王様と絵描き



 「僕には恋人がいる」と、その若い男は言った。
 言ったというより叫んだと形容したほうが正しい表現だったろう。「僕には恋人がいる!」
 「だからどうした」と王は答えた。
 こちらはなんら温度を持たぬ声で。全ての感情を排してしまったかのような冷徹さでもって王は答えた。いや、こちらも正しく言えば、ある一つの感情は少ないながらも含んでいたかも知れない。
 「喜び」、それもとびきり暗く、毒を含んだ、決して人が昼日中の清廉な光の中で感じるような類の「喜び」ではなく、夜の闇の中、狂人が人の血を見て感じるような類の「喜び」だ。
 とにかく、若い男は必死に叫んでいた。この目の前の残酷な王の眠った慈悲を呼び覚ますことを期待して。
「僕には恋人がいる。先月婚約したばっかりの」
 彼の両目から堪え切れなかった大粒の涙が、乾いた灰色の石畳に落ちてぽつぽつと色をつけた。「もうすぐ結婚するんだ。愛しているんだ」
 彼はあまりにも自分のことで頭がいっぱいだった。自分と、婚約したばかりの恋人との、消えかかっている未来を想うのに必死だった。
 だから気がつかなかったのだ。
 普段の彼ならば――相手の心の動きを敏感に感じとれる彼ならば――気づいただろう。自分の痛切な訴えが、目の前の男をかえって喜ばすだけだということに。
 王は至極楽しんでいた。
 先月婚約したばかりで、近いうちに結婚する恋人を心から愛している男の頭を胴体から切り離すのを楽しんでいた。
「僕はあの人に会わなくちゃ。愛しているんだ。どうかお願いです助けてください! 慈悲を、お慈悲を……イシュバンタール王! お願――」
 彼はそれ以上は叫ぶことはしなかった。できなかったのだ。頭が胴体から切り離されてしまったせいで。
 石畳を転がった若い男の目から最後の涙が流れたのを見て、イシュバンタール王は初めて後悔していた。

 ああ、どうしてもっと時間をかけて殺さなかったのだろう、と。


◆◆◆


 王国は目に見えて疲弊していたわけではなかった。
 だが、王都を中心として絵描きという生き物が滅しかかっているというのは事実だった。それというのも、現王のイシュバンタールが絵描きと聞けば城へ招き、自身の肖像画を描かせ、完成したその日のうちに殺してしまうからだった。
 その凶行のおかげで自ら絵描きを名乗る者は今はもうほとんど王都を脱していた。いたとしても公言する者はいなかった。
 それでも執拗に絵描きを求める王のために、臣下の者たちは八方手を尽くしていた。中にはお抱えの絵描きを王のために進呈した者もいた。最初のころは、誰もがこの狂気じみた行為がすぐに終わることを予想していた。しばらくしたら飽きてしまうだろうと。
 だがどうやら王はこの世から絵描きを一掃しようとしているようだった。
「いや、見つかってよかった。本当によかった」
 そういうわけだから、やっとのことで見つけた絵描きに、アーバネント侯爵は無神経に何度も「よかった」とくり返した。先を歩く絵描きはそれにはまったく答えずにただ黙って薄暗い回廊を進みつづけていた。
「いや、本当によかった。まさか自分から名乗り出てくれるとは」
 侯爵はふたたびくり返してから、額を流れた汗をぬぐった。回廊の突き当たりで絵描きは一度振り返って方向を伺い、侯爵は「右です」と思わず敬語で答えていた。一介の絵描きに対して敬語を使うなどおかしなことだったが、実際救われたという気持ちが強い侯爵はそのおかしさには気づかないようだった。
 そうして七度ほど同じことをくり返して絵描きが来た道を思い出せなくなったころ、ようやく目的の部屋に着いて、侯爵は扉の衛兵に来訪を告げた。
 扉は程なくして外側へ開き、絵描きと侯爵はさらに暗くなった室内に招き入れられていった。
「よくもまあこんなに早く見つかったものだな」
 王は開口一番そう言って笑ったが、絵描きの姿を見とめるなり片方の眉を持ち上げ侯爵を睨みつけた。
「俺は絵描きを連れて来いと言ったのだ」
「ですから仰せのとおりに連れてまいりました」
 王はまた少し黙ってから、目線で「出て行け」と侯爵に命じた。初老の男はわずかに逡巡し、心配そうに王と絵描きに視線を走らせてから部屋を出る。
 王と絵描きだけが残された部屋は、静かだった。
「名は」
 王は玉座に肘をついたまま問うた。問うてから、絵描きに自ら名を問うたのはこれが初めてだということに気づいてまた笑った。
「クリスティーヌ・フォンティーナ」
「ふん。大仰な名だ」
 クリスティーヌは反応しなかった。泣くことも、笑うこともしなかった。なに一つ、表情と呼べるものは浮かべなかった。その代わりじっくり観察するような目で王を見上げていた。
 クリスティーヌ・フォンティーナは名前から察せられるとおり女だった。絵描きに女もなれるのだということを王は初めて知った。
 いや、もしかしたら絵描きというのは嘘かもしれない。見つけられなかったアーバネントが適当に女を見つくろってきて、あわよくば王に取り入ろうとしているのかもしれない。その証拠にクリスティーヌは綺麗だった。絵描きとは思えない。むしろ絵描きが好んでモデルにしそうな女だ。
 透きとおるほど白い肌はなめらかで、栗色の髪はゆるやかに波打ちながら首筋を流れ落ちていた。わずかな光に反射して、その栗色の髪はさまざまな色を放っていた。眉は綺麗な稜線を描いて、瞳はきらきらと光っていた。整っているわけではないが、それさえ彼女の美しさに花を添えているようなものだった。が、その顔立ちからはいまや優しさは根こそぎ奪われてしまっていた。
 まあ、構わない。とイシュバンタールは思った。本当に絵描きでも、そうでなくても、どちらにしても絵を描かせて終われば殺すだけだ。筋書きはどうあろうと変わらないのだから、彼女が絵描きでなくても構わない。
「では、さっそく絵を描いてもらおうか。聞いているだろうが、俺は気に入らなかったら容赦なくおまえを斬って殺す。その代わり、絵が気に入れば、おまえは俺の抱えの絵描きにしてやる。未来永劫、おまえの命が尽きるまで、何不自由ない生活を約束しよう。俺の傍で」
 彼女はこれにも答えなかった。イシュバンタールは女の不敬を咎めてやろうと口を開きかけたが、やめた。
 ふてぶてしいクリスティーヌの態度はなかなか面白い。咎めたことによってそれが損なわれるのは惜しいと、一瞬そんな考えがよぎったのだ。咎めることなどいつでもできる。もう反抗的な態度など取る気もなくなるほど痛めつけることなどお手の物だ。
 イシュバンタールは玉座から立ち上がると、クリスティーヌに視線をやった。目だけで「ついてこい」と告げれば、クリスティーヌは黙って足音も立てずについてくる。イシュバンタールは背中に彼女の気配を感じながら、決して気を抜きはしなかった。女の思いつめたような態度は、彼女が懐に絵筆ではなくナイフを隠し持っていてもおかしくないと思わせた。
「ここだ」
 ほどなくして、イシュバンタールはそう言って重たい扉を押し開けた。部屋の中はむせ返るような油っぽい匂いが充満していて、昼下がりの自然光が高窓から床に降り注いでいた。油絵の具の匂いはいくら換気をしても消え去りはしないのだ。イシュバンタールは、だが、この匂いが嫌ではなかった。死んでいった多くの絵描きたちの妄執や怨念が身にまといついてくるようで。
 クリスティーヌは部屋の入り口で足を止め、しばらく中を観察していた。床に散らばった絵筆や絵の具やデッサンの紙切れの一つ一つに視線をとめ、やがて転がっている絵筆のうちの一つをそっと拾い上げると、冷涼な声で、言った。
「ここでは描きたくありません。来るときに中庭を通ってきました。そこで描かせていただきたいと存じます」
 伺いを立てるようでありながら、彼女の言葉には有無を言わさぬものがあった。イシュバンタールは申し出を却下することもできたが、そうはせずに、「いいだろう」と一つ頷いた。
 いい加減この部屋にも飽きてきたところだ。一つ趣向を変えてみてもいいだろうという気になるくらいには。
 クリスティーヌは部屋からイーゼルと粗末な椅子だけを持ち出し脇に抱えると、黙って王より先に歩き出した。か弱そうに見えた女は思ったより力があるようで、軽々とそれらを担いでいる。それに、よく見れば白く透き通った肌も手の辺りが絵の具で汚れていた。傷もついている。
 この女が泣くとしたら、いったいどんな時だろう。
 これだけ澄ました様子の女の精神を打ち砕くのは困難なようで、その実た易い。的確に傷口をえぐれば、案外あっさり崩れてしまう。堅いが、同時に脆い。
 クリスティーヌはやがてさんさんと日の降り注ぐ中庭にイーゼルと椅子を置くと、ふり返って口を開いた。
「わたしの絵画道具をさきほどの方の召使に預けてあります。持ってきていただくようにおっしゃってください」
「俺に命令するな。殺すぞ」
「命令などしていません。お願いしているのです。イシュバンタール王、あなたに」
 たしかに、台詞だけきけばそうに違いない。だが彼女の言葉は命令のような強い響きを含んでいて、とても王にきく口ではない。面白いとは思ったが、生意気な女の行為を見て見ぬふりをしてやるほどイシュバンタールはお人よしではなかった。彼の右足が一歩踏み込んだ次の瞬間、鞘から抜かれた剣身がクリスティーヌののど元に触れていた。
「もう一度だけ忠告しよう。俺に命令するな」
「していません」
 驚くべきことに、クリスティーヌはかすかに後ずさった以外には抵抗と呼べる抵抗は一つもしなかった。相変わらず澄んだ冷たい目で王を真正面から見据え、言葉少なに答えただけだった。答えたときに動いた首筋に剣身がこすれて血が流れた。白い肌を、赤い線が這っていく。
 期待していた怯えが一つも見つからない。今ここで斬って捨てられてもかまわないと思っている目だ。指を一本、斬りおとしたらどうだろう。少しは怯えてみせるだろうか。命乞いをするだろうか。そうしてみたい気もした。
 イシュバンタールが迷っているあいだに、クリスティーヌの首からあふれた血はいっそう服を汚していった。昼の光の中にそれはあまりにも似つかわしくなかった。緑に反射して散らばる光が、クリスティーヌの血を照らし出している。
 イシュバンタールが自分でも予期しなかったことに、彼は気づいたときにはクリスティーヌの首筋に顔を寄せていた。彼女がはっと息を呑む音が聞ききながら、イシュバンタールはあふれた血を舐めとった。かすかな悲鳴が、漏れる、その直後に激しい破裂音が上がった。
 ゆっくりと顔を上げた王はじんじんと痛む頬をたしかめるように一度、撫でた。
 クリスティーヌの挙げた手は宙に縫いとめられたように静止していた。今しがた、王の頬を殴った手だ。
 その手が震えているのはこの失態の罰を恐れてか、もしくは予想だにしないイシュバンタールの行為のせいか。
「殺されたいようだな」
 言いながら、イシュバンタールは自分が笑っているのに気づいていた。じわじわと増してくる頬の痛みに、彼は思わず笑っていた。クリスティーヌの持ち上がったままの手を剣の平でゆっくり下げさせると、彼は踵を返した。
「アーバネントにおまえの道具を持ってこさせよう。俺が戻ってくるまで絵の構図でも考えておけ」
 中庭から回廊の石畳に上がったところで、イシュバンタールは一度ふり返った。
「おまえが望むなら、どんなポーズでもしてやろう。……一糸まとわぬ姿でも」
 クリスティーヌは一瞬虚をつかれたような表情で立ちすくんでいたが、その意味を悟るや否やなにか言おうと口を開けた。
「なっ、なにを……ふざけたことを!」
 不明瞭な叫び声を上げている女を一人中庭に残し、王は侍従を呼びに回廊を進んだ。
 そんなときでも自然に笑みがこぼれ落ちる。彼女がどんな絵を描くのか、それ以上にどんな風にして殺そうか、考えるだけで久しぶりに高揚感を感じていた。


