目を閉じたままかすかに笑う。笑うと、顔の筋肉が強張っているのがよく分かった。
「華秦に、会ったわ」
きっとあれが最後の姿。
いつでも思い出せるようにとしっかり記憶に留めたつもりだけれど、もうすでにどんな顔で別れたかはっきりとは思い出せなかった。
ああ、写真でも撮っておけば良かった。
公司を創立したとき、そのとき皆で写真でも撮っておけば良かったかもしれない。
そう思った直後、チェルシーは自分の考えを否定した。
きっと、写真を撮っていたら、毎日それを見返していただろう。そう思った。
白龍が現れ、すべてが狂っていったあのときの自分がすがっていたのは過去の楽しかった思い出で、もしそのときの写真があったならきっと飽きずに毎日見て、そして過去に縛られていただろうから。
「彼は、もう、戻って来ないわ」
自分自身に言い聞かせるようにチェルシーは呟く。もう会えない。もう戻らない日々が、たしかにある。
「そうか」
赤の答えは簡単だった。
簡単だからこそ、そこにいろいろな想いが含まれている気がして、その想いを確かめたくてチェルシーは目を開ける。
「…………」
目を開ければ、赤が真っ直ぐ自分を見つめていて、深紅の瞳のなかに混ざり合った想いは複雑に絡まりあっていた。絡まりあっていたけれども、そこに負の感情は一つも見つけられなくてチェルシーの心が不思議に落ち着いてゆく。
もう何も言うことはないと思った。
二人のあいだに、ほかに言うべきことなど何もなかった。
穏やかな沈黙が満ちる部屋に、唐突にチェルシーの腹の音が響く。
あまりにも間抜けな事態に当のチェルシーは額まで真っ赤に染めたが、一方の赤はといえば片手で顔を覆い隠してはいるが明らかに笑っている。
「……ちょっと、しょうがないでしょ」
ふてくされた声では赤の笑いは止められない。止めるどころか肩まで揺らして笑い出した赤にムッとしながら、開き直ってチェルシーは口を開く。
「お腹減った」
「待て。数日何も食べてないんだ。いきなりは胃が受けつけん」
「お腹減った!」
「…………子供かお前は」
呆れたような声音のなかに笑いが交じっている。
そういえば彼が笑っているのを久しぶりに見る。今回はその珍しい笑顔に免じて許してやるか、とチェルシーはもう一度目を閉じた。
改めて確かめなくとも同じ空間にルリがいるのを彼女は感じていた。
本当は確認しなくてはいけないことがたくさんある。だけどゆるりと睡魔が頭をもたげてきて、あまりの心地良さに身を任せてしまいたい。
赤の手が、優しく頭をなでていく。
子どもじゃないんだけど、という反論は口に出して言ったのか。それとも夢の中で言ったのか。
崇神が医者を連れて戻ってきた頃には、チェルシーはふたたび眠りについていた。
起こそうとした崇神を赤が止めたのを彼女は知らない。
眠りの中で、また同じ夢を見た気がした。
今度こそ、あの空の向こうへ、連れて行きます。ルリ様。
かつてないほど穏やかなまどろみの中で、チェルシー・ローレックはもう一度彼女の主に誓いを立てた。
赤はたぶん無自覚でさらりとこういうことを言えると思う。
彼が恥ずかしがっていたり爆笑していたりするのを見てみたい。