貴方の瞳が私を映してないことなんて最初から知ってたわ。
 だけど、それでも……。ねぇ、触れてくれるならそれでも構わなかったの。

「知っているのよ」

 長い、長い廊下。地上の研究者たちの置き土産。
 きっとこの廊下は、私たち能力者を生み出し、この地下世界へ閉じ込めた者も歩いたに違いない。

 人手が足りなかった。
 もともと地下世界は個人主義の世界。より強力な能力を持った者が私欲を尽くす。その中で設立された公司は賛同してくれる人が多い反面、反発も強かった。
 「協力し合う」、ただそれだけの事が限りなく難しい。
 でも変えていこうと誓ったから、理想郷を手に入れようと誓ったから……。

「みんなの力を俺に貸してくれ」

 力強くそう言って瞳を輝かせたあの人のために、そして地下世界のために、今私はここにいる。
 そう、目線の高さまである膨大な書類の山を抱えながら、この長い廊下を私は歩いている……。


「……ぃ、おい!ローレック!」
「え?あ、赤?……っきゃあっ!!」
 声の主を確かめようと振り返ったのが運の尽き。バランスを崩した書類の山は無残にも崩れ落ちようとしていた。
「っ!………何をしている。」
 間一髪で赤がそれを受け止める。
 お礼を言おうと思って開きかけた口は、呆れた表情の赤を見るなり全く違うことを口走ってしまう。
「……わっ、悪かったわね!私がどれだけ大変な思いして運んできたと思ってるの!?
 大体人が少なすぎるのよ。今日もまた徹夜よ、徹夜!目の下の隈が取れなくなったらどうしてくれるのよ!」
「…………」
「……なーんてね。それは皆一緒。今が一番大変で、大切な時期だもんね」
「あぁ」
 赤も崇神もテイルも……創立メンバーであるチェルシーたち五人は、はっきり言って過労で死にそうなほど働いていた。
 でも総責任者である華泰の疲労は他の四人を遥かに超えているだろう、とチェルシーは思う。
 公司は何とか組織として活動し始め、社員たちも増えて来ている。だが新人に組織の重要な部分を任せるほどには、まだ信頼も実力もない。自然とチェルシーたちに回って来る仕事量は増加の一途を辿っているのだ。
「この書類はお前の部屋へ運ぶのか?」
「え?えぇ、そうよ。……何?持ってってくれるの?」
 赤の返事を待つことなく、チェルシーは自分の手にある書類を全て赤の両手に積み重ねていく。
「……まぁ、いい。華泰が呼んでいたから、すぐに行け」
「華泰が?分かったわ。それ、ちゃんとデスクの上に置いといてよ!」
 両手がふさがった赤の表情を見ることもなく、チェルシーは足早に今来た方へと戻っていく。
 そんな彼女の後ろ姿を、赤は溜息と共に見送った。


「華泰?入るわよ」
 二、三回ノックをしても返事のない扉を、チェルシーはゆっくりと開けた。
「華泰?………ふふっ」
 公司の顔であり、能力者の中でもナンバー1と呼ばれる彼女たちのリーダー、華泰。
 チェルシーを呼びつけた張本人は今、机にうつぶせになってうたた寝の最中だった。その肩書きを忘れさせるようなあどけない寝顔に、思わずチェルシーは笑みをこぼす。
「……風邪ひくわよ」
 大きな机の上には書類、書類、書類の山。今にも雪崩が起きそうなそれらに囲まれて寝ている華泰の顔を覗き込む。
 きっと疲れているのだろう。
 彼はこの公司のリーダーだから、他の社員に不安や迷いを与えないようにしなくてはいけない。具体的に言ってしまえば、弱音を吐けないということ。
 まぁ、そんな立場でなくても彼は弱音なんか吐かないだろうが。出来るけどしないのと、出来なくてしないのとでは少し違うだろう。精神的に。
「華泰ってば、少し仮眠とっ……っ!……んっ…」
 身をかがめて伸ばしかけた手が不意に引っ張られ、そのまま机にさえぎられ前のめりに体勢を崩した。
 とっさに出し掛けたもう一方の手も握られる。
 何が起こったか理解した時には、華泰の顔はチェルシーのすぐ前にあって。両手がふさがれたままの不安定な体勢で、長い口付けをかわす。
 チェルシーは身を起こそうとしたが、華泰が手を離さない限りどうにも無理である。
「ん……っ、かっ、華泰!騙したわね!」
「『寝てる』なんて言った覚えはないけどな」
 見れば華泰の顔は悪巧みを考えた子供のような表情だった。
 いつもは頼れる大人のような雰囲気なのに、ふとした瞬間、誰よりも子供のように見えるときがある。
 それは今みたいに無邪気な表情だったり、……もしくは不安定な今にも崩れそうな表情だったりして。つまるところチェルシーはこの表情に弱かった。
「…………っ」
 こういう事は初めてではない。
 出会ってからすぐにチェルシーは華泰に惹かれ、彼もまた失ったものを埋めるように……。だからさほど驚きはしなかった。でも不意打ちは卑怯だ。そのせいで今も心臓がバクバクいっているのが自分でも良く分かった。
「……っで!?用は何!?」
「…………何だったっけかな」
「華泰……」
 まさか「これ」が用事のはずはないだろう。……いくら何でも。
 チェルシーは小さく溜息をつくと、部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろし、すぐに「しまった」と後悔した。ここ数日ろくに寝ていないのは彼女も同じ。要するに――
「……眠い」
 座った瞬間に極度の眠気が襲って来て、最早目を開けているのさえままならない状態。
「華泰……十分…いえ五分経ったら起こして…。私もう限界――」
 吸い込まれるようにソファに身を沈めていく彼女を見て、華泰はその口元をわずかに持ち上げた。
 足音を立てないようにソファの手前の床に移動すると、そこへ膝を付いてチェルシーの髪をどけてやる。黒いソファに放たれた彼女の綺麗な金髪が目に焼きついた。
 髪をどけて露わになった白い端整な顔に、静かに唇を合わせる。
「……ん…」
「…まずいまずい」
 まだ熟睡には達していないだろうチェルシーの眉が、少し歪んだのを見とめて華泰は慌てて唇を離した。こんな事で起こしてしまったら後で何と言われるか分からない。
 軽く首筋に口付けして、華泰はソファの横に腰を下ろしながら、ちょっと働かせすぎたかな、と少し後悔した。
 多分他の三人も似たような状態だろう。ろくに寝ていないに違いない。
 もう少し公司が軌道に乗ってきたら……、そしたら今度五人でのんびりするのも良いなと思った。
 そう、例えばピクニックだとか、お茶会だとか、昼寝大会だとか、…肝試しだとか……―――
 華泰の思考が危うくなって来ると同時に、彼もまたソファに顔を沈めた。チェルシーの横に寄り添うように、華泰も眠りの世界へ旅立つ。

 それから数時間後。赤がこの部屋を訪ねるまで、二人の安眠を妨げる者はいなかった。

二次創作↑

2400HITのキリ番、朱楽様に捧げます。
「華チェルに少し赤が出てくるもの」というオーダーでしたが……どうでしょうか。
自分ではあまり書かない方面のお話なので、今回オーダーを頂けて、楽しんで書かせていただきました。 きっと華泰はチェルシーが裏切った時すごいショックだったと思います。
朱楽さん、今回はキリ番リクエストしてくださり本当にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いします。