「……………え?」
 普段冷静なジェラルダン・コンスタントもこの時ばかりは眉間にしわを寄せて聞きかえした。が、相手はもう一度くり返してやる気はないようで、黙って皿の上の肉を口に放りこんだ。
 後宮警固の任に就く気はないか。
 聞き間違えでなければ彼の父親はそう言ったのだ。
 いつもの通り紅茶を淹れていた手が止まって、結局もう一度淹れ直すはめになった。


「そして彼は紅茶を淹れる」


 ミネルヴァ・コンスタントは寡黙な男だった。
 どのくらい寡黙かと言えば、一日中一緒にいても二言三言会話ができればたいしたものだと思えるほどの寡黙さかげんだ。だからジェラルダンは父親と親子らしい会話をした覚えがまるでない。といっても、貴族階級ならばそう珍しいことではなかった。親と子が年に一度も顔を合わせないことだってある世の中だ。
 しかし、ミネルヴァは貴族ではなかった。家系図を辿りに辿ればやっとで下級貴族の流れをくんでいることが分かるが、生活自体は貴族のそれではなかった。
 使用人は中年の気の良い女が一人いるだけで、その他の些末な家事は一人息子のジェラルダンの担当だった。
 母親はとうの昔に他界している。
 ジェラルダンが生まれて二年とたたないころに、当時の流行り病にやられて帰らぬ人となった。そのせいで彼には母親の記憶はまるでなかった。両親がどんな会話をしていたか、仲は良かったのか、どうして知り合ったのか、それらの過去が父親の口から語られることは有りえなかったし、ジェラルダン自身期待してはいなかった。
 使用人の女が時おり語る昔話から聞きとった断片を、彼なりにふたたび組み合わせて過去の思い出とした。


「僕が、後宮警固……」

 自室の戸をかたく閉ざしてもう一度つぶやいてみると、ますますその言葉は現実感を失ってぼやけてゆく。
 だいたい、後宮警固に就くには宦官である必要があるのではないか。ならば、考えたくはないがあの父は一人息子に去勢させようというわけか。
 冗談ということは有りえなかった。あの父にかぎって「冗談」など言うはずがない。
「………もう寝よう」
 いくら一人で思い悩んだところで解決にいたるわけではない。睡眠時間が減るだけである。
 そう割り切って、ジェラルダン・コンスタントはかたいベッドに横になった。寝付くまでには相当の時間が必要だった。




 ジェラルダンの朝は早い。
 日が昇る少しまえ、空が白みはじめるころにはもう起きている。
 だというのに、彼が起きたときにはすでに父親の気配は家に残っていなかった。だから食卓のうえに置かれた父親の書きつけに反論する余地も、同様に残されてはいなかったのだ。
 書きつけには今日の三つ時にバベル城の庭院(なかにわ)にある東屋を訪ねろとある。父が肌身はなさず身につけている剣柄の飾り紐が、窓からの風に紙が飛ぶのを頼りなげに押さえていた。
 長いため息とともに事実を受けいれると、ジェラルダンは朝の鍛錬のために荒れた裏庭に出て行く。
 激しく剣を振りおろしても、まとわりつく雑念は消えそうにはなかった。



 父親の飾り紐は相当の効果をもたらした。
 ほとんどの門はそれを見せるだけでたやすく通ることが出来た。ほとんど素通りの状態だ。当然剣を預けるつもりだったのだが、おかげで帯剣を許されたまま入城できてしまった。
 飾り紐は確かに立派な作りをしている。ジェラルダンの素人目にも分かるほどだ。紐の先には小さな丸い石がぶら下がっていて、そちらも透明で綺麗な青色をしていた。表面にはなにかが彫られていたが彼はあらためて確かめる気にはなれなかった。
 父が語ってくれないことを、わざわざ自分で調べるのがなんとなく癪だったのだ。
 そういうつまらない意地を張り続けてもう何年になるのだろう。物心ついた時にはすでにこの性格だった気がする。父も似たような性質の持ち主であり、そのせいで両者の距離は一向に縮まらない。
 自覚はしているが今さら素直になれるはずもない。なんとなく後戻りできずにいるのだ。たぶん、この先もおなじことが続くのだろう。

