ACT.26 「樹静かならんと欲すれども風やまず(3)」

  


 短時間で準備したわりには、落とし穴は良い出来だった。
 穴は直径にしてゆうに二十歩というところだ。町の人間たちが総出で作っただけのことはある。が、深さはさほど無かった。代わりに、魔犬たちが穴にはまりこんだら上から燃えた廃材を一斉に投げこむ手はずになっていた。穴の底には油を浸した布が敷きつめられている。
 穴の上に渡した腐りかけの木材は、飛び乗れば脆く崩れてしまうだろう。この木材にも、たっぷり油を染みこませてある。
 そして、外からすぐには分からないよう上にわらと土をかけた。
 だがしかし、どんなにそうやって装ったところで、生じた不自然さは隠しようがなかった。
 魔犬たちが冷静な状態ならば決して引っかかるはずがない。油の匂いも、異様な地面の盛り上がりも、野生の動物ならば容易に気づいて罠には近づきもしないだろう。
 だから佐伯はもう一つ策を練った。

 さきほどから、耳を塞ぎたくなるほどの哀れな泣き声が辺りに響いていた。

 穴に渡した板切れの上に、一匹の黒い犬が括りつけられていた。
 その犬は濡れたぼろ雑巾のような姿をしていて、もはや尻尾を動かす力もないようだった。犬は代わりに、細く長く鳴きつづけている。
 鳴き声はあまりに哀れで同情を誘い、その犬をおとりに使うことを発案した佐伯自身でさえ、今にも「やっぱり助けてやろう」と口に出してしまいそうだった。
 喉元からこみ上げてくるその思いを、必死にふりきろうとした。
 周りに集まった町の人間は、エマーソンやオラシオ、レオンやロイドやエリシアも含めて、誰一人としてこの哀れな獣に同情心は抱いていないようだった。
 この哀しい力ない遠吠えが、耳に入っているのか疑わしいほどに。

 魔犬をこの見え透いた罠にはめるには、彼らの冷静な判断力を奪うしか方法はなかった。
 だから佐伯は彼らの仲間をおとりにすることを提案した。
 魔犬の知能が少なくとも普通の犬以上にあって、なおかつ同胞意識があるのならば、この悲惨な状態にある仲間を見て冷静でいられるはずがないだろうと考えたのだ。たしかに佐伯はそう考えた。だが、今、傷ついた魔犬のか細い遠吠えを改めて聞いてしまうと決意は揺らいだ。
 本当にこれが正しい勇者の姿なのか、疑問だった。
 この行為を咎めない周囲の人間も、疑問だった。
『間違ってない。俺は間違ってない』
 くり返し自分に言い聞かせる。
『しょうがないんだ。だってこのままじゃ町の人が殺されるんだ。しかたない。大丈夫だ。俺は勇者だ。助けなくちゃいけないんだ。魔族から、人間を』
 許されるのか。どこかでもう一人の自分が問いかけてくる。
 もちろんだ。佐伯は答える。
『だって――』
 言い訳は半ばで途切れた。
 誰かが山を指差して叫んでいた。
 周囲の視線が一斉にそこへ集まる。木々のあいだから雪崩れるように魔犬たちが飛び出してきていた。
 佐伯は思わず二、三歩後退した。その背に、レオンの肩が当たる。振り返ると彼も同じように青い顔をしていた。
「想定より、数が少ないようです。罠に気づかれたかもしれません」
 エマーソンがかすれた声で呟く。
 町の人間たちは青ざめてはいたが、にも増して興奮に目を血走らせていた。鬼気迫る異様な熱気が辺りを包み込んでいた。
 魔犬たちはあっという間に山を駆け下りる。山の中腹の木が根こそぎ刈られているせいで、彼らの駆ける姿はよく見えた。一瞬家々の陰に隠れたと思ったら次の瞬間には広場に姿を現していた。
 佐伯が後退するのとは逆に、町の人間たちは廃材を手に穴の周りから一歩も引かなかった。
 おとりにされた犬の鳴き声が一層大きく響く。
 瞬きするのさえ忘れずに佐伯は目の前の光景をただ見ていた。
 最初の魔犬が目の前の人間目がけて跳躍したのと、穴に渡していた板切れが音を立てて崩れたのはほとんど同時だった。
 黒い群れが視界から消え失せる。
 廃材と松明が一斉に投げ入れられる。
 一気に燃え上がった炎に、獣の咆哮と人間の歓声が交じった。
 風にあおられて熱風が佐伯の頬に当たる。じりじりと焼けるような頬の痛みよりも、激しい動悸に見舞われた心臓が痛い。
 苦しみと憎しみに満ちた獣の叫びがこだましている。
 狂喜している町の人間たちの歓声が耳に痛い。
『なんだよ……』
 こんなはずではなかった。
 こんなつもりではなかった。
 では、どういうつもりだったのかと聞かれれば答えられない。
 魔犬が死に、住民が助かる。それが望んだ結末だった。勇者として、佐伯が望んだ結末だった。
 だけれど、こんな光景が見たかったわけじゃない。
 生きものの焼ける臭いが辺りに立ちこめている。息ができない。
 吐きそうになった佐伯の肩に、白い手がそっと置かれた。顔を上げるとそこにエリシアが立っていた。
「当然の報いです。奴らが受けるべき当然の報い。……勇者様、あなたは何一つ間違ってはいない」
「エリシア……」
 彼女の灰色の瞳にははっきり憎悪が揺れていた。
 目の前の光景は彼女に迷いなど与えてはいなかった。
 エリシアの言葉が佐伯の思考を支配していく。彼女の憎悪に身をゆだねれば、少なくとも今この時の苦しみからは逃れられるだろう。
 ――奴らが受けるべき当然の報い。
 むせ返るような異臭のなかで、佐伯しのぐは自らで考えることを放棄した。



