馬鹿は死ななきゃ直らない tell a graphic lie
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(馬鹿は死ななきゃ直らない)-1
全くひどい一日だった。実に残念なことに書かなければならないらしい。ぼくはこれを笑い話にしたいけれど、うまくいくかわからない。これをフィクションにまでできたらいいけれど、日記にすらすることができないかも知れない。とにかく、全くひどい一日だった。できすぎていた。いろいろなことが証明された。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-2
 昨日と同じように、今日もぼくらは客先へ出かけた。今日は怒られに行く、と先輩に聞かされていたが、あれは怒られているとは言わない。叱咤激励されているのである。やる気のない、へこへこしたぼくらのケツをぶっ叩いてくれているのである。恐ろしいことに、ぼくらはそれに報いる力を持っていないのだった。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-3
 客先とは、某電気通信最大手のN社である。こう書くともう完全にわかってしまうのだが、こう言い表すのが礼儀であり、慣習であるそうだ。ぼくがそう書くのは、残念なことに嫌味を込めてのことである。まぁ、そんなことはどうでもいい。
 このN社、御承知のとおり、昨今の凄まじいばかりの不況のため、今期は一千何百億だかの赤字になる見通しで、あえぎにあえいでおり、現在社内はリストラの嵐が吹き荒れている。そのような中、今日会ってくれたYさんという方は、三十代後半、今が働き盛りの方で、風貌といえば、これはまさしくラガーメンで、その外見と違わぬ仕事振りをしているため、現在も社内で真中に居続けているという、実に素晴らしい方であった。ぼくらの今回の訪問の目的は、その真中で頑張っている方から話を伺って、ぼくらの作っている製品を取り巻く環境を探ることが目的だったようだった。
 2時間半、Yさんは喋り続けた。千人単位の人間が社内で余っている。45歳以上は無条件リストラなんて話も一時期浮かんだ。管理職のボーナスは40%カットだ。ローンが払えん。どっちにしても何千人と切らなければならない。拒否権はあるが、それ専用の、タコ部屋行きだ。しかし、それは当然で、何せ作っているものがひとつも売れない。だから、ぼくらはあの人たちに仕事を用意してやれない。それは当り前なんだ、うちの製品を買う理由がどこにもない。横並びでやってきたから、細細としたどうでもいいような違いしかない。だから、米国が、中国が。
 戦いを挑む前に、勝つための準備をしろ。勝つためのシナリオを作り、検討し、予行練習をして、その上で戦いに挑め。いや、そんなのは実に、実に当り前なんだ。孫子も言っている。敵を知り己を知らば、百戦危うからず。スポーツの世界では常識だ。米国はそれを実践している。勝てる確信、持ってから戦いを挑んでくる。常に戦略を検討している。中国については、今この国が持っているアドバンテージをフル活用しきることができる、上から0.5%の超エリートが相手だ。やつ等、死ぬほど頭がいい。エグイ。しかし実に合理的だ。国家規模の支援もある。今のままでは勝てるわけがない。生き残れるわけがない。結局ぼくらは旧陸軍とどこも変わらないのだ。気合だけでなんとかなると思っていたんだ。それでずっとやってきてしまったんだ。
 しかし、実際に人が余っている。次の手を打とうにも金がない。首を切るしかない。もっときちんとやってくるべきだったんだ。そうすれば、こんなことにはならなかった。何千人という人間を首にしなくて済んだ。もっと。もっと前から。
 痛烈な自己否定をしていた。N社のこころある人たちは、きっと今みんな同じようなことを考えながら、必死にあがいているのだろう。とにかく、N社の今はそういうものであるらしい。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-4
 そして、その実にエネルギッシュなYさんが、「しょうがない」とぼそっと言った。ぼくは寒気がした。やはり、その線なのか。どこへ行っても、あなたのような人でも、結局そうなのか。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-5
仕方がない。やるしかない。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-6
 そんな話をされてもぼくの上司は呑気なものだった。電話がかかってきてYさんが席を離れたとき、一番上の人が、マイクが仕掛けられていないかなんて、テーブルの下を覗いて調べたりなんてことをやってから、「あれだね、Yさんもきっと、やばいからなんだろうね。」などと言った。もう一人が笑ってそれに同意した。Yさんは、「今自分がやっている仕事が自分の作戦ミスでちょっとやばいことになっていて、頑張って盛り返さないといけないんだ。」とも話していたからだろう。全く危機意識が欠如している。おめでたい人達だ。ぼく等はまだそれを知っているだけで済んでいるだけなのに。まだ投げ込まれてはいないだけなのに。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-7
