浮浪者軍師戯志才とは十年以上のつきあいだった。その長所も短所もお互い知り尽くしているほど。 だが、数年ぶりのその手紙に荀ケは激怒した。 「なんだこの文面は!」 おもわず机の上に巾布を叩きつける。 そこにはたった二文字。 『可也』 それでも彼の不精な性格を思い出し、どうにかこうにか怒りを腹の底に沈めたその日より一ヵ月後。 彼の怒りは爆発したのだった。 荀ケはあせっていた。 というのも、曹操に仕え月日が立てばたつほど、彼の才覚を恐れるようになったからである。 特に戦に関しては驚くほど造詣が深く、荀ケでさえ舌を巻くこともしばしばだ。またその策も発想力に富み、奇抜でさえあった。 一方の曹操の荀ケに対する期待もまた日を追うごと高まり、それに応じて彼の負担と不安は増していったのである。 (一人では支えられない。) そう判断した荀ケはすぐさま謀臣となれる人物を探した。 今だ曹操は袁紹勢力の下に組み込まれており、弱小勢力であった。 いつ飲み込まれてもおかしくない状況に理解を示し、かつ彼の覇業に力を貸してくれる者。 そして、できれば自分をよく知り、その弱点を補ってくれる人材であればあるほどよい。となると数は限られた。 そこで目をつけたのが戯志才だったのである。 すぐさま北海にいる彼に手紙を書き送った。 その返書が上記のようなものだったのである。 そんな礼儀もへったくれもない男が来たその日、曹操陣営の幕僚全員が荀ケへの評価を変える事件がおこったのだった。 荀ケから名前を聞いていた曹操はすぐさま謁見した。だがやってきた男は曹操の想像をはるかに凌駕するいでたちでのほほんと立っていた。その場には他の幕僚たちも控えていたが、誰もが戯志才をうろんな目で見やる。説明すべき荀ケは、夏侯惇と共に閲兵に顔をだしておりこの場にいなかった。 そう、彼はまさしく異様ないでたちであった。 旅を終えたばかりのズタボロの服を身につけ、髪もぐしゃぐしゃのまま、ヘタするとしらみがわいているのではないか、というほど汚らしい格好であった。しかも腰には酒瓶が括りつけたままであり、はっきりいって一見タチの悪い浮浪者のようである。 (本当にこれが『あの』文若殿の友人か?) 誰もが口にせずとも思ったことである。 なにしろ荀ケといえば、品行方性にして容姿も優れている。頭脳はずばぬけて素晴らしく、なにより穏やかで物静かな士大夫と認識されており、あまりにもかけはなれていただめだ。 曹操は席につくと口を開いた。 「戯子然殿かな?」 「まあ、そうです。」 「そのいでたちはどうされた。途中夜盗でも会われたか。」 「いえ、旅は快適そのものでしたよ。強いて言えば馬の乗り心地が悪くてケツが痛くなったことくらいですかね。」 彼は、肩をすくめてそう言った。 そのあまりに奔放な様に曹操も思わず吹き出してしまう。 そのとき、曹操は室の外で呆然とたたずむ荀ケに気付いた。 声をかけようと思った瞬間――――――――、 ガシャンッ!! なにかが壊れるような物音に「痛えええっ!!」という悲鳴が重なった。 全員あっけにとられたように固まった。 曹操ですら一瞬事態の把握ができず、声すらも引っ込んでしまったほどだ。 だが、目の前で戯志才が後頭部に手をあてたままうずくまり、そのすぐ近くに書簡が落ちているのを見て初めて音の正体を知ると、ゆっくりと恐る恐る荀ケに視線を戻した。 彼は見たことも無いような憤怒の表情で、室内の戯志才をにらみつけていた。 一番驚いたのは一緒に部屋に入ってきた夏侯惇である。 彼はいつものように和やかに笑顔すら浮かべて話をしていたのだ、ついさっきまで。 それが部屋の中の様子を見たとたん目を丸くして立ち止まり、手にしていた書簡の一つを右手に持つや否や前方の背を向けていた人物、すなわち戯志才めがけてそれを投げつけたのである。 全員、その荀ケの暴挙に言葉も無い。 が、中央にいた戯志才がやおら立ち上がり、 「何しやがるてめぇっ!!」 と怒鳴ると、荀ケは形相を仕舞いこみ、何事もなかったかのように室内へと足を踏み入れた。そのまま戯志才の横に来ると落ちている書簡を拾い、隣の罵声をことさら無視して曹操に話し掛ける。 「突然お騒がせして申し訳ありません。」 「あ・・・・・いや・・・。」 「ついうっかり書簡を『落として』しまいました。」 (落としたのか、今のって!!?) 誰もがそう思ったが、誰もが口にすることはできなかった。 曹操でさえ、荀ケの無表情の裏に隠された内圧をひしひしと感じ取り、無言だったのである。荀ケは張り付いた笑みを浮かべたまま続ける。 「・・・・しかも、一部破損してしまったようです。ですのでもう一度改めて提出致したいと思います。一刻ほどお待ち頂けますでしょうか?」 隣にいた戯志才もその迫力に圧されてか、それとも主君と臣下の会話に口を挟むべきではないとでも考えているのか、罵声を引っ込めおとなしく口をつぐんでいた。 すると曹操は、 「あ・・・・うむ。」 と、頷くことしか出来ない。 しかし荀ケはにっこり笑顔に一礼すると、やおら戯志才の耳に手を伸ばし、 「ついでと言っては何ですが、この『ゴミ』も洗ってまいります。」 「あいててて・・・・。」 おもいっきり引っ張った。 「てめっ、このっ! 放せ! ゴミだと? ふざけんな、この野ろ――――――」 「・・・・・・・うるさいゴミだな。なんならその舌を切り取ってやろうか。所詮献策など上奏文で充分なのだからな・・・。」 荀ケは戯志才の悲鳴に冷たい視線で恐ろしいことを口にすると、さすがの戯志才もおとなしくなる。それを見計らって荀ケはさも当然とばかりに耳をひっぱったまま引きずるように部屋を出て行った。 全員固まったまま視線だけで二人の背を見送る。 一番立ち直るのが早かったのは、幕僚長たる陳宮であった。彼は深呼吸一つしてから、 「・・・夏侯校尉殿。荀司馬殿に何事かありましたのか?」 と尋ねた。 信じられないような事態に部屋の入り口で立ち尽くしていた夏侯惇は、その声に我に返ると室に入ってきた。 「いや・・・これといって・・・・・・和やかに会話してた・・・はず・・・だが・・・。」 「文若でもあんなふうに怒りを露わにすることもあるのだな。・・・ふむ、元譲。少し様子見て来い。」 曹操の言葉に「えっ!?」という顔をした夏侯惇だったが、曹操の面白がっているが有無を言わせぬ視線に根負けしたのか、拱手して出て行く。 そこでようやくその場にいた諸将も落ち着きを取り戻したのかざわついた。 「信じられん・・・。」 「まさか・・・なあ。」 「あの文若殿が・・・・・・。」 誰もが目にした事実を受け入れがたいのだろう。もし目の前で見ていなければ「ヨタ話」として信じないかもしれない。陣営内で荀ケを一番よく知るはずの曹操や陳宮ですら信じがたいのか、お互い黙り込んだままであった。 さて一方の夏侯惇だが、近くにいた雑人らを捕まえ荀ケの行方を尋ねた。すると「居室におられます。」との言葉に、彼の執務室へと向かう。が、入るにためらわれるような荀ケの怒声が室外まで響いてきた。 「子然! 今日という今日は許さんぞ! なんてことしでかすんだっ!!」 「そう怒るなよ。旅路そのまんまで急いできたんだからさあ。」 声にまじって水音も聞こえるところをみると、本当に「洗っている」らしかった。 「昔から礼儀の無いやつだとは思っていたが、これほどとは思わなかったぞ。」 「けっ、礼儀なんざくそかったりぃ。」 「子然っ!!」 「おい、文若。お前が俺を呼んだのは何も礼儀をあてにしてのことじゃないんだろう? 俺の頭脳だろうが。その頭に書簡叩き付けやがって・・・怒りたいのは俺のほうだっつーの。」 「頭脳を使う前に必要なのは最低限度の礼儀だ!!!」 荀ケは本気で怒っているらしかった。 できれば「さわらぬ神にタタリなし」と決め込みたい。 (・・・・・・様子みて来い、としかいわれてないよな。) 夏侯惇は自分で自分をそう納得させると一つ頷き、そのまま回れ右をして、曹操のもとへと向かうのであった。 「どうだった?」 夏侯惇が室に入るや否や曹操は興味津々の態で尋ねてきた。 「・・・・・ものすごい剣幕で怒鳴ってた。が、まあ古い知り合いらしいし心配はいらんだろう。今沐浴中だ。」 「旧友・・・ですか。」 夏侯惇の言葉に眉根をひそめたのは陳宮である。 ここ最近陳宮と荀ケの対立は日に日に深まっており、誰もがそれを知っていた。 彼にしてみれば、よそ者が曹操のもとで大きな顔をしているのが気に入らないらしい。又所詮「王佐の才」であっても宦官の縁者である彼を見下している感もあった。無論曹操の手前、表立って言うことは無かったが。 