アーネスト・タブが、初めてジミー・ロジャースの"T For Texas"を聴いたのは、彼が13才の頃であった。ジミー・ロジャースがスター歌手への切符をようやく手にした1930年頃は、米国の至る場所で、歌好きの少年達が彼のうたう歌に強い印象を受けて、職業歌手を志ざそうと考えたというのだから、ジミー・ロジャースの影響力というのは、はかり知れないものがあったに違いない。彼らロジャースの崇拝者たちは、ロジャースのようにギターを弾きながらヨーデルをうたい、レコードを吹込むことを心に描いていた。その現象は、さらに後世代の歌手達にも波及していった。
 1933年は、ロジャースの崇拝者達にとっては、悲しい出来事に遭遇した年であった。タブはその時のことを、次のように語っている。
 「私が19才の時、テキサスのベンジャミン付近の農場で働いていました。ジミー・ロジャースが亡くなったのはちょうどその時でした。もう私の世界が終りになってしまったように思えてなりませんでした。」
 同年、タブはサン・アントニオの町へ出てきて小さな酒場で歌ったり、ラジオ局のオーディションを受けるために何度となく足を運んだりしていた。食べていくための、苦しい歌の修業の始まりであった。タブに何度か歌う機会を与えた放送局は、無料ながら彼に週2回の早朝番組でスポッ、トを持たせてくれた。翌1934年は、タブに生涯忘れられない思い出となった、ジミー・ロジャース失人との出会いがあった年であった。
 当時タブは、ロジャースの写真が欲しかったことと、ラジオに出ている自分の存在を知らせたいという一心で、彼はサン・アントニオ市内にあるロジャース夫人の家へ電話をした。電話をかける時、タブは夫人のことを、ロジャースの"T for Texas"に歌われている"セルマ"のような女性であろうか、あるいは"HomeCall"におけるギターに合わせて歌ってくれる妻なのだろうか、と心配した。カントリーの失恋をテーマにした曲では、身近に起きたことをテーマにしていることが多いからである。しかし、それが間違いであったことはすぐにわかった。やさしさと温かい夫人の思いやりは、タブを勇気づけた。また、謙虚で誠実そうなタブの態度に夫人は好意を持った。こうしてその後の長い交流が始まったのである。
 夫人が若いタブを彼女の自宅に初めて招いてくれた時のことを、タブは次のように語っている。「夫人はとても親切でした。ジミーのギターやブーツとか、彼の記念品の数々を見せてくれました。2人でジミーの事を語り合いながら時間を過しました。私は、ジミーが歌った曲はみんな知っていました。その事に夫人は感じ入ったようでした」。そして彼はこう続けている。「夫人の家から帰る時、私は群衆に囲まれながら歩いているような気がしました。それは私の人生における最高に素晴しい日でした」。そして、ロジャースの歌をロジャース風に歌おうと決心した。
 ロジャース夫人は、タブの歌に心があることを感じ、彼の誠実さを買っていた。そして、彼女はタブを一人前の歌手にするため、舞台やラジオ局の斡旋やスケジュールの面倒をみるようになった。1935年の終りころ、夫人は放送局に出演するタブに、生前ロジャースが使用したギターを貸してた。マーチン社特製のギターは、ネックに真珠貝の飾りでジミーの名前が刻まれている。
 タブはそれ以後、しばしばそのギターを借りてはラジオや舞台で使用していた。翌36年、彼が夫人の世話でサン・アンジェロの放送局に移った時にタブはそのギターを返そうとしたが、夫人は受けとらずタブに預けておくことになった。結局タブは、ジミーのギターを譲り受けることになる(45-46年頃)。
 タブが初めてレコード録音をしたのは、1936年彼が22才の時であった。RCAビクターが秋にテキサスのサン・アントニオで野外録音を行なった時に、彼に吹込みの機会が与えられた。まず10月26日に、テキサス・ホテルの一室に急造された仮スタジオで、ロジャース夫人の"We Miss Him When The Evening Shadows Fall"の吹込みが行なわれ、タブはジミーのギターを使って伴奏をつけた。そして翌日、今度はタブひとりでそのギターを伴奏に、ブルー・ヨーデルを入れて録音した。それらは、タブの最初のレコードとなった"The Passing of Jimmie Rodgers"と"The Last Thoughts of Jimmie Rodgers"(36年12月9日発売)ほか4曲であった。出されたレコードはほとんど売れず、会社側は再びタブを録音に呼ぶ気はなかった。しかしロジャース夫人の強力な働きかけで、タブは翌年の初めに再度録音の機会を得て4曲吹込みをした。今度も失敗に終り、再びビクターと一は録音の機会を持たなかった。なお、後者は1953年に"Jimmie Rodgers' Last Thoughts"として採録される。