 いや、上司を批判しているわけではないんだ。ぼくなんて、何も言えなかったのだから。ぼくだって誤魔化しているのだから。ぼくは何もする気がないのだから。そう、ここにはもう居れないよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-8
 Yさんは、そういうぼくらに対しても次の手を考えてくれた。それはYさんの利害にも合致するものであったのだけれど、無策よりは遥かにましであろうと思われるような手だった。ぼくにもわかるようなものだった。上司連中は尻込みしていた。それは確かに「必死でやる必要がある」計画だった。上司達はその必死でやる覚悟をしたくないのだった。ぼくだってそうだ。ぼくは逃げ出したかった。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-9
 Yさんはそういうなんだかよくわからない、やたらとでかい力、流れみたいなものと戦っているようだった。そう、それは戦っている、と言っていいと思う。戦うとはああいうことを言うのだ。持っているもの全部かけて、全部使ってやるしかないんだ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-10
 帰りのタクシーの中で、「今日はYさん元気なかったね。」なんて言っていた。そうか、あれで元気がないんだ。そうか。そういう人でも、やっぱり。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-11
 電車の中では、ひとつ上の人と話した。と言っても、もう5年目の人なんだけれど。「あの3人はちょっと危機感がなさ過ぎる。」ぼくは「やれと言われれば、やりますよ。でも、やれと言われなければ、やりません。」と答えた。それをはじめたら、ぼくは書く時間を奪われてしまうのである。それはできれば、いやだ。
 その人は「3ヶ月もあれば、性能を今の10倍にできる。」人なのである。ほんとの話だ。でも、それをやらないのだ。理由は実に簡単で、やる理由がないからで。それを一生懸命やっても誰も何も報いてくれないのである。今と何も変わらないのだ。いや、それをすると、かえっていろいろと軋轢を生むのだ。だから、触らない。ノータッチ。まだ、金は入ってくる。
 でも、だからといって、それを変えるきっかけをぼくに求めるのは間違っています。ぼくはぼく自身すら持て余しているような人間で、まだ仕事も満足にはできないし、そういう人間に理由を求めるのは間違っています。「外へ出たらどうですか。ライバルに買ってもらえばいいじゃないですか。きっと買ってくれますよ。ソフトなんてそんなもんじゃないですか。残された人間のことなんて考えても仕方ないですよ。ぼくはありがたいことに、まだ若いですし。」「ぼくは喋れないんです。実際にそれをやりたいわけではないですから。やるわけではないですから。」そう答えるしかなかった。もうここには居れないよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-12
 帰社してからも仕事をする気にはとてもなれない。当り前だ。「無駄な仕事」「そのうち消えてしまう仕事」なのである。それは無駄ではなくすことが、まだこの会社には確かにできるのだけれど。その力が、まだあるみたいなんだけど。多分ぼくなんかでも、何か言えばそれが始まるのだけれど。それはわかるのだけれど。多分、Yさんみたいにやればいいのだけれど。必死で考えて、必死で喋って、必死で動けばいいのだけれど。それはわかるのだけれど。でも、ぼくはきっと投げてしまう。逃げ出してしまう。責任が持てない。持ちたくない。ぼくはここには居れないよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-13
 それでもなんだか帰りづらくて、部屋に戻ったのは7時過ぎだった。スーツを脱いで、部屋着に着替えて、週末なので、一息ついて、溜まっていた郵便受けの投げ込み広告を処理しようと郵便受けを開けると、ぐしゃぐしゃになった広告の中に一枚のはがきが紛れ込んでいた。
 それは小谷美紗子のライブ招待の当選のはがきだった。それは申し込んだものの、全く期待していなくて、そんな光栄なことがぼくに起こるなんて全然思っていなかったので、昨日、今日のこともあり、完全に存在を忘れていたのだけれど、素晴らしい。ありがたいことだ。えと、いつだっけ。はがきを覗き込んだ。
 8日(金)。え。おい!今日じゃん!馬鹿言え!何時からだ!19時00分開場!19時30分スタート!ふぁっとたいむいずいっとなう!電子レンジの時計!指差確認!19時20分!バ、馬鹿言え!丁度CDが再生を始めていた。ああ、いい歌だ、ねぇ。しかし、こんなの聴いてる場合じゃない!生、生、オイ!行くぞ、バカ。場所は、場所はどこだ。おお、奇跡!半蔵門線、半蔵門駅徒歩3分!TOKYO FM!近い!行ける。今から行けばきっと半分以上聴ける。行くぞ。行くぞ。行くぞ。
 ばたばたとまた着替えて、財布と、煙草と。煙草はきっといる。吸わずにはいられないだろう。あと、3本。途中で買わねば。ああ、あとはがき、はがき。危ないね。これ忘れたら入れないね。よしよし、大丈夫。行くぞ、オラ。待ってろ、オラ。靴を履いて、ドアを開けて、閉めて、鍵をかけて、手袋はめて、自転車に飛び乗った。
