「ちょっと! あんまりこっちに寄らないでくれる!?」
「……この状況でよくそんなセリフが出てきますね。さすが偉大なる公司の御仁は言う事が違う」
「……その減らず口、すぐきけないようにしてやるわ」
「できるものならどうぞ………でも、まずは―――」

 『早くここから脱出したい』

 二人の男女の心の声は、確かに一つだった。

「境界線」

 ――さかのぼること数十分。


「赤ッ!! そっちへ行ったわ!」
 少女の鋭い声が上がる。煙幕の中を切り抜け、それは呼ばれた男の耳に届く。
 その証拠に、粉塵の中から紅蓮の炎が沸きあがった。
「今日で終わりにしてやるわ。これ以上野放しにはしておけない」
 地下世界の安定のために。
 続く言葉は轟音に呑まれる。少女の視線が動く影を捉えた。
「アンタだけは―……」
 炎から逃れるように後ずさった影。その影めがけて彼女は大きく飛躍した。

「アンタだけは、今ここで倒す! 翠!!」

 崖際に追い詰められた青い髪が(ひるがえ)る。彼に体勢を立て直す暇も与えず、少女は間合いを詰めた。
 男の苦しげな表情を目の前にして、少女の口元に笑みが浮かぶ。
「これで終わりだッ!!」
「―――っ!!」
 振り上げられた細い拳に煙も炎も一緒くたになって収束していく。
 その拳が振り下ろされた瞬間、辺りは今まで以上の噴煙に閉ざされた。
 やがて砂ぼこりのおさまった崖の上で、一人の男がゆっくりと身を起こした。そして呆れたように眉を寄せてため息を一つ。
「自分まで落ちる馬鹿がいるか」
 彼のぼやきは至極当然のものだったが、それは誰に届くこともなく砂ぼこりに混じっていった。



「………ッたぁ」
 岩石の雪崩れが巻き起こした砂塵に、チェルシー・ローレックの呻き声がまぎれる。
 心底痛そうに表情を歪めてはいるものの受身は取ったようだった。怪我も打ち身も最小限に抑えられえいる。やがて砂ぼこりの止んだ辺りの景色を見て、チェルシーは絶句した。
 眼下に広がっているのは「龍」の暴走によってできた地下空洞。確かにその地下空洞の周辺で戦っていたのは事実だが、今は背後に切り立った崖がそびえている。
 つまり敵を落とすはずだった崖に、自分まで落ちてしまったというわけだ。
「わ、私の馬鹿……」
 半ば茫然自失で彼女は呟く。
 崩れていく岩石に巻き込まれながらも下まで落ちずに、崖の突起部分に逃れたのはさすがと言うべきか。しかしそれでも己の技に掛かった屈辱と情けなさは拭いきれない。
 あの場に赤がいる限り、遅かれ早かれ必ず救助はやって来るだろうが、再び彼と顔を合わせた時に何を言われるか分かったものではなかった。いや、あの赤い髪の男は何も言うまい。何も言わずに、瞳と眉間のしわだけで自分を責めるのであろう。
 それを想像するだけでチェルシーの心は曇った。

 背後で小石の転がる音が響く。
 その乾いた音が彼女に追い討ちをかけていく。
 続いて二度三度。石と石がぶつかる音は鳴り止まない。まさかこの狭い突起部分まで崩れるのではないかと、彼女はギョッとなって振り返った。
 そして捉えたのは想像よりさらに最悪なもの。
「なっ……」
 目に映るは鮮やかな空色。
 空など知らない地下世界で、眩いほどの青色をまとった髪。
 絶句するチェルシーの目の前にその男は現れる。
 視線と視線がぶつかり合う。双方言うべき言葉など思いつかないようでそのまましばらく空白の時間が流れた。打ち破ったのは男の掠れた声。
「なんで……キミまで一緒に落ちてきてるんですか」
 呆然とした声には明らかな呆れが滲んでいる。チェルシーの頬がさっと紅潮する。
「ア…アンタがちゃんと下まで落ちてったか確かめに来たのよ!」
「そうですか」
「そうよ!」
 再び気まずい空気が流れ始める。
 今や彼らは完全にタイミングを逸してしまっていた。つまりは自力で脱出することが出来ないこの場で、救助の手が伸ばされるのを、ただひたすら待ち続けなければならないのだ。
 ここでチェルシーの能力である「重力」や、翠の「練氣銃」など使おうものなら、何のためらいもなくこの岩場は崩れて二人を巨大な空洞へと突き落とすだろう。
 それが十二分に分かっているから、チェルシーも翠も気まずい沈黙を守りじっとしているしかなかった。
 せめてもの抵抗は、距離の許す限りお互いから離れているということだけだ。しかしそれだってたかが知れている。お互いの息遣いが聞こえる程度の空間しか二人の間にはなかった。

