王都アリューシャンを遠ざかるにつれて景色は寂しくなっていった。
人気のない街道を南へ向けて馬車は走る。このままずっと南下すれば決戦の地の「宿命の草原」があるのだとエマーソンが教えてくれたが、佐伯にとってその言葉は現実味に乏しい。
それよりも、当面の生活状況のほうが重要事である。
城内ではもちろん、神殿の生活においてもそれなりに衛生的な生活を約束されていた彼だが、それがこの馬車の旅にも約束されているのかどうかが疑問だった。
ちゃんと清潔な宿に寝泊りできるのか、食事は最低限美味しいものが食べられるのか、服は着替えがあるのか、風呂には入れるのか、考え出したらきりがない数々の疑問がわいては消えていった。
生きているだけで素晴らしい、という段階はもうとうに過ぎてしまった。
よくよく考えれば被害者は自分なのだ。なんの義理もない国のために祭り上げられるというのだから、それなりの待遇を受けねば気がすまなかった。言うなれば、将来受けとるあてのない年金を払わされている気分だ。だが、そんな感情は心の奥にしまっておくびにも出さない。
一昼夜、つらつらとそんなことを考えながら馬車に揺られて街道を下った。夜は、希望とは裏腹に林で野宿だった。
道々、エマーソンとオラシオが言葉を勉強させる以外に会話はあまりなかった。女は見事にたったの一言も口をきかなかったし、護衛の男たちは交代で御者台に座っていたがどちらも無口だった。
馬車が走っているときは窓から外へ向けて小声で歌をうたった。自分にしか聞こえない小さな声で、覚えているフォークソングだの童謡だのを歌った。なにか唄おうとすると思い出すのはどういうわけか小さいときに見ていたアニメのテーマソングだったりして、どうにも格好がつかない自分の記憶力に笑いがこぼれた。
それは、二日目の夜のことだった。
闇夜に浮かぶのは紅い月ただ一つ。毎夜見えていた白い月はその日はどこかへ姿をくらましていた。
二日馬車を走らせても一つの村にも到達しないなんてことがありえるのか佐伯には判断できなかったが、野宿は嫌だと駄々をこねることも同様に不可能だった。
おとなしくすべての用意を終えて白い布のテントのなかで横たわる。三つのテントのうち、一つが佐伯専用だ。護衛が交替で寝ずの番をしているはずだった。
だんだん、すべてのことが当たり前になってきている気がした。相変わらずなにもかもに現実味がない。「敵」という言葉は、ゲームのなかの二次元の存在と同程度でしかない。
なかなか寝つけず何度目かわからぬ寝返りを打ったときだった。
目の前の白布が、一瞬で赤色に変わった。
寝ぼけたのかしらと、ごしごしと両目をこする。がしかし、やはり赤色だ。
次の瞬間つんとした臭気が鼻にとどいて口を押さえた。吐きそうだ、と思ったが声を出すわけにはいかなかった。
布一枚向こうから、くちゃくちゃと不穏な音が聞こえてきたからだった。
ざわりとした寒気が背筋を這いのぼってくる。指の先まで鳥肌がたつ。
何かが、いた。
布一枚向こうに、何かがいた。
佐伯はゆっくり、音を立てないよう慎重に後ずさった。水気を含んだいやらしい音はなおも続いている。
出口は赤く染まった布に閉ざされていた。
(どうか、どうかどうかどうか、音の主が自分に辿りつきませんように)
自分のほかに五人もいるのだ。ならば、一人くらい見逃してくれてもいいだろう、そしてその一人が「勇者」であって都合が悪いわけがない。
不意に、音がやんだ。
(そのままどっかへ行ってくれ。どうか俺には気づかないで)
祈るように組み合わせた両手が小刻みに震える。
獣の、荒い息遣いが布を揺らす。
赤い布の切れ間から、黒い犬の鼻がのぞいた。ズズッと鼻は近づいてくる。
佐伯の手が、無意識に辺りを探る。が、手に触れるのは柔らかい毛布だけだった。仕方なくそれをかき集めた。