◆◆◆


 小鳥がさえずっていた。
 種類など分からない。だが、きっと小さいのだろうと想像させるさえずりだった。頭上から降ってくる細く甲高いそれらの音がイシュバンタールを不快にさせていた。ただでさえ、遠慮を知らない昼間の光の下に出てくるのは本意ではないというのに、その上平和の象徴のような小鳥の歌声を聴かされては不愉快この上ない。
 さっさと立ち上がって自室に引きこもろうと何度思ったか分からない。それでも彼はどういうわけか腰を下ろした芝生から離れられなかった。
 視線を転じるとすぐ近くにクリスティーヌの真面目な顔がある。
 昨日見せた豊かな栗色の髪は今日は朝から無造作に一つに結われている。さきほどから絵の具を混ぜては「違う」と小さく首を振っていた。つられて揺れた髪の先が絵の具に触れ、黄色いかたまりが付着する。
 彼女は睨むように観察するように芝生に腰を下ろしたイシュバンタールを見つめている。彼女が見ているのはイシュバンタールと自分の手元と大きなキャンバスだけだ。それなのに、イシュバンタールは「見られている」とはどうも思えなかった。
 クリスティーヌの視線はたしかにイシュバンタールを捉えていたが、あくまでもただのモデルとして見ているだけであって、相手が王であるということなどすっかり忘れてしまっているようだった。見ているようで、見ていない。今の彼女にとってイシュバンタールは風景と一緒。木々も芝生も光も王も、今の彼女の中では同列のようだった。
 気に入らないな、とイシュバンタールは一人ごちた。
「王、視線はあちらへとお願いしたはずです」
 次の瞬間、事務的な声が上がった。クリスティーヌは絵筆を持った手を、彼女の右手にある林檎の木に向けていた。刺すような視線を浴びながらイシュバンタールは音を立てず笑う。
「俺はこちらを向きたい」
「わたしはあなたの顔を正面から描きたくはありません」
「……おまえ、そんなに死にたいのか?」
 心底疑問に思ってイシュバンタールは首をかしげた。残虐な彼の噂は都中に広まっている。今や誰も面と向かって彼に意見するものはいない。ただ、それでもこの国が成り立っているのはイシュバンタールが残虐ではあっても非道になるのは限られた相手に対してだけだからだ。
 彼が道理に合わない理屈で命を奪ってきた相手は、絵描きだけだ。それ以外はおおむね、問題がないかぎり、黙って従っているかぎり、イシュバンタールという男は立派な王であると言えた。不敬を働いた臣下を宴席で切り刻んでみせても、謀反の疑いをかけられた者たちの手足を引きちぎっても、行いは残虐だが行動としては理にかなっていた。
 彼が理を違えているのは絵描きの命を奪うときだけ。招いた絵描き、もしくは自分から売り込んできた絵描きたちはことごとく彼自身の手によって殺され、まるで彼の鬱屈を晴らす道具のように扱われていた。それを、目の前のクリスティーヌが知らないはずがない。
 知っていて、イシュバンタールの神経を逆なでするようなことを平気で言うとは、命などいつとられてもかまわないと言っているのと同じだ。
 殺されに来たのかと思えば、どうも本気で王の絵を描こうとしている。かと思えば、また自身の命を危険にさらすような発言をする。
 彼女をつれてきたアーバネントに昨晩訊ねてみれば、クリスティーヌは自分から「ぜひとも王の絵を描かせていただきたい」と絵描きであることを名乗り出たらしい。都中の絵描きがイシュバンタールの凶行を恐れて逃げ出したというのになんとも奇妙な話だ。当然、なにか思惑あってのことだと察せられたが、当面のところ彼女は本気で絵を描くつもりらしい。
 クリスティーヌがたとえこの至近距離からナイフを持って飛びかかってきても、とうていイシュバンタールを殺せはしまい。夢うつつのところを狙われたとて、殺されるつもりはまったくなかった。
 だから、奇妙な女と二人、人気のない中庭で向かい合って座っている。
 クリスティーヌは一つため息をついて絵筆を置くと、視線を逸らして言った。
「あなたは、二言目には『殺す』だの『死にたいのか』だの。そんなことではまともに会話もできません」
「初耳だ。おまえが俺と会話をしたいなど」
「必要最低限の会話もできないと言っているのです。わたしは、ただ絵をちゃんと完成させたいだけ」
「俺はおまえのような偉そうな態度の女にあれこれ指図されたくないだけだ」
「指図ではありません。お願いです。いい絵を描くための」
「お願いだというならそれらしい態度をしたらどうだ。俺は王だ。絵筆一つ、あご一つで動かせると思うな」
「絵筆で指し示す前に、わたしはちゃんと立っていって『このあたりを見ていてください』とお願いしました」
「俺の視線がどこを向いていても、おまえのような傲慢な女が描く絵など、たかが知れている」
「話の論点をすげ替えましたね。どんな絵を描こうともあなたはかまわないはずです。いい絵を描いても、しようのない絵を描いても、……あなたは、最後にはわたしを殺す」
「最後でなくとも、今、おまえを殺すことだってできる」
「なら、殺したらどうです?」
 クリスティーヌの瞳が、光を反射してきらりと光った。冷たい、凍てついた氷の瞳だ。
「殺したらいいのです。あなたが今まで殺してきた多くの絵描きと同様に、わたしを。殺せばいい。どうせあなたができるのはその程度のこと」
 言い終わるか終わらないかのうちに、クリスティーヌの頬に一本の赤い線が走った。イシュバンタールが投げた小さなナイフが、背後の草むらを揺らして落ちていく。
「ただ殺すだけだと思ったら大間違いだ。殺す以上の苦痛を与えてやることだってできる。死ぬより辛い苦しみを、死にたいと思うほどの苦しみをおまえに与えることが、俺にはできる。口の利き方に気をつけろ」
「……噂どおり、残虐で傲慢な王様ですこと」
「なんだと」
「いいえ、なにも? とにかく向こうを見て。あなたが動かないならわたしが左に移ります」
「おまえは……今まで来た絵描きの中で、最も失礼で凶悪で殺しがいがありそうなやつだ」
「もったいないお言葉でございます」
 イシュバンタールは諦めまじりにため息をつくと、示されたほうに視線を移した。従っているのではなく、少しのあいだ彼女の我がままに付き合ってやるだけだ。
 逆らえば逆らうほど、後で殺すのが楽しみになるというもの。どう殺そうか考えてまた笑みが浮かんでくる。
「笑わないで」
「…………本当に、うるさいやつだな」
 それから日が西に傾いて光が足りなくなるまで、王と絵描きとのあいだには一言の会話もなかった。クリスティーヌが立てる木炭や絵筆、それからわずかな鳥や草葉の音だけが、二人のあいだに流れていた。
 一つ、イシュバンタールが気に食わなかったことといえば、その空間のその時間が、思ったよりも嫌いになれなかったことだった。


