An Odor of Verbena
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(バーベナの匂い)-1
 私は夕飯をすませたばかりだった。そしてランプの下のテーブルの上で、ちょうどクック(訳注:一五五二 - 一六三四。イギリスの法律学者サー・エドワード・クック)の本を開いたところだった。そのとき、ウィルキンズ教授の足音が廊下に聞えたが、彼がドアの把手(とって)に手をかけたとき、一瞬、しんと静まりかえった。それで私はさとってもいいはずだった。人は予感というものについて、いろいろと雄弁にしゃべるが、私にはそんなものがてんで感じられなかったのだ。私は彼の足音が、階段に、ついで廊下に、それからこちらへと近づいてくるのを聞いたのだが、その足音はふだんとすこしも変ったところがなかった。私はもはやこれまでに三年間、この家に住んで、大学の学生生活を送っていたし、彼も夫人も、家のなかでは私をベイアードと親しみをこめて呼んでいたのだが、私が教授の部屋に――もしくは夫人の部屋に――ノックをしないでははいらなかったと同様に、教授は私の部屋にはいってくるのに、けっしてノックをしないということはなかった。ところがこのとき、彼はドアを、ドア止めにぶつけるほどはげしく内側へ押しあけ――その身ぶりは、ほとんど痛ましいほどに倦むことを知らぬ青年たちの訓戒師も、ついに常軌を逸したのかと思わせるほどのものであったが――そして、そこに立ったまま、教授はいった。
「ベイアード。ああ、ベイアード」
 私はさとってもいいはずだった。その心がまえをしておくべきだった。いや、おそらく私は心がまえをしていたのかもしれない。というのは、私は書物を読んでいた個所にしるしまでつけて、ゆっくりと閉じ、それからおもむろに立ちあがったことをおぼえているからだ。彼は(ウィルキンズ教授は)そのときなにかをやっていた、せかせかとなにかをやろうとしていた。そして私に手渡してくれたのは、私の帽子と外套だった。外套は必要ないだろうと思ったが、私はそれを受けとった。もっとも、(十月になっていたが、彼岸あらしはまだだった)この部屋をふたたび見るときまでには、雨季なり、寒気もましているだろうから、もし帰ってくるものなら、その帰り道には外套が必要になるだろうとか、「まったくね。これをゆうべやってくれたらなあ。ゆうべのうちに、ノックもしないで、ドア止めにぶつかって跳ねかえるほどひどくドアをあけることをやってくれていたら、ぼくはその出来事の起る前に、そこへ行っていられたんだが。その出来事が起ったときには、ちゃんとその現場にいて、あの人のそばにいられたんだが。たとえあの人が泥にまみれて死んだところがどこであるにしても」などと考えていたのではなかったら受けとらなかっただろうが。
「きみのところの下男が、下の台所に来ている」と彼はいった。彼が私につぎのような事情を話したのは数年後であった(だれかが話したのだ。きっとウィルキンス判事(訳注:ウィルキンス教授のこと)だったにちがいない)。つまり、リンゴーは、どうやら料理人をつきとばして家に飛びこみ、しかも引きさがるためにすでにからだをまわしながら、「サートリス大佐がけさ撃たれたんです。坊ちゃんに、わたしが台所で待っているからって、いってください」といったのだ。そして、夫婦のどちらもがまだ身動きもしないうちに、彼はそこから出ていってしまったのだ。「あの男は、四十マイルも馬で飛ばしてきたのに、なにも食べようとしないんだよ」このとき私たちは、私が三年間もその内側で暮してきたドアのほうにむかって動きだしていた。そしていまはその事件がなんであるか、私も知っていたのだ。私はそのことの起るのをこれまでもはっきりと信じ、かつ期待していたにちがいないのだが、さっきドアのむこうに近づく足音を聞いたときには、その足音のうちになんにも虫の知らせは受けとっていなかったのだ。
「なにか、わしにできることでもあったら」
「先生、ぼくの下男に新しい元気な馬をつごうしていただきたいんですが。あれは、ぼくといっしょに帰りたがるでしょうから」
「ぜひともわしの馬と――家内のを使ってくれたまえ」と彼は叫んだ。彼の語調はふだんとすこしもちがわなかったが、それでも叫んだのだ。そして同時に、私たちは二人とも、これはこっけいだ、ということに気づいたようだ――その馬は脚の短い、胴まわりのずんぐりした、栗毛の、まさしく独身の音楽女教師といったふうに見える馬で、ウィルキンズ夫人が籃馬車をひかせている馬なのだ。だが、それは私にとってぐあいがよかった。手桶いっぱいの冷水をかぶることが、そのときの私にぐあいがよかったように。
「ありがとうございます、先生。でも、その必要はないでしょう。ぼくは自分の雌馬を受けとるとき、あいつにも貸馬車屋で新しい馬を借りてやりますから」ちょうどよかった。というのは、私はまだこれをいいおわらぬうちに、その必要がないことに気がついたからだ。きっとリンゴーは、大学へやってくる前に、貸馬車屋に立ち寄ったにちがいない。そして万事よろしく気をきかせたにちがいない。彼の乗る新しい馬と私の雌馬は、もうちゃんと鞍を置かれて、横の柵のところで待っており、したがって、私たちはぜんぜんオックスフォード(訳注:ミシシッピ州のオックスフォード)を通りぬける必要はないにちがいないのだった。もしルーシュが迎えにやってきたのだったら、そんなことは夢にも思いつかなかったであろう。彼ならまっすぐに大学へ、ウィルキンズ教授のもとへやってきて、あの知らせを告げ、それっきりすわりこんでしまって、そのあとは、私がなにかいうまで、すこしも動かなかったであろう。ところが、リンゴーはそんな男ではないのだ。
 教授は部屋からずっと私についてきた。そのとき以来、私とリンゴーが、暑い、濃い、ほこりの立ちこめる闇のなかへ、いそいで馬を乗りだすまで、教授は、私の横だったかうしろだったかに、とにかくどこまでも、私にくっついてきた。横だったかうしろだったか、そんなことを私ははっきりと知りもしないし、だいいち、そんなことに私は無関心だった。彼はまた、なんとかして私に自分のピストルを貸そうと思って、そのきっかけのことばを見つけるのに苦心していた。私には彼のこういうことばがほとんど聞えるような気がした――
「ああ、じっさいここは不幸な土地だな。あの熱病から解放されてまだ十年もたたないというのに、男たちはあいかわらず殺しあいをしなきゃならない。われわれはあいかわらずカインのように血で血を洗わなきゃならないのだ(訳注:カインはエホバの神への供物が弟アベルのより劣るのを怒って、弟を殺す)しかし彼はじっさいにそんなことをいったわけではなかった。彼はただ私のあとについてきただけだった。私の横かうしろにくっついて、階段をおり、玄関のほうへむかっていったが、そこでは、ウィルキンズ夫人がシャンデリアの下に待っていて――やせた白髪の婦人で、私にお婆ちゃんのことを思いださせる人だった。それはおそらく、彼女がお婆ちゃんに似ていたからではなく、彼女がとうからお婆ちゃんを知っていたせいだったろう――心配そうな顔を静かに上に向けていたが、その顔は、剣に生くる者は剣に死すべし、とでも考えているようなふうだった。お婆ちゃんなら考えそうなことだ。そのほうにむかって私は歩いていった。歩いてゆかなければならなかったのだ。それは、私がお婆ちゃんの孫息子であり、夫人の家で三年間の学生生活を送り、九年前(訳注:南北戦争(一八六一 - 六五)のときをさす)、ほとんど最後の死闘で戦死したときの夫人の息子と同年輩である、という理由からではなく、いまや私は「サートリス家の当主」であるからだった(サートリス家。それはさっき、ウィルキンズ教授が私の部屋のドアをあけたときに感じた、ついにそのことは起ったという感情とともに、私の頭にひらめき、こびりついていた名前なのだ)。夫人は私に、馬もピストルも提供するとはいわなかった。それは彼女が、ウィルキンズ教授よりも私を愛することがすくないせいではなく、彼女が女性であり、したがって、いななる男性よりも賢明であるからだった。男たちは女性よりもバカであるからこそ、負けるとわかっているのに、二年間も戦争をつづけたのだ。彼女はただ両手を私の肩に置いて(小さな婦人で、死んだお婆ちゃんとほとんどおなじくらいの大きさしかなかった)、「ドルーシラとジェニー叔母さんによろしくね。そして、できたらまた帰っていらっしゃいよ」といっただけだった。
「それが、いつになるかまったくわからないんです。しなきゃならないことがどれくらいたくさんあるか、見当もつかないんですから」。そうだ、私は彼女にさえウソをついたのだ。教授がドアをはげしくあけてドア止めに跳ねかえらせてから、まだほんの一分間ほどしかたっていなかったのに、もはや私は、ただ一つだけのほかは、測る尺度をいまだになに一つも持ちあわせていなかったあのことに、気がつきはじめていたのだ。そのただ一つの尺度というのは、私自身や、その生立ちや、背景にもかかわらず(あるいはかえってそのために)私がそうなりつつあるあるのだとしばらく前から気がつき、それを試されるのをこわがっていたことだった。夫人の両手が肩に置かれているあいだ、自分がどんなふうに考えていたか、私はまだおぼえている――すくなくともこれは、おれ自身がはたして自分で考えているとおりの人間であるかどうか、あるいは、ただそうありたいと望んでいるだけなのかどうか、日ごろおれが正しいと自分にいいきかせていることをはたしておれがするかどうか、あるいは、ただそうすればいいがと願っているだけのことなのかどうか、それを見いだすチャンスになるだろう。
 私たちは台所へ行った。ウィルキンズ教授はあいからわず、私の横かうしろにくっついてきていた。そしていろいろとことばをかえては、ピストルと馬とを私に貸してやろうということを、うるさく申したてるのだった。リンゴーは待っていた。私はいまでもよくおぼえているが、そのとき私が考えていたのは、たとえ私たち二人のどちらにどんなことが起ろうと、私はけっして彼にたいしては「サートリス家の当主」にはなるまい、ということだった。彼も私とおなじく二十四歳だった。だが彼は、私たちがあの古い綿の圧搾機械の小屋のドアにグランビーのからだを釘づけにしたあの日から、私ほどには変っていないともいえた。おそらくその理由は、彼が私よりも先に大人になってしまったせいであろう。あの夏、彼とお婆ちゃんとが北部人たちとラバの取引をしているあいだに、彼はひどく人間が変ってしまったので、それ以来、私はひたすらに彼においつこうとして、精いっぱいの変化をつづけなければならなかったのだ。彼は冷えたストーヴのそばの椅子に、ひっそりと腰をおろしていた。四十マイルも馬を飛ばしてきた人らしく、疲れきったようすをしていたが(ジェファソンか、あるいはどこか、道ばたでとうとう一人きりになったとき、彼は一度声をあげて泣いたのだ。土ぼこりが、顔の、涙が流れたあとにこびりついて乾いていた)、あと四十マイル駆けても、けっしてものを食べようとしないだろうと思われるような顔つきをしていた。彼は疲労のためにすこし赤くなった眼をあげて、私をふりあおいだ(あるいは、たんなる疲労以上のものだったかもしれない。だからこそ、私はけっして彼に追いつけないのだ)。それから、一言もいわずに立ちあがると、ドアのほうにむかって歩きだした。私はそのあとへつづき、ウィルキンズ教授は一言もものをいわずに、あいかわらず馬とピストルを私に提供しようとし、あいかわらず「剣に死すべし。剣に死すべし」と考えながら(私にはそれも感じられたのだが)くっついてきた。