 永遠に続くかに思われた地獄の沈黙を先に破ったのはチェルシーだった。
 ひっ、と微かに息を呑む音が翠のすぐ横で上がる。
 何事かと振り向いたそこには眩しいほどの金髪があって。彼女の視線の先には足元を這う黒い虫がいたのだ。平べったく異様にツヤツヤしている赤みを帯びた黒色。うごめく触覚と足。
「――…ぁ、…ひっ」
 覗きこんだ顔は蒼白で、どう見たって彼女が心底恐怖を感じているのは明白なのに、傍らにいる自分に助けを求めるなんて考えははなから選択肢にないようで。
 それどころか震えていることなんて絶対に知られたくない様子で。
 それは彼女の矜持なのだろうから翠だって救いの手を伸ばすわけにはいかなかった。というより胸の奥からふつふつと沸いてくる黒い心は無視できなかった。
 助ける必要なんてない。そう自分に言い聞かせる。
 彼女と相対すると決めたときに、相手が「女」であることなんてとうに考えてはいないのだ。だから仮に公司で畏れられる彼女が大の虫嫌いであったとしても、自分が助けてやる道理などないのだ。
 そう言い聞かせながらちらりと彼女を盗み見る。
 相変わらず足元でカサカサと動いているそれに、チェルシーの視線は釘付けだった。両腕を抱えてわずかに震えているなんて光景は、普段の彼女からは想像できない。
 こうやって見ればただの少女でしかなかった。
 なるほど改めて思い起こせば、隣の少女は自分よりいくつも年下なのだ。そう考えてみると今の自分の行動はかなり大人気ないように思えた。
 再び少女の顔を盗み見る。
 目じりにはうっすらと涙が溜まって、きつく結ばれた唇には血の気がない。
 それでも必死に耐えている。
「……………」
 もう限界だった。
 抑えきれない忍び笑いが口から漏れる。
 視界のはしにビクッと肩を震わせる少女が映る。
 一度笑い出したらもうどうにも止まらなかった。それでも少女が隠そうとするからなおさらだ。
 しまいには翠の爆笑が崖に響く。
「た、助けて欲しかったら……『助けてくれ』って、い、言えばいいのに」
 笑いながら翠が言う。
 真っ赤になったチェルシーが勢い良く振り返る。
「誰が!! 誰がアンタにそんなこと……ッ、ぎゃッ…と、飛んだぁああっ!!!」
「もうちょっと可愛く叫べないんですか」
 軽口を叩きながら翠の足が標的を蹴る。可哀想だがこのまま落ちてもらうしかない。
「もう大丈夫ですけど……放してくれます?」
「え、あっ……!!」
 先ほど思わず翠にしがみついてしまった手をバッと放す。同時に必要以上に後ずさり岩場から落ちそうになったチェルシーへ翠が手を伸ばす。その手を払いのけると彼女のエメラルドの瞳が翠を睨んだ。
「言っとくけど、助けてなんて頼んでないから!」
「……心外ですね、見かねて救いの手を差し伸べたのに」
「……っ、だからそんなの頼んでないのよ! あんなものの一つや二つ、私一人でどうとでもなったわよ」
「ああそうですか。余計なお世話をして申し訳ありませんでしたね。じゃあ、ほら、そこまで言うなら返しますよ」
「え」
 言葉の出てこないチェルシーに、翠は手に触れた黒い石を放り投げた。
 次の瞬間ざわりと翠の背中が総毛立つ。空間が収束してゆく、この妙な感覚には覚えがあって、慌ててチェルシーの両腕を掴んだが時既に遅し。
「ちょっ……待っ――…ッ!!」
 ガクンと足元が崩れる浮遊感。体中に重力がかかる。下へ下へと誘うその力に必死で抵抗して、翠は無我夢中で足場を確保した。ほっとしたのはほんの束の間のことで、彼には言いたいことは山ほどあった。
「どうして……どうしてキミはこう、短絡的なんですか!!」
「……………」
 わずかに残された足場。そこに立つ翠の腕にはしっかりとチェルシーの姿もあって。彼女の重力の餌食になった岩石はいまだに底には到達していないらしく、なんの音も聞こえてこなかった。
 黙っている彼女に構わず、翠の言及は続く。
「ここでキミの能力を使えばどうなるかなんて想像できるはずでしょう! たかだか虫一匹ごときに……。まあ、今のは、私の悪ふざけが過ぎたのもあるとは思いますが……」
「最低……騙すなんて」
 ぼそりとチェルシーが呟く。その声にいつもの張りなど微塵も残ってはおらず、疲れ果てた声音が翠の良心にチクリと棘を刺す。
「いや、それは確かに……悪かったとは――」
「放してよ」
 あ、と今さらながら彼女の腕を解放してやる。訪れた沈黙は一度目のものより遥かに気まずいもので。だからこの時、チェルシーが発した一言は、翠にとって救世主に他ならなかったのだ。
「アンタ、男のくせに髪、長すぎ」
「………知りませんでしたよ、公司の法が男の髪についてまで言及してるなんて」
「ああ言えばこう言う、ってまさにアンタのことね」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」
「どうぞご勝手に」
 彼女の盛大なため息と共に吐き出されたセリフを最後に、二人の間にはまた静寂が舞い戻る。しかし、その静けさはもう居心地の悪いものではありえなく、穏やかな空気を含んだもので。それが自分たちにとって非常に都合の悪いものだということは、お互い嫌と言うほど分かっていた。

