歩きながらなにか思っている tell a graphic lie



(歩きながらなにか思っている)
 滅多なことでは笑わない。いくつか理由がいるのだ。機知に富んでいること、軽薄な心からでないと知れること、何より、新しいこと。
 この世のなかに二十何年も存していると大抵のものが新しくない。世界一も、世界一であることは新しくない。世界ではじめても、世界ではじめてであることは新しくない。五感、触覚視覚嗅覚聴覚味覚、もう既に感覚する器官としてはどれも使い古されてしまって、だいいち数が少なすぎる。まだ見ぬ感覚も、まずいくつかあるパターンの組み合わせに分解できてしまう。分解されたひとつひとつは、当然もう見たことがあるもので、だから、新しいはずのものも新しくない。
 物体は重力の中心へ向って落下する。アホらしいまでの当然の法則で、人間ひとりというのは、これの外には永遠に出れない。人間ひとりに必ずできないことは、人間ふたりにも必ずできないし、それは百人でも変わらない。千人でもいいし、六十億人でも構わない。やっぱりできない。みんな地球の中心へ向けて落下する。戦争が起きるのは結局そのためだし、お金というものがあるのもたぶんそのためだ。酔いつぶれたり、ギターを弾いたり、抱しめたり、セックスしたりするのもだいたいそのためだ。でも、ひとにやさしくするのは、そのためだからじゃない。やさしさがあらわれることはつねに新しい。やさしさを見るとぼくはたいてい笑う。
 やさしさは不思議なものだ。ぼくにはほとんど信じがたい事実、奇跡のようなものだ。でも世のひとたちはみな、なんだかそれを当然のことのように思っているように見える。このあいだも、ふと何か衝動のようなものに駈られ、地図も確認せずに都内の美術館へ出かけてしまって、案の定みちに迷って、暑い日で、右往左往したぼくは同じ角を何度も何度も通りかかって、そうしたら、その角にある花屋の女の店員さんが声をかけてくれた。「あの、道に迷ったんですか?」
「え、あ、そうです。すいません」
「どちらへ、行かれるんですか」
「あの、美術館へ行きたいのですけれど。わからなくて。すいません」
「ああ、美術館はもう過ぎていますよ。ここから二百メートルくらい、駅の方へ戻ったかど、ええと、確かガソリンスタンドが、エネオスのスタンドだったかな、があるかどをスタンドの反対側へ折れていくんですよ。ちょっと狭いから、迷うのも無理ないです」
 そしてぼくは笑ったわけだ。条件に合致している。機知に富んでいること。よし。軽薄な心からでないこと。よし。新しいこと。やさしさは、あたらしい。よし。笑おう。
「すいません。親切にしていただいて」
「困った顔をしていらしたから。このあたりはちょっと道が入り組んでいるので、みなさんよく迷われるみたいなんですよ」
「そうですか。あの、ほんとうにありがとうございました(ぼくは自分からひとにたずねることをしないから)」
「いえいえ、どういたしまして」
「それでは」
 エネオスのスタンドは見つかったし、その向かいから入ってゆく道の傍らには、美術館の小さな看板があって、それをきちんと目指して探しているのならば、すぐわかるものだった。
 ぼくに道を教えるその三十歳くらいの女の店員はぼくと話しているあいだ微笑んでいた。こだわりのない笑顔のように見えた。緑色に花柄かなにかが薄く入った、水に強い生地でできたエプロンをしていた。ずっとかがんで仕事をしていて、ふと気持ちのきれめに顔をあげてみたところに、すっかり困ってへんてこな顔したぼくの姿が、何度か目に入ったので声をかけたという感じの姿勢や物腰だった。肩に触れないほどの髪は少し脱色していて、肉体労働の人らしいほとんど意識されないほど薄い化粧や淡い口紅で、きっと子どもがいるのだろう、満ちたりた顔つきをしていた。
 女の人がよく見せる、やさしさの乱費ともいうべきものが、たまたまぼくに向けられただけなのだろう、当人にとってはごくあたり前のことをしただけなのだろう、とぼくは腕ぐみをして、ある日の夜道ひとり考える。彼女がぼくに話しかける理由や意味や価値は、ぼくには全くない何ものかで、だからぼくにはそれが見えないのだろう。彼女のような人が持っているものの見方というのは、ぼくのそれとは完全に相容れないものに違いない。まず、その職業からして、ぼくには全然わからない。美しい花は、その単体としての数えうる単位が持ちうるある完全さの度合いによって、ぼくに見られることがあるけれども、ぼくは花を一本売っても、全く喜びを感じない。
 よろこびをかんじない。そう、感じない。あるいはぼくは立ちどまっていたかも知れない。首を三度、水平より上向かせるとそこには色の薄い、距離感覚を喪失した空が目に入る。その空は、ぼくとは完全に関係の切れた、その意味で見るにあたいしない何ものでもない空隙とでも言うべきもので、それを自身の目に映りこませながら、よろこびをかんじない、ことを思う。ぼくは何に喜びを感じるのだろう。美しい花を人に売って暮すことに喜びを見出さないのであれば、一体何に喜びを見るのだろう。
 彼女が花を売って暮らすことと、彼女の店の前で道に迷っていたぼくに行き先をたずねるのとは、おんなじことだろうか。もうぼくは完全に立ちどまっている。あたりは寝静まってとてもしずかだ。二三の虫の声がある。舗装された地面と履いている靴と靴したとによって、ぼくはそれらから有機的な繋がりを絶っている。ぼくは地面にくっついているのに、地面と繋がってはいない。彼女の笑顔は、あのやさしさの乱費は、そのようにぼくには隔たったものとしてある。たとえば、動物園にぼくらが足を運ぶのは、檻の柵や厚いガラスで彼らとぼくらとは完全に隔てられていることが保証されているからだろうか。そうすることによって、彼らがぼくらと同じように一直線に続く時間の流れのなかの同じある長さを共有し、同じように心臓によって機関する生命の一単位であることを忘れ、彼らが飼われていること、彼らにも感情があること、彼らの生活の形態が限定的な領域に極めて明示的に押し込められていること、したがって彼らの生活の全部がそこにはあり、今まさにその全部を一目のもとに見やっていることなどに意識をやらずに、ただ彼らのあまり見ない姿かたちやらだけを見て、笑っていられる。