 苦い思い出を残してサン・アンジェロへ帰ったタブは、 地元の放送局で歌い、また安酒場(ホンキイ・トンクやターバン)の舞台へ立って、修業を重ねなければならなかった。彼がロジャース一遍倒から脱却しようとし、自分の歌の感覚を生み出そうとしていたのは、ちょうどこの頃からであった。ヨーデルを入れて上手に歌えたのはこの頃から39年頃までで、ヨーデルを止めた原因は、扇桃腺を取り去ってしまったためだという。
 以前から一緒に仕事をしていたギター奏者のリード・ギターとタブのリズム・ギターの2本のギター・スタイルは、後に電気ギターのリードを特長とするタブ・サウンドの先駆け的なものであった。
 ビクターでの失敗を忘れきれなかったタブは、汚名挽回のためにも何とかどこかのレコード会社と契約を結びたいと思って、ロジャース夫人に電話で再度相談し、交渉を頼んでもらった。そして、夫人の推薦とタブ自身のねばり強い申し入れで、 1940年の4月に比較的新しいデッカ・レコードとの録音の話がほぼまとまったのであった。
 タブは、ロジャース夫人から何曲か録音する前に、契約の話を先に完了させるようにと忠告されていた。そこで彼はスタジオに着くと、まず契約の交渉を持ちかけ、専属歌手としてのサインを取付けるのに成功した。彼が単刀直入にそんな事が出来たのも、夫人の口ぞえと彼女の努力に報いるためであった、と後に述べている。
 4月4日にタブは、デッカ・レコードで最初のセッションを持ち、4曲の自作曲を録音した。ロジャース・スタイルの"Blue Eyed Elaine"と"I'll Get Along Somehow'の2こ曲が最初のレコードとして発売された。狭い地域的ではあったがそのレコードは売れた。こうして彼の職業歌手としての第一歩が始まったのである。なお、Elaineというのは、タブが20歳の時に結婚した女性の名前である。
 またこの時期に、ロジャース夫人のペンになる曲を2曲録音している。
 発足(1934年)以来、ヒルビリーとウェスタン音楽の市場開拓と拡大に努力を払ってきたデッカ・レコードで、翌年初めに素朴な電気ギターを伴奏に使って録音した"Walking The Floor Over You"大ヒット曲になった(同じデッカの人気歌手ビング・クロスピーもこの曲を録音したほどであった)。
 「私がアーネスト・タブの歌を聞き、最初に彼と言葉を交したのは夫が亡くなった翌年の1934年の事だと記憶しています。深いバリトンと彼の人柄を表わすような暖いパーソナリティの持主でした。そんな彼のどこかに私は亡くなったジミーの常日頃持ち続けていた気持ちと相通じるものを感じていたのです。そしてその時の私の目に間違いがなかったことを今でもとても誇りとしています」。故ジミー・ロジャース夫人は、タブとの出会いをこのように語っている。
 以来ロジャースを敬愛し、同じように彼を尊敬し続けるハンク・スノーとともに、"Jimmie Rodgers Memorial Day"を5月に開催するようになる。
 生前のロジャースに対面することは出来なかったが、ロジャース夫人から最愛の夫ジミー・ロジャースの形見ともいえるマーチンのギターをプレゼントされ、多くの歌でこのギターは使用されている。写真ではロジャースのサイン入りのギターが何種類かあるようだ。≪ジミー・ ロジャースの残した数々の曲は、私たちカントリ-・シンガーはもとより広くカントリー音楽を愛する人々にとって、それは懐しい母親の子守唄なのだ≫アーネスト・タブ。
 アーネスト・タブがジミー・ロジャースの歌を集中的に録音したのは、1950年10月の6曲であり、それ以外は単発的である。したがって、日本ビクターが、タブ全集に"Last 〜"と"〜 Said Goodbye"などを含めて16曲も収録していることは特筆できる。
『オリジナル文章:アーネスト・タブ全集(MCA Record:MCA-9250〜53)』