転機 - 後編 -その日の夕刻。 曹操の腹心夏侯惇は数名の従者と共に政庁の正門前で主君を待っていた。 ほどなく戻ってきた曹操を見て、 (ああ、怒ってる・・・・・・・。) 内心やりきれなさを抱くものの、それさえも押し殺し駆け寄る。 「ご苦労でした。」 「まったくもって無駄な労苦をさせられたものだ、本初のやつめ!」 怒気をまきちらしながら、曹操ははき捨てる。 「駄目でしたか。」 「おい、いつまで臣化面しているつもりだ? 仕事は終わったんだぞ。」 完全にやつ当たりである。しかし夏侯惇は慣れたように肩をすくめて軽く流し、 「駄目だったんだな?」 「・・・・・・・・・・・・くそっ、儂を鞘当てにするつもりなのだ。公孫サンとの戦に区切りがついたら援軍を送るだと? 膠着状態の戦がいつ終わるというのだ!」 ふとそこで曹操が突然足を止めた。並んで歩いていた夏侯惇はニ三歩進んで歩みを止め、曹操の視線がある一点に注がれているのに気づくとそちらを見やる。その先では二人の下吏らしき男が談笑しながら歩いていた。そのうちの一人がこちらに気づいたのか、驚いたように目を見張り、すぐに傍にいた下吏に一礼してからこちらへと歩み寄ってきた。 「これは久しい、珍しいところで会うものだ。」 先ほどの怒りはどこへやら。 満面の笑みで挨拶する曹操を夏侯惇は不思議そうに見てから、もう一度こちらにやってきた男を観察した。 はっきり言って(ムカツクことに)美丈夫である。 背は夏侯惇には及ばないものの、高い方だろう。顔は、というと、さぞかし女性たちが騒いでいるだろう程の美男である。 彼は穏やかな笑顔を浮かべながら、 「ご無沙汰しております。私も将軍がこちらにおいでとはつい先ほど知りました。」 「では、何故儂がここにいるかもご存知のようだな。まあいい、立ち話もなんだ、近くの店でいっぱいやらんか。」 知りあいらしく気さくに誘う曹操は、そのまま夏侯惇の肩を叩くと。 「この男は名を夏侯元譲と言って儂の片腕でな。・・・元譲、こちらは荀文若殿だ。かの荀公の甥御殿だ。」 紹介され、互いに供手すると三人はそのまま街へと栗だし、一軒の宿場にはいると一室を借りきった。 自然話は黒山の賊へと移る。 「本初のやつめ、なんだかんだといちゃもんつけては儂を煙たがっておるのだ。」 ブスッと膨れっ面のまま曹操はそう言って酒をあおる。だいぶ酒が回っているらしい。 「どちらかというと袁将軍は援軍を出したがっている様子でした。ただ側近らが皆そろって反対したのです。」 荀ケは当たり触りなく・・・・・自分もまた反対した一人であることはぼかしてそう言えば、曹操はそれさえも鼻であしらった。 「しれたことか、奴の本音など。」 「来るだけ無駄だと俺は言っただろうが。どのみち自力であたるしかない、と。」 夏侯惇は曹操の杯に酒を注ぎつつ肩をすくめる。 「・・・・・・・・・自力で勝てるとわかっておればわざわざこんなところまで来るものか。」 「そもそも東郡のことに口をだすお前が悪い。」 「王昿はどうしても許せなかった。もともと殺すすもりだったのを黒山が動くとはな。思いもしなかったぞ。てっきり魏へ直進すると踏んでいたのだが。」 「あのな、王コウが前東郡大守を殺したことを住民が恨んでいたのは奴らとて知ってて当然だろう。その混乱を見逃すほど甘い連中じゃあない。」 (・・・・・・そういうことだったのか。) 酒を汲み交わしながら話す内容で、荀ケは事の真相に気づいた。 東郡大守王コウは、もともと劉タイに頼まれて、その前の大守橋帽を殺して地位を奪い取った。故に住民の反発が大きくそのスキをついて黒山が動いたのだろう。 てっきり黒山の賊を追い払うために曹操が河内より軍を動かしたときいていたが、事実は違うらしい。 思わず荀ケは尋ねずにはいられなかった。 「何故黒山が魏郡へ直進すると思われたのですか?」 そこで二人もようやく荀ケの存在を思いだし、曹操は一瞬ためらうもボソリと呟いた。 「・・・・奴らの背後に董卓がいる。」 その情報に荀ケは目を見張った。 だが言われてみればそれで全てがすんなりと納得ができる。 黒山が河内を襲わずなぜ東進したのか。それを考えればつまるところそういうことになるではないか。 