◆◆◆


「おい女、そのみすぼらしい服を着替えて晩餐会に出ろ。性格は最悪だが、黙って笑っていれば見れぬほどでもないだろう」
 そうイシュバンタールが言って一着のドレスを彼女に押し付けたのは、絵を描き始めてから一週間も経ったころだった。
 クリスティーヌは鮮やかな空色のドレスを見て眉を寄せると、両手でイシュバンタールにつき返した。
「わたしの役目は絵を描くことです。晩餐会に出るなど恐れ多くてできません」
「恐れ多いという顔には見えないな」
 言いながらイシュバンタールはドレスを押し返す。声に苛立ちが混じり始める。
「絵描きが、顔を売るために貴族の晩餐会に出るのは普通のことだ」
「わたしに、顔を売る必要があるとは思えません」
 どうせ未来などないのだから、とクリスティーヌは言外につづける。イシュバンタールはその視線をしっかり正面から受け止めて、さらにドレスを押しやった。
「今のおまえは俺の持ち物。俺が王の名で命じる。晩餐会へはこれを着て出ろ。おまえに拒否権はない。あとで迎えをよこす」
 クリスティーヌの顔も見ずに彼は部屋を退室した。あの女はドレスを着るだろうか。もし着なかったらそのときは時を待たずして殺してやろうと思った。我がままがすぎるのも困りもので、これ以上甘く見られるのは我慢がならない。

 晩餐会の細長いテーブルの一席に、真っ青なドレスを着たクリスティーヌが静かに座っていた。
 蝋燭の光だけが頼りの薄暗い室内で、ドレスは目が醒めるような鮮烈さを帯びている。彼女の白い肌がそれをさらに際立たせていた。結い上げることを拒んだのか、豊かな栗色の髪は背中に流されたままだったが、その様がよりいっそう同席者の視線を集めていることに彼女が気づいているのかいないのか。先ほどから料理に落とされた視線はちらりとも上げられず、視線を交わしたい男たちは一瞬の機会も逃すまいとクリスティーヌから目を逸らせずにいた。主役の座を奪われた女たちは嫉妬の炎を飛び交わしている。だが、それさえもクリスティーヌには届かなかった。
 凍てついた心はテーブルを飛び交うどんな思惑にも揺らめくことはせずに、黙々と運ばれてきた料理を片付けてさっさとこの場を辞したいという意思がイシュバンタールには見てとれる。
 満足げにその様子を眺めていたイシュバンタールは人知れず喉の奥で低く笑った。
 政治はできても情がないと評される自分の前で、これだけ我を通しつづけている女はクリスティーヌが初めてだった。どうやればその心をへし折れるのかずっと考えている。が、いまだに答えが出てこない。
 彼女の家族や友人を調べさせたアーバネントも目ぼしい情報は持ってこなかった。クリスティーヌ・フォンティーナは天涯孤独、数週間前に王都に引っ越してきたばかりで親しい友人もいない。婚約者がいたという噂はあったが姿は見えない。彼女が王宮へ絵描きとして招かれたことを知っている者もいなかった。
 孤独な女だ。ここで命を落としても、彼女の死を悼む者など誰一人としていない。
 人知れず死んで、名を残すこともなく塵となる。
 だとしたらなぜ、こうまで強くいられるのかがイシュバンタールには不思議でならなかった。
 彼女の姿は捨て鉢になって命を捨てに来ているようには見えないのだ。かといって大事にしているようにはとうてい見えないが、それでも毎日着々と仕上がっていく絵には彼女の魂がこめられていた。一筆一筆、命を削るようにして描いている気迫があった。
 だから、絵を描いているときの彼女に声をかけることができなくなった。
 初日の会話を最後にして、あの中庭でイシュバンタールとクリスティーヌは言葉を交わしていない。それがどういうわけか苦にはならなかった。沈黙が当然であるかのように、声を出せばその空間が壊れでもするかのように、二人とも口も利かずに日が傾き、終わりの合図はクリスティーヌが筆を置く小さな音。

 蝋燭に照らされるクリスティーヌをぼんやりと眺めていたイシュバンタールは、不意に思考を途切れさせた。
 顔を上げない彼女に痺れを切らせた若い男が一人、とうとう直接声をかけたのだ。テーブルを挟んで座っていたその男はクリスティーヌの顔を持ち上げさせることに成功すると、ふたたび視線を落とされる前に急いで会話を切り出した。
「あなたのような美しい人が絵描きなどとは……モデルの聞き間違いかと思いましたよ」
 初対面のときイシュバンタールが考えたのと同様の台詞がテーブルを飛び越えていく。イシュバンタールは黙って杯の酒を飲み干した。
「さすが、貴族の方は人を褒めるのがお上手ですこと。わたしが貴族の女でしたら、きっと素直に喜べましたでしょうに」
 クリスティーヌは口の端にわずかな笑みをのせて答えた。薄明かりの中でも彼女の目が笑っていないのがイシュバンタールには分かった。
「おや、わたしはなにかお気に障るようなことでも? 遠まわしな言い方がお気に召さないということであれば、申し訳ない。率直にものを言うのが気恥ずかしいだけなのです。でも、あなたのような美しい人にならどんな台詞でも言えますよ。ええ、その青いドレス、あなたの雪のような白い肌にとてもよく似合っている」
「……わたしは、自分が絵描きであることに誇りをもっております」
 男は、クリスティーヌの返事の意味がよく分かっていないようだった。小さく首を傾げると曖昧に笑って、「では王の肖像画が終わったら、ぜひわたしのもお願いしたいですね」と当たり障りのないことを言って会話を次につづけようとしている。だが本心ではそんな機会がないことも察しているのだろう。曖昧な笑みはクリスティーヌからイシュバンタールにそっと向けられ、王と目が合った瞬間つくり笑いに変わる。
 イシュバンタールにはクリスティーヌの真意がおぼろげながら分かっていた。
 彼女が問題にしていたのは最初から最後まで、「絵描きなどとは」の一言だけで、自分を飾り立てる美辞麗句にはなんの関心も示してはいなかった。
「そのドレスは、王の見立てですか? さすがです」
 今度は別の男がとりなすように会話を引き継ぐ。
「美とはなにか、分かっていらっしゃる」
 そう言ったときの、かすかに浮かんだ含み笑いにイシュバンタールは気づいていた。が、なにも言わずに寡黙な絵描きを一瞥する。クリスティーヌも空気の違いに気づいたのか、眉を持ち上げ初めて辺りの面々を見渡した。
 その隙に、また声がかかる。
「ええと、誇り高き絵描きのお名前を伺っても? わたしはアドルフ・ヴォルガンと申します」
「……クリスティーヌ・フォンティーナです」
「名前まで美しいとは! 天は本当に不公平だ。いやはや、王がお羨ましいですよ。日がな一日二人きりで過ごせるうえに、こんなに美しい人にじっと見つめられるなんて」
 今度ばかりはクリスティーヌも視線を下げるわけにはいかなかった。会話の隙をついて周りの貴族たちが彼女にそれを許さなかったからだ。握ったフォークが所在なげに宙に揺れ、彼女は気乗りのしない様子で隣の男の話に耳を傾けている。なにかの拍子にぎこちなく笑った彼女を見て、イシュバンタールはグラスを片手に立ち上がった。
 飲み干したはずの酒がいつの間にか注ぎ足され、ふたたび杯の中で揺れている。
 席を立った王に注目が集まるより先に、杯の赤い液体はテーブルを飛び越えクリスティーヌの青いドレスを紫に塗り替えていた。
「少し褒められた程度でいい気になるなよ。おまえはどうせ死ぬのだから」
 会話が途切れ凍りついた同席者の中で、クリスティーヌは一人ゆっくり立ち上がって、一礼した。
「ドレスが汚れてしまいましたので本日はこれにて失礼させていただきたく存じます。楽しい晩餐会でした。では」
 栗色の髪から赤い液体が滴り落ちている。くるりと一同に背を向けたとき、その雫が三粒ほどはねていった。
 イシュバンタールは平素と変わらぬその後姿になにも言うことができなかった。
 クリスティーヌの白い肌を流れる血のように赤い液体が、暗い紫色に染まったドレスが、彼の脳裏に焼きついて離れなかった。
 クリスティーヌ・フォンティーナは、美しかった。


