tell a graphic lie
I remember h2o.



(歩きながらなにか思っている)-2
 ぼくは思う。ぼくが思っているときにだけ、ぼくはいる。他のときはいない。それらの記憶は、録画したテレビ番組に似ている。そのうちの五パーセントくらいを流し見して、のこりは重ね書きする。そうすると、その部分は消えて無くなってしまう。もう、そのときのぼくはいない。ぼくが持っていないのだから、たぶん、だれも持っていないだろう。どんどん、どんどん重ね書きされて、無くなってゆく。ぼくが思っているときは、たぶん、何かがこうして書きつけられている。それは重ね書きされずに、直列に連なってゆくから、無くならない。ぼくは無くならない。無くならない。
 きれっぱしが言う。「おまえはおれににている」一音いちおん、丁寧に、きれいなきれいな日本語で言う。「おまえはおれににている」よく聴こえる。よくわかる。ぼくはうなずく必要もないと思ったので、うなずかず、そして、それを言うのはきれっぱしだということも知っているので、そちらを見さえもせず、ぼくの両足のつま先とそのまわりの床を見ている。きれっぱしが言っている。「おまえはおれににている」きれいな言葉だと思っている。でも、それは表情にはなっていなかっただろう。
 ぼくはきれっぱしと話したりする時間を自分の生活のなかに持っている。きれっぱしはぼくと話をしたがるし、そんなに長い時間ではなければ、ほんの二三こと、長くとも数分くらいなら、ぼくもいやな気分にならない。きれっぱしの言うことを聴いているとき、それにいくつかの言葉を返すとき、どちらのときも、何も思っていない。ぼくは、ポケットに、まるでそれが自身のためにあつらえられているものであるかのようにして収まりこんでいたり、ときどきはぼくのすぐ傍らにある、鞄の底に、このあいだ見た、津波のあと、自身の体重以外の尺度では決して振り分けられることがなく、すべてが一緒くたになって、もとの海岸や数十分だけ生まれた怒涛の端に打ち揚げられた、板切れや衣服や多くの雑貨類や自動車や人体たちの、ずぶ濡れの混沌のような、ぼくの鞄の底に漂っていたりする、いつも吸っている青いラベルのタバコの、憐れな紙のケースを、手探りでさがそうとしていたりする。飲食店が建ちならんでいる、人びとが、数え切れないほどの人が住んでいて、ぼくはまだその中の、だれ一人として顔を覚えることができずにおり、当然ながら、だれ一人の名前も知らず、ただ、十メートルごとくらいで、ほとんど隙間をあけずに建ちならぶ店の店先に掲げられている看板の、そのいくつかの中に、自身の姓を組み込んでいるものがあったりするから、そういったものたちは誰かの持ちもので、だから、たぶんそこには人が居るはずで、なんなのかは知らないけれども、それらは湯を沸かす湿っぽさや温かさのようなものを帯びており、その姓の部分だけが、自働でまったく機械的に抜き出されてくるので、もちろん、いや、おそらく、声には出さずに、それを読み上げていたりする。そのあいだ、きれっぱしが喋る。
 きれっぱしが喋ると、ぼくはそれで、ぼくの記憶を上書きする。きれっぱしの言ったことは、そのうえから、またきれっぱしの言ったことや、きれっぱしとは全然関係のない、たいてい一分くらいのあいだは、もっと重大であるように見える事柄が重ねられたりするまでは、記憶として留まっている。だから、ぼくはきれっぱしが何か喋っているということや、きれっぱしがいるのだということを知っている。まったく、記憶とはすばらしいものだ。ぼくはそのときどこにもいないのに。
 ぼくはあとからきれっぱしの言ったことを、その記憶の表面から取り出してなぞる。すると「おまえはおれににている」ときれっぱしが言い出しているのがわかる。きれいな日本語だ。ぼくはそう思う。ぼくはたぶんそのときそこにいる。それからまたいなくなり、タバコの紙のケースを右手で探す。左手はぶらんとしている。カレーライスのにおいが、温かく湿っぽい空気に混ざり、ただよってきている。ぼくはタバコを見つけ、一本取り出して口にくわえ、それは残り三本のうちの一本であり、しかも、残った二本のうちの一本は、まんなかで折れてしまっているのだが、ライターで火をつける。ぼくはまたいるようになる。きれっぱしが言っている。「おまえはおれににている」いや、その記憶をなぞっている。