Ж Ж Ж



 目は開けていられなかった。
 顔を叩きつける風がそれを許してはくれなかった。
 琴宮はなんとか薄目で周囲の状況を確認しようとしたが、両側に生い茂る緑の葉っぱが見えただけで、一番見たい姿はどこにもなかった。
 群れに追いつくことはできそうなのか。そうハリエルに問いたかったが、開きかけた口にたちまち空気が入りこんで慌ててきつく唇を閉じる。
 黒い毛皮は予想外に柔らかくて、うずめた琴宮の頬を優しくくすぐった。焦る心をなんとか落ち着けようと顔を押し付けたまま深く息を吐く。
(遅かったな……)
「え?」
 脳に直接響いてきた声に、琴宮は顔を上げた。
 無理やりこじ開けた目には相変わらず森の木々だけ映っていて、せり出した枝や葉のせいで空さえもろくに見えない。
「なにが……」
 答えは要らなかった。
 すぐに視界が開けたからだ。森の終わり、町がすぐそこに迫ったところでハリエルは足を止めた。
 視界は開けたはずだった。だが、目の前は真っ白だった。
『煙……嘘だ。嘘だ……そんな』
 鼻をつく異臭に思わず顔をしかめた。口で息をしながら周囲を見回す。琴宮はハリエルの背から下りると、山を背にして建っている家に近づいた。辺りには嫌な臭いのする煙が立ち込めていて、不安と焦燥がしだいに我慢しきれないほど募っていく。
 後ろをついてくるハリエルは無言で、琴宮が進むのを止めようとはしなかった。家の陰から顔だけ出して周囲を確認すると、琴宮は町のなかへどんどん進んでいった。姿を隠してくれる白い煙と、なにも言わずついて来てくれるハリエルの存在が、先へ進む勇気を彼女に与えていた。
 ためらいがちに、だがしっかりと歩を進めていた琴宮が、不意に足を止める。
 異臭の正体に気づいてしまった。
 生きものの焼ける臭いだ。
 生きているものがそのまま焼けるときの臭いを嗅いだことなどないのに、どうして自分はそれだと分かるのだろう。だが、はっきり分かってしまう。
 琴宮は傍の壁に手をついて吐いた。
 吐くものが何もなくなってもまだ嘔吐感がおさまらない。
 涙で滲んだ目に、煙が沁みる。
 さっきまで、生きて、目の前にいた。それなのに、止められなかった。
『戻ら……なくちゃ』
「どうした?」
「戻る。……残った、仲間、止める」
 バルキエルが足止めしてくれている。その残りの黒妖犬がこの光景を見たら怒り狂うだろう。そうしたら誰も彼らを止めることなどできない。
「戻る。止める」
 琴宮は振り返ってハリエルの体に手をついた。今すぐ座りこんでしまいたいけれど、まだ立ち止まるわけにはいかなかった。
 燃え上がる炎を取り囲んで喜んでいる背後の人間たちと同じにはなりたくなかった。
「……乗れ」
 しばらくの沈黙ののちにハリエルは簡潔に呟く。
 ふらふらしながら重い体をハリエルの背に持ち上げながら、琴宮はふと、別段意識せず山を見上げた。そして凍りつく。
 足止めしたはずの黒妖犬の群れが、禿げた山の中腹を駆け下りているところだった。
「そんな……バルキエル」
「……行くぞ」
 ハリエルも気づいていた。琴宮を背に押し上げて群れへ向かって駆け出す。
「ハリエル、魔術……魔術で、止めて」
 琴宮の訴えにハリエルは「駄目だ」と一言だけ答えた。有無を言わさぬ答えに「なぜ」と問い返すことができなくなる。バルキエルが使った手段を、どうして彼より強いはずのアスモデルやハリエルが使ってくれないのか琴宮は聞きたかった。力ずくで止めてくれれば、あとは説得でもなんでもできると思うのに、アスモデルに至っては積極的に動いてくれる気配さえない。
 黒妖犬が死んでもいいのだろうか。同胞のはずなのに。同じ魔族のはずなのに。
「止まって! 止まって! お願い、止まって!!」
 群れに向かって叫ぶ。
 このまま行けば山のふもと、群れが町に入るより早く追いつけるだろう。
「止まって…………止まれ! 止まれ!!」
 あと一歩の距離まで迫ったところで、ハリエルは群れの眼前に飛び出した。
 ――ぶつかる。
 琴宮はぎゅっと目をつむったが、覚悟した衝撃はいつまでたってもおとずれない。
 それもそのはずだった。今となっては障害物でしかないハリエルと琴宮を、怒れる黒妖犬たちは身軽に飛び越して先へと進んでいったのだ。
 ハリエルはこうなることを承知していたかのように静かで、頭上をまたがれているのをとくに咎めようとはしていなかった。琴宮だけが、ただ一人、どうしていいか分からず焦っていた。
『止まってよ! なんで……話を聞いてよ! 行ってどうするの! まだ罠があるかも知れないんだよ! これ以上人を殺してどうするの!! ほかの仲間と一緒に新しい土地で幸せに暮らしたらいいじゃない!!』
 黒妖犬がすべからく琴宮の言葉を無視していくなかで、一匹だけ、立ち止まった者がいた。

