tell a graphic lie
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(hatsu-koi)-0
相変わらずろくでもない年だった。ただ、それでもその中央には強い光を放つ光点がある。さぁ、はじめようか。
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 先ずは、タイトルを決めねばならない。これはもう決まっているんだ。恥ずかしながらぼくはこれに「初恋」という表題を与えたく思います。
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 細かいことは実はあまり憶えていない。ぼくのあの子は記憶というより、イメージである。いくつかの事柄の都合の良い部分だけが連鎖し、混じりあい、溶接されてぼくのあの子をなしている。それはあの子と会っている時間よりも、あの子を想っている時間のほうが長かったためであり、またぼくの本来持つ独善的な性質のためだろうと思う。初恋という表題は、事実初めてのことであったとし、その言葉に酔いたい浅ましい気持ちから来るものであるほかに、そういった点においても相応しいと言えないことはないのだ。それで、ぼくは「やはり初めてであったのだ」などとわけのわからない裏付けを得た気になり、その勢いで冒頭の言葉を書いた。
 ぼくはこれを初恋と呼びたいのである。粘着質の泥濘のようなぼくの道のりの中にあって、それは突き抜けている。ほとんどはじめて、ぼくは能動的に自分の感情や意志に従った。ぼくはあの子を手に入れたかった。そして、手に入るのを待つのではなくて自分で取りに行こうとした。どうしても必要だと思った。違うものになると思った。そして、全ての気後れを強引に押さえ込むためにあらゆる不安を能天気で幸せな思い込みで覆い隠して、風のようにあの子に会いに行った。
 それは恋だろう?違うかね。
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 一目惚れに近い。
 やれやれ初恋である上に一目惚れか、と思われるだろう。しかし、それについてはぼくも考えた上で言っているつもりである。社会人になり新しい環境を与えられ、そこであの子を見つけ、すぐに好きになった。好きになっていたが、その疑いからぼくはそれをしばらく信用しなかった。一目惚れほど信用ならないものはない。そんなのはぼくだって知っているつもりである。それは新しい場に来て始めにするお決まりの手続きのようなもので、つまり与えられた中からひとつを選んだに過ぎない。適当で卑しいぼくの根性の決まりきった動作に過ぎない。そう考えた。
 今でももしかしたらその程度のことであったのではないかと、いや今はむしろそうであって欲しいという全く反対の意図からであるが、考えることがある。その作業はいつもある程度まではうまくゆく。何しろ、あの子は美人ではない。背は小さく、痩せて、頬はこけており、肌も浅黒く、声も、ある人などは、最初男かと思ったと言うほど低い。おまけに化粧っ気など皆無である。胸だって小さい。色気なんてどこにもないはずである。でも、笑顔はいいのだ。笑顔がいい。小さな顔を全部使って笑う。そこに至り、この仮定を立証する作業はいつも頓挫する。もう一度その笑顔を思い浮かべて、少しにやけて、それから「なぜだろう」と呟く。そして、その後はもう好きを並べるだけになる。最後にそれはいつからかと問うたとき、ぼくは「はじめからだ」と応えるほか無いのである。
 だから、これは一目惚れなのである。ぼくははじめからあの子が好きだったのだ。
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 そして、その恋のはじめは初恋らしくひどく控えめなものだった。とにかく、ぼくはあの子に興味があると誰にも悟られたくなかった。まだぼくはそのような疑いを持っていたのであるし、またぼくはそういった事柄から失格しており、そのような意図をもった行動はできる限り押さえ込む必要があったのである。ぼくのような人間に好きだのなんだのをされるということは、大抵の人にとって不幸以外の何ものでもない。それは知っているし、それを越えてまで自分のそのようなものを出すほど、ぼくは大きな勇気は持ち合わせていないし、無神経にもなりきれないのだった。