 ああ、馬鹿馬鹿しい。なんで、今日に限ってちょっと遅くまで残ってたんだ。やる気なかったんだから、早く帰ればよかった。ああ、昨日あたりに郵便受けの整理をしていればよかった。ああ、もう、何てバカなんだ。救いがたい。いっつもこうだ。いっつもどっかでバカだ。ひとつとしてうまくいかない。普通にやればいいはずなのに、普通にやれない。バカだ。使えねぇ。
 へこへこ自転車をこいだ。暖かい夜だった。一週間が終わったと、家路につく呑気な人々の顔とすれ違いながら、ぼくはひとりで、やたらと焦って、自転車をこいでいた。笑えた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-14
 電車はすぐに来た。駒澤大学、三軒茶屋、池尻大橋、渋谷、表参道、青山一丁目、永田町、半蔵門。ドアの上の路線図を確認した。きっとあと30分もあれば着ける。8時には着ける。ああ、トラブルかなんかがあって始まるの遅れないかな。ああ、この電車遅い。急行になってくれ。是非なってくれ。貧乏揺すりしたい。しかし、みんな一週間が終わったって顔してんなぁ。俺、終わってねぇよ。間抜けだなぁ。目の前の広告を一生懸命読んだ。でも、何の広告だったのか、全然おぼえてない。何か、気を紛らせるものを見つけようとするが、何も見つからない。みんな呑気な顔してやがる。遅い。この電車、遅い。
 渋谷でたくさん人が下りた。酔っ払った親父達の集団が、それでも世間並みの社交辞令をしっかりしながら下りていった。渋谷では、電車はいつも2分くらい停車する。この電車、38分の発車になります。ああ、そうか、もう始まってんだなぁ。いやだなぁ。停車時の有り余った電気を逃がす、あの大きなモーター音が、エンジンを止めたので、消える。とたんにプシューッて静かになる。まぁ、そうカッカすんなよ。そうたしなめなれているような気がする。いいえ、それは違う。ぼくはぼくの間抜けによって、遅刻したのだ。これが焦らずにいられるか。いいから早く走り出せ。まったく、腹が立つ。自分に腹が立つ。
 周りを見渡すと、座席が空いていたので、全然座りたくなかったが座った。目の前では女子高生が一生懸命携帯でメールを打っている。ちょっとパンツ見えそうだった。でも、そんなのどうでもよかった。くそくらえだ。
 表参道。停車、発車。青山一丁目、停車、発車。クソ、遅いな。永田町、停車、発車。半蔵門。次は半蔵門です。 はい、知ってます。そんなのいいから、速く走れ。

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-15
 着いた。ばいばい、パンツ見えてるよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-16
 飛び降りて走りたいところだが、それはだめである。とりあえず、正しい出口を知らなければならない。東京の街は道一本間違えただけでもわからなくなってしまうのである。示された正しい道筋を完全に辿る必要がある。これ以上失敗は許されない。ホームには主な施設への最寄の出口が掲示してあるはずだ。あった。あれだ。とーきょーえふえむ。。。。あった、反対側だ。むかつくなぁ。
 改札を出ると地図がある。これも知っている。あった。ええと、ええと、おお、なんだか大きな川のとなりみたいだ。わかりやすい。川まで行き着いてしまったら不正解。よし、憶えた。地下からの出口がどっちに向いてるのかも憶えた。素晴らしい。これはつける。
 地上に出てすぐの信号が全然変わらない。思わずうろうろする。待て待て、焦ったらだめなんだぞ。みんなぼんやり待っている。ぼくはそわそわしている。車が一台、二台、どことなくもったいぶってゆっくりと前を通る。暖かい夜だ。一週間は終わりました。連休です。ああ、そうですね。ぼくはでも、今急いでいるのです。早く青になってください。
 周りの建物をひとつひとつ確認しながら、歩く。なんだか、ホールみたいなものがある。ああ、あれに違いない、よしよし。人通りはない。そんなもんだな。
 近づくとホテル何とかって書いてある。あら、違うの。え、ほんと、しくじったの。ああ、もうあそこは川だ。ああ、あれは川じゃなくて皇居なのか。その堀なのか。なるほどね、そうね、半蔵門だもんね。なんて感心してる場合じゃない。トーキョーエフエムはどこだ。どこだ。間違ったのか。完璧だろ。あるはずだろ。辺りを見回した。ホテルの反対側の建物がそうだった。正面が皇居側なので、裏から来ていたぼくはそこまで出ないとわからないのだった。ああ、よかった。よかった。入り口どこよ。ねぇ。ああ、あれだ。よしよし。「引」となっている正面のドアをできるだけ大きく引っ張って、中にはいる。守衛さんが声をかけて来る。「コンサートでしょ。となりとなり。」あ、そうなん。はぁ、わかりました。ご迷惑かけます。今度は押して飛び出る。
 隣、隣ね。ん、この建物は何か違いそうだな。次は、あれ、もうでかい交差点だよ。ないじゃん。どれだよ。ああ、あのクソ守衛、嘘こきやがったか。小走りになる。刑事ドラマみたいだ。ああ、あれってほんとなのね。焦燥と冷静の折半の結果があれなのね。バカみたい。だめだ。見つからないから、戻って、もう一度守衛さんに聴いてみることにしよう。
 戻るとすぐに守衛さんと目が合った。「ああ、どこ行ったのかと思ったよ。隣のドア、隣。」え、あ、隣の「ドア」ですか。建物じゃなくて。ああ、これね、2階ね。ああ、バカだったわけね。すいません、ご心配おかけしました。一段飛ばしで階段を登る。眼つきがちょっとやばいのが自分でもわかる。ぼくは強張った顔をして、はがきを取り出して800円払った。しかし、安いなぁ。「混んでますので、奥の入り口から御入りください。」はい、わかりました。ありがとうございます。
