「薄灰と漆黒の邂逅」


 雑多な街の中をひたすら進む。どこに向かっているのか分からぬまま。人にぶつかっては謝りながら。

 目深にかぶった帽子が暑かった。かと言って取るわけにもいかず、青年は額に浮かぶ汗をぬぐう。
「この熱を、冬に少し分けてくれればいいものを……」
 惜しみなく降り注ぐ日光は殺人的だ。しかしこの大陸の冬は本当に人を殺す。
 もうすぐ訪れるシャマイン大陸の厳冬期を思いながら、彼は手近な茶店の戸を開けた。さし当たっては、この喉の渇きを潤さなければならなかった。


 薄暗い店内は外よりはいくらか涼しかった。
 こげ茶色の木のカウンター席に腰掛けて、青年は飲み物と軽い食事を注文する。
 街での買い物も食事も手馴れたものだった。最初の頃は、たった一つのパンを買うのにさえ手間取ったというのにだ。食事をするにしても、いつどのタイミングで勘定をするのか分からなくて、ろくに味わえなかった。
 この姿を、城に巣食う口やかましい連中が見たらどんなにか嘆くことだろう。それを思って暗く笑う。

「――ウォルス王」

 隣りで聞こえた名に、彼は持っていたグラスを取り落とした。硬質な音が一際大きく店内に響き、グラスは床に当たっていくつかの破片となって散らばった。
 店員に手伝ってもらいながら片付けている間も、彼の心臓はうるさいほどに脈打っている。
「……ウォルス王は前王よりゃマシだよ。俺が思うには」
 中断していた会話が再び始まった瞬間に、体中の意識と神経がその声に向かってゆくのを青年は止められなかった。
「そうかな。王が変わってもあの嫌な貴族たちや、いばり散らす兵士どもは変わらないんだぜ?」
 声は若かった。ちょうど青年と同じくらいの年の声に聞こえたが、彼は自分よりもっと溌剌として活気のあるその声の主たちを確かめる勇気はなかった。
「王はそういう奴らをのさばらせてる大元ってわけだ。前王と変わらんさ」
「そうかな」
「そうさ。お前も口には気をつけるんだな。こんなこと話してるのが城の奴らの耳に入ってみろ。即刻死刑だ」
「それは前王の時代の話だよ」
「変わるもんか。王はみんな同じだよ。現にお前、知ってるか?」
 急に若者が声をひそめたので、青年は思わず水を飲む手を止め、全神経を会話に集中させた。
「この前もな、サンティグス通りで一人殺されたぜ。ディンバーグ家の馬車に打ち水を跳ねさせたって馬鹿げた理由でな」
「そんな馬鹿な!!」
 青年は気付けば声を上げていた。言ってからしばらくは、それが自分の声だとは思わなかった。隣の若者二人は驚きつつも、「嘘じゃないぜ」とぼそりと呟いた。
「そんな馬鹿な……」
 青年は力なくもう一度こぼした。無意味な言葉だったが、声に出さないではいられなかったのだ。
「この国では、貴族といえども、私刑は許可されてないはずだ」
「そんなもんなんだよ、この国は」
 若者はいたわる様な声音で続けたが、それは青年を励ますどころか、さらに一層暗くさせるに充分なものだった。
 彼はふっと力なく笑って、
「王は、無知で、無力な、愚か者なんだ。国のどこで何が起こっているのか、甘い顔する臣下が裏では何をやってるのか民にどう思われてるのか全く知らない、ただの愚王なんだよ」
「お、……おい…」
 とんでもないことを言ってのけた青年に若者二人は慌てた。今更だったが、辺りをきょろきょろ見回して、
「滅多なことは言うなよ、殺されるぞ」
 と言うと、再び静かに食事を始める。
 ちょうどその時料理が白い湯気とともに運ばれてきたが、青年はもう何も食べる気になれなかった。隣りの若者へ出来たばかりの料理を譲ると、代金を払って店を後にした。