 そういうわけで、ぼくはあの子に対してできる限りそっけなくあらねばならなかった。それでも、ただ時々話しをするのがひどく嬉しかった。それはぼくにはどうしようもない感情だった。ぼくは出来うる限り、そういうことを避けようと思い決めたが、あの子を見ればその意思は常に敗北し、ぼくはせいぜいそっけない何でもないような顔を努めてしてあの子と話をし、他の同僚と話すことがあればできるだけそちらの相手を真剣するぐらいであった。
 話をするあの子はいつも控えめであり、あまり自分のことを積極的に話そうとはしなかった。どうやら自分の喋ることは下らないことで、あまり面白いものではないと思っているらしかった。とんでもない。面白いもクソもない。ぼくは君のことなら何でも知りたいのだ。君が関わっていることならば、何でもだ。 好きなもの。嫌いなもの。いつもすること。大事にしているもの。大事な記憶、思い。捨てたもの、抱えているもの。時間の潰し方。読む本。音楽。朝起きると思うこと。できること、したくないこと。好きな食べ物。食べれないもの。行った場所。行きたい場所。妙に気になること。一日に使うお金の額。景色。恐れること。故郷。恋。寂しさの量。やさしさの質。昨日ちょっと疲れているように見えたわけ。感じるところ。両親。兄弟。家族。何に対してもどかしさを感じているのか。眠る前に祈る日はあるのか。つらい夢は見ない?泣くことはある?スキナヒトハイルノ?ボクハドウ?ボクハスキ?
 それでも、傍にいたく、顔が見たく、話がしたく、あの子のことを少しでも知りたく願うので、ぼくは仕方なくできる限りどうでもよい話をし、それを通じて知ろうとする作業を、そんなに多くない機会を使ってせっせとし続けた。十分な満足を与えられることは一度もなかったが、それでもそのような機会を得た日は帰り道の間中「好きだ」と頭の中で繰り返していた。それはあの子に対して向けられていたというよりもむしろ自身に対しての言葉であった。ぼくはやはりぼくを信用できないので、まずとにかく自分を納得させる必要があったのである。失格していることも知っていたが、それでもやはり納得したかった。好きだからといって、ぼくはあの子に何かをするというわけではない、それならば好きだと思うことくらい良いのではないだろうか、と小理屈をこねて、それを採用していた。
 あとはそれが本当だ、と言えればよかった。帰り道、自転車をこぎながら何度も「好きだ」と思い、何度もそれは本当か、と問うた。しかし、その途中できれいな人を見ればそれはきちんと中断し、やはり信用ならず、と思考はまたふりだしへ戻り、今度は「すまん」などと思いながら帰った。それは楽しかった。足りない会話を補っているような気さえしていた。気障な書き方を許して頂けるなら、ぼくはあの子に対してこころだけでも誠実でありたかった。それしかぼくには持ち得ないのだ。ああ。
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 そういうことをしてなんでもなく1,2ヶ月は過ぎた。ぼくらは新社会人というやつで、まだいろいろなことに不慣れで、そちらについてもそれなりにやっていかなければならなかったし、その程度のことでも初めてであるのでぼくには十分であった。そうだな、あと付け加えておくとすれば、あの子の左手の薬指には指輪が付けられていた。それについて一度話題にしたことがあったが、あの子は言葉を濁し、「別にそのようなものではない」というようなことを言った。そしてぼくは「そのようなもの」の意味を拡大解釈し、勝手に安心したのであった。このときから既にぼくは道化であったのである。いや、それの意味を正確に認識していたところで、やはりぼくはあの子に好きと言っただろうけれども。