 ああ、よかった。着いた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-17
 中へ入ると丁度「嘆きの雪」を歌っているところだった。ああ、小さいなぁ。同じ声だ。ああ。ぼくは端っこに座りたいが、同じような趣味の人達で既に埋まってしまっていて、ぼくはそのひとつ奥へ入れてもらった。疲れた。
 とても小さいホールだった。座席も全部埋まっていなかった。2、300人しか聴いていなかった。ああ、こんなもんなのか、と思った。真中にピアノが置かれてあの子が座って歌っている。当り前なのだけれど。
 ぼくはまだどきどきしていた。ああ、小さいなぁ。そればかり思っていた。少し肩で息をしている。とりあえず落ち着こう。そうしないとちゃんと聴けない。ぼくは目を閉じて呼吸を整えようとした。でも、あの子は歌い続ける。煽る。落ち着くまで、2曲かかった。頑張って拍手をした。ひとりのちゃんとした聴衆になりたいと思った。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-18
 でもそのうち、だんだん変な状態になっていった。座席に深く座り込んで、深い呼吸をして、目を閉じて頭を垂れた。動けなくなった。どこぞにコンソールを奪われてしまっていた。ハイネックのジャージを着ていたものだから、あごを完全に胸に付けると、気管が圧迫されて苦しかった。唾がいっぱい出た。ゴクリ、ゴクリとしきりにやっていた。迷惑な話だ。でも、動けないんだ。手足の感覚が、座席に触れている部分だけになって、なんだか貼り付いている気がとてもして。もっと下まで沈んでいきたいんだけど、そこで止められている気がして。
 3曲くらいそうやっていた。曲が何だったか憶えてない。ぼくが何かから離されてしまって、どこかへずるずる溶け込んで、沈み込んでいくみたいだった。でも、実際には座席があって、身体があって、ぼくはどこへも行けないのだった。ぼくはぼくにへばりついているのだった。まっ平らになって座席にへばりついている、ぺしゃんこの抜け殻だ。そうだ、こんななんだ。いつもは空気をふーふー吹き込んで無理矢理厚みを出しているんだ。ほんとはこんなんだ。重い、重いよぅ。
 ねじまき鳥の井戸に入る場面が思い浮かんだ。あんなにはやっぱりなれないんだ。ぼくは戻ることにした。無理矢理目を開ける。ぼくの手がある。左手、ぐりぐり。動く。右手も、ぐるぐる。大丈夫だ。左足、右足。ぼくの身体。いらないよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-19
 ぼくはぼくの身体を持っているみたいだ。決して完全には君の中に入り込めない。そういうことだな。

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-20
 それからぼくはなんとか普通に聴いていた。あの子は小さい。いい顔をして歌っていた。セールストークはやっぱり下手くそだった。君はお金持ちには決してなれないね。ピアノがあれば生きてける。それ以上もそれ以下もいらないね。いや、違う。ひとり、ひとりだけ、人が欲しいね。やっぱり、そうだよね。それは、仕方ないね。願い。だね。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-21
 最後の「眠りのうた」で、涙が一筋だけこぼれた。できすぎている。笑えた。鼻をつたったそれをぼくは拭っていいのか、悪いのか、しばらくわからなかった。人前だから、暗い今のうちに、と拭った。さっぱりした。バイバイ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-22
 終わったら、トイレに行って、出てきてから、貰ったパンフレットをごみ箱へ捨てた。ぼくはこういう書類みたいなものがすごく嫌いで、とっておくって感じがすごく嫌いで、こんなものに裏付けられる必要なんてない、なんて思うから、いつも見るだけでうんざりしてしまう。だから、気が付いたときに捨ててしまう。でも、この場でそれをするのは失礼にあたると、捨ててしまってから気付いた。でも、捨てたのは蓋付きのごみ箱で、今更取り出すのも、もういやだった。
 ロビーのソファに座って煙草を吸った。最近はホープになっている。こうやってだんだんと。などと思う。みんなパンフレットの間に挟み込まれていたらしいアンケートを書き込んでいた。それはちょっと書きたい気もしたけれど、とごみ箱のほうを見た。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-23
 吸い終わったので、帰る事にして、外へ出た。目の前には皇居の森が広がっている。その手前のぶっとい道路には、車がさらさら流れている。ほんと暖かい夜だ。ちょっと風が強いけれど、それも冷たくはないし。ちょっと歩くか。
 そうか、ここは東京の真中なんですね。いや、日本の真中なんですね。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-24