 何も食べないで店を出た青年は、当てどもなく通りを進んだ。
 きっと自分はとてつもなく情けない顔をしているに違いない。暑くて邪魔だった帽子が、今はあって良かったと思った。
「無知で、無力で、愚か者……」
 さっき言った言葉を繰り返す。一つ繰り返すたびに、心は暗さを増してゆく。
 ふと、地面ばかりを見ていた顔を上げると、そこは先ほどまで歩いていた賑やかな大通りとは様子が違っていた。薄汚れた狭い通路に立っているのは自分だけで、喧騒はどこか遠いところから微かに聞こえてくるに過ぎない。
 何となく興味を引かれて、立ち止まった足を再び動かす。見上げれば両側の建物に一本の紐が渡されていて、そこに服だか雑巾だか分からないような布が干されていた。
 舗装されていない道は歩きづらかった。今にも崩れそうな家とも呼べないあばら屋が立ち並んでいる。

 ああ、これが現実だ。

 これが、この国の現実だ。ここには冬を越せない人間が沢山いる。越せずに死んでゆくことに疑問を持つことさえ出来ない人が沢山いる。
 彼はそれ以上進むことが出来なかった。これ以上先へ行って、目の当たりにする現実が怖かった。
 そうしてどれだけの時間が流れたか、不意に後ろから軽やかな足音が近づいてくるのが分かって彼は道を譲った。
 少年だった。
 まだ十歳かそこいらの少年だった。黒い髪は伸びっぱなしになっていて、それを紐で一つに括りあげている。まとめ切れなかった髪が幾筋か首の辺りで揺れていた。
 服はボロボロで薄汚れており、所々に穴が開いていてそこから細い腕や脚が見え隠れしている。
 失礼だという考えは浮かばなかった。ただ、強烈に惹きつけられて視線を離せなかった。なぜかは分からなかったが、彼は俯き加減で歩く少年が通り過ぎるまでずっと見つめていた。
 すれ違いざまにほんの少しお互いがぶつかる。狭い通路では仕方ないことだったが、青年は小さく謝った。
 離れてゆく背中をなおも凝視していると、前触れもなく少年はぴたりと立ち止まり振り返った。
「あんた馬鹿か」
「…………え?」
 本当に呆れたような、心底馬鹿にしたような、それでいて鋭利な刃物のように鋭い少年の声。
 漆黒の瞳には一欠けらの温かさも感じられなかった。いまだかつて自分に向けられたことのない冷たい瞳に、青年は動けなかった。
 間の抜けた返答しか出来なかった彼の目の前で、黒髪の少年はポケットに入れた手をさっと出してみせる。その手には、なんだか見覚えのある財布が握られていた。
「あんた馬鹿だろ」
 もう一度少年は言って地面を蹴った。疾風のような素早さで路地を駆け抜け、たちまちに見えなくなってしまった小さな姿を、青年は呆然と見送った。
 あれが自分の財布だと気付いたのは、城へ帰ってからだった。





 あの瞳が忘れられなかった。
 城へ帰ってから散々臣下たちや侍従たちにお小言をくらっても。あの瞳が忘れられなかった。
 改めて見てみれば、城で向けられる視線は媚びや畏れや怯えが多分に含まれているものばかりだった。それらの二つの目を見るたびに、彼、ウォルス・トゥル・イシリスは余情を許さない鋭い漆黒の瞳がどうしようもなく懐かしくなった。
 心底自分を馬鹿にしていた瞳だった。いっそ気持ちいいくらいに呆れた目だった。
「といっても、そう都合よく会えるわけないか……」
 溜め息とともに呟いた彼は、再びあの狭い路地に突っ立っていた。
 もう一度会いたい一心だった。会って、あの猛烈に冷たい視線を向けられたかった。人に言えば変態かと思われる理由だろうが、ウォルスは真剣だった。
 かれこれ三時間ほどこうして人気のない路地に立ち尽くしているが、一向にあの少年が現れる気配は無かった。
 片付けなければならない書類を放り出してきたのだ。帰ったら宰相のラウロに口うるさく叱責されるのだろう。ラウロは真面目な男だと思うが、まだウォルスは腹を割って話すことが出来なかった。
 というより、周りにいる誰も彼もが信じられなかった。
 一たび自分の目の届かない所へ行けば、なんと言って無能な王を嘲笑しているか知れない。そう考えてしまう自分の卑屈さも嫌だった。
 誰かに叱って欲しかった。誰かに本当の本気で「馬鹿か」と言われたかった。
 だから彼はここであの少年を待っている。薄汚れた格好の、しかし自分より遥かに力強い瞳をしたあの少年を。
「……出直すか」
 元より一度か二度で出会えるとは思っていない。また会えるまで時間の許す限り何度でも来るつもりだった。幸い自分は王として民に姿を知られてはいない。目立つ銀掛かった薄青の髪を帽子の奥深くにしまってしまえば誰にも見咎められないであろう。