 私の期待どおりに、リンゴーは二頭の馬に鞍を置いて、横の門のところに待たせていた――彼の乗る新しい馬と、父が三年前に私にくれた雌の馬とだった。この雌馬は、どんな日でも一マイルを二分以下、終日駆けとおしても、一マイル平均八分という逸物なのだ。彼はすでに馬にまたがっていたが、このとき私は、ウィルキンズ教授の欲していることは、私に握手をすることだと気がついた。私たちは握手をかわした。彼が、あしたの晩はもうこの世には生きていないかもしれない肉体に自分はふれているのだと信じていることが、私にはよくわかった。一瞬、私は自分がしようとしていることを彼にうちあけようかと思った。私たちはそのことで話しあったことがあるからだった。聖書のなかに、もし神がほかのなにものよりも先に不滅たらしめんとして選びたもうた、神の盲目(めしい)にして迷える子のために、いささかなりとも希望と平和とをもたらすようなことが書いてあるとすれば、それは「汝殺すなかれ」であるにちがいない、と話しあったことがあるからだった。それを彼は私に教えたとさえ考えていたにちがいないからだった。ただし、それは誤りで、そいういうことはただ学んだというだけのものではないのであるから、彼にしても、だれにしても、また私自身でさえも、教えるなんてことはできないのだ。だが、私は彼になにもいわなかった。彼はそのようなことを強いられるには、そのような決定を原則としてでも認めるには、老人すぎるのだった。老人すぎて、血と生立ちと背景をもはばからずに、原則に固執することなど、とうていできないのだった。警告も受けずに相手を迎え、暗闇から飛びだした追剥(おいはぎ)に強いられるように、意見を吐くことを強いられるのは、とうてい耐えられないのであった。それは、若いものにだけできることなのだ――自分の若さを臆病の正当な理由として(弁解としてではなく)無償で提供してもらえるほどまだ若い青年だけに。
 だから、私はなにもいわなかった。私はただ握手をして、やはり馬にまたがり、リンゴーとともに進みはじめた。私たちはもはやオックスフォードを通りぬける必要がなく、したがってすぐに(空には三日月が、ぬれた砂地の深靴の踵の跡のようにかかっていた)ジェファソンへの道が私たちの前にひらけた。この道を私は三年前にはじめて、父といっしょに通ったのだった。それからクリスマスのときに二度、ついで六月と九月に、そしてまたクリスマスのときに二度、さらにふたたび、六月と九月の学期休みにというふうに、ただ一人この雌馬に乗って、これが平和だとも気づかずに通ったのだった。それがこんどは、おそらくはこれを最後に、死ぬことはないだろうが(私にはそれがわかっていた)、これっきり永久に昂然と頭をあげることのできない男としてこの道を行くのだ。二頭の馬は、四十マイルつづくだけの歩度をとって進んでいった。私の雌馬はその長い道をよく知っていた。リンゴーのもいい馬だった。貸馬車屋のヒリヤードを説きつけて、りっぱなやつを手に入れたのだ。説きつけたというより、おそらく涙のせいだったかもしれない。彼はさっき、疲労のためか赤く血走った眼をあげて、涙が流れたと思われる場所に乾いた土ぼこりをこびりつかせたまま、私を見つめたのだった。だが、それはいま考えてみると、むしろ、あの当時、彼とお婆ちゃん用に米国陸軍書簡箋をいつでもたやすく手に入れさせていたのとおなじ性質のもの――つまり、白人たちとの交際があまりにも長く密接すぎたことから得たところの、ある途方もない自信だったと思われる。その白人というのは、一人は彼が「お婆ちゃん」と呼んでいる人であり、もう一人は私たちが生れたときから父が家を建てなおしたときまで、彼がいっしょに寝起きしていた人間のことであった。私たちは一度つぎのようなことばをかわしたが、それっきりもう口をきかなかった―― 「わたしたちは、やつに不意打ちをくわせようと思えば、できるんですよ。あの日、グランビーをやっつけたようにね。だが、そんなことはあんたのような白い肌には似合いませんね」 「そうだよ」と私はいった。二人の馬は進んでいった。十月だった。バーベナ(訳注:城、赤、柴などの花をつける、丈の低い、香りのよい庭草)の花の咲く時期は、まだ充分に続いていた。だが、バーベナが必要だということがはっきりわかる前に、私は家に帰りついていなければならなかった。庭のバーベナの花の時期は、まだ充分ありはしたが。その庭では、ジェニー叔母さんが、父の古い騎兵用の長手袋を手にはめ、ジョービー老人とならんで、風変りな、かんばしい、古い名前のついたいろんな植物が、後生大事に秩序整然と植えられている花壇のあいだを、ぶらぶらと歩いていることだろう。なぜなら十月ではあったが、まだ雨は一滴も降らず、そのため、あの小春日和の日の最初の暖かいような寒いような夜をもたらす(あるいは、その原因となる)霜はまだおりていなかったからである――空飛ぶ雁(カリ)には冷たくて空虚な感じがしても、野ブドウやサッサフラス(訳注:北米産のクスノキ科に属する落葉樹)の、暑くてほこりっぽいにおいをいまだにただよわせている、生気のない、眠気をさそうような、あの小春日和の日の夜の空気――私が成人して法律を学ぶために大学へ行く前のことだったが、そんな晩に、リンゴーと私は、かんてらと斧と頭陀袋(クローカー・サック)と六匹の犬(一匹は追跡のための犬、他の五匹はただ臭跡を発見して喚声をあげるだけの犬)をひきつれ、牧場でフクロネズミ狩りをよくやったものだった。私たちがあの日の午後、はでな馬に乗った北部人を、生れてはじめて見たときにひそんでいた場所は、その牧場だった。その牧場にも、昨年以来、汽車の汽笛が聞えるようになっていた。そこは、レッドモンド氏の手からずっと以前にはなれていた。父が午前中のある一瞬、ある瞬間に、倒れたのもその牧場においてであった。リンゴーの話によると、父はそのときパイプをすっていたそうであるが、そのパイプは、父が倒れたとき、父の手からはなれ落ちたそうである。
 私たちの馬は、家にむかって進んでいった。父はいま、軍服を着て(サーベルもつけて)家の居間に横たわり、ドルーシラは光り輝くシャンデリアの下で、黄色い舞踏服をまとい、髪にはバーベナの小枝をさして、装填した二挺のピストルを手にしながら、私が帰るのを待っていることだろう(予感などぜんぜん感じなかった私にも、そのようすだけははっきりと想像できるのだった。葬儀の準備がきちんとできている、明るい整った部屋の中にいる彼女の姿が、私の心の眼にははっきりと見えた――女のようにではななく、男の子のように、背丈が高く、ほっそりとしていて、じっと身動きせず、黄色い服を着て、静かな、ぼんやりとしたといってもいいよな表情をうかべ、簡素で地味な頭をして、両耳の上にはバーベナの小枝を釣合いよくつけ、両肘をまげ、両手を肩の高さにあげて、おなじ型の決闘用のピストルと一挺ずつ、握りしめもしないで、それぞれの掌の植えに軽くのせている――簡明にして形式の整った、烈々たるものを感じさせるギリシア古甕(こおう)の尼僧の姿)。

(バーベナの匂い)-2
 ドルーシラは、父が夢を持っているといった。彼女と私は、よく夏の日暮れどきに庭を散歩しながら、鉄道から馬で帰ってくる父を待っていた。私はそのとき、ちょうど二十歳だった。それは、父が私にぜひもたせようときめてかかっていた法律の学位を取るために、私が大学へ入る前の夏だった。その年から四年ほどの前の、ある夏の日の夕方、父とドルーシラは、キャッシュ・ベンホー老人が連邦裁判所の事務官になろうとするのをやめさせ、あいかわらず正式な夫婦とならずに家に帰ってきたのだった。ところがそのとき、ハーバシャム夫人はその二人をむりやりに自分の車に乗せ、ふたたび町に連れ帰って、新設の銀行の、うす暗い小さな部屋から彼女の夫をひっぱりだして、二人の山師(カーペット・バガー)(訳注:南北戦争直後のどさくさまぎれに、ひともうけをたくらんで南部にはいりこんできた北部人)を殺したことにたいする父の始末書に署名させ、それから、父とドルーシラを自分で牧師のところに連れていって、二人を結婚させたのである。父はまた、焼失してしまった家を再建していた。黒焦げになった前とおなじ地所に、おなじ穴蔵の上に、おなじような家を建ておわっていた。ただ前のよりはるかに大きな屋敷であった。ドルーシラは、ちょうどヴェールのついた花嫁衣裳が自分の夢の実現であるかのように、その家は父の夢の実現である、といった。そして、ジェニー叔母さんがいまは家族の一員となっていた。そこで私たちは庭をつくり、ドルーシラが髪にさすためバーベナの小枝を採ることができるようにした(ドルーシラは、父とおなじく、花など気にかけるような女ではなかった。彼女はいまでもまだ、戦争がすんで四年もたったいまでもまだ、男の服を着、断髪にし、父の部下とおなじように、シャーマン軍をむこうにまわして、ジョージア州や南北両キャロライナ州の戦場を駆けめぐった、あの戦争最後の年の空気を呼吸し、そのなかに生きているようなようすだった)。ドルーシラの説によれば、バーベナこそは、千軍万馬のうちにあってもその匂いを失わない唯一の植物であり、したがって、髪にさす値打ちのある唯一のものだそうである。
 当時、鉄道は、まだやっとはじまったかはじまらないところだった。父とレッドモンド氏とは、あいかわらずの協力者であったばかりでなく、あいかわらずの友人同士でもあった。その事実は、父にとってはじつに空前の出来事ともいえることだ、とジョージ・ワイアットはいっていた。父は毎日、夜が明けるとすぐ、ジュピターに乗って家を出、未完成の鉄道線路を見まわって歩いた。金曜日には金貨を借りてきて二つの鞍嚢(サドルバッグ)につめ、土曜日に労働者たちに賃金を支払っていた。ジェニー叔母さんの話によると、父はいつも枕木二つの距離だけ、保安官の前を進んでいたそうである。かくて私たち二人は、黄昏どき、ジェニー叔母さんの花壇のあいだをゆっくりと歩きまわった。ドルーシラは(いまでは女らしい服装をしていたが、父が許しさえすれば、いつだってすぐにでもズボンにはきかえたい彼女であった)軽く私の腕に寄りかかっていた。私は彼女の髪にバーベナの匂いをかいだ。匂いといえば、私が彼女の髪と父の顎ひげのなかに、雨のにおいを感じたのは、四年前のあの夜のことであった。その夜、父とドルーシラとバック・マッキャリスン叔父さんはグランビーの死体を発見し、それから家に帰ってきて、リンゴーと私がただの熟睡以上の状態にあることに気づいたのだった――リンゴーと私は、神か自然かあるいはなにものかが、さしあたりしばらくのあいだ、子供に要求される以上の仕事をやらなければならなかった私たちにあたえてくれたあの忘却の淵に、逃げこんでいたのだ。というのは、年齢にはある程度の限度がなければならず、それ以下では、人を殺したりしてはいけないという若さの制限があるはずだったからである。その散歩はちょうど、あの土曜日の晩の直後のことだった。その土曜日の夜には、家に帰ってきた父が、デリンジャー拳銃を掃除して、ふたたび弾丸をこめるのを、私はじっと見まもっていた。そして死んだその男というのは、ほとんど父の隣人ともいうべき人間で、投票によって父がその指揮権を失ったときの第一歩兵連隊に所属していた山の住人であることを私たちは知った。その男がじっさいに父にたいして強盗をはたらこうとしたのか、あるいは、父の射撃が早すぎたのか、その点は知るよしもなかった。ただ、その男には妻と数人の子供があり、彼らが山の、お粗末な土間の小屋に住んでいるということだけがわかった。父は翌日、彼らにたいしてなにがしかの金を送ってやったが、それから二日ほどして、私たちが昼食のテーブルにむかっているとき、彼女(その男の妻)は家のなかにはいってきて、その金を父の顔に投げつけたのだった。
「だけど、サトペン大佐ほど大きな夢を見られる人はいないね」と私はいった。サトペンというのは、第一歩兵連隊で父の副官をしていた人で、第二マナサス戦(訳注:マサナスはヴァージニア州にある町の名で、南北戦争当時の激戦地)のあと、父が連隊から退けられたとき、大佐に昇進した人だった。父が心から憎んでいたのは、連隊ではなく、このサトペンという男だった。サトペンは育ちの悪い、冷たい、無慈悲な男で、戦争がはじまる三十年ほど前に、この地方に流れこんできたのだった。どこから来たのか、だれもその出場所を知らなかったが、父は、やつの顔を見つめていれば、やつが自分からその出場所をいおうとしないの理由がよくわかる、といっていた。彼は土地を少し手に入れたが、それもどういうふうにして手に入れたのかだれも知らなかった。それから、どこからか金を手に入れてきて――彼はトランプ詐欺師か、まごうことなき追剥として、蒸汽船の乗客から金品をまきあげた、とみんなは信じこんでいる、と父はいった――大きな家屋敷を建て、妻をめとって、いっぱしの紳士になりすましていた。ところが、戦争のおかげで、ほかのすべての人と同様に、彼もすべてを失ってしまい、子孫にかけた希望もすっかりぶちこわされてしまった(彼の息子は、彼の娘の許婚者を結婚式の前の日に殺害して逃亡した)。しかし彼は家に帰ってきて、単身、農園の再建に着手した。彼には借金できるような友人もなく、その農園をつがせるべき人間もいなかったし、それに年は六十を越していたが、昔どおりの農園を再建しようと、身を乗りだしたのである。そして、人の話によると、その仕事に熱心なあまり、政治なんかはぜんぜんふり向きもしなかったらしい。山師(カーペット・バガー)たちが黒人を煽動して叛乱を起させるのを阻止するために、父やほかの人たちが夜警隊を組織したときにも、彼はそれに関係することを拒んだ。父はすでにとうの昔から、彼を憎むことをやめていたので、サトペンに会いに、みんなとわざわざ馬を駆っていったが、彼(サトペン)はランプを手に戸口に出てきただけで、彼らをうちのなかに招き入れて、その問題を話しあおうとさえしなかった。そのとき父が、「きみはわれわれの味方なのか、それとも敵なのか?」というと、彼は、「わしは、わしの土地のことで手いっぱいだ。もしみんなが、おたがいに自分の土地の復興をはかりさえすれば、いろんな問題も自然に解消してしまうんだが」と答えた。そこで父は彼に挑戦し、ランプを外へ持ちだし、切り株の上に置いて、その場で撃ちあいをやろうといったが、サトペンはそれに応じようともしなかった。