 どうしようかな。とりあえず駅とは反対側に向かって歩き出した。無駄なことをするときはそうやってちゃんと自分に宣言しないといけない。終わったら真直ぐ帰る。そんなお利口なことはできませんです。ねぇちゃん、お歌、ありがとうございました。前と後で、なんかちょっと変わりました。まだ、それがなんだかよくわからないです。だから、ちょっと散歩して、回り道して、考えてみようと思います。出てくる前まで吸ってたんですけど、失礼してもう一本。残りあと、一本ね。
 お堀の回り一周しますか。横断歩道を通りの反対側、堀の縁のほうへ渡った。渡りきってから、TOKYO FMの建物を眺めたくなったので、また元の方向へ戻る。あんまり大きなビルじゃないね。あの中にまだねぇちゃんは入っているんですね。お疲れさんです。半蔵門の脇には交番があって、いや、これは皇居のどこの入り口の脇にもあるんだけれど、半蔵門の脇にもあって、警備車両が赤いランプを回転させていた。それがテロを思い出させた。そうか、今ぼくがあの建物に爆弾を仕掛けて爆破させれば君は死ぬのですね。そういうことですね。それは間違いないのですね。ああ、それは楽しい想像です。人に会うということは。そういうことは。
 半蔵門の向こうには、明かりが煌々と灯った背の高いお利巧そうな、ビルがいくつも立ち並んでいるのが見える。振り返ると背後にも同じようにビルの群れがある。皇居だけ平べったい。東京ね。東京。車が流れる音は、皇居の方へ拡散して、風の音みたいになってしまうので、そんな不快じゃない。煙をゆっくり吐いた。半蔵門の前をちょっと緊張して通り過ぎる。爆破、テロなんていうちょっと物騒な想像したばかりだったので。警備の警官はそんなぼくを不信がる様子もなく、なにやら雑談をしていた。こんな時間にひとりで散歩しているのはちょっと怪しいと思うんだけどな。
 警官がぼくを怪しまない理由はすぐにわかった。皇居の堀の外周は絶好の散歩コースだったのだ。ジョギングしている人と何人もすれ違う。それに夜中でも結構皇居の周りは工事もしている。結構人がいっぱいいる。でも、みんな、なんだかお互いを気にしていない。それぞれのことをそれぞれでやっている。だから、ぼくも気にしないことにした。
 角でしている工事の交通整理の人に促されて曲がる。静かな道だ。東京ね、その真中ね、これも。煙草を吸い終わったので、お堀の中へポイ。ポケットに手をつっこんで、散歩を思いたったのは正解だったなぁ、と思う。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-25
 堀の向こう、壁の向こうにはいつ頃植えられたんだろう、でかい木がにょきにょき、うっそうと生えている。暗くて、静かで、いい通りだ。ジョギングしている人とすれ違う。巡回中の警官が歩いてくる。少しだけやっぱり緊張してすれ違う。すれ違うとき、その警官の顔を観察した。若い人のよさそうな警官だ。なんだ、すごい顔してるな。全く隙だらけ。ほー、貴様も散歩中ですか。なんだ。くぅー、貴様の仕事は夜の散歩ですか。いいですなぁ。いいですなぁ。うん、この道いいもんね。今日、暖かいもんね。くぅ、宮内庁警察、いいですなぁ。  あー、なんか、すっきりしてんなぁ。煙草煙草。取り出してから、ちょっと考えて捨てることにした。今日はもう煙草、なしです。それで大丈夫。ぶらぶら皇居の塀を眺めながら歩いた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-26
この詞を載せちゃうと、あとあといろいろ楽になるので、ここらで載せときます。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-27
 うわさではこうありました。"グチひとつこぼさずもくもくと働く縁の下の力持ち。"やっと君に会えたとき君は私に愛想も無く黙々と働いた。君と友達になろうと白いハタを振ってはみるが、縁の下の力持ち君は縁の下から見守るだけでした。そんな君が怒りました、社会と名誉と利益に対して。君は会社を辞めました、絆と人間と己の為に。
 沢山の人が仕事を求め、青い顔して家の前でたたずむ、こんな時代の渦の中へ君は投げ掛けて行く。よくやったね、と私が君の心に放つ一番の褒め言葉のかわりに、私が君の悔し涙を朝まで流しましょう。君は会社を辞めました、仲間と真未来と己の為に。君は会社を辞めました、絆とやりがいと己の為に。
 あたりさわりの無い大人のずる賢いやり方が大きなお金を生みます。それも大事と染まった私は思うけど、それだけじゃ悲しいでしょ。心の端に止まったトンボが首を傾けながら容易く答えた。やがてお金にカビがはえ溶けて行くのです。君は会社を辞めました、仲間と真未来と己の為に。君はみんなに身をもって仕事が何かを示しました。
 君は会社を辞めました、仲間と真未来と己の為に。君は会社を辞めました、かわいい仕事をやり遂げる為に。
小谷美紗子「真」(改行排除、句読点追加。)

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-28
 その通りの途中、いつくか門がある。じろじろ眺めて通り過ぎる。引継ぎをやっていたりした。それから皇居の反対側に、上品な洋館がある。その隣には国立近代美術館があって、そこでは今、「未完の世紀」と題した展覧会が行われていると、正面に貼り出してあった。「未完の世紀」は20世紀のことらしい。20世紀の絵描きのことを指しているらしい。失礼なタイトルだと思った。終われてないのは世紀のほうじゃなくて、ぼくらのほうじゃないか。結局、満足な尻拭いもできてないじゃない。ああ、そのへんは展覧会とは関係のないことでした。ちょっと飛躍がありますね。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-29