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 そのうちに何か機会を見つけて、誘うことをするようになった。それは何度かした。しかし、いずれも先約があるとの返事だった。ぼくのそういった行動は大抵突発的、発作的なもので、その返事は無理もないことであると思えた。それでぼくは納得していた。しかし今思えば、それは愚かなで都合の良い思い込みであったのだろう。実際はやはり、やんわりとした拒絶の返答であって、ぼくはそれをきちんと受け止めることができないでいただけなのである。実におめでたい話である。結局一度もそういう機会は持てないで終えた。恥のついでに書き添えて置くならば、あの子のそういうものをその控えめな性質のせいだとも思い、それをどうにかするにはどうすればいいのだろうなどという能天気極まりないことなども、思い上がり真面目に考えていた。とにかく、あの子のことを考えるのは楽しかったのだ。
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 そうして、ぼくは順調にのぼせ上がり、心身両面における失格の自覚は少しずつ薄れ始め、いま少しの勇気さえ得ることが適えば、ぼくはあの子の隣にいることができるようになる、などと本気で考え始めていた。もはや滑稽を通り越して目を背けたくなるほどの哀れさであるが、極めて真剣であり、有頂天であった。ぼくはそのために必要な、自身を肯定し、励ますためのバカバカしい根拠の構築作業や、暇があればあの子の顔を思い出し、「好きだ」を添え、わけのわからない高揚を作り出すというようなことを飽きずにした。
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 そしてだいたいこんなようなことを考えるようになっていた。まぁ、黙って読みたまえ。
 ぼくがあの子を好きだということは、あの子が一番はじめに知るべきだ。それは回りくどい手段をやっているうちにその恥ずかしさや身のほど知らずさに本来の目的を達する前にくじけ、放り出してしまうだろうぼくにとっては、ほとんど言いわけに近い論法から導き出された答えだったが、至極まっとうなものであり、美しくすらあるように思われた。それについては今も後悔はないのだ。
 そう考えたぼくは次に、それにはどのような手続きが最も適当であるかを考えた。安易な手段に頼ることがいくらでもできるように思えた。実際、電話やメールを使ってやってしまえばそれはすぐにでもできそうな気がしたが、それは明らかに間違っていた。ぼくは平時からこのような場を使ってやたらとなにやら妄想めいたことを書きなぐっているような人間である。あの子を好きというものを、そのような手段を用いて同じ様なものにしてしまうわけにはいかなかった。あの子は現実であり、ぼくがあの子を好きだというのも当然現実のものでなければならないのだ。それにはやはり最もぼくが不得意である方法、すなわち面と向かって「好き」と言うことが最も相応しいと思えた。
 何を当たり前のことを、と思われるだろうが、とかくぼくは安易な方法を選択しがちであるので、そのような理屈を使って自分を縛る必要があった。また、その手段はできるだけ困難であるほうが好ましかったので、それは採用された。ぼくが好きだと言わなければ、ぼくはずっとあの子のことをただ想っているだけで済むのである。それでも全然構わないようにも思われた。いや、本当はそれで終わるべきだったのだ。何度も言うがぼくはそのようなことから失格しており、それ以上のことは分不相応なのである。ぼくはその分不相応なことをしようと思い始めていたわけである。それにはあらゆる強引な理論武装が必要だった。
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 そして、ここを得たのである。ここを得ることによってぼくは言葉の使用に関するぼくの中の規制を完全に撤廃した。ぼくは思いつく限りの言葉を使って、この恋を修飾した。なんだ、大したことがないじゃないかなどと言ってはいけない。こんなものでもぼくを高揚させるには十分だったのだ。