「やっぱり、そんなにおおきな夢は、ほかのだれにももてっこないよ」
「そうね。だけど、その夢は、あくまでサトペンさんを中心にした夢だわ。ジョンのはちがうのよ。あの人はこの地方全体のことを考えて、根本から建てなおそうと思っているのね。そうして、あたしたちや、あの人の昔の連隊の人たちばかりでなく、黒人も、白人も、靴もはけないような山の女や子供たちまでも、すべての人が――ねえ、わかるでしょ?」
「だが、父がいくら彼らのためになにかしてやろうと思っても、もし彼らが――父があんなことをしてしまったあとなんだから――」
「彼らを殺したっていうこと?あの最初の選挙を行うために、あの人が殺さなければならなかった、例の二人の山師(カーペット・バガー)も、そのなかにはいるのね?」
「彼らだって人間だよ。ちゃんと生きていたんだ」
「彼らは北部人よ。ここにはなんの用もない他国者(よそもの)だわ。掠奪者だったのよ」私たちは歩きつづけた。私の腕に寄りかかるようにしている彼女のからだの重みはは、ほとんど感じられなかった。彼女の頭は軽く私の肩についていた。私はいつでも、彼女よりすこしばかり背が高かった。道を通りすぎてゆく黒人たちの足音に耳をかたむけたあのホークハーストでの一夜のときも、私は彼女より背が高かった。そして、それ以来、彼女はほとんど変わっていなかった――あいかわらず男の子のようなかたさをもった彼女の肉体。乱暴な刈りかたをした、密集してごわごわした髪の毛。私たちが川のなかに落ちていったとき、潮のように流れてゆく、歌い狂う黒人の群れを見おろす馬車の上から、私はそれを見つめたのだった――女のようでなく、男の子のようにすらっとした彼女の肉体。「夢なんて、近づくと、あんまり安全なもんじゃないわね、ベイアード。あたしよく知ってるわ。あたしにも、昔は夢があったんですもの。夢なんて、軽い引金がついた、弾丸をこめたピストルみたいなもんね。いつまでも消えない夢だったら、そのおかげでだれかがきっと怪我をするわ。だけど、それがいい夢だったら、そりゃあ、それだけの値打ちがあるのよ。この世の中には、夢ってものはあんまりたくさんはないけど、人間の生命(いのち)の数は多いわね。そして、一人の人間の生命も、二ダースの人間の生命も――」
「たいした値打ちはないというのかい?」
「ちがうわよ。そんなんじゃないの――おや、ジュピターの足音が聞えるわ。さあさあ、家まで競争しましょう」彼女はすでに走りだしていた。彼女のきらいなスカートが、ほとんど膝のところまでまくれあがっていた。その下に見える脚は、男の子のような駆けかたをしていた――ちょうど、彼女が男まさりの馬の乗りかたをするように。
 私はその当時二十歳だった。ところが、つぎのときには私も二十四歳になっていた。大学の三年生の課程をおえ、あと二週間もしたら、最終学年の課程を修め、学位をとるために、オックスフォードへ帰ろうとしているときだった。それはちょうど、この前の夏、この前の八月のことだった。父が州議会議員選挙でレッドモンドに勝ったところだった。鉄道はすでに完成しており、父とレッドモンドの提携は、ずっと以前に解消していた。たとえ二人がおたがいに反目しあっていなかったせよ、彼らがかつては協力者であったことなど、たいていの人は忘れてしまっていたであろう。もう一人別の協力者がいたのだが、ほとんどだれもその男の名前をおぼえていなかった。その男とその男の名前はともに、父とレッドモンドとのあいだのはげしい葛藤のうちに忘れ去られてしまったのだ。その葛藤というのは、ほとんど鉄道敷設工事が開始される以前からはじまっていたもので、父の狂暴冷酷な独裁的支配欲(鉄道敷設のことを思いついたのは父であった。父は鉄道のことをまず思いついて、それからレッドモンドをそれに誘いこんだのであった)と、レッドモンド(ジョージ・ワイアットのいうように、彼は臆病者ではなかった。もし臆病者だったら、父はけっして彼と提携などしなかったであろう)の、平気で父からできるだけ超然としていられる性格、なにものかが(彼の意志や勇気ではないが)彼の心中でくずれおれてしまうまでは、忍びに忍び、耐えに耐えることのできるという彼の性格、とのあいだに生じたものであった。戦争中レッドモンドは軍隊にはいらず、政府御用の綿花事業に関係のある仕事をしていた。そして、その仕事からひともうけすることも、もししようと思えばできたのであるが、彼はそんなことはしなかった。その事実はみんなが知っていた。父も知っていた。それなのに、父は彼が硝煙のにおいをかがなかったといって、よく彼を嘲罵(ちょうば)さえしたものだった。その点、父がまちがっていた。父もそれには気がついていたのであるが、時すでにおそかった。酔っぱらいが、どうにもあとにひかれぬ点にまで達してしまい、自分でこれこれのことをしようと自分の心に約束して、そうできるだろうと心のうちではおそらく信じこんでいても、時すでにおそく、なんともいたしかたないのと同様だった。かくして、その二人の仲はついに決裂点にまで達し(二人とも、抵当に入れたり借りたりすることのできるものはすべてその事業につぎこみ、それによって、父が鉄道工事の見まわりをやり、作業員の賃金やレールの運送費などを、延ばせるだけのばして支払っていたのである)父でさえも、二人のうちのどちらかが身をひかなければならないことに気づくようになっていた。そこで(二人はもう口をきかなくなっていたので、以下のことは、ベンホー判事のあっせんによるものであった)二人は相会して協議し、価格をきめて、どちらかがそれを一手に買いとることに話がきまった。その価格は、二人が事業に投じた総額からみれば、バカらしいほどの低いものであったが、どちらも、相手側はその資金を調達することができないだろうと信じこんでいた――すくなくとも父は、レッドモンドはわしには資金調達できないと思いこんでいる、と主張していた。そして、レッドモンドはその価格を承知したのであるが、そのあとで、それだけの現金を父が持っていることがわかったのだ。そもそも、父の説によれば、現金がこちら側にあればこそ、別れ話をはじめたのだというのだが、バック・マッキャスリン叔父さんは、父は鉄道にはもちろん、豚の子一匹にたいしても、これっぽっちの利権さえ持つことはできなかったであろう、たとえ相手のレッドモンドが父の不倶戴天の敵であろうと、ともに死を誓うほどの盟友であろうと、別れ話などをするのは理不尽だ、といっていた。こうして二人は別れ、父がその鉄道を完成した。そのころまでには、完成するのを見こした北部の人が、信用貸(クレジット)で機関車を一台父に売ってくれた。その機関車の運転室には銀の油缶(オイルキャン)がついていたが、父はジェニー叔母さんの名前をとって、それをその缶の上にほりつけ、その機関車の名前にしたのである。そして、この前の夏に、とうとう開通列車がジェファソンの町に乗りこんだのだが、きれいに花を飾りつけた機関車の運転室に乗っていた父は、レッドモンドの家の前を通りすぎるときピーピーと汽笛を鳴らしつづけた。それから、さらに多くの花が飾られ、連邦旗(訳注:南北戦争当時、南部連合に参加した十一州をアメリカ連邦ともいったが、その旗である)がへんぽんとひるがえり、白いドレスに赤い飾帯(サッシュ)の娘たちが居ならび、バンドが祝楽を奏する駅頭で、いろいろと祝辞がのべられたが、父は機関車の排障器(パイロット)の上に立って、レッドモンド氏にたいする、まったく余計なあてつけのことばを、露骨な表現でまくしたてた。問題はそこにあった。父はけっしてレッドモンド氏のことをかまわずにおこうとはしなかったのだ。その父の演説のすぐあとで、ジョージ・ワイアットが私のところに来て、つぎのようにいった――「正しいにしろ、まちがっているにしろ、この郡のわれわれ若いものや、たいていの人間は、ジョンのほうに道理があるということをよく知ってるんだ。だが、ジョンはレッドモンド氏のことを、あれこれいうべきじゃないね。だいたいどこにそういうことの原因があるか、それはよくわかってる。あの人はいままであまりにも多くの人間を殺さなければならなかった。よくないことだよ。だが、ジョン大佐がライオンのように勇猛であろうことは、われわれがみんなよく知ってることなんだし、といって、レッドモンド氏だって臆病者じゃないんだ。勇気ある人が、一度くらいあやまちをおかしたからといって、そのためにその人にしょっちゅう恥をかかせるなんて、いいことじゃないよ。きみひとつ、お父さんによく話してみてくれんかね」
「さあ、できれば話してみましょう」と私は答えた。だが、その機会がなかった。機会がなかったというのは、話そうと思えば話せたし、父も耳をかたむけてくれたであろうが、なにしろ機関車の排障器の上での演説がすんだとたんに、父はこんどは州議会議員の候補としてレッドモンド氏と競争することになったので、父がたとえその気になっても、私のいうことなんかに耳をかすことはできなかったわけだ。おそらく父は、レッドモンド氏が自分の面子を保つためにも、立候補して父に対抗しなければならないことをよく知っていたのであろう。だが、彼(レッドモンド氏)も、ジェファソンの町へ父の手で鉄道が通じたあとでもあるし、父にたいして勝ち目がぜんぜんないことぐらいはよく知っていたにちがいない。それとも、レッドモンド氏が先に立候補宣言をして、そのため、父が対抗上やむなくその選挙戦に加わったのかもしれないが、そのへんの事情はよくおぼえていない。だが、とにかく、二人は立候補し、激烈な競争がはじまった。二人とも、父が圧倒的大勝利をおさめるであろうことはよく知っていたのだ。そして、そのとおりの結果になり、父はさぞ満足であろう、と私たちは考えた。酔っぱらいが自分は酒に満足していると信じるように、おそらく父も自分で満足だと思ったであろう。その日の午後のことだった。ドルーシラと私は、夕暮れの庭のなかを歩いていた。そのとき、私がジョージ・ワイアットのいったことについてなにかいうと、彼女は私の腕をはなして、私のからだを自分のほうに向かせ、私の顔を見つめながら、つぎのようにいった――「それがあなたのことばなの?あなたの口からこんなことを?あなた、グランビーのことを忘れたの?」
「いや。あいつのことは、ぜったいに忘れっこないよ」
「そうでしょうね。忘れてたまるもんですか。ベイアード、人を殺したりすることより、もっと悪いことがあるのよ。人に殺されることより、もっと悪いことがあるのね。ときどきあたし思うんだけど、男の人にとってこの世でいちばんいいことは、その人がなにかを、そうね、女の人がいいわね、しっかりと強く、根かぎり愛して、若いうちに死ぬことじゃないのかしらってね。だって、そういう男の人は、自分がどうしても信じないでいられないことを信じていたわけだし、それに、どうしても自分でそうなるほかにしかたのない(しかたのない?いいえ、そうなるほかは望まないといったほうがいいでしょう)ような人間になっていたわけですもの」このとき彼女は、私にたいして、いままでとちがった視線を投げかけてきた。私にはそのとき、それがなにを意味しているのかわからなかった。そしてそれは、今夜までわからなかったのだ。なぜなら、そのときには、それから二月のちに父が死ぬということをどちらも知ってはいなかったからだ。私はただ、彼女が私にたいして異常な視線を投げかけ、彼女の髪にさしたバーベナの匂いが百倍もまし、百倍もつよくなって、あたりのうす暗がりのなかに瀰漫(びまん)し、なにか、いままで夢みたこともないようなことが起りかけているのに気づいただけだった。すると、彼女が口を開いた。「ベイアード、あたしに接吻してちょうだい」
