自己アイデンティティーについて
"私"と私 |
「お母さん 私が死んだら悲しい?」 自らの価値、自己同一性とは結局のところは自ら見出す他ない。しかし、その「価値」を決定するのはあくまでも「他者」であり、それは人間が他者との共存関係に於いてのみ「自己」を認識するからだ。即ち、そこに「他者」が存在しなければその表裏的存在である「自己」の認識に考えが及ばないとも言える。 ここでひとつ重要なのが、「私」も他者にとっては「他者」となることである。つまり、「私」と「他者」は相反する存在であると考えられがちであり、無論それは正しいが「私」と「他者」が同一性を持つことも可能であるということだ。それはまた同時に、自らの中に「他者(複数の問う私・問われる私)」を見出した瞬間でもある。 冒頭に述べた母娘の対話を今一度読み直して欲しい。ここで「私(漫画の主人公・千寿)」が認識しているのは「お母さんの娘」という自身に内在する「他者」である。その自らの社会的身分を規定する「他者」が、「お母さんに愛される」という今ある価値関係を作り出している。母が娘を愛するのは当然といえるが、ではもしも「私(千寿)」が「お母さんの娘」でなくなることがあったらどうなるのだろうか。 対話の最後に、母は「同じことよ」といって千寿の意見の一蹴に伏す。これは限りなく近代社会的な発想である。例えば、中世時代の王制の中で重要なのは王位につく者が「王の血を継ぐもの」であり、王の「私」という自己にはなんら価値も見出さない。近代になって、ようやく「統べるもの」の「私」を重視するようになり、「私」とそのうちに存在する「社会的身分」が「同じもの」と考えられるようになった。しかし、これは「私」の存在が認知されたとは言い難い。過去に於いて「身分」は「私」に対して圧倒的価値を有しており、故に「私」が蔑了にされてきた。しかし、近代の民主主義的価値観が「身分」の価値を落とし、「私」に目をやるようになってからは両者を逆に混同視するようになり、そこで「私」は「私」としてのみでその価値を受け入れられなくなった。「もっと"私"を見てほしい」、「"私"らしく在りたい」などのように、人々の中の「私」が悲痛に主張を始めたのもそんな近代になってからだ。 前述したように、過去に於いて「身分」は「私」に対して圧倒的価値を有していた。つまり、過去に於ける自己同一性の確立とはその「社会的身分」という自身内の「他者」を受け入れることに他ならなかった。それは出口の見えたレールの上を進むような人生であり、単純で、平易な気安い人生とも言える。しかし、「私」と「自身内の他者」を混同視されることは、前者と後者の線引きが曖昧であり、前者が後者に気づきにくい構図になる。そして冒頭の対話のように、ふとした瞬間に「私」が「自身内の他者」に気づいた時、「じゃあ、ここに居る<私>って誰なんだろう。もしも誰も<私>を愛していないなら、<私>はなんの為に生きているのだろう…」といった疑問にぶつかる。これは「私」の存在を不安定な危ういものにし、鬱病という病が現代生まれるその大きな要因ではないだろうか。 対話の中で、「千寿」は「千寿がお母さんの娘だから」愛されたいのではなく、「お母さんの娘が千寿だから」愛されたかったのではないだろうか。自分が自分であるという理由で愛されることについて、この「自分が自分である」というものが名前も身分も捨てた「私」ではないかと考えられる。全てを捨てた裸の「私」を見てほしいという願望がそこにはある。
人は「私」と言う物語なくしては生きてられない 記憶喪失という障がいがある。それは、皮肉にも「私」を自己認識するには最も優れた術であろう。「記憶」という自身が過去から背負ってきた連綿とした時の流れを断ち切りながらも、しかし「私」は「私」であり続ける。自分は数十億人いる人間のうちの「特定の誰か」であり、それはたとえ自身の顔や名前、親や恋人を忘れてしまってもの相違ない。記憶を失うことにより真に自身が自身の内に存在する、名前も身分も脱ぎ捨てた「私」となる。そして、今まで「私」と思い込んでいたあらゆる社会的恣意的束縛を受けた「私」と初めて真に対立できるのではないか。 記憶や統一した自意識に貫かれた「私」の忘却あるいは放棄といったことは、まさにこのようにして私たちのささやかな安らぎとなる。しかし、現代社会に於いてのアイデンティテティーの喪失問題の規模に比べ、実際に記憶喪失になれる幸運な人物は極々わずかであろう。それでも我々は別のやり口で記憶や統一した自意識に貫かれた「私」と、それを確立するアイデンティティーゲームから逃れようとしている。その誰にでもできる解決策の一つとして、インターネットや携帯電話の活用があるのではないだろうか。それらのサイバースペースを介した「他者」との関わりの中で、我々は交換不可能な「この私」ではなく、交換可能な多様な「私」を生き始める。ある「私」の確立に失敗しても瞬時に他の「私」を得る、いわば「私の保険」だ。そして、それによって世の中を横行しているアイデンティーティーゲームを終わらせようとしている。 もはや「恋愛」という自己主張の最たる関係を持つという大博打を打とうとはしない、そんな臆病な我々がそこには居る…。
引用文献 |