河内の大守張楊は董卓派だ。 「袁将軍には・・・・。」 「言った。だが奴はそれでも動かなかった。何が董卓を討ち取るだ。董卓が糸惹くやつらに矛先向けずに、馬鹿みたいに公孫サンにばかり目を向けおって・・・・。」 曹操は再び一気に酒をぐいっと呑みほした。今度は荀ケが酒を注ぐ。 一気に沈黙が場を支配した。 夏侯惇も曹操も、荀ケですら黙って自分の思考にとらわれる。 だが荀ケだけは他二人とは異なるところで悩んでいた。 (どうする? 言えば・・・・・・・・・袁将軍への裏切りになろう・・・・・・・・・。) 荀ケには助言できるだけの策があった。 だが言えばそれは袁紹陣営にとっておもわしくない結果となる。ある意味今度のことは曹操という未知数の高い小英雄を潰す絶好の機会なのだ。それを救う手段を教えることに荀ケはためらいを憶えた。 そんな彼のとまどいを読み取った曹操。 「いかんいかん、つい口が滑ったようだ。貴公が本初の謀臣であることを忘れておった。すまんすまん。なに、所詮儂のたわごとよ。」 ワハハ、と笑って謝罪した。その気遣いが逆に荀ケの迷いをふっきらせる。 袁紹への裏切り? 違う。 これは袁紹にとっても幸いに転じることになるのだ。 曹操が今滅ぶは敵の多い袁紹にとって好ましいことではないはずだ。 それに・・・・・・。 荀ケの中にある一つの野心が芽生えていたのだ。 「お気遣いは無用です。それに将軍にとって今度ほどの好機、そうは巡ってきませんぞ。」 「好機? 今の難事がか?」 「はい。」 荀ケの真剣な眼差しに曹操も興味を惹かれ、身を乗りだしてきた。 「・・・・・・・教えて欲しい。いったい何を持って貴方は今度の辞退を好機とされる?」 「・・・・・まず、将軍は地盤となる土地をお持ちではありません。王府君のいない今、ここを本拠地となさるべきです。」 「もちろんそのつもりでわざわざやってきたのだ。」 「ですが、今のままでは袁将軍の配下の一人にすぎないでしょう。援軍をだされれば尚のこと。袁将軍の下から出にくくなります。将軍にそのつもりはないのではありませんか?」 「当然だ。できれば本初から独立したい。」 曹操はためらうことなく本音を告げた。 荀ケはその目が野心に輝くのを見てとると、一つ肯き。 「なれば自力で賊を追い払うべきです。先ほど自力では勝てぬと申されましたが、正直兵数はいかほどです?」 「・・・・・・・・・・一万と少し。」 荀ケはすぐさま脳裏に東郡の地図を思い描くと、口元に笑みを浮かべた。 そんな彼に夏侯惇も知らず身を乗りだす。 「なれば、勝機はございます。」 「待ってください。相手は十万の軍勢。いったい・・・・・。」 あまりの信じられない発言に夏侯惇は呆れたように呟いた。だが荀ケはかぶりを府って。 「数に惑わされてはいけません。そもそも黒山の賊は四人の頭目の連合によってなりたっています。単純に頭で割れば、一頭目につき二万五千。一万で勝てぬ兵力ではありません。しかも相手はもともと逃亡した農民や兵士たち。軍によって訓練を受けたわけではなく、日々の糧のためだけに賊へと落ちているだけのまとまりの悪い山賊です。」 「だが連携をとっている以上難しいのではないか?」 「・・・・・・初戦で全力を向けてくると思いますか?」 「それは・・・・。」 軍としてはありえない。 だいたい大軍であればあるほど大きく三つなり四つなりに分け、人海戦術による波状攻撃を得意とするのだ。 「そして、たとえ全力で向かってきたとしても、それを分散させることは可能なはず。なにより、全軍を向けてきたならば、それこそが好機となりましょう。」 「・・・・本陣ががらあきになる。」 「そうです。」 曹操がポツリと呟くと、荀ケは得たりと肯いた。 しばし沈黙がただよう。 だが、突然曹操が身体をゆらして笑いだした。 「くくく・・・・ははははは。儂もぼんやりとは考えておった。だがこうして助言を得ると、成功する確立が高くなる気がするのは何故だろうな。」 「オイオイ。」 何無責任なこと言ってるんだ、と夏侯惇がジロリと睨む。 「危険すぎないか?」 「危険は承知だ。しかし他に方法があるか? 攻城戦にしたって、援軍を見こめぬ以上意味はあるまい。