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 いろいろな想像をした。いろいろなところへ二人で出かけて、おいしいものを食べて帰ってくることや、そう、ディズニーランドに行ってもいいとすら、一度考えたことがある。きれいな家具やあの子の着る服、つけるアクセサリを一日中歩き回って探すことや、当然、欲情に関係のあるようなものについても。その唇にぼくの唇を合わせ、ヘタクソながら舌を絡ませたりすることや、服をはぎ、その胸にできるだけそっとキスをし、次いで首筋に、脇、お腹、二の腕、そうして全身くまなくぼくのしるしを付けることなどを想った。しかし、実際にはその想像で昂奮することはなかった。どうもそれらはぼくにとってそういうものではないらしかった。きっとそういうものを知る前の頭を使っていたのだ。そして、あの子の鼓動を聴く日のことを想うのだった。
 ぼくはそれらの想像をいじいじとここに書き付け、ひとり悦に浸っていた。実際、その言葉はそれなりに美しいように思われた。あの子という触媒を得たぼくの想像、いや妄想はその翼を大きく広げ、象徴化された自己を自由自在に操ってあの子のイメージと戯れた。あの子はぼくに対して開かれており、ぼくもまたあの子に対して開けていた。ん?言いすぎか。そうか、そうかも知れぬ。
(hatsu-koi)-11
 考えてみれば、しかし、ぼくとあの子の間に特別書けるような出来事は、あの滑稽な告白以外には何もない。あの子は常にぼくと距離を取っていた。そうあることで奇形に育ったぼくの想いは、それをも最終的にはきれいに忘れて、あの素晴らしい笑顔だけを思い出し、それが手に入るものだと勝手に思い込んでいた。それが当然だと思っていた。それについてこれから書こう。
(hatsu-koi)-12
 その日は起きてすぐ、髪を切りに行った。それで賭けをすることにした。うまい具合に切ってもらえたら言おう。ぼくは髪を切ってもらうのが嫌いだ。ぼくはぼくに自信がないので、大きな鏡の前に長いこと座らされて、知らない人間にぼくの身体の一部を弄繰り回されるというのはとてもいやなのだ。見たくもない自分の顔を他人と一緒にずっと眺めていなければならないのである。そして、うまくいったためしがない。今度もきっとそうだと思っていた。あまり負ける心配のない気楽な賭けだった。初めて行く美容室だった。木の質感を前面に出した内装の店で、「髪ふうせん」などというちょっと照れくさいが、嫌いでない名前だった。中は暖かく、お姉さんが丁寧に髪を切ってくれた。そしてぼくは賭けに負けた。晴れたか、と思った。それから渋谷に出て買い物をした。気に入ったものが買えた。気分は久しぶりに良かった。
 言うと決めたら、今までのことが、なにやらしなくても良いことだったように思えた。
「飽きたので次へ行くことにした。落ち着いており、そこがまた実にバカバカしく思えてならない。もう、どんな結果でもいいや。」
そう書いてからぼくは外へ出てあの子に電話をかけた。既に日は落ちて家々は黒いシルエットになっており、空は西の方はほのかに紫がかっていたが、大部分は深い藍色になっていた。まだ、そんなには寒くない。いい日だった。ぼくはプラプラと自転車をこいで路地に入り、近くを一周した。確かあの子は今自分の大学の文化祭へ遊びに行っているはずである。それでも、もしかしたらすぐに会えるかもしれない。とにかく、言ってしまえるときに言ってしまわないと。次にそういう状態になるのはいつになるのか全く心もとない。今日言える気になったのなら、今日中に言ってしまわなければ。それも早いうちに。携帯であの子の名前を探し出し、通話ボタンを押した。ぼくはこういう人間なのだ。
「今何処にいるの?」
「え、大学。何、どしたの?」