◆◆◆


 晩餐会の翌日も、王と絵描きは変わらない時を中庭で過ごしていた。
 今にして思えば、昨夜のイシュバンタールの行為は彼女を喜ばせただけかもしれなかった。クリスティーヌは彼のおかげで場を退出する口実を得たのだから。
 そう考えればまたふつふつとわけの分からぬ苛立ちがこみ上げてきて、イシュバンタールは視線の先の大木に向かって手に触れた小石を投げつける。
「あまり動かないでください。服のしわが変わってしまう」
「それくらい想像で描けるだろう」
「そこに現物があるのならちゃんと見て描きたいのです」
「想像力が貧困だからか」
「いい加減な絵を描きたくないだけ」
「おまえが精魂こめて描いたところでたかが知れている」
「それは絵が完成してから言ってください。完成した絵を見てなおそう仰るのなら、そのときこそ、わたしはどんな評価も受け止めましょう」
 いちいちきっちり言い返してくるからこんなにも苛立つのだ。イシュバンタールは辺りに手を這わせたがもう小石は見つからなかった。仕方なく、草をむしって宙に投げる。
「俺には美など分からない」
 呟いた言葉にクリスティーヌが顔を上げたのが気配で知れた。
「美など理解したくもない」
「ですが、あのドレスは素敵でした。あなた自身が台無しにするまでは」
「おまえが着たからだろう」
 思わずもれた言葉の意味が、イシュバンタール自身分からなかった。彼女程度の女だったらばあれくらいでちょうどいいということか、それとも彼女が着たからこそ似合うと言いたかったのか。分からないが、この沈黙に耐えられず彼はふたたび口を開く。
「俺の中には卑しい絵描きの血が混じっている」
 どうせ城中が知っている秘密だ。昨夜の男も、知っていて時おりほのめかし嘲笑する。イシュバンタールがそれくらいで臣下を罰さないのを知っているから。いくら横暴に振舞っていても貴族たちの支持を失ったらどうなるかイシュバンタールが正確に自覚しているから。
 懐に手を差し入れれば、いつも身につけている短刀が指先に触れた。そのまま鞘を抜き放って、鋭利な刃をそっと撫でる。割れた皮膚から血がこぼれ落ちた。
「この身に王族直系の血は流れていない。この血は、売女の王妃と、下賤の絵描きの穢れた血だ」
 王妃は夫である王の心が卑しい妾に傾いていたのを悟っていた。だから城に出入りしていた絵描きと不義を働き、生まれた子どもの髪の色が、王家の血筋に現れるはずのない黒色だっというのに、王は負い目から自分の子として育てたのだ。そのときはイシュバンタールと名づけられたこの子どもが次代の王となるとは誰も思っていなかった。
 王と王妃のあいだには二人の息子がいたし、ほかにも王家の血をひいた血縁者がいた。それでも彼が王となれたのは、他に玉座を継ぐものがいなくなったせいだった。先代の王と王妃とのあいだに生まれた二人の王子と親戚は流行り病で次々に死んでいく。
 そしてそのころ腹をふくらませていた妾の女は、妬んだ王妃の陰謀で腹の中の子どもごと処刑された。心痛のあまり王は床に臥せったまま返らぬ人となり、残された王妃はイシュバンタールこそが王であると言い聞かせながら息絶えた。
 これで仕上げとばかりに、国中の名のある医者を集めて治療させた第七位王位継承者がそのかいもなく死ねば、盤上に残っていた駒はさんざん蔑まれてきたイシュバンタールただ一人だった。
 全てが歪にゆがみきっていた。
 気づいたときには城には散々軽蔑のまなざしを浴びてきたイシュバンタールしか残っていなかった。周りの者たちは手のひらを返したかのように急に媚びへつらいだし、影ではイシュバンタールの出自を嗤った。
 彼はなにも信じてはいなかった。
「誰か一人でも王族の血を継ぐ者が生きていたら、俺は今すぐにでも邪魔者として殺されるだろう。だがどうだ? 実際には、ただの絵描きの子どもがこうして王宮で暮らしている。担ぎ上げる者が他にいないから、ただそれだけの理由で、貴族どもは俺に頭を下げて機嫌を取る。……下げて隠したその顔に、軽蔑と嘲笑を浮かべながら」
 あまりに滑稽で哀れだから、イシュバンタールはこの茶番に付き合ってやっているのだ。そして暇つぶしに絵描きを招いては、殺す。
 クリスティーヌは感情の読めない瞳をまっすぐイシュバンタールに向けていた。もてあそんでいた短剣を赤い血がつたって、青々とした芝生を汚していく。
「憎んで、いるのですか? 絵描きを」
「憎む? まさか! 感謝しているくらいだ。汚らわしい下賤の絵描きがあの女をたぶらかしてくれなければ、俺はこんなふうにおまえをいたぶることもできなかった」
「…………ですが、傷ついているのは、わたしではなくあなたのように思えます」
「黙れ」
 低く怒鳴るのと同時に持っていた短剣が飛んでいた。
 短剣はほとんど地面と平行に飛び、そのままクリスティーヌの左腕に刺さると動きを止めた。くぐもった彼女のうめき声でイシュバンタールははっと我に返った。
「待て、抜くな。抜けば血が出る」
「……右腕、ではなく、左腕にしてくださる……くらいには、情けが、ありましたか」
「こんなときにまで憎まれ口をきくとはな。それはそれで感心に値する」
 待っていろ、ときつく目を閉じるクリスティーヌに声をかけてイシュバンタールはその場を後にした。自分で傷つけておきながら、なかば急ぎ足で医師を呼びに行くとはあまりに滑稽だ。そう思っても足取りは衰えなかった。
 短剣がもう少し左に逸れていたら、どうなっていたことか。
 考えてほっとしている自分が少なからずいることに戸惑いを覚えている。もう少し左に逸れていたら、心臓を刺していただろう。
 心に過ぎる自問自答。