 物思いに耽って歩いていると、いつの間にか彼の周りから人の姿が消えていた。
 目当ての場所目指してずいぶんと奥へ進んでいる。緊張とは裏腹に誰にも咎められなかったのだからまあ良いだろう。さっき道をたずねた兵士の対応からして、この飾り紐の効力は絶大であった。すれ違った人間に不審に思われないだけの虚勢を張って、ジェラルダンはなかば駆け足で回廊を急ぐ。
 不意に視界が開けて、まぶしい光が目を突き刺した。城の中心部に位置する庭院に辿りついたのだ。
 人一人分の小さな道が、庭の中央に向けて敷かれている。四方を回廊に囲まれている庭園だったが、向かいの回廊を歩く人影はおぼろにしか確認できない。それほど、広い庭園だった。
 痛いほどの静けさをたたえた茂みのなかを、ジェラルダンはゆっくりと歩いていった。もう、人の目を気にする必要はなかった。庭院には人の気配などしなかった。
 視界はみずみずしい緑に囲まれていて、見上げればあるのは青い空だけだ。ここだけ見ればとても城の中だとは思えない。
 陽の位置から、約束のときまでにずいぶんあるのを確認して、彼は足元を彩るさまざまな花を見ながら歩いた。さすが城内というべきか、見たこともないような花や珍しい色の植物が咲き乱れている。
「…………っ!?」
 突然、目の前に現れた気配に、ジェラルダンの手が剣柄に触れる。
 派手な葉の嵐とともに姿を現したのは、一人の小柄な少年だった。
「痛っ……、ああくそ! あと少しだっていうのに!」
 頭上から降るように落ちてきた少年は、しりもちを付きながら威勢の良い文句をならべていた。ひとしきり悪態をつきおえると腰をあげ、呆然と突っ立っていたジェラルダンをちらりと見る。
「あんた、背ぇ高いな。あの枝、手ぇ届く?」
「え……、あ…君一体――」
「んなことどうでも良いから、届くか届かないのかどっちだよ!?」
 考えるよりさきに手が伸びていた。普通に伸ばすだけでは足りずに、踵をこれでもかというほど持ち上げたがやはり目指す枝は頭一つ分届かない。
 問うように少年を見やると、彼は何事か考えるようにじっと腕を組んでいた。
 少年の背はジェラルダンの腰ほどしかなく、黒い髪は伸びっ放しで一つに括られている。口調や雰囲気とは裏腹に、着ているものは質素だがなかなか上質のもので、髪を括っている紐もさり気なく高価なものだ。しかし、城の最奥に位置するこの庭院に自由に出入りできるほどの身分を持っているとは考えられなかった。
 ふと、前触れなく少年は顔を上げ、無防備なジェラルダンの目を真っ直ぐ見つめて笑った。
「あんたが俺をかつげば良いんだ」
「何だって!?」
「良いから早く! 早くしないと逃げちまう」
 なにが、と訊ねる余裕はジェラルダンにはなかった。抵抗する間もなく少年はジェラルダンの肩に手をかけてよじ登ろうとしていた。慌てて彼も両手で支える。
「……なあ、あんたもしかして肩車って知らないのか?」
「し、知ってるそれくらい!」
「じゃあ、これが肩車じゃないことくらい分かるだろ?」
 呆れたように問い返され、ジェラルダンは耳まで赤くなるのを感じた。少年はため息をこぼして器用に地面に降り立つ。
「父親に肩車くらいされたことあるだろ?」
 少年が何気なく放った一言に、心が急速に冷えてゆく。胸の辺りから冷たさは広がってゆき、またたく間に手足の先にまでそれは到達した。
 急になにも言わなくなったジェラルダンに気付き、少年が振り返る。かたまった青年を見ても、彼は少しも表情を変えなかった。
「悪いこと言ったな。……そんな顔すんな、やりかた教えてやるからそこに屈めよ」
 少年の言葉は、不思議に悪い気はしなかった。すっと胸が軽くなるのを感じながら彼は言われた通り地面に屈みこむ。少年が軽やかにまたがった。
「よし、立ってくれ。それで、あの枝な。あの枝の下まで歩いて」
 矢つぎ早に放たれる注文にも、ジェラルダンは無言でしたがった。
 やがてすっかり用が終えたらしい少年は、これまた器用に青年の肩を下りて手にしたものにじっと視線を落とした。
「それは……」
 答えをもらうよりさきに、少年の手の中にある物体が動いた。ひっと息を飲み込んだジェラルダンを気にかけた様子もなく、少年は晴れやかに笑って答える。
「この虫は乾燥させてすり潰せば高く売れる。酔い醒ましとしてな」
 事も無げに言ってのけると素早く皮袋に滑り込ませて懐にしまった。
「助かったよ……えっと……」
「ジェラルダン。ジェラルダン・コンスタント」
「ああ、ジェラルダン……ジェラルダン? ひょっとしてあんた、ミネルヴァ・コンスタントの息子か?」
「そうだけど……何でそんなこと知ってる?」
 ジェラルダンは思わず手にした飾り紐をぎゅっと握った。少年はこの飾り紐だって見ていないはずなのだ。
 こんな年端もいかない粗野な子供が自分と父親の名前を知っているなんてどう考えてもおかしい。あからさまに警戒しだした彼を見ても、少年は怯えるどころか楽しんでいるようだった。
「俺の名前はキース。よろしくな、ジェラルダン……言いにくいな、ジェラル…ジェル…ジル。お前はこれからジルな。よろしく、ジル」
「ちょっと待て、色々問題はあるがとりあえず『ジル』は女の名前だ」
「良いじゃないか、そんなことどうでも。とにかくお前、明日から後宮警固……つっても今後宮は空だから、お前は当面ウォル付きの護衛だ」
「なっ……何でお前がそんなこと知ってるんだ!? しかもウォルって誰のことだ!!」
「最初の質問は自分でも良く分からないから答えられない。後の質問は……自分が暮らしてる国の国王の名前くらい覚えとけよ」
 いよいよジェラルダンの頭は混乱して鈍くなりはじめていた。だから踵を返した少年が、「明日も今日と同じ場所で」と言ったこともすぐには理解できなかった。冷静さを取り戻して後を追ったときにはもう少年の姿をどこにも見当たらなかった。