素晴らしく間抜けな会話である。ぼくは苦笑しながら、今から会えないかというような事を言った。相変わらずぼくは間が悪いようである。これから飲むという返事が返ってきた。まぁ、当然であろう、文化祭最終日なのだから。「そうか、ならいい。」などと力なく言い、電話を切った。西の空ももう夜に沈もうとしていた。仕方なくぼくはこのあとどうしようかと考えなくてはならなくなった。標的を失った想いをどうにかするために、どこかへ行こうかとも考えながら、暗くなった道をふらふら走った。やれやれ、やれやれ、やれやれ。そればかりだった。電灯が無言で規則正しく並んで青白い光を降らせていた。月は。月は確か見つからなかった。しかし、今回はどうも本気であるらしかった。そうだ、明日言えば良い。そう思い至り、またそれができそうであったので、俄然力を取り戻し、今日は素直に眠ることにしようと、部屋へ戻った。気分はとても落ち着いていた。心強く思った。
 日が明けて朝は雨が降っていた。ぼくは普段通りに会社に出た。普段通りに仕事をした。とても重大な事柄を前にしてぼくがそういう風でいられるのは少し発見だった。定時近くになったら今日の予定を確認して会いに行こうと考えた。しかし、そんなにうまくいくはずがない。定時近くになるとやはりだんだんと落ち着かなくなった。時間を空けすぎたようだった。ぼくらは仕事場の場所は違うけれど、同じ会社であるので、社内ネットワークのメッセンジャーを使っていつでも文字で話をすることができる。それを使って今日会いたいということを伝えようと思ったが、うまく書くことができなかった。ここまで隠してきたのだから、ぼくがはっきりそう言うまで、できればあの子にほんの少しでも悟られたくなかったが、そのように書くのはぼくにはできなかった。そこに、会おう、と書くことは、好きだ、と書いているのと同じことであるように思えた。そう、書いて伝えてはならないのだ。あれとは違うのだ。ぼくは難しい顔をして、何度も書いては破棄をした。それでもできないので、諦めて新聞を読んだり、漫画を読んだり、同期と話をしたりした。
 そして仕方なく何とか、何時に仕事を終えるのか、だけを尋ねた。あの子はとても忙しいらしく、またそういう子なのだが、最近はいつも22時以降だと返事があった。それはぼくにとって都合が良かった。態勢を整える猶予を与えられたのである。ぼくは仕事をせずにそわそわしながらまたインターネットでニュースを見たり、本を読んだりした。9時頃会社を出た。約1時間かかる。あちらに着くのは10時前後だろう。もう昨日のような前向きな心地で動き出したのではなかった。できれば取りやめたかった。しかし、もう後には引けないと考え、それによって動かされることにした。何しろ、昨日も会いたいと電話をしているし、今日も何時に仕事を終えるのか尋ねている。これで何にもしなかったらアホだ。既にぼくはあの子に対して何かしようとしていると、もう十分不信を持たれている。言ってしまおう。雨はとっくに止んで、路面はもう乾き始めていた。傘を蹴って駅まで歩いた。寒くも暖かくもなかった。
 電車はすぐに来た。車内は異様に明るい気がした。事故かなんかで止まればいいと思った。唾を何度も飲み込んだ。そんなに速度を出すな。途中に普段下りる駅があり、そこで下りてしまおうかと迷ったが、迷っているうちにドアは閉まった。これで決まった。そうか、これからぼくはあの子に「好きだ」と言いに行くのだ。とても正気の沙汰とは思えなかった。溜息をつき続けた。
 無情にも何事もなく電車は渋谷に着き、よろよろと山手線に乗り換えた。恵比寿に着くと、切符をどこへしまったかわからなくなっていた。笑えもしなかった。駅員にその旨を伝え、金を払い、ようやく駅を出た。帰りたくて仕方がなかった。何ヶ月か毎日通った駅であるのにどっちへ行ったらいいのかわからない。
