どこかに楽園があるのだとすれば、多分私にとっての楽園は、あの頃のあの場所。
貴方がいて、私がいて、そしてあの場所には希望があった。
「楽園追放」
何もかもが、周りのもの全てが、自分の横を素通りしていくような錯覚を覚える。
自分が立ち止まっているのか、相手が早すぎるのか、それさえもう分からないけれど。
ただ一つはっきりしているのは、自分と彼らとでは既に歩む道が別れてしまっているということ。
チェルシーは目の前を歩く赤い髪の主を見た。
彼も多忙なのか、歩く速度はいつもより速い。ほとんど駆けているのではないかと思えるほどだった。
「……赤」
試しに一度呼んでみる。抱いたわずかな希望はすぐに壊れた。彼は気付かない。
「………赤」
もう少し強めに、一向に距離の縮まらない相手に呼び掛ける。
布を翻す背中が止まる。我知らずほっと小さく溜め息をつくと、立ち止まった相手へ歩み寄った。
「赤、あんた歩くの早いわ」
「……ローレックか。悪いが今忙しい」
付き合いの浅い者が言われたら縮み上がりそうな口調と表情で紡がれた言葉に、チェルシーはいささかも怯まなかった。彼女とてそれくらい承知の上だ。
「分かってる。だから、歩きながらで良い」
言いながらも既に足は動き出していた。時間がないのは彼女も同じだから。
だから早く言ってしまわねばならないのに、いざ面と向かうと、出てくるはずの言葉は胸の辺りでつかえてしまった。
「……どうした?」
いつもの彼女らしくないその様子に眉を寄せ、赤は訪ねる。
チェルシーは大丈夫というように笑ってみせた。力ない笑みにますます赤の眉間にしわが寄った。
「赤、あなたは今の公司をどう思う?」
予想外な質問に、赤の思考が一瞬止まる。
やがて思考が回復しても、とうてい答えられる質問ではないことに気付いて彼は溜め息をこぼした。
「……答えられない?」
苦笑気味に紡がれた言葉に、赤はチェルシーを見やる。
いつもならここで溜め息をついたことに対する言及は免れないはずなのに、今日の彼女はいつもと違う。違うということは分かるのに、なぜ違うかは全く分からなかった。それが赤を不安にさせる。
「答えられないということが………答えよね」
独り言に似た呟きは、赤の心に突き刺さった。
そうだ。以前なら何の迷いもなく答えられていた質問なはずだったのに。今は……答えられない。
おそらく公司に抱いている気持ちはお互い同じ。
「……何か、あったか?」
結局それしか問えない自分に情けなさを覚えつつ、それでも何も言わないよりはと、意味のない問いを口に出す。
チェルシーは一度微笑み立ち止まると、顔を上げ真っ直ぐ赤を見た。その瞳がいささかの迷いもなく自分に向いているのを見て、赤は内心の狼狽を必死に押し隠す。
誰もいない公司の長い廊下で、二人は静かに向き合った。
何かが終わる気配と共に、何かが始まる気配もする。
「赤、私は、私の信じる道を行くわ」
『信じる道』、赤は心の中で繰り返した。
以前なら何の疑いもなく、その道はお互い一緒だと信じていられた。信じる道はすなわち公司の創立であり、地下世界の平定であり統一であった。
その道は自分たち五人の進むべき道であり、また未来であった。
でも今は、今は違う。
彼女の信じる道は、もう………。
「私は後悔しない。だから赤、あなたも――」
それ以上は聞きたくなかった。疑念が確信に変わるだけだと分かっていたから。
「ローレック……」
「赤、あなたはあなたの信じる道を」
残酷で、この上なく美しい笑顔を浮かべて、チェルシー・ローレックは告げる。
踵を返す彼女を、赤は止めることなど出来なかった。
その手を前に出すことさえ叶わない。肩に触れることなど出来なかった。
彼女を止められるだけの力も権利も持ち合わせていないことを、誰よりも一番良く、赤髪の彼が一番良く知っていた。
遠ざかる背中はどんどん小さくなっていき、一度も振り返ることなどないまま、彼女の姿は曲がり角で消えた。
止められなかった自分の不甲斐なさと、一人で去ってしまう彼女への怒りは混ざり合い、名前をつけられぬ感情へと変わっていく。
どれほどその場に立ち尽くしていただろう。
やがて彼も再び歩き出す。何事もなかったかのように。少なくとも今日はそう、何事もなかったように過ごせるだろう。
何と言えば良かったのか。
どう言えば留まってくれたのか。
この先に訪れる未来を思うと、それだけでどうしようもなく胸が痛んだ。
こんな未来を望んだわけではなかったのに。
それでも彼は歩みを止めない。
彼女がそうであるように。
「自分の信じる道を」
そう、彼にもまた、信じる道がある。
たもとを分かつことになっても、歩む道は、方向は違えても、望んだ未来はお互い同じだったはず。
ならばいつか、きっと道は交わるだろう。
それまで、ローレック、お前は敵だ。
しっかりとした足取りで、彼は公司の廊下を歩く。
「嘘だ……チェルシーが裏切るはずがない!!」
華泰の狂ったような叫びが響く。報告に来た士官の肩がびくっと揺れた。
「チェルシーが、チェルシーが……あいつが裏切るはずがないだろう!!」
机上の書類をなぎ払う。宙に数枚の紙切れが舞った。
「嘘だ……」
「華泰様」
薄暗い部屋に、赤の静かな声音が響いた。
彼の横にいた崇神が、わずかに身じろぐ。
「華泰様、追撃の任、この赤に」
「赤……?」
言われたことがすぐには理解できずに、華泰は呆然と赤髪の男を見やった。
傍らに立つ崇神が口を開く。
「このまま巫女とローレックを逃がせば、公司の士気に関わります。赤に任ずるのが妥当かと」
冷静だが圧倒的な威力を持つ崇神の言葉も、今はあまりに意味がなかった。
チェルシー・ローレックが造反した。それだけが意味のある事実だった。
「華泰様」
もう一度、今度はもっと強く、赤が言う。
白髪の男の赤い瞳に一瞬、狂気が走った。
「赤、今回のチェルシー・ローレックの追撃、および巫女の奪還は、お前に一任する」
「は!」
片膝を付いた赤を見下ろし、華泰は続ける。
「必ず巫女を奪還せよ。そのためならば……裏切り者の生死は問わん」
「必ず」
答える赤の言葉に迷いがないのを受け取って、華泰は背を向けた。
「行け」
短く告げられた言葉。
赤は立ち上がると部屋を後にする。
ローレック、俺は俺の信じる道を行く。
まだ、道は交わらない。
いや、とにかくチェルシーと赤が書きたくて。
思えばチェルシー造反辺りは書いてないなと思いまして。
それにしても最終巻で赤様ちゃんと出番があると良いです。