芽ばえ






 貴鬼が色気づいてきた。
 休日、川へ釣りに誘えば喜んでついて来る子だったのに、このところ気が進まない素振りを見せることが多くなっていて、では1人で行くからよい、とムウが支度を整えて出掛けようとすると、途端にいそいそと着替えを始める。
「お前も外出するのか?」
鏡に映った貴鬼の顔を一瞥してそう問えば、妙にしどろもどろで説明する様が目も当てられぬほど気の毒で、さすがに深く追及することが出来ないのであるが、もう17になろうとしているのだから、明かしたくない秘密を持ったとしても仕方がないと、理解に努めようとするムウなのだった。




 毎年誕生日には貴鬼の望むものを与えることにしているので、ムウはまた新しいカタログを取り寄せた。一緒に眺めながら希望を聞いてやり、4月1日に間に合うよう3月半ばには発注を済ませるのが例年の習いである。小さな頃は組み立て式の玩具や菓子の詰め合わせを無邪気にねだり、少し大きくなると自分専用の天体望遠鏡や顕微鏡が欲しいと申し出て師の心を満足させた貴鬼も、去年はバイクが掲載されたページをめくってムウを仰天させた。
「今年は何が欲しい。言ってみなさい…。」
貴鬼は緊張した面持ちでムウを見上げた。
「あの、品物ではなく…来週3日ほど休暇を…連休をもらってもいいですか。」
「連休?来週?そんなもので良いのか?」
「はい。それで、実は…外泊したいんですけど…」




 外泊。




 いつ頃来るのかもうそろそろか、予測していた言葉ではある。
「構わないが、くれぐれも軽率な行動は慎むように。」
 何でもないことのように許しはしたものの、内心穏やかとは言い難い。その一方で、本当は誕生日当日に共に過ごしたい者があるのだろうに、そう言い出せない貴鬼の心中を推し量り、いささか不憫にも思うムウなのだった。




 恋人がいるという確たる証拠をつかんだ訳ではない。
 貴鬼の留守中に片付けをしていたとき、見慣れた筆跡の便箋が出てきた。思い人に宛てた手紙の下書きらしかった。慌てて裏返したが、裏面にもそれらしい語句がずらりと並んでいた。
 本の間に、手作りと思われる押し花の栞が挟まれていたこともある。春先に村で群生する青い花だった。
 それだけと言えばそれだけなのだが。
 ムウは考える。あの子が1人で村へ遊びに行くようになって、もうどれくらいたつのか。自分の衣服は自分で選びたいと言い出した日はいつだったか。洗面台の前に整髪料が登場した日は…。
 初めから、聖闘士にするつもりで預かった子ではなかった。いつの日か俗世に帰す前提で、なるべく外の世界に触れさせながら育ててきた。聖衣の修復はどこで暮らしていても出来るし、家庭を持つことも、他の仕事を兼業することも無理な話ではない。要は技術を途絶えさせないこと。それが我々一族に課せられた宿命。
 貴鬼は己の身の振り方を自由に選択出来る立場にある。自分にはそれが許されなかったけれど。
 あり合わせの食材を炒めながら、ひとり暮らしも気楽で良いと思うムウだった。あの子が来る前は長いことそうだったのだし、また元の生活に戻るだけだ。
「…塩は、どこだろう。」
調理台の上はすっかり貴鬼の使い勝手が良いように並べ替えられている。もう何年も台所仕事から遠ざかっているムウには、塩の在処がわからない。
 手放す日が近いのかとも思う。




 「ただ今帰りました。」
帰宅を報告する顔は晴れ晴れとしていて、どのように切り出そうかと考え込んでいたムウは若干肩透かしを食った気分で、しかし師匠らしい威厳を崩さぬよう、重々しい口調でこう告げた。
「貴鬼。今後は門限を定めないこととする。外泊も自由だ。私はお前の自主性を…」
言い終わらぬうちに小さな箱が差し出される。
「お誕生日おめでとうございます。」
ムウが愛用している刃物メーカーの箱である。
「私の誕生日など…お前、いつの間に?」
「それくらい知っていますよ。」
「いや、そうではなく……どうやって…工面して…」
貴鬼ははっきりと答えない。が、照れ臭そうに鼻の頭をこする指の付け根に、潰れた水ぶくれと血豆を認め、胸の奥深くが震え出す思いのムウなのであった。
「俺、今までずっと祝ってもらうばかりだったけど…もう子供じゃないし…」
そう言って横を向いた貴鬼の表情は幼い日のまま、早春の風にほころぶ金鳳花にも似た愛らしさで、ムウは、どこの誰とも知れぬ女と遊んでいる想像ばかり暴走させていた自らを深く恥じた。




 今も昔も変わらない、癖のある赤銅色の髪。大きな吊り目に、少し撥ねた目尻の睫毛。成長するに従い主張を曲げぬことも増えたこの弟子と、時に意見が対立し、反発を受けた日もあるけれど、おおむねこの子は素直で朗らかで…懐かしい思い出が走馬灯のごとく脳裏を駆け巡り、まるで子離れ出来ない親のようだと思いながらも、ムウは目を細くして受け取った小箱と貴鬼とを交互に眺める。
 「空腹ではないか?夕食は済んだのか?たくさん残っているのだよ。」
量の加減がうまくゆかず作りすぎた料理を温め直してやろうと、ムウは台所へ向かう。
「あっムウ様、俺、これからちょっと行く所があるんで……」
「これから?今戻ったばかりではないか。それに時計を見てごらん、もう遅いよ。」
穏やかに言い含めようとするムウを、屈託のない声が遮った。
「でも、もう外泊自由なんでしょ?」
熱伝導の良い鍋の中で、大根と肉の煮込みが早くもクツクツと音をたて、甘い匂いが漂い始める。
「朝のお勤めまでには戻りまーす!」
ムウは振り返らずに黙って鍋の中を見ていた。生気に溢れた貴鬼の気配が背後で大きく躍動し、瞬く間に消えた。











 20060401






 例の聖戦後ムウ様は生き返り、引き続きジャミールで貴鬼の修行を続けている。
 そして今、貴鬼は青春真っ盛り!ムウ様は三十路前!という設定で書きました。


 私の中で、貴鬼は修復の後継ぎであっても、アリエス後継者ではないのです。
 「アリエスと修復師は必ずしもセットではない」という自己設定です。





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