「盟主様、もう無駄なことです」

 女の声で、その黒妖犬は毅然と告げた。
「もうお止めください。涙など、盟主様には似合いませぬ。仲間はもう誰もあなたの言葉など聞いてはいません。それは盟主様を侮ってのことではないということは、きっとお分かりくださいますよう。ただ、あまりの怒りと憎しみに心を占められているだけなのです」
 琴宮とその黒妖犬が見つめ合っている横を、群れは通り過ぎていく。まるで川の中の石みたいだ。川は石に気づかずそのまま流れていく。やがてその場に取り残されたのは琴宮とハリエル、そして一匹の妖犬だけになった。
 背後の町から叫び声や咆哮が聞こえてきた気がしたが、琴宮はその場から一歩も動けなかった。
「このまま、無残に殺された仲間を見捨てることはできません。さきほどから、ずっと『来るな』と仲間が鳴きつづけていました。前の襲撃で人間に生け捕りにされた仲間でした。その声はもう途切れています。先に助けに向かった仲間たちの声ももう聞こえません。……我らは終わりです。ですが、我らを侮った人間どもに一矢報いてやらねば……。盟主様、もし本当に我らを助けてくださるというのなら」
 そう言って彼女は後ろを振り返りなにかをくわえて引きずり出した。琴宮の前に押し出されたのは小さな、黒い、一匹の妖犬だった。
「この子を、託してもよろしいか」
「…………え?」
「わたしはこの子を、新天地に向かうといって別れた群れに置いてきたつもりだったのです。ですが、どうやらついて来てしまったようですね」
 妖犬は言いながら、足元の子犬を一度舐めた。
「この子を仲間の下へ」
「あなた、一緒に……」
「わたしは行けません」
 言うなり、その黒妖犬は大きく跳躍した。助走もつけずに近くの家の屋根の上に飛び乗ると、一瞬振り返って頭を下げたように見えた。だが琴宮が引き止めるより早く向こう側へ飛び降りると、そのまま白い煙の中へ姿を消した。