「だめだよ。あなたはおやじの奥さんじゃないか」
「それに、あたたより八つも年上だし、それから、あなたの遠縁の従姉だわね。それから、髪の毛は黒いしさ。ねえ、ベイアード、あたしに接吻して――」
「だめだ」
「ベイアードったら、ねえ、接吻して」そこで、私は首をまげて、私の顔を彼女の顔に近づけた。しかし、彼女は動かなかった。そのまま、上体をわずかばかりうしろにそらし、私のからだにふれないようにして、私をじっと見つめながら、身動きもせずに立っていた。そしてこんどは、彼女が、「だめよ」といった。そこで私は、彼女のからだに腕をまわした。すると彼女は、抵抗をやめてしまい、私のからだに身をすり寄せてきた。女というものは、すぐにそのように抵抗をやめるものであり、また、そうすることができるものなのだ。彼女は、悍馬(かんば)をも制御できるような力を手首と肘にこめて、両腕を私の肩にかけ、両手首で私の顔をはさみ、自分の顔にじっとくっつけた。やがて、その手首に力を入れる必要もなくなり、二人は長い接吻をつづけた。そのとき私は、太古からの、永劫の"ヘビ"の象徴である三十女と、彼女のことを書いた男たちのことを思った。そして、すべて、現実とそれを書き表したものとのあいだに、どうしようもないギャップがあるということに気づいた――すなわち、自分がしようと思うことができる人は、どんどん自分の思いどおりにやってゆくし、それができない人は、できないがためにひどい苦悩をなめ、それをただ書き表すよりほかないのだ、ということに。それから、私は解放された。そして、ふたたび彼女の顔を見ることができた。彼女は顔をうつむけ、上眼づかいに私を見あげるようにしながら、あいかわらず、あのえたいの知れぬ暗いまなざしで私をじっと見つめていた。それから、私の凝視する前で、さっき私のからだに腕をまわしたときとまったくおなじような身ぶりで、両腕をあげた。それはまるで、私に忘れさせないようにするためにすべての約束を暗示する、うつろな、形だけの身ぶりを、ふたたびくり返しているかのようだった。そして、両肘を外側にまげながら、髪にさしてあるバーベナの小枝を手にあてた。私はからだをこわばらせてその場にまっすぐつっ立ったまま、すこしうつ向きかげんの彼女の首、短いぼさぼさのその髪、夕暮れの光にかすかに光っているあらわな彼女の両腕の、こわばったような、妙に形式的に見える肘のまがりかたを、じっと見つめていた。彼女はバーベナの小枝を髪からぬいて、それを私の折り襟にさしこんでくれた。そのとき私は、戦争が、南部の彼女とおなじ世代と階級の女性をすべて、一つの型にはめこもうとして、それに失敗したことを思いだした――苦難とか、同一種類の経験(彼女のとジェニー叔母さんのとはほとんどおなじであった。ただ、ジェニー叔母さんの場合は、彼女の夫が弾薬庫に乗せられて家に連れ帰られる前に、彼女は夫と数夜を共にしたことがあったのにたいし、ゲイヴィン・ブレックブリッジは、ただドルーシラの許婚者にすぎなかった、ということだけがちがっていた)とかが、彼女たちの眼の前に展開されたのだが、内面では、彼女たちはあくまで個々の女性であった。その点、男たちとはちがっていた。戦争から帰ってくる男たちは、去勢牛のように、政府の保留地で生活しながら、去勢されたように、すべてが空虚であり、ただおなじような経験をみんなが積んできたというだけのことなのだ。そして、その経験は、もし忘れでもしたら、その瞬間に彼らの存在が失われてしまうものなので、みんなにとっては忘れることのできないものであり、忘れてはならないものなのである。彼ら男たちは、生れたときにつけてもらった個々の名前があるというだけで、個性などほとんどもたなくなっているのだ。
「こうなったら、ぼくは父に話さなくちゃいけないね」
「そうね、あなたが話さなきゃいけないわ。ねえ、接吻して」そうしてふたたび、前とおなじような状態になった。いや、二度、いな千度くり返されても、けっしておなじではないのだ――永劫の象徴的な三十女対、一人の若い男、青年だった。毎回毎回、積み重なるものであると同時に、過去へ遡るものであり、ぜったいに単なる反覆ではなく、そのたびごとに記憶が経験を排除し、そのたびごとに経験が記憶に先立つものなのだ。倦怠のない技巧、過度に純潔な知識、手首と肘におさえらえて悍馬もおとなしく眠ったように、指導し制御する巧妙な秘密の筋肉。彼女はうしろにしりぞいた。そしてすでに、からだをうしろへ向けかけていた。彼女は口を開いたとき、私の顔を見なかった。薄闇のなかをすばやく逃げてゆきながら、けっして私の顔を見ようとしなかった――「ジョンに話して。今夜、話してちょうだいね」
 私は話そうと思った。私はすぐに家にはいり、事務室に行った。そして、なぜだか知らないが、冷たい暖炉の前の敷物の中央部に行き、そこに兵士のようにからだをこわばらせながらつっ立って、まっすぐ眼の高さの前方を見つめ、部屋のむこうの父の頭の上あたりに視線をやりながら、「お父さん」といって、それから口を閉じた。父が私のことばにぜんぜん耳をかそうとさえしなかったからだ。なるほど、「ベイアード、なんだね?」とはいってくれたが、私のことばを聞こうとはしなかった。だが父は机のうしろに腰をおろして、なにもしてはいなかったのだ。私がからだをこわばらせてつっ立っていたように、じっと身動きもせず、火の消えた葉巻を持った片手を机の上に置き、ブランデーのびんと、ブランデーをいっぱいに入れたまま手をつけていないグラスをそばに置いて、地味な服を着、その日の午後おそく はいってきた圧倒的得票の最終結果に、自分なりの勝利感を味わいながら、ぼんやりと思いにふけっていたのだ。そこで私は、夕食後まで待つことにした。私たち二人が食堂にはいって、ならんで立っていると、ジェニー叔母さんがはいってき、つづいて、黄色の舞踏服を着たドルーシラがはいってきた。ドルーシラはまっすぐに私のところに歩みよって、えたいの知れないはげしい視線を私に投げつけ、それから自分の席に行って、私が彼女の椅子をひいてやるのを待っていた。ジェニー叔母さんの椅子は、父がひいてすわらせた。父はもうそのころには、さっきのぼんやりした状態からさめていた。といっても、自分でぺらぺらしゃべるようになったのではなく、テーブルの上席にきちんとすわって、なんだか熱病にとりつかれたようにべらべらと話しまくるドルーシラに、返事をするようになっていたのである――最近、すこし法廷弁論的になってきた、あのいんぎんで、偏狭な自負心をもった態度で、ときおり彼女に返事をするのであった。だが、法廷弁論的になったといえば、まるで、ただ激烈で空虚な弁論をこととする政治的な闘争に参加したために、反動的に父が弁護士らしくなったように聞えるが、父には弁護士らしいところはみじんもなかった。やがて、ドルーシラとジェニー叔母さんは立ちあがって、部屋から出ていった。そのとき父は、私がその二人のあとにつづこうというような動作をぜんぜん見せもしなかったのに、私にむかって、「待て」といった。そしてジョービーに、ブドウ酒を一びん持ってくるようにいいつけた。そのブドウ酒というのは、最初の個人的な鉄道債券を清算するための金を借りに、父がこの前ニュー・オーリアンズに行ったとき、そこから持ち帰ったものだった。私はふたたび兵士のようにつっ立って、父の頭上を眼の高さにまっすぐ見つめた。父はテーブルからなかば身をそらしてすわっていた。たいしたことはないのだが、このごろはすこし太鼓腹になっていたのだ。髪もこのごろはすこし白くなっていた。だが、顎ひげのほうは昔とすこしも変りがなかった。そして、あの見せかけだけの弁護士のような態度で、頑迷そうな眼つきをしていた。父のその眼には、この二年間のうちに、肉食動物が持っているあの透明な薄膜ができていた。肉食動物はその透明な薄膜のうしろから、反芻動物には見えない、またおそらく見ようともしない、ある一つの世界を見つめているのだ。私はそのような薄膜を眼に持った人を、いままで見たことがある。それは、もはや生きているかぎりふたたび一人ではいられないほど、あまりにも多くの殺人をやってきた人たちであった。私はふたたび、「お父さん」といった。そして、すべてを語った。
「え?まあ、すわれよ」と父はいった。私は腰をおろした。そして、父の顔をじっと見つめた。父が二つのグラスにブドウ酒をつぐのをじっと見まもった。そして、こんどは、さっき父が耳をかそうとしなかったのより、さらに状況はよくないということに気がついた。父はぜんぜん問題にしないのだった――「おまえはなかなかよく法律を勉強しとるそうだな。ウィルキンズ判事がそういっとったぞ。わしはそれを聞いて、とてもうれしかったよ。いままでは、わしの仕事のことでべつにおまえに手伝ってもらう必要もなかったが、これからは大いにやってもらわなきゃならんだろう。わしはいま、わしの目的のうちで、せっせと活動しなきゃならん方面のことはぜんぶやりとげてしまったところだ。その方面では、おまえがいくら気ばったところで、なんの役にもたたなかっただろうよ。この土地と時勢とが命じるままに、わしは活動をしてきた。そして、おまえはまだそんな活動には年が若すぎた。わしはおまえを、世の荒波にふれさせたくなかったんだよ。しかしいまは、土地も時勢もかわりつつあるんだ。今後に残されてる問題は、地固めということだ。狡猾で確実なごまかしをやることだ。その点にかけては、わしはまるで母親の腕に抱きかかえられた赤ん坊のようなもんだ。だがおまえはちがう。おまえは法律できたえられとるから、ちゃんと自分の――われわれの――地歩を保つことができるんだ。そうだ、わしはわしの目的をちゃんと達した。こんどはすこし、道徳的な家掃除をやる番だ。たとえどんな必要があろうと、またどんな目的であろうと、とにかく人を殺すことにはわしもあきあきした。あした町へ行って、ベン・レッドモンドに会う時には、わしは武器は持たないつもりだ」

(バーベナの匂い)-3
 真夜中ちょっと前に私たちは家についた。ジェファソンの町を通りぬける必要もなかった。門のなかにはいる前から、私には家のなかに灯りが、シャンデリアの輝く光が見えた――玄関の広間に、居間に、それからジェニー叔母さんが(無造作に、いやおそらく、彼女の方では何の意図もなく)リンゴーにさえ"応接間"と呼ぶように教えた部屋に。灯りは外に流れ出て、柱廊をよぎり、円柱の外にはみ出ていた。それから私は馬の姿を見た。黒い影法師(シルエット)になった馬の背で、革具がかすかに光り、金具がキラキラ光っていた。さらに、男たち――昔の父の隊にいたワイアットや、そのほかのものたち――の姿も見えた。私は彼らが来ているだろうということをすっかり忘れていた。彼らの姿をそこに見いだすなど、すっかり忘れていたのだ。そして、私は疲労こんぱいしていたので、こうなったら、今夜にでもはじめなきゃならんだろう。抵抗をはじめるのに、あすまで待つというわけにはいかんだろう、と思ったことを、いまでもはっきりおぼえている。彼らは私たちが門のなかの車まわしにはいると、すぐにそれに気づいたらしいようすだったが、その点からみて、彼らは見張り人を、監視人を、出していたものと思われる。ジョージ・ワイアットが私のところにやってきた。私は馬をとめた。馬の上から、彼と、彼の背後数ヤードのところに集まっている男たちを見おろすことができた。彼らは、こんなとこに南部人がよく見せる、せんさく好きな、ハゲタカのような儀式ばった態度をしていた。
「やあ、お帰り」とジョージがいった。
「あの――父は――」
「りっぱだったよ。おたがいに堂々とむかいあってやった。レッドモンドも臆病者じゃないからね。ジョンはいつものように、デリンジャー拳銃を袖口の内側にしのばせていた。だが、あの人はけっしてそれに手をふれなかった。ふれようともしなかったよ」私も父のそういうしぐさを見たことがある。父が一度私に見せてくれたのだった。まずピストル(長さは四インチもなかった)を左手首にぴたりとくっつけるようにしてしのばせ、父がみずから針金と古時計のスプリングでつくったクリップでそれをとめておく。それから両手を同時に上にあげて、その手をぶっちがいに交差させ、左手の下からそのピストルを発車するのだった。その姿はまるで、自分がしていることを自分では見たくないというようなかっこうだった。一度、人を射殺したとき、父は自分の上着の袖に穴をあけたことがある。「だが、あんたも早く家のなかにはいりたいだろう」とワイアットはいった。そして、ふさいだ道をわきへよけはじめたが、すぐにまた、「この問題は、わしらだけでかたづけてやるよ、わしらだけでな。わし一人でやってもいい」といった。そして、私がまだ馬を一歩も動かさず、口を開いて返事をするような素振りも見せないうちに、彼はずんずん自分のことばをつづけていった。それはまるで、このことはすべて、自分のことばも私のことばも、前もってよく練習しておいたもので、私がなにをいうかよく知っており、人の家にはいるときに帽子を脱いだり、見知らぬ人と話をするときていねいなことばを使ったりするのとおなじような、自然な気持で、自分の思うことを、ただべらべらとしゃべっているというふうだった。