 どうしてそれがいけない?
 いつかは殺すつもりのくせに。


◆◆◆


 ベッドに横たわる彼女はいつもよりさらに白く見えた。そこまで酷い出血ではなかったのだから、血の気が失せたわけではあるまい。
 眠っているクリスティーヌにはか細く頼りない、今にも消えてしまいそうな儚さが漂っていた。起きているときそう感じさせないのは彼女の力強い瞳のせいだろう。
 イシュバンタールはそっと、クリスティーヌの左腕を撫でる。
 包帯が幾重にも巻かれて傷口を覆い隠していた。一瞬この白い布をはずして自分がつけた真新しい傷跡を見てみたいという誘惑に駆られたが、布越しに触れたときにもれたクリスティーヌの小さなうめき声が、その暗い誘惑を打ち砕いた。
 薄く血管の浮き出るまぶたが小刻みに揺れている。覚醒は間近。
 イシュバンタールは彼女の額にかかった髪の毛を払う。起きて一番に自分の姿を見たクリスティーヌが、どんな顔をするのか子細もらさず見たかった。
 まつげが揺れる。薄く開いた目が、うるんで光をにじませている。
 やがて目を覚ました彼女はイシュバンタールの姿を見て、つかの間笑ったように見えた。はっきりと捉えることができないほど儚い笑みだったが、たしかに口元に淡い笑みが浮かんだように見えたのだ。驚いてなにも言えずにいるイシュバンタールの目の前で、その微笑は風にさらわれるように消えてしまった。消えてしまうと、本当に彼女が笑ったのかどうか彼自身確信が持てなくなる。
「情けない顔をしておいでですよ、王」
 寝台の上に屈めた体を、イシュバンタールは弾かれるようにして起こした。
 鼓動が大きく跳ね上がる。
「死人のような寝顔だな。死相が出ている」
 焦って吐き出した言葉にクリスティーヌはまた笑う。が、先ほどのこぼれ落ちたような笑みとは対照的な冷たいものだった。
「予言ですか、それは。……わたしの死神はあなたですよ、イシュバンタール」
「……呼び捨てにするとはいい度胸だな」
「今のあなたは、王には見えない」
 言い返そうと口を開いたのに、イシュバンタールの口からはなんの音も出てこなかった。この場で斬って捨ててもおかしくないほどの不敬なことを言われたはずなのに、どういうわけか怒りが沸いてこない。心はほんの少しも揺れ動いてはいない。ごく当たり前にクリスティーヌの言葉を受け止めてしまっている。
 このままでは、駄目だと、そう思うのに、なんの言葉も出てこない。
「わたしを傷つけたあなたのほうが、痛そうだ」
 思わず呟いてしまったというようにクリスティーヌは自身の言葉で瞠目する。そっと口元を隠そうとした左腕が痛んだのだろう、次の瞬間顔をしかめた。
「痛いのはおまえだろう、クリスティーヌ・フォンティーナ」
「わたしの名前を覚えておられたとは驚きです」
「いつものように俺を責めればいいものを、寛大な心を見せて同情をひこうとでもいうのか。さすが貴族どもを手玉にとっていただけのことはある。その顔で今まで何人の男たちをもてあそんできた。だが俺は、俺はおまえの術中には――」
「もういいのです」
 意味もなくあふれてきた言葉を止めたのは、クリスティーヌの一言だった。
 静かに放たれた一言に、イシュバンタールは思わず黙ってしまう。
「もういいのです。わたしが、不用意にあなたの心に触れてしまったのがいけないのです」
 そう言って見たこともないような温かい表情を浮かべるから、雪解けの氷の中から顔をのぞかせた新芽のようにかすかな微笑を浮かべるから、
「……………………悪かった」
 だから、一時の気の迷いでこんなことを言ってしまったのだ。
 誰かに心から謝罪したことなど今まであっただろうか。しだいに狂っていった母親をなだめるために意味もなく謝っていた記憶ならあるが、それ以外で自分が悪いと思って頭を下げたことなどなかった。こぼれ出てしまった一言をしまうことなど今更できない。見開かれた栗色の瞳に引き寄せられるようにして、イシュバンタールは体を屈めた。
 わずかに身じろいだクリスティーヌの逃げ道をふさぐように、両の手を寝台に押し付ける。
「なに、を――」
 彼女の抗議の声をイシュバンタールが無理やり奪いとった。
 くぐもった悲鳴を口移しで受けとって、右腕を押さえ、暴れる足を押さえ込んで、クリスティーヌの逃げ道を一つずつ潰していく。
「俺が、そんなに嫌いか」
「好きか……、嫌いかではっ」
 荒い呼吸が薄闇に響く。
「ほんの少しでも俺を、憐れと思う心があるのなら……少し、黙っていろ」
 彼女の逃げ道を、一つずつ潰していく。
「そんなの……」
「最初に出会ったときのように、隙のない憎しみに満ちた目で俺を見ればいい。そうすれば止めてやる。そうでないなら……」
 ふたたびそっと口付ける。抵抗がゆるゆると力を失くしていった。
「そうでないなら、おまえの言うとおり、おまえは……不用意に俺の心に触れるべきではなかった。……暗く、出口のない、卑屈で、憎しみしかない、俺の心に」
 クリスティーヌの手から力が失われたことが分かっても、イシュバンタールは拘束を解くことはできなかった。腕の中に閉じ込めてしまわなければすぐにでもどこかへ消えてしまいそうに思えるほど、彼女は儚く、震え、張りつめている。容易く壊れてしまいそうなほど。
 分かっているのに、求めてしまう心が止められない。
 彼女が諦めたかのように抵抗を止めてしまったからなおのこと、もう止めることなどできそうになかった。
 自分でも知らなかったほどの激情に流されるままイシュバンタールはクリスティーヌを求めつづける。ひどく急いている自覚があるのに、細く頼りないクリスティーヌが苦しそうに受け止めてくれてしまうから、それが愚かな自分の都合のよい錯覚であろうとも、それだから……。


◆◆◆


 目が覚めて、その手が自分のものではない栗色の髪を触るまで、イシュバンタールは昨夜起こったことを信じることができなかった。
 じっと耳を澄ましていると、隣で眠るクリスティーヌのかすかな寝息が聞こえてくる。外気にさらされた彼女の白い肩をそっと撫でて、イシュバンタールは熱を持ったその肌に口づけた。
 クリスティーヌが自分に応えてくれたのだとはもとより思っていなかった。
 しかし、消極的にせよ逆らえなかったにせよ、彼女はイシュバンタールを受け入れたのだ。その事実は変わらない。
 手放したくないなと、ふと、思った。
 白い寝台に広がった柔らかい髪も、なめらかな白い肌も、今は閉ざされているまぶたの向こうの誇り高い瞳も、すべてこの手におさめておきたい。
 力強く筆を走らせる、絵の具に汚れた手も、すべて。
 酷く自分を憎んでいたはずの彼女が、その憎悪をだんだんと維持できなくなっているのがイシュバンタールには分かっていた。出会ったときのあの凍てつくような憎しみは、今のクリスティーヌの瞳の中には見つけられない。
 あと少しで、堕ちてくる。そんな気がしていた。
 おおかた、数多くの絵描きの命を道理もなく奪ってきた自分のことが許せなかったのだろう。もしかしたら友人知人の絵描きを自分に殺されたのかもしれない。
 謝って済む問題でもなければ謝る気もさらさらなかったが、彼女を手元に置けるのならこれ以上絵描きを殺さないでいてやってもいいとイシュバンタールは思った。たぶん、脅し半分にそう言えばクリスティーヌは頷かざるを得ないだろう。
 時間さえあれば彼女は、たとえそれが後ろ向きな選択だったとしても、自分を受け入れていかざるを得なくなる。結局非情になりきれない女だからこそ、イシュバンタールを憎むためにあそこまでの敵意を見せ付けねばならなかったのだ。
 ああやって敵意で武装しなければ、誰かを憎しみつづけるという不毛な感情を持続できない人間なのだ。
 クリスティーヌ・フォンティーナは、儚く脆そうでありながら、強く誇り高い。
 不思議な女のうなじに口づけを一つ落として、イシュバンタールは寝台から体を起こした。
 彼女が目を覚ました瞬間の表情を間近で眺めてみたかったが政務を投げ出すわけにはいかない。媚びへつらう臣下たちが望んでいるのは、忠実で思い通りになる、冠をかぶった傀儡なのだ。彼らの望みはイシュバンタールが決められた時間に玉座に座っていることだけ。そして予定通りの命令を下すことだけを望んでいる。
 彼が自由に裁量したのは絵描きに関することだけだった。
 それだけが、彼が自らの意思で行ったことだったのである。