 早く、と少女は心の中で唱える。
 早く、早くあの赤い髪の、いつも眉間にしわを寄せているあの男を。彼ならきっと揺らぐことはないのだろう。例え何が起こったとしても。
 きっと境界線を越えることなどないのだろう。



 パラパラと細かい砂の粒が頭上から降ってきて、二人は同時に顔を上げた。
 そこに見えたのは数人の公司社員たちと、赤い髪のあの男。
 声を届けるには遠く、心に想うより近い。
 ふっとチェルシーの口元が緩む。姿を見ただけでこんなに安心するなんて、絶対に本人には言えないけれど。
「アンタもそろそろ観念なさいよ」
「……………」
 挑むように微笑んだ少女に、翠もまた余裕の笑みを返す。
「それなりに、……それなりに楽しかったですよ」
「は?」
 きょとんとしたチェルシーの表情が、みるみるうちに険しくなる。
「でも、次に会うときはやはり敵だ」
「次って……、次なんてないわよ!!」
 バッと繰り出した彼女の拳をなんなくかわした次の瞬間、翠の足は地面を蹴っていた。
 空を切った少女の拳の先で、青い髪が翻る。
「それでは、今日のところはお暇させていただきますよ」
「ちょ……ッ」
 言い終えるや否や、男は薄闇の中に姿を消した。
 背中に背負った機械から出る、オレンジ色の光がその機械音と共に遠ざかっていく。光がやがて小さな点となるまで、チェルシーは呆然と見送るしかなかった。
「なっ……なっ……、じゃあ、今までわざとここにいたってわけ? ―――バ、バカにして…ッ!!!」
 憤りが滲んだ叫びは地下世界にこだまし、そして呑み込まれてゆく。


 少女の怒りの叫びを遥か遠くに聞きながら、翠は盛大にため息をついた。
「うっかり逃げそびれたんですよ……」
 そう言う彼の顔には、かすかな微笑が浮かんでいた。

二次創作↑

翠の髪はこの時はまだ短かったかも知れないなあと思いつつ、この会話をさせたい一心で書いてしまいました。
そろそろ東京アンダーグラウンドの二次創作も、別の方向を開拓していこうかなと思ってます。
チェルシー第一主義は変わりませんが。シエルとか高麗とかも書いてみたい。
あとリクエストで多かったので、本編その後のチェルシーと赤とか。私だって気になります。
チェルシーは少なくとも公司が立て直されるまでは地下に残ると思ってたんだけどなあ。
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