まあ座れよ、と男はぞんざいな手つきで書物の山を指さした。
正確には、書物の山に埋もれた粗末な椅子と言ったほうがいいだろう。
琴宮はしばらく思案したあと、何十冊かの本を床へ移してからやっとできたわずかなスペースに腰かけた。
狭い部屋は円形になっていて、館と同じく石壁作りだ。明かり取りの隙間からは白く淡い光が差し込んでいる。が、男の吐く煙のせいで部屋の空気は淀んでいる。
(初めまして、と、とりあえず言っておこう。俺はシド、これ以外の名前で俺を呼ぶな。あんたは何と呼ばれたい?)
初対面の者に対する礼儀をまったく欠いた男は、そう言って散らかった机に頬杖をついた。黒い長髪は後ろで一本にまとめてある。赤いメッシュが彼を軽い雰囲気に見せていた。
男の念話はセフィリヤやアスモデルの使うものとは違い、ひどい雑音が混じっている。彼が何事か話すたびに脳が内側からかき回されているような気分がして、琴宮は顔をゆがめた。
『ユウキ、と、呼んで』
(了解だ、ユーキ。さて、即位式も済ませて正式に魔王となったお前が、こんな場所へ何の用だ?)
男、シドはそう言って意味ありげにニヤリと笑う。その笑みが、琴宮の心理をすべて見透かしているような気がして心が騒いだ。
『お前が、呼んだって……わたしを。そう、聞いて』
(残念だがそれは違う。俺は、お前が来ることを予言しただけだ。なんてったって予言者だからな。予言はできるが異界から人一人引っ張ってくることなんか……よほどの力がなくちゃ無理だ。それこそ、マルキダエルの爺さん以上の、とてつもない力がな)
男がしゃべるたびに頭の中をノイズが這う。顔をしかめた琴宮を見て、彼は軽く笑った。どこか人を馬鹿にしたような笑顔だった。
(さっきも言っただろ? 出来損ないだ、って。念話を使うならこれが限界だ。我慢できないなら帰ってくれ)
『待っ……大丈夫だ!』
冷たい感情を察知して、琴宮は急いで首を振った。長い黒髪が揺れてほおを叩く。
思わず腰を浮かせるほど必死になった彼女を横目に、シドは暗い笑みを浮かべて細く長く煙を吐く。その煙が、琴宮の顔にかかり彼女は何度か咳き込んだ。
(必死だな、あんたも……。まあ、異界から突然連れて来られて右も左も分からんときた。気の毒になあ)
男の言葉の中に揶揄するような音が混じる。良い気分とは言えないが、ここは我慢するしかないだろう。
『帰る、方法を……』
訊きにきた、と正直に言って、果たしてこの男が本当のことを教えてくれるのかは甚だ疑問だった。人を食ったような彼の態度が琴宮の言葉を奪う。
男は無言で煙を吐き出す。
(あんた、その方法訊いてどうする気だ?)
「方法があるの!? おっ、教えてください!!」
思わず日本語で叫んでから、琴宮は「あっ」と口を押さえた。気づいたときには席を立っていた。蹴倒した椅子が石の床に打ちつけられる。
男は毒気を抜かれたように小さく溜息をついて長い前髪をかき上げた。
(座れよ、……ユーキ。今のは、俺の言い方が悪かった。方法があるかどうか、少なくとも俺は知らない)
「あ……」
ゆるゆると全身から力が抜けていく。そのまま椅子に座ろうとして、しかし椅子を倒したままだということを失念していた彼女は体勢を崩し尻餅をついた。
「痛っ……」
(大丈夫か?)