半開きになった犬の口はザクロのよう、したたる雫も疑いようもなく真っ赤だった。
両目をテントの中に入れたところで、犬はぴたりと動きを止めた。
まるでじっと佐伯を観察するかのように、犬は黄色く濁った瞳をぎょろりと剥いた。
佐伯は動かない。犬も動かない。
じりじりと背中が汗をかく。勇者がこんな目に合っているというのに、誰も助けに来ないなんて酷い。
犬の鋭い牙と牙のあいだから、だらりと赤い粘液が垂れる。それが地面に届くよりも早く、犬は高く跳躍した。
「う……あっ、あぁあぁぁぁああああああ!!!」
無我夢中で毛布のかたまりを前へ突きだす。
物凄い力で毛布が押し返される。自分の叫ぶ声でまわりの音など何一つ聞こえない。
不意に、押し返してくる力がなくなり、反動で佐伯の体が前に倒れた。
慌てて上体を起こそうとした彼の頭を、なにかが力任せに押さえつける。恐怖と焦りで必死にもがく彼の耳元に、野太い声が届いた。
「アンデルテ ダンタット!」
それは聞いたこともない言葉だったし、「勇者」である自分に今までかけられたどの言葉より荒々しく粗野だった。
だが、まぎれもなく人間の声だ。
佐伯はもがくのを止め、かわりに視線をめぐらせた。自分の頭を押さえている手は見たこともないほど太かった。たくましい筋肉に守られた太い手が、驚くほど簡単に剣を振るった。
犬は突然の乱入者に一瞬ひるんだが、どうやら引き下がることはしないらしかった。体を低くして次の跳躍の機会を狙う犬の口から、また赤いよだれが一すじ落ちる。
男が剣を振るうのと、犬が跳躍するのはほとんど同時だった。
剣は無造作に黒い犬の頭に振り下ろされ、くぐもった鈍い音があたりに響く。次の瞬間どす黒い液体がスプリンクラーのように散らばった。
佐伯は目と口を閉じたが一瞬遅く、舌に鉄の味を感じてつばを吐いた。何度かそうしても、口の中にまだあの汚い犬の液体が残っている気がして吐き気がした。
ふと、助けてくれた男の存在を思い出して顔を上げる。
神殿にも城にも縁遠そうな男だった。赤だか茶色だかわからない髪はぼさぼさだったし、ひげは伸びっぱなし。服はぼろきれをまとっているのかと思うほどのみすぼらしさだった。
だが、それでも男をただ者ではないと思わせるのは、その体だ。全身に隆々とした筋肉がまといついて、男を一段と大きくみせていた。佐伯など片手でひねりつぶせてしまうほどの太い腕。
そこまで考えてから、佐伯は一歩男から離れた。
この男が味方だとどうして断定できるだろう。エマーソンもオラシオも、あの女も、生きているかどうかわからない。
確かに犬を殺してくれたのはありがたいが、敵の敵は味方とは限らない。
警戒して後ずさり始めた佐伯に背を向けたまま、男は犬の頭にめり込んだ剣をグイッと引き抜いた。犬の頭が少し持ち上がってふたたび地面に横たわる。濁って死んだ瞳が佐伯を見る。
思わず佐伯は息をのんだ。そのわずかな音に、男はゆっくり振り向く。
緊張してこわばる手で背後を探ったが、あるのはテントの布だけだった。
男は佐伯と十分に見つめあってから、ふいにニカッと大口をあけて笑った。今までの緊張が馬鹿らしくなるほどの屈託のない笑顔だった。
何事か野太い声で一人しゃべりながら、男はテントを出て行く。最後に手だけで佐伯を手招きしたそのいい加減さが、佐伯の警戒をゆっくりと解いていった。
どの道、自分はこの男を信じないわけにはいかないのだ。
こんな人里はなれた場所で一人になるなんて絶対に嫌だった。またあの犬が出てきたら今度こそ殺されてしまう。あの男がいれば、少なくともその心配はなさそうだった。
さて、ほかの人間の安否を確かめるか、と佐伯は一つため息をついてから犬の死体をまたぎ越した。