そして一刻ほどたつと、荀ケは戯志才とつれだって曹操のもとを再び訪れた。 全員再び言葉を失う。 (・・・ほんとうに、これがさっきの浮浪者か?) 誰もがわが目を疑った。当たり前である。沐浴をすませたさっぱりとしたいでたちの戯志才は、荀ケと並んでなんら見劣りしないほどの美丈夫だったからであった。 「戯志才にございます。」 彼はそういって慇懃に一礼する。 曹操は尋ねずにはいられなかった。 「・・・お主、なぜそれほど立派ないでたちを隠した?」 「隠したわけじゃありません。身なりを整えるのが面倒なだけです。」 が、そこはやはり先程の男と同一人物である。あっけらかんと言う様はなんら先程の浮浪者と変わらなかった。そこで横槍を入れたのは陳宮であった。 「面倒にもほどがあるというもの。よくぞ門を通してもらえたな。」 「なに、丁度通りかかった役人に小銭握らせたら通してくれましたよ。」 とたんに曹操と陳宮の顔色が変わる。陳宮は「失礼します。」と一言述べてからさっさと室を出て行った。陳宮はいわば郡内の役人を統括する立場にあったからである。 「へぇ、動きが早いね、さすがに。今のだろ、お前のたんこぶってヤツ。」 逆に頭を抱えたのは荀ケである。 「・・・いずれは同僚になられるかただぞ。」 「けっ、同僚の立場気遣ってまで仕事をする気にはならないね。それに本当に職務に忠実なヤツなら、オレからその役人が誰かをきいてから立ち去るべきだろ。何も聞かずに立ち去ったのは、将軍がおっかないか、お前に弱みを見せたくないかのどっちかってことさ。」 正論である。 だがあまり声を大にして言うべきことではなかった。なにしろ荀ケとしては陳宮との対立に引け目があるのだ。おもわずため息がもれる。 そこで曹操がおもしろそうに口を挟んできた。 「わが郡では法の遵守は絶対だ。」 「法の遵守ですか。法にもいろいろありますが、必ず守らねばならぬ法と、功績が優先される法の二つがあると思われませんか?」 戯志才の言葉に曹操も苦笑せざるを得ない。つまり先程の態度や、賄賂を贈って門を通ったことを不問にふせ、といっているのである。 「よかろう。しかし次は無いと思ってもらいたい。」 「かしこまりました。私も今回だけと思っておりました。」 「さて、法の遵守の次に儂がすべき事はなんであろうな。」 「軍の増強をはかるべきです。」 「それは陳留の郭を警戒しろ、ということか?」 今、董卓は長安にあり、代わりに李カク、郭の軍が潁川、陳留辺りを荒らしまわっている。曹操は彼らが北上するのか、と聞いているのだ。が、一方の戯志才はといえば少し冷めた様子で、 「――――――本気でお尋ねならば、私はこのまま北海へ帰ります。」 などとのたまった。あまりの言いように荀ケは絶句する。荀ケだけではない。その場にいた全員があっけにとられた。だがそれに反して曹操は爆笑する。 「わはははは・・・すまんすまん。荀ケからお主の才覚については聞いていたが、少しばかり試したくなっただけだ。なに、本気ではない。」 とたんに戯志才の顔も緩んだ。ふむ、と一つ頷くと、 「なるほど、そういうことでしたらお答えいたしましょう。彼らは潁川・陳留をさんざん略奪し尽くしており、手にした糧秣は膨大です。それを指をくわえてみている連中がいるでしょうか? 北上すれば必ず黒山の連中が動くでしょうし、袁冀州も狙ってくることでしょう。ましてや宛には今だ袁術が喉元に剣先を向けているのです。その危険を犯してまで北上させるほど董卓も愚かではないでしょう。」 「では何に警戒しろと言っているのか?」 「青州の黄巾賊です。」 曹操は一瞬「おや?」という顔をした。一方の荀ケは隣でギョッとしたように青ざめる。 「なに? 俺が知らないとでも思ったわけ?」 「どうして知っている・・・?」 「北海から来たのよ、俺は。途中情報はいくらでも入ってきたさ。」 「・・・文若。」 そこで曹操が重苦しい声で荀ケの字を呼んだ。とたんに荀ケははっとしたように曹操に向き直った。 「まだ情報が足らなかった故に進言いたしませんでした。青州の黄巾賊が公孫涼州の軍に破れ、南下しております。」 このころ青州の黄巾賊が集団で涼州へと入ろうとして涼州刺史たる公孫讃とぶつかっていた。その戦闘で公孫讃がついに黄巾賊を追い払ったというのである。 