◆◆◆


 クリスティーヌは起きていた。
 扉が閉じる音を聞いて目を開けると、遠ざかっていく足音が完全に消えるまで寝台に横になったまま身じろぎ一つしなかった。
 しばらくして寝台の上に座りなおした彼女は、イシュバンタールが口づけていったうなじに手を当てる。こぼれ落ちた吐息がやけに大きく部屋に響いた。
「だめよ、クリスティーヌ」
 かすれた声が呟く。
「だめよ……」
 戸惑いに揺れていた瞳が、しだいに焦点を定めていく。
「クリスティーヌ、今のあなたは、ただの、裏切り者」
 最後の一言が、クリスティーヌの心から温度を奪っていった。


◆◆◆


 その日の昼も前日までと同じように、イシュバンタールは中庭でクリスティーヌと向かい合っていた。
 だが一つ違うのは、クリスティーヌが一度もイシュバンタールと目を合わせようとしないことだった。
 彼女は憎悪むき出しの出会った当初でさえイシュバンタールをまっすぐ睨んでいたというのに、今日は最初から伏し目がちに瞳を隠している。おかげでイシュバンタールは横目で好きなだけ彼女を眺めることができた。
 クリスティーヌは病的なまでに青白く、弱って見えた。城に来たときから肌は雪のように白かったが、今はともすると肌の下の血管が浮き出るのではないかとさえ思えた。
 昨日の晩まではまだ生気と呼べるものが漂っていたはずだった。情事の最中、彼女の頬を彩っていた色はいまや見る影もない。
 彼女が何事もない風を装っているせいで、イシュバンタールも昨夜の出来事がすべて夢だったように思えてくる。およそ感情と呼べるものが一切抜け落ちて、静かに筆を走らせているクリスティーヌはまるで美しいだけの人形のようだ。
 イシュバンタールはそんな彼女から目を逸らした。
「なんなんだ、おまえは。そうやって人を惑わせて楽しんでいるのか?」
「いいえ」
 だんだん腹が立ってきて思わず呟くと、クリスティーヌは顔も上げずに答えた。
 それがさらにイシュバンタールを苛立たせる。昨日とまったく違う顔を見せるクリスティーヌが、彼には理解できなかった。なにを考えているのか、なにが目的なのか、どうしたいのか、さっぱり分からない。
 どうすればいいのか、どうして欲しいのか……。
 ふと、そこまで考えて我に返る。相手がどうして欲しいのかなど関係ないはずだ。自分がどうしたいか、相手になにをさせたいのか、考えるべきことはそれだけのはずだ。相手の気持ちを(おもんぱか)るなど自分の(がら)ではない。
 自分はただ、反抗的な態度を取っている目の前の女をどう屈服させるかということだけ考えていればいいのだ。下手(したて)に出ればつけ上がるのが人間というもの。
 たった一人の女にふり回され、揺さぶられるようなことになれば、臣下たちがどんな表情で自分を嘲笑するのかイシュバンタールには手に取るように分かる。
 それだけは、我慢ならない。
 彼は自身の思考の一部を切り捨てた。主に、クリスティーヌに関することを。
 とにかく、手元に置いておくことができればいいのだ。それから後のことは、考えるだけ無駄だ。なぜならイシュバンタールにはクリスティーヌの心の内など何一つ見えやしないのだから。
 彼は自分が真実を見ようともしていないことには気づいていた。だが同時に見えるわけがないと思っていたし、見てもどうすることもできないとわかっていた。
 現状を変えるだけの力が自分に備わっていないことをイシュバンタールは知っていた。ただ、流されるままに生きて、いつかそのときがきたら死ぬだけの人生だ。ならせめて傀儡としての役割をまっとうしてやろうという、ただそれだけの意思で今日まで彼は生きてきた。
 初めのころは国を変えようと必死になり、政治について熱心に勉強をしたこともあったが、ほどなくしてそれらが無意味なのを悟った。求められているのは「王」という飾り立てた人形であって、イシュバンタール自身ではない。人形が意思を持てば煙たがられてやがては捨てられるだろう。
 それも、浅はかな王妃の生み出した傷物の人形とくればなおさらだ。どんなに中身を磨き上げても、綺麗な外見の人形が現れれば簡単に取り替えられてしまう。
 なんて安っぽく価値のない人生であることか。
 イシュバンタールにとっては生きることは死ぬまでの猶予期間でしかない。息を吸って、吐くだけの人形としての人生。自分が求められているのはただ、それだけ。
 ならば一つくらい自由になるものがあってもいい。
 人形が一つくらい人形を手に入れても誰も気にはすまい。死ぬまでのあいだ、せいぜい暇つぶしに付き合ってもらおう。飽きたら、捨てればいいだけの話なのだから。
 イシュバンタールは波立つ心を静めようと自分に言い聞かせた。視線を、クリスティーヌから逸らして林檎の木にすえた。まだ小さく青い実を数えてしばらく経ったころ、ようやくクリスティーヌの視線を感じだした。油絵の具の匂いが風に乗って鼻腔に届く。
 この匂いも、嫌いではない。

 絵が完成したのはその日の晩のことだった。


◆◆◆


 翌日催された晩餐会にはクリスティーヌの噂を聞きつけた貴族たちが大勢押しかけた。
 入れ代わり立ち代わり声をかけてくる男たちに適当な返事を返しながら、クリスティーヌは壁際から背中を離そうとしなかった。彼女が着ているのは真紅のドレスだ。どうやら部屋に運ばせておいたものを素直に着る気になったらしい。完成した彼女の絵の披露会だとは伝えてあったが、イシュバンタールはもしかしたらクリスティーヌはこの会に欠席するかもしれないと考えていた。この前の一件で晩餐会には嫌気がさしているものと思ったのだ。
 彼女の絵はまだ広間には運ばれていない。イシュバンタール自身も見るのは今日が初めてだった。
 気にはなるが、期待はしていない。どうせ女が描くものだという意識は、彼以外の貴族たちも共通のものだ。だからこれだけの人数が集まったのはクリスティーヌ・フォンティーナの美貌の噂と、その彼女がイシュバンタールにどうされるのかという好奇心がゆえだ。
 殺されるにしても、生かされるにしても、どちらにしても退屈な社交界に華々しい話題を与えてくれる。
 特別に彼女を殺さず、お抱えの絵描きとすることを発表したときの貴族たちの反応を予想してイシュバンタールは小さく笑った。様々な憶測が飛び交うのは間違いない。下世話で好奇な視線がクリスティーヌに集まるだろうということも予想できる。面倒だが、一興だ。
 用意された筋書きからイシュバンタールがはみ出られることは少ない。そのときの反応を見るのは実に楽しい。
 まだ「自分」が存在していることを直に確認できるから。
 名目上は主催者であるはずだったが、彼の元へ挨拶に来る貴族よりも、クリスティーヌの傍に寄る貴族のほうが格段に多かった。それに気づいた幾人かの貴族たちが、わざとらしくイシュバンタールに挨拶する。どうでもいいような美辞麗句を聞き流しているうちに、クリスティーヌの絵が広間に運ばれてきた。布をかぶせられ、まだ全貌が見えない。
 誰も、彼女の絵自体に興味は持っていなかった。  所詮は女の描く絵だと、最初から馬鹿にしきっている雰囲気がイシュバンタールには感じられた。
 この空気には覚えがある。
 ――所詮は卑しい生まれの王など、最初からたかが知れている。
 イシュバンタールが初めて玉座に座ったときも、今とまったく同じ空気がたち込めていたのを彼ははっきり覚えていた。

 一番目立つ場所にクリスティーヌの絵は置かれた。見せるのをもったいぶるように引き伸ばしていた男に、イシュバンタールは「とっとと布を取れ」と無言の圧力をかける。その一瞬あと、その絵は衆目にさらされた。