 隔たっているというのは、たぶんそういうようなことで、ぼくは地面から隔たっている。おんなじような仕組みで、たぶんぼくは彼女とも隔たっている。やさしさの乱費は、ガラスケース越しでも構わない。そして、隔てられていると感じているぼくがどちら側に属しているのか、その反対側の花売りの女性がどちら側なのかは自明のことであって、道に迷い困った顔をしてあたりをうろついている男というのは、多少の興味を引くものなのかもしれない。
 こういった見方をするぼくは確かに隔たってガラスの向こうにいる。そのぼくに与えられる喜びとはなんなのだろう。立ちどまっていることに気づいて、また片脚をゆっくりと前へ出す。アスファルトの舗装には、工事のための切れ目が入っており、そのまわりに白と黄色のチョークで線や印のようなものが描かれている。
 滅多に笑わないは、滅多に喜ばないとは、おそらくとても近いものだ。でも、ぼくはやさしさを見せられて笑うけれども、喜びはしない。感謝するけれども、喜んではいない。ぼくはなにで喜ぶのか自分でわからない。あるいは、喜んでいるというのを知らないのかもしれない。物理的利益、たとえば無事に美術館へ辿りつけるとかいうことは、おそらく喜ぶべきことなのだろう。そして、それよりももっと、親切な花屋さんに道を教えてもらったことはありがたいことなのだから、とにかくまずそれを喜ばなければならない。
 ぼくはこうして理屈を附けてまわる。遠近法に則った景色を描こうとするときのように。遠くのものは近くのものに遮られなければならない。また、小さく描かれなければならない。滅多に笑わない、笑うときにも審査を必要とするぼくは、自分がいま喜んでいるのか信じられない。彼女に正しい美術館への道を教えてもらい、もと来た道を引き返して、ガソリンスタンドの向かいに実際に美術館の道標を見つけたとき、ぼくはなにか思ったはずだと思い、そのときのことを思い出そうとしてみる。なにか感じたような気がする。同時になにか感じたような気がしたいと意図していると感じる。
 みちの途中には坂道もあったりする。顎を上げて坂の上を見るけれども、坂のてっぺんはここからではまだよく見えない。いつも通る、よく知った道なのだが、この坂のてっぺんをぼくはよく覚えていない。そのあたりに一件の凝った家があることを知っているだけだ。家のつくり自体も、北欧風の住宅というやつで、少しめずらしいものかもしれないが、それよりも、庭に植えられた様々な樹木や、ガーデニングというのだろうか、たくさんの花の鉢、家を覆うようにしてはう蔓草など家主の家にかける手間の方がよりぼくの目をひく家だ。この坂のてっぺんを覚えていないのは、あるいはそのためなのかもしれない。
 坂の脇の歩道を歩く。多少うつむき加減になっている。地面と隔たっているぼくもやはり坂をのぼっていることはわからなければならない。坂を歩けばみな、その傾斜を感じるものだ。しかし、そこに坂があって、いま自分がその坂をのぼっていると、みな知るには違いないが、その傾斜をどのように感覚するかは、おそらくみな異なっている。ぼく自身はこの坂をほとんど問題にしていなくて、今日のようにごくまれにこの坂をのぼっていることをきちんとたしかめ、腰をかがめ膝に手を乗せながら、一歩いっぽの足どりを見つめて歩くようなこともあるけれども、普段は問題にしないうちにのぼり終え、下りはじめている。その途中に手のこんだ北欧住宅が一件あることに関連して思い出されるくらいで、あした夜が空けるとともにこの坂が縮んで平坦な道になってしまっても、気づかずに通り過ぎるかもしれない。また、それから大分日が過ぎて、あるときふと北欧住宅の表の塀に這った蔓草の下のブロックの色に気づいたときにようやく一緒にかつてこの家の前は坂道であったことに思いあたって、ああ、そうだったかもしれない。そうして、たぶんそれっきりだろう。それをとても不思議なことなのだと気づいても、問題にしないような気がする。よかったとも、ざんねんだとも思わないのではないかしらと思う。
 ぼくの身のまわりには、ぼくにはほとんど奇跡としか思えないようなことが、ごく普通に無料(ただ)で取り交わされて、誰も驚かないでいる。そして、ぼくも驚かない。こわがることはいくらでもあるが、驚くことはぼくにはあんまりない。あったはずの坂道が消えてなくなることは、別にこわくない。坂道は、あればのぼるし、なければ何も思わないだけのものだ。
 坂道をのぼりきるとそのことを忘れる。零れることと似ている。似ていることばかりだ。みな分解され、関連づけられる。また、もう見たことがある、もう知っている、もう飽きた等々、思っている。そして、それにも飽きているので、いつかやさしい声で言われたことば、「自分でやってみれば。きっと楽しいわよ」というのを思いだしてみる。
 そのとき、ぼくもできるだけやさしい声でこう答えたような気がする。「いや、きっと、別に楽しくないと思います」これがぼくのやさしさらしい。たしか笑っていたと思う。














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