「破れた? ・・・それで、このエン州に入る勢いだというのか? 何故徐州に行かない? あそこは糧秣も豊富であろうに。」 「それは・・・・・・。」 荀ケは言いよどんだ。まだ確信ではなく予想でしかないことである。しかし戯志才があっさりとネタをバラした。 「裏で糸引いているのが陶徐州だからですよ。でなけりゃわざわざ公孫涼州と戦わず真っ先に徐州へ行っているでしょう。だいたいなんで徐州の黄巾賊が青州のやつらと行動を共にしているんですか。あからさまにおかしいと思われませんか?」 曹操はもちろん荀ケも初耳である。 「なぜ徐州の黄巾賊が共に行動しているとわかる?」 「だって連中の言葉は徐州なまりだったんだもん。」 「お前っ!」 つまり彼は『彼ら』と行動を共にしていたということになる。 「だって、連中の目を掻い潜ってくるより一緒に行動したほうがよっぽど安全だろうが。青洲殿が殺されてて、黄巾賊以外の賊の横行も激しかったしさあ!」 戯志才は荀ケの矛先を制する形でまくしたてた。そのいいざまに荀ケは目眩すら感じる。そんな荀ケを横目に戯志才は曹操に向かってさらに言い募った。 「劉エン州は戦に弱いらしいですから、ここぞとばかりに将軍の力を借りにきますぞ。まあ、将軍を推薦するのは将軍の力を削ぎたい袁冀州辺りではありませんかな。もっとも逆に劉エン州をぶつけておいて、多少弱まったところを将軍にまかせつつ、さも自分の手柄のごとく吹聴するかもしれませんが。」 くすくすと笑う戯志才に曹操もニヤリと笑ってこたえる。 「本初を知っておるのか。」 「文若が袁冀州のもとにいた時、幾度か手紙をもらいましたから。他人の言動にある意味無頓着な文若が、わざわざ文面に悪口を書いてきたのでよく覚えてますよ。」 おもわず曹操は声を漏らして笑い出した。逆に荀ケは苦い顔で戯志才の袖を引く。 「何と書いたのだ、文若?」 笑いながら曹操は尋ねずにはおられない。 その問いに、荀ケは苦々しい気持ちで重い口を開いた。 「・・・うろ覚えですが・・・・決断力の無い男と書いた憶えが――――――」 「体裁ばかり気にして、決断力の無い腰抜け。」 隣から戯志才がサラリと補足する。 その言葉に荀ケは顔を赤らめキッと睨んだ。 「ああ、それから『目先の利にとらわれ、浅はかで愚かな行為をやったあげく、尻拭い一つ出来ない坊や』とも書いてあったな。」 とたんに室内は爆笑の渦と化した。 「なんでそんな、事細かに憶えているんだ、お前はっ!」 「だって文若ってめったに他人の悪口言わないからさあ。あそこまで痛烈なやつは初めてだったし。早々に出て行くだろうな、とは思ってたけど、出て行った先が一太守って聞いた時は気でも触れたのかと思ったね。」 しかし、戯志才の最後の言葉にピタリと笑いがやんだ。 なにしろ曹操を遠まわしに『弱小勢力』と明言したからだ。 わかってはいても他人に言われると腹立つもので、このときも真っ先に夏侯惇が反論した。 「文若殿は先見の明をお持ちなのだ。」 「・・・・そのようですね。もともと俺より慧眼ですから心配してはいませんでしたが。」 戯志才はにこりと笑って夏侯惇にそうこたえた。 その言葉に曹操が身を乗り出した。 「・・・では、儂を助けてくれるというのだな?」 「私の力の及ぶ限り、将軍に仕えさせていただきます。」 戯志才はそういって深々と頭を下げた。すると曹操はやおら立ち上がり戯志才の手をとると、 「嬉しいぞ、お主のような智謀の士が来てくれたこと。共に太平の世を築こうではないか。そのためにどうすればいいか、どうか教え導いて欲しい。」 そういって喜びを全身であらわした。その手放しの喜びように、戯志才は驚きつつも喜色を隠せない。 ここに曹操陣営三人目の参謀が誕生した。 だが、これにより戯志才はあまりにも短い一生を終えることになるとは、このとき誰も予想していなかったのである。 そう。 曹操も、 荀ケも、 そして・・・・。 当の本人ですらも。 青州黄巾賊との戦闘直前のお話です。 劉エン州とは劉岱のこと、陶徐州とは陶謙のことです。 当時の官職は以下のとおり。 曹操・・・・東郡太守兼奮武将軍 荀ケ・・・・司馬 夏侯惇・・・折衝校尉 陳宮・・・・功曹 このときの青州牧が誰だったか忘れちゃったんです(涙。 たしか殺されてたと思うのですが・・・誰か教えてください(切実)。 |