男の声は幾分刺々しさが抜け柔らかいものになっていた。琴宮はよろよろと体を起こすと、冷たい石の床に直に座る。椅子を直す気力も、それに座りなおす気力も、今はどうにも湧いてこない。視線が力なく床に落ちる。
(……悪かった。期待を持たせるような言い方をした。そんなつもりじゃなかった、と言いたい所だが、わざとだった。すまない)
『いや……』
言葉が音にならず喉の奥につっかえる。
(ああ、どうもいけないな。こんな塔の奥に引っ込んでると、自分でも嫌になるくらい性格が歪んでくる)
シドはがしがしと頭をかきむしった。荒っぽいその動きのせいで髪を結んでいた紐が床に落ちる。
(あんた、帰りたいのか? まあ、そりゃそうだよな。訳も分かんねえまま知らない世界に連れてこられていきなり魔王ですなんて言われて、おとなしく「はいそうですか」なんて言える奴あそうそういねえよな)
ばつの悪そうな表情で一気にそこまで言ってしまうと、シドは煙管を置いて立ち上がる。その拍子に机の上の書類の山が雪崩を起こしたが、それを気にする様子もなく彼は続けた。
(いいか、ユーキ。帰れる方法があるとすれば、それを知る方法は一つだ)
周りには誰もいないのに、その声は内緒話をする時のように密やかだ。
ふたたび込み上げてくる期待という名の光を必死で押さえ込んで、琴宮は顔を上げる。簡単に希望を抱けば、そのぶん失望の痛手は大きい。第一、目の前の男を信用していいのかも、まだ分からない。
(お前、おとなしく「魔王」をやってろ。異なる世界のあいだを行き来できる力なんて、そうはない。あの十二領主の筆頭マルキダエルでさえも無理なんだ。自然とそんな力の持ち主は限られてくる。魔王か、勇者か……あとはアーリア神殿くらいのものだ)
琴宮の漆黒の瞳が、見下ろしてくる灰色の瞳とかち合った。灰白(色の向こうの真意を探ろうとしたが、男の感情は簡単に読みとることを許さない。
(おとなしく魔王をやってれば、そのうち方法を知る機会もあるだろ。……魔王の力でもっても帰れないんなら、あとはもう誰にもどうすることもできん。天上人サマに縋る以外にはな)
「テンジョウビト?」
(文字通り、天の上の人のことさ。いや、迷信だけどな人間たちの。この世の理は全部その天上人が決めてるそうだ)
言いながら、シドは倒れた椅子を元に戻す。その椅子の背にもたれながら続ける。
(まあ天上人は単なる迷信だ。とにかく腹の内はどうであれ、おまえが今できることは、「魔王」であり続けることだけだ。セフィリヤの野郎の言うことをよく聞いてな)
「なんで……」
なぜ、男がここまで親身にものを言うのか琴宮には判じかねた。なぜ、「魔王」をここまで突き放しているのか分からない。人間のように見えるが彼も魔族の一員で魔王の仲間の一人であろうに、セフィリヤに聞かせたら激怒されそうなことを平気で言う。
つまり彼は琴宮に、自らの目的のために「魔王」という地位と力を利用しろ、と言っているのだ。
琴宮の不信な表情に気づいたのか、シドは小さく笑って窓の外へ視線を転じた。
(俺は、「魔王」にも「勇者」にも興味はない。どちらが勝とうが構わない。この世界の行く末なんか、知ったこっちゃないんだ)
吐き捨てるように言いながら、机の上の煙管を手に取る。葉を詰めなおして火をつける。一拍おいて、タバコとは違うほのかに良い香りが鼻腔をくすぐった。
(……俺は、生粋の魔族じゃない。魔族と人間のハーフだ。もともと人間の村に住んでたが、この力……予言の力が発覚して強制的に魔族の村へ追いやられ、今じゃこんな塔に押し込められてる)
明かり取りから差し込む一筋の光が、空気中の埃を浮き彫りにしてゆく。
(どうなろうが構わないんだよ。おまえが、元の世界へ帰ろうが帰れまいが、そんなことは興味ない。セフィリヤと違ってな。だからこんな無責任なことが言える)
だが、少なくとも彼は琴宮にとって中立の存在には違いなかった。
味方ではないが、敵でもない。
「魔王」の味方ばかりのこの場所では、彼のような存在は貴重かもしれない。琴宮が何か言おうと口を開きかけたのを、シドの言葉がさえぎった。
(気をつけろよ? ここは決して、おまえの生きやすい場所じゃあない。誰も彼もが、みんな自分の思惑のために動いてるとこだ。ぼやぼやしてると、利用されるだけ利用されて捨てられる。それは、「魔王」も一緒だ)
「それは――……」
『何をしている。貴様、ユーキ様になにを言った!』
鋭い言葉にふり返れば、開け放しの戸口にセフィリヤが立っていた。その表情は、今まで見たどの表情よりも感情が滲み出ていた。
シドはそんなセフィリヤの怒りにも顔色一つ変えなかった。人を小ばかにした笑顔を浮かべ、煙を燻(らせている。