 走っている車はこういうところだけあって、高級車が多い。プレジデントなんて久し振りに見たよ。ああ、毎日新聞。そうか、こういうのもここにあるんだ。みんな明かりがまだついてるなぁ。そうだよなぁ、まだ働いてる人もいるんだよなぁ。ぼくみたいにこうしてふらふら散歩をしているやつもいれば、今日も門を警備している人たちもいる。ジョギングしている人も、ベンチで寝てる人も、酔っ払いも。車を運転してる人も。みんないるんだよなぁ。みんなどっかでなんかしてるんだよなぁ。そういうのが集まって、東京になってんだよなぁ。それが、東京なんだよなぁ。
 そうだ、東京と言えば、空。星は見えるのかしら。この東京のど真ん中の夜空には星は在るのかしら。上を見上げてみる。ん、ある。あるよ。一個二個、ああ、結構ある。星はどこだって見える。見ようと思えば見える。見ようとしないのは、それは。あ、真上にでっかい星がある。すごい。ほんとに真上だ。なんて星だろう。星はよく知らないなぁ。勉強しないとなぁ。ちゃんと書けないよなぁ。
 ぼくの真上には今星があります。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-30
 角を曲がると、正面に東京タワーがすらっと建っているのが見える。こっち来て、もう一年近くになるけど、はじめて見た。赤とオレンジ色の照明が結構綺麗だ。さすが、ザトーキョー。やるではないか。しかし、ほんと、どこへも行ってないよな。やっぱりそんなもんだったな。
 ああ、なんかいろいろ抜けてったみたい。これは眠れそうだ。久し振りに休めそうだ。部屋に戻っても今日のことを書くのは止めよう。もう、適当でいいや。最近、見るもの、聞くもの、考えたこと、感じたこと、全部文にしようとしてる。困ったもんだ。けれど、もう、今日はいいや。
 「君は会社を辞めました、仲間と真未来と己の為に。」
なぜだか、これを口ずさんでいた。久しぶりにすっきりした顔をしていたと思う。ジョギングをしている人がまたこちらに向かって走ってくる。あ、この人、知ってる。ああ、そうか、一回りしてきたんですね。どうしましょう、挨拶でもしましょうか。そんなことを考えながら、ジーッと顔を見たら、相手もなんだかそういうような顔付きでこちらを見て、目が合ってしまった。挨拶、まぁ、いいですね。そんなの、いらないですね。今日、ここで2回すれ違った。それで十分ですね。
 ぼくらはそのまますれ違った。
 国会議事堂もある。でも、もうどうでもいいや。桜田門。ああ、これが。井伊直弼。どうでもいいや。警備の方々、ご苦労様なこってす。歩きましょう。帰りましょう。
 今日の交通事故、死者、0人。ああ、今日はいい日だ。ねぇ、君が歌ってくれた日は、誰も死にませんでしたよ。ねぇ、いい日ですね。ねぇ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-31
 一回りしているうちに、皇居がなんだか島のように思えてきた。火口の真中に浮かぶ大きな島。こちらと繋がっている場所にはどこでも、こうやって門番が立っていて、中には囚われの姫君がいらっしゃる。そうか、東京の、日本の真中には大きな穴が開いてるんだ。日本って国はそういう国なんだ。よくわからないけれど、日本は真中に穴の開いた国なんだ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-32
 一周してきて、はじめに渡った信号をまた渡って、駅へ向かう。またTOKYO FMの前に差し掛かったとき、中年の酔っ払いがひとり歩いてきた。すれ違いざま、「バカヤロウ。俺はどうなるってんだ。」と、ふらつく足取りで彼は吠えた。ぼくは立ち止まって振り返った。彼はビルの前に止めてあるワゴン車を蹴ろうとして、それを躊躇して、代わりに、鞄でワゴン車のバンパーを殴った。鞄は柔らかい素材、多分ナイロン製、のものだった。
 俺はどうなるってんだ。あなたはそれを自分で決めてこなかったのですね。苦しいですね。今まで耐えてきたのに。
 ぼくはまた歩き出した。ぼくは自分で決めるべきなのですか。そうしたら後悔しないのですか。それは嘘ではないですか。後悔は、失敗したときにするものです。逃げ出したときにするものです。ぼくは自分で決めれば失敗しないのですか。誰かに、何かに任せれば失敗しないのですか。ぼくは間違えませんか。そんなこと、言えないでしょう。
 俺はどうなるってんだ。

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-33
「君は会社を、、、
 会社を、か。
辞めました、仲間と真未来と己の為に。」
 そうね。それは、それ自体は。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-34
誇り高くて美しい。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-35
