砂上の楼閣だ。
さらさらと、音もなく崩れていく。
手の中から、大事なものがまた一つ、静かに止める間もなくこぼれていった。
「砂の城」
――華泰様、追撃の任、この赤に。
そう言葉にして発したとき、あの時ほど自分の無表情さかげんに感謝したことはない。いつも「表情が硬い」と言って笑っていた少女の姿が脳裏をよぎる。
チェルシー・ローレックが、生命の巫女をつれて公司を裏切った。
まだ一部しか知らないその事実。周知の事実となる前に、何事もなかったかのように巫女を連れ戻す。それが自分の任務だ。
赤はほんの数刻前までチェルシーがいたはずの部屋を一通り見渡して、踵を返す。彼女が追跡の手がかりになるようなものを残しておくはずがない。チェルシー・ローレックがそんなミスを犯すはずがないのを知っている。
「赤、巡回の衛兵から情報が入った」
「……どこだ」
廊下に出ればそこに崇神が立っていた。
普段通りの平静さを装いつつ、それでも常にはない雰囲気が漂っているのを感じてやるせない気分になる。
崇神にとってみればチェルシーはいわば弟子といっても過言ではない。同じ重力という能力をもった者同士の独特のつながりが彼らにはあった。
止められなかった。
その一言が、赤と崇神の心に重くのしかかっている。だがそれを言葉には出さない。決して出さない。
「第一階層の第六区だ。……あいつのことだ、そのまま地上に抜ける気だろう」
「……すぐ向かう」
言いながら崇神の横を通り過ぎる。
廊下に響くのは赤の足音だけで、崇神の気配がどんどん遠ざかっていくのを背中に感じた。
無言の声を、聞いた気がした。
暗い空洞を駆け抜ける。
公司の電力も地下世界全体に行き届いているわけではない。かろうじて残った光源が、赤と後に続く陰兵たちの足元を頼りなく照らしていた。
追いつきたいのか、追いつきたくないのか、自分の気持ちが赤には分からなかった。
ただ一つ確かなのは、自分とチェルシーとの道が完全に別たれてしまったことだけだ。彼女も自分も後戻りはできやしない。
だいたい、チェルシー・ローレックともあろうものが後戻りなど考えようはずがない。彼女は決めたのだ。自らの進む道を。だったら、
「俺は俺の道を歩ききるしかあるまい」
小さく呟いた言葉は数人分の足音に飲み込まれる。
チェルシーは誰が追って来ようとも手加減はしないだろう。例えそれがかつての仲間であっても、彼女は一度決めたなら迷いはしない。手加減など一切しない。
赤は追いついたときのことを考えてほんの少し笑う。
追いついて、彼女はふり返って、そして少しも迷うことなく巫女を背中にかばい睨み返してくるだろうと思った。その様が容易に想像できて、なぜかおかしかった。
「思えば、お前と本気でやり合ったことは一度もないな」
崇神とチェルシーが特訓と称して実戦さながらの戦いを繰り広げているのは何度か見たが、そのたびにテイルが「二人とも熱血馬鹿だよね」と呆れたため息をこぼしていたのを彼女は知らないだろう。
そんな何気ない日々が今は遠く懐かしい。
どれくらい走ったころだろう。
前方の薄暗闇に、見慣れた金色がちらついた。
暗闇の中にあってなお、彼女の髪は眩しいほどに輝いている。
振り向いた少女の翡翠の瞳が、追跡者である赤をちらりと捉えて瞬いた。気のせいか、彼女もかすかに笑った気がした。
巫女を連れているチェルシーとの距離は簡単に狭まっていく。攻撃範囲に入るより一瞬早く彼女は身を翻した。
「大丈夫です。ここでじっとしていてくださいね、ルリ様」
おびえた巫女に笑ってみせたその翡翠の瞳が、まっすぐ赤に向けられる。
重力場が狂っていくこの感覚。
大切なものが、砂のように両手からこぼれてゆく。
もう、戻れない。
「お前は俺がここで止める」
「止まる気はないわ!」
地下世界に重力と炎がこだました。
二次創作↑
ありそうで無かった、「赤、チェルシー追撃時」の話。
きっと赤もチェルシーも、相手の事情も感情もちゃんと承知していて、それでも戦うときは全力で殺すつもりで戦うだろうな。カッコいい。