 それから、ぼくは津波で、膨大な数の人間が死んだことを思う。だから、ぼくはいる。まず、津波で人が死ぬんだ、と思う。津波は人を殺すんだ、とも思う。人びとが、少なくとも、自分たちの記憶や、それまでの様々な過程で学びとってきた知恵から取り出せるもののうちに、そんなことは今まで一度もあらわれてきたことがない人びとだけが住みついていた土地に、とつぜん、彼らの身長の数倍もある、パンパンに膨れ上がって、まるでどこかのSFファンタジーが見せてくれた、それまでの生物界のあらゆる構成員たちを圧倒するために大量生産された、巨人の兵隊たちの群が細長く展開して行進し、迫り来るかのような、ほとんど垂直に立ち上がった海水面があらわれ、人びとがまだ自身たちの過去の記憶のうちから、いま目にしている現象と同じではなくとも、せめて多少なりとも類似を認められるような経験を、それが何なのかさっぱりわからないために、事態が極めて切迫したものであることにすら曖昧なままで、それでも、なんとか探しだそうとしているうちに、水が、水のあるところに接したそうでないあらゆるところに対していつも試みる、あの無機質な疲れを知らない無慈悲で画一的な侵犯を、そのときもいつもどおりに行いだし、そのいつもやるようにして、水は水でないものたちを自身の拡大の裡に巻き込みながら、猛り狂う渦とうねりとを生みだし、それによって更にまた自己の威力を増大させながら、もともとそんなことは一度も考えたことがなかったので、結局それが何なのか、そのときはじめて知ることになったものたち全部を呑みこんで、そこを通りすぎてゆき、またやって来たときと同じ勢力をもって引き返していった。それが、その直前までは決して海ではなかった陸地たちをめちゃめちゃにして、そこに暮らしていた人間たちをやはりむちゃくちゃに巻き込んで、圧殺し溺れ死にさせる、大津波というものであり、ほんとうにそれは、ただそのまま、そのとおりにやって来、そのとおりにふるまい、何もかも流し去ってしまい、そのあとで、また、ただのやたらに透きとおった青い海に戻ったのだ、と思う。ぼくは歩いて、タバコを吸い、それを思っている。ぼくはおそらくここにおり、そのようにして破壊された地面と、それまでその上で生活していた人びとのことを見ることはない。しかし、それを思う。ぼくはおり、それはおそらくここだ。タバコをくわえて、歩いている。でも、眼のまえにある、いま歩いている道のことも、すれ違う数人ではなく、数十人の人たちのことも、また、きれっぱしのことも、それから、ぼく自身のことも思ってはおらず、ぼくは津波のことを思っている。津波のことと、津波がやって来、去って行った土地と、そこにいる、または、そこにいた、人びとのことを思っている。ぼくは思う。ぼくがおもっているときにだけぼくはいる。ぼくはいるが、それはここなのだろうか。津波の襲ったインド洋沿岸の様々な国の端に位置する土地たちなのだろうか。それとも、そうした地面の、それがどんなに破壊されていようが、またいなかろうが、この今にあっては間違いなく地面であるそれらの場所にいるのではなく、まったく別の、なんでもない、少なくとも地面ではない、あるところにぼくはいるのではないか。ぼくは自分でそれを問いかける。だから、ぼくはいる。けれども、それに答えることはできない。
 ぼくは歩いており、たいていいつも歩いている。ぼくはここにはいないけれども、ぼくは今ここを歩いている。津波は見えない。津波の記憶も見当たらない。きれっぱしの言葉だけが見つかる。「おまえはおれににている」ぼくは下水道のマンホールの上にさしかかるが、その下から、海水が猛烈な勢いで盛り上がって、噴き出してくることは考えない。ぼくはいない。ぼくは通りすぎる。記憶にも、それは残らない。タバコの煙の一塊がそこにコンマ五秒ほど溜まったあとで散ってゆく。タバコの煙は津波には呑まれないから、すばらしい。ぼくはきっと津波に呑まれる。ぼくはすれ違う人たちの顔を覚えることができない。誰も知らず、だから、誰にも知られていない。ぼくは思っていないので、ここにはいない。ぼくはどこにいるのだろう。問いには答えがない。ぼくはいないのだから、そもそもそれは問いだということもできない。
 地下駅から、誰ひとりとして知る人のいない電車に乗り込み、数時間後にはまた戻ってくる。また、きれっぱしが言う。「おまえはおれににている」いや、それは記憶だったかもしれない。その記憶は、まだ、重ね書きされてしまってはおらず、同じように、いや、先ほどと完全に同じ、きれいな日本語で言い出されているのだが、それを先ほど記憶から取り出したこと自体は記憶されておらず、たしかめることはできない。けれども、ぼくは今それを思っているので、ぼくはいる。先ほどとは、真逆のほうを向いて歩いている。歩いていて、思っている。津波のことは思っていない。ただ、ぼくは津波に少しだけ似ているようだ。ぼくは何も覚えずに通りすぎる。ぼくはいる。














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