 ああ、でも、ぼくはそうしても、しなくても、今やっているものはきっと消えてしまうんだな。捨てられてしまうんだな。それで食いっぱぐれる人も出ちゃうんだろうな。N社みたいに。さっきのおやじみたいに。やっぱり、勿体無い。それは勿体無いよ。何とかならないの、ねぇ。ねぇ。ああ、いやだなぁ、多分、何とかなるんだよな。今ならまだ間に合うんだよな。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-35
 ぼくは今の仕事をずっとずっと本気でやることはできないよ。あのおやじみたいに誰かに任せて、耐えて、そうやって、その果ては。
 でも、本気でやると、うまく行くの。それは絶対イコールじゃない。Yさんは多分本気でやってきた、でも。
 ああ、そんなのわからないんだ。でも、どれかに、どれかに決めて。動くなら、動かないなら。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-36
 ぼくは動きたい。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-37
 半蔵門駅の地下への階段を下りる。狭い、長い、薄暗い階段は、ぼくの視野を絞った。
 動く、か。そう、もうここには居れないよ。でも、やることがひとつ残ってる。やろうよって、言うこと。3ヶ月で10倍にしましょう。それを作って売りましょう。Yさんをうならせましょう。他のお客もきっと褒めてくれる。お客なんて現金なものだから、きっと一度きりだけれど。それっきりだけれど。すぐに慣れて、また文句言うでしょうけれど。いいじゃないですか。やりましょうよ。それまでは付き合います。ぼくはここでは本気になれないから、どうしても出て行かなければなりませんけれど、それまでは付き合います。一年だけだけれど、ぼくを雇ってくれていたから、やっぱりいろいろ教わったから、少しは恩返し、できるみたいですし。したい。だから、やりましょうよ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-38
 階段を折り返す。
 なんだよ、それ。ちょっとカッコよすぎませんか。バカじゃないですか。ええカッコしいですね。すごく。

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-39
 パスネットで改札を抜ける。
 でも、そんなに間違っていないでしょう。少なくともぼくにはそう思えます。いいじゃない、たまには、恰好いいのも。ぼくが恰好よくっても。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-40
 電車を待っている間、電車に乗ってからも、ぼくは難しい顔をしてその段取りについてわかる範囲のことを考えていた。連休なんていらないと思っていた。明日からはじめてしまいたいと思っていた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-41
 渋谷でたくさん人が乗ってきて満員になった。発車するとゴトンと揺れて、前の女の人が入り口の角に背中をつけていたぼくにのしかかって来て、ぼくの股間が潰された。恥ずかしいので、ぐりぐりずらして、それでぼくはちょっと正気に返った。黒い毛のふさふさしたコートを着た、茶色いロングヘアーの女の人だった。顔は、背を向けて、俯いていたので見えなかった。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-42
 満員電車は気だるく重い身体を引きずって、のそのそ走っていた。池尻大橋を出たところで、その女の人が突然、ずるずると沈んで、その場にしゃがみ込んだ。やれやれ、これはこれは。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-43
 ご名答。これは試験です。簡単な試験です。動いてください。君は今何をすべきですか。知っているはずです。それをしてください。君は動くのでしょう。君は恩返しをするのでしょう。かっこいいのでしょう、君は。
 なら、できるでしょう。君がするのです。「君ができること」とやらをしてください。いつもそういう面倒なことから逃げ続ける君が本当に動くことができるのか。証明してみてください。実に簡単なことです。当り前のことです。
 ぼくは苦笑いをした。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-44
 とりあえず、隣に立っている人の顔を見た。三十代の髭を生やしたなかなかダンディーないい男だった。きっとよい家庭があるに違いない。試験開始。
「どうしましょう。」
「ねぇ。」
 ぼくはまたしゃがみ込んでいる女の人を見た。やれやれ。
 すると、その男の人が肩を叩いて、「大丈夫ですか。」とやった。ああ、そうか。そうするのね。早くも落第気味だった。
 女の人はか細い声を懸命に出して、「大丈夫です。」と言っているようだった。
「次で下りますか。」男が聞く。
 頷く。
 ぼくらは顔を見合わせて、まぁ大丈夫でしょう、というような顔をした。ぼくはさっきからただ苦笑いしているだけだ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-45
 電車は三軒茶屋について、目の前のドアが開いた。やはり、その男が女の人を抱え、立たせて、電車から下ろそうとした。女の人は一度、ふらと立って電車から下りはしたけれども、すぐにその場に倒れこんでしまった。