 まず初めに、まばらな拍手が起こった。
 次に、ささやき声がさざなみのように広間を駆け抜けた。
 最後に、沈黙が残った。

 その絵が、色彩、陰影、構図……すべてが美しく調和しているということに関しては、大多数の人間は同意せざるを得なかった。
 鮮やかに輝いている葉や、優しい木漏れ日、穏やかなそよ風、絵画に閉じ込められた一瞬の「時」に、手を伸ばせば届くという錯覚を呼び起こす。
 だからこの重苦しい沈黙は、クリスティーヌ・フォンティーナの絵が貴族たちの肥えた目に耐えられなかったからではなかった。
 そこに描かれているはずの男が「王」という存在に見えなかったから。
 絵の主人公たるべき男はどこか頼りない弱々しい雰囲気を漂わせていて、とても一国の王という存在には見えなかった。
 威厳の代わりに苦悩を、栄光の代わりに陰りを、絵画の中の男はまとっていた。華々しさは欠片もなく、迷いと苦悩がそこにはあった。描かれていたのはごく普通の一人の男の姿であった。イシュバンタールという王ではないただの男の姿が描かれていた。
 苦悩に満ちた男だった。だがしかし、その彼に絵画の中には一筋の光が差し込んでいるように見えた。
 あるいは光を見てとったのはイシュバンタール本人だけだったかもしれない。もしくは光そのものがそもそも見間違いだったかも知れぬ。
 それでも、イシュバンタールにはクリスティーヌが差し伸べてくれた一筋の光明を絵画の中に見出していた。そして、彼女が「イシュバンタール王」ではなく、真実、イシュバンタール自身の姿を描いたということが彼には分かっていた。
「…………クリスティーヌ・フォンティーナ、おまえを、専属の絵描きとして雇おう」
 気づいたときにはイシュバンタールの口からそんな台詞がこぼれ落ちていた。
 周囲の貴族たちがにわかに活気づく。
 さしもの王も、これだけ美しい絵描きを処刑することはできなかったのだろう、やはり血は争えない。
 どこからともなく嘲笑にも似た陰口が聞こえてくる。が、イシュバンタールはなにも気にならなかった。
 ざわめく広間の声は耳を素通りしていく。彼が待っていたのはたった一つの声だった。
 クリスティーヌの、少し不機嫌になりながらも「分かりました」と答えるその声。
「…………お断りいたします」
 だがたっぷり間をおいて放たれた答えは誰もが予想もしないものだった。
 玲瓏とした声は広間に波紋のように広がって、たちまちあたりは静まり返る。イシュバンタールは背後をふり返った。
「光栄なお言葉ですが、お断りいたします。イシュバンタール王」
「おまえに、拒否権は、ない」
 答える声が冷たく凍る。
 クリスティーヌはその顔を真っ青に染めて立っていた。
 唇が紫に変じ、かすかに震えている。
 今にも倒れそうな様子に驚いて、思わずイシュバンタールは手を伸ばした。
 クリスティーヌはびくりと体を震わせ後退する。彼女は晩餐の用意がされた卓にぶつかり、その手がナイフに触れる。
 銀のナイフが掲げられる。
 クリスティーヌによって。
 蝋燭の炎にきらめいた刃にイシュバンタールは目をつぶる。
 体は動かない。
 刃先がまっすぐ彼の胸元にふり下ろされる。
 体は動かない。
 鋭利な先端が服の端をわずかに裂く。
 深く沈みこむその前に、クリスティーヌの体が男たちに取り押さえられる。
 ナイフが弾かれる。
 鮮やかな栗色の髪が視界に広がる。
 青白い肌。栗色の瞳。
 悲痛な瞳に、憎しみは見えない。
「なぜだ……」
 呆然とした呟きは誰にも届かず喧騒にまみれていく。
 衛兵に引き立てられていくクリスティーヌは、一度もこちらを見ようとしなかった。
 騒ぎ立てる貴族たちの声が遠ざかっていく。
 イシュバンタールの指先が、わずかにクリスティーヌの後ろ姿に向けて伸ばされた。


◆◆◆


 慣れているはずの、地下牢へと続く階段。それを、イシュバンタールはのろのろと下りていく。
 石壁は、こんなに冷たかっただろうか。
 空気は、こんなに暗かっただろうか。
 何より、今まで自分は、こんな暗澹たる気持ちでこの階段を下りたことがあっただろうか。

 イシュバンタールが、あの場で、たった一つできたことは、その場でクリスティーヌの命を奪わせないことだけであった。
 あの美しい女は、明日の朝早く処刑される。
 イシュバンタールに、それを阻止する力は存在しない。
 「王」という存在に刃を向けた者を、彼は助けることができない。
 咄嗟に、身代わりを立てようかと考えた。が、クリスティーヌの姿はあまりに人の目に触れすぎた。一晩で彼女にそっくりな人間など見つけられようはずがない。
 貴族たちは面白半分に明日の処刑を見に来るだろう。
 クリスティーヌがどんな方法で処刑されるか、ご苦労なことに早起きをして処刑場の周りに集まるだろう。
 ごまかすことはできない。
 明日の朝、クリスティーヌ・フォンティーナはイシュバンタールの手によって殺される。

 ふと、彼は自分がどうにかして彼女を助けようと考えているのに気付いて、少し驚いたあと、ふっと自嘲的な笑みをこぼした。
 今さら、いったい、なにを足掻いているのか。
 薄暗い地下の通路を数歩進めば、すぐに人の気配がした。
 無機質な鉄格子の向こう、暗闇の中、赤い色がかすかに動く。クリスティーヌが身に着けた真紅のドレスが、この場に似つかわしくない光沢を放っている。
 栗色の瞳は静かに澄んでいた。明日処刑されるというのに、彼女の瞳には怯えの色が見られない。
「……おまえは、いったい、なんなんだ」
 イシュバンタールの声は掠れていた。
 声を出したのがずいぶん久しぶりのような気がした。
「いったい、なにがしたかったんだ。……おまえは、なにを考えている」
 声を出した途端に、疲労感がどっと押し寄せてくる。
 ひどく疲れていた。
 訳が分からないことに対する苛立ちと、意図してそうしようとしているクリスティーヌに対する憎しみがない交ぜになって、イシュバンタール自身どうしていいか分からなかった。
 誰かを理解したいなどと今まで願ったことはなかったというのに。
 彼は、今、クリスティーヌ・フォンティーナのことを理解したかった。
 彼女がいったいなにを考えてどうしてこんなことをしたのか。今さら知ったところでなに一つ手を打つことなどできないのに、それでも彼は知りたかった。

「あの絵は、どういうつもりだ……」
 なぜなら、クリスティーヌは、イシュバンタールを理解しようとしてくれたから。
 あの絵、クリスティーヌが描いたあの絵。あの一枚の絵画を見れば、分かる。
 彼女は、「王」ではないイシュバンタールを見てくれた。見ようとしてくれた。神々しくもない、華美でもない、いっそひどく地味でともすれば陰にまぎれてしまいそうなあの男こそ、「イシュバンタール」なのだ。
 クリスティーヌはその彼を見つけてくれた。
 それなのに、なぜ次の瞬間、自分を裏切る。
「おまえは――」

「私の恋人……婚約者は、イシュバンタール、あなたに殺された」

 あ、という声は音にはならなかった。
 出したつもりになった声はしかし、喉の奥につかえてかすかな空気を漏らす。
 ああ、なるほど。とイシュバンタールは驚くほどすんなりと納得する。
 栗色の、凍てついた瞳と射殺すような視線の意味が、ようやく理解できた。
 恋人の敵のはずのイシュバンタールの弱い心に、一時とはいえ同情せずにはいられないほど優しい女が、果たしてどれだけの決意と憎しみを抱え込んでいたか。
 彼女は自身のことをよく理解していたのだ。
 これ以上イシュバンタールとともにいれば、自分が今の憎しみを持ち続けていられないことに彼女は気づいていた。だから、そうなる前に彼を殺そうとしたのだ。恋人の敵を取ろうとしたのだ。
 そこまで考えて、彼は首をかしげた。格子の向こうの女はまるで人形のように微動だにしない。
「……ならばなぜ、もっと確実に殺せる時を狙わなかった。おまえは、そんなに愚かではないはずだ」
 愚かではないから、あの場でイシュバンタールに刃を向けることの意味を、この女は分かっていたはずなのに。
 クリスティーヌは顔を上げて、イシュバンタールをじっと見つめた。
「わたしは、あなたを、憎んでいるんです」
 憎んでいると言いながら、それなのに瞳にはそんな感情など欠片も見受けられない。それなのに、彼女は「憎んでいる」とくり返す。
「わたしは、憎んでいる。あなたを」
 イシュバンタールはそっと鉄格子に手を這わせる。
 つい先刻まで、すぐ触れられるところにあった白い肌に、今はもう手が届かない。
 唐突に、自分が途方に暮れているのを(さと)ってイシュバンタールは慄いた。とうにどこかへ捨ててきたはずの感情に、今になって戻ってこられてもどうしていいか分からない。
 苦い思いをしてようやく脱ぎ捨てて、遠い昔に置いてきた感情なのだ。抱えていたらこの国で「王」で在りつづけられないから、イシュバンタールは己を苦しめるいくつかの、いや大半の感情を切り捨てた。
 ようやく、ようやく心の安寧を手に入れたというのに。この女はイシュバンタールの苦労をあざ笑うかのように過去の遺物をあっさり引きずり出してくる。
「もうすべて、お解かりでしょう?」
 クリスティーヌはそう言って笑う。
 イシュバンタールは鉄格子を殴りつけた。
「わかるものか……っ!!」
 勝手にすればいい。死にたがりの女を一人、明日の朝、処刑する。
 ただ、それだけだ。
 イシュバンタールは牢を後にする。
 いつもと違うのは、その女を傍に置いてやろうと思うくらいには気に入っていたということだけだ。
 ただ、それだけのこと。
「……それだけだ」