 改札から吐き出される人の流れの真中でしばらくぼんやりしていた。いや、正確にはぼんやりなどではないが。そしてそれでも、ふらふらと会社に向かって歩き始めた。なんといって呼び出していいのかわからなかった。言葉が見つからないのでこれ以上に会社に近づくわけには行かなかった。途中の角を反対に曲がって歩道橋を越え会社から離れる方向に歩いた。ああ、訳がわからない。何でぼくはこんなところでこんなことをしているのだろう。困った。離れてゆく。離れてしまいたい。今日はだめだ。もうやめだ。渋谷までこのまま歩こうかとも思った。渋谷の空はいつも通り、やっぱりいやな色をしてぼんやり濁っていた。そして、遠かった。
 それで、気が変わった。やはり、やることにしよう。引き返しながら、とりあえず電話を取り出した。何度か、通話ボタンを押しては取りやめた。また結局ふらふらと駅の傍まで戻ってきてしまっていた。仕方なくぼくは通話ボタンを一度押すだけにした。何を言えばいいのかなんて、もう何も持っていなかった。出る言葉を吐くだけだ。
 奇跡だ。素晴らしいことに通話中だった。声を立てずに肩を揺らして笑った。神様のお決めになったことだ。今日はもうやめだ。携帯を鞄に放り込んで、足早に駅へ向かい、切符を買って忘れないように右のポケットに入れた。電車は混んでいた。疲れきっていた。情けなかった。しかし、とにかく今日は終わったのだ。疲れた。もう知らん。早く寝よう。
 駅を出ると、少し冷たかった。今まで気温を感じることができないでいたことに気付いた。ポケットに手を入れて歩いた。鞄から携帯を取り出してみると、あの子から着信があった。そういえば着信音を消していた。また、寒いなどとは言っていられなくなった。電話しなければ。なんて言おう。もう帰ってきてしまっている。あの間抜けな旅をもう一度する気にはとてもなれない。ああ、面倒だ。もう電話で言ってしまうか。疲れていた。今度は一度であの子は出た。
「電話した?」
「うん、した。」
「何。どしたの?」
「うん。」
さて、どうしたもんか。しかし、実にいい声だ。顔が見たい。いやだ、やっぱり。電話で言ってしまうのなんて。ああどうしよう、好きだ。会いたい。顔が見たい。笑って欲しい。それで今日のこの苦労を全部話して、「君のせいだ」と言って楽になりたい。
「今何処にいんの?」
「え?自由が丘。」
「駅?」
「うん。」
行けるか?この道を真直ぐに南下すれば、自由が丘に行き当たる。それは一度自転車で行っているから、知っている。思いのほか近かった。15分くらいだ。行けるのか?どうする?行くか。行くか!
「下りて。」
「え?」
「いや、そこで下りて。待ってて。」
「え?」
「いいから。」
「うん。。。下りた。」
「よし。素晴らしい。いい子だ。今からそっち行くから。」
いい子だ!!ついに吐きおった。
「え?何?何かすんの?」
「いいから。15分くらいだからさ。適当に暇潰しててよ。な。」
「。。。うん。わかった。」
「じゃ、着いたらまた電話するから。」
 さぁ、行くぞ。あの子はもう待っている。ぼくが来るのを待っているのだ。それは素晴らしい。実に素晴らしい。それこそぼくが想い焦がれていた事態だ。部屋へ大急ぎで戻り、水を飲んで、自転車をこぎやすいスニーカーに履き替えた。こぎ始めると少し寒かった。それを振り切るように飛ばした。お誂え向きに行程は真直ぐなのだ。何もかもがそろっている気がした。そうか、あのひどい旅もこのための演出に過ぎなかったのだ、などと考えた。言うぞ。驚け。そして喜べ。好きだ。好きだぞ。静まるオリンピック公園の脇を抜け、目黒通りを跨いで、真直ぐに走った。夜の闇すらぼくを祝福してくれているように思えた。誇張ではない。本当だ。
 着いた。右手に駅ビルが見える。電話を取り出してかけた。
「着いた。何処にいるの?」
「改札の前。」
「そうか。今行く。」
寒い中、そんなところで待っていたのか。もっと暖かいところにいればよかったのに。自転車に乗ってきたぼくの両手もかじかんでいた。
 自由が丘の改札は駅ビルがあるほどの駅の割にはこじんまりと小さかった。その前の柱にあの子は寄りかかっていた。とても小さい。あの子に会えたことはこの上なく嬉しかったが、その目的はこの期に及んでぼくを尻込みさせていた。おかしなことになってきていた。