「あんたは若い。まだ子供だ。こういうふうな問題にはぜんぜん経験がない。そのうえ、あんたは家にいるあの二人の婦人のことも考えてやらなきゃいかんのだ。あの人も、よくわかってくれるだろうよ」
「ぼくでも、できると思いますがね」と私はいった。
「それはそうだろう」と彼はいった。彼の声には、ぜんぜん驚いたようすはなかった。というのも、彼はつぎのことばを、あらかじめよく練習していたからだ。「あんたがそういうだろうってことは、わしらにはちゃんとわかっていたよ」彼はそういってから、一歩あとにさがった。だが、みんなは、あいかわらずあのお世辞たっぷりの、貪欲な儀式ばった態度で、あとについてきた。すると私の眼に、黄色い舞踏服を着て、芝居の一場面のように、開いた戸と窓から流れ出る光をあびながら、玄関正面の階段のいちばん上に立っているドルーシラの姿が見えた。そして、私がそのときいた場所からでも、彼女の髪にさしたバーベナの匂いを嗅ぐことができるように思った。あの二つの拳銃が発した音は大きかったにちがいないが、それよりもさらに調子の高いなにものかを――貪欲なようでもあり、情熱的でもあるなにものかを――彼女はそこにじっと身動きもせずに立ったまま、自分のからだから発散させているのだった。私は馬からおりた。だれかがその馬をよそへひっぱっていった。私は彼女のところに近づいていった。だが、そのときの私の気持は、まるで私自身はまだ馬の背にまたがっていて、彼女がつくりだした場面のなかへ登場してゆく一人の俳優をながめているような気持だった。うしろには合唱団(コーラス)として、ワイアットたちが、南部人が死神の前で見せるお世辞たっぷりの儀式ばった態度で立っているのだった――それはまさに、この燃える太陽の土地、雪から真夏の暑気へとはげしく移りかわり、そのためそのどちらにも無感覚な一種族を生みだしたこの土地に、北国の濃霧のなかから生れた新教(プロテスタンティズム)が移植されて、かもしだされたローマの休日(訳注:他人の苦しみによる娯楽の意。古代ローマで、大衆の娯楽のために奴隷や捕虜に武器を持たせ戦わせた故事による)だった。私は階段をのぼって、ロウソクのようにまっすぐに、黄色い姿で身動きもせずつっ立っている彼女のほうへ近づいていった。彼女の躰が動いたのは、ただ片手をさし出したときだけだった。私たち二人は相並んで立ち、一かたまりに集まって立っている男たちを見おろした。彼らの背後には、明るい戸や窓から流れ出る灯りがちょうど消えるあたりに、おたがいにからだをすりあわせるようにして集まっている馬の姿も見えた。一頭の馬が足を踏みならし、鼻をならし、引き具をじゃらじゃらいわせた。
「みなさん、どうもありがとうございました」と私はいった。「ぼくの叔母ならびにぼくの――ドルーシラからもお礼を申しあげます。みなさんがたに残っていただく必要はありません。どうぞお帰りになってください」彼らはなにかつぶやきながら、ひき返していった。ジョージ・ワイアットが立ちどまって、私のほうをふり返った。
「あしただね?」と彼はいった。
「あしたです」それから彼は、家のなかのだれかがこれから眠ろうとしてでもいるように、すでに眠っているものが彼らの足音で起きはしないかとおそれてでもいるように、帽子を手にしながら、地面の上、音のしない弾力性のある土の上であるのに、しのび足で帰っていった。やがて彼らの姿が見えなくなると、ドルーシラと私はうしろに向いて、柱廊を横切った。彼女の手は私の手首に軽くふれただけだったが、それでも私は、ひそやかな、むさぼるようなあの情熱が、電気のような衝撃で私の身内に伝わってくるのを感じた。彼女の顔は私の肩によりかかっていた――ごわごわの髪の、両耳の上のあたりにバーベナの小枝が一本ずつさされ、眼はあの猛烈な歓喜の情をたたえて私を見つめていた。私たちは玄関の広間にはいり、そこを横切った。彼女の手が軽く私を導いてくれた。そして居間にはいった。そのとき私ははじめて、そのことに――死という変化に――気がついた。それは、父がいまはただの土と化していたためではなく、父が横になっていたからだった。しかし、私は父の顔をまだ見てはいなかった。見れば息苦しくなることがよくわかっていたからだ。私はルーヴィニアがそのうしろに立っている椅子から、すぐに立ちあがったジェニー叔母さんのところに行った。彼女は父の妹で、ドルーシラより背が高かったが、年は多くなかった。彼女の夫は戦争がまだはじまったばかりのとき、ムールトリー要塞(訳注:南キャロライナ州、チャールストン港の要塞で、南北戦争で北軍を迎え撃ったところ)で北部連邦軍の巡洋艦の砲弾に当って戦死し、そのため六年ほど前に、彼女はキャロライナから私たちのところに移ってきていたのだ。そのときリンゴーと私は、彼女を出迎えるために、馬車に乗ってテネシー・ジャンクション(訳注:テネシー州のメンフィスに近い乗換え所)まで行った。それは一月だった。寒くて、よく晴れわたり、道の車の跡のあいだには氷がはっていた。私たちはジェニー叔母さんを連れて、ちょうど日暮れ前に帰ってきた。叔母はレースのパラソルを持って、馭者台に私とならんですわり、リンゴーは馬車の床にすわって、てさげバスケットをだいじに持っていた。そのバスケットのなかには、古いシェリー酒が二びんと、ジャスミンの切り枝が二本と、色ガラスのほうは、彼女や父やベイアード叔父さんの生家であるキャロライナの家から、彼女が難をのがれて無事に持ちだしてきたもので、父は彼女のために、応接間の窓の一つにそれを扇形窓としてはめてやっていた。私たちが門内にはいって玄関に近づくと、父(鉄道から帰ってきていた)が階段をおりてきて、彼女のからだを抱きかかえて馬車からおろし、「やあ、ジェニー」というと、彼女は「まあ、ジョニー」といって、泣きくずれたのだった。その叔母も立ち上がり、私が近づいてゆくと、私の顔をじっと見つめていた――父とおなじような髪、おなじような高い鼻、おなじような眼。ただ、父の眼が偏狭そうに見えたのに反して、叔母のは、じっと見すえるような、非常に賢明そうな眼であった。彼女は一言もものをいわなかった。ただ、両手を私の肩の上に軽く置いて、私に接吻してくれただけだった。
 それから、ドルーシラが、おそろしいほどの忍耐心をもってその空虚な儀礼がすむのを待ちかまえていたかのように、口を開いた。銀鈴のような声だった――すみきって、冷たくて、単調で、玉をころがすような、勝ちほこった声だった。「こちらにいらっしゃい、ベイアード」
「もう、おやすみになったほうがよくはないの?」とジェニー叔母さんがいった。
「そうね」とドルーシラが、あの玉をころがすような、恍惚とした声でいった。「そうだわね。でも、眠る時間はまだたっぷりとあるわ」私は彼女のあとについていった。ふたたび彼女の手が軽く私を導いてくれていた。そのとき、私は父の姿を見た。私が想像していたとおりだった――サーベルや、羽飾りや、その他のものをそっくり身につけて。だが、そこには、食べ物を胃に入れることができても、しばらくのあいだは胃が消化することを拒む時のように、そうなることがわかっていても、実感をもって感じることができなかったあの変化、あのとりかえしのつかない相違があった――私がよく知っていた父の顔を見おろしたときの、無限の悲嘆と哀惜――あの鼻、あの髪、偏狭だったあの眼の上にも、いまは瞼が閉じられている――生れてはじめて、その平安な姿が見られると実感されるあの顔。かつての(たしかに、昔の)いわれのない人の血のよごれで、いまなお、眼にこそ見えないが、よごれている空の手、だらりとして不細工な手。いまはあまりにもそれが不細工に見え、人を殺すような大それた行為を、いままでいくたびとなく重ねてきたとはとうてい思われないほどだった。だが、そのような行為をしたあとでも、父は寝てもさめても、その手を自分のからだから切りはなすことができなかったのだから、いまついにそれを安らかに横たえるときがきて、おそらくよろこんでいるだろう――はじめは不細工なものとしてつくりだされた、奇妙な付加物である手も、人間がそれに多くのことをするように教えたのだ。手の当然の役目以上に、とうてい許すことのできないような罪ぶかいことまでも、するように教えたのだった。それがいまは、生命を、父の偏狭な心がはげしくしがみついていたあの生命を、放棄してしまったのだ――すると私は、自分がいまにもはげしい息苦しさに襲われそうなことに気がついた。だから、私がドルーシラの声を耳にし、ふり返って、その瞬間、ジェニー叔母さんとルーヴィニアが私を見つめていることに気がついたのも、ドルーシラが二言、三言、私に声をかけたあとにちがいなかった。ドルーシラの声は、もはやささやきほどの、あの冷たい銀鈴のような声ではなく、情熱的な、息もたえだえの声で、静かな、死気のただようあの部屋のなかへ、そっとささやきかけているような声だった――「ベイアード」彼女は私に面とむかいあっていた。息もふれあうばかりの近さだった。彼女は決闘用のピストルを両手に一つずつ持って、私のほうにさし出していたが、そのときふたたび、彼女の髪のバーベナが、百倍もその匂いをましたように感じられた。「ベイアード、これをとって」と彼女は、この夏、「私に接吻して」といったときとおなじような調子でいいながら、そのピストルをもう私の手のなかに押しこんでいた。そして、あの情熱的なむさぼるような歓喜の情をその眼にたたえて、私をじっと見つめながら、希望にふくらんだ、かすれがちの、うわずった声で、ことばをつづけるのだった――「ね、これを受けとって。あたし、あなたのためにこれをとっておいたのよ。あなたにあげるわ。神さまだけの持物だといわれているこの品を、あなたの手のなかに置いてあげるあたしにたいして、天国のものであるこのものを持ってきて、あなたにあたえるあたしにたいして、あなたはきっと感謝するようになるわ。きっと思いだすようになるわ。そら、手にふれて感じることができるでしょ?長くて、正義そのもののように真実な銃身、天罰のようにすばやい引金(あなたはそれをひいたことがあるわ)、二つとも、ほっそりとして、無敵で、致命的なもの――ちょうどに、肉体的な愛のようにね」私はそのとき、彼女が両肘を外につき出すようにして腕をあげ、髪にさしたバーベナの二本の小枝をとるのをふたたび眼のあたりに見たが、二つにわけられるその動作の速さは、とうてい眼で追うことができないほどだったので、ふと気づいたときには、彼女はすでに二本のうちの一本を私の折り襟にさしこみ、他の一本を片方の手のなかで握りつぶしていた。そして、そのあいだもずっと、ささやき声に近い、あの早いうわずった声で語りつづけているのだった――「ほら。あなたに一本あげるわ、あしたつけるのよ(しぼみはしないわ)。もう一本は捨ててしまうの、こんなふうに――」と彼女はいって、握りつぶした花を足もとに捨てた。「あたしはもう永久に捨ててしまうの、バーベナはもう永久にあたしの手にふれないわ。あたしはバーベナの匂いが、勇気の香りより強いことを知ったの。それであたしは満足よ。さあ、あなたの顔をよく見せてちょうだい」彼女はうしろへさがって、私をじっと見つめた――涙を流していない、有頂天になった顔。明るく輝く、むさぼるような、熱病的な瞳。「あなたはなんて美しいんでしょう。あなたはそれを自分で気づいているの?とても美しくって、若くって、人を殺すことを許され、復讐することを許され、悪魔を天国から突き落とした天の火を、そのむきだしの手のなかに入れて。いいえ、あたしだわ。あたしがそれをあなたにあげたのよ。あたしがあなたの手のなかに入れたのよ。ほんとに、あなたはあたしのことを感謝するようになるわ。あたしのことを思いだすようになるわ。あたしが死んでしまい、あなたがおじいさんになって、"わしはすべてのことをやってみたわい"などとひとりごとをいうようになるときにね――右手がいいわね?」彼女は私のほうに進み寄ってきた。そして、まだピストルを持ったままでいた私の右手をとった。