◆◆◆


 朝の光は、刑場には似つかわしくない。
 初めて、イシュバンタールは冷静にそう思った。
 兵に両脇を固められたクリスティーヌが、城に来たときと同じ表情で石段を上ってくる。その細い手は、後ろで枷にはめられていた。
 イシュバンタールの手には一振りの剣があった。何人もの絵描きの命を奪ってきた剣が。いつもならどう殺してやろうかと目まぐるしく考えているところだというのに、どういうわけかクリスティーヌを前にして、彼の頭の中はまったくの空っぽだ。握った剣が、目の前の女を貫くところさえ想像できない。
 冷たい石畳の上に押し付けられるようにして彼女は膝をついた。
 二人の兵に、手ぶりで下がるように示す。彼らはさっさとイシュバンタールに背を向けて石段を下りていく。王自らが罪人を処刑することは、もはや「よくあること」に分類される事項だった。
 周りに人気はない。が、いくつもの視線をたしかに感じる。
 物陰から処刑の様子を窺っている貴族たちの、好奇心に満ちた視線を一身に浴びながら、イシュバンタールは重い口を開いた。
「なにか、言い残したことは」
 言葉にして、初めて彼はごくありふれたこの台詞を、口にしたのはこれが初めてだと気がついた。
 これまで、死にゆく者たちに最期の言葉さえ許したことはなかった。
 クリスティーヌはゆっくり顔を上げる。乱れ落ちた栗色の髪が陽光にきらめく。
「あなたが、後悔を知ることを、望みます」
 クリスティーヌの小さな、しかし凛とした声がイシュバンタールの鼓膜を揺らす。
 一瞬、彼は自分がなにを言われたのか理解できなかった。
 呼吸を止めたイシュバンタールにかまわず、彼女はつづけた。
「憎しみよりも、悲しみを感じることを、望みます」
 彼女は微笑んでいた。
 まさかたった今から処刑される者とは思えない。朝日の陽光が、彼女の頬を輝かせている。
「あなたが……イシュバンタール、あなたが……この世界にありふれている愛を、知ることを望みます」
 一度落とされた視線がふたたび持ち上がったときには、クリスティーヌの栗色の瞳には涙がたまっていた。しかし、あいかわらず口元には淡い微笑が広がっている。
 なんて残酷。
 なんて残酷で自分勝手な女なのだろう。
 イシュバンタールを傷つけるだけ傷つけておいて、忘れていた感情を呼び覚ませるだけ呼び覚ましておいて、一人ですべてを完結させ、あとのすべてをこちらに放り出して、あっさり舞台から消えるだなんて。
 イシュバンタールが放り出されたものを受けとめきれるかどうかも知らないくせに。見届けることなく、一人で勝手にいなくなるだなんて。
 これこそ、復讐だ。
 クリスティーヌ・フォンティーナの、きわめてたちの悪い復讐だった。
 まったく、呆れるほど強情な女だ。
「後悔は――……」
 からからに乾いたのどが、言葉を途切れさせる。
「……後悔は、もう知った。悲しみも、もう知った。…………愛なら、もう、知った」
 愛している。
 狂おしいほどにこの傲慢な女を自分は愛している。
 手に入れたいと、今まさに願っている。しかしそれが許されないということを、もっとよくわかっている。
 この女は、イシュバンタールの気持ちに彼より早く気づいていたのだ。そして、一番効果的な復讐を遂げたのだ。
 己が情に流されてしまう前に。
 イシュバンタールをすっかり許してしまう前に。
 クリスティーヌは笑っていた。
 彼女の柔らかな肌を知っている。その肌を、これから剣で貫かねばならない。
 どうすれば痛みを長引かせながら殺すことができるか、彼は知っていた。しかし、どうすれば痛みもなく一瞬で楽に殺してやることができるか、彼は知らなかった。
 剣を持つ彼の手が小さく震えていることに、クリスティーヌは気づいて言った。
「わたしも…………赦すことを、知りました」
 浮かぶのは、慈愛の笑み。
「だから、どうかお願いです。あなたではないだれかに、わたしを殺させてください」
「…………それでは、おまえの復讐は完成しないだろう」
 イシュバンタール自らの手で、自分を殺させることこそが、彼女が考えた復讐だ。それなのに――……
「あなたが、名実ともに、明君となることを、願っております。……どうか、わたしを、赦してください」
「とうに、赦している」
 言うなり、イシュバンタールは剣をふり上げた。
 一瞬で、痛みもなく、確実に殺してやれるのはどこか。
 クリスティーヌは瞬間少し困ったように微笑むと、そっと目を閉じた。
 眦からこぼれ落ちた一滴の涙が、光に反射し宙に舞う。
 どさりとくぐもった音とともに彼女の体は石畳に崩れ落ちる。切り離された頭をイシュバンタールは両手で抱え込んだ。
 投げ出した剣が、甲高い金属音を響かせる。
 イシュバンタールは両腕を血に濡らしながら、しばらくのあいだただ黙ってそれを抱えていた。
 彼は自身に涙を許さなかった。


◆◆◆


「どうなった」
「はい、ご命令通りに」
 イシュバンタールは背後に現れた男をふり返った。
 クリスティーヌを探し出してこの城へ連れてきた男、アーバネントは、イシュバンタールと目が合うと途端に肩を小さく縮こませた。
 クリスティーヌ・フォンティーナの遺体は、城の中庭に人知れず埋葬された。
 毎日絵を描いていたあの場所に、そっと密やかに埋められた。
 イシュバンタールは冷たく座り心地の悪い玉座から立ち上がると、アーバネントの立つ位置まで石段を下りる。一歩進むごとに男がびくびく肩を揺らしているのが分かった。
 その様子に小さく鼻を鳴らし、とうとう同じ位置まで下りてくると彼は言った。
「俺の絵は――」
「あ、はい! すぐにっ、すぐに次の絵描きを探してまいりますので、今しばらくお時間を」
「あれで最後だ」
「…………え?」
 間抜けな声が返ってくる。
「俺の絵は、クリスティーヌ・フォンティーナが描いたあの絵で最後だと言っているんだ。もう絵描きを探す必要はない」
「え、あ、はい。…………え?」
「アーバネント、おまえは先王の覚えめでたき優秀な臣下ではなかったのか。何度も聞き返すな。無駄な行為はもう止めると言っているんだ。今まで……今まで俺が殺した絵描き、その家族や、関係者には、それ相応の償いをする」
「イシュバンタール王……」
 唖然とした男の瞳がしだいに喜びを表すようになって、イシュバンタールは舌打ちとともにその男を広間から追い出した。
 なにも、喜んでもらうようなことなどないからだ。
 すでに取り返しがつかないことが山ほどある。
 それに、いまだに一つの処刑以外に対する罪の意識が湧いてはこないのだ。あの女が望んだ自分の姿の、なんと遠いこと。
 罪の意識など、とうの昔に置いてきてしまったことの一つだ。
 取り戻し方など、分からない。
 それでも、
「それでも、おまえは俺にそれを望むのだろう?」
 独り言に、返される言葉はない。
 もっとも面倒な呪いをかけて、あの女は死んでしまった。いや、殺してしまった。ほかならぬ、自分のこの手で。
 後悔と悲しみと、愛。
 彼女が自分に望んだもの。
 「王」でいつづけるために、切り捨てたもの。
 「王」でいつづける自分に、あれば苦しみしかもたらさないもの。
 彼女は、すべて分かったうえで、それでもそれをイシュバンタールに望んだ。

「……本当に、おまえは残酷な女だ。クリスティーヌ」

 イシュバンタールはそう呟いて、かすかに笑う。
 彼が明君と呼ばれるようになるのは、まだずっと先のことだった。






<NOVEL>  <TOP>





読んだ小説
お名前(任意)
コメント
           Powered by FormMailer.