ましてや逃げる・・・という選択肢はありえんぞ?」 「・・・・・・・・・・どうなっても知らんぞ俺は。」 「どうせ何もないところから始まったのだ。今更失ったところでまたやりなおせばいい。違うか?」 カラカラと笑う曹操。その隣で夏侯惇は呆れたように肩をすくめると一気に酒を飲み乾した。 「ああ、わかった。わかったよ。・・・・・・・フン、どうせ負ける戦と覚悟してるんだ。負けたところでたいして変わるまい。」 「そういうことだ!」 カラになった夏侯惇の杯に酒を満たし、自分の杯にも酒を注ぐと曹操はバンバンと夏侯惇の背を叩いて楽しそうに笑った。この姿を見ただけではとてもではないが、袁紹の謀臣らが恐れるような「姦雄」には見えない。 曹操はひとしきり笑うと・・・・・・ピタリと笑みをやめ、真剣な顔で荀ケを見やった。 「・・・・・・・・今、儂の軍には最大の弱点がある。」 (ああ、やはり・・・・。) 荀ケは、曹操がこれから口にするであろう言葉を容易に予測し、腹をすえた。 「どうだろう・・・・・文若殿、我が元へ来てくれぬか。」 荀ケは一瞬黙りこんだ。 夏侯惇もそれは予測していたのか、じっと二人を見つめたまま動かない。 荀ケのまぶたの裏に、家族の姿が・・・・・戦乱の惨劇が蘇る。 そして。 「私には夢があります。その夢を叶えるために、将軍を利用することになりますが、それでよろしいか。」 「夢・・・・とは?」 「戦乱のない太平の世。人々がそれぞれにふさわしい役割を果たせる世の中を。誰もが飢えることもなく、戦争によって親しい人を失うことなく、生きていける世を築くという夢。」 太平の世。 荀ケは完全に実現された世界を知らない。 幼少の頃は党錮の禁によって危険に晒され、志学の頃は世を憂える声しか耳にせず、多くの餓死する人々を目にしてきた。そして成人してからは・・・・・戦乱と飢餓しかしらない。 そんな世を次の世代には残したくない。 「無論だ。」 曹操が力強く肯く。 「それは儂の夢でもある。農民が剣でなく鍬を握り、子供が戦場に狩りだされず、学校へ行き、老人が逃げまどうでなく、穏やかに己が土地にて生をまっとうできる世。力を貸してくれ、文若殿。」 「されば・・・・・我が微力、曹将軍にお役にたてたく存じます。」 両手をあわせ供手すれば、とたんに曹操は喜色を浮かべて手を叩いた。 「そうか、来てくれるか! お主を得れば百万の味方を手にしたも同然だ!」 あまりの喜び様に荀ケのほうが驚き、そして嬉しくなる。 いったい今まで誰がこれほど自分を認めてくれただろうか。 これほど素直に力を求めてきただろうか。 男として自分の力が求められることほど嬉しいことはない。 「・・・・・・過分な期待は御身の禍となりましょう。」 手放しの喜びように、それでも荀ケは釘をさす。すると。 「どうせ滅びる寸前ですからな。たいした差はありますまい。」 「おい、元譲。それは言いすぎだろう! それで、いつこれる? このまま連れていきたいが、そうもいくまい。」 「あたりまえだろうが!!」 あまりのはしゃぎようにさすがに夏侯惇が止めに入った。 荀ケも困惑したように笑みを浮かべると。 「・・・・そうですね。今年中にはそちらに伺うようにいたします。」 「待っているぞ、それこそ一日千秋の思いでな。」 「ありがとうございます。」 この日。 荀ケにとって最大の転機とも言うべき日となった。 袁紹の謀臣から曹操の謀臣へと・・・・・姿を変えた最初の日だったのである。 その後すぐに曹操とは別れ、夜の通行の自由がきかなくなる前に自宅へと戻れば荀エンが困惑した表情で出迎えた。 「四弟の機嫌が悪いのはお前のせいだろう? いったい何をやらかした?」 呆れたように尋ねてくる荀エンに話を聞けば、昨夜より一言も口を開かず黙ったままむっとしているのだという。 荀ケも腹を据えて離す必要性を感じ、荀エンをつれだって荀シンの居室を訪れた。 部屋の隅と机上の灯りだけを頼りに、何やら書簡を広げ読みふけっているフリをしている荀シンの姿。 「四兄。」 荀ケがためらうように声を掛けると、荀シンは一度溜息を漏らし部屋へと招きいれる。 広げていた書簡を片付け、かわりにもう一つ灯りをともし、荀ケもまた勝手知ったように水差しに水が入っていることを確認してから椀を三つ用意するとそこに冷水を注いだ。 