それは、なにを彼女がしようとしているのか、私にはぜんぜんわからなかったほど、アッという間の出来事だった。そして、なぜ彼女が私の右手をとったのか、その判断もつかないうちに、彼女は身をかがめて、その手に接吻してしまった。そして、そのままじっと動かなくなった。はげしい、よろこびにあふれたいんぎんな姿勢で、熱い唇と熱い手を私の肉体にふれさせながら、そのままじっと身をかがめてきた。その唇と手は、枯葉のように、ごく軽く私の肉体にふれていただけだったが、あのひそやかな、情熱的な、永遠にすべての平和からみはなされた、電撃のような衝動を私に肉体に伝えてきていた。女というのは賢いものだから――唇か指かで、軽く一ふれしさえすれば、相手の思っていることは、鋭い透視でさえも、のろくさい頭脳などすこしもわずらわさずに、直接その胸に伝わってしまうのだ。やがて、彼女は身を起した。そして、忍びがたいような、驚きはてたような懐疑の表情で私をじっと見つめた。そのような表情が、まる一分間ばかりのあいだ、彼女の顔全体をみたしていたが、そのあいだ、彼女の眼は完全に空虚であった。そして、ジェニー叔母さんとルーヴィニアが私たち二人の姿を見まもっているあいだ、私は彼女の眼がその空虚さを回復するのを待ち望んで、そこにそうして一分間ほどじっと立っていたようだった。彼女の顔にはぜんぜん血の気がなかった。口はすこし開き、果物の容器を密閉するときに女性が使うゴムの輪のように青白かった。それから、彼女の眼には、にがにがしい、はげしい裏切られたときの表情が満ちあふれた。「まあ、この人ったら――」と彼女はいった。「この人ったら、ちがうんですって――それなのに、あたし、この人の手に接吻したんだわ」彼女の声は、度を失ったような、ささやき声に変っていた。「あたし、この人の手に接吻したんだわ」と彼女はいって、笑いはじめた。その笑い声はだんだん高まってゆき、絶叫のようになったが、それでもまだ、それは笑い声にちがいなかった。絶叫のような甲高い笑い声をあげているのだった。そして、その声をおさえようと彼女は手を口にあててはみたが、それは吐瀉物(としゃぶつ)のように指のあいだからあふれ出るのだった。信じられないような、裏切られたといった表情をうかべた彼女の眼には、口にあてたその手の上からじっと私を見つめていた。
「ルーヴィニア!」とジェニー叔母さんがいった。オバサンとルーヴィニアは、二人とも彼女のもとにやってきた。ルーヴィニアが彼女のからだに手をかけて、ささえると、彼女はルーヴィニアのほうに顔を向けた。
「ルーヴィニア、あたし、この人の手に接吻したのよ!見たでしょ?あたし、この人の手に接吻したのよ!」と彼女は叫んだ。笑い声がまきおこり、ふたたび絶叫のような笑い声に変った。彼女はあいかわらず、口をいっぱいにふくらました子供のように、手を口にあてて、それをおさえようとしていた。
「二階に連れてお行き」とジェニー叔母さんがいった。しかしルーヴィニアはすでにドルーシラをなかば抱きかかえるようにして、戸口のほうに歩いていた。ドルーシラの笑い声は、この部屋より広い、だれも人のいない、明るい玄関の広間に出て、ふたたび高くなるのを待っているかのように、戸口に近づくにしたがって、小さくなっていった。やがて、その笑い声は消えてしまった。ジェニー叔母さんと私はその場にじっと立っていた。私はすぐに、自分が息苦しくなりかけているのを、はっきりと感じることができた。それはちょうど、部屋のなかにも家のなかにも、彼岸のあらしがきそうには思えないどんよりとした、暑い低空の下のどこにも、十分な空気がないかのようだった。「ベイアード」といったのは、こんどはジェニー叔母さんだった。私は二度ほど呼ばれて、やっと気がついた。「あなたはあの人を殺そうなんてしないわね。それでいいのよ」
「それでいい?」と私はいった。
「そうよ。それでいいのよ。ドルーシラにやらせてもだめよ。かわいそうに、若い身空でヒステリーをおこしているんだからね。それから、ベイアード、あの人もだめ、いまはもう死んでいるんだものね。それから、あしたの朝、あなたが来るのを待ちかまえているジョージ・ワイアットたちにやらせてもだめよ。あたしには、あなたが恐れていないこと、よくわかっているの」
「だけど、それがなんの役にたつんですか?」と私はいった。「なんの役にね?」そのとき、ほとんど息苦しさがはじまりかけた。私はやっとそれをうまくおさえた。「ぼくは、ぼく自身に折合いをつけて生きてゆかなきゃならないんですよ」
「じゃ、ドルーシラがやるんじゃないのね?あの人がやるんじゃないのね?ジョージ・ワイアットやジェファソンの町の衆がやるんじゃないのね?」
「そうです」と私はいった。
「あした、町へ出かける前に、あたしと会ってくれるわね、きっとよ」私は彼女の顔を見つめた。一瞬、二人はおたがいに顔を見あわせた。それから、彼女は両手を私の肩の上に置き、接吻して、私から離れた。それがすべて一つの動作であった。「おやすみなさい」と彼女はいった。そして彼女もまた行ってしまった。いまこそ、息苦しい気持になってもいいのだ。あと一分もすれば、私は父をまた見るだろう、そうなれば、息苦しくなりはじめるだろうということを、私はよく知っていた。そしてたしかに私は見た。息苦しさがはじまる前の間隙である、長い呼吸の中断を感じながら、父の顔を見た。そして、おそらく「おとうさん、さようなら」とでもいわなければならないのだろう、と考えていた。だが、そんなことはいわずに、私は部屋を横切ってピアノのところに行き、その上にそっとピストルを置いた。そのときでもまだ私は、息苦しさがあまりに速く、あまりにひどくなりすぎてもいけないと、けんめいにおさえつけていた。それから私はポーチに出た。そして(私は外にどれだけのあいだいたかよく知らないが)窓のそとからのぞきこむと、サイモンが父のそばの腰掛の上でうずくまっていた。サイモンというのは、戦争中、父の従卒だった黒人で、みんなが復員したときには、サイモンも軍服をきていた――その軍服というのは、北軍の准将の星章のついた、南軍兵卒の服だった。父がいまりっぱに着飾っているように、彼もいまその服を着て、父のそばの腰掛の上でうずくまっていた。彼は泣いてはいなかった。白人のくだらぬ特性である軽々しい涙など流してはいなかった。そんな涙など、黒人のかかわり知らぬものなのだ。彼はただ身動き一つせず、下唇をすこしだらりとさせて、そこにすわっていた。それから彼は片手をあげて、棺にさわった。一握りの枯枝のように、硬直した、もろそうに見える黒い手だった。彼はその手をおろした。一度彼は頭をまわした。そのとき私は、彼の眼が、追いつめられた狐の眼のように、赤くなって、しばたきもせず、ギョロギョロとしているのを見た。そのころまでには、息苦しさはもう完全にはじまっていた。私はそこに立って、息をハアハアいわせていた。それは哀惜と悲嘆だった。そしてその絶望感から、なにものも、なにごとにも耐えることのできる、悲劇的な、黙々とした、無感覚な肉体が立ちあがるのだ。

(バーベナの匂い)-4
 やがて、ヨタカの鳴き声がやみ、最初の昼間の鳥の鳴き声、モノマネ鳥の鳴き声が聞えてきた。モノマネ鳥も、一晩じゅう、歌いつづけていたのだが、いま聞えてきた鳴き声は、もはや眠そうな夢心地の鳴き声ではなく、昼間の歌だった。やがて、すべての鳥が歌いはじめた――馬小屋にいるスズメも、ジェニー叔母さんの庭園にいるツグミも、みんな歌いはじめた。牧場からはウズラの声も聞えてきた。そして、部屋のなかかは明るくなってきた。だが、私はすぐには動かなかった。両手を頭の下に入れ、椅子にかけた私の上着からかすかにただよってくるドルーシラのバーベナの匂いを嗅ぎ、部屋がだんだん明るくなって、日の出とともにバラ色にかわってゆくのを見ながら、そのままベッドの上に横になっていた(私は服を脱いではいなかった)。しばらくすると、ルーヴィニアが裏庭を通って、台所にはいってくる足音が聞えた。台所のドアがあいて、彼女が腕いっぱいかかえた薪を箱のなかにうつす、ガタガタという長い音が聞えた。まもなく、みんながやってくるだろう――四輪馬車や二輪馬車が、庭の車まわしにたくさん集まってきはじめるだろう――だが、まだしばらくのあいだは大丈夫だ。みんなもまず私の行動計画を知るために、待たなければならないだろうからだ。だから、私が下の食堂へおりていったとき、家のなかはひっそりとしていた。居間から聞えるサイモンのいびき声のほかには、物音一つ聞えてこなかった。サイモンはおそらく、あいかわらず腰掛にすわったまま眠っていのただろうが、私はのぞいても見なかった。私は食堂の窓辺に立って、ルーヴィニアが持ってきてくれたコーヒーを飲んだ。それから、馬小屋に行った。私が裏庭を横切るとき、ジョービーが台所の戸口から私の姿を見つめていた。馬小屋にはいると、馬櫛を手にしたルーシュが、ベッツィー(訳注:馬の名前)の頭ごしに私の顔を見あげた。だが、リンゴーはぜんぜん私のほうを見なかった。それから私たちはジュピターに馬櫛をかけた。うまくやれるかどうか、私は心配だった。というのも、いままでは、いつも父がまず小屋のなかにはいってきて、ジュピターのからだにさわり、じっとしていろと命じると、ジュピターは大理石の馬(いや、むしろ青ざめた青銅の馬)のようにじっと立ったまま、ルーシュに馬櫛をかけさせていたからだった。しかしジュピターは、私にたいしても、じっと立っていてくれた。すこしそわそわしていたが、じっとしていてくれた。やがて、その手入れがすんだ。見ると、もうほとんど九時近かった。まもなく、みんながやってきはじめるころだった。そこで私はリンゴーに、ベッツィーを家に連れてくるようにと命じた。
 私は家に帰って、玄関の広間にはいっていった。私はそれまでしばらくのあいだ、息苦しく感じなくてもよかったのだが、家に帰ってくると、その感じは待ちかまえていた。家のなかの空気が変ってしまった一つの証拠であった。まるで父が死んでしまって、もう空気など必要ないところから、すべての空気を、自分で建てたこの家のなかの、自分が呼吸し、自分のものだと主張し、要求してきたすべての空気を、いっしょにあの世へ持っていってしまったかのようだ。ジェニー叔母さんは私を待っていたにちがいなかった。私が帰ってくると、彼女はすぐに、そっと静かに食堂から出てきた。ちゃんと服装をととのえ、父の髪によく似た髪を、眼の上で「きれいにくしけずっていた。その眼は、父のとは違っていた。父の眼のように偏狭そうではなく、じっと一点を見つめる、落ちついたもので(彼女はまた賢くもあった)、憐憫の色はなかった。「もう出かけるの?」と彼女はいった。「ウン」と私は彼女の顔を見た。そうだ、ありがたいことに、憐憫の色を見せなかった。「ぼく、人に悪くおもわれたくありませんからね」
「あたしは悪く思わないわ」と彼女はいった。「たとえあなたが、一日じゅう馬小屋の二階にひそんでいいたにしても、あなたを悪くなんか思わない」
「ぼくが出かけるってことを、どっちみち町まで行くってことを、もし彼女が知っていたら、たぶん悪くは思わないだろうね」