セフィリヤの眉間に、また一つしわが増える。
『べつに、なにも? 誰かさんが口下手だから、この世界のことをいろいろ聞かれて困ってたところだ』
何を言っているか正直よく分からなかったが、確かめるようなセフィリヤの視線を受けて、琴宮はうんうんと何度か頷いて肯定した。それで彼が満足するとは思えなかったが、そうするより他に方法もなかった。
セフィリヤの黒茶の髪からのぞく藤紫の瞳には、まだ納得いかない感情が見え隠れしていた。しかしやがて諦めたのか、細く息を吐いて琴宮に手を差し出す。
『帰りますよ。こんなところに長居は無用です』
「え、あの……なんて?」
そこでやっと自分が念話を使っていないことに気づいたのか、彼はハッとした様子で言葉を呑み込む。
(さあ、もう帰りましょう。言霊の訓練の時間です)
差し出された手を取ろうとした手が宙で止まる。一度予言者の男に一瞥をくれてから、少女はセフィリヤの横をすり抜けて部屋を後にした。今、彼の手を取る気にはなれない。
背後でセフィリヤが、何事か低く怒鳴る声が聞こえた。
『……はいはい、黙りますよ。出来損ないの予言者はね』
シドが軽い調子で答える。
どうやら犬猿の仲であるらしい。生真面目そうなセフィリヤと、いい加減なシドでは、なるほど確かに折り合いが悪い。髪形一つ例に挙げても二人の性格は対照的だ。セフィリヤは黒茶の短い髪。いつも適度に整えられていて、寝癖などは見たこともない。
対してシドは黒い長髪に赤いメッシュ。ぼさぼさの髪を無造作に一本で束ねているだけで、それが解けても特に気にした様子はない。
背後で繰り広げられる小さな攻防を全部無視して、琴宮は螺旋階段を足早に下ってゆく。
シドに言われた数々の言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
Ж Ж Ж
(頭にイメージして……一番簡単なのは、手の平に神経を集中させることです。内から外へ放出される力をイメージするのです)
言いながらセフィリヤは、傍に生えていた一本の木に炎の矢を浴びせてみせる。非難する気も起きないほど一瞬で、あまりに呆気なく木は黒ずみと化した。
(体の中にある魔力を具現化させるのです。慣れてくれば、今のように言葉など使わずとも魔力を放つことが可能です。ですが最初は言霊を使いましょう)
「ディザンテ」、と短い低い声が飛ぶ。次の瞬間、白い光の槍が木を貫通した。
(今のように言霊で魔力を導いてやるのです)
セフィリヤの淡々とした声が、琴宮の頭にダイレクトに伝わってくる。最近では突然声が聞こえてきてもさして動揺しなくなった。だが、相変わらず会話は不便だ。
アスモデルのように念話で会話ができれば良いのにと思ったが、セフィリヤはどうしてもこの世界の言葉を覚えさせたいらしい。まあ琴宮にしてみれば方法はどうであれ意思の疎通ができるようになることが大事だった。念話か言葉か、どちらがより早く習得できるかの違いだけだ。
そして今のところ、望みがあるのは後者だけだった。
(ユーキ様、集中なさってください。でなければ一向に――)
『……分かってる、けど……』
琴宮はかざした右手を睨みつける。
今、二人はイブリースの館の裏手に位置する広大な庭で向かい合っていた。庭とは名ばかりの、端っこに木々が生い茂った広い空き地だ。薄い靄が立ち込めていて肌寒い。
「言霊の訓練」と称された一、二時間程度の時間枠が、ちょうど今日から琴宮に課されることになっていた。魔王の力を実際に使う訓練だとだけ聞かされていたが、琴宮はいまだに自分の中にあると言われている力を認識できずにいる。
ゆるく波打ちながら腰まで流れる黒髪、伸びた爪。それ以外に自分に起きた変化が分からない。
「最初からうまく行くはずないじゃない」
ぼそりと日本語で呟いて、琴宮はセフィリヤを盗み見る。澄んだ紫紺の瞳。そこに、感情の波は滅多に見られない。だから先ほどのシドとの応酬が琴宮の脳裏に焼きついて離れない。
本当の彼が琴宮には分からない。
往々にしてセフィリヤは冷静だ。感情に揺らぎが見れたのは最初に出会ったときと、即位式に欠席者がいると告げたとき、それからついさっき予言者の塔で。
冷たそうな印象に反して、熱しやすいという気もする。
「魔王」のためなら琴宮に嘘もつく。その一方でアドナキエルという十二領主の一人にまとわり付かれて、アスモデル曰く「途方にくれる」ということもあるらしい。
信用していいのかは謎なところだ。
距離を置いて付き合わないと痛い目を見そうだった。