荀エンがゴクリと一口飲んでから荀シンが口を開く。 「・・・・・・・・・・・何を話した?」 「黒山の賊のことを。」 荀ケは正直に話した。 隠す必要はなかった。 なにしろ曹操と別れたとき一緒にいたのは荀シンである。おそらくそのときからおぼろげに荀ケの機微を悟ってはいただろう。だからこそここまで機嫌が悪く、落ちつかないのだろうから。 すると荀ケの言葉に、そのたった一言に彼が誰と会い、どうして荀シンが機嫌が悪いのかまで悟ったのが荀エンで、彼が荀シンの代わりに尋ねた。 「それで、お前としてはその曹操という男のもとへ行きたいんだな?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」 荀ケは何も言わずうつむく。いったい何を言えようか。 この二人にはいつも全てをあらいざらい見破られてきた。 言わずともその答えは見ぬかれるだろう。 けれど、二人の心を、特に荀シンのことを思えば口にすることなどできなかった。 荀シンもそれがわかっていて、それでもやはり再度重ねて尋ねてくる。 「そうなのか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。」 全身の力をふり絞って声をだした荀ケ。手には汗がにじみ、風の吹きぬける比較的すごしやすい部屋であるはずなのに、呼吸が苦しく感じられた。夜の涼しい風が灯を揺らし、三人の影を動かす。 そんな荀シンの口から一つの溜息が漏れたのはさて、どれほど後のことか。 チラリと顔を覗き見れば、そこには諦めにもにた表情が浮かんでいる。 荀ケはいたたまれず再び目を伏せた。 袁紹のもとで高遇されていたとは言いがたい状況にあったが、もとはといえば荀ケ自身が招いた結果である。それでも荀シンはなにかと袁紹にとりなし、おもんぱかってくれたのだ。 それら全てを踏みにじる行為でしかない。 ギュッと拳を握りしめると、一方で荀シンは力無い声でポツリと呟いた。 「・・・・・・・好きにするがいい。」 「四兄! 私は・・・。」 「言うな! ・・・・・・・・・わかっている。いや、わかっていたことだ。いつか・・・・・・お前がでていくだろうことは。」 荀シンはそういうと悔しそうに唇をかみしめた。 「だが、できれば共に同じ道を歩みたかった。それは私のわがままであり、お前のきにすることじゃない。」 「・・・・・・私も・・・・・兄上と道を違えたくないと強く願っております・・・・今でも・・・・・・。」 「一族が離散することはいいことだ。そう思え。」 荀シンはそういって荀ケの肩に手をのせる。 その暖かさに、そこに浮かぶ荀シンの優しい笑顔に荀ケはおもわず涙を一筋こぼした。 いったいどれだけ自分はこの兄に守られてきたことだろう。 年も比較的近いが故に、誰よりも可愛がってもらった。 宦官の娘と縁組したことにより非難され、多くの迫害を受けた荀ケを誰よりも理解し、誰よりもかばってくれたのは、この優しい兄であった。 ボロボロと涙が頬をつたい、手の甲を濡らしていく。 そんな弟に、荀エンもニヤリと笑うと荀ケの肩を抱き寄せ頭をぐしゃぐしゃとなでてやる。 「・・・・まったく、いつまでも甘ったれで無き虫なんだからな。これでは安心して外にだせないではないか、なぁ四弟。」 「そうですね、もう私たちは守ってやれなくなります。」 「奥方によく言っておいた方がいいかもな。無き虫で寂しがり屋な弟をよろしく、と。」 そこで荀ケは「え?」と顔をあげた。 彼は妻を置いていくつもりだったのだ。 そんな荀ケの言葉を先んじて荀エンは首を横にふる。 「つれていけ。人質を置いていく必要は無い。そこまで袁紹に義理ダテすることもあるまい。」 「三兄の言うとおりだ。それに、人質など他にいくらでもいる。」 荀シンも同じように肯いてそういう。 実際潁川にいた荀家のものは全てここにつれてきた。 女子供老人多々いる。 しかし。 「ですが・・・・それでは四兄の立場が・・・。」 「馬鹿もの!! 私のことを気にしてどうする!? そんなことでは曹操に天下をとらせることはできんぞ!」 とたんに荀シンが厳しい顔で怒鳴りつけた。 