 走り回って、叫んで、うろうろして、迷って迷って迷って、結局手元に残ったのはたった一匹の小さな妖犬だけだった。
 ほかの全ては背後の喧騒のなかに飲み込まれてしまった。
 琴宮は歩いていって小さな妖犬を抱き上げる。妖犬は警戒するように暴れたが、琴宮が撫でてやるとしだいに大人しくなっていった。
「戻ったほうがいい。その仲間の群れは、今から追えばすぐ追いつけるだろう」
「…………わたし、行かない」
「……お前は、十分よくやった。これ以上は無理だ」
「わたし、この子の母親、連れ戻す」
「ユーキ、無理だ」
「嫌だ」
「……あの者は全て覚悟して行ったんだ。連れ戻すのがあの者の為になるとは」
「知らない! だって、この子、母親必要!!」
 琴宮は妖犬を抱えたまま走り出した。
 背後からハリエルの制止の声が聞こえた。
 それを無視して、琴宮結城は煙の中へ飛び込んだ。探す当てなど、当然どこにもなかった。



Ж Ж Ж



 人々の狂喜の歓声は長くは続かなかった。
 思っていたより罠に掛かった魔犬の数が少ない。そのことを、もっとよく考えていたら、最悪の事態は避けられたかもしれない。だが、今となっては全てが遅すぎた。
 どこに隠れていたのか、まだ残っていた魔犬たちが煙の中から突然現れると、穴の周りに集まっていた人間たちに食らいついた。
 運よく鋭い牙から逃れた人たちは、足元さえ見えない白煙をかき分け逃げようと試みた。ある者は隣の人にぶつかり、ある者は小石につまづいた。そして最悪だったのは、何人かが自分たちの掘った炎燃え盛る穴に足を滑らせ落ちたことだった。
 混迷する状況下で、佐伯はまったく動けずにいた。その目には涙が溜まっていたが、決して悲しくて流した涙ではなく、煙が目に沁みたせいで流れる生理的な涙だった。
 目の前の惨状は、今の佐伯には受け止めることなど到底できやしなかった。
 叫び出しそうになる自分の心をどうにか守るには、彼は心を閉じるしかなかったのだ。
 エマーソンとオラシオは神殿の教えに忠実に従い、武器はなにも持っていなかったが、佐伯を守るため彼の前に立ちはだかった。
 直後、ぶ厚い煙を突き破って一匹の黒い大きな魔犬が彼らの目の前に躍り出た。
 犬はためらうことなく地面を蹴ってオラシオに飛びかかる。が、その牙がオラシオの首に食い込むより先に、横から振り下ろされた剣が魔犬の胴体を切り離した。
「ぼさっとしてると死ぬぞ!」
 ロイドは今しがた魔犬を切り裂いた剣を一振りする。飛んできた血が佐伯の頬に当たった。
「シノグ、レオン、剣を抜け! 死にたいのか!」
 鋭い声に一喝されて、反射的に腰の剣を抜き放つ。柄を握る両手が小刻みに震えた。
 隣でレオンも同様に剣を抜いたが、彼もどうしていいか分からぬようでロイドを見返す。
「とにかく自分の身は自分で守れ。……そこの神官三人! お前らは武器を持つ気がねえんならさっさと町の人間を避難させろ! 治癒術師の嬢ちゃんはあんたにしかできないことがあるだろうが!!」
 言われてエマーソン、オラシオ、エリシアの三人は駆け出した。エマーソンは一度佐伯を振り返ったが、ロイドに目線で指示されてふたたび走り出す。三人の黒い服はすぐに煙塵のなかに紛れて見えなくなった。
 すぐそこにいるはずのレオンの姿もおぼろげだ。握った剣の切っ先も見えない。
 そのなかで、思い出したように吹いた突風が一瞬だけ視界を切り開いた。
 佐伯の視線の先に、あの少年がいた。魔犬をやっつけて、と佐伯を見上げてきたあの少年だ。

