空は青かった。空気も清々しかった。吹く風は爽やかで、陽光は麗らかな午後に燦々と降り注いでいる。
だけど黒髪の青年、アゼル・アシュハルトの心中では全く逆の天候が吹き荒れていた。
それは、雷雨と強風をともなった嵐のような……。
「雷雨、ところにより晴れ」
「リディス……」
名を呼ぶことしか出来ずに、しかしその一言にありったけの訴えを含ませてアゼルは呟いた。声が届いたのか、前方の小さな背中がビクッと揺れる。ギシギシと音がしないのが不思議なほどのぎこちなさでもって、呼ばれた幼い少女は振り返った。
「ちっ…ちがいます! これは……その、えっと…わたしが嫌いだからあげてるわけじゃないんです。この子は、ピーマンがとっても好きなようなので……」
まだ何も言っていないのに「違います」と口にするのは、既に自らの行いを肯定したも同然である。弟のギルヴィアの時もそうだったが、幼い者はどうしてこうも簡単にばれる嘘をつくのだろう。自分もそうだったろうかと考え、一瞬で思考を打ち切った。
考え事をしている場合ではない。アゼルは自分がわざわざ裏庭に足を運んだわけを思い出す。
「そいつがいくらピーマンが好きだったとしても、そればかり食べさせては健康に関わる。それに、お前の分が無くなるだろう」
自然と溜め息がこぼれる。少女は面白いほどうろたえた様子で、傍らに伏せる犬の前からピーマンを隠した。
「けんこう……ピーマンを食べなくては大きくなれないのではないのですか? だから――」
だから自分はいつまで経っても大きくなれないのではないか。少女はもごもごと言いにくそうに呟いた。
おそらく両親にそう教えられてきたのだろう。
大きくなりたいと切望しているわりに、いつまでたってもピーマンだけはなかなか克服できずにいるということは、それだけその緑の食物が苦手であるということだ。
食事にピーマンが出たときは、決まって少女は食後にいなくなる。探して来てみれば裏庭の犬小屋だ。犬がそうそうピーマンばかり食べるはずがないだろうに……。
「一つや二つ嫌いなものがあっても人間は成長する。だが食べられるために採取された食物は、食べられなければただのゴミだ。ゴミにするか栄養にするかはお前が決めろ」
一見突き放したような声音だが、少女は怯む様子もなく、真剣な眼差しで犬の目の前に置かれた緑の切れ端を見つめていた。
しばらくして、おもむろに地面に置かれたそれに手を伸ばすと、ひょいと口へ持っていく。普段は感情を表に表さないアゼルも、これにはぎょっとして目を見開いた。
「まっ……」
伸ばしかけた手は宙で停止する。そんなアゼルの目の前で、少女はもぐもぐと口を動かしながら、大きな赤い瞳に涙を一杯に溜めていた。やがてごくりと喉が動き、口の動きが止まる。しかし相変わらず瞳には涙があった。
「……ゴミには、しません」
少女は笑って言った。なおも緑の物体に手を伸ばそうとした彼女を、アゼルは今度こそ止める。
「それはもういい。今度料理に出てきたときに、食べれば良いから」
「でも……」
そしたら今地面にある残りはゴミになるしかないのではないかと、自分を見上げてくる少女の真摯な瞳に、青年は自分の一言が彼女に与えた威力の強さを思い知った。小さく漏れた溜め息は、今度は「呆れ」から来るものではないようだ。
「ルース、これくらいは食べられるだろう?」
青年は穏やかに、少女の傍らに伏せる犬に呼びかけた。犬はゆっくり起き上がり、主である青年を窺うように見上げた。
「リディスも食べたんだから、お前も食べろ」
幾分強い調子で続けたアゼルから目を離し、ルースは緑の物体へ鼻を近づけ何度か嗅いだあと、思い切り良く口に含んだ。気だるそうに咀嚼する様子を一べつし、アゼルはその場を離れる。
「ルース、ありがとう」
小さく犬に礼を言うと、少女も彼の背中を追った。
天候は雷雨に強風をともなった、嵐。
だが、一筋の光は、確かに差し込んでいた。
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