そしてだからこそ、魔王の力とやらを発現させる兆しもない琴宮を、内心どう思っているのか非常に気になった。疎んでいるかもしれない。仮にそうだとしても、セフィリヤは嫌な顔など「魔王」の前では絶対しないに違いない。
琴宮は焦る気持ちを落ち着けて、もう一度右手をかざした。
内から外へ、流れ出る力を想像する。
「貫け」
囁くような声が漏れる。もともと、話すことは大の苦手だ。言霊なんて苦痛以外の何者でもない。
セフィリヤと同じく、木を矢が貫くところを想像してみたのだが、そよ風程度の変化も起こらない。流れる空気が身に痛い。自分がひどく馬鹿みたいだ。
(続けてください、ユーキ様。こればかりは、慣れていただくしかありません。先代の魔王も、使いこなすまでにはかなりの訓練が必要でした)
『は、はい……』
コツを教えてくれるわけでも、ふたたび見本を見せてくれるわけでもないのなら、もうこの男にはどこかへ行っていて欲しかった。ただジッと見られているのは品定めされているようで居心地が悪い。
「貫け」
琴宮はもう一度唱えてみる。
内から外へ。内から外へ。
やはり何も起こらない。一陣の風も起こせないようなら、魔王の力などあっても所詮は無駄というものだ。
琴宮はゆるゆると手を下ろす。が、セフィリヤの視線を背中に感じて慌てて逆の手を持ち上げる。手が疲れたから交換しただけ、という苦しい言い訳を考えた。
実に二時間同じことを繰り返したが、琴宮には力の片鱗さえも見られなかった。
Ж Ж Ж
「…………疲れた」
琴宮はぺたりと草の上に腰を下ろして一人ごちた。
水気を含んだ地面がヒヤリと冷たい。服も濡れるだろうが、少女は気にせずそのまま寝転がる。
「やっぱり、勘違いなんじゃないの……?」
セフィリヤの姿はもうない。彼は先に館へ帰らせた。
少し、一人になりたかった。
セフィリヤの前では決して言えない、いやこの世界の誰にも聞かせられない呟きを琴宮は吐き出す。もっと前から、セフィリヤに自分が魔王だと告げられた時から抱いていた反問が宙に寂しく漂った。
「力なんて……なんにも感じないもん」
寝転がったまま右手を高く空にかざす。分厚い霧に阻まれた空は乳白色のその一色。だが直接見るにはやはり眩しくて、琴宮は両の目を細めた。
セフィリヤが見せたような、あんな摩訶不思議な現象が自分にも起こせるとは到底思えない。それとも、この弱気が原因なのだろうか。
彼はなにも具体的な助言はしない。琴宮を安心させるようなことも言わない。だから今の状態が普通なのかどうかも琴宮には判じかねた。
過去に選ばれた魔王も、琴宮と同じで最初はみんなこの状態だったと、そう一言教えてくれさえすれば……。それだけで自分は安心できるというのに、あの男はそんなことも分からないのか。
「それか本当に出来損ないか、だよね」
出来損ない、という単語であの予言者の男を思い出す。不真面目そうな印象の男。
セフィリヤは嫌がるだろうが、彼には内緒で今度会いに行こう。行って、もっと詳しくこの世界のことを教えてもらおう。シドを信じているわけではないが、必要な情報を脚色なく引き出すには彼が一番最適に思えた。純粋な魔族ではなく人間とのハーフという点も、なんとなく琴宮を安心させる。
「セフィリヤさんは口数少ないし、アルはいまいち信用できないし……」
琴宮の脳裏に一人の少年が浮かび上がる。
気弱そうな、どこからどう見ても年下の少年としか思えないバルキエル。
彼なら信用できるかもしれない。
(休憩、ですか?)
「……えっ!?」
突然の声に少女は半身を浮かす。漆黒の瞳が、バルキエルの姿を捉えて瞬いた。
あと三歩の距離を残して少年は立ち止まると、一度困ったように辺りを見回して草の上に腰を下ろす。
琴宮は視線をそらして立てた膝に顔をうずめた。
『どうも、出来損ない、のようだ』
シドの言葉を思い出す。「出来損ない」なんてあまり使いたくない単語を覚えてしまった。
視界の端でバルキエルがわずかに身じろいだのを感じる。
(実は……僕も)
力なく笑うように紡がれた言葉に、琴宮は思わずふり返って少年の姿を確認した。目が合うと、困ったように彼は笑う。
(戦わなくても、生きていければ……どんなに良いか)
その言葉は、独り言のようなか細さで放たれる。
琴宮は思わず頷きかけて、ふと気づく。
ああ、自分はずっとそんな世界に生きてきたのだ。
何ものとも戦わずに、自分は今の今まで生きてきた。ただ安穏と。明確な目的もなく、足元の道も見ず、時の過ぎ去るがままに生きてきた。そうして生きてくることを許されていた。
今の自分には敵がいる。
「勇者」という訳の分からない姿も見えない敵がいる。
戦う、という言葉の意味が、琴宮結城にはまだこのとき理解できてはいなかった。