「いいえ」と彼女はいった。「それは違うわ、ベイアード」私たち二人はおたがいに顔を見あわせた。それから、彼女は静かに、「いいわ。あの人、起きているから」といった。そこで私は階段をのぼっていった。私はあわてずに、落ちついて、階段をのぼった。というのは、もし急いでのぼっていたら、あの息苦しさがまたはじまっていたかもしれないし、そうでなくても、まがり角にのぼりついたところで、ちょっと足をとめる必要にせまられ、それから足が進まなくなってしまったかもしれないからだ。そこで私はあわてず、ゆっくりと足尾を運び、廊下を横切ってドルーシラの部屋の戸口に行き、ノックしてドアをあけた。彼女は窓辺にすわっていた。彼女は、朝、自分の寝室だけで着る、なにかやわらかい、ゆったりとした服に身をつつんでいたが、その姿はけっして寝室にいる女の朝の姿のようには見えなかった。彼女には肩までたれさがるような、長い髪がなかったからである。彼女は眼をあげた。窓辺に腰をおろしたまま、あの明るく輝く、熱病的なまなざしで私を見つめた。私はそのとき、あのバーベナの小枝がまだ私の折り襟にさしたままであるうことを思いだした。と、とつぜん、彼女はまた高く笑いはじめた。その笑い声は、彼女の口から出てくるのではなく、嘔吐したとき、それがどんなに苦しくても、まだ吐かなければならないばあいのような、おそろしい苦しい発作をともなって、汗のように、彼女の顔全体から、吹き出ているようだった――両眼をのぞいた顔全体から、吹き出ているようだった。明るく輝く、懐疑の表情をうかべたその眼は、笑い声など知らぬ下に、まるでだれかほかの人の眼でもあるかのように、まるでざわつく液体がいっぱいにはいった容器の底に横たわっている動かない二滴のタールか二かけの石炭でもあるかのように、じっと私を見つめていた。「あたし、この人に接吻したわ!あたし、この人に接吻したんだわ!」ルーヴィニアがはいってきた。ジェニー叔母さんが、私のあとからすぐに彼女を送ってよこしたにちがいなかった。ふたたび私は、息苦しさがまたはじまらないように、あわてず、ゆっくりと階段をおりて、ジェニー叔母さんのところに行った。ジェニー叔母さんは、きのうの大学におけるウィルキンズ夫人のように、玄関の間のシャンデリアの下に立っていた。彼女は私の帽子を手に持っていた。「ベイアード、たとえあなたが一日じゅう、馬小屋のなかに隠れているにしても、あたし・・・・・・」と彼女はいった。私は帽子を受けとった。彼女は静かに、愉快そうに、まるで見知らぬ客にでも話しかけているかのように、ことばをつづけた――「あたし、昔よくチャールストンで、たくさんの封鎖突破者(ブロッケイド・ランナー)(訳注:封鎖された港を破る密貿易船、もしくは密貿易人)に出会ったことがあるわ。彼らもある面から見れば、英雄なのね――南部連合の寿命を延ばしてくれるからっていうんじゃなくて、デイヴィッド・クロッケット(訳注:一七八六 - 一八三六。米国の開拓者、政治家)やジョン・セヴィア(訳注:一七四五 - 一八一五。米国の開拓者)が、小さな子供からバカな娘たちにとって英雄であるという意味において、英雄なのよ。そういう人のうちに一人のイギリス人がいたわ。その人は、チャールストンにはべつになんにも用なんかなかったの。みんなとおなじく、もちろんお金がめあてだったわけね。だけどその人は、あたしたちにとっては、デイヴィッド・クロッケットのような人だったわ。というのはね、そのころまでにはあたしたちはすっかり、お金がなんであるか、お金を使ってなにができるか、なんてことは忘れていたからなのよ。その人はかつて、変名する前には、紳士仲間と交際のあった人にちがいないの。そして、たった七つのことばしかしゃべらなかったけれど、それでけっこううまくやっていたの。それにはあたし、すっかり関心したわ。その七つのことばの最初の四つはね、"ぼく、ラム酒を、いただきます、ありがとう"っていうのよ。そして、その酒をのんでしまうと、あとの三つのことばを使うの――その酒びんごしに、相手がたとえ襞(ひだ)のついた胸飾りをついけている婦人でも、胸元の開いた服を着た婦人でも、そんなことはおかまいなしにね。"血塗れの、月は、いやです"というの。ねえ、ベイアード、血塗れの月なんていやね」
 リンゴーはベッツィーを連れて、玄関の階段のところで待っていた。そして私に手綱を渡してくれたが、そのときでも、彼はまた陰鬱な顔を下に向け、私を見ようともしなかった。そして、彼はなんいもいわなかったし、私もふり返りはしなかった。門のところで、コンプソン家の馬車に行きあたったが、それからみても、私がやっと時間に間にあったことはたしかだった。行きちがうとき、コンプソン将軍と私は、おたがいに帽子をとって挨拶をした。町までは四マイルほどあった。だが、やっと二マイルばかり進んだとき、うしろから馬の足音が聞えてきた。それがリンゴーであることはわかっていたので、私はふり向きもしなかった。私はまっすぐに前を向いていた。彼は馬車用の馬に乗っていた。そして私のわきまで乗りつけると、一瞬、私の顔を見つめた。赤くなった挑戦的な眼をちょっとぎょろつかせながら、陰鬱な、決然たる表情で私をじっと見つめた。それから、二人は馬を進めた。やがて私たちは町に来た――広場に通じる、長い木陰の多い街路、そのはずれにある、新しい法廷。もう十一時だった。朝飯時はもうとっくに過ぎ去っていたが、まだ正午までにはちょっと間のあるという時刻だった。だから街路には女たちの姿しか見えなかった。彼女らはおそらく、私がだれであるか気がつかなかったのであろう。あるいは気がついたにしても、すくなくとも、足に鋭敏な眼があって、ハッと息でもとめることができるみたいに、歩いている途中で、とつぜんピタリととまるというようなことは、私たち二人が広場に着くまではしなかった。私はそのとき、彼の事務所の玄関口について、階段をのぼりはじめるまでは、私の姿が見えなければいいのにと考えていた。だが、そんなことはできなかった。私の姿は人の眼によく見えた。私たちはホルストン・ハウスまで馬を乗りつけた。一列にならんでバルコニーの手摺にかけられていた人々の足が、急に静かに下におろされるのが見えた。私はそのほうに顔を向けようとはしなかった。私はベッツィーをとめて、リンゴーが馬からおりるのを待ち、それから私もベッツィーからおりて、手綱をリンゴーに渡した。そして、「ここで待ってろ」といった。
「わたしもいっしょに行きます」と彼が低い声でいった。私たち二人はその場にたって、だまって静かに私たちを見まもっている人々の眼の前で、二人の陰謀家のように、そっとことばをかわした。そのとき私は、彼のワイシャツの内側にピストルが隠されているのに気がついた。ピストルの輪郭がはっきりとうき出ていたのだ。そのピストルはおそらく、私たちがグランビーを殺したあの日、グランビーから奪いとったものにちがいない。
「いや、だめだ」と私はいった。
「いいえ、いっしょに行きます」
「いや、だめだ」そういって私は、暑い陽光をうけながら、通りをどんどん歩いていった。もうほとんど真昼に近かった。私は上着にさしたバーベナの匂い以外には、なにも嗅ぐことができなかった。それはちょうど、そのバーベナがすべての日光を、秋分がとうていきそうに思えないような、はげしい空中のすべての熱気をすっかり吸収してしまい、それからボツリボツリと蒸留しては吐き出しているようで、私はもうもうたる葉巻タバコの煙のように立ちこめるバーベナの匂いのなかを歩いているようだった。ふと気がつくと、ジョージ・ワイアットが私のそばにいた(彼がどこから現れたのか、私は知らない)。そして二、三ヤードうしろには、父の昔の部隊にいたものが五、六人ついてきていた。ジョージは私の腕をとり、息を殺したような、むさぼるような眼つきで私を見つめている人たちの視線をさけて、一つの戸口に私をひっぱりこんだ。
「あのデリンジャー拳銃を持ってきているのかい?」とジョージがきいた。
「いや、持っていない」と私は答えた。
「よろしい。あれはなかなか危なっかしいしろものなんだ。うっかりさわると大変な目にあうよ。あれをうまくとりあつかえるのは、あんたのお父さんぐらいのもんだった。わしもあれにはどうしてもなじめなかった。だからね、こいつを持ってゆくがいいよ。けさ、一発撃ってみて、大丈夫なことは試験ずみなんだ。そら、これだ」と彼はいって、すでにそのピストルを私のポケットのなかに押しこもうとしていた。するとそのとき、昨晩ドルーシラが、私の手に接吻したとき感じたのとおなじようなことを彼も感じたらしかった――私のからだにふれたことによって、なにものかが、まっすぐに、頭脳などはぜんぜん通らずに、彼が生きていく上のよりどころとなっている単純な掟の核心に伝えられたのだ。そして、彼もドルーシラのように、とつぜん、うしろに退き、そのピストルを手にしたまま、青白い、憤怒の眼つきで私をじっと見つめながら、激昂のためにかすれがちなささやき声で、「おまえはいったいだれなんだ?サートリス家のものではないのか?もしおまえがやつを殺さないというんなら、わしがやる」といった。そのとき私が感じたものは、もう昨夜のような息苦しさではなかった。それは、大声を出して笑いたいというおそろしい欲望だった。ドルーシラが笑ったように笑って、「ドルーシラもおんなじことをいったよ」といってやりたいという欲望であった。しかし、私はそうはいわなかった。
「この事件はぼくが片をつけるんだ。あんたは干渉しないでくれ。だれにも手伝ってもらう必要はないんだ」と私はいった。すると、彼のはげしい眼つきは、ちょうどランプをひねって炎を細くするときのように、だんだんとそのはげしさを失っていった。
「わかった」と彼は、そのピストルを自分のポケットのなかにしまいこみながらいった。
「わしが悪かった。許してくれよ、なあ。ジョンを安らかに眠らせるためには、あんたはどんなことでもやってのける決心だということに気がつかなかったわしはバカだったよ。わしらはあんたのあとについてゆく。そして、玄関のところで待ってるよ。だが、これだけのことは忘れないでな。つまり、やつはなかなか勇気のある男だが、きのうの朝からずっとあんたの来るのを待って、あの事務所にすわっていたもんだから、すっかり癇をたかぶらせてるってことだ。それだけは忘れるなよ」
「忘れやしないとも」と私はいった。「ぼくはだれにも手伝ってもらう必要はないんだ」私は歩きはじめた。と、そのときとつぜん、私はわれしらず口ばしってしまった――「血まみれの月はいやだよ」
「なに?」と彼はききかえした。私は返事をしなかった。私は暑い陽光を受けながら、広場を横切っていった。彼らはあとにつづいてきたが、あまり接近してはいなかったので、私がふたたび彼らを見たのは、あとになってからだった。ほかの男たちは遠くからだまって眼をひからせながら、べつに私のあとを追うでもなく、商店の前や法廷の入口付近で立ちどまって、私に近づく時期がくるのを待っていた。私はこのとき強烈になってきたバーベナの小枝の匂いにつつまれながら、ずんずん歩いていった。やがて、私は道の影になったところに来た。だが、私は立ちどまらなかった。一度ちらりとレンガ塀に釘づけにされた小さな"弁護士 B・J・レッドモンド"という色あせた看板に眼をやってから、玄関の階段をのぼりはじめた。訴訟を起そうとする困惑した田舎者たちの重い深靴でいためつけられ、噛みタバコの吐き汁でよごれた階段であった。私はそれからうす暗い廊下を通って、"B・J・レッドモンド"とまた書いてあるドアのところに行った。私はそのドアを、一度ノックしてから開いた。彼は机のむこうに腰をおろしていた。父とくらべて、あまり背は高くなかったが、一日のうちの大部分をじっとすわって相手の話を聞くことにすごす人らしく、ずいぶんふとっていた。ひげはそったばかりらしく、新しいワイシャツを着ていた。弁護士とはいっても、弁護士らしくない顔つきだった――肥えたからだの割合にひどくやせた顔で、きちんとていねいに剃刀をあてたばかりらしく、緊張し(そうだ、悲劇的でもあった。いまの私にはそれがよくわかる)、疲れきった表情をうかべていた。そして、前の机の上にピストルをぺったりと置いて、なにを狙うでもなく、軽く片手でおさえていた。きちんと整頓された、きれいではあるがみすぼらしいその部屋のなかには、アルコール類のにおいはぜんぜんしなかった。また、彼がタバコを吸うことは知っていたが、そのタバコのにおいさえもしなかった。私は立ちどまりもせずに、ずんずん彼のほうにむかって歩いた。ドアのところから机まで、二十フィートもなかったが、私は、時間も空間も存在しない、夢のなかを歩いているような気がした。歩くという単純な行為は、彼が腰をおろしているのと同様に、空間をちぢめるためのものではない、というような感じだった。私たちはものをいわなかった。二人とも、ものをいえば、それがどんなことばのやりとりになり、それがいかにむだなことであるか、よく知っているかのようだった。彼が口を開くとすれば、まず、「出てゆけ、ベイアード。出てゆけ」といってから、「じゃ、ピストルを出せ。勝負をしよう」というであろうことも、二人にはよくわかっていたし、そんなことなら、いってもいわなくてもおなじことだった。だから、どちらも一言もいわなかった。私はただずんずんと彼のほうにむかって歩いていった。すると、机の上のピストルが持ちあげられた。私はそれを見まもった。遠近法の法則によって、銃身がむこうへゆくほど細くなっているのが見えた。彼の手はふるえてはいなかったが、弾丸は私には命中しないということがわかっていた。私は彼のほうに、岩のような手に握られたピストルのほうに、歩いていった。だが、弾丸の音は聞えなかった。おそらく、爆発の音さえも、私には聞えなかったらしい。だが、グランビーの、油によごれた南軍の兵士の上着を背景にして、オレンジ色の閃光がパッとかがやき、煙が立ちのぼったあのときとおなじく、彼の白いワイシャツを背景にして、そのような閃光と煙が出たのは、いまでもよくおぼえている。