活動その18--- 2003.3.9 笠のぎ稲荷神社(神奈川県横浜市神奈川区亀住町)

京急本線の子安-神奈川新町の間に、この笠のぎ稲荷神社は、あります。
なんかやたらとメディアに取り上げられたとか、注意とか、貼り紙とかが多いです。なんかなんとなく、イヤな感じがしました。

ここの縁起は、鶴見図書館で借りた本、「横浜の道を歩く-旧東海道に沿って-」という本から引用します。

「この神社は、平安時代の天慶(てんぎょう)年間(938-947)稲荷山の中腹に草創したと伝えられ、元寇にあたって北条時宗より神宝が奉納されたという。 元禄二年(1689)、稲荷山山麓に遷座すると、ますます霊験あらたかになり社前を通 る者の笠が自然に脱げ落ちたといい、当時は"笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神"と称したが、のちに笠のぎ(下に示す文字。パソコンに無し)稲荷神社と改称され、明治二年現在地に遷座したといわれる。この神社に、土団子を供えると病が治ると伝えられ、治ったときはお礼に粢(しとぎ)団子を供えるという。」

ということです。

また、「横浜の伝説と口碑 -昭和五年・横濱郷土史研究會発行-」には「笠のぎ稲荷の土團子」という項にて取り上げられています。以下引用です

「新町の笠のぎ稲荷は、昔から霊験あらたかといわれ、笠を冠ってこの神前を通ると、ひとりでに笠が脱げて参詣が出来たといわれ、そんな事から笠脱稲荷と呼んだが、後になって笠のぎ稲荷と改められた。
かように凄まじい霊験も、笠の音がかさと同じところから、何時の間にか瘡(かさ)の祈りをするところとせられ、今では女中衆の祈念の対象となって居る。まず祈りをする時には、自分の年だけの数の土團子を作ってこれを供え、もし平癒の時には土をほんものの米の團子ととりかえて献じますというのが常であった。こんな事から土と米との團子の群がいつもこの前に供えられ、脂粉の香の高い女たちの来往絶えず、なかなかに繁盛を極めているのである。 」

と。これは実際に昭和始めにも行われていたようですね。いまは全くその陰もありません。


「笠のぎ」の「のぎ」の漢字は、上の漢字です。

入口の階段を登って右手にある社ふたつと、真ん中にはさまれているのは、石碑のようなものです。社は取り立てて面 白くもないものでした。眷属さまの姿はここにはありません。


これは、「板碑」といって、有形文化財に指定されているそうです。
となりにあった説明板によると、
「板碑(いたび)--通称「稲荷山」と称した、山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の形態は頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、身部(みぶ)は枠線によって長方形に区画されています。 身部上位には阿弥陀如来をあらわす種子(しゅじ)「キリーク」を、中位にはには天蓋を配し、その下位 中央には六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研(やげん)彫りで力強く刻まれています。 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を配した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて特異な少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です」

これは墓碑なのですね。。梵字って宗教文字なのでしょうね。

 

ほんと、真ん前には京急が走っているのです。

 

なかなかに肉感溢れて表情も恐い。本殿の前の眷属さまです。

 

さらにその脇には、「神の水」と称した蛇口が。もう少し雰囲気を出して欲しいところ。

 

本殿左にある木は、ご神木だそうです。本殿はコンクリ製。中には日本国旗が。この境内には日露戦争戦没者慰霊塔がありました。そして境内の掲示板には「祝日には国旗を掲げましょう」というポスターも。

「なあーんだか、気分が乗らない稲荷だなあ」と思いつつ裏門の方へ何気なく歩いてみると、なんか変な後ろ姿の石像が。。。

 


うっ!!これはっ!
なんかすごーい。かなり古そうな眷属さまじゃないですか。なで肩、耳がウサギみたいだなあ。と思っていたら!
なぜかその脇を本物のウサギが!!「えっ!?なになに!?なんでウサギがいんのー?」

とビックリしましたが、ウサギはすばしっこく境内の中へ跳ねていってしまいました。

それはそうとしてこの眷属さま。のーっぺりとしているなあ。

 


右側です。やっぱり、のっぺり。
威厳は、ありませんねえ。しかし。

 


顔拡大。目がうっすらと見えるでしょうか。

 


巻物は途中で折れています。耳が特徴的ですね。こんな作風は滅多にいません。随分古くて、個性的な感じです。僕は嫌いじゃないです。こういうの。

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