 ――ねえ、勇者様って……強いんだよね?
 ――あいつらを、やっつけてよ。

 その願いに、あのとき佐伯は答えることができなかった。
 だから、今、佐伯の視界の先で魔犬に襲われている少年を見捨てることはできなかった。
 駆け出した佐伯をロイドが呼び止める声がした。それをふり切って佐伯は駆ける。ふたたび視界を遮った煙を突き破って進んでいって、白煙に映った黒い影に斬りかかった。
 手ごたえはあった。
 たしかに、肉を切り裂いたという感触があった。
 飛び散った生ぬるい血が佐伯の手を濡らす。
 その感触に吐き気をもよおした彼の左腕に、次の瞬間、声も出ないほどの激痛が走った。
 思わず取り落とした剣が地面で跳ね上がる。
「…………っ」
 左腕に食いついた犬を力任せに蹴った。
 腕から犬が離れるときに、肉がわずかに引き千切られる。焼け付くような痛みが全身を駆け巡る。
 次の行動は無意識だった。
 取り落とした剣をなんとか拾い上げると、まだ息のある魔犬の体につき立てた。頼むから起き上がってこないでくれと、懇願するように剣を振り下ろす。
 気づいたら意味もなく叫んでいた。自分の叫ぶ声でほかの音が何も聞こえない。
 すぐ後ろに助けた少年が立っているのが分かったが、佐伯は剣を手放すことができなかった。
 左腕が熱い。痛い。
 ようやく魔犬の息が絶えたことを確認した佐伯はその場にずるりと座り込んだ。右手で抱き込むように左手を押さえたが血が止まらない。意識が朦朧とする。服がどす黒く染まっていく。
『もうやだ。もうやだ。痛い痛い痛い痛い。……ちくしょう』
 口からこぼれた悪態に、なにかか細い鳴き声が交じった。
 犬の声だと認識した瞬間、佐伯は痛みも忘れて立ち上がった。が、その声の主は止めをさした魔犬ではなく、まして新たに現れた魔犬でもなく、小さな、実に小さな頼りない子犬だった。
 黒い子犬は佐伯が殺した魔犬にすり寄ると、か細く鳴きながら匂いを嗅ぐ。そのまま、血に濡れた黒い体を舐め始めた。
 憐れを誘う鳴き声を上げながら必死に死んだ魔犬を舐め続ける子犬を見て、佐伯はしばらく呆然としていた。なにも考えられなかった。考えたくはなかった。
 剣が突き立ったままの黒い体がふたたび立ち上がることはないだろう。完全に死んでしまっている魔犬から、子犬は離れようとはしなかった。
『やめてくれ……』
 声がかすれる。
『やめろよ。もう、……死んでるんだよ』
 突っ立ったままの佐伯の横を、じっと黙っていた少年が歩き出した。すたすたと死んだ魔犬のところまで行くと、おもむろに佐伯の剣を引っ張る。その拍子に死体がぐらりとゆり動いた。
「なに、してる?」
 佐伯の問いかけに少年は答えない。力ずくで剣を引き抜くと、重さをたしかめるように両手で一回振った。
「なに、してるんだよ?」
 少年は無言だった。その顔にも表情がない。佐伯のほうを見ようともせず、剣を握りしめたまま子犬の傍に立ち、そして、剣を振り上げた。
「なっ、なにしてるんだ!?」
 切っ先が子犬の胴体を完全に切り離す直前に、佐伯は少年を突き飛ばした。
 剣が幼い手からこぼれて地面に落ちる。
「なにしてるんだよ。お前……」
 佐伯を押しのけるように起き上がった少年の顔に浮かんでいたのは、憎悪だった。はっきりとした、憎悪だった。

「なにって、殺すんだよ。その子犬を」

 少年は言って、血を流し倒れた子犬を指差した。辛うじて息はあったが、流れた血の量から考えて死ぬのは時間の問題だった。
「こいつが大きくなったら、……家族を殺した人間を憎むよ。勇者様だけじゃなくて、ほかの人間も憎むよ。おれだって、憎んだもの。また人が殺される。だから、今、殺すんだ。殺される前に殺すんだ」
 淀みなく告げられた言葉に、佐伯はなにも答えることができなかった。
 少年がふたたび剣を拾い上げるのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。
 少年は、今度こそ邪魔が入らないのを一度確認してから、ゆっくり、子犬の頭上に剣を振り上げた。