 こりゃあだめだ。女の人の周りにいた人たちは皆電車から下りた。ぼくも下りた。下りただけだ。
 男がしゃがんで、身体を揺すって、「大丈夫。」とやっている。ぼくは、ぼくは、ぼくは、何をしたらいい。ダメダメじゃないか。ああ、くそ。くそ。そうか、人を、駅員を呼んで来よう。ぼくはふらふらと歩き出した。ホームに駅員の姿は見当たらない。ホームのエスカレータの前には長い列ができていた。ああ、どうしようかな。押しのけてのぼるのかな。恥ずかしいな。恥ずかしい。確かにそう考えた。
 困ったぼくは反対側の階段から上がることにした。走ったもんかどうか、迷った。走ることにした。階段を駆け上って、改札前の駅員室の駅員に声をかけた。
「ああ、それなら今人を行かせるところです。」
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-46
落第。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-47
 「ああ、そうですか。」と、答えているとドアから駅員が走り出た。ぼくはまだ自分が失格したことを認めようとしていなかったので、それについて走った。階段を駆け下りて、女の人のところまで行くと、周りには4,5人の人たちが倒れている女の人を取り囲んでいたが、駅員が来ると皆任せて立ち去った。あの男ももうどこかへ行ってしまっていた。駅員は女の人の鞄から携帯を取り出してどこかかけることができそうな番号を探している。ぼくがそこに突っ立ってぐずぐずしているもんだから、知り合いなのか、と聞かれた。いや、隣に乗っていただけです。ああ、そうですか。駅員はまた番号を探す。
「何かできることはありますか。」
 ぼくはまだ自分が失格したことを認めていない。
「いや、もうあとはやりますから。」
 それでもぼくはまだ認めない。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-48
 そのうち、もうひとりの駅員が担架を持ってやってきた。もう、ぼくがすることは何もなかった。担架に乗せるのも駅員2人がやった。ぼくはそのときに申し訳程度に、女の人に鞄が絡んでいたので、それを外してあげて、その後はじめて「大丈夫ですか。」と女の人に、これまた申し訳程度に聞いた。女の人はやっぱり「大丈夫です。」と声にならない声で言った。黙っていたほうがまだましだった。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-49
 そして、そのときぼくの中には醜く下劣極まりない感情が湧いてきていた。下心。感謝されて、その後、どうのこうの。ハイエナ。亡者。餓鬼。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-50
 担架で駅員室へ運ぼうとするのにぼくはついて行こうとした。
「なんだか、あれなので、ついて行ってもいいですか。」
とか、そんなようなことを言った。付き添って歩きながら、ぼくはようやく自分の目的が変っていることに気がついた。どうしていいかわからなかった。次の電車を待っている人たちが、ぼくらをじろじろと見た。ぼくはよそを向いて苦笑いしながら歩いた。晒しものだった。どうすれば、この汚名を晴らすことができるのか。どこまでやればいいのか。どこまで行くと、それは善意に戻ることができるのか。馬鹿め。戻ることなんてあるもんか。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-51
 階段の前まで来て一度担架の持ち方を変えるためにぼくらは立ち止まった。ぼくはもうただ流されていた。下心。それを何とか晴らそうとする心。
 階段を登り始めると、若い方の駅員がそういうぼくを見透かしたような目をして、
「もう、結構ですよ。」
と言った。助かった。放棄できる。逃げ出せる。もういやだ。いやだ。
 それで、
「それじゃあ、よろしくお願いします。」
なんて言った。しまったと思った。最後まで、。

(馬鹿は死ななきゃ直らない)-52
 女の人の顔は最後まではっきりと見ることは無かった。倒れているときはその長い髪が顔を隠してしまっていた。どうやらぼくは何もかも全部見透かされていたようだ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-53
 ぼくはふらふらとホームに戻った。ひとりだけ戻ってきたので、周りの人たちがぼくのことを不思議そうに眺める。耐えられない。ポスターの貼ってある壁にぼくは背中をついた。全部シャットアウトした。心臓が槍で貫かれたように痛かった。寒かった。視界がふらついていた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-54
 次の電車は急行だったので乗ることができなかった。ぼくは痛いよぅ、痛いよぅ、痛いよぅ、とずっと思っていた。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-55
 ようやく来た次の電車に何とか乗り込んだ。痛いよぅ。
(馬鹿は死ななきゃ直らない)-56
ぼくは何も出来ない。してはならない。














kiyoto@gate01.com



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