その言葉に荀ケも背筋の凍る思いがする。 そうだ。 自分は曹操に天下をとらせるために出ていくのだ。 そのために、いったいどれほどの議性があろうと。 「・・・・・・・・・どのみちこの乱世、一家離散するのは当たり前なのだ。将軍も理解してくださるだろう。」 「まぁ、わかってくれるかどうかは知らんが、俺も気にする必要はないと思うぞ。なにしろ相手は滅亡寸前の曹操だからな。袁公とてあざ笑いこそすれ、必死に止めようなんて思わんさ。それに文句言ってきても俺が出仕すればいいだけの話だ。」 荀エンはなんでもないかのようにそうぼやく。 荀エンは冀州のっとりの一件以来、反袁紹派である。 何かと理由をつけては出仕を拒んでいた。その兄が荀ケの都合で出仕するというのだ。 荀ケは今度こそ申し訳無い気持ちで二人の兄に頭を下げた。 「申し訳ありません・・・・・私のわがままで兄上たちを・・・。」 「気にするな。どのみち天下が安定するまでの間だ。落ちつけば再び会える。そのときにでも詫びの分含めてしっかりふんだくってやるさ。」 そのとき荀ケは先ほどとは比べられないほどの戦慄を憶えた。 天下太平。 そんな世が本当に訪れるのだろうか。 そして、訪れるとしてその前には必ず曹操と袁紹は衝突するだろう。 そのとき荀ケはこの兄たちと刃を交えねばならないのだ。 青い顔で黙り込んだ荀ケの心中を痛いほど察した荀シン。 「・・・・・何も言うな、私とてこの先どうなるかわからない。だが、目指すものは同じだ。いつの日かまた、こんな風に語りあおう。それまでの・・・・・・・・・・・・・・・別れだ。」 「兄上・・・・・・・。」 荀ケは今度こそおえつを漏らし、泣きだす。その涙は。 かなしみ つらさ やりきれなさ そして 二人の兄たちに変わらぬ優しさ 荀ケは泣かずにはおれなかったのだ。 そんな弟を見て荀シンはゆっくり立ちあがると荀ケの隣に座り、彼の頭をかきいだく。 最後の抱擁になるかもしれない。 そんな気持ちがわいてきたのか、荀シンも自然と涙がこぼれた。 そして荀ケも兄のあたたかい腕の中でひたすら涙を流し続けたのだった。 いつの時代も変わらぬ風が吹きこみ、灯りを揺らし続ける部屋の中。 いつの時代も変わらぬ肉親の愛がそこにはあふれていた。 出発の夜。 荀ケは家人の誰にも告げることなくそっと家をでた。 もし会えば別れが辛くなるとわかっていたからだ。 念のため書簡を置いてきた。 妻と子供たちを馬車に乗せ、わずかばかりの身の回りのものだけを積むと、自分も御者台に乗った。 隣には悲しそうな・・・そして少しだけ怯えた表情を見せる妻の顔。 「大丈夫だ、必ずまた会える。」 「・・・・・・殿・・・・・・・。」 「それまでの・・・・短い別れだ。」 嘘だ。 けれど、嘘を付かなければ自分までもが悲しみに心を殺されそうで。 一度だけ家をふりかえってから・・・・・鞭をふるい、馬車は静かに走り出す。 (・・・・・・こんな思いは・・・・私たちだけで充分だ・・・・・・・。) 肉親との辛い別れ。 親しい人々と刃を交えなければならないという現実。 乱世はそういった悲劇を生む。 それをくい止めるために自分は走り出すのだ。 太平の世に向かって。 そして。 残された人々。 荀ケの知らないまま、だが一族の誰もが馬車の音を耳にしていた。 肉親から・・・家人、下僕に至るまでその馬車の遠ざかる音をいつまでも聞いていた。 叔父荀フも。 兄荀エンも。 そして。 荀シンは馬車が門から遠ざかると、門から外にでて、姿が、音が、朝もやの中に完全に解けこむまで見送っていた。 (また・・・・・会おう。) 一人、心の中で呟く。 また会おう。 また、大いなる空のもとで。 太平の世で。 けれど荀シンとの再会がはたされることはなかった。 荀ケが再びこの冀州の地を踏んだとき、彼はすでに大地へと帰っていたからである。 そんな未来を知らぬ二人の兄弟は。 わずかな希望を胸に、今、道を違えるのであった。 前編へ ということで後編、長らくおまたせしました。 あまりに久しぶりすぎて、たぶんあちこちボロがあります。 許してください〜。 特に曹操との会話は・・・・流し読みで、ええ、記憶に止めぬ程度でお願いします! |