「今日、言われた場所に伺いました」
「そうか」
「妙な少年と出会いました」
「そうだろうな」
「あなたはその少年に心当たりがあるのですか?」
 夕食の席でいつまでたっても口を開かない父親に痺れを切らして、ジェラルダンはとうとう自分から今日の不思議な出来事について切り出した。にも関わらず父親からは素っ気ない返事しか帰ってこない。いつにも増して、だ。
「ある。どうなったかは、陛下よりうかがっている」
 久しぶりに聞いた長い言葉に、ジェラルダンはため息をこぼした。食器のカチャリという音がひどく大きく鼓膜を打った。
「私が警固につくのは何なのですか?」
 質問ばかりしている、と思ったが、質問以外のことを言ったならば返答の長さはたかが知れている。
 ミネルヴァは初めて顔を上げ、息子の顔をじっと見た。澄んだ何もかも見通しているようなこの瞳が、ジェラルダンは苦手だった。
「『何なの』ではなく、『どなた』とたずねるべきだ」
「どなたなのですか?」
「その少年は何も言わなかったのか?」
「………ウォル、まさか本当にウォルス陛下ってことはないでしょう?」
 打ち消しては考え、打ち消しては考えをくり返していたものが、まさか現実のことだとは思っていなかった。聞き間違いでなかったら、あの少年が自分のことをからかって言ったのに違いなかった。
 なぜなら無名で落ちぶれた貴族の出である自分が、バベル帝国の王の護衛役などと言う名誉ある任につくなんて子供でも見ない夢だ。本気にしたら本気にした方が馬鹿にされるような夢だ。
 自嘲気味に言い返した言葉に、ミネルヴァは答える気はないようだった。まるで説明する労力を惜しむように、彼は黙々と食べ物を口に運び続けた。
「とにかく。僕……私は、自分で行くと決めたんです。あなたに言われたからじゃない」
 いくらか強い語調で言って、ジェラルダンは飾り紐を卓の上に乱暴に置いた。そして食器を片手に席を立つ。
 背後にちらりと盗み見ても、ミネルヴァの大きな背中になんぞ堪えたようすはなかった。気付けば、彼の手は紅茶を淹れるための準備をはじめていて、染み付いてしまった習慣には彼もため息をこぼすしかなかった。

 そうだ。父親に言われたからではなく、明日行くか行かないかは自分で決めたのだ。
 もう一度、あの少年に会ってみたいという気持ちもあったし、行き場のないこの閉塞した家で一生を過ごす気にはなれなかったというのもある。なにか、父親の手の届かない場所でなにか変わったことをしてみたかったのだ。
 男なら、誰でも望む晴れの舞台を夢見ていた。でも、父親のいる軍へは入りたくなかった。そこには、ジェラルダン・コンスタントの前に、「ミネルヴァの息子の」という余計なものが付いてくるからだ。
 護衛役なら、毎日馬鹿みたいに鍛錬してきた自らの技も試せる機会があるはずだ。

 うわの空で淹れた紅茶は恐ろしく苦かったのに、ミネルヴァ・コンスタントはなにも言わず飲み干した。毎晩紅茶を淹れるのは、とうに死んだ母親の習慣だったと女中が以前教えてくれた。
 紅茶というものが、これほど似合わない人間もほかにいるまい。ミネルヴァはその体に合わない小さなカップを卓に置くと、自室へゆっくり戻っていった。
「僕が決めたんだ……あなたに言われたからじゃない。僕の場所だ」
 苦い液体をぐいっと喉へ流しこむ。わずかに残る苦い気持ちも一緒くたにして流しこむ。


 翌日、「とんでもないことを引き受けてしまったかも知れない」と早くも後悔しはじめることになるのだが、彼はその新しい場所で無二の親友と守るべき大切な存在に出会うことになる。
 だがこれは、また別の話だ。






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