Ж Ж Ж



 あれだけきつく抱いていたと思ったのに、子犬は琴宮の腕から暴れて飛び出してしまった。
 大人しかった子犬はなにか匂いを嗅いでいると思ったら急に暴れ出したのだ。琴宮は煙の中に消えてしまった子犬を探して歩き回っていた。
 あたりには異臭が立ち込めていた。それでも鼻をつまむのはなにか誰かに対する冒涜のような気がしてできなかった。
 焦る琴宮の願いを聞き届けるように、突然の強風が、彼女の行く手を阻む煙を打ち流した。
 垣間見えた光景に、琴宮は息を呑む。

「なにって、殺すんだよ。その子犬を」

 少年の声が耳朶を打った。
 ふたたび煙に閉ざされた空間を、琴宮はかき分けながら駆け出した。
「こいつが大きくなったら、……家族を殺した人間を憎むよ。勇者様だけじゃなくて、ほかの人間も憎むよ。おれだって、憎んだもの。また人が殺される。だから、今、殺すんだ。殺される前に殺すんだ」
 血を吐くような苦しい幼い声が聞こえる。
 心臓を締めつけられるような痛みに襲われながら琴宮は急いだ。止めなくては、と、ただそれだけ思った。
 煙の中で、なにかが光った気がした。それが剣だと分かるほどに近づいた琴宮は、足元に探していた小さな子犬の鳴き声を聞いて立ち止まった。

『やめて!!』

 叫びながら剣の前に飛び出した。
 しかし身構えた体に、衝撃はおとずれなかった。
 なにかが、琴宮の体のなかで爆発したような気がした。魔王の力、魔族の盟主の力が、琴宮の体のなかで一瞬だけ力を解き放った気がした。
 剣がその力に呼応して、柄を握った少年ごと弾き飛ばされる。
 考える暇はなかった。
 琴宮は足元の子犬を抱き上げるとその場から一歩後ずさった。なにかに呼応した力が辺りの煙を刹那、吹き飛ばす。少年の向こうにもう一人誰か人影が見えたが、琴宮はそれよりも足元に横たわっていた魔犬に意識を奪われた。
 探していた、母犬だった。
 もうぴくりとも動かないところを見ると、どう考えても死んでいるのだろう。そして今、彼女が助けてくれと頼んだ子犬まで死ぬ一歩手前だ。
 急速に冷えていく心から、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
『どっちが……どっちが魔物だ!!』
 吐き捨てるように叫んだ。
 子犬を優しく抱えたまま、琴宮は踵を返して走り出した。
 早く、早く、どうにかしなければこの子犬は死んでしまう。両腕を濡らすまだ温かい血が、この小さな存在から流れ出たのだということが悲しかった。
 背後で、少年の憎悪の叫びが響いている。
 あんなに小さい子供が、剣を持って憎しみに泣き叫んでいる。子犬を殺したいと泣いている。
 腕の中で、子犬の心臓が弱々しく脈打っている。

『お願い、まだ……まだ死なないで……。お願いだから』

 必死に足を動かしながら、琴宮結城は子犬に呼びかけつづけた。



Ж Ж Ж



 ――どっちが魔物だ!!

 突然現れた少女の言葉が佐伯の心にぐさりと剣をつき立てた。
 食い破られた左腕が痛い。
 少年がまだ叫びつづけている。泣きながら、憎しみを叫んでいる。

 佐伯しのぐは気づいていなかった。
 少女が叫んだ言葉が、よく知った自分の世界の言葉だということに。
 混乱した頭の中で、感じた違和感はすでにほかの雑多なものに呑み込まれ思い出すことはできなかった。
 生きものの焼ける臭いが彼の思考を奪っていく。
 人間と獣の血の臭い。むせ返るような濃い臭気。
 佐伯はその場にうずくまると、胃の中のものをすべて吐き出した。吐いても吐いても肝心なものはまだ吐き出せていない気がした。

 目の前で起こった全てのことが夢だったらいい。
 炎も、煙も、臭いも、少年の憎しみも、流れた血も、あの少女の言葉も、目が覚めたら夢のようにおぼろげになって消えてしまえばいい。
 佐伯は地面に突っ伏した。
 そのまま、意識は心地良い闇に落ちていった。






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