 帰って政務の続きをするかと踵を返したそこに、望んだ瞳はあった。

 ウォルスの灰色の瞳と少年の漆黒の瞳が宙で絡み合う。
 どれだけそうしていただろうか。もはや二人の間に時は存在していなかった。双方何の思惑もなかった。ただ、目の前にある互いの目を見ているだけだった。
 やがて、少年が先に口を開いた。
「あんた、本当に馬鹿だろう」
 前と変わらぬ、呆れた声だった。
「また、財布スられに来たのか?」
 無表情のままに少年はポケットからウォルスの財布を取り出して、ひらりと掲げて見せた。
 ウォルスは反射的に何か言おうと口を開きかけたが、開いた瞬間に何を言えばいいのか分からない自分に気付いた。「会いたかった」と言ったところで気味悪がられることは容易に想像できるし、かと言って黙って財布をスられるのも良い案だとは思えなかった。
 そうこうしているうちに彼らは慌ただしい幾つかの足音を聞いた。その足音はだんだん大きくなってきて、すぐにそれが「王を連れ戻しに来た近衛兵」によるものだと知れた。

「陛下っ、なぜこんな所に! ……こらお前、陛下の面前で何と無礼な!!」
「や、やめろ!!」

 少年に剣を向けようとした兵は、聞いたこともない王の大喝に身を凍らせた。
 ウォルス自身、自分の大声に驚いていた。それでも何とか続けて言う。
「やめてくれ、違うんだ。彼は、道に迷った俺を、案内してくれていたに過ぎない」
 覚束ない口調で言い切った主に、しぶしぶと言った感じで兵は剣を下ろした。また別の兵が王を導く。
「お早く城へお戻り下さい。ラウロ様が心配なさっておいでです」
「……分かった」
 ウォルスは少年を見ることが出来なかった。
 今この瞬間、少年にとっても自分は「王」になってしまったに違いない。そしてあの苛烈な瞳は、既に力を失ってしまったに違いない。媚び、畏れ、怯え。それらが少年の目にも宿り、代わりに焦がれた激しさは消えてしまったに違いない。
 暗澹たる思いがウォルスの心を侵食してゆく。
 周りを兵たちに囲まれて進んでゆく様は、囚人のそれと何が違うのだろう。こんな態で大通りを歩けばただの見世物だ。
 俯いたウォルスが一歩を踏み出すか出さないのうちに、狭い路地を突風が駆け抜けた。その拍子に深くかぶった帽子が飛ばされる。
 思わずあげた視線が、飛ばされたはずの帽子を見事に掴まえている少年にぶつかった。

「馬鹿じゃねえの」

 少年はそう言って帽子を投げつけた。
 兵たちが追いつく間もなく、黒い髪を翻して彼は路地の先へ姿を消した。追いかけた兵たちが無念そうな表情で戻って来るまで、ウォルスは少年の消えた場所をずっと見つめていた。




 それから何度、ウォルスがその路地へ足へ運んだかは定かではない。
 とにかく次の年の春、彼は一人の従者を雇うことに成功した。彼の名をキース・ゾルディック。その歳の頃十一。
「飽きるまで付き合ってやるよ」
 という言葉とともに城へ来たこの少年が歴史に名を残すのは、少々先の事となる。






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