私はなおも、遠近法の法則をうけているその銃身を見まもりつづけた。その銃身が私を狙っているのではないことは、私にはよくわかっていた。二度目のオレンジ色の閃光と煙が見えた。だが、こんども、弾丸の音は聞えなかった。それから私は立ちどまった。それで勝負はついたのだ。私はそのピストルがピクピクとふるえながら、机の上に置かれるのを見まもっていた。彼はピストルを手からはなし、両手を机の上に置いて、坐り直した。私は彼の顔をじっと見た。そして、呼吸しようにも空気がないときにはどんなに苦しいものであるか、ということもそのとき知った。彼は立ちあがった。痙攣をおこしたときののような動作で椅子をうしろへけとばして、頭を変なふうにまげながら立ちあがった。そして、頭をわきへまげたまま、盲人のように片手を前へさし出し、一人で立っていられないように、もう一つの手を机の上に置いて、くるりとからだをまわし、壁のところまで歩いていって、帽子をとった。それから、なおも頭をわきへまげて片手を前へつき出しながら、壁にそってよろめき歩き、私のそばを通って入口までたどりつき、外に出ていった。彼は勇敢だった。だれもそれを否定しなかった。彼は階段をおりて道路に出た。そこには、ジョージ・ワイアットと、父の昔の部隊にいた六人の男たちが待っていたし、ほかの男たちも駆けつけて集まりはじめていた。彼は帽子をかぶり、頭を上にあげて、一言もものをいわずに、まっすぐ前を見つめながら、彼らのまんなかをかきわけて通り(だれかが、彼にむかって「おまえはジョンの息子も殺したのか?」と叫んだそうだ)、彼らを尻目にかけて、ずっと駅まで歩いていった。そして、ちょうど到着していた南方行きの列車に手荷物一つ持たずに乗りこみ、ジェファソンの町とミシシッピー州から、永久に姿を消してしまったのだ。
 私は、階段をのぼり、廊下を通り、部屋のなかへはいってくる彼らの足音を聞いた。だが、しばらくのあいだ(もちろん、そんなに長くはなかった)、私は彼がしていたように机のうしろにじっとすわり、温かみの残っているピストルを机の上に置いてその上に手をあて、その手の上に額をあてて、その手がだんだんしびれてゆくのを感じていた。それから、私は頭をあげた。その小さな部屋のなかには人がいっぱい詰まっていた。ジョージ・ワイアットが叫んだ――「なんだい、このざまは!あんたは、やつからピストルを奪いとっておきながら、やつを撃ちそこなったんだな、二度も撃ちそこなったんだな?」それから、彼は自分でその問いに答えた――感情のはげしさにおいて、ドルーシラのそれと一致するものであり、ジョージのばあいにあっては、それが他人の性格判断に際しての実際の基準となるものであった――「いや、待てよ。あんたはナイフ一つ持たずにここにはいってきて、やつに二度も撃ちそこなわせたんだな。いやはや、これは驚いた」彼はうしろをふり向いて叫んだ。「みんなここからとっとと出てゆけ!おい、ホワイト、おまえは馬をとばしてサートリス家に行き、片はついた、ベイアードは無事だ、と伝えてこい。早く行け!」みんな部屋から出ていった。まもなく、ジョージ一人になってしまった。彼は思索的ではあるがすこしも推理的ではない、あの青白くきびしい眼を光らせながら、私をじっと見つめた。そしていった――「ウン、まったくね――酒が飲みたくないかい?」
「飲みたくない」と私はいった。「ぼく腹がへってるんだ。朝飯を食べてないんだから」
「そうだろうな。けさ、起きたときから、さっきみたいなことをしようと考えていたんなら、朝飯なんか食えないはずだよ。さあ、ホルストン・ハウスに行こう」
「いやだ。あそこへは行きたくない」
「どうして?あんたはなんにも、人からうしろ指をさされるようなことをしたわけじゃない。もっともわしだったら、あんなふうにはしなかっただろうがね。わしだったら、どっちみち、やつに一発ぶっぱなしていたことだろうよ。だが、あんたはあんたの思うとおりにやったんだ、あんたの気のすむようにやったんだ」
「そうだ。なんどでもおなじことをするよ」
「わしはまっぴらだがな――あんた、わしの家に来ないかい?うちで飯を食って、それから馬に乗っても、間に合うようには――」しかし私には、それもできなかった。
「だめだ。よく考えてみると、べつに腹がへっているわけでもなさそうだ。ぼくは家に帰るよ」
「しばらく待って、わしといっしょに行かないかい?」
「いやだ。ぼくはすぐに行くよ」
「どっちにしても、ここにぐずぐずしているのはいやだろうな」彼は、青白く、内省的でない、すごくひかる眼をすこししばたかせながら、もう一度部屋のなかを見まわした。部屋のなかには、硝煙のにおいがまだすこし残っていた。もう眼には見えなかったが、そのにおいはまだすこし、むっとする、死んだような空気にこびりついていた。「ウン、まあ」と彼はまたいった。「たぶん、あんたのやったことはよかったんだろうよ。あんたの家では、もう人殺しはじゅうぶんだっていうところだろう、たとえ――。さあ、行こう」私たちはその事務所を出た。私は階段の下で待っていた。すると、すぐにリンゴーが馬を連れてきた。私たちはまた広場を通りぬけて帰っていった。もう(十二時だった)ホルストン・ハウスの手摺に足をかけている人はいなかった。しかし、ホルストン・ハウスの戸口には、一群の人たちが立っていて、彼らは私を見ると、帽子をとってあいさつをした。私もそれにこたえた。リンゴーと私は、ずんずん馬を進めた。
 私たちはあまり速くは進まなかった。やがて一時になる、いや、もう一時をすぎているかもしれない。まもなく、四輪馬車や二輪馬車が広場を出はじめるだろう。そこで、私は牧場のはずれで道をそれ、馬の骨にまたがったまま、牧場の門を開こうとした。リンゴーが馬からおりて、その門を開いてくれた。私たちは猛烈な陽光をうけながら牧場を横切っていった。家の姿がもう見えるところまできていたのだが、私は見ようともしなかった。やがて私たちは木陰にきた。人目につかない奥まった低地の、風通しのよい、こんもりとした木陰だった。私たちがその昔、北部人の馬を隠しておくためにつくった檻の古い柵が、いまでもそこの叢林(そうりん)のなかに残っていた。まもなく水音が聞えてきた。そして、水面にキラキラ日がきらめいているのが見えた。私たちは馬からおりた。私は仰向けに寝ころんで、もしなんだったら、いまこそまたあの息苦しさがはじまってもいいぞ、と考えた。しかし、息苦しさははじまらなかった。私は眠ってしまった。息苦しさがはじまってもいいなど考えおわりもしないうちに、眠りにおちてしまった。私は五時間ちかくも眠っていた。夢はぜんぜん見なかった。だが、起きたときには、さめざめと泣いていた。おさえることができないほど、はげしく泣いていた。リンゴーは私のそばにしゃがんでいた。日はすでに没していた。だが、どこかでまだなにかの鳥が鳴いていた。あきらかに私たちの町の信号停車駅(訳注:信号旗の合図があるときだけ列車が停車する駅)にとまっていたらしい、北方へ行く、夜行列車の汽笛の音が聞え、発車する音が短くとぎれとぎれに聞こえてきた。しばらくすると、私の泣きじゃくりもおさまってきた。リンゴーが小川から、彼の帽子に水をいっぱい汲んで持ってきてくれた。だが、私はそれを飲まないで、自分で水辺におりてゆき、水のなかに顔をひたした。
 ヨタカがすでに鳴きはじめていたが、牧場のなかはまだずいぶんと明るかった。私たちが家にたどりついたとき、マグノリアの木のなかでモノマネ鳥が鳴いていた。そうはもう、眠気をさそうような、夢見心地の夜の歌だった。そしてふたたび、ぬれた砂の上につく踵の縁のような月が昇っていた。玄関の間には、灯りがたった一つ、ぽつりとついているだけだった。だから、私の上着にさしたバーベナの匂いよりもさらに強烈な花の匂いがまだあたりにただよってはいたが、万事すでにおわってしまっていた。私は、昨夜以来、父の顔を二度と見てはいなかった。けさ、家を出るまえに、私はその顔を見ようとしたのだが、それもよしてしまったのだ。あのとき見た父の顔が、最後だった。それに、家に残っている父の肖像はみんなあんまり役にはたたなかった。なぜなら、どんな肖像でも、この家に父の死体を残しておくことができないのと同様、父の死顔を見せることはできないからだ。けれども私は二度と父の顔を見る必要はなかったのだ。父はそこにいる、永遠にそこにいるのだ。ドルーシラが父の夢だといったものは、おそらく父が自分で持っていたものではなく、父が私たちに遺し伝えてくれた、なにものかなのだ。私たちが永久に忘れることのできない、私たちが、たとえ黒人でも白人でも、眼を閉じさえすれば、私たちの瞼の裏に父の現世(うつしよ)の姿をうつし出してくれるなにものかなのだ。応接間には、ジェニー叔母さんの色ガラスがはめてある西側の窓から、夕映えの残光がかすかにさしこんでいるだけで、灯りはついていなかった。私は二階に行こうとした。と、そのとき、窓辺に腰をおろしていたジェニー叔母さんの姿が見えた。彼女は私を呼びはしなかった。私はドルーシラの名を口に出しはしなかった。ただ戸口に行って、だまって立っていた。すると彼女が、「ドルーシラは行ってしまったわ。夜行に乗ってね。モントゴメリー(訳注:アラバマ州中央部にある同州の州都)のデニソンのところへ行ったんだよ」といった。デニソンは一年ほど前に結婚し、法律を勉強しながらモントゴメリーに住んでいたのである。
「そうですか」と私はいった。「じゃ、ドルーシラは知らなかったんですね、あの――」だが、そんなことをきく必要もなかったわけだ。ジェッド・ホワイトが一時前に家に着いて、みんな話したにちがいないのだ。そのうえ、ジェニー叔母さんは私に返事をしなかった。私にウソをつこうと思えばつけたわけなのだが、そんなことはしなかった。
「こっちへ来て」と彼女はいった。私は彼女のそばに行った。「そこへひざまずいてちょうだい。あたし、あなたの顔がよく見えないのよ」
「灯りをつけましょうか」
「いいのよ。そこへひざまずいてちょうだい」そこで私は彼女の椅子の前にひざまずいた。「それであなたにとっては、今日の土曜日の午後は、とてもすばらしい午後だったというわけなのね?あたしに、その話をしてちょうだい」それから、彼女は私の肩の上に両手を置いた。私はその手が上に上がってくるのをじっと見まもっていた。彼女自身はそれをおさえようとしているかのようだった。私の肩の上に置かれたその両手は、彼女には無関係の生命のようなものを持っていて、彼女が私のために抑制しようとしていることを、反対にしようとしているような感じだった。やがて、彼女は抑制しようとする努力をあきらめてしまった。あるいは、彼女にその力がなかったのかもしれない。その両手は上にあがっていきて私の顔の両方からしっかりとはさんでしまったのだ。とつぜん、ドルーシラが笑ったときのように、彼女の眼から涙がほとばしり出て、顔を流れおちた。「ああ、あんたがサートリス家の人たちはのろわれている!ほんとにのろわれて、のろわれているんだわ!」
 私が玄関の間を通りすぎたとき、食堂に灯りがつき、ルーヴィニアが夕食のしたくをしている音が聞えてきた。そして階段のところも、すっかり明るくなっていた。しかし、二階の廊下は暗かった。私は彼女の部屋のドアが開いているのを見た(もうだれも人が住んでいない部屋のドアがあいているときの、あのまぎれもないあきかたをしていた)。そして、そのときになってはじめて、私がそれまで彼女がほんとうにいなくなったとは信じていなかったことに気がついた。だから、私はその部屋のなかをのぞいて見はしなかった。私は自分の部屋に行って、なかにはいった。そして一瞬、それは長い感じの一瞬だったが、私は折り襟にさしたバーベナがまだその匂いを放っているのだと思っていた。部屋を横切って枕の上を見るまで私はそう思っていた。だが、それは思いちがいであった。枕の上にバーベナが置いてあったのだ――バーベナの小枝が一本(彼女はよく、まるで機械でも使って型を切るように、おなじ大きさ、ほとんど同じ形の、十本ものバーベナの小枝を、そのほうは見ないで、一度に摘みとっていたものだった)、千軍万馬のうちにもそれだけははっきりと嗅ぐことができると彼女がいっていたあの匂いを、その部屋のなかに、黄昏のその部屋のなかに、充満させているのだった。
フォークナー 一九三八








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