 なんと挨拶をしたか憶えていない。ぼくらは並んで、駅の脇の路地に入った。小さい飲み屋やら、パブやら、パチンコ店やらが立ち並んでいる路地だった。最悪の選択といえた。ぼくの喉は凍り付いていた。
「あの、ちょっと私、風邪気味なんで、用があるなら早くして欲しいんだけど。」
あの子は少し鼻をすすりながらそう言ったのだ。それでぼくは悟った。ああ、そうか。間違っていたんだ。俺が馬鹿だったわけだ。考えてみれば、そりゃあそうだ。そこにはぼくしかいなかったのだから。ああ、もう、おしまい。ばいばいばい。
「うん。」
しかし、言わねばならないのだった。それで、ぼくはなんとも恐ろしい前置きを付けて言ったのだ。もう、どうにでもなればよかった。
「だいたい、もうわかってると思いますが、今日は、君に好きだって言いに来ました。」
しかし、これほどまでに醜くなるとは。想像すらしていなかった。どこまで巻き戻したらいい。はじめからだ。はじめとはどこだ。わからない。はじめのはじめからだ。全部巻き戻すんだ。そうだ、これがぼくだよ。最もよく出ている。笑いたまえ。ぼくはまだ笑えずにいるんだ。頼む、ぼくの分まで笑ってくれ。
 このあと、あの子を駅まで送って、送ってというほどではないが、別れるまでを知りたいかね。いや、全部憶えている。どんな店があって、何人とすれ違い、あの子が何を言い、ぼくがそれにどう返したか。全部憶えている。しかし、それを知ってなんになるというのだ。ぼくが自転車を持て余して、蹴り飛ばそうと思っていたことなどを知ってなんになるというのだ。そうだな、これだけ付け加えれば十分だろう。駅も近くなったとき、あの子は深い溜息をひとつした。ぼくは呼吸が止まったよ。
 帰り道は空っぽだった。そこへ色が流れ込んできた。それはその日のここに書き記したものを引用するのが良い。
「色が戻る。夜の通りに散りばめられたさまざまな色。アスファルトの灰色ばかりじゃあない。センターラインや横断歩道は白、速度制限はオレンジでかかれている。電灯の色にもいろいろあって、白いのや、オレンジがかったのや、いろいろある。自販機やコンビニの明かり。車のテールランプ、ヘッドランプ。家々の窓の明かり。信号機。雨上がりのクソ寒いこの空気の色。風の色。闇夜の色は単色ではない。色を無くしていたのはぼくだったのだ。」
ぼくは空っぽとすがすがしさとを混同していた。いや、そう思い込もうとしていた。部屋は遠かった。あの子と離れていっていた。全部ばかげている。手は硬くなっていた。
 部屋に戻ってすぐに上のものを書いた。風呂を沸かした。風呂に入っていると、脳が閉じていくのがわかった。しかし、同情の余地がないことくらいはわかった。そして虚構の足場の上に建てられていた妄想の館は霞んで消えた。見事に裸のぼくがひとり残された。
 ぼくは顔を真っ赤にして今もそのまま歩いている。
(hatsu-koi)-13
 ここで終わるべきだろうか。そうだな、それはきっととてもよい。しかしながら、ぼくはその後も生き続けているのだし、あの子とは会社の同期なのである。であるので、尚2,3書くことがある。それは残念なことにひとつも見栄えのするものではないのだけれど、それまで書いてこれは終えるものなのだ。
(hatsu-koi)-14
 その週の金曜に会社の研修でぼくは再びあの子と顔を合わせることになった。研修の合間に何か話をした気がするが、憶えていない。ただ、研修を終えて帰ろうと、あの子の前を通ったとき、あの子はうつむいて歯を食いしばり、手にしたマグカップを両手できつく握っていた。それはあの子が何か困ったときにする顔だった。ぼくはそれを横目で認め、鼻で笑って通り過ぎた。なぜそんなことをしたのか、実は今もよくわからない。何を笑ったのか。わからない。
(hatsu-koi)-15
もうひとつは、、、いや、もう止そう。これがぼくの初恋である。ぼくに相応しい。
(hatsu-koi)-99
「初恋」を読んで頂いて有り難う御座いました。ひとことでもありがたいので、是非コメントをください。お願いします。mailto:kiyoto@gate01.com